私と自費出版

 

 

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僥倖

前田静良

 購読紙の朝日新聞紙上で、私は文豪夏目漱石さえもはじめのころは自費出版を重ねていた、という記事に目を留めた。将来、職業作家を志す人たちと、素人が著す自費出版とでは、おのずから目的とするところは、大きく異なるにちがいない。しかし、大金を費やして、生涯に1度あるかないかの自費出版を夢見る厳かな気持ちは、どんな文豪であろうと、素人にかなうはずはない。つたない文章を書きしるす私でさえ、できれば生涯一冊の自費出版の夢を片時も忘却したことはない。それほど、自分が書いた文章を製本にするという喜びは、何ものにもかえ難いものである。まして、愛しい一冊の本が、見知らぬ町の書店に並ぶということにでもなれば、魂がふるえるような満足感を得ることであろう。
 私も、この望外の望をいつの日か実現したいものだという、世間知らずの浅はかな文章活動を試みた時期があった。それは、私が現役勤務時代のことだから、いまから十年ぐらい前のことになる。私は大船(鎌倉市)の町の、日ごろ行きつけのS書店の文芸棚から、「投稿ガイド」という雑誌を手にしたのである。立ち読みでページをめくると、そこには、いろんな出版社の投稿募集広告が並んでいた。こんな雑誌が世にあったのかと、私は度肝を抜かれた。そして、大きな興味をおぼえたのである。私は投稿規程にのっとり一文をまとめて、最寄りの郵便局からS出版社あてに郵送した。初投稿を終えた帰りの私の胸中は、鐘打つように高鳴っていた。
 しばらく経って、わが家の玄関口の郵便受けに、S出版社から封書が送られてきた。吉凶、いずれか。まさに祈る気持ちである。恐る恐る開く手先がふるえている。「あなたの作品は、佳作入選」。うれしさ、ひとしおである。そして、「佳作入選でも、希望する方は単行本に掲載できます。掲載費用は1ページ……円です」。私にとって、この……円が、目を抜かれるような大きな金額であった。自分の書いた文章がわずかなページ数ながら単行本になるのだ。
 この日を境にして、私の日夜の呻吟がはじまったのである。それは、お金と夢とがからみあった、いくら悩んでも出口の見えない狂おしいまでの心の葛藤だった。妻に相談したところで、けんもほろろだろう。さりとて、へそくり、隠し金はない。
 しかし、当初の私の興奮も日が経つにつれて、落ち着いてきたのである。(たったあれだけの短い文章が、入選佳作という錦衣をまとっただけで、なぜあんなに高い金額に化けるのだろうか。土壇場になってようやく、私は理性をとりもどしていた。結局、掲載を思いとどまったのである。
 「投稿ガイド」には、現代文藝社の告知ページも載っていた。私は恐る恐る受話器を持った。女性の明るい声が、心地よく耳に届いた。私は救われた気持ちになり、初めてとは思えない気安さで、文章にかける私の思いを吐露したのである。このときになりはじめて、私はS出版社への未練を絶ち、新たな気持ちになって、現代文藝社とのご交流が始まったのである。それ以来私は、現代文藝社の目指す出版方針にたいして我が意を得て、今に至るまで、ご交流が続いているのである。
 先日のNHKテレビは、人が騙されやすいもの特集を報じていた。自費出版は、リフォームの上に位置し、第一位だった。過日、朝日新聞は、「S出版社、訴えられる」と報じた。全国の多くの書店に並ぶという約束で、自費出版に応じた4氏だったが、並んだ書店は数店に過ぎず、並べるための営業活動さえ行なわなかったというのが訴状の主因で、それは詐欺行為にあたるいう。私と現代文藝社のご交流は、はや十年近くなるが、この間、私の乏しい能力は、一編の小説すらものにできずに、拱手傍観に打ち興じている。団塊の世代の自叙伝や自費出版勧誘にしのぎをけずる業界にあって、作者よりの現代文藝社の方針および主宰者のお考えは、まさに至宝である。S出版社から鞍替えした私の決断は、大きな僥倖をもたらして、私の日常生活に大いなる潤いをもたらしてくれている。遠からず、私の夢が叶えられる日がおとずれるかもしれない。

 

 
 

 

自費出版は癖になる?

                        河合佳兵衛

 他人様はどうあろうと、私には自費出版をして「ああ、よかった」という単純な喜びばかりではなかった。それは随分と神経を使い、お金を遣い、日時を費して仕上げた割合に、その後の処理の問題その他のことでストレスを溜めてしまったからである。
 私は今までに出版社は異なるが二度自費出版をしている。両方とも随筆の類である。
 元々そんな大それた事は考えてもみず、目的もないまま何年も前から気の向くままに書いていただけである。それがある時、小さい二人の甥たちの折節をおもしろおかしく書いて、同僚に読んでもらった所、これが何人もの目に触れる事になり、意外にも大受けだった。この時私はある種快感に似た気分を味わった。それをきっかけに時々同僚たちに作品を廻し読みしてもらうようになった。
 そのうち周囲から本にしてみては、と勧められるようになり、自分の足跡の一部として一冊にまとめてみるのもよいかも知れない、とその気になったのである。
 平成七年七月に退職し、その年のうちに二、三の出版社から案内書を取り寄せ、大体の相場を知った。似たり寄ったりの金額であった。それから間もなく友人の紹介でM社を訪ね原稿を預けた。出版費用は他の出版社と大体同じような額である。数日後二百五十部を契約した。発行部数が少ないので一冊の単価にすると途轍もなく高額なものになり、改めて自費出版するにはお金がかかるという認識をもった。今思えば出版価格表の提示もなく、見積り価格をそのまま受け入れたに過ぎない。後から担当編集者にきくと、もっと安く上げる方法もあるという事だったが、私は一度だけと思っていたので、まあよしと自分を納得させた。自費出版とはいえ販売を目的とする出版社だけに、多少高めだったのかもわからない。私の本も是非流通に乗せ、店頭販売をするよう、何度も勧められたが、「そんな恐ろしい事を」と小心者の私は堅く断わり私家本としてもらった。
 三か月程して私の初めての本「蔓茘枝」が出来上ってきた。平成八年七月である。どんなものに仕上がるかと不安がいっぱいだったが、自分でも驚く位上出来だった。
表紙の絵は旧友に描いてもらった俳画で蔓茘枝(苦瓜)の絵、とても柔らかい感じで色も忠実に出ていて、私は一冊を手にとるといつまでも見とれていた。夢のようであった。
 その日からばかに忙しくなった。元の職場を中心に知っている同僚の殆んどに配り、遠くの友人たちには荷作りして手紙を添え、何度も郵便局へ運んだ。その間に電話はどんどんくるし手紙もくる。思いもよらぬ位好評であった。中学時代の恩師四人も大変喜んで下さった。何日間かろくに昼食もとれない程の忙しさであった。大勢の人に祝福され出版記念パーティを開いてもらい嬉しく私の気持ちは高揚しっ放しであった。
 やがてそれも一段落すると、何も連絡をくれない人もかなりある事が気になってきた。ちゃんと届いたろうか。読んでくれたのだろうか、感想は、と折りにふれ思うようになる。しかし結局そのまま過ぎてしまった。あまり読書の習慣のない人とか、好みの本ではなかったのだと思う。誰彼かまわず配ってしまった亊を大失敗だったと反省し今もって尾を引いている。
 大分たってから中学時代の同級生たちの間に噂が広がり、読みたいという人が多数出た。しかしその時はすでに残数がわずかになっていて、ほんの少しの人にしか渡す事が出来なかった。
 それから二年半、その後の原稿が大分溜った頃「蔓茘枝」を読んで下さった方々から「第二弾はまだですか」と催促がくるようになった。そうなると一回だけと思っていたにも拘らず、何とかしなくてはと思い、性懲りもなく再び出版する事を考え出した。今度は前回の反省点を生かしたいと思いながら、ある雑誌の広告で現代文藝社を知り、代表者の大沢氏にお会いした。氏はご自身も作品を書いて本を出している方で、従ってこちら側の事もよく理解している方である。
 お互いの一致した考えは、今の時代は書き手がやたら多く、読み手が少ない。店頭に出しても売れない時代である。ならば流通経路に乗せず安い費用で必要な部数をじっくりと、良い本を作るという事だった。前作に較べ低廉さにも魅力を感じ、より安くと一色刷りで結局二百部出版依頼した。売る売らぬは別にして定価をつけておく方がよいとの助言を受けそのようにした。題名は氏の意見を入れ最初に考えていたものを変更し「時を歩く」とした。表紙は前作と同じ旧友の俳画で日本犬の立ち姿である。しゃれた題だという人あり、平凡だ、あなたらしくないという人あり、賛否両論であった。
 二回の出版で学んだが、本の題名というのは大事だと思った。販売する場合は尚更である。私の本は二冊とも私家版だったが、それにしても「蔓茘枝」は難しかったきらいがある。
 「時を歩く」は平成八年五月に出来上った。校正段階で編集者の手を大分煩わせた事もあり、期間は少し余分にかかったが、価格の割にはよい仕上りである。
 今度は中学時代の同級生たちを中心に送り、それなりの反響があった。
 この事を機に昔の仲間たちとまた親しい付き合いが再開され、会った事もない人からも手紙をいただき、友人を介していろいろなメッセージが届いた。
 さて二回の自費出版を経験した訳だが、改めてその気になれば誰にでも自分の本を作れる時代なのだとつくづくと思った。そして思いがけない人の温かみ、知りあえた心と心、またその逆も知る事になった。自分とそのまわりの小さな歴史と時代背景も残す事が出来、更に折角の労作を軽々しく配る事なく、読みたいという人にこそ喜んで差上げるようにしたいと実感した。自分の書いた拙い文章が多数の人に読まれ、ある評価をされる。怖くも有り、また意外な自分を発見する事にもなった。
 あたらしくどんどん出版され、一方で消耗品として消えていく本。作る苦労を知った今、どんな本でも粗略には扱えない。
 何はともあれ、二冊の本を通じて今まで全く知らなかった人との交際も始まり、疎遠になっていた昔の仲間たちにも自分の存在をアピールした亊になった。前作を読んで下さった恩師のうち三人の先生が逝去され、二冊目は不可能となったが、喜んでいただけた事はほんとうによかったと思っている。苦しみもストレスもあったが、結果としては平凡な我が人生にひと節を入れられた感じである。先ずはよかった亊にしようか。
 あれからまた細々と書いてはいるが、さてどうしたものか。思えば素人が本を作るという事は並々ならぬ一大事業である。そんな大変な苦労をしてまでどうして自費出版を二回もしたのだろう。と考えながら心のどこかで三冊目を意識してペンを動かしている。
 ああ、自己満足に過ぎない自費出版、何やら麻薬の香りさえ感ずるのである。(「蔓茘枝」MBC 、「時を歩く」現代文藝社より出版)

 

 

 

出版本に籠めた二つの思い 

              八 木 秀 生   

 『幕末維新の美女群(維新の立て役者〜その歩みと女性遍歴)』と題して、平成十二年三月に四六判一四四頁の自費出版をした。
 帯文には「歴史テキストより詳しくて格段に面白い ……実録体小説」と横書きし、帯文の裏には遊女、洋妾、女スパイ、茶屋娘、大奥上X、勤皇芸者など第一、二章に登場の美女十数人の名前を挙げている。
 その内容は、幕末の歴史記述を主体にしていて、各章節に登場する美女群は刺身の具程度にしか出没しないので、読者は「題名に謀られた」との思いを抱く人も少なくないだろう。
 今日、公募雑誌などには自費出版を受け付ける大小出版社の広告が花盛りである。出版界は低迷して読者人口は減っているのに、作家や物書き志望者、そして自分史に類した出版物の書き手が大変な勢いで増えている状況がある。
 私が見付けて契約した出版社は、その広告に自費出版価格一覧表を記載し、例えば原稿の頁数百で発行部数百ならいくらと出資費用が一目瞭然で有り難く、手持ち資金が極めて窮屈だった私は縋る思いで、ここへ飛びついた。
 幸い、このG社の代表K女史は、私のような超小口の注文者にも懇切丁寧で、行き届いた応接をして頂き、感謝に堪えない。
 注文者の私が満足の気持ちで印刷出版の幾つ物工程が順調に進んで支払いも済ませ、四月初旬に出版本は無事に完成して拙宅へ配送された。(販売や販売取次をG社は行わない取り決めである)
 さて、それからは身内、親戚、元職場の先輩と同僚や卒業した小学校、旧制工業、旧制工専(現・大学)の幹事役や親しかった人達に、時間差をおいて、出版本を郵送、贈呈した。
 私は最近に言われだした「パニック障害」のような頻脈症で、元の職場を随分早くに退職した。それからは親戚の冠婚葬祭や同窓会に少しも顔を出さず、従って贈呈本の送り先には、何十年も顔を合わせていない人が多くいた。
 日本人男性の平均寿命まで、あと数年の所に迫っており、まして、ややこしい持病を幾つか抱えている私は、差し当り軽自動車で近所のスーパーへ買物にも行けるが医院の常連患者でもある。
 今度出版した自作を、自分の生涯に比較的に関わりの深かった人びとに贈って、ひそかに自分流の“別れの挨拶”をしておこうという思いが一つにはあった。
「彼は畑違いの、こんな事をしていたのか」
「自己満足もいい所や」という人もいたかも知れず、或いは、いい恥さらしの所業だったかも知れない。
 二つ目は、「あわよくばマスコミの目にとまって、作者の望む『続巻』(草稿を用意している)の発行を引き受けてくれる大手出版社の出現を待つ」という虫のよい魂胆で、出版社、新聞地方版の書評係などあちらこちらへ贈呈して少しでも多くの人に自作を読んで貰おうとした。向う見ずの愚挙に違いない。
 大それた職業作家は今更望まぬにしても、志を高く掲げ、面白くて世の為になる書き物を少しでも残せたらという望みを人一倍持っている。本人は結構、大真面目だからドン・キホーテもいい所である。
 後者(二つ目)は、大海に垂らした墨の一滴に似て絶望的だが、前者(一つ目)には電話、手紙、葉書などで様々な反応が続々と押し寄せた。全く応答のない人も、むろん多くいた。
 まっ先に弟が、「これはあかんで」と電話で告げてきた。ふだん、山本周五郎や池波正太郎らの歴史時代小説を割合い読んでいる男である。次に岐阜の従兄弟すら口数は少なく、電話口で何やら褒め言葉を言っているようで、「全国へ通用しますか」と訊いたら「ハイ」と答えた。
 この家は岐阜羽島の北にある大きな農家で、岐阜鏡島の零細織物業者の長女に生れた母の、五人いる妹の一人が嫁いだ先である。
 終戦直後には都会に住む姉妹がこの家の米を目がけて、蟻の群がるように殺倒した。当時十八、九歳だった私は、母と連れ立ってリュックを背負い、何度この家へ通ったか知れない。
 母も叔母達も他界し、今はこの従兄弟とも賀状を交わすだけで何十年も会っていない。
 旧工専の同級生Aは、
「じっくり読ませて貰う。うちには三十歳を超えた娘が二人もいて、さっぱり嫁にいかんのや」
 とパラサイト・シングルの愚痴である。Aは最大手家電のM冷機の社長を勤め上げた優秀な人物で、生駒市で悠々自適の余生を送っている。
「あんたと比べたら、大抵の若者がひ弱に見えるんやろう」と言いかけたが「お元気で」と通話を打ち切った。同僚、友人らの大方は「引き続いて力作を望む」と好意的な通信文を呉れた。
 かすかな関わりを持つ当地の二、三の出版社から「スピードのある読み易さに感心」とか「ユニークな切り口です」などと好意的だが断片的な返事を貰った。私の寄稿先である京都府下の月刊文芸紙Bに、拙作の読書評が載った。書評者のS氏は、当地でよく知られた同人誌の元代表で私と面識はない。
『……巻を繙いていく内に血の臭いがしてくる。その後から脂粉の匂いがほのかに……秘話実話が目白押しで、作者の薀蓄ぶりには頭が下がるが、小説の世界を堪能させるにはもっと臨場感がなくてはならず……作者は多分実録に焦点をすえたのだろう』と適確な書評に、私は感嘆、敬服し、自戒もしている。(『幕末維新の美女群 維新の立て役者〜その歩みと女性遍歴』を現代文藝社より出版)自費出版ジャーナル第27号より転載。

 

 

 

それでもあきらめきれない
大手出版社で販売ルートに

松田源治

「原稿の持ち込みはご遠慮頂いております……。自費出版をお薦めします……」
 これは大手出版社に出版の依頼を打診した時の丁重なるお断りの返事です。覚悟はしていたものの、一通、二通、三通……と同じ文面の返事が届くと、ついには笑ってしまった。でも一通だけ、編集長自身が書いたかどうかは別にして、「大変興味のある題材だと思います……松田さんのご活躍を期待しております」には、変に勇気づけられたというか、ちょっぴりホッとした気分にさせられたことを思い出します。 本の執筆をしていて痛感したこと。それは言葉が如何に大切かということ、言葉を文字にするには、勇気が要るということ、責任が重くのしかかってくるということです。言葉は使う人・使い方によって、優しくなったりきつくなったり、説得力があったり無かったり、ときには相手を傷つけてしまったり、もちろん読む人にもよるのでしょうが、とにかく言葉を文字化するということは大変な重労働だということです。
 もう一つ、今度は出版をしてみて、というより、私は出版をした本を多くの人に購読されたいと願っているわけですが、本の購読を勧めるにあたって痛感したこと。それは、本を読む人、読書をする人があまりにも少ないということです。もちろん、字が読めないということではなく、世の中便利に成りすぎたせいか、はたまた忙しすぎるせいか、とにかく「本」というだけで拒否反応を示す人が多いのです。しかし、世間が云う「活字離れ」でもなさそうです。インターネットやゲームソフト関連のマニュアル本・攻略本の類や有名タレントの本など、あるいは、漫画や雑誌は良く読まれている様子だからです。
 さらにもう一つ。サラリーマンの方々です。著書「頑丈で快適なわが家がめちゃ安で建つ」でも触れましたが、施主、いわゆる家族の大黒柱であるお父さん方がマイホームには関心があっても、その建築実務に対する関心が薄いということ。必要にせまられてビジネス書や資格試験書などを買い漁っている節がみられますが、人生で最も高価な買物となるだろうマイホームの建築・購入は、施主の人生最大のビジネスとも言えるはずなのに、その意識が薄いのです。
 私の著書『頑丈で快適なわが家がめちゃ安で建つ』は、名の知れない小さな出版社「現代文藝社」で出版しました。出版費用は大手出版社よりずいぶん安いのは良かったが、マイホーム建築の実務に積極的な関心を持ってもらうためには、私の本の出版もやはり名の通っている大手出版社の方が良かったのではないか、販売ルートを利用させてもらった方がよかったのではないかという思いを捨て切れずにいるのです。もちろん、それが叶わぬから現代文藝社とめぐり会うことが出来たし、幸い、わが著書は、「住宅メーカーや工務店などの元請業者主導の住宅建築を、施主の満足を第一に考えた現場第一・施主主導の住宅建築に変えよう。建築業界を変えよう」という、私と同じ考えを持つ建築士たちの協力やインターネットを通じてのご注文もボチボチといただいておりますから、個人販売のわりには順調なすべり出しといって良いし、読
者には満足していただいていると思っています。
 そこで、少々の悪たれを言わせて頂きます。
 確かアメリカの作家で数十社もの出版社に断られ続けた本が大ベストセラーになったという話を聞いたことがありますが、もしかしたら自費出版の世界にもとてつもない著書が埋もれているのではないでしょうか。素人だから、有名人でないからというだけで断られ続けた原稿がたくさんあって、自費出版はしたものの第三者の都合で著者の自己満足で終わらざるを得なかった著書がたくさんあるのではないでしょうか。
 これは、私の原稿が邪見にされたからいうのではなく、原稿を読んでもいないくせに、自費出版だけは積極的に勧めてくる大手出版社をみると、本をこよなく愛しているはずの、あるいは世のため人のため、自由と正義のため、情報開示の先駆者として名をはせて来ただろう出版社が、自費出版の著者を末端の顧客と勘違いしている風でガッカリしているのです。つまり、自費出版された著書の中には、多くの人に愛されるだろう、勇気や希望、ゆとりや楽しみを与えるだろう大ベストセラーに成り得るものが潜んでいるのではなだろうかということなのです。せっかくの大作が出版社の偏見によって潰されてまったものがあるのではないだろうかと、身の程知らずに考えてしまうのです。
 名前は覚えていませんが、あるテレビ番組で、小学校のにわか教師になったある作家が、子供たちに作文を書かせるとき、「自分の言葉で書くから良いんだ。みんなに理解されようとか、かっこ良くとか、きれいに書こうと思ってはダメだ。普段話している自分の言葉で、思ったことをそのまま表現すれば良いんだ」という風なことを言ってたのを思い出します。世間体を気にし過ぎている大人や、マニュアル人間の方々がどう思うかは分かりませんが、あの番組を見た人の多くは、ずいぶんとホッとさせられたのではないでしょうか。
 ホッとさせられたと言えば、私は四、五年前から司馬遼太郎氏の本を良く読むようになって、それを読んでいると、なぜかホッとさせられるのです。司馬氏の言い回しには戸惑いもしますが、何というか、とても自由な気分になるのです。司馬氏も初めはマニュアル的なものを意識していたのだろう。ある人から「お任せします。自由に書いて下さい。編集はしません」というようなことを言われて、本格的に執筆する気になったとのことである。それもどの著書に書いてあったか思い出せませんが、司馬氏は、「もし、それが無かったら司馬遼太郎は無かったのかもしれない」とも言っています。
 テレビ番組の中の作文の原稿用紙を前にした子供たちは、にわか先生の言葉を聞いたとたんから、がぜん活き活きとしだし、にわか先生から合格をもらった子供たちの笑顔に、「もしかしたら、この中から第二の司馬遼太郎が誕生するかもしれない」なんてことを私は思ったりもしたのです。
 よく本を読む人が少なく成っているにも関わらず、自費出版する人が増えていると聞きすが、思うにそれは、本を読む人が少なくなったというより、どことなく画一化された本ばかりが多くなって、個性のある自由な本、読みたい本が少ないから。もっと言ってしまえば、出版社が良書発見などは眼中になく、ベストセラーの発掘よりも有名タレントなどの週刊誌的著書をエサに、自費出版社の獲得合戦を行っているからに過ぎないのではないのか。つまり私は、一社ぐらい「お話を聞かせて下さい」があって欲しかったと思っているのです。
 現代文藝社の大沢氏との出会いは、同社のある市内に住む私の友人から送られてきた自費出版の広告チラシがきっかけでした。そのチラシに載っていた出版費用の価格表は、それまで見たどの出版社よりも安かったので、「でも、どこかにカラクリがあるに違いない」と思いつつ電話してみると、これが全く欲のない明解さで、「近くの印刷屋さんに直接持ち込めばもっと安くなるはずよ」だったのです。
 建築業界を変えたいという思いの一心で、出版原稿に三年以上も掛かってしまったことや、その内容について、五分か十分話しただろうか、氏は「私は、実務書は手掛けたことはありませんが、それは絶対出すべきだと思うわ」である。氏は、電話や手紙のやり取りを主体にした仕事の方法をとっており、クライアントとは成るべく会わないようにしているということだったが、私たちは次の日には会っていたのです。私は会う約束の電話を切った時点で、既に出版の依頼をするつもりに成っていた。初めてながら、ちょっぴり人見知りの私は、会った瞬間から氏とは初めてではない気がした。氏はいきなり本づくりの具体的な話をしだした。そう、氏も依頼されるつもりで来ていたようでした。もちろん、まだ正式な契約はしなかった。なぜなら、いくら安いとはいえ、私には大金であったからです。しかし、互いは既に契約したつもりになっていた。私の住宅建築への思いと氏の本づくりの思いとが、ずいぶん合致するところがあることを知り、互いに空腹も忘れて話した。
 正直、しばらくは次の本など書けそうにもありません。この出逢いが冒頭の丁重なお断りのお蔭だったことを思うと、なんとも複雑な思いですが、この出逢いは大切にして行きたいと思っています。
 ズバリ、私の当面の目標は、初版本を完売させること。第二刷、第三刷……と増刷し、より多くの人に読んでいただくことです。なぜなら、一般の市民・施主が変わらなければ建築業界は変わらないと思っているし、、著書「頑丈で快適なわが家がめちゃ安で建つ」を読んだ施主、心ある建築業者・職人の誰もが得するだろう、満足できるだろうと思っているからです。(『頑丈で快適なわが家がめちゃ安で建つ』を現代文藝社より刊 自費出版ジャーナルより転載)

 

 

わが心の赤裸々と真実を
     自由に思いのたけ配る本

遊 子  潔

 どんなに素朴で拙劣な文であろうとも、書き手の思いを親身に思い測り、誤字脱字は勿論のこと、書き手の思いをより読者にとどかせようと真剣に原稿を校正し、アドバイスしてくれるのが「自費出版」の良心である。その一言に尽きる、と私は経験者の正確な意見として、強調することができます。
 定年退職を節目に、これからは売文の徒から足を洗い、だれにも赤筆で直されない自分の思いを書く人間になろうと決意したわたしは、還暦の誕生日の退職日に、お世話になった仲間、友人たちに、ひそかに書き貯めていた文を一冊の本にして贈呈したのです。五十冊もあれば十分と思っていたところ、友人の出版印刷所の彼は、否、「百部が最低ロットだ。そのほうが経済的だし、第一、キミの交際範囲なら、贈呈、贈呈でたちどころに百冊は消えちゃうよ」と、アドバイスされて、百冊出版に同意したのでした。友人の言うとおりだった。百冊はたちどころに終り一冊手に残る。百の一しか残らなかった。
 刊行まえには自分の書斎の上にうずたかく己れが初めて出版の本をつみあげ、過ぎ越しの年月を偲ぶのか。そう思っていたわたしの判断は、消し飛んだ。これを告白するだけで、自費出版をこれからなさろうとする人、部数や価格、なによりも、せっかく出版した本をどのように配り贈呈すべきか、などなど考え迷われ逡巡しておられる人には最良の指針になると思われる。
 もともと、わたしの職業はコピーライター。だから宣伝文をすみやかに書くことに不自由はしない。しかし、宣伝広告の文章と「心の想い」を自在に書き残すのは違う。相手の担当者に四の五の言われず、書き直しさせられる慚愧もない。それこそ一つ一つの文章が忘れられぬ幼き日の宝、玩具のように愛しい。そこには、何の気取りも嘘もない。うまく書き、相手を驚かせようの企みもない。実に赤裸々で自由な自分の姿を留めることができるのだ。またそうでなくては、自費出版の意味もない。
 たまさか売文徒の先端的職業であったがために、最後の最後に自費出版によって傷ついてきた魂が救われた。知性の荒廃を放置すべきではない。この先、万が一、わたしの書きものが多くの読者に読まれることがあったとすれば、自費出版によって培われた魂への讃歌だ、と友と一夜、祝杯に、酔いたい。
 現代文藝社の大沢編集長に、この原稿を依頼されたのもわたしの赤裸々な魂が氏に届いたからだと信じられる。たった一冊手に余した自費出版本を御縁にと、氏のお手許へ送った。その一冊に万感の思いをこめて──。
 多くを語るまい。「自費出版」というものは述べた総体であり、それ以上のものではない。それをわたしは疑わない。手書き手づくり、手塩にかけたかけがえのない知性を大事にする人と人が出会う心の絆の懸け橋になるだろう。しかも知性を尊ぶ出版スタッフの集う処、人間を洞察する力に優れた出版社に協力を仰ぐことが肝要だ。自費出版の夢、忘れうべきや。(「詩と掌編のコンチェルト」を真友出版より出版)

 

 

 

無限の鉱脈を

峰 丘   一

 現代文藝社より『半島の虹』を自費出版してから一年半になる。未発表の前編(一五〇枚)を伏せて、応募した続編(二〇〇枚)が現代文藝賞を受賞した。それを一つにまとめる意味で、手を加えて出版に踏み切った。
 ちょうどその頃、通信制度で文藝・文章養成をしている現代文藝研究所の出版部門が独立して現代文藝社が設立された。頁数と発行部数別の表示価格に並製本、上製本のランクがあり、表紙、帯等の仕様も含めてその価格も安く、そのうえ納本までの過程に作品の内容チェックや指導、最終的なゲラ校正にも余裕があり、私は出版契約した。
 文学を志す者にとって、同人誌に発表する作品の読まれる範囲はごく限られている。それ以上多くの人々に読んでもらおうとすれば、マスコミのどれかの賞に応募するしかない。
 一つの賞に数千人も応募する確立からみて、入賞が夢のまた夢であればそれまでである。ましてややむにやまれぬ書きたい素材を抱えている者にとつて、その素材がマスコミ受けしなければ尚更だと思う。
 速い流れの進行による現代の様々な分野で起こる人間模様の様相を体験していても、まだ表現技術の伴わない埋もれた書き手たち。
 その掘り起こしは、賞という餌で釣る横着なやり方のマスコミや、それに便乗して筍のように発生したカルチャーセンターでは無理。
 それが可能なのは、自費出版図書館を城にもつ、自費出版本の店頭展示や大掛かりなブックフェアを手掛けてきた自費出版フォーラムの組織ではないでしょうか……。
 一回きり自分史を望む人達。相変わらず入賞の僥倖を目指して賞に応募している人達。根気よく書き続ける同人誌の人達。等々、無限の地下鉱脈が目の前に横たわっています。
 その人たちは、自費出版で儲けようとは夢にも思っていません。同人誌にしろ自分の力で配布出来る部数は、せいぜい一人二十部程度です。仮に多くの人に読んでもらおうと、無料で配布しても五十部がやっとです。だからまとまった自分の作品を自費出版しようと思っても、部数が少ないだけにその費用が高くついて二の足を踏みます。
 もし部数がその五十部の何倍かに増えるそんな可能性のある販売システムが存在するとすれば、例えそれが格安の有料であっても、読んでもらえる読者が増えることで、書くことの刺激も相乗し連続して出版も重ねられます。
 手始めにフォーラムで全国の同人誌をもれなく集めてその中の秀れたものを抜粋し、年に何回か出版されてはいかがでしょうか。もちろん抜粋作品から掲載料を戴いて、フォーラム主催の作品集を発刊されるのも一案かと思います。
 その実行が可能になれば、全国の同人誌の書き手たちを読者に組織化することも夢ではなく、自費出版への一つの大きな展望も描けるのでは……。(「半島の虹」を現代文藝社より出版)

*自費出版フォーラム機関誌「自費出版ジャーナル」21号より転載

 

 

 

四冊の自費出版

浅 香 ひとし

 私が「自費出版」を思いついたのは、今から十七年前のことである。若い頃から文学にかかわっては来たが、これといった作品もなく、内容的にも中途半端なものばかりであった。
 エッセイ、俳句、小論、小説、野鳥観察、それに労働組合の活動にまで踏み込んでいた。一九八〇年代に入ると、職場の合理化はきびしくなるばかり。もう自分で出来る事をやるしかなかった。
 自分の考えや行動を一冊にまとめる。その事は原点に戻って自分をみつめる事でもあった。そこで私は、まず「日本野鳥の会」の会員として見聞した「自然破壊」について書きたいと思った。
 ところが、データーの記録といったら「いつ何という鳥を見たか」という位のものでしかなかった。それで「滅びゆく自然を訪ねて」という表題にはしたが、紀行文のような、観察記のような中途半端なものになった。
 二百二十枚程の原稿にしてみたが、とても満足のいくものではなかった。しかし考えているより形にしてみようと三百部出版した。それだけに「自信をもって売る」という気にもなれず、野鳥の会と「労働教育センター」で五十部ほど売っていただいただけだった。
 あとは友人知人に配ってしまったが、かなり後になってから「それを読みたい」という方があって、もっと手元に残しておくべきだったと思っている。そして次に「俳句集」を二百部出版、これも一応「結社」にも入っていたものの、配ってしまった。
 次に短歌でたどった自分史「転職の時代」を二百部出版、これもそれなりの収穫はあったが、句集と同じような結果になった。そして五十一歳で退職したのを機に、文集「肩書きのない労働者」を出した。
 これも中途半端であったが、自分史の部分と、現在から未来への社会問題を、ある程度訴えたつもりである。この文集は「オリジン出版センター」から七百部出版、社長で詩人でもある武内辰郎氏の助言もあり、一応問屋を通して店に並べてもらった。
 大きな店だけであったが、三百五十部位出たようであった。それと出版パーティーをやっていただいたり、友人知人にも買っていただき、八十万円の費用は、六十万近くは戻って来たようである。
 あれからもう九年にもなり、新しい社会問題も次々と起っている。リストラ、新種の犯罪、東海村の事故、それに私の所属する文学集団でも新しい動きが出て来たし、自然破壊も進む一方、今度こそ、もっとはっきりとした内容の本を出したいと思っている。(「滅びゆく自
然を訪ねて」労働教育センター、句集「野鳥の季節」黒船印刷、歌集
「転職の時代」平和印刷、「肩書きのない労働者」オリジン出版セン
ターより出版)

 

 

電話で綴った愛の小説

倉 坪 智 博

 「今晩わ、大沢久美子でーす。一昨日送りましたファックスの訂正もの、いかがでした?」
 夕食を終えて寛ぐころに電話が入った。小さな出版社を営む社長さんからである。その声を聞くのはもう数え切れない回数になっていた。少女のように軽やかで気品のただよう声に、まだ見ぬ姿を思いつつ、その夜も私の心は弾んでいた。
「いやぁ、大助かりです。どうも女性の言葉使いがうまく出せなくて困ってたんです。もう一回書き直して送ってもいいでしょうか……」
 声もつい上づりがち、まるで愛の手解きを受ける少年の気分である。傍らの女房殿の眼が険しくなるのも無理はない。
 こんな夢心地の中で自費出版『ユーデットの夏』は楽しく出来上がった。
 国語教師という職業柄、古典なぞのお堅い研究物を書いたりした自分が、そぞろ神にでも誘われたように恋愛小説を書いてみたくなったのは数年前になる。読む側に立つ者が、一度は書く側の喜びを味わいたいという戯心の為せるわざだった。
 しかし恋愛ものとはいえある種の構えはあった。永らく教師をしてきて、成長期にある高校生と向き合った時代を総括したい気持ちがどこかに働いていた。受験、恋愛、自殺など洪水の前に立つ若者たちの叫び、とりわけ七十年安保の学園紛争に向き合って、そこを通過して現在を生きる者たちを描くことが、自分の使命のように思えた。学校現場という狭義を越えて社会人として生きる群像を見つめる、そしてそのことに自分がどう関わったかという確認をせねばと思っていた。
 いうところの自分史を書くことなのだが、その思念を虚構化して一編の小説にしてみたいという欲張った考えがあった。
 とまあ、大見得を切ってはみたものの作品の稚拙は否みようもない。大手新聞社の文学賞では二次予選がやっと、他社では佳作程度がもらえた出来栄えでは、出版するなど恥の上塗りもいいところである。そう思って尻込みする私に定年退職の日が迫っていた。そのとき、頃を見測るように同僚たちから〃定年退職と出版記念パーテイをやりますから〃と肝煎りのキャッチ・フレーズで、どんと背中を押されてしまった。そうだね、と曖昧に返事したのが運のつきで、記念会を退職後の三ヵ月めと刻まれて、後には引けない船出になった。
 それ以後は退職前の繁忙の中で、原稿の選別や整理にかかるかたわら出版社探しがはじまった。代金は退職金を当てればいいが、さりとて安価に越したことはない。明朗会計で勝手が聞いてもらえること、これがポイントだった。新聞社、中堅出版には多少縁があったが、それぞれに思惑が重なってはっきりせず、高価さも伴って見送りにした。処女出版ともなれば、たとえ表紙一枚でもおざなりにしたくなかったからだ。
 ハードカバーの色や字形、紙質、扉のカット絵、カバーには自らの水彩画を載せたい、などなど。
 さらにこれは極めて身勝手な要望だが、校正時には文章の手直しを納得がいくまでさせてほしい。
 こんな要望を受け入れてくれたのが現代文藝社さんだった。女性の快い声で、「すべてオーケーです。すぐに見本と明細を送ります」と、翌夕に速達小包で見本と手書きの明細書が送られてきた。その丹念に書かれた手紙を読むうちに強い信頼感が湧いてきた。ただ変な言い方になるが、小規模で責任者が女性だという点が不安であった。ところが、このことが出版過程において最良の結果をもたらしてくれたのは望外の僥倖だった。
 女性の生きざまを描く、いわば女性様式の小説を書くことは、実はかなり手強いことだった。
 校正を重ねる中で何回となく久美子さんの口から悲痛な叫びが洩らされた。愛される女の気持ちはそうじゃないわ……私は挙行の中を彷徨しながら女たちが放とうとする言葉を探した。二人の行為は電話・ファックス・手紙で繰り返され、作品が出来上がるまで続いた。私の優柔さと彼女の出過ぎは人から非難されるだろう。しかし私には物を造り出すときの情熱の行為のように思えた。
 上梓を終えパーテイも終わって一息ついたところで、友人のTVプロデューサーを交えて久美子さんを囲む宴を持った。初めて対面する憧れの人は、お酒と「火曜サスペンス」が好きな予想通りの、魅惑の人だった。
 秋夜一刻、明るくて可愛い笑い声を聞きながら、私は至福の時間をじっくりと味わっていた。(『ユーデットの夏』を現代文藝社より出版)自費出版ジャーナルに掲載

 

 

「いま 花鳥がとぶ」に寄せて

冨松めぐみ


伸びる

小さな かたい あさがおのたね
この 一つぶに
伸びる力が
ぎゅっと           
つまっているんだよ       

根っこを はって        
つるが ぐいん         
葉っぱを かさねて       
つぼみが つんつん       
あしたに かがやく 花のかいだん

ぼくも 一つぶのたね      
わたしも 一つぶのたね     
お日さまと           
雨を たっぷり うけとめ    
天にむかって 伸びていこう   
一歩        
一歩              
自分の力を 大切に       
光の かいだん のぼろうよ   

ほら              
小さなたねの 大きな力が    
心の中に めばえてきたよ    

 「伸びる」──この思いを原点として、三十六年間。小学校の教室で子供たちを見つめてきました。その間、「伸びる」べき芽を無残に潰してしまういじめ、その克服は大きな課題のひとつでした。
 世の中が変わり、大人が変わり、そして子どもたちも変わらざるを得ないという図式の中で、「いじめ」の構造も、昔とは様変わりしてきたようです。また、そのすさまじい実態のほどもお聞き及びのことと思います。
 その「いじめ」の蔓延るクラスにも、一度ならず出会いました。乗り越えようもないほどの、しかし乗り越えなければならない難関。文字どおり命がけの葛藤の日々でした。干からび、ひしゃげ、ちぢこまった種たち。太陽の光も雨水も届かない教室は、まさに、がんじがらめの牢獄。子どもたちも教師も、出口を求めてもがき苦しみます。
 自分を見つめなおし可能性に気づくこと、おかしいことははっきりと正す勇気をもつこと、立ち上がって一歩を踏み出そうと、必死で訴え続けました。それは、私の原点との闘いでもありました。
 手探りでやっと通り抜けた長いトンネル。子どもたちが、力強く羽ばたいたその出口で、「いま 花鳥がとぶ」が孵りました。どこにでも居そうな主人公の「絵里」が、悩みの中から自我に目覚め、やがて立ち上がっていく道筋。「絵里」と一緒にその歩みをたどる子どもたちが、広い世界への扉を開いてくれるようにと、この一冊に私の思いのすべてを込めました。
 心から出た言葉は、心に響きます。この一冊が、心から心へ、心と心を、少しでもつないでいけるように願いました。また、本に向かい合ったとき、子どもたちは、自分の心と語り始めます。しんとした心で、自分自身を見つめていくきっかけになってくれるように祈りました。
 「いじめ」は、いつ、どこに起こってもおかしくないと言われていますが、いま「絵里」は、あちこちの教室を訪れています。他校でも、人権学習や読みもの教材として用いられているようで、「絵里」の新しい友達が増えてきています。
 在職していた学校では、六年生のカリキュラムに組み込まれているので、クラスに出向いては、思いを伝えながら子どもたちと話し合いました。
 その折、「伸びる」の詩で、子どもたちに呼びかけ、励まします。すると、最後には、晴れやかな表情で深くうなずいてくれます。「いま 花鳥がとぶ」も「伸びる」も、可能性という根っこでつながっているからです。「ああ、今どきの子どもだって、やっぱり」と、その本質を確信し、うれしくなります。
 私にとって、かけがえのないものとなったこの一冊。現代文芸研究所所長であられた故田端信先生に、お人柄そのままの大きな温かいご指導をたくさん頂いた思い出深い一冊です。
「綺麗な絵本ができたねえ、と田端先生もお喜びになっていらっしゃいましたよ」と、親身になってご尽力くださり、共に喜んでくださった現代文藝社の大沢久美子氏。私の思いを詩情豊かな挿絵にしてくださった有益人良竹氏。
 この一冊が、また新しい縁を生み出していくことを、深い感謝の念と共に祈っています。(現代文藝社より「いま 花鳥がとぶ」を出版)

 

 

 

自費出版を体験して

須 永   勝

 「自分史を自費出版する」と云う十年来の夢が実現したのは、平成十二年十二月二日であった。
 二個の宅急便で届けられた四六判二一八頁・百部の出版本の包みを解き、自分史『私と妻と子供たちと……』を手にしたときの感激、これは自費出版を体験した者でなれければ味わうことの出来ない至福のひと時と云えようか。
 タイミングを合わせ祝福するかの様に同時に届けられた、北海道旅行中の娘夫婦からのクール宅急便。カニを始めとする新鮮な魚介類が喜びを倍加させる。まるでドラマであった。
 江戸小染草の若草色の表紙に地元栃木近辺の山河のイラスト、親しみやすい題名の文字。私のイメージ通りの出来映えであった。
 自費出版と云っても初体験の事、正直云って私はそれほど期待はしていなかった。自分史と云うよりも私と妻と子供たちの来し方を数知れぬ思い出の一端を、妻と子供たちに残したい。そして出来れば兄弟姉妹ごく親しい友人にも読んで貰えたらと云う、身近な人を対象にした部数も三十〜五十部もあれば充分と云った、そんな程度の自費出版を考えていたのだから。
 二つの出版社から案内書を取り寄せ、現実が私の考えとはかけ離れたものである事を知った。部数は百〜百五十が最低、当然費用も考えていたものをはるかにオーバーしていた。長年の夢の実現とは云っても限界がある。困ってしまった。
 そんな時ある雑誌で現代文藝社を知った。自費出版価格一覧表を記載し頁数×発行部数でいくらと費用が明確で、しかもきわめて低廉であった。定年後の生活設計も考えねばならない私にとって、それが現代文藝社を選んだ最大の理由だった。
 本を出版すると云う事がどんなに大変な事なのか全く知らなかった私は、それから始まった推敲や校正・表紙絵や扉絵のデザイン・文字や紙質他の電話や郵便・宅急便での数々のやり取り、又予算の事もありあまり長過ぎてもと四百頁近い原文を二百頁前後に整理したため、まとまりを欠いてしまったきらいのある原稿に対する適切な助言やこまや 私の身勝手な感想かな心遣いに、たかだか自費出版の私家本にこんなに手をかけてくれるのかと、感心するばかりであった。
を云わせて貰えれば、どこの出版社に依頼しても大体同様の工程を経て、本が作られて行くのかも知れないが、工程は同じでも過程が違うように思える。これはご自身でも本を書き出版されている現代文藝社の大沢さんの、文人としての良識と云うか心意気なのではないかと思えるのです。
 それは、出来るだけ安価に手軽に本を自費出版したいと思っている私の様な小口の出版希望者にとっては強力な後ろ盾と云える。底辺の拡大と云う意味では出版業界の一つの道筋ではないかとも云える。何しろ底辺は広く大きいのだから。
 まず自分の本を二冊取りだし、妻と二人で四日ほどかけてじっくり読み上げる。その後子供たち・兄弟姉妹・親しい友人知人に進呈する。当初の予定通りに……。
 その感想が少しずつ戻ってきたが、予想以上に好評なようであった。特に嬉しかったのは進呈した方の娘さんや息子さんお嫁さん等若い人が感動して読んでくれたと聞かされた事。ある知人の嫁入り前の娘さんの「自分にも一冊欲しい、結婚しても持って行き折にふれ読みたい」との話を聞いた時には、柄にもなく涙にむせんだものだった。
そんな読者が一人でもいてくれたと云うだけでも出版したかいがあったと云えよう。
 栃木市の西の外れにある柏倉温泉『太子館』。湧出地の地主が当家の守護神たる聖徳太子の名を戴き、太子館霊鉱泉と名付け開業した栃木市唯一の温泉で、『とちぎ蔵の湯』としても地元の人に親しまれている。
 十二月十九日、その特別室で妻と二人水入らずで出版祝いを行った。私の本を読んだ友人達が、固辞する私と妻を尻目に強引に部屋を予約し招待してくれたのだった。
 朝寝朝酒ならぬ、昼湯・昼酒を存分に楽しみながら、独り善がりな思い入れが少し強すぎる私の本に賛同し祝福してくれる友人・知人がいる幸せに浸りながら、自費出版も又良きかなと、うたた寝のうつつの中で酔いしれる私であった。(『私と妻と子供たちと……』を現代文藝社より出版)

自費出版ジャーナル第30号に掲載

 

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