現代文藝社

黒田昌紀の総合知識論

下記作品群は現代文藝社発行の文芸誌「流星群」及び交流紙「流星群だより」に掲載されたものである。

 


民主党政権が作るべきだった国家戦略室の
自治体出身者による新官僚組織

二〇〇九年の夏、長い間の自民党政権下に於ける政治家の金と汚職、それと閣僚による失言問題で禍いが重り、衆議院議員選挙に於て歴史上最大の大敗を喫し、政権を民主党に明け渡す結果になった。政権を取った民主党がやろうとした政策が、選挙の時に公約したマニフェストにある。子供手当の給付、高速道路の無償化などの目玉となるものの他、それまでの自民党政権下での官僚主導の政治、行政を終わりにし、政治家である大臣が考えた政策を直接行う政治主導の政治を歌い、内閣府の下に国家戦略室を設け、対応したのだが、結局、三年間の政権下で、前述のマニフェストで挙げた政策と共に、政治主導の政治についても、十分な実績を上げられず、政権を降りることになった。
 政治主導の政治が思うように実行できず浸透できなかったのは、内閣や政治家が立案した政策の細かい具体的なものを、それまで自民党政権下でやられていた政治行政の事務当局である各省庁の官僚を使って、行政事務として実行させることを忌み嫌ったことである。各省庁の官僚を使おうとせず、大臣、政治家自ら政策をやろうとしたことであった。
 政治主導の政治をやるということは、文字通り政治家である政府、内閣が意志決定をし、立案した政策を忠実に行うことだ。その場合、政治家である大臣が、強い指導力を発揮し、大臣命令を強く出し、各省庁の官僚、役人が忠実に実行することだ。さらに、官僚の意向で、政府の立案した政策を修正せずに実行することである。しかし、それは望めなかった。
 長い間の自民党政権下で、政府や大臣が自分達が立てた政策を官僚にほぼ丸投げのような形でやらせていたため、大臣の指導した政策について、大臣の言うことを聞かず、官僚のやりやすいように、あるいは、官僚の都合のよいように政策を修正し、大臣の意向を無視して、逆に大臣に指南するような習慣が確立していた。つまり、政府や大臣が立案した政策を実際に行政事務として行うのは、各省庁の役人であり、官僚なのだから、自分達のやりやすいように大臣の政策を彼らの都合で修正して来たのが、官僚主導の政治と呼ばれるものだった。
 この自民党政権下で長い間やられて来た官僚主導の政治について民主党は、選挙で自民党の歴史的敗北によって政権を取ると、自民党の風習を打破し、それまでの官僚主導を極端に嫌い、各省庁の役人による政策実行の意向で政策をさせることを止め、政治家が直に行う「政治主導の政治」を行なおうとした。政権を取った民主党にとって、国民の期待を背負っているので、何か新しい事をやらざるを得なかったからである。しかし、政府や大臣等、政治家が作った政策を実行するためには、どうしても細い所は事務当局である各省庁の役人、つまり、官僚が政策を見直し、文書にし、政策の立案を補正修正し、その過程で各省庁の官僚が、政府、大臣、つまり、政治家の政策を行政事務として実務的にやりやすいように内容を作り代えて来たのだ。これが官僚主導の政治の大元である。
 さらに、新しい政策をするためには、新たな法案を作らなければならない。その場合、三権分立の組織から言えば、立法府である国会が立法議員つまり政治主導でやり、ある法案を作ろうとすると、各専門の委員会が政府が何を政策として求めているかを知り、あるいは、議会が新たに、それまでなかった法律を作るべく審議し、それを議員主導で法案を作り、各専門の委員会で可決し、さらに議会の本会議で議員全員で衆参各議院として可決するのが本来の立法権の独立した姿であるはずだ。しかし、実際にはそうでない。
 アメリカでは、立法、行政、司法の三権分立の通り、立法機能としての議会主導、つまり政治主導の立法活動が確立している。
 まず、立法活動でアメリカの議会の議員が、その時々の社会の実情を見て、必要な法律は何か、こういう法律があったらと思うものを検討する。例えば、経済関係の法を作りたければ、商務委員会で審議をし、法案を作るべく作業に入るのだが、その過程で法案の文言を作るが、議会が法律を作ったとしても、行政権である大統領府下の商務省が行政事務として、議会で作った法律を執行できなければ意味はない。そこで、前述の商務省の役人が、議会の議員の立法の趣旨を十分に鑑み、出来るだけ議員の意向通りに、また商務省の行政事務を行いやすいように工夫された法案の条文を作る。役所の人間が条文を作るのだが、あくまで議員の意向に従った議員主導、つまり政治主導の立法なのだ。
 一方、行政権である大統領は、法案を提出する事が出来ず、行政権としてこういう法律が欲しいという教書を議会に送る。  アメリカ議会での立法過程で、各省庁の役人が、自分達の都合の良いように法案の文言を作らないのは、三権分立の関係から、立法権を十分尊重し、議員の意向を尊重しようという良心と、議員の多くが大学院レベルで、法律教育をするロースクールを出た法曹資格を持っていて、優秀なる行政権の役人に、法案の文言を検討する過程で、主導権を握られないだけの知的能力を持ち合わせているからだ。つまり、彼らは役人の言いなりにならないのだ。
 ところが日本の立法過程では、本来、そうあるべきなのであるが、実際はそうなっていない。立法活動に於て、極端な官僚主導の立法過程なのだ。各省庁の担当部署の役人、つまり官僚が法文を作ったものを、行政府の法のチェック機関、つまり行政府、内閣の法律顧問である内閣法制局が作るべき法律上他の法とのかねあいで、問題がないかについて法案審査を経て、自らも議員である内閣総理大臣が、法案を国会に提出をして可決して成立させている。立法活動の九割近くが、各省庁の役人、官僚が作った法案、つまり政府提出の法案であり、残りの一割が議員が自主的に作った、いわゆる議員法案である。ついでに言うと、地方の議会は、その地域のみに適用する法、条例については、都道府県市町村レベルの条例のほぼ十割が、役人の作った条例案を、地方の首長である知事、市長、町長、村長、特別区の区長が提出するやり方で可決している。このことは、国も地方自治体でも、官僚や地方の役人が作った法案を通すための御用機関に、立法府である国会や地方議会が成り下ってしまっていることを意味する。
 そのような、政府下の役人、つまり官僚が草案した法案を議会、国会で可決する背景には、明治二十四年、大日本帝国憲法制定後、天皇を神格化した強い統制の元に、総理大臣以下行政府の下、議会は貴族院と衆議員の二院制であったが、立法も天皇の名の下の強い統制の基で官僚が立案し、それを議会で承認可決するやり方が確立した。
 これが戦後は、昭和二十二年に、現行の日本国憲法が制定され、天皇はイギリス国王の「君臨すれども統治せず」の地位に習い、国の象徴たる身分に替わり、名誉ある国権は、これもイギリスに習い、議会が議員の中から総理大臣を選び、半数は議員が大臣に任せる議院内閣制になった。これは、議会である国会が、行政権を議員から選出した総理大臣に内閣を作らせ、そこに信託する形になるので、法律も内閣下の各省庁の官僚が作った法案を、政府、総理大臣が国会に提出する、政府提出の法案が戦前と変らず主流となる。立法府国会は、それを多少修正する形を取って、可決するのが当り前となる。官僚主導の立法の定着である。
 この立法過程に於ける官僚主導を強化したのが、戦後の強い政府をめざし五期も総理大臣を勤めた吉田茂である。自らもエリート外務官僚として主要大使のポストを歴任し、政権を取った時も、自ら外務大臣を兼ね、戦後復興には強い官僚中心の政治、行政が必要と考え、官僚を大臣に抜擢、昇格させたり、官僚を辞した国会議員になった者を官房長官や重要大臣に任命した。この任命が、佐藤栄作、池田勇人であり、後に総理大臣になり、吉田茂に確立した官僚内閣、官僚主導の政治、立法が定着する。わずかの期間、自民党の党人脈内閣が出現した後は、池田、佐藤によって、吉田茂の官僚内閣、官僚主導の政治は、「吉田学校」と呼ばれ、受け継がれる。吉田茂に影響を受けた党人脈政治家が田中角栄である。
 そして、議会に於いては、官僚出身者の衆参両院議員で自民党内の有力派閥、「宏池会」を作り、官僚出身の大臣を輩出すべく、影響力を絶大なものにした。
 このような官僚内閣、官僚主導の政治や立法は、日本の政治に定着し、官僚は東大や京大など、優秀なエリート国家公務員として、政治家である大臣のブレーンとして、政策立案、立法、法案の起草へと権力を牛耳るようになる。
 また、官僚主導の政治、行政体制の中で官僚の権力は各方面に広がって行き、強大と言える様に思える程になって行く。
 まず、新たな法案を与党の政治家、内閣、各大臣が打ち立てたとする。そうすると、実際に実行するのは役所、各省庁の官僚であるのだが、議員の立案した政策は大まかで、役所の事情、つまり、役所の内部について知らないため、細かい所を詰めた立案が出来ない。つまり、役所が使えるような有効な内容とはならない。そこで、各省庁の担当の課長以上の官僚が、細かい所は役所の都合の良いように、政策内容を大幅に修正してしまう。
 この修正は、大義名分があって、一般職の国家公務員は中立でなければならない。いかなる政治活動もしてはならないという服務規定を逆手に取り、政治家である政府、内閣の政策意思は政治性があるので、内閣の意向は、役所の中立性を保つため排除せねばならないことを大義名分として、政府、内閣が作った政策を詳しく役所が使いやすいよう修正し、時には、各省大臣に対し、官僚が大臣を指南するようになる。絶対に政治家である大臣に口を挟ませないようにする。そのように横暴になっていくのだ。そのため、大臣が時として指導力を発揮できないのだ。その根底には、自分達は難関の国家公務員㈵種に合格したエリートであるので、知的能力が下の大臣には従いたくないという意識がある。
 それゆえ、大臣がそれまでにない政策をやろうと指導力を発揮しようとして、積極的に命令を出しても無視するか、自分達の主張を政治家より優っている専門的知識で反論し、言いくるめてしまうか、でなければ、あらゆる手段で抵抗をする。自分達の気にくわない大臣がいるとすると、スキャンダルのようなものをマスコミにリークしたりして、大臣を追い落とそうとするような行動に出る。この例は、小泉内閣での田中真紀子大臣の時の外務官僚の抵抗を見れば明らかだった。
 また、法案を作るのも官僚主導であることはすでに述べた通りだが、議員立法で政治主導で法案を作ることも可能だが、その場合、各省庁内の事情がわからない議員が自ら法案を作ると、各省内ではまったく使えないと官僚が言うような荒削りの法文になるので、国会には衆参両議院には法制局があり、立法過程にうとい各党の国会議員のために、立法活動をサポートし、法律案の文言、即ち条文を作る事務局がある。その衆参の法制局の事務官は、上級職の国家公務員であって、言わば、「国会の官僚」として存在し、彼らが作った議員立法の法案は、内閣の下の各省庁の官僚に負けないだけの各省庁でも使えるような条文が作れるのだが、たとえ議員立法として法律を可決しても、各省庁の官僚には既得権というのがあって、成立した法律を実際に各省庁で実行、即ち執行するための省令という規則制定権がある。この規則を作る時に、法律を自分達役所の都合の良いように、詳細に書き、当該の官僚にしか理解できないような難解な条文にしてしまう。各省庁の官僚の知的能力を駆使し、たとえ大臣でもわからない難解な規則を作って、大臣の政治的判断を挟ませないようにしてしまう。このようにして、可決した法案を、規則で自分達の都合の良いように作り変え、骨抜きにしてしまうのだ。
 このように官僚は、大臣の意向を無視し、自分達の省内の利害、都合の良いように専門知識を悪用し、大臣を支配しているのだ。まさに平安時代の官僚による藤原氏政治である。
 この傾向は、国会の弁論活動にも干渉してきた。国権の最高機関である立法府、国会の質疑答弁についても、官僚が主導権を握っている。政権党以下、野党の議員が国会の委員会で、各省庁の大臣に質問する時に、役人である各省庁の官僚が、若手を使って事前にその議員がどのような質問をするかを聞き出し、役所に持ち帰り、自分の所の大臣が国会の委員会で答弁しやすいように、想定問題を作るのである。これは、ある省の内部事情を知らない無知な大臣が、役所に都合の悪い質問を野党議員にされた時、無難に答え、かわすことである。大臣がヘタな答弁をして、各省の官僚が責任を取らされるようになったら大変である。それ故、大臣が支障なくスムーズに、また、無駄なことを言わないよう答えさせるためだ。議員が国会の各委員会で質問する前日まで、「想定問答」作りは行なわれる。夜中の二時、三時まで行なわれ、最終的には財務省の役人がチェックをする。議員の質問が予算の増大に関わるものだった時、大臣にヘタな答弁をされたら大変だからである。ここにも官僚が上位の者である大臣を支配している主客転倒の現象が見られる。
 さらに前述の省令、規則制定権を悪用し、事務次官になれなかった局長達を天下り先として、あまり必要でない官庁の外郭団体の特殊法人や社団法人を作って、規則で理事長や理事に据え、さほど働かなくても年間何千万の所得を稼がせている。悪法的規則で天下り先の給料を税金で払わせる、税金の流用である。
 また、予算獲得の仕事は、官僚の特権であり、それをどう使うかは、国会で審議されたり、内閣で計画したのではなく、施設建設など官僚の意志決定で自由に使う。国民から預った国民年金や郵便貯金などを好き勝手に使っているのだ。かって、社会保険庁があった時代に、不必要な簡保の宿を建設して売却したが、大損失を出した。
 これが官僚機構が、政治、立法、国会を支配する官僚主導の政治、行政、立法の実態である。
 民主党は二〇〇九年に政権を取ると、このような吉田茂以来の自民党政権下で長く続いた政府や大臣の言うことを聞かず、反対に官僚が自分達の都合のいいように政府や大臣を支配する官僚主導の政治や立法を極端に忌み嫌い、政治主導の政治、つまり、政治家が官僚を使わず政治家である政府、大臣が直接行う政治をやろうとした。これは、一つには、歴史的な自民党の大敗で、劇的に政権を取った民主党にとって、国民にアピールするためには旧態依然とした官僚主導の政治、行政を打破する必要があったからである。新たに政権を取った民主党が、強い指導力を発揮して、官僚を支配し、政策を行うことは望めなかった。そこで取りあえず政治家が直接行う政治主導の形を取ったのだ。
 そこで、国家戦略室を作り、その下に官僚を少し出向させ、政治家が直接政治をやる体制を取ろうとしたが、うまく行かず、他の政策、例えば子供手当などが実行出来なかったこともあり、内閣戦略室は形ばかりのものとなり、政治主導の政治はうまく行かなくなって行った。
 江戸幕府、徳川家康は、親兄弟でも敵となって憎しみ合って戦った戦国の世を早く終わらせ和平を取り戻すために、すぐかっとなり激情する日本人を、強靱統制による準軍事態勢である幕藩体制で平和を維持するしかなかった。それゆえ家康は、孔子学の応用、朱子学の林羅山の助言を取り入れ、外側で士農工商の厳然としたカースト、対内的には、親兄弟などの年功序列、親子の忠義などで日常生活を取り締ることで平和維持、つまり安寧を保った。
 この江戸幕府の社会統制は、明治維新によって倒されはしたが、孔子学の統制は今も厳然として国民の間に残っている。とりわけ強い統制で行政を執行する国の官僚機構では、先輩後輩の統制は厳しく存在し、そのため官僚による政治立法への統制は、盤石と言える程である。この江戸時代の幕藩体制のまんまの官僚組織では、確立されている官僚主導の政治へ、良識のある後輩が、政治家の言うことを聞こうとして正しいことをしても、先輩に対し逆ったと言って、出世コースからはずされ、閑職に追いやられた上、退職に追い込まれる。その良い例が、天下り先問題に強く批判し、事務次官から退職に追い込まれた元経済産業省の古賀茂明氏の例が好例である。マッカーサーがアメリカの州の憲法をモデルにして作った、自由、平等を唱った日本国憲法を打ち消すように、江戸時代の朱子学の幕藩体制が憲法の上に、古い慣習法として存在する。
 このような体制で民主党政権は、政治主導の政治を行ないたくても、それについて官僚主導打破をモットーとして新政策としているので、官僚を使って新たな政策を実行したくても、各省庁の官僚は使えない。さりとて、政府や大臣、議員が政治家として直接政策をやろうとしても、行政事務としてやるには限界がある。行政事務量が多いので無理なのだ。
 政治主導と言ってもやはり細かい所は書類を使うので、どうしても事務局は必要なのだ。いくら政治主導の政治と言っても、それを行政としてやるのだから、事務をやる官僚は最小限必要である。民主党政権で内閣の下に国家戦略室は、最小限、各省庁の一部官僚を出向させてはいたが、政治主導の政治をやるには不十分であった。それ故に、政治家主導の政治は遅々として進まなかった。
 それではどうすれば良かったかというと、各省庁の官僚とは別の官僚組織を内閣戦略室の中に作ることである。そこに於いて誰を使えば良いかと言うと、大臣の言うことを聞かない各省庁の官僚とは別個に、各都道府県、政令指定都市、市町村の優秀なる一般職の役人を選抜し、内閣戦略室に出向させるのだ。それらの自治体の優秀な人材を、日本全国、津々浦々の色々な自治体から公募、もしくは内閣が抜擢して、民主党政権の内閣戦略室に出向させ、各省庁の官僚組織と並列的に自治体出身者による新官僚組織を作り上げる。これにより政治主導の政治、つまり、政府や大臣の立てた政策を変えずに忠実に行政事務として実行する。そのことによって、財務省、厚生労働省、経済産業省、文部省などに対応する部署として戦略室に置くのだ。
 都道府県や市町村レベルの一般職の役人は、国の各省庁の官僚に負けないだけの優秀さは持っている。国の各省庁はたくさんの行政分野につき、機関委任事務と言って、自治体に委任して行政事務が行なわれている。保健医療事務、国民年金事務、建築事務、各自治体の教育委員会の教育事務、行政の委任、福祉行政、森林、緑化管理、旅券の都道府県への委任、建設(道路や橋など)の管理についての委任、などなど。中には国が地方自治体へ委任せずに、国の出先機関である地方局を置いて、国が直接やっているものもある。運輸局は、自動車やバス、鉄道、索道(ケーブルカーやロープウェイなど)、法務局による不動産や権利の登記事務などは例外である。
 それ故、機関委任事務で国の行政事務を代わりに行なっていたので、当該行政部門の法律にも精通しているのだから、内閣戦略室の出向で、各省庁の担当に代わって行政事務を執行出来るし、また新たな法案作りにも事務当局として十分、機能できる。
 また、民間会社の現職の優秀な事務系の社員や現職でない退職した優秀な適任者を戦略室に出向、任命してもよい。例えば、商社、建設業、旅行業(観光政策など)、農協(農政など)、水産会社など、その時々の政策に合わせて、それらの出身の適任者を選ぶ。
 その他に、ミクロ経済のスペシャリストとして、これらの業界新聞の記者を任命するとなお良い。
 具体的に自治体からの出向例を示してみる。ただし、都道府県や市町村の名前は、実際にそこから選べというのではなく、あくまでも仮に事例として述べたものである。
 例えば、民主党政権が経済政策をやろうとする。そうするために、経済産業省と同じような内閣の政策を実行する事務当局を内閣戦略室の中に作ったとする。すると、次のような布陣となる。財務担当者を東京都の担当者を、経済政策担当者を地域の経済政策について政令指定都市の横浜市からや大阪市の商工課の担当者を、そして経済計画の担当者を愛知県庁から、租税課の担当者を新潟県や埼玉県熊谷市役所の担当者を、国税の担当者を現役の国税庁の税務官か公認会計士、税理士から、雇用計画などは国に近い千葉県庁や北海道庁、京都府庁、福岡県庁、大阪府庁の担当を起用すること。また地域の経済振興には埼玉県の行田市とか東京都の五日市市、新潟県山越村からという風に、内閣戦略室の政治主導をする新官僚として政府の任命とするか公募したりする。
 もし福祉政策をするなら、医療についてなら、県立病院や村営病院、町営病院などの医者や病院事務長、ケースワーカー、医療担当者には都道府県レベルから群馬県庁、静岡県庁、福井県庁、兵庫県庁、そして健康保健については、神奈川県中井町、静岡県浜松市、その他山村の村役場から、老人福祉には長野県長野市、栃木県の黒磯市や宇都宮市、精神保健については県庁、例えば福島県庁、北海道庁、鳥取県庁、そして千葉県千葉市役所、神奈川県川崎市、福井県小浜市などの事務官やケースワーカー、また、町や山村の役場の職員などなど。そして介護には、県や市町村ばかりでなく、民間の介護会社、ツクイとかニチイの幹部社員、そして、国民年金等社会保険関係の部署には仙台市、札幌市、青森市、それに県庁から秋田県庁などの職員を当てる。また民間からは、社会保険労務士、行政書士、また海に関して特殊ではあるが海事代理士などを内閣の戦略室に出向させるのも良い。
 以上が経済と福祉政策を民主党が新たに政治主導でやろうとした場合、官僚が言うことを聞かず官僚主導になりやすい時に、前記のような地方自治体からの出向者や民間会社から出向をさせればよい。その他にも、文教政策などそれまでになかった新たな政策をやろうとし、かつ官僚と対立し、官僚主導しか望めない分野については、内閣戦略室に自治体や民間会社から出向してもらい、内閣の戦略室に各省庁のとは別の官僚組織を作れば良い。
 新しい政策で政治主導でやるのに、運輸行政については都道府県、市町村レベルの運輸の専門家は限られた分野にしかいないので、なかなか国土交通省に対抗する官僚組織を作りにくい。鉄道や船舶を使う海運については、機関委任事務として自治体に委ねず、国が直接地方局を置き、行政をやっているからである。それでも鉄道については、地下鉄を運行している都道府県や政令都市がある。例えば、東京都や大阪府、札幌市、横浜市など、このような政令指定都市からの出向が望ましいし、近畿日本鉄道(近鉄)、JR東海やJR西日本、東日本、阪急、阪神ホールディングス、京浜急行、東急電鉄、小田急電鉄などの大鉄道会社から人を出向させたりする。海運などは大きな船会社、山下汽船、日本郵船などからの出向を求める。バスについては、東京都や川崎市、大阪市、そして村、例えば埼玉県の両神村からの出向なども良いと思う。また、政治政策で宇宙開発を挙げるなら、宇宙開発事業団や東大の宇宙航空研究所などから内閣戦略室に出向してもらうのがよい。それで内閣府の下に新たな官僚組織を作るのが理想である。
 このようにして、新たな政策を民主党政権の時にやろうとしたなら多くの行政事務量になるはずである。従って、色々なもっと多くの自治体から行政法律職の事務系の職員を内閣国家戦略室に出向させなければならなかった。
 前述のように、地方自治体の職員を多く出向させることが出来るのは、一つには国から機関委任事務などに従事していて、当該省庁がやる事務を行なえる上、国家公務員に負けないだけの優秀さを持っているからである。
 新しい政策などをやる時に限って、官僚主導の政治になりやすい分野のみ、地方出身の役人や民間人による新官僚を内閣国家戦略室に作れば良いわけであって、すべての省庁に対応した新官僚を作るわけではない。
 政府が、あまり政治性がなく、また新たに政策をやろうとするものでない行政分野については、従来通りに官僚を使っても差しつかえない。法務行政、医療行政、建設行政などは、あまり新しいスローガンを挙げて政府がよほど改革などをする分野でない時は、従来通りの行政変更がない限り、これまでのように行政を各省庁の官僚に任せておけば良い。
 内閣の国家戦略室の下に政治主導の政治をやりたくても、地方公務員にできない行政分野がある。外交と防衛である。
 外交については、本省の事務官の他に、大使、公使、そして民間の交流や通商を使う総領事や領事の職を外務官僚が独占しているので、多くの自治体から外交については内閣国家戦略室に出向させられない。外交の経験が地方公務員には適任者がいないからだ。しかし、内閣が政治主導の外交をしたいなら、外務省OBや外交評論家国際法のスペシャリストである学者などで最小限構成すればよい。そして、地方出身の行政事務の役人として外交文書の作成に携わせるのもよい。しかし、よほど内閣が外務改革を唱えない限り、従来の外務官僚を使えば良いと思う。
 二〇〇一年の小泉内閣の田中真紀子外務大臣の時、田中大臣が強い指導力を発揮し、政治主導の政治を民主党の前に試みたが、古い体質の外務省の外務事官以下官僚が、大臣の政治介入はままならぬとして田中真紀子大臣の政治方針をまったく無視して対立し、大臣が辞めさせられる事態になった。その時に、外務官僚の腐敗した体質も露呈し、外務省の改革改善が行なわれたので、それ以後は多少は外務省もまともになった。しかし、まだ外務官僚の体質は残っているが、従来通り外務官僚を使うしかない。最小限、内閣の国家戦略室に出向させても良い。代わる人間がいないので外交関係は外務官僚を使うしかない。政治主導を発揮するとしたら、大使や公使の職に民間人をもっとたくさん起用すべきである。民主党政権になってから、中国大使に商社マン出身の人を任命したが、わずか三年ぐらいで従来の外務省の人間に交代した。
 大使、公使、そして領事の職については、外務職員の年功序列でやっていたので、その職を奪われることに抵抗はものすごい。外務官僚がそれらの職の独占をしていたのだが、大使、公使などの職は、相手国に於いて、日本政府の代表なので、これこそ政府の政治方針を外交に反映すべき場所である。そしてこれこそが内閣や外務大臣に大使、公使、領事に対する任命権、人事権があるのだから、政治主導でもっと多くの民間人の適任者を任命し、それを定着すべきである。
 次に防衛の行政分野にも集団的自衛権や自衛隊の改革など政治主導で行うべきものがあるが、どちらかと言うと国会に於いて、立法活動で防衛関係の是非を問う形式であり、従来から政府、内閣や大臣の政治主導の政治方針と防衛省の官僚や制服を着た自衛隊幹部との対立は見られなかった。やはり、防衛という軍事的に緊張した状態に対応すべきものだからである。
 従って、防衛問題を政治主導でやると言って、内閣の国家戦略室に防衛省以外の人間を出向させて防衛省の官僚と別個の官僚を作ろうとしても、せいぜい軍事評論家ぐらいしか適任者はいない。それに地方自治には防衛に詳しい役人は皆無である。防衛は、地方自治体には委ねられていないからだ。それ故、防衛は総理大臣を最高指揮官として命令系統にあるので、従来通り、その統制でやれば良い。
 このような自治体出身者や場所によっては民間人を国家戦略室の事務官に起用するメリットはなにかと言えば、民主党と言わず時の政権が計画し実行しようとした政策、政治を、自治体出身の国家戦略室の新官僚は、事務当局として忠実に実行してくれるということだ。これまでの各省庁の官僚のように、自分達の都合の良いように官僚の専門知識に物を言わせ、大臣を言いくるめ、政府や大臣がやろうとした政策を自分達の都合の良いように変えてしまう官僚主導を終わらせる絶好の機会である。
 そして、政策に必要な新たな法案を作るにしても、国会の議員の意向と法律を使う側の役所の間で協議して作る。前に述べたようなアメリカ議会での立法活動と同じ体制で確立できる。アメリカの各省庁と議員の協議によって法案を立法化するのだ。
 地方自治体の公務員は、国の機関委任事務で各自治体の役所で各省庁の官僚と同じように、行政事務として国の法を執行していたので、新たな法案作りについても出向した国家戦略室に於いて法律の文書を作る作業については、各省庁の官僚に負けないだけの技能はある。
 国家戦略室に出向した種々の自治体出身の職員達は、時の政権が必要な政策をやろうとして集められたので、各省庁の官僚のように江戸時代の徳川家康が敷いた厳然とした年功序列の基準に先輩後輩のカーストで統制され、先輩のやった行政方針は絶対で、先輩に対して良識のある正しい意見を言えば、逆らう、口答えすると言われる超固定的な官僚組織と違い、年功序列などがまったくない、平等で民主的な、また流動的な新官僚組織である。それだけに、政府がやろうとしている政策を忠実に行政事務として行なえる。丁度、民主党が政権を取った時、自民党が国会に於いての議員の能力に関係なく、議員当選年数のみの年功序列で大臣ポストを割り振っていたのを打ち破り、老若男女、年齢に関係なく、能力のある者を大臣ポストにつけたのが最大の特徴、功績であったが、それは民主党の議員が様々な階層、職種から構成されていたからだ。
 同じように多くの自治体の出向者で構成する新官僚組織も年功序列の旧習打破である。本当の意味の民主的な政治や行政事務の体制である。
 この他に、国家戦略室の中に自治体の出向者で固める新官僚組織を作ることは、地方公務員の国政参加、国の行政事務参加という大きな民主的な門戸を国の政府によって開かせることになる。これまで国会議員には、国の官僚出身者はいたが、都道府県、市町村レベルの行政職出身者は皆無と言っていいほど存在しない。そのような意味で、地方の国の行政参加は、下克上というほどでもないが地方の声を国に反映させるという意味で、超民主的で画期的なものだ。
 戦後日本は、マッカーサーの軍政下、より住民に密着したアメリカの各州の憲法を真似て、日本国憲法が作られたが、従来の国により地方を完全支配する強い中央集権国家であったのを改め、独立性のある地方自治が盛り込まれたが、未だ国の地方自治体への支配は根強く厳然とある。
 地方自治体の税収入は、三割税収と言って、その自治体が地方税として住民に税を課して自主収入を上げられるのは、わずか三割である。残りの七割は、国から税金補助で地方財政は賄なわれている。
 それは国が直接地方局を置いてやる許認可行政、例えば法務局や運輸局など以外は、本来、国がやるべき行政事務を、地方自治体に機関委任事務としてやってもらっている。それゆえ、その事務を執行するために、国が地方自治体に税金補助をしている。それが七割にも達する。そのため、地方自治体の役人は、国の役人の意向に従わざるを得ない。例えば、建前上地方自治があるので、各地方自治体は出来る限りその自治体に住む住民に合わせた行政をすべく自主的に意志決定をするはずであるが、税金を補助してもらっている関係上、国が行政方針を各地方自治体に通達して来た場合、通達には強制力がないにも拘わらず、従わざるを得ない。
 人事的にも国の地方自治体への支配は、未だ戦前のような主従の関係が続いている。戦前は、国の公務員を官吏と言い、地方の役人は公吏と言われ、国と地方の関係は強い上下関係が存在していた。そして、県知事については、旧内務省の上級職の国の官吏、つまり、官僚が国の命令で各県知事の職に就いていた。即ち、戦前は県知事は選挙で住民が選ぶ民選知事ではなく、官選知事であったのだ。この関係は、戦後民主化された地方自治体の体制でも続いている。旧内務省で、少し前の自治省、現在の総務省の高級官僚が県の副知事に出向しているし、旧内務省の警察庁の官僚が、市の助役に出向したりしている。また、総務省以外の官僚が、市や町の課長以上のポストに出向したりしている。
 このような未だ続いている行政事務の国による地方自治体の支配に対して、国家戦略室に多くの自治体の優秀な人材を集めて、政治主導の政治をやるための新官僚組織を各省庁の官僚と並列的に作ることは、前記の国の地方自治への支配を解消させ、下克上的に地方自治体の役人を国の行政事務に参与させる民主的なもので、大変意義がある。
 民主党は政権下でこの方法を思いつかなかったので実際にはやらなかったが、もし実現していれば、文字通り本当の意味で「民主党」であったのだ。
 内閣戦略室に地方自治体の公務員で作る新官僚組織を作ることは、長い間各省庁の官僚が大臣の行政方針、意向を無視し、自分達の都合の良いようにやりたい放題やっていた官僚主導の政治を終わらせ、官僚支配を骨抜きにするためには大変良い方法だ。政府の政策、方針を忠実に政治主導でやるため、国家戦略室に出向した地方自治体の役人に、その行政事務をやらせれば、従来通りに各省庁の官僚に行政事務を担当させない事であり、政府から無視されることになるので、官僚達は動揺することになろう。そして、従来のように官僚が政府や大臣の意向を無視して来たことを改め、政府の意向を聞くようになることだって将来あり得るのだ。
 ただ、国家戦略室の地方自治体の役人と、各省庁の役人との二重行政ということも懸念しなければならない。かつて、アメリカのカーター政権の時に、中国と国交回復のプロセスで、大統領府の特別補佐官室と国務省との間で、二重外交となったが、このようなケースも想定しておかねばならない。また、財務省が予算配分で抵抗し、国家戦略室の地方自治体の役人による行政事務に対し、十分な財源を与えないかもしれないが、総理大臣の指導力で解決しなければならない。
 一度、民主党が内閣の国家戦略室の下に地方自治体の役人で作る新官僚組織を作れば、後に自民党が政権を選挙に勝って奪回しても、そのような組織は定着せざるを得なかったと思われる。もし、民主党がやった地方出身の公務員で構成される内閣国家戦略室を、自民党が政権を取った後、以前のような政策を行うのに、以前のような固定的な各省庁の官僚を使い、旧態依然とした官僚依存の官僚主導の政治に戻したとすれば、再び腐敗した政治、政官癒着の政治となり、国民の批判を浴び、支持を得られることがなくなるので、民主党がやったような内閣の下に地方自治体出身者で構成した新官僚組織を引き継がざるを得なくなる。ただ、その場合、民主党の作った新官僚組織をそっくり使ってもよいが、流動的に自民党の政策に合った、違う自治体出身者を選んで、新官僚組織を作るだろう。この意味で、民主党が自治体出身者の新官僚組織をやって、日本に定着すべきであった。
              (了)
 参考文献
 前野徴「戦後歴史の真実」扶桑社文庫 二〇〇二年
 宮本政於「お役所の掟」講談社 一九九三年
 渡辺正次郎「田中真紀子総理で日本はこうなる」日本文芸社 二〇〇一年
 日本経済新聞社編「官僚」日本経済新聞社 一九九四年
                       (流星群第32号掲載)




世田ヶ谷一家殺人事件の犯人像

 世田ヶ谷の外資系コンサルタント会社に勤める会社員宮沢みきおさん夫婦、娘、息子一家四人が、平成十二年十二月三十日の深夜、何者か侵入者に刺殺されてから十三年も経つ。当初は、犯人が残した衣類や凶器などが多くあり、犯人の逮捕は早急に行なわれ、時間の問題だとされていたが、未だ解決はしていない。
 事件の概要は、年末の夜中の十一時以後に、背の高い、日本人ではあまり見られない、足の大きさが二十八センチの男が、宮沢家の家の側面の窓の鉄格子とフェンスから二階の鍵の掛かっていない風呂場の窓の格子を外し侵入し、中二階の子供部屋で眠っていた長男を刺殺し、その後、一階の仕事場にいた主人の宮沢みきおさんと一階から二階の階段で鉢合わせになり、宮沢さんを刺した。宮沢さんは足の腱が骨をえぐられる程だった。そして、中二階に戻り、三階の屋根裏部屋で寝ていた妻の泰子さんと娘をメッタ刺しにして殺害した。特に泰子さんは、娘を守るために、刺された後も犯人に抵抗し、百以上の刺し傷がある程だった。
 その後犯人は、母娘との格闘で大変疲れたのか、宮沢家のリビングに残り、冷蔵庫からカップ=アイスクリームを三つ、メロンなどを食べ、その間パソコンを使っていた。その後、ぐっすり眠り、夜が明けてから、犯人は宮沢家から逃走したという。
 犯人は、犯行現場に多くの遺留品を残している。二十八センチのバスケット=シューズ、帽子、マフラー、外套、トレーナー、ハンカチ、犯行に使った柳葉包丁、ヒップバックなどなど。その他に血痕や指紋もあった。
 これだけの犯人の遺留品や痕跡が残され、これらの証拠になると思われるものが多いので、犯人は早急に逮捕され、事件の解決は時間の問題とされたが、現実は警察が犯人に行きつかず、実に十三年もの長い間、未解決になったままである。
 警察が、未だ犯人に行きつかないのは、警察の捜査の手法が悪いというわけでもなく、また、警察の捜査能力がないというわけでもない。が、しかし、警察の犯人像の注目の仕方が、こんなに証拠があるのに誤っているように思われる。
 それは何かというと、警察が犯人は日本人と断定していることだ。日本人が犯人であって、少なくとも外人ではないと見ていることだ。警察がそう判断している根拠は、宮沢家に侵入し、一家四人を殺した後逃走するまで、疲れから夜が明けて明るくなるまで宮沢家の中に留まり、アイスクリームなどを空腹を満たすためほうばりながらパソコンの画面で、メールやインターネットの内容が日本語のものを見ていたことだ。
 しかし、この警察の日本人犯人説は、他の人種の可能性も含んでいるのに捜査を日本人に限定して捜査をしているので、結果として、十三年もの間犯人に行き当たらなかったように思われる。
 犯人像として考えるべきは、日本人だけでなく、外国人も視野に入れるべきで、それも米軍基地に勤務していた兵士をも考慮に入れるべきである。その場合、兵士の中には、捜査の対象として、白人、黒人、ヒスパニックと呼ばれるメキシコ系米人などの他に、日系人も考えられるので、幅広く捜査が出来たはずである。
 警察は、世田ヶ谷一家殺人犯人を日本人とした根拠は、犯人がパソコンの日本語のサイトを見ていたからというが、米軍基地の兵士の中に犯人がいるとして視点を広げれば、日系人の兵士なら日本語が理解できるので、宮沢家のパソコンを操作し、日本人が見るようなサイトやメールを見ていた可能性だってある。また、兵士が白人や黒人で、それが世田ヶ谷一家の殺人犯人だったとしても、米軍基地では日本のテレビ番組を見るべく案内をして、テレビ番組の解説や見方を兵士に指導しているので、日本の番組を見ている可能性もある。それは、一つには米軍兵士に、たとえ日本語がわからなくても、日本のテレビ番組を見て、楽しんでほしいということと、第二に、日本文化を日本のテレビを見て理解し、馴染んでほしいということがある。アメリカのテレビ放送が、なかなか見られないからだ。ポップスなど音楽を中心としたFENという駐留軍のラジオ放送は、日本人にも知られているが。
 世田ヶ谷一家の殺人犯人が外国人であり、また日系人であり、また米軍基地に勤務する兵士であることは、犯人が宮沢家の中で、残した血痕から検出されたDNAでわかる。
 DNAの鑑定で、それも人類学的鑑定によると、犯人の遺伝子は、父方が、「D3Eスター型」という特徴を持っているので、父方がアジア系人種であって、母方が南欧系であることがわかっている。つまり、犯人は、それらの混血である。
 日本の警察は、この遺伝子鑑定結果によって、日本人と欧米人の混血か、他のアジア人朝鮮人か中国人と南欧系の混血外国人としている。しかし、これは広く社会一般を見た場合の犯人が、日本にいる混血児であるとか、アジア系混血児とかいっているのであって、もっと狭く絞ってみて、在日米軍基地のそれも横須賀基地か座間基地の兵士でカリフォルニア州あたりの出身で、日系米人とヒスパニックと呼ばれるメキシコ系米人か、又はイタリア系米人のどちらかの混血であって、それも低所得者階層の出身であろう。兵士が低所得者出身というのは、アメリカで兵士に応募入隊する大きな一般的動機の一つとして、一定期間兵役について、問題を起こさず、何事もなく平穏に除隊すれば、名誉除隊として国、連邦政府から大学や専門学校など、その後進学すると、学費を出してもらえるからである。つまり、低所得者であって貧しく、授業料などを払えなくても、連邦政府の援助で払ってもらい大学など高等教育を受けられるからである。
 米軍基地内の兵士が宮沢家の殺人をやったであろうという証拠は、遺留品の中にある。まずアーミー=ナイフという米軍内で使われる軍事用ナイフがあったこと。それと、宮沢夫婦を刺し殺そうとした時、夫妻の反撃にあい、自分自身も切り傷を負った。その際に、とりわけ、娘を守ろうとした妻泰子さんの母性本能はすごく、全力で犯人に抵抗し、力尽きて刺殺されたといわれている。犯人は泰子さんから受けた傷を手当てするのに、娘さんが使っていたティッシュペーパーを使って血を拭い、さらに止血するのに軍隊で使われている止血剤や麻酔系の薬剤、ベンセトリンが使われていた。これは、ボクシングなどで相手のパンチ攻撃で顔面を切って流血を止めるためのワセリンと共に、米軍でお馴染みなものだ。これからも犯人が米軍基地内の兵士であったことが窺われる。
 さらに、宮沢一家の殺人の犯人が、カリフォルニア州の日系米人とメキシコ系米人の混血であることを強める要素は、犯人がスケート=ボードに乗って遊んでいる人間であることがわかる。犯人が宮沢家に残していたヒップ=バックの中から、スケート=ボードに乗るための靴の底が滑らないようにする粉が見つかっていることだ。
 それと、宮沢家の殺人が行なわれる前に、宮沢家から少し離れた空地、広場のようになっている所で、黒い服のアジア系の不良グループがスケート=ボードに乗っており、その音が回りの家で騒音を起こし、宮沢家にも悪い影響を及ぼした。そのことで主人の宮沢みきおさんと口論となって、トラブルがあったと言われている。その中の一人が犯人と思われ、警察もアジア系の不良だとしているが、むしろ、その中の一人が、犯人として、前述のカリフォルニア州あたりの出身の日系人とメキシコ系米人の混血の兵士の若者ではないかと思われる。
 なぜならば、宮沢みきおさんと口論していることから、会話は日本語で行なわれているが、カリフォルニアあたりのヒスパニックと混血の日系人であるなら日本語が出来ることも考えられ、同時に英語やスペイン語を話すこともできる者である可能性がある。  この時の宮沢みきおさんとのトラブルが、宮沢家への怨みとなり、お金目当ての犯行と共に、一家皆殺しの惨殺となった。憎しみと同時に、お金を奪っているのが、日本人の殺人の仕方と異なる点でも、犯罪の手口が外人のやり方で、これまでに述べて来たカリフォルニア州あたりの出身の日系人とメキシコ系米人との混血の米軍兵も当然、該当する。日本人の犯罪の手口として、怨念、怨み、憎しみで殺す場合は、感情のみによる犯行などで金品を奪った例はあまりない。金品も奪っていることから考え、物質欲のあるアメリカ人的な犯罪の性質である。
 さらに、犯人が宮沢家に残して行ったものの中で、トレーナーとヒップ=バックの中からカリフォルニア州モハヴエ砂漠の南西部にあるエドワード空軍基地の砂が見つかっている。合わせてネバダ州の砂も見つかっている。このエドワード基地の近くにスケート=ボードの大会が開かれている。このことから世田ヶ谷一家の殺人犯人は、カリフォルニア州出身の日系人とヒスパニック、メキシコ系米人の混血で、同州のエドワード基地に勤務した、あるいは、そこで入隊した人間の可能性があることがわかる。
 また、一説には、キューバのグアンタナモ基地の砂も見つかっているという。これは犯人が、その基地に勤務した経験もあることが推定される。日系人とメキシコ系の混血ならスペイン語が話せるから。
 その他に、犯人が宮沢家に残していった物の中に、英国ブランドの韓国製のスラセンジャーのスニーカーがある。この足の大きさが二十八センチあり、日本では二十七・五センチまでしか販売されておらず、ということは、韓国で買ったか、日本米軍基地で購入したものかになる。二十八センチの足の大きさは、一部のバレーボール選手やプロレスラーが特注するくらいで、日本人の大きな各種スポーツ選手でも二十七センチがせいぜいであるという。
 そうなると、世田ヶ谷一家殺人犯は、米軍基地の兵士ということは、これからも証明される。米軍基地内の売店なら多くの韓国製の製品も売っているし、靴も例外ではない。
 靴が韓国製だということで、警察は、犯人が宮沢家の近くでスケート=ボードを乗り回していて、みきおさんとトラブルになった若者で韓国人がいるとみて、韓国警察に問い合わせたが、そのような人間はいないという回答を得た。韓国内で二十八センチの大きさは稀であると思われる。やはり、犯人は米軍基地内での人間で、靴もそこで購入したと思われる。日本の米軍基地内だけでなく、韓国の基地にかつて勤務し、その後日本の基地へ来た兵士である。
 以上のことから、世田ヶ谷一家殺人犯は、日系人とメキシコ系米人の混血、カリフォルニア州あたりの出身で、カリフォルニアで米軍に入隊し、場合によってはキューバのグアンタナモ基地に勤務し、また韓国にも勤務し、日本の米軍基地へ転勤になって来た者となる。二十八センチのスラセンジャーのスニーカーを日本の販売店で見つけても行きつかないわけである。さらに、その兵士が日本のどこの基地に勤務をしていたかを示す証拠が見つかっている。それは、犯人が宮沢家の中に残して行ったジャンパーのポケットの中から、三浦半島の北下海岸、三浦海岸、馬堀海岸の砂が見つかっている。
 米軍基地内の兵役は大変苛酷で、常に緊張を強いられる。それゆえ、基地内では休日には精神の保養として、近くに電車などで気軽に行ける行楽地、保養地として三浦半島の海岸や江の島などへ行くことを奨励し、行楽地の案内を積極的に行っている。従って、馬堀海岸はかつてのような大きな海水浴場ではなくなり、住宅が建て込んでいるが、三浦海岸や北下海岸は、海水浴が可能だ。かって筆者は、久里浜の近くの海岸で、横須賀の米軍基地内にいる兵士に英語で聞いたことがあるが、基地内では逗子海岸や江の島、横須賀沖の猿島(米軍はモンキー=アイランドと呼ぶ)、その他の海岸を紹介しているという。
 このことから、三浦半島の海岸から、砂が見つかったということは、近くの米軍基地の兵士が世田ヶ谷一家殺害の犯人であることを示している。この三つの海岸では、横須賀海軍基地の兵士なら、横須賀線や京浜急行で手軽に行ける距離にあるが、世田ヶ谷の殺人現場の宮沢家への交通は、小田急線であることから考えると、座間陸軍基地か厚木空軍基地の兵士である可能性もある。横田空軍基地は交通の便から考えられない。
 他にもう一つ、宮沢家一家を殺害した人間が、米軍基地の兵士である可能性がある証拠物件として、犯人が宮沢家に侵入して、持ち込んだ凶器、「柳葉包丁」がある。犯人が持って行った、通称、俗に「刺身包丁」と呼ばれる先が尖っていて細長く、刺せば人の胴体に深く入るものである。このことから言えることは、犯人が宮沢家に侵入する前から、人を殺す意志があったことを示す有力な証拠だ。これが、果物ナイフを外から宮沢家に持ち込んだとすると、たとえ殺人行為を行っていたとしても、「初めから殺すつもりではなかったが、成り行きで相手と格闘になり、傷つけるつもりが、結果として刺し殺してしまった」と言い訳が裁判の公判や警察の取調べで、できてしまう。柳葉包丁を殺人犯人は、宮沢家四人を殺害するのに使ったが、細いのですぐ折れてしまい、宮沢家の台所にあった文化包丁を代わりに使い、四人にあれだけの傷を負わせて刺殺したのだ。だから、あれだけの無数の傷を一家四人に負わせれば、「結果として殺してしまった」などとの言い訳は、犯人は出来ない。
 犯人が宮沢家に持ち込んだ柳葉包丁、通称「刺身包丁」は、関孫六銀寿包丁で、日本製と思われるので、世田ヶ谷一家殺人を捜査する所轄警察署などは、銀寿包丁を販売している刃物屋をいくつかあたったが、包丁の購入者から犯人には行き着かなかった。この捜査は手詰まりになっているようだが、別の視点を持たないからだ。
 銀寿包丁は、日本だけで売られているのでなく、アメリカでも売られているもので、少なくとも三十年も前から売っていた。筆者は約二十年余前に、アメリカのテキサス州の大学院で留学していた時、部屋で銀寿包丁がGINSU KNIFEとして、テレビの通販で、その切れ味をテレビで実演放送をしていた。丁度、日本で言うと、日本直販とかジャパネット高田などのテレビ通販と同じようなものを、アメリカのテレビでやっていた。故に、アメリカで売っているので、日本の米軍基地内の売店で売っている可能性も大であって、そこで購入した銀寿包丁を持って犯人が世田ヶ谷の宮沢家へ侵入したことが考えられる。このことも一家殺人犯が米軍の兵士である可能性がある証拠である。警察も柳葉包丁の購入ルートを捜査する場合、米軍基地に捜査の目を向けるべきだ。
 犯人と思われる若者が、唯一姿を現わした可能性がある。それは、日光の東武鉄道の駅の駅務室に、背の高さや足の大きさ、そして服装などが、世田ヶ谷一家殺人犯と思える三十才ぐらいの男が、刃物か何かで手が骨まで見えるほど切れている手を駅務員によって応急手当てされ、名も名乗らずに立ち去ったという。この風貌が、外人風にも日本人風の混血児だったという。そして、現われた時刻が、丁度宮沢家を去り、約六時間の年末三十一日の夕方頃であった。この日光に犯人とおぼしき若者が現われたのも、米軍基地の人間である可能性が高い。なぜならば、日光が基地内で休暇として、保養のため軍務を離れるため一番近く、行きやすい有名観光地として奨励されている場所なのだ。
 このことは、すでに述べた通り、横須賀基地などでは、三浦半島周辺の海岸の案内をしていると同時に、大型ツアーとして日光ツアーも勧めている。やはり、日光東照宮の陽明門の文化的価値、特に彫られた三猿「見ざる」「聞かざる」「言わざる」や陽明門を「日暮しの門」と呼ばれるくらいの一度は見るべき所としてのすばらしさは、米軍基地に勤務している兵士なら誰でも知っているほどに浸透している。
 駐留米軍のラジオ放送を聞いていると、日光や苗場スキー場などは、オフ=シーズンの旅館の空いている時に格安料金で行けるので、米軍兵士のためのツアー参加者を募集している。参加希望者は参加者リストに署名、サインしなさいという案内をしている。
 このことから、東武日光駅の駅務室に現われて傷の手当てを受けた手の大きな男は、その後立ち去った後、行方がわからないが、米軍に従軍する兵士であることの可能性は大で、風貌も外国人風だったとある。その後、この情報を受け、警視庁の警察官が行ったが逮捕できなかった。
 この世田ヶ谷一家殺人犯と思われる人間が日光へ行ったのも、日光の知識のある米軍兵士だからこそ、宮沢家から去り、小田急線、地下鉄と乗り継ぎ、東武線に乗り込んで日光へ辿着いた可能性がある。その後姿を消したまま、この人物の行方は知れていない。
 その他に、直接米軍基地の兵士と呼べるものではないが、間接的な状況証拠がいくつかある。
 先ず、殺害犯人が、宮沢家に風呂場の窓から侵入して長男を殺害したり、母娘を殺害したりした時、中二階の中心に残した足の動きが、バスケット=ボールをやっていた者だという動きをしている。長男、母娘を殺害した足の床への置き方が、バスケット=ボールのピボットのような動きが見られ、大変無駄のない要領のよい動きをしている。犯人は、バスケット=ボールの心得がある人間ということになる。
 これらからは、米軍兵士であると特定できる証拠ではないが、二十八センチのシューズを履いて、宮沢家の中二階の風呂場に侵入していたことをも合わせ、米軍の兵士である可能性も含んでいる。バスケット=ボールは、アメリカ人にとってものすごくやられているスポーツだから。もちろん、日本にいる他の西洋人の可能性もあるが。
 次に、犯人が破り捨てたと思われる紙の片が数多く、宮沢家の風呂場の湯舟の水面にまき散らされていた。これは、犯人が、お金を奪って逃げて行ったことから考えて、初めは宮沢家の戸棚などにお金を物色したが見つからず、その腹いせに紙を破り捨てて、湯舟にまき散らしたと思われる。このようなシーンは、日本のテレビで放送している洋画は、殆んどアメリカ映画だが、時たま、アメリカ人の俳優がバス=タブに紙の片を破りまき散らしているのを見かける。アメリカ人がよくやることで、これによって、犯人はアメリカ人であるということで、米軍基地の兵士とは特定できないが、その可能性を含んでいる。
 もう一つ、犯人が宮沢家の母娘を殺した後、夜が明けるまで居座って、パソコンを見たり、宮沢家の冷蔵庫からアイスクリームを三つ、手で握りつぶすように食べていたのが確認されている。この握りつぶし、ほうばる食べ方が、アメリカ人独得な食べ方で、日本人などは、まずやらない。当然、米軍基地の兵士の可能性も十分ある。アイスクリームをほうばったり、長時間宮沢家に留ったのも、娘を殺そうとし、母親泰子さんに娘を守ろうとした母性本能から物凄い抵抗をされ、百以上傷を負わせ格闘したため、ぐったりと疲れ、お腹が空いたからで、何時間も宮沢家に留った理由である。警察はこのことも理解していなかった。
 以上のことから、世田ヶ谷一家殺人犯を米軍基地兵士の可能性が大であるのに注目せず、日本人と見なしたことが、警察が十三年もの間犯人に辿着かなかった理由である。犯人が米軍兵士であることに注目するのが大変遅れてしまい、また、日米軍事協定、秘密主義の壁が高いが、外交ルートを使っても、犯人をつきとめて解決に向かって欲しい。
                               (了)
 参考資料
 平成十三年一月一日〜三日までの産経新聞、毎日新聞、朝日新聞
 Web SITE
  世田ヶ谷一家殺人事件
  未解決事件、世田ヶ谷一家殺人事件・犯人は誰 NAVER
  世田ヶ谷一家殺人事件 WIKIPEDIA
                      (流星群第31号掲載)



日本の北方領土に関する
対ロシア外交の二つの方法

 終戦間際になって、ソ連はアメリカ大統領ルーズベルト、イギリスの首相チャーチルとソ連のスターリン総書記とのヤルタ会談によって、ヒットラーのナチス軍を倒し、また日本を敗戦に追い込むため、ソ連が参戦した。その見返りに一九〇四年に日本が取得した島は、つまり千島、南樺太を戻すという密約に基づき、ソ連は昭和十六年に日本とソ連との間に締結した日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、対日宣戦布告し、それまで日本の領土であった南樺太、択捉島、国後島ばかりでなく、元々千島諸島でない歯舞、色丹島にも侵攻した。さらに北海道をも軍事占領しようとし、以後、前述の北方四島を軍事上、実効支配を続けた。これに対し、日本政府は四島の不法軍事占領だとして、ソ連、ロシア政府に対し、四島からの軍事撤退と即時返還を交渉するも、現在に至るまで、ロシア側はいっこうに返還に応じない。一九五六年に当時のスターリン書記長とグロムイコ外相の提案、千島列島には属していない歯舞、色丹二島を返還し、戦争を法律上、正式に終結を意味する日ソ平和条約を提案して来たが、日本政府は四島一括返還を主張し、これを拒否し、以後、フルシチョフ、コスイギン、ブレジネフ、チェルネンコ、そしてゴルバチョフ、エリツィンと来て、その後プーチン大統領に至るまで、日本の北方領土返還交渉は殆ど進展しなかった。
 エリツィンからプーチンに代ったあたりから、北海道に引き揚げている北方領土にかって住んでいた島民の墓参などを目的として帰郷のための北方四島へのビザなし渡航、そしてロシアの排他的経済水域での日本漁船の操漁などが実現したが、漁業については、後に漁船が銃撃、拿捕されるトラブルもあり、中止を余儀なくされた。これはサハリン州や千島列島の行政の長が日本漁船の操業やビザなし渡航をロシア中央政府が許可したことに反対し、ビザなし渡航と漁船操業を認めなかったことによる。
 その後、福田康夫首相の時に、同首相がロシアを訪問し、千島列島の二島や他の二島の北方領土返還についての話し合いを行う旨、ロシア側から申し入れがあり、そして麻生太郎首相の時に、これもロシア側からサハリン州へ同首相を招いて、千島と歯舞の返還についての話し合いの実行があったが、どちらも妥協には至らなかった。
 この間に、ロシアの政権も、プーチン大統領からメドべージェフ首相、メドベージェフ大統領、プーチン首相、そしてプーチン大統領、メドベージェフ首相と数年のうちに、せわしく交代したが、メドベージェフが大統領になってから、二〇一一年にロイター通信に対し、北方領土の軍事力の強化を宣言し、また二〇一二年二月には、ロシアの戦闘機が日本の領空に入り、日本の自衛隊機がスクランブル発進をしたり、同大統領が直接北方領土を訪問し、ロシア領であるという事を強調した。これに対し外務省はロシア政府に対して猛抗議をし、菅直人首相は、「許しがたい、無礼だ」と不快感を示した。
 この時以来、現在までロシア政府の首脳は北方領土については「テコでも動かず」、「ここはロシア領土だ」という強硬な姿勢であった。
 ところが、二〇一三年の四月になって、北方領土に関するロシア政府の姿勢が急に軟化したのである。プーチン大統領は日本への北方領土問題に対して急に譲歩したのである。プーチン大統領によると、北方領土について、ロシアと日本の双方が利益になる形で国境を定めるというやり方で、柔道をやっていたプーチン氏が日本語で「引き分け」という言葉を使った。具体的には、歯舞、及び色丹島、国後島は日本にそっくり返し、択捉島の西三分の一の所で、ロシアと日本の国境線を引くというもので、かなり日本に譲歩した案であった。
 わずか半年前(平成二十四年秋)までは、「北方領土はロシアの物で、なんとしても返してなるものか」という態度であったのが、なぜ、今年(二十五年四月)になって豹変したのだろうか。平成二十五年四月二十九日にロシアを訪問した安倍晋三首相とプーチン大統領との合意内容を見てみると、ロシアは東シベリアとサハリン州のガス田開発の技術援助と石油の開発、それらの日本への輸出を求めている。日本側からの見地からすると、二年前の東日本大震災で原子力発電所の崩壊により、同発電所が全国的に廃止されるかもしれないという危機感から、ロシアに安価なエネルギー輸入の活路を求め、ロシアと利害が一致したということだ。また、日本はロシアを自動車マーケットにし、自動車の輸出先として確保したいこと、中国の軍事力の強大化と周辺諸国への領土侵略が、ロシア、日本双方に脅威であるので、双方の国で中国を牽制すること、日本とロシアでスポーツや文化交流をすることを合意したのである。
 ロシア側が、東シベリアや極東の天然ガスや石油を日本に買って欲しいという思惑の裏には、アメリカで安価な大量のシェールガスの層が見つかり、そのガスを抽出する技術が開発され、他のエネルギー源より安価で供給できるようになり、ロシアの天然ガスがヨーロッパ諸国に売れなくなった事情があると言われる。それ故、日本に天然ガスや石油を買って欲しく、そのためには、北方領土問題でロシアが日本に対して強硬な姿勢を取っていたのでは、それが実現しない。そこで、プーチン大統領が、北方領土に関する姿勢を軟化させ、「引き分け」案により、日本とロシア双方に利益となるような国境線を引く、前述のような提案をして来たと言われている。これに関しては、安倍・プーチン会談では何も合意しなかった。
 しかし、北方領土に関して日本にプーチン大統領が、「引き分け」案を提示し、大幅に譲歩した裏には、もっと深い思惑がある。それは、三月二十五日に於ける南鳥島沖の海底に広大な深海底より、約十メートル下に莫大な量のレア=アースが埋蔵されていることが、独立法人日本海洋開発機構と東大理工学部の海洋資源工学の教授によって、深海探査船を使った調査でわかった。その含有量は、中国が世界の九十七パーセントを占め独占していたが、それの二百三十年分もの巨大な量に当たるという。これにより、中国が自国で産出するレア・アースを独占し、売り渋り、輸出制限をし、日本やアメリカ、ヨーロッパ諸国が反発していた構図を崩し、日本がレア・アースで一躍、資源保有国になったことを意味し、中国を押え、外交上強い立場に立つことになった。
 ゆえに、ロシアのプーチン大統領が北方領土に関して日本に譲歩してきたのは、一般には前述のようにヨーロッパ市場に於いて、天然ガスの市場を失ったので、日本にそれを買ってもらいたいからだと言われているが、心の底にはもっと深い一物があるのだ。それは大国ではあるが、未だ発展途上国であるロシアが、将来完全なる工業化するためには、日本で新たに発見された、ハイテクに必要な莫大な埋蔵量のレア・アースを、大量にかつ、安く日本から売ってもらいたいからだ。そのためには、将来のレア・アース輸入を見越して、プーチン大統領は北方領土に関する対日本への態度を、強硬から柔軟に、さらに譲歩的にならざるを得なかったと思われる。
 レア・アースとは希土類元素鉱物の一レアメタル中の元素で、セリウム、イットリウム、スカンジュウム、ランタンなど多くの金属元素を意味し、レーザー光線、蓄電池、光ファイバー、光ディスクなど主要工業化に必要で、かつ、ハイテク使用に不可欠な物である。
 このロシアの日本に対する北方領土に対し、態度を急に変え、譲歩して来たのは、三月二十五日に南鳥島の周辺でレア・アース発見のニュースが流れてからすぐ後であった。このロシアの事情、思惑を理解すれば、レア・アースの資源を対ロシアの北方領土交渉の武器にすれば良いのだ。四月二十九日の安倍=プーチン会談では、プーチン大統領の提案の「引き分け」案、即ち択捉島の西三分の一も日本領とし、国境線を定める案に関して、何も合意していないが、たとえプーチン案を飲んで択捉島の国境線を引いたとしても、レア・アースを手段とすれば、ロシアに対して「レア・アースを他の国よりも安価にかつ、優遇して大量に売ってやるから、売って欲しいなら、残りの択捉島の東三分の二を日本に返還せよ。そうしなければ、レア・アースをいっさい売ってやらないよ」という交渉ができるのだ。
 そのためには、南鳥島沖の海底で発見された莫大なレア・アース資源を海底で埋蔵させたまま眠らせたのでは、対ロシア外交の武器としては使えない。それゆえ、早急に生産を開始しなければならない。それには、一番望ましいのは、外務省などが政府、内閣に進言し、閣議決定をして、経済産業省が中心となり、民間企業の資本と技術の参加を呼び掛け、「レア・アース資源開発公社」のような組織を設立し、埋蔵量の部分的であっても、対ロシア外交の手段として使えるだけの量のレア・アースを産出すべきである。
 もう一つ、北方領土に関して対ロシア外交の方法がある。これまでの行政権である政府や外務省による対ロシアの粘り強い外交交渉だけでなく、司法権によるソ連やロシアによって不法軍事占領されている北方領土の土地に関して、裁判所の訴訟裁判権によって、判決による主権主張をすることである。現在、日本政府は、国後、択捉島、歯舞諸島、色丹島を軍事占領しているのを不法だとし、ロシア政府に対して、「すみやかに軍事撤退し、北方四島を返還せよ」というのが、外交交渉の行政権による主権主張だが、もう一つ、裁判所の訴訟上の裁判権による主権主張があるが、次の通りである。
 終戦時、北方四島の旧島民は、ソ連の同島への軍事進攻により島を追い出され、自分達の島の土地を手放し、対岸の北海道の根室などに引き揚げざるを得なかった。そして、彼らの北方領土の島の土地の所有権に関する権利は、北方領土に対峙し、遥かに島々を望める根室市にある法務局の登記簿に記載されている。
 これだけでも、旧島民個人による北方領土の島の自己の土地権利主張が成り立ち、また行政権の地方局である法務省法務局による旧島民の北方領土の島の土地権利の承認であって、政府、外務省の外交交渉の行政権による北方領土に対する主権主張と別個の法務省による行政権の主権主張であるが、さらに旧島民が裁判所に北方領土の土地の権利を主張して、民事訴訟を起こし、判決を勝ち取って、司法権による主権主張をすべきである。
 具体的には、旧島民や死んだ旧島民の遺族が根室の法務局の登記簿にある旧島民の北方四島の土地所有権を民事訴訟法に基づき、日本政府の主張通り、旧島民の土地を軍事不法占拠しているロシア政府と軍隊、サハリン州知事や千島列島の知事、現在の旧島民の土地に住んでいるロシア人住民を相手取り、土地所有権確認訴訟を根室地方裁判所に起こすべきである。この方法だと、被告のロシア政府や軍関係者、ロシア住民が不法占拠を北方領土にしていなく、占拠は合法だとしているので、裁判被告として出廷しない可能性もあるが、不出廷の場合は、法律上「擬制自白」といい、相手の訴えた内容を認めたことになり、原告である旧島民の勝訴となり、地裁レベルで確定判決になる。それが嫌でロシア側が出廷した場合も、地方裁判所では原告の旧島民の勝訴となる可能性があり、さらにロシア側の高等裁判所や最高裁判所まで訴訟や上告されることがあるが、旧島民が勝訴になる可能性が高い。
 ただ、ロシア側が被告として出廷した場合、原告の旧島民側は証人として、外務省のロシア課の事務官に証言させ、ロシアの北方四島の不法性を訴えるが、ロシア側がヤルタ会談やポツダム宣言、サンフランシスコ講和条約の北方領土の文言のあいまいさを主張し、ロシア側の北方四島の占領の合法性を主張した場合、わずかに裁判官がロシア有利の判決を下す場合もある。万が一、ロシアの主張を根室地裁が認めた判決を下した場合、地裁でロシア政府と日本政府外務省の北方領土に関する国際法に関する主張の対決となり、根室地方裁判所がロシアの国際法の解釈を合法とする判決で認める形になるが、そうなることは稀であり、大概、日本側や旧島民の主張通りに判決を下す可能性がある。日本の法律を遵守し、判決を下すであろうから。その上の高裁や最高裁でも同様になろう。
 裁判所の判決による北方領土の司法権による主権主張は判決文を被告である敗訴したロシア政府以下関係者に直接手渡すことも可能だが、ロシア政府側がこれを無視したり、拒否したりしてやや弱いが、これを日本政府や外務省の行政権の外交交渉の場で、司法権による判決文を示してロシア側に手渡せば、行政権による外交交渉による北方領土に関する主権主張と司法権判決による主権主張と二つを合わせてやることになるので強力なものとなろう。
 この司法権の判決によるロシアに対して、日本の北方領土の主権の主張方法について、以前、総理府の「北方領土対策室」に電話で進言したが、行政権者である日本政府は、「ロシアを刺激するので好ましくない」との消極的回答であった。行政権者である政府は、前述のように、ロシアを裁判の被告に出し、また、日本政府も対決することを恐れたのか、司法権による主権主張をしようとはしなかった。旧島民に原告となる事を支援もしていない。絶対にやるべきだと思うのだが。
 
   参考文献及び資料
 金子俊男「樺太一九四五年夏」講談社 昭和四十七年
 ボリス=ステラヴィンスキー、加藤幸廣訳「千島占領、一九四五年夏」共同通信 一九九三年
 「北方領土、歴史と文献」政治経済研究会 一九九三年
   WEB SITES
 KURIL ISLANDS DISPUTEDWIKIPEDIA
 稀土類元素WIKIPEDIA
 ASAHISHINBUNRARE EARTH TREASURE TROVE FOUND IN SEABED NEAR MINAMI TORISHIMA 3月24
 TODAY RESEARCH 南鳥島沖で世界最大濃度のレアアース発見 2013年7月23日
 CECILIA JASMIEJAPAN,S MASSIVE RARE EARTH DISCOVERY THREATENS CHINA,S SUPREMACY MARCH25
                      (流星群第30号掲載)

 



高価な箱庭セットに代わる誰でも
安価に行なえる代替箱庭療法


 現代はストレス社会である。多くの人々は、職場に於ける仕事や同僚との職場環境、家庭での人間関係、老いた親の介護など、いつも精神が休まることのないほどのストレス、つまり医者の治療を必要とする程のゆとりのない精神的緊張に囲まれている。
 順調に働いて生活をしていた人が、ある時、うつ病になったり、神経症(ノイローゼ)などいわゆる精神疾患の病気に罹り、通院して薬をもらったりする。場合によっては入院しなければならなくなる。
 誰もが、仕事が終った後、すぐに家に帰りテレビを見たり、一時間でも好きな趣味でも楽しみ、その醍醐味を味わったりできれば良い。日曜日はぐっすり眠り体を休め、散歩をしたりして、自由な時間に好きな事に没頭したりして気分転換できれば、心身の健康が維持できる。
 しかし、日曜日さえも付き合いで外出せねばならなかったり、場合によっては、その日も出社し、多くのたまった仕事をデスクでやらなければならなかったりする。これでは、仕事などで緊張した精神は休まることがなく、蓄積したストレスは取り除けないばかりか、貯まるばかりである。
 ストレスを取り除くための休養(眠ることも含めて)、趣味など好きなことをしたり、散歩やリクレーションなどとして、簡易なスポーツをやるなどをすればよいが、それらをやるためには費用が掛かったり、前述のように仕事に追われ、また家庭の事情によって、趣味などの気晴しに時間を割くことが出来ない場合が多い。
 そこで、少しの時間でストレスを取り除き、心の中の緊張を取り除く方法として、箱庭療法がある。
 私は一九九七年から九八年に掛けて、神奈川県立高校のいくつもの学校が、自分の学校に勤める教員を講師にして、学校教育以外の内容で特色のある生涯学習として教えるコミュニティー=スクールに参加した。そこで、ある高校で元々は理科の先生であるが、校内でカウンセラーをしている人が教えるカウンセリング入門を受講することになった。
 折りたたみ椅子を並べて、数人で行うグループ=カウンセリングであるエンカウンター=グループで、一対一のカウンセリング技法であるロール=プレイング、そして箱庭療法を学んだ。
 グループ=カウンセリングは、場所と数人の人数が必要なので、家庭で一人でやれない欠点がある。一対一のカウンセリングは、心の悩みのある人、精神的にノイローゼなどになっている人が受けたいと思っても時間がかかる上、アポイントなどを取り、一対一の対人が必要である。ただし、我々は時によって、知らず知らずのうちにカウンセリングに似たものをやっているのだ。日々の仕事でのストレスで張り詰め圧倒された気持ち、やるせない気分を表現することで吐き出しているのだ。その良い例が、職場の同僚と仕事が終わった後、焼鳥屋や赤ちようちんの酒場へ行き、焼鳥などをかじり酒を飲みながら、仕事の苦言や上役の悪口などを言うことだ。たとえ資格のあるカウンセラーと話しているのでなくても、十分なカウンセリング効果があることを付け加えたい。心の中を話し、上役などの悪口であっても口に出すことによって、気持を和らげているからである。
 一対一のカウンセリングやグループ=カウンセリングは、時間と場を設けなければいけないのに比べ箱庭療法の方は、箱庭セットを買えば、仕事の終わった後家へ帰って、十五分から三十分でも、あるいは休日にやればもっと時間があり、実行できるのであるが、一セット二十五万円と高価である上、家庭内に置くことはできるが、白い砂が入っているので、畳の部屋などではこぼしたりするおそれがある。それ故、学校や箱庭療法を治療として実践している病院などの備品や設備として備えるのが望ましい。
 このように、箱庭療法を家庭などで好きな時にやるというのは、大変コストが掛かる上、置き場に困るという欠点がある。そこで何か手軽にできるもので、正式な箱庭セットに代わるものはないかと、県立高校でのコミュニティー=スクールのカウンセリング入門講座を終了した後、自宅に於いて工夫、創意、開発を試みた。その結果、三つの箱庭療法代替の行動を編み出した。
 一つは箱庭セットの代わりにレゴ=ブロックを使うもの。もう一つは子供が砂場でおもちゃなどを持ち寄り、子供用のシャベルなどで砂を盛り上げたり、小山を作ったりする行動を成人がやる方法、そして最後に、厚紙、とりわけいらなくなったボール紙などをハサミで小さく切り、折り曲げ、そこへ広告などの人や家や木を貼り付け、あるいは、いらない白い紙に色鉛筆やカラー=サインペン、クレヨンで家や木や石、山、自動車、人などどんなものでも描き、ハサミで切り抜き、折り曲げたボール紙のタテの面にノリで貼り付けて、それらを机の上に並べて箱庭の作品、即ち絵模様を作り上げる方法を考案した。
 それらを詳細に説明するのは後に回すとして、先ず箱庭療法がいかに考案創造され、心理的、精神的疾患の治療法として確立されたかの歴史を辿ってみる。
 箱庭療法の起源は、二十一世紀初めのイギリスに於いてであった。一九一一年にSF作家として有名なH・G・ウェルズが、自分と彼の子供とでおもちゃを床に並べて遊んだ経験に基づき、その体験記を本にして出したところ反響があった。そのタイトルは、「フロア=ゲーム」というもので、それを読んだイギリスのクライン派の小児科医、マーガレット=ローエンフェルド女史が感動し、世界技法(THE WORLD TECHNIQUE)を考案し、子供用の遊技による精神療法として確立した。一九二九年のことであった。
 その後、スイスに伝わり、カール=ユング(CARL JUNG)学派のドラ=カルフ(DORA KALFF)によってユング心理学を基盤にし、さらに改良した「砂遊び療法」(SAND THERAPY)が確立され、カール=ユング研究所で科目としてもあり、研究されている。科目では「SAND PICTURE」と呼ばれている。同研究所はスイスのチューリッヒにあり、カール=ユングによって設立され、修了書はいかなる分野でも博士を取った人が、さらに上を学ぶ超博士の学位である。
 箱庭療法は、「SAND PLAY THERAPY」とも呼ばれ、心理療法の一種と見なされ、セラピストが見守る部屋の中で、箱の中に自由におもちゃを入れる療法で、心の中にあるものを表現するものと言われている。
 箱庭療法は、初めは子供用の心理セラピーとして用いられた。その理由は、未だ学習能力の低い子供や思春期の者達が問題のある自分の心の中を表現するには煩雑すぎるので、つまりそれを言葉で構成して表現するには不向きで、苦手であるが、おもちゃなどで遊技的にすることで自己表現を容易にすることが出来る。それで箱庭は遊技療法として意義があるとされた。現在では子供だけでなく、成人にも精神障害の治療、心理療法に広く使われている。
 日本には河合隼雄が一九六一年よりカリフォルニア大学ロサンゼル校(UCLA)大学院に留学中に教わっていた同大教員で、かってヨーロッパから渡って来たユダヤ系ドイツ人カルフに出会い、この時初めて箱庭セットによる箱庭療法を体験した。彼は、かって子供の頃に体験した江戸時代よりある和風「箱庭」に似ていると直感的に思い、その後、カルフの勧めもあってスイスのカール=ユング研究所に留学し、正式に箱庭療法や深層心理について実践体験による研修を積み、一九六五年に日本へ紹介した。河合が勤めていた天理大や、その後の京都大学を中心に広められた。
 その後、二人の有能な臨床心理士、山中康裕や岡田康伸によって広められ、大学や学校の心理相談室や病院で精神疾患の治療として普及するようになった。
 河合隼雄が留学中にすでに感じていたように、日本には箱庭によく似た和風「箱庭」が存在し、西洋の箱庭療法を受け入れやすい下地があった。江戸時代前からの伝統文化があったようだ。
 日本では江戸時代前からお盆に石を載せ、風景を描く盆石、盆山盆景という作品を作る伝統文化があった。その中で木を作る方法で、盆状の植木鉢にミニアチュアーの木を植える作品である。そして、江戸時代の元禄文化の一環で、これらが新しいものとして発展する。
 この時期になって箱庭というものが出現する。小さな、あまり深くない箱の中に、小さな人形や橋、船などの景観を構成したミニアチュアーを作り、庭園や名勝などで、絵画的な光景を模型で楽しむものである。明治時代になっても、さらに箱庭は工夫され、類似したものとして盆景を改良した盆栽が出現した。枯山水は逆に大きくしたものだ。
 これらの和風箱庭や盆栽、盆景などは、どちらかと言うと年寄りじみた趣味とされていたが、前述のように河合隼雄がヨーロッパの箱庭療法と和風箱庭に共通性があると感じて、箱庭療法を日本に紹介してから、和風箱庭も注目された。
 そこで話を転換して、かってコミュニティー=スクールで習得した箱庭をいかに私自身で発展させたか、箱庭を改良したかの本題について述べようと思う。
 前にも言った通り、箱庭はカウンセリングやフロイトの自由連想法など、他の心理療法に比べ、少しの時間と本人以外の人が立ち合わなくても、箱庭セットがあれば家庭でも出来る。(但し、通常、学校のカウンセリング相談室や病院などで治療としてやる場合は、本人が箱庭を作る過程で絵模様を作る小さな人や木、家などの順番を心理分析のために医師や第三者が立ち合い確認する場合が通常だが、一人でやっても心を和らげる効果は充分にある。)
 箱庭セットは新品で二十五万円ぐらいし、また、家庭だと箱庭セットの箱が大きく、置きづらいことと、砂をひっくり返してしまうので、箱庭セットは通常、学校のカウンセリング=ルームや病院の臨床治療に設備として使うのが望ましい。私はこの箱庭セットを家庭でやるための方法として、子供がやるような砂場で、人が中に入っておもちゃを置く方法を考案した。
 その砂場でおもちゃを並べてやる方法は、箱庭セットのもので箱の中に景観を作ることとほぼ同じであることがわかる。大きな違いは、箱庭療法セットは小さな箱の中の砂の上に小さな人、動物、木、家、橋などのミニチュアーのものを箱庭の外側から並べて、絵模様や景観で自分の心の中を表現するが、砂場でやる箱庭は、人と同じ大きさというか、自分自身が砂場という数メートル四方の長方形の大きな箱の中に入り込んで、持ち寄った数々のおもちゃなどを並べて行う、スケールの大きい箱庭療法である。言わば、箱庭の世界に自分も身を置いてやるところに、箱庭セットと心理的に効果が違うように思われる。箱庭セットよりも多くの種類のおもちゃを広い砂場に持ち込め、また砂に起伏を作るにしても、スケールの大きなものを作ることが出来るので、心理的に幅広く表現出来よう。
 それらを考慮して、代替できるであろう箱庭療法に類似したものを考案し実践してみた。
 その一つが、実際に五歳ぐらいまでの子供が砂場でやっている遊びで、それを子供だけでなく成人(もちろん少年や青年で心の悩みを持っている人も、そうでない人も、ただ遊びという人も含め)がやる方法である。
 家の近くの公園や小学校の砂場などで、日曜日など小さな子供が自動車やその他のおもちゃを家から持って来て、そこに並べて遊んでいるのを、誰でも見かけたことはあると思う。子供はおもちゃを並べて、小さなシャベルを使って山を作ったり、砂に起伏を作ったりしている。そして、出来上がると満足そうな笑いを浮かべている。
 かって県立高校のコミュニティー=スクールでは、箱庭セット以外にもどんなおもちゃでも使用できることを習った。駄菓子屋で売っている怪獣の模型、コマ、飛行機、戦車、人形、ヘビ、トカゲのゴムなど、プラモデルの飛行機、観光地のおみやげもの、こけし、おもちゃ屋で売っている人形、自動車などなど。大きさはまちまちであるが、箱庭セットの箱庭に入るものなら何でも良い。これを砂場を作ってやると、もっと色々な物を持ち込める。それこそ、やろうと思ったら、自転車のバイク、自転車、コンビカー、大きな列車のおもちゃ、タイヤ、金槌、サッカーボールや野球のボール、バレーボールの球、ものさし、植木鉢、パイロン、お盆や茶わんなど色々な物を持ち込んだって良い。大きな自転車と人を表すのに人形を使っても良い。大きさが違っても、心の中に思う物を表現するのだから、アンバランスでも良い。
 私自身が試みたのは、ほとんどは子供のおもちゃなどを使って砂場で砂を盛り上げ、人や小さなカーミニチュアー、プラモデルの飛行機、人形などを使用した。他人がいらなくなって捨てたおもちゃなどをもらって来て使用し、箱庭作品を砂場で作ってみた。幼い子供が砂場で家から持ってきたおもちゃなど、例えば自動車やピストル、飛行機、ロボットなどを並べ、山を作ったりする遊びと同じであるが、それより成人がやると、もっと多くの物を使い高度な絵模様を作るところに違いがあり、成人の作品として意義がある。
 しかし、他人から見ると、成人が子供の遊びをしていると思われやすい。学校の砂場に入って私が箱庭をやっているのを幼児を連れてやって来た若い母親が見て、「どうして子供さんの遊びをやっておられるのですか」と声を掛けられてしまった。私は「箱庭療法の替わりを砂場でやっている」旨を若い母親に説明した。
 箱庭療法をストレスを抱える人が家庭で箱庭セットを使ってやるには高価であり、なじまないので、代替箱庭として砂場でやる方法を試みたのだが、欠点は仕事をしている人が自宅に帰って十五分ぐらいでは砂場ではやれないので、週末に時間を充分に取れる時に、砂場で実行するしかないということだ。
 高校のコミュニティー=スクールで箱庭療法を習った時、中立的な第三者がおもちゃなどを一つ一つ置く順番を記し、カメラで出来上った箱庭の作品を撮影し写真に残した。それに習って、砂場の中へ入って箱庭をやる場合も、作った作品を写真に撮り、出来れば置いた順番をもメモして置くのがよいと思われる。仕事などのストレスで精神が滅入ったり、精神科の医師に診察を受けたり、カウンセリングを受けたりする際に、有力な診断の根拠になるからである。
 砂場という大きな箱庭に人が入り、自分自身で箱庭の世界に入っていくので、深層心理として箱庭セットでやるのと違いがあるだろう。
 使うおもちゃは何でも使える。子供のおもちゃ、少女のままごとセット、プラモデル、こけし、グリコのおまけ、駄菓子屋の安価なおもちゃ、何でも良い。それらを買ってもよいが、子供が成長していらなくなったものを貰えると良いと思う。そして、使えるものを家庭の中で捜して使うのも良い。コップやサジなどの食器類などを使うと良い。
 次に私が考案した箱庭セットに代わってやる代替箱庭療法として、市販のおもちゃ、レゴ=ブロックを使ってやる方法がある。これもある時、ゴミを捨てに行った時、さんざん子供が遊んでいらなくなった古いレゴ=ブロックがあったので、それを持ち帰って来た。レゴが置かれているのを見た時に、ふと、箱庭を連想し、レゴで箱庭をやってみようと思ったのである。
 レゴは出っぱったぼちぼちを凹んだところにタテ、ヨコにはめ込み、色々の形を作り出すもので、西洋から日本に販売されている子供用のおもちゃである。主に幼児が保育園や幼稚園へ通っているぐらいの時に、家で両親に買ってもらうか、場合によっては大きいセットだと、保育園に置いてあり、園児がレゴで遊んでいるケースもある。
 レゴの場合、価格により大きなセットから小さなものまでセットが違うので一概には言えないが、小さなサイズだけでは、通常の箱庭セットと比べ、作り出す作品に限りがある。テレビのコマーシャルなどで、大きな広場だとか、駅舎とか庭園を作ったものを見たことがあるが、これはごく価格の高いもので、通常のレゴセットでは作れるものではない。
 私自身は、ロンドン橋の変形したもの、簡易な駅舎、角ばった馬、平なトンボを作ってみた。これを写真に撮り、高校のコミュニティー=スクールでのカウンセラーに見せたり、当時、睡眠障害でかかっていた東京都港区にある慈恵会医科大学病院、精神科の教授に見せたりした。
 慈恵医大病院の精神科の教授は箱庭療法の専門ではなかったが、大変関心を持ち、私がレゴを使ったことを「箱庭セットが二十五万円もするので、安価で買えるレゴ=ブロック=セットを買い、家庭でも好きな時間に十分ぐらいあれば箱庭に替えて出来る」という理由で説明すると、「大変面白いと思う。これは黒田流の箱庭療法だね」という評価を受けた。そして、私の診察カルテに記し、箱庭療法を実際に行なっている医師に紹介すると共に、後日、詳しいレゴをやるに至った説明、つまり代替箱庭としていかにレゴを使おうと思ったかなどをレポート用紙に書き、レゴでやる箱庭についての説明報告書を担当医を通じて箱庭専門の医師に渡してもらった。やはり、その際に高校のコミュニティー=スクールと同様、担当医の教授から、レゴでやる箱庭でブロックを一つ一つはめる時、どれからやったかの順番を書いておくように言われた。慈恵医大病院では実際に箱庭を治療として行っている。もちろん、健康保険が効く。
 後日、私のレポートを根拠に慈恵医大の方で学会発表をしたそうだが、それが一九九七年のことであった。その翌年の九八年にテレビにレゴの会社が、「レゴでやる箱庭」というキャッチ=フレーズでCMを流した。慈恵医大からレゴの会社に伝わったのか、それともレゴの会社の方で偶然、私とは別個に思いついたのかは定かではないが、私の方が先に「レゴでやる箱庭療法」を考察したことは間違いない。
 サラリーマンなど世の中でストレスを感じている人は、レゴの安いものを買うか、子供さんが成長してレゴで遊ばなくなった家庭を知っていれば、それを貰い、十五分でも毎日やってみてはいかがだろう。精神的ストレス軽減のためになるので。
 第三番目に代替箱庭療法として考えたものは、机の上で細長く切ったボール紙を九十度に折り、その紙のタテに折った部分に、人、家、木、動物、山、池などの物で、広告などにあるそれらの写真をハサミで切ったり、いらない紙に色鉛筆、色サインペンやボールペン、クレヨンなどでかいたものをハサミで切ってノリで貼りつけ、箱庭に置く物を多く作り、自宅にある事務机や食卓に並べ、箱庭療法をやる方法である。
 堅い紙として、小学生の図工などで使う目盛りの入った工作用のボール紙を買っても良いが、厚紙、ボール紙は家にも色々な商品の中にある。例えば、和菓子の箱、チョコレートの箱、カレーの箱、レポート用紙や便箋の一番下のボール紙、チョコレートの中の厚紙などを使い、ハサミで幅五〜六センチ、長さ十五〜二十センチの大きさに切って、三分の一を折り曲げ、長くなった方をタテにして机に置く。そこに、前述のように広告を切ったりして作った木、家、動物、魚、駅舎、飛行機など箱庭用の置く物を、前述の折り曲げた厚紙やボール紙の長い方にノリで貼り、それをタテにして三分の一の短い紙片で折り曲げた方を水平にして、机の面につけ立てる。そうすれば、それを使って、机に並べて箱庭を楽しむことが出来る。

 家や木などの写真広告は、新聞の折り込み広告で良いが、読み終った新聞や週刊誌の中の広告も白黒であっても使う。食べ物や野菜などは、スーパーの新聞の折り込み広告で間に合う。旅行会社の国内、国外ツアーの色刷りパンフレットを貰って来て切り抜くと、温泉旅館や観光地の風景など美しいものを使用できる。それらを前述の厚紙に貼りつけると美しい物に仕上がる。とりわけ、国外旅行のパンフレットだと西洋やアジアの家、駅、建物、寺院、風景などエキゾチックなものが出来る。
 広告にない物、例えば、怪獣、SFロボットなどは、いらない白い紙、例えば、広告のウラやお知らせの紙のウラに、色鉛筆やクレヨンで絵を書き、切り抜いて折り曲げた厚紙に貼っても良い。書くのに手間がかかるが、全部手書きのものを使っても良い。
 それらを机に並べてやれば、箱庭療法の代わりになり、充分にその効果はあるが、欠点は箱庭セットのような砂による起伏が出来ないことだ。机以外にも床や畳の上でやっても良いが、日本の臨床心理士の中には、学会で箱庭セットの枠が効果があるとした発表をした人もいる。が、それでも床や畳でやることも良い。心理的に効果があるからだ。もちろん厚紙に広告や絵で書いたものの他に、こけしや小さな人形、おもちゃ、駄菓子屋の怪獣、プラモデルの飛行機など合わせて使っても良い。この方法で箱庭の絵模様の作品を作ったなら、レゴでやる作品同様、写真を撮り、物を置いた順番を記しておき、カウンセリングや精神科の医師の所へ行く時の自己心理分析の資料やデータとして役立てると良い。
 その他にもおはじきを紙と一緒に並べて花を作ったり、また、おはじきのみの遊びをしたり、少女がやる「ままごとセット」や「リカちゃん人形のセット」を買ったり、それらでいらなくなったのを貰ったりしてやるのも、別の箱庭代替療法となろう。
 現代社会でストレスに悩む人は、私が考案した三つの代替箱庭やおはじき遊びなどを家庭で毎日できなくても、時々、短い時間でも行い、ストレスを取り除くべきだ。そして、三つの代替箱庭によって異った深層心理の発見もあり得る。その他工夫として、粘土で動物、虫、ロボット、木などを作り、その他のおもちゃやボール紙に貼った物と混ぜて使っても良いだろう。さらに折り紙を加えても良い。誰でも知っている鶴やカブトだけでなく、折り紙の折り方を示した本は多くあり、複雑でやや折るのに難しいが、色々なものが折り紙としてある。粘土や折り紙は、個々の動物や花などを作るだけでも、作業として心理的にストレスを和らげる効果があるが、さらに箱庭の構築物として使えば、二次的効果があろう。

                              (了)
 参考文献及び参考資料

 神奈川県立川和高校コミュニティー=スクール「カウンセリング入門」プリント資料  CARL JUNG INSTITUTE
 CATALOG一九九五年版 ZURICH SWITZERLAND
 WEB SITE WIKIPEDIA 「箱庭」「箱庭療法」「CARL JUNG」「河合隼雄」
                       (流星群第29号掲載)


日本のプロ野球で活躍したアメリカ黒人選手達
の出身校、アメリカ黒人州立大学の歴史

 一九八四年に当時の球団、阪急ブレーブスのアメリカ黒人の強打者、ブーマー=ウェルズが日本プロ野球史上初めて、外国選手による三冠王を達成した。打率三割五分五厘、打点百三十、ホームラン三十七本の成績だった。
そのすぐ翌年に、阪神タイガースの「史上最強の助っ人」、アメリカ白人のランディー=バース内野手が三冠王を取り、それに続いた。
 ブーマー選手が外国籍の日本プロ野球史上初めての三冠王を取得したのは画期的な業績だが、その他に、もう一つの意味で歴史的な偉業なのだ。日本の野球評論家や野球ジャーナリストなどには知識がないので知られていないが、ブーマー選手はアメリカの黒人大学の出身であることだ。つまり、外国人としての初めての三冠王は、アメリカの黒人大学の出身者であるというのは特筆すべきことで、アメリカ黒人にとっては大変な偉業なのだ。
 ブーマー選手は、アメリカや後に日本のプロ野球界に入る前に、ジョージア州にあるオルバニー州立大学(ALBANY STATE UNIVERSITY)という差別のあった南部諸州で、憲法修正十四条、十五条で奴隷から解放された黒人に対して、農業、工業、技術者を養成する目的で黒人のために作られた大学の一つを出たのである。(南北戦争後、黒人は解放されて自由を得たが、南部諸州は州法で、白人と黒人を分離する政策で、黒人は白人の大学に入れなかった)
 ブーマー選手の他にも、日本のプロ野球に於て活躍した大物選手、ルー=ジャクソン選手(元サンケイ=アトムズ)、ジョージ=アルトマン(東京オリオンズ、阪神タイガース)が、それぞれルイジアナ州のグランブリング州立大学、テネシーA&I大学という、やはり黒人大学出身者で、その他にも数人のそれほど活躍しなかったが、黒人大学出身の選手が、日本プロ野球に在籍した。そのことについて、日本の評論家など野球の専門家達は、野球の専門知識しかなく、アメリカ黒人史や教育史についてまったく知らないので、殆ど日本では知られていない。
 そこで、以下に於いて、日本のプロ野球界に登場したアメリカ黒人選手で黒人大学の出身者とそれら黒人大学の歴史についての列伝として記してみたい。    まず、日本のプロ野球で活躍した黒人大学出身のアメリカ黒人の選手について語る前に、黒人大学や黒人教育について述べなくてはならない。  黒人大学とは、文字通りアメリカ南部諸州に於いて、主として黒人のために黒人が通う大学だが、その大学がアメリカ南部諸州に作られた経緯は、アメリカ南部に於ける黒人奴隷制度と南北戦争後に解放された後の、黒人隔離による差別制度が主たる要因だ。
 そもそも、アメリカ大陸では、スペインが統治して以来、農業プランテーションや鉱山での安い労働力として、アフリカから多くの黒人達が奴隷という商品として連れてこられ、過酷な労働を強いられた。
 アメリカ南部では、一九八七年に独立後多少の黒人奴隷は存在したが、一八〇〇年代に入って、コットン=ジンという綿花から種をた易く取り除く機械が発明されると、アメリカ南部諸州では綿花栽培が本格的プランテーションとなり、大量の黒人奴隷が投入された。そして主として工業国で奴隷のない北部の州と南部諸州は、自由州と奴隷州として対立し、結果として南北戦争が起こる。
 奴隷には人格が否定され、十分に給与も技術も教育も与えられず、文盲だった。そこで、北部の奴隷反対の運動が起き、南部の奴隷州から北部の自由州へ黒人奴隷を逃がす運動が一部の教会を中心とした奴隷解放主義者によって行なわれた。そして、人道的見地から解放された奴隷が自立するため、読み書きや職業的技術を身につけさせる教育が施された。  南部戦争前に、読み書きを解放奴隷に教えたのが、アフリカン=フリースクールで、また、高等教育として、オハイオ州のウィルバーフォース大学や黒人教育に力を入れて、黒人にも門戸を開いたのが教会系のオバリン=カレッジで、黒人の教育者を養成するためだ。  その間に一八六一年に南北戦争が起こり、戦時中、リンカーン大統領が一八六三年に奴隷解放され、同時に連邦憲法修正十四、十五条により、自由と人権を得たが、南北戦争後北部が勝ち、南部諸州は合衆国に再編成された。しかし、南部諸州では奴隷から解放された黒人は、手に職になる技術もなく、教育もなく、読み書きが出来ず、ただ町を徘徊するだけであり、白人と一緒に生活も出来ず、また社会で一緒にやっていけなかった。そこで、南部諸州では州法を定め、白人と黒人を隔離する政策、差別が行なわれた。「隔離するが平等」(SEPARATE BUT EQUAL)政策である。
 このような中で、黒人は黒人の社会で初等教育から高等教育までを施さなければならなかった。連邦政府には、解放された黒人を支援する局が設立され、財政が計上され、粗末ではあるが、初等教育の学校も作られるようになった。また、教会や博愛主義的財団も黒人の教育に出資し、学校を作ったりした。高等教育にも、黒人の農業や職業的技能者を養成する指導者と、学校教育の教師をする目的で、教会や民間の篤志家や博愛団体の寄付及び奉仕により、南部諸州に百校以上の黒人大学が、一八七〇年代、一八八〇年代に作られた。
 教会や私立の黒人大学と州立の黒人大学があるが、現在もある州立大学は、設立の年が一八七〇年以後が多いが、初めは教会系や私立系だったものを、後に国の法で土地を与え、建物を作り、買収したり、いくつかのこれらの学校を統合して、現在の位置に移転させて、黒人の州立大学にしたものが多い。現在でも伝統的にそれら黒人大学は、白人も入学して来る場合があるが、殆どの黒人大学は九〇パーセント以上の学生は黒人である。大学の事務職も殆ど黒人だが、教員はかなりの白人が教えている。
 日本のプロ野球で活躍した黒人選手の出身校の黒人大学は、私立や教会系の黒人大学よりも奨学金を貰えた理由から、総て州立大学なので、アメリカの州立大学について述べてみることにする。
 一番最初のアメリカの州立大学は、一七八五年と一七八七年の土地条令による設立であった当時の北西部、今のオハイオ州、インディアナ州、イリノイ州などの独立当時に、まだ州になっていなかった土地を農業振興と人を移住するため、科学的測量を行ない、六マイル四方、六百四千エーカーの土地を人々に与えるものであった。そして国、連邦政府の財政で、一エーカー当りの土地代を入植者に与える(LAND GRANT)ものだった。大学も連邦政府の土地を与えて作られることになった。この法令には州になった所と同じ、議会や裁判所などの行政機構も規定されていた。
 さらに学校についても、連邦政府の土地と財政を与える(LAND GRANT)校があり、大学についてはHATCH法により、いくつかのLAND GRANT大学が出来た。それが、一七〇〇年代来のテネシー大、ノースカロライナ大や一八二〇年代のオハイオ大学やインディアナ大学である。  その後、南北戦争中に、ヴァーモント州選出の議員、ジャスティンS・モリルが提出したMORILL LAND GRANT法で、一七八五年や一七八七年のORDINANCEに習い、主に南部の州への移民と農業を振興するために、連邦政府が州へ財政と広大な連邦政府の土地を与え、農業工業振興のため技術者を養成するために作ったいくつかの州立大学がある。同時にHOMESTEAD法(定住法)で、農業移住者に六百四十エーカー四方の土地へ財政援助を与えた。
 この時出来た大学が、バーモント大学、カンザス州立大、アイオワ州立大学、ミシガン州立大学など、それ以後の州立大学のほとんどである。イリノイ大やテキサスA&M大も含まれる。
 そして、一八九〇年になって、「第二モリル=ランド=グラント法」と呼ばれる「AGRICULTURA COLLEGE ACT」という法により、それまで一八七〇年代から八〇年代に黒人のために作られた一部の教会系や私立の小さな大学を統合し、南部の諸州に国、連邦政府が、財政と土地を各州に提供し、黒人の州立大学として新たに設立した黒人の州立大学がいくつかある。フロリダA&M大学、アラバマ州立大学、アルコーン州立大学、ミシシッピーバレー州立大学、ルイジアナ州のサザン大学、テキサスのプレーリー=ヴューA&M大学などである。
 この間に一九〇〇年代初頭、黒人指導者、W・B・デュボア(DUBOIS、デュボイスとも呼ばれる)とアラバマのタスケギー師範職業学校の黒人校長、ブッカー・T・ワシントンとの有名な論争があり、デュボアは、黒人が差別されている状況から解放され、地位を引き上げ、差別から戦わなければならない事を説いた。そのためには教育は職業的な教育ではなく、黒人が入学を許されていない、白人の大学への高等教育が必要であるとした。一九二〇年以後、有色人種地位向上協会(NAACP)を作り、黒人が入学を認めなかった大学の法学大学院(主として南部の州立大学)を裁判に訴え戦って、州裁判所から州最高裁判所、そして連邦最高裁判所へ憲法判断を求めた。一方、ワシントンは、白人に差別されている黒人が戦いを挑んで体制を荒だたせるのではなく、忍従し、黒人の社会で手に職をつけ、生きる道をさぐるべきとして、黒人教育は職業的なものをすべきことと提唱した。
 そして、一九一四年にリーバー=スミス法により、農業拡張施設を州立大学に付属させる法律が出来、農業職業教育の充実をはかり、一九一七年のスミス=ヒューズ法により、職業教育について大学の充実がはかられた。これは、職業教育について、各州の職業教育委員会が科目や教員の質、設備などの計画を国、連邦政府の職業教育委員会に提出し、連邦政府が州との割合を決めて、それらの州立大学に財政援助するというものだ。大恐慌の時には、バンクヘッド=ジョーンズ法により農業政策のニューディールに合わせ、農業教育振興のため州立大学に援助された。  一九三〇年代に二年制の職業的郡立州立短大、ジュニア=カレッジ、後にコミュニティーカレッジが出来た。それ以後州立大学はいくつかの法律により、年代毎に作られ現在に至る。  その他州立大学と別個にアメリカには普通教育の学校での教師を養成する州立師範学校(STATE NORMAL SCHOOL)が設立され、主なものは、一八三〇年代から年々作られた。マサチューセッツ州のフラニガン=ノーマル=スクール、ミシガン州立ノーマル=スクール、現イースタン=ミシガン大学(一八四九年)、ハリス=スタウト=ノーマル=スクール、現ウイノア州立大学(一八五三年、ミネソタ州)、イリノイ=ステート=ノーマル=スクール、現イリノイ州立大学(一八五九年)、サム=ヒューストン=ノーマル=スクール、現サム=ヒューストン=州立大学(一八七九年、テキサス州)などがある。
 その後、ノーマル=スクールは一九一〇年頃から一九六〇年ぐらいまでTEACHER COLLEGEと呼ぶようになり、一九六〇年代はUNIVERSITYになった。それらの大学の名前にはサウスとかノースとか、UNIVERSITYの前に方角がついている。地域的な教育需要に合わせて設立されたからである。
 このような州立大学の傾向を念頭に置いて、日本のプロ野球で在籍、活躍した黒人選手の野球実績と、それぞれの出身の黒人大学について紹介する。  日本のプロ野球選手で最初に活躍したアメリカ黒人選手で黒人大学出身者は、一九六六年にサンケイ=アトムズ(現ヤクルト=スワローズ)に入団した、ルー=ジャクソン選手だ。ルー=ジャクソン選手は一九五八年より一九六五年まではアメリカの球団を渡り歩き、シカゴ=カブス、モントリオール=エクスポス、その間、マイナーリーグの球団をいつも渡り歩き、再びメジャー球団のシカゴ=カブスに入り、一九六五年にはボルチモア=オリオールズに在籍した。メジャーリーグの実績は、打率二割一分三厘、本塁打〇、打点七のわずかなものだった。一九六六年にサンケイ=アトムズに入団してからは主力打者として活躍し、同じく黒人のデーブ=ロバーツやホブ=チャンス選手と共にホームランバッターとして頭角を現わした。右打者でバットを強い手首で揺らす打法は、黒人の力強さを感じさせた。初めの年に本塁打二十本、打率二割五分五厘、六七年には本塁打二十八本も打つ大活躍をしたが、六八年六月に膵臓が壊死するという難病で死す。外国人選手、初の客死だった。まだ三十四才の若さでの死だった。
 このジャクソン選手が卒業した大学が、ルイジアナ州北西部の黒人の入植地に、黒人のために作られた大学、グランブリング州立大学(GRAMBLING STATE UNIVERSITY)であった。
 グランブリング州立大の起源は、一八九六年に北部ルイジアナ、有色人種農業救済協会によって、今のグランブリング大学町の西側に小さな学校を建てたことだ。学校を建設するに当り、アラバマ州にあった私立で黒人の農業工業師範学校、タスケギー=インスティチュート(TUSKEGEE INSTITUTE)のリーダー、ブッカー・T・ワシントンの教育技術援助を受け、彼の指導を受けたチャールズ=アダムスが学長となり、カラード=アグリカルチュラル&インダストリアル=スクールとなった。(黒人のための農工学校となり、一九〇五年、名前をノース・ルイジアナ・アグリカルチュラル&インダストリアル=スクールと変えた。)
 さらに一九二八年には州立JUNIOR COLLEGE(短大)となり、二年終えると修了証書を出すようになる。そして学校の名前が、ルイジアナ=ニグロ=ノーマル&インダストリアル=インスティチュートとなり、農業教育を重点に置くことになった。この学校の特色は大恐慌の後の連邦政府の方針(ニューディール政策)によりもっと強まる。一九三六年に農業教育協会の援助により、三年制の大学となり、一九四八年に学士号を出すようになった。一九四六年には初等教育学部を加え、名前がグランブリング=カレッジとなった。新しい大学の土地と多額の寄付をしてくれた製粉会社の社長P・G・グランブリング(白人)にちなんだものだ。その後、多くの建物も作られ、三百八十四エーカーに大学の敷地が広がった。その後、中等教育部や科学部、文学部や社会学部も加わり、一九四九年には南部大学及び学校協会の認可を受け、一九七七年には大学院も加え、今日のGRAMBLING STATE UNIVERSITYとなって現在に至っている。
 次に日本で活躍した黒人大学出身の黒人選手は、ジョージ=アルトマン(GEORGE ALTMAN)である。通称「足長おじさん」の愛称で呼ばれた選手で、一九六八年から一九七五年まで東京オリオンズ(現千葉ロッテ)でプレーし、一九七六年の一年だけ阪神タイガースでプレーした主力打者であった。
 ジョージ=アルトマン選手はノース=カロライナ州グリーンズボロに生まれ、一九五九年にメジャーリーグ入りし、カージナルス、ニューヨーク=メッツ、シカゴ=カブスでプレーした。一九六四年にはオリオールズで五番を打つほどの強打者であった。一九六七年までメジャーリーグで活躍し、通算成績は本塁打百一本、打点四百三、打率二割六分九厘であった。
 日本へは、一九六八年に東京オリオンズ(現千葉ロッテ)に入団し、その年に打率二割二分と本塁打三十四本をマークした。オリオンズには一九七四年まで在籍し、常に二十本以上の本塁打を打てる強打者で、一九〇センチを越える長身で、「足長おじさん」とファンに親しまれた。メジャーリーグ時代は「ビッグ=ジョージ」と呼ばれた。外国人選手としては初めて通算二百本以上の本塁打を打った。また六試合連続本塁打をも記録した。一九七四年に大腸ガンで倒れ、病院に運ばれて、東京オリオンズは健康を害したことを理由として解雇したが、その後阪神タイガースで一年プレーした。日本球界での通算成績は本塁打二百五本、打率三割九厘、打点六百五十六の好成績であった。
 このアルトマン選手が出た大学が黒人大学のテネシー州立大(TENNESSEE STATE UNIVERSITY)で、アルトマンが出た時の大学名はテネシーA&Iカレッジである。同大学は一九一二年に、総括的で、都市大学型の共学のランドグラント州立大学として、ナッシュビルに設立された。州議会が三つのノーマル=スクール(師範学校)、その中の一校が農工学校(AGRICURTURA&INDUSTRIAL SCHOOL)を含み、百四十四人の学生でスタートした。ウィリアム=ジャスパーが校長となり、一九二二年になって学士を出す、州立農工師範大学(AGRICULTURAL INDUSTRIAL NORMAL COLLEGE)となり、五年後に「NORMAL」の称号がなくなった。一九三〇年代に、大学の設備などが充実し、一九四三年にそれまで三十年奉職したペール学長が引退し、ワォルター=デービス氏が学長を継ぎ、一九六八年まで在職し、大学の設備の充実と発展を遂げる。同氏は有能な卒業生であった。まず、一九四四年に州議会は同大学の教育レベルの向上をはかるため、教育学分野を充実させた。大学院を作り、修士号を出すことを認めた。一九四六年にSACS(南部大学及び学校協会)が大学の水準を許可することになり、州立黒人大学の地位を確立する。学部は工学部、教育学部、文学部と理学部、農学部、家政学部になり、大学の組織再編成が行なわれた。これは州の教育委員会が再編成を許可したためで、さらに、一八五八年に、連邦法により財政と土地を与えられ、ランドグラント大学になり、いくつかの分校と生涯学習、そして宇宙工学部が加わった。そして一九六六年にそれまでのテネシーA&I大学のA&I(AGRICULTURAL INDUSTRIAL)の名称がテネシー州立大学(TENNESSEE STATE UNIVERSITY)となり、その後一九七六年にフレデリック=ハンフリー氏、一九八七年にオーチス=フロイド氏、一九九五年にヘルビン=ジョンソン氏と学長交代をし、現在九千人以上の学生を持つ黒人州立大学となっている。
 次に話すべき黒人大学出身のアメリカ黒人選手で、日本のプロ野球で活躍した選手は、何と言っても外国人選手として初めて三冠王を獲得したブーマー=ウェルズこと本名、グレゴリー=ドウェイン=ウェルズである。
 ブーマーは一九五四年にアラバマ州で生まれ、ジョージア州の黒人州立大学オルバニー州立大学(ALBANY STATE UNIVERSITY)で、フットボールの選手として活躍し、NFLのフットボールのプロ選手をめざしたが、採用テストで不合格になり、一九八一年に野球選手をめざし、トロント=ブルージェーズ、一九八二年にミネソタ=ソインズに在籍するも、ファームチーム生活が多く、芽が出なかった。アメリカでの二年間の成績は、打率二割二分八厘、本塁打〇、打点八であった。一九八三年に阪急ブレーブス(現オリックス=ブルーウェーブ)に入り、二年目に打率三割五分五厘、打点百三十、本塁打三十七本で、日本のプロ野球史上初の外国人選手、三冠王となる快挙を達成する。それも黒人選手で黒人の州立大学出身が成し遂げた偉業であった。翌年には製薬会社の貼り薬「パスタイム」のCMにも登場する。一九八七年には六月のダイエー戦で飛距離一六二メートルの大アーチの本塁打を記録する。前の年の一九八六年には一回打点王となっている。一九九二年にダイエーに移籍し、後半は成績が上がらず退団となった。  その後、引退後は日本のプロ野球団のために、アメリカのめぼしい選手をスカウトし、日本球界に数人送り込んだ。日本での通算成績は、打率三割一分七厘、本塁打二七七本、打点九〇一であった。
 このブーマー選手が出た黒人大学がジョージア州のオルバニー州立大学(ALBANY STATE UNIVERSITY)である。黒人大学としての歴史は次の通りである。  サウスカロライチ州ウィンスロップの奴隷出身の黒人、ジョセス=ウィンスロップ=ホーリー(JOSEPH・W・HOLLEY)が、オルバニー=バイブルアンドマニュアル=トレイニング=インスティチュート(オルバニー神学校と手工芸学校)を一九〇三年に設立した。場所はジョージア州南西部であった。ホーリーはその後、サムエル=ルーミス牧師夫妻の知遇を得、マサチューセッツ州のリヴィーア=レイ=カレッジで学んで牧師を目指す。その時、マサチューセッツの事業家ローランド=バザード氏と知り合い、同州内のフィリップス=アカデミーとペンシルバニア州のリンカーン大学で学ぶため、同氏に学費を出してもらい、牧師となるべく教育を続けた。そして、バザード氏の好意により資金を出してもらい、五十エーカーの土地を買い、また、大学経営理事会を設立し、オルバニー学校を州立大学へ橋渡す方向へ持って行った。新しい土地での学校は、地域の黒人に初等教育と教師を養成する学校ともなった。一九一七年に州の財政の援助を受け、二年制の農業、教育師範短大(AGRICULTURAL&TRAINING COLLEGE)となり、数年後にジョージア=ノーマル&アグリカルチュラル=カレッジ(GEORGIA NORMAL&AGRICULTURAL COLLEGE)となった。
 大恐慌の最中、オルバニー州立大学は二年制のまま、四年制のジョージア大学やジョージア州立大学など他の四年制大学に加わる形でジョージア州立大学機構(UNIVERSITY SYSTEM OF GEORGIA)の下の一校となり、一九四三年に四年制の大学になり、オルバニー州立大学(ALBANY STATE COLLEGE)となった。そして、一九八二年に初めて大学院が出来、一九九六年に大学の名前がCOLLEGEがUNIVERSITYと替った。  現在、オルバニー州立大学は、特筆されるのは工学部で、オルバニー州立大学と全米でトップレベルのジョージア工科大学(州立、GEORGIA INSTITUTE OF TECHNOLOGY)と両方で学士号を出すプログラム=コースがあり、全米でも評価されている。また、標準テストの成績が極端に劣る州内の高校生を対象にした夏期講習で百パーセントの確率でそれらの高校生の成績を上げ、これも全米で評価された。現在の学生数は四千人を越した。学長もホーリー以来、現在の学長アンドリー=ウィリアムズまで七代目となる。
 科目も、英語、中等教育、特殊教育、カウンセリング、物理、体育教育学の他に経営学、犯罪警察学、看護学が加わり、六つの修士号を出している。
 オルバニー州立大学が全米歴史上特筆されるのは、一九六〇年代の黒人が人種差別に抗議する運動、公民権運動の中心の一つとなった事である。オルバニー州立大学の学生達と多くの黒人地位向上委員会(NAACP)と学生非暴力調整委員会(SNCC)の代表者が共同して、オルバニー運動(ALBANY MOVEMENT)を立ち上げ、キング牧師やその他の黒人運動リーダーに支援し、招いて運動をオルバニー地域で行った。この時、全米で黒人市民三千人が逮捕され、オルバニー市の地区では七百人が逮捕され、その内、オルバニー州立大学の学生は四十人が逮捕され、退学処分になった。しかし、二〇一一年に大学は、退学になった三十二人に対し、名誉復権の意味で名誉学士号を三十一人に、一人に名誉博士号を送った。
 その他にも、ダニー=グッドウィン(DANNY GOODWIN)という高校時代超飛距離を出した超大物と超大砲と呼ばれた黒人選手が日本のプロ野球にいた。一九五三年にミズーリ州セントルイスに生まれ、高校時代の野球で球場の場外はるか遠くに、超飛距離のあるホームランを連発し、高校時代の打率が四割八分八厘であった。一九七一年に高卒でシカゴ=カブスの一番ドラフト、即ちドラフト=キングを受けたが、プロ入りせず、ルイジアナ州の黒人州立大学サザン大学(SOUTHERN UNIVERSITY)の奨学金を受け、学業をつづけながら野球をし、動物学を専攻した。
 その後、一九七五年に大卒で再びドラフト=キング、つまり一位指名となり、カリフォルニア=エンジェルスに入団した。2Aのエルパソでは実に打率六割三分七厘を打ち、カリフォルニア=エンジェルスに昇格するが、肩を大ケガし、その後、数シーズンを棒に振った。それ以後、チャンスに力を出せず、ミネソタ=ツインズ、オークランド=アスレチックスと渡り歩いたが大成しなかった。メジャー=リーグの成績は、わずか打率二割三分六厘、本塁打十三本、打点八十一であった。
 そして、一九八六年に南海ホークス(現ソフトバンク)に在籍するも打てず、殆どベンチで過ごした。ただ、グッドウィンは頭脳も優秀で黒人大学サザン大学で、野球の合間に修士号を取り、当時、日本でも大学院を出たプロ野球の選手として話題になった。  日本での成績もごくわずかで、一年で打率二割三分一厘、本塁打八本、打点二十六であったが、帰国後、大学野球殿堂入りし(COLLEGE HALL OF FAME)、また黒人大学グランブリング州立大学の野球コーチも務めた。
 グッドウィンの出身校サザン大学は、一八七九年にルイジアナの憲法議会で有色人種のための教育機関の案が出され、一八八〇年にルイジアナ議会が法案を通し、サザン大学として認可をし、ニュー=オリンズのユダヤ教会、イスラエル=シナイの跡地に作られた。その後一八九〇年に黒人大学を許可する二次モリル法により、サザン農工大学(SOUTHERN AGRICULTURAL&MECHANICAL UNIVERSITY)となり、スコッツビルに移る。そして、一九二一年にルイジアナ州議会がサザン大学の再編成と拡張を認め、次の年のルイジアナ州法一〇〇により州教育委員会(STATE BOARD OF EDUCATION)の監督で再編成し、現在のバトン=ルージュに移った。  初代学長は、地元バトン=ルージュの黒人社会の名士で、バトン=ルージュ=カレッジとルイジアナ有色人種教育協会の学長で会長のジェセフ・S・クラークが就任し、一九三八年に退くまで、大学組織の再編成と多くの建物が出来、息子フェルトン・G・クラークが学長になって、学生数が五百人から一万人まで増えた。一九四七年にはルイジアナ州立大の法学大学院(LAW SCHOOL)が黒人の入学を拒否したので、サザン大学に法学大学(LAW CENTER)を作り法学教育を始める。さらに一九五六年には、ニューオリンズにサザン大学の分校(SUNO)、一九六四年にサザン大学のシュリブ=ポート及びボッシアシティー分校(SUSA)と大学博物館が出来、これらが一九七四年にルイジアナ州議会により、バトン=ルージュのサザン大学本校と合わせて統合され、サザン大学機構(SOUTHERN UNIVERSITY SYSTEM)となり、州の財政配分もしっかりとしたものになった。
 その他の黒人大学出身で日本球界でプレーした選手にフレッド=バレンタイン(FRED VALENTINE)外野手がいる。一九三六年ミシシッピー州クラークデールの生まれで、一九五九年ボルチモア=オリオールズに入り、一九六八年まで在籍するも、打率二割四分七厘、本塁打三十六本、打点百六十八に終わり、一九七〇年に阪神タイガースに入る。一年で打率二割四分六厘、本塁打十一本、打点四十六で、その後退団する。彼の出身大学はアルトマンと同じテネシー農工大学で、阪神は二人の黒人大学同窓生が在籍したことになる。
 最後に、一九八〇年代に広島カープに在籍したアート=ガードナー(ART GARDONER)外野手について語る。
 一九五二年にミシシッピー州マッドンに生まれる。同州の州立黒人大学、ジャクソン州立大学を出た後、一九七一年にヒューストン=アストロスにドラフト入団したが、メジャーデビューは一九七五年アストロスで果たす。十三試合に出た。しかし翌年は3Aのメンフィスチックスで、一九七七年にはアストロズに六十六試合出場する。一九七八年にサンフランシスコ=ジャイアンツに移籍するが、翌年から一九八〇年までフェニックスなどマイナー=リーグで過ごす。メジャー=リーグの通算成績は、打率一割六分二厘、本塁打〇、打点五であった。そして、日本の広島カープに一九八〇年から二年間在籍する。一年目は打率二割八分一厘、本塁打二十六本、打点七十七でまずまずの好成績であったが、二年目は打率二割五分四厘、本塁打四本、打点二十八の不振に終った。その後引退し、母校のジャクソン州立大、2Aのオクラハマ、タルサそしてテキサス=レンジャースでコーチをした。
 ガードナーが出た黒人大学がミシシッピー州のジャクソン州立大学(JACKSON STATE UNIVERSITY)は、設立は一八七七年にエドワード=ペイジ牧師により教会系の小さな大学として設立された。一八八二年にJAPキャンベル不動産会社による五十二エーカーの土地が与えられ、ジャクソン市の北部に移り、ジャクソン=カレッジと名前が変わった。その後ナッチェス=セミナリーという教会母体が変わり、現在の位置に大学が移転した。一九二四年になって、教職のための学士号を出すようになった。その後一九三八年に教会の経営母体を退き、代って私立経営母体となり、学校は州立となり、名前をミシシッピー=ニグロ トレーニング=スクールとなり、農業と初等教育に学士号を出すようになった。ついで一九四二年に全面的に四年制の学士を出すようになった。一部大学院の科目も加わった。一九四四年にJACKSON STATE COLLEGE FOR NEGRO TEACHERとなった。一九五三年に本格的な大学院が出来て、JACKSON STATE COLLEGEになる。  一九六〇年代は文学部、教育学部、経済ビジネス学部、大学院が組織上形成された。一九七九年は経営理事会により、大都会の高等教育機関として、教育計画がなされ、より多くの財政投入により、社会福祉学部、独立した工学部、総合保健学部、図書館の拡張が行なわれた。二〇〇〇年にはカーネギー財団により二十六の博士号のコースが充実し、二〇〇六年には債権を得て多くの建物設備が建設された。
   参考文献及び資料
 HENRY BULLOCK THE HISTORY OF NEGROE EDUCATION、PRAEGUER NEW YORK 一九七一年版
 IRA BERLIN、SLAVERY WITHOUT MASTERS VINTAGE、BOOK NEW YORK 一九七四
 JOHN HOPE FRANKLIN  FROM SLAVERY TO FREEDOM、KNOFFS NEW YORK 一九七一年版
 BENJAMIN QUARLES  THE NEGROES IN THE MAKING OF AMERICA COLLIER BOOK NEW YORK 一九六九 ベースボール マガジン社
 日本プロ野球外国人選手1936︱1994、ベースボール=マガジン夏季号 一九九四
 ウェブ=サイト  WIKIPEDIA、THE FREE ENCYCLOPEDIA  ORDINANCE OF 1784、ORDINANCE OF 1787、HATCH ACT MORILL LAND GRANT ACT LAND GRANT UNIVERSITIES、SECOND MDRILL ACT、SMITH︱LEVER ACT︱1914、SMITH︱HUGHES ACT︱1917、BANKHEAD JONES ACT︱1936、LOU JACKSON、 GEORGE ALTMAN
 ブーマー=ウェルズ(日本語版)、DANNY GOODWIN、FRED VALENTINE、ART GARDNER  GRAMBLING STATE UNIVERSITY、TENNESSEE、STATE UNIVERSITY、ALBANY STATE UNIVERSITY、SOUTHERN UNIVERSITY
 ART GARDNER BASEBALL STATS BASEBALL ALMANIAC
 BRUCE MARKUSENLEGEND OF DANNY GOODWIN HARDBALL TIMES、2009、JUNE5TH                           (流星群第28号掲載)


元阪神タイガース、ジーン=バッキー投手の故郷
  ルイジアナ州のケイジャン社会の特性と歴史的背景

 もう、今から四十五年ぐらい前になるが、古いファンなら憶えていると思う。昭和三十年代後半から四十年代前半まで、阪神に七年、近鉄に一年在籍し、先発投手として何回も二十勝以上を挙げ、巨人相手に一度ノーヒットノーランを記録し、全盛期の王や長嶋をキリキリ舞いさせた実力派のアメリカ人投手ことジーン=バッキー(GENE=BAQUE)のことである。バッキー投手は八年の日本球界在籍で百勝以上を挙げた。これは同じく百勝を挙げた、元南海ホークス、大洋ホエールズに長年在籍したテキサス州ヒューストン出身のジョー=スタンカ投手と並ぶ記録であり、バッキー氏は大投手である。
 このバッキー投手は、アメリカ本土ではメジャー=リーガーになれず、ハワイの2Aリーグに所属し、プレーしていた時に日系人の取りなしで、阪神タイガースのテストを受けて、昭和三十七年の春のキャンプから阪神タイガースに在籍することとなった。当時の名投手コーチ、杉下茂氏の指導により、素質が大開花し、二年目より阪神のエースとして活躍する。村山実投手とこの阪神タイガースの両輪として、阪神の二回の優勝に貢献した。
 背が高く、投球にスピードがあったが、コントロールが悪かったのを、杉下茂氏の指導で矯正し、また初期の頃、巨人で監督をした名将藤本定義氏の指揮のもと、昭和三十九年の阪神セリーグ優勝時には、二十五勝をあげ、同年の南海ホークスとの日本シリーズでは、前述のスタンカ投手と投げ合った。
 長身から投げ下ろす、くねくねとした投球フォームでタイミングをずらし、速球、カーブ、ナックル=ボールを駆使し、巨人の王や長嶋、そして、セリーグの他球団の強打者をキリキリ舞いさせ、押さえ切った当時の大投手である。歴代の阪神の外国人選手の中では、昭和六十一年に三冠王になった「史上最強の助っ人」、ランディー=バース内野手と並ぶ名選手である。
 昭和三十九年に阪神は日本一を逃がしたが、翌昭和四十年五月には、巨人戦ではノーヒットノーランを達成し、その試合で自らも二本のホームランを放ち、栄光を勝ち取った。昭和四十一年、四十二年と二十勝以上挙げたが、悲劇は翌年の昭和四十三年に起きた。九月に対巨人戦で、バッキー投手が打者王貞治選手に投げたビーンボールまがいの投球に、王選手が怒り、王選手がマウンド付近で注意した後、バッキー投手と交代した権藤正利投手が誤ってデット=ボールをさせ、巨人、阪神両チームの選手、コーチと大乱闘になった。その際、バッキー投手は、王選手への危険球に怒った、当時の巨人打撃コーチ荒川博氏と格闘になり、親指を骨折した。そのケガにより、翌年、阪神から近鉄へトレードされたが、わずか七勝に終り、その年で退団し、日本球界から去ることになった。
 バッキー投手の生まれた土地、ルイジアナ州南西部、レーク=チャールズは、アメリカ南部のフランス文化とカナダのフランス文化の影響を受けた伝統の地であることは、日本では殆どの人が知っていない。この地は、十八世紀以後、カナダのフランス系アカディア人が、フランスが抗争でカナダの領土を失って、カナダがイギリス領になった後、フランス領だったルイジアナ州に入植し、元々の同地のフランス文化に、カナダのアカディアのフランス文化を融合させ、地域社会を作り、独得のフランス文化圏を作った。この南西ルイジアナ州の一地域にある、カナダ系フランス文化をケージャン(CAJUN)文化という。ケージャンとは、カナダのアカディア(ACADIA)がルイジアナ風に訛ったものだ。  以下、アカディアを中心とするカナダのフランス植民地とそこへのイギリスの進出、ルイジアナ州のアメリカのフランス植民地の歴史を辿り、バッキー投手の住む、ルイジアナ州南西部の独得なケイジャン社会の生成過程とその文化、習慣を歴史的アプローチで論じてみたい。
 カナダのアカディアは、新大陸にスペインが植民をし始めた後、やや遅れ、一五二四年にバラサーノがセントローレンス川沿いから占領し、小さな植民地を作ったのが最初である。小さな集落で、一六〇五年ルイ十四世の時、リシュリュー宰相の植民地政策で、ポート=ロワイヤル港の建設がなされ、その時、正式な王室によるフランス植民地となる。その後、アカディアは一時、イギリスの進出によって、その植民地が奪われたが、兵力で奪回し、ブレダ条約によって再び、一六六七年にフランスの植民地となる。
 そうしているところに、イギリスの北米への進出、植民地化が一五八〇年から一六〇〇年以後、本格化した。ヘンリー=カボットやサー=ドレークの新大陸探険後、アメリカの大西洋岸を植民地化し、さらに北上し、アカディア地方からニュー=ファウンドランド島へ進出した。
 一六六〇年以後、イギリスで王政復古後、一六八八年名誉革命により、ジェームス二世国王の妹、メアリーが嫁いだオランダ、オラーニュ公ウィルヘルムが、メアリーと共同統治をし、ジェームズ二世を追放した事は、フランス王ルイ十四世との対立を生み、以後フランスとイギリスの抗争を多くの国々を巻き込んだ形で行う。それがヨーロッパに於ける戦争だけでなく、北米カナダでの英仏の戦争による植民地の奪い合いとなって行った。
 ヨーロッパに於けるウィリアム王の戦争(一七八九年︱一七九七年)、スペイン継承戦争(一七〇一年︱一七一三年)の戦いは、北米にも及び、英仏の戦争となり、軍事力で優位に立つイギリスは、スペイン領のフロリダの一部とフランス領アカディアをユトレヒト条約で得て、ノバスコシア(新スコットランド)とニュー=ファウンドランド島をも取得し領有した。
 さらにヨーロッパに於ける七年戦争では、カナダに於て、一層激しい英仏の領土争いになった。ハリファックス卿が、カナダ東部のフランス領(現在のハリファックス村)に向け、多くのイギリス人住民を入植させ、イギリスの植民地にしようとした。
 そして、英仏はセントローレンス川を挟み、領土進出、争奪戦となった。イギリスはアメリカのペンシルベニア西方から北上し、一方、フランスはそれを阻止するため多くの砦を築き、互いにインディアンを扇動していると主張し、戦いを始めた。これが北米に於けるフレンチ=アンド=インディアン戦争である。戦いの結果、イギリスが勝ち、一七六三年のパリ条約に於て、カナダのフランス領だったニュー=フランスはイギリスが領有し、同国の植民地はアメリカのミシシッピー河以西の現在のルイジアナ州、テキサス、アーカンソー、コロラド、ネブラスカ、ミズーリ、ノースダコタ各州を含む、ルイジアナ領地のみとなった。ニュー=フランス領をカナダで失った事により、フランス王室はカナダの毛皮や水産資源を失い、財政難となり、フランス革命に走る一因となった。
 後のアカディアより、アメリカのルイジアナへのフランス系カナダ人の入植について述べるために、その間のアカディアの事情を見てみる。カナダの中で狭くアカディアに絞って、そこへのイギリスの進出について見ると、一七一三年のユトレヒト条約でカナダ東岸のアカディアは一応、イギリス領となったが、実質上の統治は行なわれず、フランス系住民は数千人いて、なおも小さな砦が作られ、戦争は続いていた。が、イギリスの総督は、入植地ハリファックス建設後、イギリス人やドイツ人を移民させ、フランス人を圧制した。そして、一七五四年以後は、総督となったチャールズ=ローレンスは、フランス系カナダ人、約一万人を本気でアカディアから追放しようと決意した。
 一七五四年フレンチ=アンド=インディアン戦争が起きると、フランス人の抵抗を避けるため、一万人を船舶、教室、要塞などに収容し、拘束した。これが、後の第二次世界大戦で、イギリスではイタリア人、ドイツ人、日本人など敵性外国人をマン島に収容し、アメリカではカリフォルニアの日系人がアメリカ政府によってネバタ州などへの収容の歴史的先例となった。
 戦争後、一七六三年以後、フランス系住民は役人であった一部を残し、他は財産と権利を奪われ、アカディアやノバスコシアから出て行かなければならなくなった。それはフランス系住民が、イギリス総督に忠誠を誓わなかったからだ。よその土地へ移住した先は、フランス本国、その他のフランスの植民地で、この時、ルイジアナのメキシコ湾岸南西部へ移民した最初となった。
 当時、フランス領であった広い地域のルイジアナは、一七〇〇年代後半に戦争により、スペイン領になったりフランス領になったりしていたが、一七九〇年頃までにアカディアから約四千人のフランス系住民が、ルイジアナ南西部のメキシコ湾岸のレイクチャールス市周辺に移住入植し始める。そこで、従来から根づいていたアメリカ、ルイジアナのフランス文化と違う、カナダのフランス系文化を持ち込み、ルイジアナの文化と混じり、独得のフランス文化、アカディアが訛ったケイジャン文化を作り上げる。
 アカディアからの移民の多くが農民、漁民、毛皮商人であった。一八〇三年に、フランス革命後、財政難とイギリスとの戦争のため、ナポレオンは広大なルイジアナをアメリカへ売却することになる。
 ルイジアナ領を買収した当時のジェファーソン大統領は、イギリス流のコモン=ローの法体系の行政司法をルイジアナに植えつけようとしたが、フランス伝統の行政体制は変えることができず、フランス領時代の行政機構をそのまま使わざるを得なかった。民法、刑法、憲法(ナポレオン制定法)も今なお、ナポレオン法典の伝統を維持している。フランス文化も同様だ。アメリカ領となった後、一八三〇年以後はアカディアの漁民を中心にルイジアナのケージャン文化圏へ移民は続いた。
 ケージャン文化の特色は、言語、音楽、食、人種に見られる。  まず、言語についてであるが、フランス語をアカディアからルイジアナへ持ち込んだ事は間違いないが、一部古典フランス語、ドイツ語、そして英語の混ったもので、さらにルイジアナで独得の言語が作られることになる。そのケージャン=フランス語が、十八世紀から人々の間で話されていたが、アメリカ領や州になってから学校教育で英語を押しつけられ、生徒が学校でフランス語を話すと笑われたため、人々が話さなくなり衰退して行った。しかし、現在もディスクジョッキーやケージャン音楽を放送するケイジャン=フランス語のラジオ局が存在する。
 食文化については、独得なものがある。ザリガニを水田などで養殖し、そのゆでた物をスパイスやケチャップをつけて食べたり、スープにした物。エビ、ザリガニの手、ホタテを使って味つけした雑炊、お粥、シー=フード=ガンボー、独得のケージャンスタイルのピリ辛のフライド=チキンやフライド=ポテト、長いフランスパンをドッグパンのようにしてジャラペノ=ペッパーを入れたルイジアナ=ホット=ソーセージ、腸詰めのルイジアナ=ホット=ソーセージ=サンドウィッチ、これらはケージャン=フードとかフレンチ=ポーボー(PO︱BO)と呼ばれる。その他にブタの皮のから揚げ、米とソーセージのちまきなどがある。
 音楽には、ケージャン独得のバイオリンを使ったり、アコーディオンを使い、アカディア以来の伝統の民族衣装での舞いがあり、ケージャンの人々がパブなどに集まって、それらを聞き、楽しんでいる。そして黒人もアコーディオンや金物の洗濯板を改造した楽器の音楽を持っている。人種的にもフランス系白人と八分の一や十六分の一黒人の血が混じったルイジアナ=クリオール人がいる。
 バッキー元投手はレーク=チャールズ郊外のケージャン地域社会で生まれ育った。彼の名前、バッキーは、BACKEYという英語名でなく、BAQUEというフランス名であるのでもそれがわかる。ただ、フランス式にバックと読まず、バッキーと英語風に読んでいるのだ。
 バッキー氏は野球に入る前に、地元の州立大学サウス=ウェスタン=ルイジアナ大学で教育学部を卒業し、教員免許を取得していたので、日本球界から去った後、地元の小中学校で教えながら、阪神タイガース時代に稼いだお金で、故郷の家の近くに、東京ドームの数倍あるという、数万エーカーの牧草地を購入し、牧場を経営している。BAQUE RANCHという。これについては成功したようである。そして、バッキー氏は、自らの阪神タイガース時代の活躍、ピッチャーとしての勇姿を地元の人に知ってもらうため、自宅で当時の映像をビデオで上映し、人々に見てもらっている。
 ついでに言うと、バッキー元投手が教員免許を取得したサウス=ウェスタン=ルイジアナ大学には、地元ケイジャン文化と歴史の史料や資料を集めたケイジャン文化研究所(THE INSTITUTE OF THE CAJUN CULTURE)が存在し、そのケイジャン文化、歴史については、全米の他の大学や博物館、その他では見られない膨大な資料を持つケイジャン文化の研究のための随一の資料館である。
 私的な話であるが、筆者は一九八〇年代半ばにテキサス州ヒューストンにある黒人大学テキサス=サザン大学の歴史学部に在学し、修士号を取ったのだが、その間に顔だちが殆ど白人に似ている黒人の血が十六分の一入っている大変太った大柄なルイジアナ、クリオール人のロー=スクール(法学大学院)の学生と相部屋であった。
 この男子学生は、当時はUCLA(カリフォルニア大学、ロサンゼルス校)で学士を取り、テキサス=サザン大学のロー=スクールに来ていて、自宅は当時、カリフォルニアであったが、以前はルイジアナ州、レーク=チャールスの近くに住んでいた。そして、そこに親類もいて、時々訪ねていた。ルーム=メイトとしてバッキー元投手の話をしたが、大変よく知っていて、地元の人々にはバッキー元投手の阪神タイガース時代の活躍が、かなり知られているようだった。ケイジャン文化地域の誇りのようだ。
 昭和三十九年に日本シリーズで、南海ホークスと投げ合ったジョー=スタンカ投手の地元がテキサス州ヒューストンである事を考えると、すぐ隣に住むアメリカ人の投手二人、即ちバッキー(阪神)とスタンカ(南海)と二人の百勝投手を、セ・パ両リーグで輩出したのだなと思うと興味深い。
 バッキー投手とスタンカ投手の投げ合った阪神、南海の昭和三十九年の日本シリーズの試合は、ルイジアナ州のケイジャン=フランス社会とテキサスのイギリス文化の形を変えた戦いだったと言えよう。
 その後、引退したバッキー元投手は、昭和五十年以後から六十年代に何回か日本を訪れ、大阪のUHF局サン=テレビで阪神戦の中継に、ゲストとして招かれ、阪神タイガースの同僚選手であった解説者鎌田実氏と、日本テレビの対巨人戦では村山実氏と、たどたどしい日本語で阪神時代の思い出や解説のようなことを話していた。
 バッキー氏ほど阪神の現役時代に、便所や食生活、風呂など、慣れない日本の生活に敢えて慣れようとし、日本の習慣に合わせようとしたアメリカ人選手は他にいない。その過程で、他の選手と融け込み、英語と日本語の会話帳を駆使し、日本語を習得したから、それが出来たのだ。一度は阪神や他の球団でコーチや監督をやらせたい人だった。
 日本にケイジャン文化の香がする所が一つある。一八三〇年のルイジアナで創業したフランス風カフェオレの喫茶店、カフェ=デュ=モンド(CAF`E DU MONDE)である。ここの横浜店ではケイジャンに近いスィーツとカフェオレがルイジアナの味で、アコーディオンを使ったケージャン音楽をBGMとして使っている。
 バッキー投手の阪神時代の活躍の姿を覚えている人は、カフェ=デュ=モンドへ行き、スィーツを食べ、音楽を聞き、束の間のケイジャン文化に浸り、バッキー氏の顔を思い出してはいかがだろう。

  参考文献と資料

 別冊ベースボール=マガジン「阪神タイガース60年史」 陽春号 平成7年 ベースボー ルマガジン社
 「アメリカの町」︱ルイジアナ州、ユーニス、ケージャン音楽と文化 BS︱TBS 平成二十三年五月四日放送
   GRAND DICTIONNAIRE ENCYCLOPEDIQUE LIBRAIRE LAROUSSE PARIS 一九八〇年 VOL1
   ENCYCLOPEDIA AMERICANA INTERNATIONAL EDITION CROBEL INCORPORATED 一九九二年 VOL5、17
 
  JAMES OLSON THE ETHNICAL DIMENSION OF THE AMERICAN HISTORY HARPER&ROW 一九八一年

                  (
(流星群第27号掲載)



キング牧師暗殺の疑問

――史料による検証と私的捜査による検証


 一九五〇年代以来、何回か逮捕されながらも種々の差別と戦った偉大なる黒人リーダー、マルチン=ルーサー=キング牧師は、一九六八年四月四日、テネシー州メンフィス市のロレーヌ=ホテルに於て凶弾によって暗殺された。キング牧師の暗殺については、ケネディー大統領の暗殺のように、公衆の面前で行なわれ、狙撃された方向が複数であり、狙撃犯人が本当に単独犯人であるか、種々の本などで異論が唱えられたのと異り、キング牧師を狙撃した犯人が暗殺を本当に実行したのかどうかについて、あまり異論がなく、疑問が唱えられていない。しかし、ごくわずかだが、キング牧師暗殺の資料があり、それを参照してみると、暗殺犯について大いなる疑問が湧き、検証してみる必要があると思われる。以下について資料を参考にした上で、私自身のキング牧師の暗殺現場ロレーヌ=ホテルでの現場検証捜査を記し、かつ、キング牧師暗殺犯が囮にされた犯人で、実際の犯人が至近距離から撃った可能性について述べてみる。
   (一)史料による暗殺の検証
 まず、キング牧師暗殺の経過を簡単に述べてみたい。一九六〇年代に、アメリカ、テネシー州メンフィス市では、市の黒人下水道局の清掃夫達が低賃金で劣悪な労働条件の下にあり、なかなか改善されずにいた。そこで黒人労働者達は、一九六八年三月、労働条件改善と黒人の労働者組合設立を求め、ストライキに入った。しかし、市長はそれを拒否し、ストの黒人を解雇し、非スト黒人を残し、白人の労働者を代わりに雇用したので、黒人労働者達は市内でデモ行進を行い、警察官と衝突して投石が行なわれ、暴動寸前に至った。
 そんな状況下、地元の教会関係者や黒人の南部諸州のキリスト教団体やその中心の南部キリスト教指導者会議(SCLC)が、黒人労働者を支援する動きを示していた。
 キング牧師は三月二十八日にメンフィス市入りし、教会で演説した後、ロレーヌ=ホテルに投宿し、彼が同年四月二十三日メンフィスで「貧者の行進」を計画し、支援者の黒人牧師、ラルフ=アバネシー牧師、ジェシー=ジャクソン牧師、そして後の国連大使、アンドリュー=ヤング氏と計画について話し合っていた。その間、連邦地方裁判所は、政府の求めでキング牧師達の行進を禁止する命令を出すべく、キング牧師に出頭命令書を裁判所書記官が手渡していた。(P
29‐P81) ※ジェラロルド=フランク著・木下秀夫訳、「キング牧師暗殺事件―あるアメリカの死」 早川書房 昭和四十八年初版 洋書名 GEROLD FRANK AN AMERICA DEATH WILLIAM MORRIS AGENCY一九七二を参照した。文の下にカッコで頁を記す。以下も同じ。 キング牧師は一九六八年四月四日、宿泊先のロレーヌ=ホテルの三〇六号室前のバルコニーの所で、前の道、マルベリーストリートの向いの丘の上にあるサウス=メインストリート四一八︱三、労働者用簡易宿舎、間貸屋の5B室の浴室の窓から、同室に宿泊していた、エリック=ゴールトによって、ライフルで後から右アゴを撃たれたとされている。(後の捜査でゴールトはジェームス=アール=レイが本名だと判明)
 キング牧師がロレーヌ=ホテルのバルコニーでアール=レイに撃たれるまでのレイの生い立ちと、犯罪の前歴について、そして暗殺に至るまでの移動経過について触れてみたい。
 アール=レイはミズリー州の小さな貧しい村でアイルランド系アメリカ人の極貧の家庭に生まれた。家の回りには、同じく極貧の白人達が住んでいた。レイの家庭では一日わずか七十五セントしか食事に回せないほど貧しかった。そして、レイの回りの白人達は、白い肌を持っているということが、同じく貧しい黒人より上であるという誇りがあった。
 レイは学校をわずか一年ぐらいで落第し、兵役に就くが、能力不適応で、早くに除隊することになる。その後、レイは金めの物を奪う犯罪を重ねることになる。一九五二年から五九年までの間に、強盗、タクシー強盗、詐欺、強盗殺人を犯し、二度刑務所に収監されていた。キング牧師暗殺の前までは、ミズリー州ジェファーソンシティーの刑務所に収監されていた。
 その独房は、黒人に対して憎悪をいだく多くの白人達が収監されていた。レイは白人が貧しいのは、黒人が貧しさから脱出しようとして、白人の職を奪うことになるからだと思い、黒人を憎むようになった。そして、獄内で「キング牧師を殺せば多額の奨金を得られる」という噂を吹き込まれる。レイはキング牧師を暗殺すれば報酬が得られると信じ脱獄する。その方法は、脱獄が厳重なはずのところ、パンを運ぶカートの中にレイが隠れ、監獄の外に出て、近くの鉄道の線路沿いに歩き、アラバマ州バーミンガムで中古車のムスタングを買い、家族のいるシカゴへ行き、二人の兄弟と会うことになる。極貧の生活をしていた家族は、ポルノをやろうとしていたが、レイはキング牧師暗殺をほのめかす。
 その後、アール=レイは、カナダのモントリオール、メキシコで売春婦と過ごし、ロサンゼルスに四ヶ月ほど滞在する。ここでレイは、ダンスを習ったり、カギ師の職業訓練やバーテンダーの学校を出たり、出所後の手に職をつける行動を取っている。そしてキング牧師がロサンゼルスで演説したのを聞き、キング牧師の住むアトランタに住居を移し、暗殺の機会を待った。三月になって、アラバマ州モントゴメリーへ行き、スコープ付きのライフル銃を買い、三月二十八日にメンフィス市に入り、市内のモテルに宿泊し、監獄から持ち出したトランジスターラジオでキング牧師がロレーヌ=ホテルの三〇六号室に宿泊していることをつかみ、暗殺の数日前に、向い側の労働者用間貸屋の一室を借り、暗殺に備え、近くで双眼鏡を買い、キング牧師を浴槽の窓から監視していた。そして暗殺を実行した。
 ゴールト(レイ)が犯人とされた根拠はいくつかある。まず、ゴールトの名が宿帳にあり、キングが撃たれた時間帯に5B室浴室からライフルのような布に包まれた物を持って出て来たのを隣人に見られている事(P
134‐P136)。さらにそれを持ってかかえて宿の外へ逃げ去ったのを目撃され(P295‐P296)、同間貸屋の近くの店からレイ所有のアラバマ州ナンバーの白いムスタング車に乗って逃げたのを目撃されている事(P131)。そして、ゴールトは前の日に別のホテルに投宿し、メンフィスに犯行時にいたことのアリバイがある事(P307)。近くの銃砲店でケース入りのライフル銃を購入したのを目撃されている事(P90)。また、近くのバーでゴールトが黒人二人によって目撃されている事(P138)。同じ銃砲店の前で間貸屋宿で目撃されたライフル銃が店先に破棄されていた事などである(P131‐P132)。
 キング牧師暗殺者の捜査は、まず幾人かのメンフィス市警の警察官が駆けつけ、非常線を張った。そして、キング牧師が黒人運動を支援をし、当局が取り締まっている重要人物なので、FBIが暗殺犯を全国的手配をした。捜査の過程でゴールトなる人物は、前年の三月にミシシッピー州の刑務所を脱獄したジェームス=アール=レイである事が判明し、セントルイス、ニューオーリンズ、ロサンゼルス、メキシコなどへ移動して暗殺の前にメンフィスに入り、暗殺を決行後、白のムスタングでアトランタへ行き、その後バスでカナダへ行き、偽名の偽造パスポートでロンドンに渡り、さらにポルトガルから白人主義者の国アフリカのローデシアに行こうとしたが、アフリカ行きの船がすでに出航していて、仕方なくロンドンへ戻った時、アメリカの司法当局の共助手続きによりロンドンで拘束されメンフィスに護送され、州の裁判所で刑事起訴された。
 裁判に於ては、レイが実行犯としては疑惑があるので弁護士が公判で反証しようとしたが、レイは取り調べでラウルという人物に多額の報酬で依頼され、単独犯として殺人を行ったと認めたが、三日後に否認し、裁判で争ったが、九九年懲役刑に自ら服した。そして一九九八年に獄中で死亡した。
 ところがレイが犯人として疑わしい根拠がいくつかあるのだ。レイが向い側の間貸屋の浴室から撃ったとする証言が確実でない事(P
307)。それにレイの公判担当の弁護士の依頼で探偵が森でヤギをキング牧師に見立てレイが撃った同じ角度から撃った所、角度から言ってキング牧師殺害は不可能だという結論を持った事(P292)。また、キング牧師を病院に車で運んだ人々の話では、同氏は右アゴに穴があき、体の方々に複数の被弾痕があった事(P294)。この事は色々な角度から撃たれた事を示す。また、ホテルの斜向い側の消防署員の妻が、ロレーヌ=ホテルの内部から撃ったのを見たという証言(P294)。間貸屋のウラの茂みの中で撃って逃げた別の白人がいたとする証言がある事である(P295)。さらに、キング牧師が撃たれた時、すぐに掛け寄って介抱したナゾの白人がいた事(P117)。これらの証言は公判で取り上げられなかった(P301)。
 他に、ライフル銃の弾丸がキング牧師の体内を貫通したものであるという科学的証明がなく、指紋も一致しないなど(P
292)。
 このようにキング牧師の暗殺犯をレイだと断定するには大いに疑問がある。
       (二)筆者(黒田昌紀)によるキング牧師暗殺現場捜査検証
 筆者は昭和五十八年十二月より翌年一月末までキング牧師の暗殺現場、以前から黒人が主として泊まるロレーヌ=ホテルに滞在した。当時筆者はメンフィス州立大の歴史学の博士課程に在籍中であった。
 同ホテルは昭和三十年代に繁華街であったミシシッピー川沿いの土手の高い所にあるメインストリートから一区画入った、消防署の角を曲ったマルベリーストリートにある。
 同ホテルの間取りは次の通り。通りから入って左手に受付のガラス張りの開き戸のある事務所があり、その上がジャズアーティストBBキングが泊ったシャンデリアの特別室がある。その右手にプールがあり、奥に広い駐車場があり、その奥に二階建てのモテルがある。二階建てで下は二〇一号室から二一五号室、上に三〇一から三一五号室があり、鉄の手すりがあり、下に向う階段があり、二〇七号室の所、そして二一五号室の所にあった。二階は部屋の前がバルコニーになっている。キング師のいた三〇六号からバルコニーは、三〇七号室が一部屋分奥に引っ込んでいるのでカギ形に曲っていた。キング牧師は上の三〇六号室に泊まり、暗殺後はこの部屋をガラス張りし、花輪が飾られた記念館になっている。筆者は下の二〇五号室に滞在した。モテルの左手は、旧ホテルでうす茶のレンガ作りで、従業員などが滞在していた。
 当時いた人は、黒人の経営者のウォルター=ベイリー氏と兄のオーティス=ベイリー氏、すでに二人共六十代の黒人で、他に料理人のスコービー、受付のジャッキー=スミス、若い黒人の売春婦二人とカルヴィン=ブラウンがいた。筆者は同ホテルで料理を作ってもらって、この人達と一緒に食事をしていた。
 さて暗殺についての検証であるが、私が現場検証による捜査をした結果、レイが犯人ではない疑いがある。向い側のレイが撃ったとする労働者用の間貸屋は、当時すでに廃屋、空家になっていたが、入口から入りレイが撃ったとする5B室の窓からロレーヌ=ホテルのキング牧師の部屋を覗いてみた限り、レイがキング牧師を暗殺するのは角度から不可能であると思われる。その理由は、レイがいた部屋から見てキング牧師の三〇六号室は右斜め水平に約四十五度、垂直に三十度から四十度の角度になる。直線で約二百フィートの距離である。そこからキング牧師のアゴを撃つのは可能であるが、弾丸は斜め上の方からなので、首を貫通していなければならないが、後で述べるように遺体の写真では、そのような形跡がない。また当時のメンフィスの写真屋アーネスト=ウィザース氏の撮った写真によると、倒れ方が不自然である。キング牧師のいた三〇六号室は三〇七号室が一部屋分奥へ引っ込んでいるので、前のバルコニーがカギ形に曲っていて、キング牧師は道の方へ足を向け、三〇七号室への三〇六号室の横の壁に沿って倒れているのだ。もしレイが道路向い側の労働者用間貸屋の浴室から撃ったなら、キング牧師は部屋のドアの所で撃たれ、ドアに寄りかかり仰向けに倒れるはずである。
 そして当時、経営者のウォルター=ベイリー氏に、キング牧師が柩に入った未発表の写真を見せてもらった限り、葬儀屋の死体手術で整形されていたが、書物で言われているように右アゴが砕けておらず、左アゴに下からつき上げるような弾痕があった。このことは、二〇八号室の前の駐車場あたりから上へ、横斜めからキング牧師を撃ったことを示している。するとレイ以外に致命傷をキング牧師に与える弾丸を撃った者がホテルの敷地内にいる事になる。そしてキング牧師の死体には数ヶ所の弾丸による傷がある事から、道を挟んだ向い側の労働者用の間貸屋の茂みから撃った人間がいた可能性もあるし、キング牧師をすぐに介抱した白人が至近距離から撃った可能性もありうる。また。ロレーヌ=ホテルの敷地内にいたキング牧師に反対する黒人が撃ったかもしれない。
 レイは向い側の間貸屋の浴室から発射をしたのは事実であろう。その点、暗殺直後のキング牧師の倒れた三〇六号室でヤング氏やジャクソン師などが向い側の間貸屋の窓の方を指差している写真が残っている。しかし、囮の発射で、実際には別の者が至近距離からアゴを撃ったのだろう。
 そのような暗殺の背景には、流星群十二号のケネディー大統領の暗殺に関する作品で、ケネディー、マルコムX、ロバート=ケネディー、ウォレスの犯罪は、FBIの陰謀と述べたが、手口が共通していて、逮捕された犯人アール=レイは囮で、実際の犯人は至近距離で撃っている可能性がある。キング牧師の暗殺もレイに発砲させ、実際には同時に二〇八号室のあたりと、間貸屋の外の茂みからも撃っている可能性が高い。
      (三)キング牧師暗殺に関するFBIの陰謀の可能性について
 キング牧師暗殺の裏にはFBI長官エドガー=フーバーの陰謀が感じられる。
 FBIにとって、キング牧師がメンフィスを訪れ、三月二十八日のメンフィス市の清掃局職員のストライキをした時に、それに参加し、結果的に警官隊と衝突し、小暴動化し、さらなる支援活動として来たる四月二十三日にメンフィス市に於ける貧者であり、かつ、低賃金労働者である黒人の清掃局職員を支配し、「貧者の行進」を実行しようとしていたことが大変な脅威であった。
 前年から、キング牧師の弱者黒人を支援する闘争の方針に変化がみられた。それまではキング牧師は、レストラン、駅、学校、劇場などの公的な場所で、黒人を白人と共同使用させるのを引き離し隔離する制度に反対し、抗争するやり方から、貧しき人々にデモや行進をして貧困を根本的に改善するために、政府に貧困改善を求めるという「貧者の行進」を進めようとしていた。
 前年の一九六七年十二月に人々の前で講演をし、黒人ばかりでなく、貧しい白人やメキシコ系米人など貧困に喘ぐ人々、総てをワシントンに集結させ、政府に極貧を根本的に改善する改革を求めようという「貧者の行進」を、翌年一九六八年一月に行うことを計画していた。
 そんな時に、三月にメンフィス市に於て、市の黒人清掃局労働者のストライキが起った。彼らは八十五セントという時給よりも七十セントも下回る低賃金しか支払われず、さらにゴミを掃する仕事にも拘わらず、風呂で体を洗う設備が供給されず、ウジが付いて、バスにも乗れず、歩いて帰宅していた劣悪な労働条件にあった極貧の黒人が、メンフィス市長に改善を要求したが受け入れられず、市長の反対にも拘らずストライキを行ったのを、キング牧師はメンフィス市に於ける「貧者の行進」として支援したのだった。
 結果として、警官隊と衝突し、小暴動を起こした。そして、さらに四月二十三日には、裁判所の禁止命令書を受け取っていたにも拘らず、それを無視してさらに「貧者の行進」をメンフィスで実行することをFBI長官フーバーは大変懼れていた。
 それまで、一九六五年のロサンゼルスの暴動や、一九六七年のミシガン州デトロイトやニュージャージー州ニューアークでの黒人の放火や略奪による大暴動が起きて、社会の脅威になっている背景で、キング牧師が裁判所の命令を無視して、さらなるメンフィス市に於ける「貧者の行進」を決行することは、ストライキの時、すでに、警官隊との間で小暴動となっているのに、さらなる黒人による大暴動がメンフィス市で起き、全米に黒人による大暴動を誘発しかねない。フーバー長官は、この暴動が全米に於ける黒人革命とも成りかねないと憂慮した。
 それ故、キング牧師を何とかしなければ、このまま放置すれば取り返しがつかないと思い、秘かに暗殺しなければならないと、計画した可能性がある。そこで、FBIフーバー長官は、暗殺する実行犯として、アール=レイを選び、労働者の間貸屋宿泊所B5号室の窓から、向い側のロレーヌ=ホテルのバルコニーに出たキング牧師を撃たせ、実際には別の真の暗殺者を用意し、近い所からキング牧師に向け撃たせ、暗殺させたのである。そしてアール=レイは囮の暗殺者として逃がし、指名手配にし逮捕したのだった。
 ちょうど、ケネディー大統領暗殺の時に、実際には別に撃った者がいるのに、教科書会社のビルの六階からオズワルドが単独で撃ったとして囮の犯人として逮捕されたのと同じやり方である。
 アール=レイがキング牧師暗殺犯の囮の実行犯として、仕立てあげられたと思われる状況的証拠が幾つかある。
 まず第一に、アール=レイが貧困な生い立ちを持ち、白人として黒人に対して強い偏見を持っている人間として選び、キング牧師に対して暗殺する動機を持つ者として、囮の暗殺者として仕立て上げたのだ。刑務所でアール=レイを黒人に偏見を持つ白人が多く入った独房に入れ、「キング牧師を暗殺すれば名声と報奨金が貰える」などと噂を立て、吹き込み、アール=レイにキング牧師暗殺の動機つけをしたのも、意図的にFBIが刑務所に働き掛け、行ったものと思われる。ちょうど、オズワルドがソ連にいた経験や共産主義者の活動をさせ、ケネディー大統領暗殺犯として仕立て上げられたのと似ている。
 第二に、アール=レイが脱獄が大変難しく不可能に近い刑務所をいとも簡単に脱獄している点である。パンを運ぶ荷車に刑務所内で隠れ、容易に発見されず脱獄しているが、警備が厳重な刑務官が気が付かないはずがない。これは、FBIが刑務所側に圧力を掛け逃がした疑いが大きい。
 さらに、脱獄しても脱獄犯として刑務所も警察も、指名手配をせずに積極的に追跡をしなかったことだ。これはFBIがアール=レイを囮のキング牧師暗殺犯として仕立てるために逃がし泳がした可能性が高い。不審なのは、アール=レイが脱獄後逃亡するため、中古車のムスタングを買ったり、暗殺実行までの間だ一年ぐらい全米、カナダを転々と移動した資金として五千ドル以上所持していた事である。FBIはこの点に関してはラウルなる人物から、アール=レイは多額の報酬を受け取って、キング牧師を殺害した共同謀議であるという捜査結果があるにも拘らず、アール=レイの公判ではそのことを否定している(P
330‐P340)。ラウルなる人物は架空の人間で存在せず、FBIがアール=レイを単独暗殺犯に仕立て上げるための陰謀を企てた疑いがある。これはFBIが暗殺資金を用意して、アール=レイに提供した可能性が高い。
 また、前述のように獄中に於て、「キング牧師を暗殺すれば名声と報酬が得られる」とアール=レイが洗脳されたとしているが、レイにははっきりとしたキング牧師を暗殺する動機がまったく見当たらない。また、このことについて公判でも立証されていないのだ(P
308)。この点についてもFBIが、アール=レイを暗殺犯に仕立てあげる陰謀を感じる。
 さらに、アール=レイが暗殺犯人でないではないかと疑わせるのは、レイが暗殺時にいたとする間貸屋のB5室にいなかったとする疑いや、暗殺後、犯人はムスタングで逃げ、アトランタで乗り捨て、バスでカナダへ逃亡した人間はレイではなかったという証言がある。にも拘らず、公判でテネシー州政府の圧力で証言されなかった。これもFBIが証言を差し止めるよう、州政府に圧力を掛けた陰謀の疑いがある。FBIがキング牧師を消防署の所から二人の黒人によって、暗殺前から監視させていたのも、FBIが暗殺を企てた傍証とも言える。(P
70‐P73
 最後に、キング牧師以外のもう一人暗殺の犠牲者がいた秘話を紹介したい。キング牧師が暗殺されたホテルの経営者、ウォルター=ベイリー氏の夫人は、八分の一黒人で白人の血が強い、ルイジアナ=クリオール人であるが、キング牧師が被弾し、倒れるのを見て、ショックでクモ膜下出血を起こし倒れ、病院で数日後に亡くなっている。夫人の遺品が、三〇六号室の記念館に飾られている。なお、キング牧師の暗殺されたロレーヌ=ホテルは、建物を残し、アール=レイが撃ったとされる道路の向い側の労働者間貸屋と、消防署と共に、大きな立派なビルを建て、国立公民権博物館になっている。一九九三年の設立であった。

  
その他の参考資料
 プレミアム(文化・芸術 世界史発掘)時空タイムズ=キング牧師暗殺の謎に迫る。 二〇一〇年十一月二十三日、NHKハイビジョン放送 ゆらり散歩、世界の街角、メンフィス 二〇一一年五月十四日 BS・TBS放送
                      (流星群第26号掲載)
 


アルバニアと他国との通貨統一による経済
破綻、アメリカの百年以上の通貨発行をめ
ぐる商工業、農業州間の抗争との比較検証

 一九九二年のマースト=リヒト条約により民族、言語、人種の違うヨーロッパの国々は連合して長年の夢であった経済市場の統一、通貨統一を成し遂げた。同条約の発効する一九九七年ごろから徐々に、各国通貨から統一通貨に変わり、二〇〇〇年頃から軌道に乗せて来た。
 しかし、その後、農業不況、経済不況などに対し、統一した執行機関欧州委員会や欧州中央銀行(ECB)もEU加盟国全域にわたる統一した金融政策を取れず、EU加盟国、各国の金融政策に頼らざるを得ず、強い金融政策と通貨政策を行い得なかった。また、EU内の国々にあって、工業力が強く、貿易などで競争力のある国々と、主として農業国で、工業力の弱い国々との間で、経済市場と通貨統一したことで、ますます格差を広げる大きな矛盾が露呈して来た。
 このようなEUの民族、言語、面積、人口の違った国々を集めて市場統合の下に通貨を統一するのはいかに困難であるかは、過去に於いて一九〇〇年代のユーゴスラビアとアルバニアの間で交わされた相互援助条約に基づく経済市場統合により、アルバニアの財政経済の破綻、十八世紀に於ける中央銀行である連邦銀行を支持する工業・商業を主とする北東部と農業や開拓移民のために自由な紙幣の発行を求め、州立銀行を求める南部、西部の人々の対立と十八世紀後半銀鉱が西部で発見され、金と一定の比率を基準に、大量の銀貨を求める西部と、金本位のみを求める北東部などの興業・商業地帯の対立の例が見られる。
 違った国々はおろか、国内であっても通貨統合はいかに困難かの歴史的経験が、EUの通貨統合にまったく考慮されなかった。そこでEUの通貨統合、市場統一のなされる過程と、アルバニア、アメリカの銀行、通貨発行をめぐる農工社会の対立などの歴史的事例を比較し論じる。

 (1) EUの通貨統一の過程と通貨統一の困難によるスペイン、ポルト     ガル、ギリシャなどの財政破綻の原因分析

 ヨーロッパの国々はローマ帝国崩壊以来、中世の領主領で成り立ち、その上に国王がいてという体制で、それぞれ言語、人種、民族性、経済の異なる国々が、現在に至るまで、領地を奪う戦争を起こし対立していた。
 このような中で、中世以来、民族性、言語の異なるヨーロッパの国々を統一する思想は、中世のフランス国王顧問、ピエール=デュポア、第一次世界大戦後のオーストリアの外交官カレルギーの唱えた「汎欧州」、フランス人のジャン=モネの「欧州統合」案、ウィンストン=チャーチル英国首相の唱える「欧州合衆国」案など存在したが、どれも戦争回避のための欧州統合論に留った。
 ヨーロッパの国々の統合の最初のきっかけは、戦後復興のため、アメリカの財政投入による「ヨーロッパ復興計画」であった。第二次大戦後、ヨーロッパ各国は大戦禍に見舞われ、自力では自国の財政を立て直せなかった。ヨーロッパは連合国が軍事占領をした西側諸国と、ソ連が軍事占領した東欧諸国に分かれ、占領した東西の国々の経済財政をどう立て直すかについて、占領国とソ連の外相会談の意見が合わず、決裂した。そうしているうちに復興を早くしなければならない必要性に迫られ、西側の連合国か占領した国々については、一九四七年、アメリカが西側各国の財政に資金投入し、立て直した。これに対抗してソ連は東側諸国に共産主義体制を植えつけ、一九四九年にコメコン(経済相互援助会議)をつくり、西側と東側で経済政治軍事体制で対立する冷戦体制となる。そして、弱小国のベルギー、オランダ、ルクセンブルグ三国は関税の壁をとりはずし、一早く市場統合を果した。
 その後、ヨーロッパ全体の産業を、戦禍から復興させるために、製造業に必要なエネルギーと材料を確保するためと、石炭や鉄鋼を各国に等しく分配するために、共同市場を持つ必然性が生まれた。そこで、欧州石炭鉄鋼協定(ECSC)が独仏伊蘭、ベルギー、ルクセンブルクの各国の参加を見て、最高機関、諮問機関、各国代表の閣僚理事会、そして石炭、鉄鋼の取り引きを解決する裁判所組織も持ったが、それはあくまで、鉄鋼や石炭に関する取り引きのみの統合であり、完全なる市場、経済統合、通貨統合には至らなかった。
 その後、戦後、早急に市場統合したベネルクス三国は貿易黒字になり、多少の市場統合で経済繁栄の成功を見たので、独仏伊三国に呼びかけて、一九五五年にECSCの下で、イタリアのメッシーナで外相会談を催した。その会議の中でベルギーの外相スパークは、財政、経済、労働移動などの社会政策をヨーロッパ各国の共同体で行える市場、経済機構の設立を唱え、一九五七年にローマ条約でヨーロッパ共同体(EEC)が設立された。加盟国の域内で経済の自由を唱った市場統合で、関税、共同の農業、運輸、労働政策など共通の経済活動を取ることになった。欧州委員会加盟国の閣僚会議、欧州投資銀行、欧州社会基金などの機構組織を持つことになった。
 電力、原子力、ガスなどのエネルギーについては、同時期エジプトのナセル大統領のスエズ運河の国有化に伴い、アラブの石油の供給危機が予想されたため、原子力をヨーロッパで共同して分配利用するための欧州原子力共同体(EURATOM)も同時に設立された。
 これに対し、イギリスは北欧のスカンジナビア諸国やポルトガル、オーストリアなどと共に貿易の自由な取り引きによる経済の交流を目的とする欧州自由貿易連合(EFTA)を設立する。しかし、一九六〇年以後、イギリスは貿易赤字による国際収支の悪化でEECに加盟をし、またEFTAに参加したポルトガル、オーストリア、フィンランドなどがEECへの加盟を申し出た。EFTAの効果や結束力は弱かった。
 そして、一九六七年に、欧州共同市場(EEC)、欧州石炭鉄鋼協定(ECSC)、欧州原子力共同体(EURATOM)を統合し、オランダのハーグに欧州理事会を開き、将来の共同市場統一を目標としたヨーロッパ共同体と改組、改称した。
 一九八五年、フランスの経済学者で、元財務相のジャック=ドロールの主導による欧州委員会によって、共同市場内の関税、資本の投入、農産物の市場への自由供給、旅券の自由化などを求めた単一欧州議定書を出し、ECをより強化なものとした。
 通貨統合に関しては、多くの小国の集まりで国の国境ごとに為替相場があり、それぞれの国の通貨を交換していた不都合を解消する為、統一通貨をEC諸国で流通させ、為替相場を安定させ、よりスムーズなヨーロッパ広域市場の経済政策が望まれた。一九七九年に欧州通貨同盟(EMU)が設立され、各国通貨の為替相場の変動幅を規制し、その安定を図った。
 そして、一九八七年のマースト=リヒト条約が調印され、EU加盟国内の市場の経済統一と通貨統一に向け、一番具体的な基本方針が合意された。一九九七年から一九九九までの間に、各国の為替相場幅の安定、次に欧州銀行発行のEU下の欧州中央銀行(ECB)の発行する通貨と各国通貨との為替相場の安定、レート設定、そしてEU通貨を統一したEU加盟国で流通させる三段階を踏み、ユーロによる完全通貨統一が実現した。
 その間に、一九九七年のアムステルダム条約、二〇〇〇年のニース条約、二〇〇一年のリスボン条約などが加わり、本来のEUの趣旨の加盟国内の市場統合、通貨統合の他に、EU内での福祉、人権問題、労働の移入と労働条件、難民の受け入れとその扱い、知的財産の保護などの取り決めも加わり、ヨーロッパ加盟国の間でEUの機関として、多くの組織が整備された。EUの憲法案がまとめられ、欧州委員会(行政執行機関)、欧州理事会、欧州会議、欧州司法裁判所、欧州中央銀行の他に多くの諮問機関と内部事務部局が設置された。加盟国もデンマーク以後の北欧諸国、ブルガリア、ルーマニア、オーストリア、アイスランドの国々が加盟する予定である。
 EUの通貨統合以後の金融政策は、一九九五年のマドリードの欧州理事会で欧州中央銀行(ECB)の設立が決められ、ユーロの発行と各国の交換比率が定められた。それ以来、EU通貨統一後は、EU通貨の信用を図るため、EUに加盟すべき国の条件を設けた。まず、加盟国の国内物価上昇率が年一%以内で、インフレ率二%以内、財政赤字三%以内とした。そして、GDP、つまりマイナス成長三%で、財政赤字三%以上出した場合、EUに〇・〇五%の預託金を無利子で提供するというものであった。
 統一通貨ユーロの発行は各国が行い、ユーロのマークの他、発行国の英雄やシンボルをデザインしている。
 このように、EU諸国の通貨統一と加盟国の共通市場を持つことによって、EU諸国内の経済安定や物価安定を図ったが、二〇〇〇年以後、EU経済、金融は安定したかに思われたが、数年にして、EU全体の経済不安に基づく金融政策に、各国の間で乱れが露呈して来た。通貨統一後も、EU諸国全体の金融政策は取れず、欧州委員会も欧州理事会、欧州中央銀行(ECB)によるEU諸国に対する監督権がなく、金融政策については、EU諸国の政府や中央銀行に委ねられている。従って、ドイツとかフランスなどの政府や中央銀行の政策がEUの全金融政策に影響し、その他の諸国の金融政策に影響しやすくなっている。
 二〇〇一年の経済不況や農業不振による経済不安定期にも、欧州中央銀行は通貨(ユーロ)の安定に各国の国債買い入れや公的資金投入にEUの役割は十分でなく、イギリスやアメリカの主要銀行に橋渡しをしただけである。利回りや各国の信用度が違い、買い入れが困難だからだ。
 また二〇〇八年のサブプライム問題の時にも、EU委員会の執行部や欧州中央銀行は、サブプライムによる世界的経済不況によって、各国の倒産企業を救済するにも、公的資金投入を欧州理事会で加盟国の閣僚たちの決議を得たが、結果的にはイギリス、フランス、ドイツなどの中央または主要銀行に委ねられた。アメリカの主要銀行にも救済を求めた。欧州中央銀行は中央でEU各国の金融政策を統制することが出来ないでいる。
 さらにEU市場統合をした結果、深刻な問題が起きた。平成二十年頃までに、財政破綻をした国々がいくつか出始めている。ギリシャ、スペイン、ポルトガル、アイルランドの国々である。それらの国々は、国際通貨基金(IMF)から公的資金を投入してもらい、財政再建が検討されている。これらの国々に共通することは、工業国ではなく、農業、漁業、観光立国であることだ。そして、国力としての経済は弱い国々である。
 ざっとおさらいしてみると、まずギリシャは工業力が約五〇%しかなく、残りは農業、漁業、歴史的名所旧跡が多く、観光収入である。輸出額は輸入の三分の一しかない。
 ポルトガルは農業と製造業があるが弱体的で、石油、機械、綿花などが輸入で、輸出はコルク、ワイン、鉱物で輸入が五〇%ぐらい上回る貿易赤字で、さらに軍事費が財政の二分の一にもなり、間接税が直接税の二倍の超弱財政国で、スペインに習い観光収入とブラジルへの移民の仕送りで補っている。
 アイルランドは工業は二十六%、農業三〇%、その他観光収入と海外へ出稼ぎに行った人々の送金で補っている。
 このようにEU通貨統一後財政破綻した国々は、政府が財政粉飾決算をしたギリシャ、それを考慮しても、ギリシャも含み、農業国と観光立国であることがわかる。
 このスペイン、ポルトガルなどの国々が財政破綻したのは、次のような理由だ。EUが通貨統一した後、ドイツなど工業国で統一通貨により貿易で競争力の増した国々が、スペインなど工業力が弱く、農業、観光に依存し、弱い競争力の国々を貿易上経済支配をし、彼らに競争で圧倒し、統一通貨ユーロをスペインなどの農業観光国から流出させ、EU通貨統一前よりも、ますます通貨を減らしたからだ。つまりスペイン、ポルトガル、ギリシャ、アイルランドの国々は、EU通貨統合前よりも経済的にますます貧しくなったのだ。
 また、前述のように、欧州委員会、欧州中央銀行は、こうした財政困難な国々に直接財政援助できず、財政再建は各国に委ねられ、ドイツ、フランスなどの国々は経済不況や財政難に自力更生できるが、スペインなどの国はそれが出来なかった。
 具体的な例としてスペインとの観光行動を例に取ってみる。
 EU通貨統合前は、スペイン通貨ペセタが国内に流通していて、為替では弱くともペセタは国内ではしっかりした貨幣価値が存在して保たれていた。そして、ペセタは、スペインが工業的に弱い国であったので貿易力が弱く、対米ドル、対フラン、対英ポンドの為替相場は価値が弱く安かったが、反対に隣接国や遠くからスペイン国内に観光客を多く招くことが出来た。スペインでペセタに換金すると通貨を多く貰え、使い出があるからだ。スペインは観光で潤っていた。
 例えば隣のフランス人にとって、EU通貨統合前は、スペイン国内でフランをペセタに替えれば、為替相場上、価値があるので、為替レートで多く貰え、使い出があった。それゆえ、スペインは多くのフランス人観光客を招くことが出来た。
 ところがEU通貨統合後はフランスもスペインも通貨ユーロの価値が同じなので、フランス人は、かつてのように国によって違う通貨使用による為替相場の差益が存在しなくなったので、フランス人の観光客が減ったのだ。その他の国々、例えば、イギリス、ドイツ、イタリアの国々の人々のスペインへの観光客も減ったため、スペインの観光収入は大幅に減った。大打撃となった。
 反対に、スペイン人は、母国と価値が同じの統一通貨ユーロを使い外国への観光をより多くするようになったり、ドイツ、フランスなどの工業国の製品を貿易で買うようになり、ユーロが多くスペインから流出するようになった。その結果、ドイツ、フランスなど工業力により競争力のある国々に、統一通貨ユーロは集中し、富み、反対に農業国、観光立国であるスペイン、ポルトガル、アイルランド、ギリシャの国々からユーロが流出し、貧しくなり財政破綻を起こさせたのである。通貨統一が競争力のある工業国と競争力の弱い農業国、観光国との間に、EU同盟国内の経済格差を生んだのだ。スペインなど経済的な弱国はEUでは財政赤字を解決できず、国際通貨基金により援助を受けることになる。
 中世の領邦国家から発展し、言語民族性の違い、経済の違い、各国で関税や異なる通貨を発行して、経済的に自立し、他国から防御して来たのである。とりわけ対外的に経済力の弱い国にとっては、自国通貨を持つことは対外的な為替価値がなくとも、国内では通貨価値があるのだ。また外国人を貿易や観光で招致し、外貨を獲得できるのである。ゆえに関税と自国通貨の流通は、経済的に弱い国にとって必要な防波堤なのだ。世界一経済が弱く、混乱した北朝鮮でさえ対外的にはほとんど通貨の価値がないにも拘らず、自国紙幣を持つことは国内価値が最小限あり、経済自立が保てる。これが、中国の人民元を北朝鮮国内で流通させると、北朝鮮の市場は中国経済に破壊させられる。
 EUの通貨統合は国によって貧富の差を生んだが、過去に於てもアルバニア、アメリカの例があり、通貨統合が国際的にも、地域経済の違う国内でも、いかにむずかしいかを示す例があるので、以下に於て示してみたい。
 

 (2) トルコ戦争以後アルバニアのイタリアによる占領とユーゴスラビ
    アとの通貨協定による経済破綻の先例

 一九四六年にユーゴスラビアのチトー大統領による押しつけられた相互援助条約によって、ユーゴスラビアの貨幣がアルバニア国内で流通出来ることになったことで、アルバニアの通貨レクがユーゴの通貨ディルナに圧倒され使えなくなり、アルバニア経済が破綻した例があり、EU通貨統合以来、スペイン、ギリシャなどの弱小国の財政経済破綻と酷似したケースと比較し以下に於てアルバニアの歴史を辿ってみる。
 十四世紀に入り、オスマン=トルコのビザンチン進出は激しさを増し、同世紀にはバルカン半島に大進出をし、一三六一年から一三八八年までの間にアドレアノープル、ブルガリア、ギリシャ、マケドニア、モラーバの公国が次々に支配下に入った。アルバニアに対しては、一三八三年のコソボの戦いで移り住んでいたアルバニア人と戦い、その後、アルバニア南部、そして次第に中部山岳地帯にまでトルコ軍が進出し、トルコの軍事の下に、貴族達はトルコ支配によるアルバニア貴族への卑下した扱いに怒り、連携して戦って抵抗し始めた。なかでも、名門貴族のギェルギ=カストリオティ=スカンドルペグは貴族をまとめたアルバニア連合を組織し、西方から進出して来るトルコ軍を何回も阻止し、アルバニアを防御した。一方に於て、ハンガリーのヒュンダイも同様な反乱をトルコに対し起こしていた。
 何回も迫ってくるトルコを撃退させ、一四五一年にはスカントルペグはアルバニアを国家に育て上げた。その名声はヨーロッパ中に届き、ローマ法王の資金援助とベネチア領国の資金援助を得て、バルカン半島の新十字軍として対トルコ戦に勝利を得たが、利害を重視したベネチアがトルコと和平を望み、次の法王からも十分な援助を受けられず、なおも単独で戦い、トルコ軍の進出を阻止したが、アルバニアの英雄スカンドルペグの病死でトルコの支配下に入り、その支配が何世紀も続いた。これによりアルバニアは七〇%の白人イスラム国となった。
 五世紀ものオスマン=トルコの支配に対し、バルカン半島の諸国は十九世紀になって、ロシアの南下政策と合わせ、英仏伊の国々も参戦し、バルカン半島を辿る戦争や露土戦争の終結後のバルカン半島の分割ではアルバニアの自治は認められなかった。
 一九一一年になり、イタリアが対トルコ戦争を起こすと、ブルガリア、モンテネグロ、マケドニアもトルコ領の分割と独立を求め戦争を起こし、バルカン戦争が起きた。さらにサラエボ事件が起き、それをきっかけに、汎スラブ主義と汎ゲルマン主義の対立で、第二次バルカン戦争が第一次世界大戦へと発展していく。その間に、アルバニアは中立の動きを示し、アブドリ=フラショリの下で「アルバニア=ブレズレン同盟」を作り、自治を守った。一九一三年のロンドン会議により、六ヶ国の管理下でウィード公を元首にした独立が一応認められた。
 一九二〇年に大戦中、アルバニアは枢軸国イタリアの占領下にいたが、大戦後、ベルサイユ条約でアルバニアの独立が認められ主権国となった。イタリア軍も撤退し、アーメト=ゾーグ首相の下、首都チラナで戒厳令を敷き、独裁体制となったが、反革命勢力により、一度追放されたが、一九二四年にユーゴより帰国し、再び首相になり、経済体制が極弱であったので、アルバニアはかってアルバニアを占領したイタリアとチラナ協定を結び保護国となり、実質上、イタリア資本主義の半植民地となった。イタリアの自国の工業資本にアルバニアは支配され、イタリアへの原材料の供給源となり、アルバニア経済は弱くなってしまった。そこでゾーグは一九三六年にさらにイタリア=アルバニア協定を結び、三年後、ムッソリーニによるイタリアファシズムの台頭でアルバニアの軍事占領が再び行われた。占領体制化の強化体制によるイタリアの経済、通貨体制、資源の統制によって、政治、経済のイタリア化が進んだ。
 イタリアは大地主のシェフキュト・ブェラルキを首班とする傀儡政権の下、外務省を閉鎖して外交権を奪い、各省庁はイタリア人顧問による行政、イタリア軍参謀によるアルバニア軍の統制、イタリア銀行によるアルバニアの通貨体制の支配、アルバニアの農産物の価格廉売決定などをし、アルバニア経済は完全に支配されて弱体化された。
 このイタリアによる経済支配に対し、一九四二年に共産主義者による革命委員会が設立され、共産党の組織化が行なわれ、エンベル=ホッジャの指導の下、アルバニア民族解放戦線軍による武装闘争が行なわれ、一九四三年にイタリア・ファシストが連合国に降伏するまで続いた。その後、ナチス=ドイツの占領に対して、共産党による民族解放戦闘隊が二度にわたる戦いで、一九四四年にナチス軍を解放させ、アルバニアは祖国の独立を勝ちとった。
 イタリア、ドイツの占領による戦いで、道路、通信網は破壊され、電力、エネルギーはなく、交通のマヒ、工業は起こせず、耕地は耕されず、家畜が減少、銀行は準備高がなく機能停止、飢餓が広がっていた。社会経済は完全にマヒしていた。大混乱であった。
 この状況下で、アルバニア共産党政権は、人民法廷と人民警察団を組織し、強く国内を軍隊が治安維持をした。
 その上で、共産主義的経済政策を取った。資力をつくるため、資本家の戦争利得を莫大な課税による没収、穀物の私有化禁止、私有地の国有化、占領したイタリア、ナチスの財の没収、国有化私有地の国有化などが政策として取られた。
 一九四五年に憲法制定議会選挙でアルバニア共産党の勝利で、エンベル=ホッジャのアルバニア人民共和国が樹立し、翌年憲法が制定された。そして、さらなる経済、社会政策が取られた。食用穀物の購入、調達、販売の国家統制、通貨の改革と個人の通貨を交換の最高限定、食料の配給、土地改革に於て、自ら耕さないブドウ園、オリーブ園、農業施設の土地の接収、教育改革などが実施された。
 それに加え、ホッジャ政権はソ連やその他の東側諸国との兄弟的援助を政策方針としていたので、一九四六年ユーゴスラビア連邦人民共和国と相互援助条約を結び、翌年、それが実行された。この主なるものは通貨平衡価格であった。ユーゴスラビア共産党の強い圧力で取られた経済政策で、ユーゴとアルバニアの経済市場の統合をし、価格を統一しようというもので、さらに、ユーゴの貨幣ディナルとアルバニアの通貨レクを為替ルートがなく交換し、アルバニア内でも流通させようという、実質上、ユーゴとアルバニア国による通貨統合であった。これは、ユーゴがアルバニアに押しつけた五ヶ年計画の一環とする二国間の通貨統合で、後のEUのユーロによる加盟国内の通貨統一の疑いもない先例である。
 しかし、ユーゴとアルバニアとの経済格差は雲泥の差があり、混乱状態にあったアルバニア経済市場で、ユーゴの企業と個人商人は富んだ金持の権利を悪用し、アルバニア市場で欲しい物を何でも買い漁った。それにより高いインフレと総体的な物価の上昇がアルバニア自由市場で起こり、アルバニアの庶民と経済に大打撃となった。この経済影響は、EU通貨統合後、工業力、貿易競争力の強い独仏両国にユーロが流れ富み、工業力のないスペイン、ギリシャなどの農業国、観光立国が財政破綻、経済困難となり、経済格差が拡大したのと酷似している。
 これはユーゴとアルバニアの経済統一は、相互援助条約通りの対等な主権国家の統合ではなく、弱国アルバニアに対しユーゴスラビア共産党と政府は、指導者を送り、経済協定を運営する委員会をアルバニア政府の上に超国家的機関とし、経済市場を支配し、軍部をも指導する属国化政策であった。
 その後、一九四八年の第一回共産党中央委員会に於て、アルバニアはユーゴスラビアの共産主義計画が成された時、ユーゴの指導者チトーを修正主義者と批判し、相互援助条約を打ち切り、またフルシチョフを修正主義と批判し、独自のマルクス=レーニン主義の路線を取った。後にソ連と国交を断絶し、さらに米中接近で唯一の友好国、中国とも国交を断絶し、長らく国交をどの国とも結ばず、外国人の入国と自国民の出国をも許さず、鎖国状態が続き孤立する。
 一九八五年に武力で人民を圧制した超独裁者ホッジャの死で、アリアの政権となり、一九九一年、民主選挙が行なわれ労働党が勝ち、憲法が制定され、民主国家となった。ベルリンの壁崩壊の影響で、多くのアルバニア人が国外に脱出した。アルバニアは、イスラム経済、軍事体制共産主義、資本主義を経験した稀に見る世界で唯一の国である。
 アルバニアは、すでに述べたように、一九二六年以後、一応独立を果したが、経済的に弱く、イタリアの保護国となり、またファシストの出現により軍事体制となった経済、超弱経済国のアルバニアは、経済の強いイタリアの資本家、銀行家、商人によって経済が握られ、通貨を統一した形になったが、イタリア人に購買を独占され、物不足にアルバニア人民は苦しみ、貨幣はイタリアに流出し、イタリアとアルバニアの貧富の大きな格差を生じた。
 また、戦後の一九四六年に社会主義国の援助の名のもとに、ユーゴスラビアとの相互援助条約で、ユーゴとアルバニアの市場統合、ユーゴの通貨をアルバニアで流通させ、自由市場で購買させたところ、ユーゴの商人や企業が買い占め、ひどいインフレ、物価の超上昇などアルバニア市場経済は大混乱し、ますます、アルバニアの経済は弱体した。これはアルバニアが経済力が弱く、イタリアやユーゴの経済に依存し、経済的安定を期待したが、結果として従属国となり、貧富の格差を生じた。
 このアルバニアのイタリアとユーゴの市場統合、通貨統合の二つの例は、EUの市場経済や通貨の統合の後、EU内で、工業力の強い独仏が富み、農業や観光国であるスペイン、ポルトガル、ギリシャなど経済力の弱い国との貧富の差が広がった事実の先例であるのだ。しかし、その歴史的先例、すなわち、経済的に強い国と弱い国が市場合体すれば、弱い方が通貨統一によって、経済困難、財政破綻するという法則が、もっと多くの経済弱国を含むEUの多国間の市場経済と通貨の統合を実行する前に、考慮参考にされず、生かされなかった。
 その理由は、アルバニアが戦後共産主義体制であり、さらに長い間鎖国状態にあり、西側諸国の資本主義社会であるEUの諸国にはその経済情報が伝わることはなかった。そればかりでなく一般的に、西側諸国は共産主義国の経済体制と長く対立し、共産主義体制の経済知識は資本主義の敵であると見做し、嫌い、学ぼうとはしなかった事にもよる。ましてや、長い間、鎖国をしていたアルバニアは、共産圏の中でも知られざる小国であり、アルバニアの共産主義体制の通貨統合の事例は紹介されたり、EUの通貨統合の参考にされなかった。
 ちなみにたとえ、EUがアルバニアのイタリア、ユーゴとの市場及び通貨統合の例を参考にしようとしても、アルバニアが民主化に伴い、同国の情報が解禁されたのは一九九二年であり、EU通貨統一を定めたマースト=リヒト条約が結ばれた五年後であったので不可能であった。
 アルバニアの例よりも遥か前、またEUの通貨統合よりも、二世紀も前に、アメリカが通貨や紙幣を発行する銀行が、国の中央銀行や国立銀行(連邦政府が認可した銀行)がよいか、州の銀行で地域の事情に合わせた発行がよいか、また、紙幣がよいか、金本位がよいか、銀貨を含めた金銀復本位がよいかをめぐって、広い北米大陸国家で、東部の商工業者と西部、南部の農業者や開拓者の対立の例がある。独立後約百年に渡って、揺れ動いたアメリカの銀行の通貨発行をめぐる経験は、EUが通貨統合をめぐる市場経済で、強い工業国と工業力の弱い国と格差を生んだ先例として、つまり広い大陸のアメリカ国内では、経済力の強い北東部の商工業と、経済力の弱い南部西部との抗争という形であるが、EUが市場統合による通貨統合をするにあたり参考にされなかった。以下に於てアメリカの銀行をめぐる通貨発行の歴史と、その理由を検証する。
 

   (3) 独立後百三十年に渡る通貨や紙幣の発行をめぐり、金本位に基
      づく国内の通貨統一のため中央銀行の発行に関して、東部都会の
      商工業者と、州の銀行や州の認可の銀行による地域の需要、事情
      によって紙幣発行を求める南部の農業者と、銀鉱開拓により銀貨
      の自由発行による金銀複本位を求める西部の開拓者との国内の対
      立

 アメリカで初めて銀行が出来たのは独立戦争の際、十八世紀の終わりのことであった。十七世紀の終わりから、ヨーロッパの戦争の一端として、イギリスとフランスはカナダの植民地をめぐって、抗争をしていたが、一八五四年に、大々的な戦争に突入した。フレンチ=インディアン戦争であった。一七六三年のパリ条約でイギリスが勝ち、フランス領(ニュー=フランス)を得て、フランス植民地を失い、フランス系カナダ人は住民として英領カナダに残ることになった。
 この植民地での戦費が莫大であったため、一八七〇年代以後、印紙税、印刷物、砂糖税などを北米の植民地に次々に課して行った。このイギリス本国の税による圧制に反発し、植民地は第一回大陸会議を開き、統一して独立する決意をし、独立戦争となった。
 アメリカの銀行は一番初め、独立戦争をする費用を捻出するために、北米銀行を設立した。そして、一八八三年のパリ条約で独立した後は、アメリカは戦争のため、国内外に借金の返済のためと国内の財政を安定させるため、国債を発行し、北部の商工業の発展の融資のために、外替を作り貿易を促進し、通貨の紙幣を発行できる国立中央銀行を設立をさせた。これはワシントン大統領の下の財務長官アレクザンダー=ハミルトンの権限によるものであった。ハミルトンは商人の出身で、連邦政府が中央で強い統制をした政府を望んだ連邦主義者であった。
 これに対して、当時の副大統領トーマス=ジェファーソンは、農業者の利害の支持者で、州の利害を最大限に尊重すべく、連邦政府は必要最小限に州をまとめるべきで、強い統制をすべきでないという州権論者であった。国の銀行が中央で通貨を統一し、流通させれば、経済的強い北東部の商工業地域に農業州が支配され、お金が商業社会に集中し、農業州のお金は不足してしまう。それ故、州の需要で地域毎の通貨の発行を求めた。
 国立銀行は設立時に二十年を期限になっていたが、一八一二年の対英戦争により、同じ年に議会で同銀行の改新が審議されたが、更新の議決に成らなかった。しかし、四年間は通貨発行の国立銀行が存在しない状態となったので、金本位の準備のある州の銀行が設立され、通貨紙幣の発行をしたが、一八一二年の対英戦争の戦費とインフレが起き、一八一六年になって連邦議会は第二次国立銀行を裁可した。名はアメリカ合衆国連邦銀行となる。
 この時、連邦政府が選んだ五人の経営理事が同銀行の経営に当たり、一八二三年にニコラス=ビドルが同銀行総裁になると、連邦銀行は各州に多くの支店を開き、国内の流通貨幣の統制を強化した。ビドルは連邦銀行が政府として独立し、政治的影響力を除き、また西部開拓に決して反対するものでなかったが、ニューヨークの州立銀行家で、後の大統領マルティン=バン=ビューレンや農業州テネシー出身のアンドリュー=ジャクソン大統領により、連邦銀行による各州の強い通貨支配に反対された。
 一八三二年、北東部の商業者やビジネスマン出身の議員の賛成で、連邦銀行は再び裁可されたが、ジャクソン大統領は拒否権を行使し、連邦銀行の更新の法案に署名をしなかった。
 ジャクソン大統領は農業州出身で、連邦銀行が州全体を従属的にして、国内の通貨流通を支配すると、北東部の商工業への融資によって利子を稼ぎ、富と繁栄をもたらし、反対に農業州は商業地域の北東部に支配され、貧しくなっていくことを恐れた。それゆえ、州の需要に応じ、州の銀行で州のとりわけ農家の必要な額の独自の紙幣通貨を発行することを唱えた。ジャクソン大統領は銀行についての州権論者であったが、安定した貨幣、コインを発行するハードマネー派であった。同じ州権論者のサウスカロライナ州出身のヘンリー=カルフーンはソフトマネー派で州立銀行による紙幣の発行を望んだ。多くの南部や西部の農民は農地担保に束縛されていて、州立銀行の発行でインフレが起きて紙幣価値が下がっても名目全額を払えばよいからである。これに対し、北東部の商工業を利害とするニューイングランドの議員は、北東部の商工業者が南部西部の農産物、原料を大量に安く買い入れ、自分達の生産した商品を南部や西部の農業州などに売る市場にし、国内を経済統合し、国の銀行である連邦銀行が強い統制をし、信用、貯蓄、融資を商工業者にする政治力とも合わせ、国内経済統合する連邦主義者である。今でいうEUの市場経済、通貨統合と同じ考え方だ。
 ジャクソン大統領によって再裁可を拒否された連邦銀行は、一八三六年で期限が切れ、代わりに州立銀行が紙幣や通貨を発行していたが、ビドル連邦銀行総裁は、ジャクソン大統領と対立し、州立銀行に対し割引や為替取引を制限し対抗措置を講じた。これに対し、ジャクソン大統領は怒り、財務長官を後の最高裁判所長官、ロジャー=ターニーに交代させ、連邦銀行に貯け入れていた政府の財政税収預金すべてを引き上げさせ、代わりにいくつかの州立銀行に入金し対抗した。このジャクソン大統領とビドル連邦銀行総裁との抗争を歴史上、銀行戦争(バンキング=ウォー)と呼ぶ。
 その結果、農業州の各州の事情と需要に合わせた州立銀行による自由な独自の紙幣発行は、紙幣が異常な増刷発行され、大量インフレになり、一八三七年に大恐慌となった。連邦銀行は紙幣の供給ができず、また北東部の商工業者に融資や貸出しする紙幣が回らず、ビドルは連邦銀行の州立銀行化をしたが、一八四一年に経営破綻する州立銀行が増大し経済パニックになった。
 州立銀行は南北戦争中の一八六三年まで続いたが、リンカーン大統領は戦争の戦費を調達などのため、国立銀行法で国立銀行が三十年ぶりに再度組織され、それまでの州立発行の紙幣も、国立銀行で払い戻しが出来るようにし、また紙幣の発行は会計監査人の指導で発行するようになった。一八六六年に南北戦争の終止期には各州に国立銀行の支店の数は増え、その数が州立銀行の数を上回った。一方に於て、南部や西部の農民地帯や開拓地では州認可の銀行も作られ、それらの地域の実情に合わせた紙幣を流通させた。
 国立銀行は戦後、戦時中に発行された、グリーン=バック紙幣が供給過剰になり、金本位に基づく新しい紙幣と交換し、回収できる措置を取った。インフレが起き、それを押えるためである。これについては北東部の商工業の経済を安定するためでもあった。しかし、農業州では交換することが困難であった。
 一八七〇年以後、西部や南部への鉄道の発展と共に北東部の企業は銀行から融資を受け、南部、西部の農製品や原料を鉄道で安く仕入れ加工し、国内の市場や海外へ、貿易輸出商品として売り、莫大な利益を上げるため、多大な融資を必要とした。そこで、JPモルガンのモルガン銀行などが国の認可を受けた私立の大銀行として設立され、幅を利かせるようになった。
 歴史上、株式会社の組織を持つロックフェラーの石油会社やカーネギーの鉄鋼会社などビッグビジネスといわれる大企業が北東部に於て大繁栄する一方で、南部や西部の多くの農民や開拓者達は見捨てられた存在であった。
 多くの農民達は広大な土地を所有するに当たり、それを担保に多額の借金をし、農産物を売って返済しなければならなくて、苦悩していた。さらに生産過剰による農産物の下落、生産した穀物を北東部の市場へ輸送するためのコストは、鉄道会社の独占による価格設定で高く据えられ、農家の自弁であったため、利益は薄いものだった。また、北東部での農産物の価格決定権は同地の商人に握られ、国の政治は利害関係によって彼ら商人に操られ、税金、鉄道の独占料金の認可、貨幣の発行と流通などで、農民は不利益を被っていた。
 このような不遇に、南部や西部の農民達は立ち上り、団結して共同組合を作り、経済的不利益を守り、政治活動として州議会や連邦議会へ農民代表の議員を送る努力を展開した。
 農民達の団結した組合をグレンジャーと言い、同連盟が北西部の農民の間に、さらに中西部の農民の間にも出来、選挙で議員を州議会へ送り、鉄道の独占輸送料金や農産物価格の低下の規制などをした。
 グレンジャー組合は一八九〇年までにいくつもが合体して、ポヒュリスト党(人民党)を結成し、国、即ち連邦議会で農民の利害を国政に反映させようとする。彼らの政治項目は、鉄道の独占価格規制と禁止、電信電話会社の国有化の他、通貨については国立銀行の廃止と州立銀行による紙幣発行、南北戦争時発行のグリーンバック紙幣回収に反対、さらに西部の銀鉱の発見による大量の銀を使った金一対銀十六の割合による銀貨の自由鋳造を求めた。
 連邦政府は、南北戦争中に発行しすぎたグリーンバック紙幣がインフレになり、金本位をもとに同紙幣を回収しようとしたが、農民の間には回収されると紙幣が引き上げられ流通しなくなるので、グレンジャー連盟は反対した。また銀貨の自由発行を認めたのは、西部開拓の人々の事情による。
 元々、銀貨の発行は、一八四八年にカリフォルニアの金鉱発見によるゴールド=ラッシュに始まり、一八五九年から六一年にかけてネバタ州の銀鉱、次いでコロラド州で銀鉱が発見され、西部開拓者は西ではなく東へ向った。特にネバタで莫大な銀が産出されて、金と銀の一対十六の比率で、銀貨が大量に鋳造、発行された。その後、銀塊の値段が急騰したため、人々は銀貨にせず、銀塊を売ったため、国内の銀保有高が減ったので、連邦政府は一担、一八七三年に銀貨の自由鋳造を停止した。が、南部、西部の農業者や開拓者達の通貨、紙幣の流通不足を理由に銀貨発行の強い要求で、ヘイズ大統領は一八七八年に再び銀貨を金と銀の比率を一対十六で鋳造を認めた。
 さらに一八九〇年に政府は財務省が銀を大量に買い、金と共に紙幣発行の本位とするための金銀による複本位制を取った。しかし、一八九三の大不況で、クリーブランド大統領は、大銀行家のJPモルガンのような大銀行家の圧力により、金本位の兌換による通貨発行を求めたので、財務省の銀の買い上げる法の廃止を模索した。大銀行達は、財務省保有の金塊の量が減少したのは、グリーンバック紙幣の所有者達が、銀の塊の証明書や金の払い戻しを要求したためと考えたからである。
 一八九六年の大統領選挙では、共和党の推す金本位制の通貨発行を主張するウィリアム=マッキンレーと金銀複本位制を主張するポピュリスト党を作った農民達は、銀本位を主張する民主党の候補、ウィリアムJブライアンを推し、選挙戦を戦い、マッキンレーが勝ち、一九〇〇年に金本位法を通過させ、金本位となった。
 その後、従来の銀行組織、連邦銀行と州立銀行の通貨、紙幣発行では不都合が生じ、産業の発展や、農業州のさらなる発展に、そぐわなくなっていた。そのため、一九一三年にオルドリッジ=ランド法により、連邦政府の通貨委員が出来、多くの民間銀行の出資による中央銀行の設立が勧告されたが、別のプージョ委員会は、私立銀行の有力なモルガン銀行、ロックフェラーが経営するファースト=ナショナル銀行など大銀行が小さな銀行も含め大半を支配していることが報告され、中央銀行の案は否定された。強い統制による都市に富が集中し、農業州への資金融資などが出にくくなるのだからだ。
 この点について、ウィルソン大統領の国務長官ウィリアムJブライアンは中央銀行の私企業による支配に反対し、政府の運営による中央銀行の設立を要求した。農民への融資などが出来ないからだ。そこで、ウィルソンはブライアンの意見を参考にし、多くの私立銀行の出資の連邦準備銀行(FRD)を中央に設立し、そして弱い統制による十二ヶ所の地域発行銀行を設備し、地域の事情の経済需要に合わせ、新しい紙幣を発行するようにした。四〇%の金準備高で、農民の救済のための短期ローンも発行できるようになった。この銀行には本来の連邦銀行や州立銀行も統合された。大企業に大融資をする市中中央銀行でなく、銀行間に融資する国の連邦政府の通貨発行銀行組織で、都会の商業利益と農民の利益の調整がとれた。なお四〇%の金本位は、大恐慌中一九三三年にフランクリン=ルーズベルト大統領によって金本位が大恐慌で停止されるまで続いた。それ以後は地域の需要に合わせ、金本位でない紙幣の発行をする完全な管理通貨体制となった。
 EUの通貨統合によって、人種、言語の違う国々を市場統一をした結果、競争力の強い独仏に通貨が流れ、繁栄し、反対にスペイン、ギリシャなど農業や観光を産業とする弱小国が貨幣を失い財政、経済破綻をし、ますます貧富の差が出た例は、アルバニアがイタリアやユーゴスラビアに経済、通貨統合された時、アルバニアの経済が混乱し、その両国によって経済支配された例よりも、はるか前、EU統合より、百三十年前、アメリカで通貨発行をめぐり、都会の商業社会と、南部、西部の農業社会の利益の対立、つまり、紙幣かコインか、金本位か銀本位か、国の中央銀行が良いか、農業州の需要に合わせた州立銀行かの抗争がアメリカで起こっていた。アメリカの場合は百年以上かかって通貨統一、発行の問題を解決した。
 アメリカの場合は、EUのように、中世以来の人種、言語封建制度が違う領邦国家から発展した国々を市場、通貨統合をしたために、工業力の差で貧富の差が生じたのと異なり、広い大陸国家の国内に於て、商工業社会と農業社会に於て、通貨の流通の仕方によって、貧富の差が出来、その問題を解決するため通貨の発行の仕方と金と銀による本位の仕方についての両者の抗争であった。
 EUが通貨統合を行う時、アルバニアの例は別にして、通貨を統合することによる、商工業社会と農工業社会に貧富の差が出る問題について、遥か前のアメリカの事例を参考にしなかったのは失策であり、いただけない。なぜならば、アメリカは独立した時に、ヨーロッパや中国、江戸時代の日本の政治行政制度を参考にし建国したのだから。
 EUがアメリカの百三十年もの発行銀行をめぐる抗争の例を見落した一つの理由は、戦後、ヨーロッパが戦禍になり、アメリカに財政援助を受け、アメリカに奪われた世界の主導権を取り戻したい一心で、通貨統合を急いだのだ。アメリカでさえ、体制を作るのに百三十年も掛けたのに、古き中世以来の異なる国からなるEUの通貨統合は無理がある。
 かつて、十九世紀にドイツでは独自の関税と通貨を持つ領邦国家を統一するため、関税同盟を作り、強いドイツ帝国を建国し、統一通貨を発行した。また、戦後、経済的に弱い小国、ベネルクス三国も関税を廃止し、市場と通貨の統一をし、繁栄した。このことは、経済的に弱い地域や小国が市場通貨統合をすれば、まとまった強国になるが、EUのように言語、民族性、そして面積、人口が違い、工業力のある強い国と工業力のない弱い国が統合すれば、貧富の差が大きく開く。EU統合で財政破綻したスペイン、ポルトガルや英仏はかつて、アジア、アフリカの国を武力で植民地として統合し、原料を供給地として搾取し、繁栄した。これも、EU統合の失敗の歴史的先例である。

   参考文献

 (1) 村上直久編著 EU情報事典、大修館書店 二〇〇九年

 (2) 自由国民社 現代用語の基礎知識二〇〇九年版

 (2) 大倉晴男 文献・新聞記事からみるアルバニア 勁草出版サービスセ
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 (7) GERALDR BAYDO A TOPICAL HISTORY
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(流星群第24号掲載)

 


EU通貨統合による問題と、過去に於ける

アメリカに於ける中国人、台湾人の社会

 今から二十数年前、私はテキサス州ヒューストン市にある、南北戦争後差別されていた黒人に高等教育をうけさせるために設立された黒人大学の一つ州立テキサス=サザン大学の大学院に留学していた。その時、その大学の政治学の教授、何国正(日本名、山河正男、英名 KUO CHEN HO)先生の家に、毎週、金、土、日曜日に泊めてもらった。さらに同教授が経営していた中華料理店、GUN‐HO RESTRAUNT 和園で、バス=ボーイ(食卓で客の食べた食器を片づける役)をしながら、そこのレストランで雇われていたコックやその他の従業員達で、中国の色々な地域から出て来た人々を実際に観察して来た。中国の色々な地域(例えば広東省とか、四川省とか、胡南省など)出身の彼らを見た結果、中国人の複雑さ、中国人社会の複雑さ、中国人の色々な地域の人々の国民性の違いなどを垣間見ることが出来た。また、中国大陸の人々や、中華民国のある台湾に於ける明の末期に渡って来た台湾人と、戦後、蒋介石と一緒に来島した外省人とも、国民性が異なることがわかった。その体験について記する。
 テキサス=サザン大学に入学した年の八月末に、大学に着くと、留学生のためのピア=カウンセラー(すでに大学の学生になっているアメリカ人や留学生で、新しく入学した留学生のために、学内を案内したり、相談に乗る人)の案内で、講堂に於ける学内の事務所、図書館、カフェテリア(食堂)の位置、科目の登録の仕方、授業料の払い方、寮に住む人については入居手続きの仕方など、全体的なオリエンテーションを受けた。そして、黒人の新しく入学した学生と共に、黒人の歴史学科長に初めて会い、秋学期(毎年九月初めから十二月三週目まで)の取る科目の選択を同学科長と話し合った。私の場合、歴史の大学院レベルだったので、多くの歴史書を読むコースや論文を書くコースで、とりあえず二科目を取ることにした。学科長キャルビン=リース氏は黒人とインディアンとの混血の人であった。
 科目を登録して一週間ぐらいした時、講堂の脇にある、大学事務本部があるハナ=ホール(HANNAN HALL)の二階の教室を出たら、廊下でアジア人である日本人の私を見かけ、白人の血に近い黒人の大学の先生が、私に近づいて来て、握手をして来て、「元気でやってますか」とか、「生活にはもう慣れましたか」とか、声を掛けてくれた。その時は、「元気でやって下さい」と言って別れた。その人は社会学の学部長をやっていたセシル=パウエル教授であった。
 それから一週間ぐらいした時、ある日の五時頃、大学のカフェテリアで食事をしていると、パウエル教授が丸いテーブルに座っていた。そして、私の向い側に座って食事をしてくれた。食事をしながら、私に話をしてくれた。パウエル先生の生まれたノース=カロライナ州の田舎の町のこと。また、同じ州の黒人の大学、ノースカロライナA&T大学で学士と修士を取った時の事、そして、その後博士を取ったケンタッキー大学での事や様子を話してくれた。また、テキサス=サザン大学で社会学の学科長をしていた時のことを親切にも話してくれた。私はパウエル教授に答える形で、私が何故、黒人大学であるテキサス=サザン大学に学びに来たかを話した。そして食べ終って、最後にセルフ=サービスのカフェテリアで食べた食器を片づける前に、
 「大学内に日本語を話す教員がいるから、話しておいてあげよう」と言ってくれた。
 それから三週間ぐらいして、ある日の午後、昼食をカフェテリアで終え、図書館へ行き、三階でスチール製の本棚で本を探して目を通している時、ちょっと日本語で「ここにはないのかなあ」と呟いた。すると、スチール製の本棚の向うから、中年の東洋人の人が顔を向け、私の方を見た。私が本棚から本を二、三冊取って階段の出口付近の仕切りのある読書机でそれらを読んでいると、ふと、私の肩を叩く人があった。顔を上げて見ると、先程、本棚の所で私の顔を見た人であった。その人は隣の読書机に座り、英語で話しかけて来た。「どこから来たのか」とか、「何を学んでいるのか」と私に聞いた。そして、私とカフェテリアで会った社会学のパウエル先生が、先日、「日本人の学生が来ているよ。研究室へ行くように言おうか」とその人に言ってくれたことを話してくれた。話し終わる最後に、日本語で「日本語を話します」と言ってくれた。
 この人こそ、その大学、つまりテキサス=サザン大学で政治学を教える台湾人の教員、何国正(日本名、山河正男、英語で書くと、KUO CHEN HO)先生であった。昭和八年に日本統治時代の台湾の高雄市で生まれ、家柄は土地を多く所有する郷士であった。日本の官庁から委嘱され、高雄市の塩の専売権を与えられていた。何国正先生の父親の山河清氏は、日本統治時代の台北師範学校を出て、当時の高雄市の尋常小学校の校長をしていた。当時、学校の校長は日本人が多く、台湾人で校長になる人は数が少なかった。教頭は台湾人の人も数多くなっていたが。
 戦後、中国大陸で対日戦争のため国民党と共産党は国共合作をしていたが、戦争が終った後、抗争が再発することが予想されたので、アメリカの将軍ジョージ=マーシャル(後の国務長官、国防長官で、欧州復興計画のマーシャル=プランで有名)は日本軍が降伏後、八月十五日に国民党軍に台湾を占領させた。その後、昭和二十四年に国民党が共産党に内戦で敗れ、蒋介石以下二百万人の中国人が台湾島に逃れて来た。この二百万人を外省人と言い、日本時代からいる台湾人(本島人)と区別している。顔立ちも異なる。
 国民党の亡命政権統治によって何家は没落させられた。土地政策によって何家から多くの土地を取り上げた。また父親の清氏が地方議員に立候補した時、投票数では明らかに勝っていたのに、選挙を管理する者が国民党員であったため、台湾人に政治参加をさせまいとして、清氏に投票した用紙を手垢で汚し意図的に無効票、廃票にし、当選を阻止させられたのだった。
 何国正先生は多くの兄弟の中で下の方で、中華民国の兵役で軍の英語の教官をした後、アメリカへ渡り、夜、飲食店などで働きながらサン=ノゼ州立大学(カリフォルニア州)で政治学の学士と修士を取り、その後オレゴン州の小さな大学や黒人大学のアーカンソー州パインブラフにあったアーカンソーA&T大学で教え、その後、一九七三年インディアナ大学で博士を取り、テキサス=サザン大学に赴任した。それから六年後に私が同大学に留学し、何国正先生と私が会うことになった。何国正先生にとって、昭和二十年の終戦の年まで今で言う小学校に当たる尋常小学校で、十二才の時まで日本語教育を受けたので、日本人が懐かしかったことや、黒人大学であるテキサス=サザン大学には日本人がほとんど留学して来なかったので、日本人の私が学びに来たというので、私に会いたがっていたようだ。
 それから約一週間ぐらいして再度、図書館の一階の参考図書の読書用の椅子のところで何国正先生に会った。この時は日本語で何先生がインディアナ大学で博士を取った時の事などを話してくれた。
 そして十一月の中頃、サンクスギビングデーの時、一泊二日で泊まりに行った。それより前、九月中旬に、一度何先生の家に行ったことがあった。何家は、ヒューストン市の中心街から北に約七十キロ、高速道路で一時間ヒューストン=インター・コンティネンタル空港から少し入った高級住宅街にあった。一泊で泊まりに行った時、初めて台湾人の奥さんと息子のギルバートと会った。二人は戦後生まれなので、日本語は話せないので英語で話すしかなかった。その時は、丁度、松の木の雑木林を切り開き、中華料理屋 和園 ガン=ホー レストランを新築すべく、土台工事をしていた所であった。この時初めて七面鳥(ターキー)を御馳走になった。
 それから一年ぐらい過ぎた十二月末、秋学期と春学期の間のクリスマスと新年の休み期間三週間は学生寮が閉まり、どこか他の宿泊施設か、友人の家などに泊まり過ごさなければならない。この時は市内の安いホテルかモーテルなどを探したが、予約が遅かったのか、どこも見つからず、何国正先生の家へ電話をし、当時、中華レストランの従業員用に借りていたアパートに泊めてもらうことにした。当時、皿洗いをしていた出稼ぎのメキシコ人と同居することになった。メキシコ人があまり英語がわからず、私がスペイン語を話せたからである。私がスペイン語を話せたのは、大学時代に日本でスペイン語を学んでいたからである。
 約三週間、大学が休みの期間、何先生のアパートに泊めてもらう代わりに、大きな中華料理レストランを手伝うことになった。クリスマスの期間、年末、年始の時期はレストランに食べに来るアメリカ人客も多かったからである。やった仕事はバス=ボーイで、客が食べ終わった食器を片づけることであった。それと、メキシコ人の出稼ぎ労働者を二名使っていたので、私がある程度スペイン語が話せたので、彼らの通訳をもやった。
 三週間ぐらい泊めてもらい、正月が明けて大学の学生寮が開いたので、大学の寮へ帰る時、台湾人の奥さんから私に、毎週金曜日に来て、土、日と月曜日の朝まで、二泊三日で、中華レストランを手伝ってくれないかと頼まれ承諾したので、一月中旬よりそうすることにした。
 毎週、月曜日から金曜日まで、大学の一回、三時間の授業に三回出て、毎日授業と三回のカフェテリアでの食事を間に挟み、図書館と寮の机と教室との往復に追われた。多くの本を図書館から借りて来て読み、レポートや論文を書いたりして、きつい勉強であった。
 金曜日の夕方になると、何国正先生が自動車に乗せてってくれ、約一時間でレストラン和園に到着、そのまま夕方六時以後夜の十一時まで手伝った。
 アメリカ人は一週間、会社での仕事にうんざりし、金曜日に解放され、その夜は家族と一緒にレストランで外食をして気分転換をする。そのため、金曜日は夜六時頃から大変忙しくなる。七時頃になると、人々がお客として入れ替わり立ち替わり来客し、駐車場が自動車でいっぱいになる程忙しくなる。
 土曜日は昼食後多くの人々が食事に来て、夜も同様にレストランは客でいっぱいになる。
 日曜日は、人々が午前中に教会に行くため朝食を食べていないので、朝食と昼食を合わせたサンデー=ブランチという特別の食事をレストランでは出す。そして夜の十一時頃レストランを閉めるまで手伝い、月曜日の朝、何国正先生の自動車で大学へ戻る。毎週このパターンであった。
 レストランがガン=ホー レストランという名の他に「和園」という名前を使っていたのは、何国正先生が日本時代の懐かしさから、レストランの屋根を日本の農家の茅葺きの屋根の形にしたからであるという。
 レストランを手伝っていた事で、雇われていたコックなど多くの中国人で、違った出身地の人々の違いを細かく観察することが出来た。北京あたりの河北省や山東省から来た者、南京あたりの江蘇省あたりから来た者、その他胡南省、山西省、福建省あたりから来た者、広東省あたりや香港から来た中国人、台湾から来た外省人など様々な地方出身の中国人を見ていた。彼らの言葉はわからなかったが、彼ら色々な地方出身の中国人の特性をつぶさに観察すると、彼らの民族性、習慣が出身地によって違い、さらに出身地が違うと中国人同士が排他的であって、お互いにうちとけないことがわかった。言葉についても毛沢東が中国共産党政府を樹立した後、中国全土を統一するため、北京周辺の中国語の一方言、北京語が行政上の公用語、北京官話として広く使われ、学校でも教育された。
 しかし、それでも各省出身の人間は、なかなか北京官話を使おうとせず、各地の南京語、上海語、福建語、広東語などで話し、お互いに通じない。そのため時には英語で話す場合もある。新聞などを読んだ場合は、同じ漢字なので読めばわかるのだが、話した場合は、例えば北京語と広東語では漢字の発音が大部違うので、まったく通じない。何国正先生によると、北京語と広東語や、元々福建語であった台湾語の違いは、日本語と中国語、即ち北京官語ほどの違いがあるという。この点、日本人が中学三年生まで学校で国語を習い、漢字を相当習っているので、高校一年になった時、中国語の古典である漢文を、発音はわからなくても書き下しという方法で唐の漢詩などを読めるのとよく似ている。
 レストランという職場でも、中国人の出身省が違うと、民族性が違い対立していた。この点について、何国正先生がレストランの経営者として苦労し、頭を悩ましていた。ある時、中国人で違う省出身者二、三人がグループを作り喧嘩をして、喧嘩両成敗で双方を解雇しなければならなくなった。経営者の何国正先生は、すぐにアメリカ内にある華僑に連絡をしたり、台湾からコックやその他の従業員を雇用しなければならなかった。
 また、ある中国人のコックは、ある期間働いていやになると、無断でやめて出て行った。金曜日の夜、アメリカの友人の所へ行くと言って、月曜日には帰らず、夜逃げして行った。ある中国系のコックは、一つの店に勤めながら秘かに他の中華料理屋のコックと情報交換していて、給料やその他の条件が良い店へ勝手に移って行ってしまう。また、店にあきたりず、店の経営者と対立したりすると逃げていってしまう。一般的に中国人は自己中心的で、自分の欲求を通そうとする。通らないと怒ったりする。
 中国人の中でも、とりわけ福建省の出身者、広東省の出身者が仲が悪くソリが合わない。元々、福建省と広東省では、風土、環境が大いに違い、中国人の間でも、気質、習慣がまるで違う。福建省の人間は農業もやっていたが、主として東シナ海沿岸での漁業や、船を使って台湾、フィリピンや東南アジアでの海外貿易をしていた民族であった。特に十七世紀以後、台湾の台中に入植していた。この時に、すでにインドネシアのジャワから北上していたオランダが台湾の台中に先に植民をして、日本の長崎の出島への中継地としていた。その後、長崎の日本人を母に持ち、長崎から明へ父親と一緒に帰った鄭成功が明の残党の軍を使い、台中のオランダの勢力を駆逐した。さらに、フィリピンの上流階級の中国系やマレーシア、シンガポールの中国人社会を福建人が移り形成した。フィリピンではスペイン系と共に中国系もスペイン語を話す。
 一方、広東人は奇妙な風習がある。女と男の生活の役割が主客転倒なのだ。女が外に出て畑を耕し、働き、男が家の中で家事や子供の世話をする。そして、広東人は海外に出稼ぎに華僑として行く。世界の色々な国へ行って広東人のみの地域を作る。アメリカでは貧しい黒人の社会に個人経営のスーパーマーケットや雑貨屋を経営している。そして自分達は比較的高級な住宅地に住んだりしている。貧しい人々から富を得ているので、広東人は「東洋のユダヤ人」などと呼ばれている。
 広東人の仲間で、香港の港で黒い船、ジャンクと呼ばれている水上生活者がいるが、これもルーツは広東人だと言われている。
 このように、福建人と広東人は習慣、生活感、民族性が違うので、お互いにうちとけない。対立ばかりする。
 アメリカの中華街でもサンフランシスコの中華街とロサンゼルスの中華街ではチャイナタウンとしての民族性が違う。サンフランシスコのチャイナタウンは広東系人の独占である。「広東語を話さない者は人でなし」という言葉があるくらいで、サンフランシスコのチャイナタウンでは中国の他省の出身者の参入を許さない。そのくらい排他的なのだ。かつて、渡辺はま子が、「サンフランシスコのチャイナタウン」という歌を唱っていたが、それは広東人の社会を唱っていたのだ。本人は、その事を知らなかったかもしれない。
 ロサンゼルスのチャイナタウンは、いくつかの中国の省出身者がいるが、別々に華僑組合を作っている。ここは、かつて中国国民党の創始者、孫文も亡命していたこともあり、その後も国民党の支部があり、スパイ活動をしていた。
 その他にニュー=ヨークやシカゴ、シアトルなどにチャイナタウンがあるが、中国人の出身省はまちまちである。華僑組合は各省人ごとに別々に作っている。テキサス州ヒューストンにはチャイナタウンから離れた所にベトナム人のベトナムタウンがあり、食料品店や飲食店をやっている。
 日本に於ける中華街を見てみると、横浜の中華街と神戸の中華街が有名で、二大チャイナタウンであるが、とりわけ横浜の中華街は各省出身者の垣根が取れ、一体となっている。世界中のチャイナタウンでも横浜ほどまとまりのある所はない。広東人、上海人、北京人、山東人、胡南人、台湾人など仲よくやっている。これは中国人の一世が日本人の女の人と結婚し、二世、三世となるにつれて中国各省の古い習慣が薄れ、日本語で話し、日本に同化したためである。そのため、二世、三世には中国の民族性を教育するため、中国語、北京官話で中華学校にて教育をしている。二世の中国の各省出身者が、共同で出資し関帝廟を作り、横浜の観光地として寄与している。
 神戸の中華街も色々な中国の省出身者で成り立っているが、広東系が優勢である。
 日本の中華街は、コックなどを日本の中華料理店の店主が香港や中国各地や台湾から雇い、一時的に働いた者が、アメリカ、カナダ、ヨーロッパなどの中華街へ働き場を移す中継地となっている。
 台湾には、台湾人と中国人(外省人)、そして高砂族、つまり原住民と三種類いる。まず、台湾人についてであるが、元々は十七世紀明の王朝が満州の女真族により滅ぼされ、清に王朝が代った時から、対岸の福建省から徐々に移民して来た人である。すでに述べたように、オランダが最初に台中に要塞を作り植民地化したが、前述のように明の軍人、鄭成功がオランダを台中から駆逐し、三世紀もの間だ、福建人が徐々に台湾に入植し、台湾の島に根づき、台湾人となる。
 そして、三世紀ぐらい経った時、日清戦争が起こり、日本の勝利となった。台湾は正式な中国、即ち清の領土となっておらず、主権もはっきりしていなかったにも拘らず、日本が領有権、主権をはっきりさせ、清に認めさせるため、下関条約で清から台湾を日本に割譲した形にした。
 その後、五十年日本の統治下で、乃木希典など軍人を総督に置き、地方に行政官を置き、台湾人に学校に於て日本語で教育をした。
 何家については、土地をたくさん持つ階級の家柄であったので、父親を校長にしたり、塩の専売権を与えて、日本政府は保護した。よく、日本人の地方官吏が台湾の高雄に赴任すると、何家に挨拶しに来たそうだ。
 戦後、蒋介石の国民党が共産党に追われ、台湾に来た時、約二百万人の中国人、即ち外省人が台湾に逃れて来たが、台湾人と外省人の見分け方は、日本時代に日本語教育を受け、台湾語と日本語と両方を話すのが台湾人である。台湾人の方が日本人より肌が白いが、風貌は日本人に近く、外省人の方が痩せこけていたり中国大陸人らしい顔をしている。芸能人で言うと、テレサ=テン(
_麗君)、欧陽菲菲などが外省人で、ジュディオング(翁倩玉)が台湾人である。
 台湾人の他に日本人から戦前、高砂族と呼ばれていた原住民が存在する。オランダ人や台湾人が福建省から入植前から台湾島に住んでいた原住民で、元々はフィリピンから渡って来たと言われている。初めのうちは今の台北、台中、台南、花蓮港などの平野に住んでいたが、台湾人が入植するにつれ、追われるように山岳地帯に住むようになった。アミ族、タイヤル族などいくつもの部族に分かれ暮し、それぞれ違った言語を話していた。日本統治時代に日本語が教育され、現在も日本語が多くの部族の共通語となっている。日本の商品やビデオ、CDなど高砂族の山岳村へ運ぶ行商のルートが今もある。
 台湾人の中には少数ではあるが客家(ハッカ)と呼ばれる人々がいる。出身が迷であって、広東省の海での船上生活者だと言われている。香港なんかでジャンクと呼ばれている人々の一派だと言われている。
 終戦の時、日本が敗戦となった昭和二十年八月十五日、中国国民党軍が台湾を占領し、それ以後、長い間、九〇年代台湾人出身の李登輝総統まで中華民国の亡命政権として、民主的選挙が行われず、野党のない一党独裁政治が続いた。
 アメリカの将軍ジョージ=マーシャルが、戦時中に抗日戦線のため、国民党と共産党による第二次国共合作が崩れ、戦後、国民党と共産党による内戦抗争が予想されたので、前もって国民党軍に台湾を占領させたのだ。
 一九四九年、中国全土で共産党軍に敗れ、共産党が中華人民共和国を樹立すると、蒋介石国民党総統は台湾に亡命政権の中華民国を作り、中国人約二百万人を台湾に移住させた。これが台湾人(本島人)に対して外省人となる。
 これ以後、一千三百万人以上いる従来の台湾人を弾圧し、政治運動、言論の自由を規制し、違反すると逮捕し、民間人なのに軍人の犯罪を対象とした軍事法廷に掛け、重い罪を課した。昭和二十二年二月二十六日の高雄市事件では、国民党軍事裁判権に反抗する台湾人を何人も高雄市の駅前広場で地面に木の棒を打ち、縛って公開銃殺に処したのは有名である。この事件は長い間、語ることをタブーとされていた。以後、台湾人は反乱せず、おとなしくなってしまった。
 台湾人と中国人(外省人)の比率は八割と二割である。経済的自由は資本主義が認められ、経済力、主導権は台湾人が持っている。
 国民党が台湾で軍事亡命政権を樹立した後、本省人である台湾人と外省人である中国人の民族的対立が起きる。台湾人は元来、先祖が中国大陸の福建省の出身であったが、約三世紀の長い間、台湾島での生活で身につけた中国大陸の人とは違った独立した民族性を持ち、日本統治時代に日本の教育を受け、日本の文化、風習を身につけた台湾人と、戦後、中国大陸から亡命して来た色々な省出身の中国人(外省人)とは合わず、また、蒋介石の国民党の政権は一党独裁、軍事政権を敷き、中国人優位の統治をしたので、台湾人の政治や行政に参加する事を望まず弾圧した。
 台湾人は日本統治時代は、ほとんど反乱も起こさなかった温和な民族であったのに、国民党がやって来たら、国民党の独裁的、圧制的統治にすぐに反発し、各地で国民党打倒の台湾独立運動、台湾人自治の運動を起こした。
 また、台湾人が地方議員に出たりすると、国民党は選挙人に贈り物や金銭を与え、台湾人の候補に投票しないよう圧力を掛けたり、投票されたものを選挙管理をする国民党員が不正をし、無効にしたりした。すでに述べたように何国正先生の父、山河清氏は、高雄市の議員に立候補し、台湾人の票を集め、勝っていたのに、国民党員の選挙管理人によって手垢をつけられ無効にされ、陰謀で落選させられた。
 こうして台湾人は、戦後、中国から来た中国人を不信に思い、戦前受けた日本語教育や日本文化に対し懐かしく思い、日本人には親しみを持ち、戦後も台湾に訪れた日本人観光客に対しても親切にしてくれるのだ。また、日本のテレビ、ビデオ、映画、日本の本にも親しんだ。
 何国正先生がアメリカの黒人の大学で日本人の学生であった私に世話をしてくれたのは、日本統治時代に日本語教育を受け、日本の文化、風習を身につけていたので、日本人に対して親しみがあり、懐かしさがあったと思われる。中国人である外省人は、台湾人に対し高圧的な態度をし、国民党政権が圧制したので、外省人に対しては台湾人は嫌いだが、日本人に対しては、戦前の懐かしさもあり、割と日本びいきである。しかし、その後、蒋介石の国民党の中国語(北京官話)による教育が行なわれ、戦後世代になると、戦前の日本語教育を受けた台湾人と中国人との意識が失われ、台湾人も同化というか、中国人意識が植えつけられた。
 何国正先生の家にお姉さんや姪二人がいた。お姉さんは尤何玉香さんで、その娘さん、そして、もう一人の姪はルイジアナ州立大学に通う食品化学を専攻している大学院生であった。
 お姉さんの玉香さんは戦前の日本統治時代の日本人と台湾人の関係や何家の様子などを話してくれた。すでに述べたように何家は多くの土地を所有し、日本政府から塩の専売を委され、お父さんの山河清さんが、台北師範を出て高雄の国民学校の校長をしていた事などを話してくれた。台湾人は教頭までは多くの人がなったが、校長は日本人に比べ少なかった。清氏はやはり家柄がよかったので校長までなれたのだ。
 台湾人は比較的穏和な性格、国民性のため、日本人の台湾での統治がうまくいったのだ。玉香さんの話からそれがわかった。これが気性が荒い朝鮮人には、日本が統治するのに軍事力、警察力をもって強く取締らなければならなかった。日本人に反抗し対立したからだ。
 また、従順な南洋諸島のパラオ諸島とか、トラック諸島、サイパン島などの原住民に対しても、日本の統治は、日本語教育を通してうまくいっていた。そして、軍事占領したラバウルのあるパプア=ニューギニアでも、従順な原住民は日本人の農業指導もあり、日本人とうまくいった。
 玉香さんは台湾人であったが、家柄がよかったので、当時の女子の高等教育である高雄高女に入れてもらえたそうで、戦後になっても日本人の卒業生達と高雄市でクラス会を時々やっていたそうだ。
 その後、玉香さんは結婚し、御主人の大阪の商業学校入学のため、台湾の基隆から船で瀬戸内海を通り、神戸で上陸したそうで、初めて見る瀬戸内海の島々の美しさが良かったそうだ。関西に二年ぐらい住み、長男を出産し、その後、御主人の東京にある日大入学のため、東海道線に乗って上京し、東京の中野に下宿し住むことになる。列車で上京する途中、蒲原から沼津の間で、初めて見る冠雪の富士山の雄大な姿を列車の窓から真正面に見たので感激し、新ためて「富士山は日本一の山」と実感したそうだ。私が「台湾の新高山(中国名 玉山)の方が当時は、標高が高いのではなかったですか」と言ったところ、「富士山の方が麓からの高さのある大きな山で、雄大さがあったので、やはり富士山は『日本一の山』であると思います」と言ってくれた。
 戦前、台湾人が日本語教育を受けたことで面白い現象がある。戦前の台湾人は家では当然、福建語から発展した台湾語を話すが、学校では日本語で教育を受けたので日本語も話す。そこで、台湾人同志で話すと、通常、当然のことながら台湾語で話すが、ある時、突然日本語に変わり、また台湾語に戻ったりする。そして、また日本語が出て来る。これが自然なのだ。意図的に日本語を使っているのではない。玉香さんによると、日本語の方が言い易い時は日本語で言うそうだ。例えば「早くいらっしゃい」など。このことは、戦前の日本の台湾人への日本語教育がかなり成功した事を意味している。蒋介石の国民党が台湾に来て、台湾人が反抗した時、連絡はすべて日本語を使ったそうだ。台湾語だと戦後、福建省から来た者に知られてしまうからである。
 また、台湾人が台湾人同志で手紙を書く時は日本語で書く。それは、話すと違うが、台湾語も北京語も書くとすべて画数の多い漢字で書かなければならないが、日本語で書くと、ひらがな、カタカナを多く含んでいて、短時間で文章が書けるからである。つまり、日本語の方がすらすら書き易く便利だからだ。
 若い世代の台湾人は、国民党による中国語(北京語)の教育を受けたので、台湾語と北京語しか話せなかった。何国正先生の奥さんは戦後派であったので、台湾語と北京語しか話せず、日本語は話せなかったので、私とは英語で話していた。玉香さんの娘さんは、学校で北京語を習っていたので、台湾語と北京語の他に、台湾に於て日本の企業に勤めていたので日本語が少し話せた。
 面白いことに、戦前日本語教育が行なわれ、台湾語にも北京語にも日本語から入った言葉がいくつもある。「背広」「お酒」「みそ」「タクシーの運ちゃん」「油揚げ」「おじちゃん」「おばちゃん」「むずかしい」などなど。
 何国正先生の息子ギルバート(何義抜)とは兄弟みたいに接していた。もちろん英語であったが、色々なことをして遊んであげた。一番最初に会った時は、テニスボールを使い、ピッチャーのまねをして、レストラン和園の玄関、入口の脇の壁にぶつけた投球をして、バッティングをさせた。ある時は近くのスーパーへ気晴しに連れて行った。部屋がなかったので、私は同じ部屋に寝泊まりをした。英語で面白い事を言って笑わせていた。
 一番最初に会った時は、小学校五年生ぐらいであったが、兄弟がいなかったので、ちょうど私がレストランを手伝うため、一週間に一度泊まりに行っていたのでいい話し相手になった。面白い事を見つけては教えたりした。例えばヒューストン市内に日本の麦茶を売っていて、それを飲ませたり、日本のテレビ番組の話をしたり、当時、現地で放送していた日本のアニメの話をした。また、学校の宿題で数学やスペイン語の文法なども教えた。
 私がテキサス=サザン大学卒業後、しばらく会っていなかったが、手紙をやりとりしていた。頭脳明晰であったギルバートはミズーリ大学の医学部に全米から十人選ばれた特待生になり、生物学の三年生で学部を終えずに三年間の医学部大学院に行ける六年間をセットされたコースに入学出来た。通常、アメリカで医師になるためには生物学で学士を取り、成績が良い場合、医学部の大学院で学士の上、九十単位を取り、MD(医学博士)になる。この場合、たいがい学部を卒業した学校と違う大学へ行くのが普通だが、ギルバートの場合はミズーリ大学医学部のセットされた特別コースである。MDは医師という職業に必要な学位で、学問的な学位の博士(PHD)例えば英文学や歴史学、政治学、生物学などの学問学位より下で、それらの修士と博士の中間の学位がMDなのだ。PHDもMDも学士の上、九十単位を取るが、MDには博士論文がないのでPHDより下なのだ。医者の中には、生物学の小分野、解剖学、病理学、免疫学、微生物学でPHDを取る人もいる。この方が医学部の教職に就けるからである。
 その後、日本に戻っていた時に、ギルバートがミズーリ大学医学部の最後の年に、脳科学の実験をしていた。脳の神経細胞のつなぎ目に脳内のある酵素が入り込むのを阻害するのに、日本の化学メーカーのみが製造している炭素Cと全身麻酔薬エーテルのEの化合物C
128の物質を捜していた。
 ある日、ギルバートから手紙が来て、この物質のサンプルを買ってミズーリ大学医学部に送ってほしいという依頼があった。そのすぐ後に、ミズーリ大学の医学部の主任教授から依頼の手紙があったので、すぐに最寄りの図書館へ行き、電話帳を引くと、その化学メーカーの会社は東京の日本橋にある事がわかった。早速、電話連絡すると、C
128の物質を製造している事がわかった。そればかりかC116、C106など炭素Cと麻酔薬Eの化合物をこの会社だけが製造している事がわかった。訪ねて行って担当者に会って聞いた所、日本の大学や工業会社にはほとんど納入していないが、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、オーストラリアの大学、医学部や理工学部に納入している事が分った。すぐに二箱買い、自宅近くの郵便局から航空便でミズーリ大学の医学部に送った。これについては、アメリカ人の医学部主任教授から、お礼の手紙が届いた。後日、会社の担当者に聞いたら、ファックスでミズーリ大学の医学部から同化学物質の大量注文が来たそうである。
 私がミズーリ大学医学部に依頼されたのは、ギルバートが主任教授に、以前にテキサスの実家で日本人の留学生の私を預かっていたことを話した事による。もう一つは、たとえ日本の医者に知り合いがいたとしても、ミズーリ大学の医学部としては自分達がやっている脳の実験を、その日本の医者に依頼することで知られてしまい、日本で先に実験をやられてしまい論文を発表される恐れがあるからだ。そこで、秘密の保持のため、医者でない私に白羽の矢が立ったようだ。
 アメリカの医学部の日本の代理人をやって学んだのは、日本の医学部はアメリカやヨーロッパの大学の卓れた実験に、自分達の足元にある会社が作っている化学物質が使われている事を知らないという事実だ。それを知るのは、臨床上必要になった時、後日、論文を読んで知るのだ。そればかりか、医学に限らず、化学でも物理でも、アメリカやヨーロッパの研究者がノーベル賞を取った業績の影には、日本の無名の会社が作っている化学物質や部品が使われ、手助けしているのではないかと感じた。アメリカの医学部の代理人になったことで、同医学部の内幕を垣間見る事が出来た。
 その後、ギルバートはミズーリ大学の医学部を終え、カリフォルニア大学サンティアゴ校の医学部脳科学研究所へ就職し、老人性の脳病、アルツハイマー病、パーキンソン氏病、ハリントン病、ピッグス病の臨床的研究をしている。ノーベル賞等を取る勢いである。
 こうして、台湾人の教授の家に泊めてもらい、また中華レストランを手伝い、多くの地域の中国人の民族性、文化、習慣の違いを知ることが出来た。また、台湾人の家族の中で、台湾人のことを知ることも出来た。多くの地域の中国人が一ヶ所に集まっていたから出来たことで、もし実際に中国へ行ったら、何千キロも大陸を廻らなければ出来なかったろう。貴重な体験であった。また、台湾人の家族に世話になりながら、未だ台湾に行っていない。これから台湾へ行こうと思う。何家で学んだことは、何家族が台湾の習慣や文化を保ちつつ、アメリカ人の住宅地でアメリカの生活様式を合わせ持っていたことだ。ここが現地でアメリカの社会になじまず、自分達の社会を作る中国人や日本人と違っていた。

                       (流星群第24号掲載)


アメリカ銃社会の特質

 多くの日本人が海外で商社などの企業の社員として出張したり、また何年か企業の現地事務所に駐在したり、又一般の人が海外旅行を何回もして帰国すると、海外の色々な所へ行ったり、滞在した場所について、見聞したことを自慢して話し、あたかもその国の場所や社会を知っているかのように他人に話すことがしばしばある。しかし、彼らは、それら海外にいた土地の社会について何も知ってはいないのだ。彼らは海外旅行で行った土地や企業の出先機関のある海外の土地に何年か駐在した場所の町並みや風景、飲食店などを外観的に見て知っているにすぎない。
 なぜならば、滞在した海外の地の現地の人の社会に入り込んでいないからだ。現地の人の社会に身を置き、例えば現地の人の隣りに住んで現地の人の言語で話したり、教会に通ったりして現地人とコミュニケーションを取って、社会性をつけ、その国の日本と異なった国民性を何も身につけていないのだ。
 長期間海外の現地に駐在する商社などの社員は、取引上最小限に現地の外国人と接するが、英語など外国語が必要な時は、現地の外国人秘書に任せている。それ以外の時は、他の企業の日本人の人々と同じ地域に固まって住んで、飲食をしたりして、日本人のみと付きあい、親睦をし、日本に帰ってから役立つ、日本人同志の人脈づくりを海外で行っているのだ。やはり、現地人と外国語で話すのが困難で、慣れた日本語を話したいがため、日本人同志の付きあいとなる。そのため、滞在した国の外国人ともほとんど接しないので、外国語も苦労して身につけず、現地の人々の物の考え方や習慣も身につかない。つまり、日本人は海外に滞在しても、国際性を身につけて来ないのだ。
 この点、私はアメリカの大学の歴史学の大学院に在籍し、黒人大学であったので、他の黒人学生二、三人と寮の一室で生活を共にし、その廻りの黒人社会の人々と接し、泊めてもらったり、教会に行ったりし、黒人社会に馴染み、さらに白人社会、スペイン語を話す、メキシコ系米人の社会にも融込んだので、アメリカ人の習慣や英語を充分に身につけ、社会性、国際意識、感覚を身につけることが出来たのである。とりわけ、自分自身も銃を身につけ極貧の黒人社会を歩いたり、アメリカ銃社会の特質を見たり体験した。以下、日本人の企業社員がアメリカでは絶対に入り込まない銃社会体験について記してみたい。
 私が銃社会の体験があるのは住んでいたアメリカ社会の環境による。アメリカの黒人大学、テキサス州ヒューストン市にあるテキサス=サザン大学に留学したことによる。大学の廻りは黒人の住んでいる黒人社会であり、ヒューストン市の広域の黒人社会は、その中でも貧富の差があり、大学の廻りの黒人社会はさほど貧しくなかったが、黒人社会の中でも地域によっては、極貧で、危なく、強盗や銃の発砲による犯罪の起こる黒人社会もある。全体的に見て、白人社会に比べれば、黒人社会は貧しく、銃による犯罪が起きやすい社会であるが、そうかと言って、相当な貧しい、大変危険な地域と呼ばれている黒人社会でも、戦場のようにしょっちゅう弾丸が飛んでくるわけではない。
 テキサス=サザン大学に留学していた時、歴史学の大学院に留学していたので、勉学が大変きつかった。何冊もの歴史の厚い本を読むコース、論文を書くコースなど大変量が多かったので、毎日、こんな過酷な勉学をしていたならば、頭が疲れて働かなくなってしまう。何か本から離れ、気晴しをしなければならない。
 その方法として大学のあったアメリカ南部の大都市ヒューストン市内を隈なく網羅している市内バスを四方八方に乗り、市内を隅々まで見てやろうと思った。市内には、裕福な白人が住んでいる地域、スペイン語を話すメキシコ系米人が住む所(彼らはそれ程裕福でない)、不法にメキシコから渡って来た人々が住んでいる地区、その他中米の国々の人が住む地域、貧乏な白人の住む所、黒人の住む所、スペイン語を話す人と黒人や少しの裕福な人が混成して住んでいる所など様々な人種の地域社会がある。
 黒人の地域は、その内部の黒人社会で貧富の差があり、広くヒューストン市の東部を占めている。その黒人社会は、外部から社会全体を見ると白人社会から見れば、相対的に貧しいが、広い黒人社会の中でも、比較的裕福な地域とそうでない地域、そして極貧の地域がある。この広い黒人社会は、郵便番号では77003、77004、77005に分かれるが、それぞれ、・003、・004、・005に合せ、3RD(サード)ウォード(WARD地区)、4TH(フォース)ウォード、5TH(フィフス)ウォードと呼ばれる。ウォードは地区を意味し、日本のように東京の特別区や政令指定都市の区のように行政体を持たない、便宜上の通称の区なのだ。
 中でも、5THウォードが極貧な黒人社会なのだ。その中でもライオンズ=ストリートは、ボストンやニューオリンズの似たようなストリートと並んで、全米三大極貧ストリートの一つであった。ここへは、周辺の貧しい地域の黒人でも近寄らないという通りであった。  勉強の合間の気晴しに、ヒューストン市内の路線バスをすべて終点まで乗ってやろうとしていたので、市内の東西南北、白人社会、メキシコ系米人の住んでいる地域など色々な場所を訪ねて行った。黒人の社会は、いくつかの地域へ行ってみた。多くの黒人が礼拝に来ている黒人地区の教会に行ってみたり、黒人地区の古道具屋、古着屋へ行き安い物を買い、黒人相手の安い食堂や黒人のおばさんがやっている自宅を改造した内職の店で、ハンバーガーやホットドッグ、コーヒーなどを非常に廉価で食べて楽しんだりした。その後、極貧の黒人の地域、5THウォードのライオンズ=ストリートへも是非行ってみたいと思った。
 当時、大学の寮に住んでいたので、副寮長に「極貧のライオンズ=ストリートへ行きたい」という希望を話したところ、「黒人でも近寄らない場所だから、行かない方がいいよ」と忠告され、「あそこへ行く時は銃を持っていかなければならない」と教えてくれた。  大学に入ったばかりの時、大学の近くの小さな安酒場でテネシー=バーボンウイスキーを飲みながら話し、顔見知りになった大学の近くの黒人の家の主人に、スーパーマーケットへ行った帰りに立ち寄り、「5THウォードのライオンズ=ストリートへ行って歩いてみたい」と話したら、「危いからやめろ」と一応、諫められた。後日、その家へ遊びに行った時、「どうしても黒人の極貧の街、ライオンズ=ストリートへ行き、様子を見てみたい」という私の強い願望を話したら、「どうしても行くのか。それなら、行く時は必ずウチへ寄って声を掛けてから行けよ」と言ってくれた。この人はかつて立川基地に兵士として赴任していたことがある。
 そしてライオンズ=ストリートへ行くと決めた日に、その家に行くと、主人が「どうしても行くのか。それなら渡すものがあるから」と言って奥へ行き、手持ち金庫を出し、持って来て、中を開いて二十二口径のリボルバーの拳銃を出し、「何かあったらこれを使って身を守れ」と言ってそれを持たせてくれた。
 その日はバスに乗って黒人でもなかなか近づかない、極貧の街、ライオンズ=ストリートへ向った。私が在籍していたテキサス=サザン大学はヒューストン市の中心街ダウンタウンから南西に四キロ離れた所にある黒人大学であり、東に五百メートル離れた所に、もっと大きい州立大学、ヒューストン大学がある。
 バスに乗って北の方、ダウンタウンに向うと、古くなった木で出来た黒人の家々の住宅街を抜け、黒人がやっている古くなった靴屋、銃砲店、ケンタッキーフライド=チキンの店、黒人のやっている安バーなど店が並んでいるダウリング=ストリートを通る。廃校を利用した黒人の病院もある。その後二十分、大学から乗ると、ダウンタウンに着く。ここは中心街で、ビジネス街でもある。市役所、連邦政府支所、ヒューストン警察やFBI支所、裁判所などの官庁や会社のビル、デパートやスーパー、レストラン、洋品店など多くの店が並ぶ。バスはその中心街から北東に曲がり、やがて東の方へとライオンズ=ストリートへ向かう。十分くらいでライオンズ=ストリートを通る。通りは、かつては白人が住んでいたお店が並んだ所のおもかげがあり、その後黒人が入って、貧しい地域になったようだ。通りの両側に屋根や壁が崩れた家、災害の後のような壊れた家々、明らかに人が廃材で作ったバラック、壊れていないが黒ずんだりした広く大きな家、崩れかかった、かつての酒場、ビリヤード場、レストランなど極貧の街だと分かる。黒人の男達が汚れた上着を着て、椅子に座って、ウイスキーの小瓶で昼間から酒を飲んでいた。何人かの男達は通りの歩道や車道に足を投げ出し、酒に酔ったのか、寝ていた者もいた。
 私はバスを降り、その地点から二キロぐらい歩いてみた。初めてライオンズ=ストリートへ行った時もそうだが、それ以後そこへ行った時も、バッグの中に大学の近くの黒人の主人に借りた二十二口径の拳銃を入れて、隠し持っていた。アメリカの住所は、日本の住所のように一定の大きな土地に番号を打ち、○○町三百六十五とか21514のようになっているのと違い、ストリートに0から千番台まで等距離に番号を付け住所にしている。バスを下りた所がライオンズ=ストリートの千(一〇〇〇)だとすると、五〇〇〇番まで歩いた。約四キロである。歩いている途中、変な汚い格好の男が話しかけて来たが無視した。ライオンズ=ストリートの四〇〇〇番台になると、低所得者だが、崩れた家の極貧の黒人の街ではなく、スペイン語を話すメキシコ系米人が住んでいて、相当古くなったかつては白人が住んでいたであろう木造の家が並んだ所になる。
 ライオンズ=ストリートのような極貧の黒人の地域では、質の悪い人間が刃物で脅し、金を要求したり、強盗をしたり、時には、初めから殺しに来る場合もある。そのような時、丸腰では自分を守り切れないし、殺されるままだ。刃渡りの長いナイフで襲われたらたまったものではない。そこで、刃物で向って来た時に銃を出し、銃口を向けて相手を威嚇したり、場合によっては、そらして威嚇発射すれば、刃物を持った男の突進を止め、退散させることが出来る。ライオンズ=ストリートにはその後五回行ったが、幸いにして一度も銃を抜いて威嚇したり、発射することもなく済んだ。それは、前もって大学内で、シカゴ、ボストン、ニューヨーク、マイアミなど犯罪が多発する大都市から来た黒人学生達に、それぞれの都市で最も危険な黒人社会の地域の特徴について事情を聞いていたからである。
 貧しい黒人の地域では貧しさから非行に走り、薬物を常用したり、ナイフなど刃物で強盗や殺しをやるのは言うまでもないが、私が黒人学生達に聞いた所によると、彼らは夜に暗躍し、昼間は寝ている事が多いという。従って、彼らが寝ている昼間に行けば、比較的安全だということである。正に、鬼のいない間の洗濯である。黒人社会という藪に悪いヘビがいないか竹棒でつついて慎重に行ったということだった。
 ライオンズ=ストリートは隅々まで見て歩いた。ある日、往きの市内バスがライオンズ=ストリートに差しかかった時、私が座っていた座席の窓ガラスが、酒に酔って通りに寝転んでいた黒人の男の投げたビール瓶によってヒビが入った。すぐに、黒人のバスの運転手が急ブレーキを掛け、バスを止めて降りて行って、その男を軽く蹴ってバスに戻り、再び運転し始めた。帰りのバスで、私はビールの空き瓶を拾っておき、その男がまだ道路に寝そべっていたので、お返しに空き瓶を投げてやった。その男の顔の近くで空き瓶が割れた。これを見て、帰りのバスの太った黒人の運転手は「よくやった!」と言いながら手を叩きゲラゲラ笑った。私は「往きのバスで窓に空き瓶を投げられたので、やり返した」と説明すると、太った運転手は首肯いてくれた。(ライオンズ=ストリートは十五年ぐらい前に、ヒューストン市の都市計画により整備され、現在は存在しない。)
 銃社会の経験に関連する事として、アメリカ大学警察での経験がある。一般的にアメリカの大学は面積が広く、また学問により高度な知識を養う聖なる地で、凶悪な暴力犯罪があってはならない。また勉学に励む学生も教育上、規律上、暴力的犯罪や窃盗などの犯罪を犯さないよう取締らなくてはならない。
 そこでアメリカの大学では、市の警察や州をいくつかに分けた郡の警察である保安官事務所から独立した警察権を、大学の自治の基に持っている。その捜査権、警察権は大学の敷地内とその周辺地域である。周辺地域で犯罪人を見つけても自ら逮捕せず、逃げないようにして、市の警察や保安官事務所に連絡し、そのいずれかに引き渡す。
 テキサス=サザン大学で、私は大学院生として選ばれた大学警察の捜査アシスタントとして少しの手当を貰い、活動した。それに選ばれた理由は、私のルームメイトが同じ大学のロースクール(法学大学院)の学生であって、寮でその学生とアメリカの法律と日本の法律は、どう違うかなどを議論していたので、そのことが伝わり、私は法律にある程度精通している者として推薦されたからだ。大学警察の部屋に於て、テキサス州の刑法などのあらましを必要な範囲で習い、必要な逮捕術として警棒の使い方などを正規の大学警察の制服の警察官に習ったりした。大学は教育という知識を養う神聖な場所であるので、銃は使用しない。一つにはあまり凶悪な犯罪が学生によって犯されないことと、学生から選ばれた捜査アシスタントとして自主的に大学の自治権に基づき、他の学生の犯罪を取締っているので、銃を使用すれば、捜査権を持つ学生が他の学生に銃口を向けることにもなるので、教育の場、大学としては好ましくないからである。
 学内で寮に住む学生が犯した犯罪について捜査したり取締ったりした。例えば鍵の掛っていない隣の学生の部屋から財布を盗んだ窃盗とか、軽い暴力行為とか、飲酒の取締りをもした。また学生が銃を持ち込んでいないか部屋にある持物検査をもした。時にはガールフレンドを奪い合った暴力事件も取り扱った。一番重要な捜査はマリファナなど薬物使用の捜査であった。前もって、大学警察の部屋で薬物の標本を見せられ、試しにそれら標本の薬物を燃やして煙の臭いを嗅ぐのである。ラテンアメリカのマリファナでもコロンビア産、メキシコ産などもあり、また東南アジアの国々の産など色々あり、それぞれ煙の臭いが違う。これらの臭いを覚えた。  マリファナなど薬物を取締るには部屋で学生が吸っていると部屋から薬物の臭いがする。それを探るため、廊下を靴を脱いで足音を立てずに、学生がマリファナを吸っている部屋に近づき、学生が吸っているのを確認すると、大学警察の本部に無線連絡し、外側で学生が窓の下の庇に隠れないか制服の警察官がパトカーで来て張り込み、捜査アシスタントと制服の警察官とでドアを開けさせ踏み込んで逮捕する。やってみて大変スリルがあった。
 学生から選ばれた捜査アシスタントは各寮から二人ずつ選ばれる。そして学内で黒人学生が犯した犯罪を大学警察からテキサス州ヒューストン市内の州郡裁判所内にある州検事局の(DISTRICT ATTORNEY,S OFFICE)検事に事件として送るための用紙に書き込み、他の捜査アシスタントと交代で、黒人学生が学内で犯した微罪を検察官に報告に行った。検察官はすべての犯罪を把握していなければならないという原則からである。
 検事局では白人の女の検察官と、黒人の男の検察官が大学の事件担当検事であった。大学で黒人学生が犯した軽微な犯罪は通常、白人の女性の州検事(検事補)に報告をする。女性の州検事が大学での学生の事件の報告を受けるのは、女子学生が性的犯罪に会ったりした場合に女性検事の方が対応を配慮できるからだ。男の検事の方は、めったに起こらないが学生が学内で殺人を犯したり、大学の建物に放火をしたとか悪質な犯罪や一般の人が独立した捜査権のある大学内で犯した事件を担当する。例えば銃を持ち込んだなど大学の学生が犯した軽微な事件の報告を受けた白人の女性検事補は、男の黒人の検事にもそれを説明し協議をする。
 通常、学生が犯した犯罪は検察官は初めから罰しない。それは学生の犯した犯罪は軽微であり、罰金刑ぐらいであり、また教育の場があっての司法手続きであって、大学は学生が犯した犯罪について、大学の方で停学や退学処分など懲戒的罰を与えているので、罰金刑など軽微な事件で起訴し二重に罰する必要はないからである。大学当局が停学や退学の処分では足りず、さらに罰する必要があると判断し、学長や学生部長の名で検察官に文書で請求した時に、罰金刑などを課す。
 例えばある学生が、盗みなどを前の大学で犯し、退学処分を受け、現在の大学でも再び犯罪を犯した場合などがそれに該当する。しかし、殺人を犯したとか、大学の建物に放火したなど、重大な悪質な犯罪については、有無を言わせず検察官は検察起訴陪審である大陪審に起訴の評決を求める手続きを取る。悪質な犯罪なので、大学教育の場の処分に委ねられないからだ。また大学内の職員が公金横領などを犯した汚職事件などは大学警察は捜査せず検事局が直接捜査する。  私は四回ぐらい検察官に学生の犯した犯罪について報告に行った。大学内に住む学生の寮毎に学生の犯罪について書いた検察官あての用紙に記入したものを集め、代表して交代で検察官に報告に行ったのだ。大学警察のパトカーに、大学警察が市の警察に連絡がある時などに乗せてもらって郡裁判所の検事局に行ったこともあれば、自分で市内バスに乗って書類を検事局に持って行ったこともあった。パトカーが学内パトロールであいてない時などバスを使った。
 ある時、バスで書類を検事局に持って行った時、帰りは白人の女性の州検事補が、ルイジアナ州の検事局に自動車で捜査に行くので乗せてもらい、大学まで送り届けてもらった。大学から少し行った所にルイジアナへ行く高速道路、ガルフ=フリーウエイの入口があったからであった。州検事は、テキサス州で強盗や放火を犯した男が、以前にもルイジアナ州でも同様な犯罪を犯していて、テキサスで起訴し量刑を決めるため、ルイジアナ州でどのように刑を課せられたかの記録を調べる捜査に行ったのだ。警察には出来ない捜査であった。ルイジアナ州はフランス領であったのでフランス法体系(ナポレオン=コード)(制定法)でイギリスの伝統の慣習法(コモン・ロー)のテキサス州と刑事裁判の手続きと量刑の課し方が違うのである。それを参考にするため州検事補はルイジアナ州へ捜査しに行ったのであった。このような経験は、日本の法手続きではありえないことで、日本の刑法学者、検察庁や警察も知り得ない法手続実務なので貴重な経験をした。
 テキサス=サザン大学の大学警察の本部長をやっていた人が、黒人の男の人で背の高さが二メートルぐらいある人で、かつてニューヨーク市立大学の犯罪学の大学院を出て、三十代でニューヨーク市警の殺人課課長をしていた。その後、テキサス=サザン大学の警察本部長として赴任した。日本だったら東大を出て警察庁のキャリア官僚にあたる。違うのは東大出のキャリアは行政官で銃も持たないし、パトカーにも乗らないが、黒人の本部長は、それが出来た。クリスマスと正月の冬休みなどにホーム=ステイして泊まり、ニューヨーク市警の業務などについて教えを請うたのである。
 ある日、破壊力のある四十五口径の銃を持った男が大学の構内に入って来たことがあった。危険な非常事態なので学生達を避難させなければならない。私は捜査アシスタントとして受け持ちの寮の学生の部屋のドアをドンドン叩いたり、内線で銃を持った男が捕まるまで、鍵を掛け、部屋を出るなと指示した。大学の敷地の両側の端にはヒューストン市警と郡保安官事務所のパトカーが、それぞれ待機していた。結局、大学警察のパトカーが逃げる銃を持った男を構内から外へ追って行き、郡保安官事務所のパトカーと近くの教会の玄関の所に追いつめ、保安官事務所のパトカーが逮捕した男を引き取り連行して行った。本当にひやりとした。アメリカで大学や高校で学生や侵入して来た男が銃を乱射して死者が出る悲惨な事件がテレビなどで時々報道されるが。被害のない、銃を持った男が入って来る事はニュースに取り上げられないが、頻繁に起きているのが実情だ。
 銃社会を象徴する事件が平成の初め頃起きた。米ルイジアナ州立大学に留学していた学生服部剛丈が、間違ってよその家に夜間行き、撃たれて死んだ事件である。一九九二年十月十七日に、米ルイジアナ州、バトン=ルージュにあるルイジアナ州立大学に日本から交換留学生として学んでいた服部剛丈が、ハロウィーンパーティーの日の夜にハメをはずし、自分が行こうとしていた友人の家と、まったく他人の家を間違え、入って行こうとしたところ、家の主人が驚き、警戒して家に近づかせまいとして、家の中から長いライフル銃を持ち、威嚇し、剛丈を追い払おうとして、銃を構え、「動くな! 近づくな!」と言い、退去させようとしたところ、剛丈は言葉が分からず、「何ですか」と言い、主人の方に近づいた所、主人は攻撃されると思い、身を守るため、ライフルを一発発射した。剛丈は胸を撃たれ死亡した。法的には正当防衛が成立した。
 この悲劇的な事件は、留学していた服部剛丈がアメリカの社会を知らず、日本にいる感覚で行動したために起ったのだった。アメリカでは通常、夜犯罪が多く、多発しているので夜は出来る限り、外出しないようにしている。特に夜に歩いて外出することは、襲われるので、白人の住む社会でも、黒人の住む社会でも禁物なのだ。もし、外出する時は、行く前に行く家、相手の家に「これから行く」旨の電話連絡をした上で、自動車で行くべきなのだ。そうしないと、相手の人は、いきなり訪問されれば、誰か見ず知らずの人が襲って来たと警戒し恐れるのだ。そのように白人や黒人社会では、夜は人通りがなく、人が外出しないので、目撃者がないため、強盗などの犯罪をする悪い人間が暗躍しやすいのだ。
 そんな環境で服部剛丈が、アメリカの社会の夜の習慣を理解せず、日本にいるつもりで夜にはしゃぎ回って、ハロウィンパーティーに行き、友人の家と間違え、知らない他人の家にいきなり行けば、その家の主人は、何者か不審者が襲って来たと思い、銃を持ち追い払おうとするのは当然である。家の主人が、「動くな!」と言って静止させようとしているのに、そこで直ぐに帰れば、無事で問題なかったのに、言葉が分らないというので「何ですか」と小走りに近よれば、襲って来たと思われ、撃たれるのは当然である。剛丈は、「郷に入れば郷に従え」の諺に反し、「郷に従わなかった」ことにより、撃たれたのだ。
 白人や黒人の地域では夜は外出しないが、メキシコ系米人の社会は夜外出する社会であり、前者とは異なるのである。従って、服部剛丈がメキシコ系米人の社会で夜、他人の家と友人の家と間違って行っても撃たれなかった可能性が大きい。ヒューストン市の中心街ダウンタウンの北側は、メキシコ系米人や不法滞在のメキシコの人々が住む地域で何度も足を運んだが、夜八時以後、十時近くなっても、人々が歩いて、レストラン、バーや酒場、スーパーマーケットへ買いに行ったりしていた。お母さんが女の子二人を連れて、夜九時過ぎに道を歩いて買い物に行っていた。まだ、多くの人々が道を歩いていた。白人や黒人の地域では同じ時間帯は外出せず、人出がないのと大違いだった。一つには所得が低いので自動車を持つ人が少ないこともあるが、民族性、国民性による習慣の違いによるだろう。スペイン系の人と混血している場合もあるが、メキシコ人の祖先はモンゴロイドのアジア人で、太古の昔、シベリアとアラスカが地続きであった時にアメリカ大陸に渡って住みつき、メキシコ人、中米人、南米人などの原住民となったので、メキシコ系米人のお母さんが子供を連れて歩いたりする習慣は、日本人と何か似ていると思える。服部剛丈がメキシコ系米人の所で夜、家を間違い、他人の家へ行っても銃を構えられず、行くべき家を教えてくれたであろう。人通りが多いのでメキシコ系米人の地域では夜、犯罪が起こりにくいのだ。目撃者が多いからである。
 服部剛丈の両親は、葬式の席で、息子が銃で撃たれたことについて、「こんなことがあってよいのでしょうか」と出席者に同情を買うように悔しさを憤懣やるかたない風に言って、アメリカ社会を非難していたが、息子の剛丈が、アメリカ銃社会のルール、つまり、夜の外出は控えるというルールを知らず、他人の家に間違えて行くなどという、やってはいけない事をした否については棚にあげて言っているのは、自己中心的な主張である。剛丈の両親の心情は、息子が米国への交換留学生に選ばれ自慢であったのだが、一転して銃で撃たれて息子が死に、悲劇になったので、その心理的落差からみじめになって、アメリカ社会のせいにして、怒りをぶつけたのだ。
 私は一度だけ、大学寮を出てアパートに住んだことがある。この時は、黒人の極貧の地域ライオンズ=ストリートへ行った時、二十二口径の銃を貸してくれた黒人の主人に保証人になってもらい、身を守るため、銃を持った。二重になっているベッドのマットレスの間に隠し持っていた。室内にいる時や寝ている時に、何者かが襲って来た時にすぐ銃を抜いて対応できるようにしていた。また、もしアパートに銃を持った人間が侵入して来た時は、一人で対応せず、前もって隣の部屋に住む人々と話し合っておき、何人もで応戦しようと申し合わせておいた。銃を持った男一人に対し何人もで応戦すれば、相手は逆に自分がやられると思い、退散するからである。
 銃を持つと大変な依存心が出て麻薬と同じである。銃を持つと持たないでは、安心感が違って来る。アパートの一室で銃を持たずに寝ている時など、いつ何時、誰かが襲ってくるのではないかという気があるので、眠っていても、何か音がすると、目が覚めてしまう。ところが、銃を持つと安心してぐっすり深く眠れるのである。
 考えてみれば、小さい二十二口径の銃であっても持っていれば、自分より体格のはるかに大きい、素手で戦っても敵わないプロレスラーやボクシングの世界ヘビー級チャンピオンにでも撃てば勝てるのだ。威嚇すれば対抗できるのである。このことが、アメリカの社会で、いくら銃を規制しようとしても(ガン=コントロール)できない理由である。人々が銃を持っていれば安心だが、手放した時の不安は大変なものである。
 例えば、アメリカでABCDと四つの家があったとする。その内B家の主人が銃撲滅主義者だったとする。他の三家ACDの主人達が身を守るため銃を所有したいとする。そこで銃規制を唱えるB家の主人が、一人だけ率先して銃を放棄し、丸腰になれるかと言うと現実的にはそれが出来ない。銃を放棄し、一人B家だけもっていないということが知れれば賊に狙われ、銃で襲われるからだ。銃の規制や放棄を唱える人が、引き続き銃を所持しなければならない事情が現実にある。それと、前に述べたように銃を所有することで銃の依存症というか、麻薬性があるので、銃の所持者はなかなか銃を手放せないという事情があるのだ。
 よく、日本人の銃の所持に反対する主婦達が「銃は絶対に許しません!」と強く言っているが、それは銃を完全規制し銃の所持のない日本の社会だから言える理想なのだ。銃に反対の主婦達が銃のあるアメリカ社会に住めば、その主婦達こそ、「銃の所持は許しません!」と言っておきながら、銃に怯え、誰言おう、真先に銃を持とうとするのである。それが現実なのだ。日本は銃を取り上げて安全性を保っているが、アメリカ社会は銃という毒に対して、別の銃という毒で拮抗して安全を保っているのである。(アメリカでは警察の管轄が東京から小田原ぐらいまで広い。ゆえに個人で銃を持って自分の身を守らなければならない。
                       (流星群第23号掲載)

 

リサイクル機構をいかに社会に確立するかについて

 現在、今もっての日本は長い不況に喘いでいるが、それでも人々は依然として、かつての好景気の時の大量生産による、物が有り余った生活の中にいる。まだ十分に使用出来る物がゴミとして焼却され、その過程で発生したガスで大気が汚染されたり、粗大ゴミとしての家具類や電気製品等が野原や山林に不法投棄され、かつ、野放しにされ、挙げ句の果てに錆びたり、ハエや蚊の発生の温床になったりしている。
 このように、一度使用された物で、もう一度他人に渡れば価値がある物が破棄され、かつ環境をも脅かしている現実を解決するには、それらの物を再利用、活用するリサイクル事業が確立した経済機構を社会に作らなければならない。
 そこで以下に於いて、リサイクルを社会に根付かせるにはどうしたらよいかについて、小さな視点からは、再利用できうるリサイクル資源をいくつかの品目に分類した上で、どう加工、修繕でき、また販売できるかについて述べ、さらに大きな視点からは、リサイクルを社会機構として確立するには、官民でどのような努力が必要かを論じてみたい。
 先ず、一番身近な物でリサイクルしやすいものはガラス製の酒類のビンである。これまではゴミとして回収され、その後機械で砕かれ、ガラス製品を再生する原料としてリサイクルされていた。
 この方法だと労働力等のコストがかかり過ぎるようだ。このコストを省くには、すべての洋酒メーカーに清掃局に回収された自社製のウイスキーやブランデー及び日本酒などの空ビンを丸ごと無償か、少し手数料を払って引き取ってもらい再利用してもらうのが望ましい。これまではビールビンだけは試みられていたが、その他のビンもそうされるべきであろう。
 同様に、ペットボトルやガラス製のインスタントコーヒーの容器などもそのような方法で回収し、フタを変えて新たな製品に再利用すればよいと思われる。生産の回転も効率的に早くなる。缶ジュースなどはプルトップが取れても、缶を回収し、金属テープを貼れば使えるであろう。
 発泡スチロールやプラスチック類は石油に還元する技術が望まれ、回収して利用されるべきである。また木材で家を取り壊した廃材は回収して焼却せず、紙の原料として使ってほしい。古タイヤは積極的に輸出すべきだ。
 次に、大企業で使われていた設備機械は、これまでのように解体業者に渡り解体されるのではなく、中小零細企業に仲介し、廉価で譲るべきである。
 小さな企業は新品では何億もするので買えないが、まだ稼働する設備機械を安価で譲渡されれば中小企業の産業育成、特に地方の振興に役立つ。医療機械、例えばレントゲン等のものは、これまで同様、病院の勤務医から開業する医師の設備機器として安価で譲渡すべきであるし、特に、山村などの診療所に譲れば地域医療の改善にも役立つ。海外、特にアジア、アフリカの諸国の病院等に安価で譲れば国際医療開発援助になろう。
 次に大局的に官庁主導でリサイクル事業を築きあげる方法については次の通りである。まず国家機関でリサイクル事業が出来るのは刑務所である。各清掃局で回収された電気製品や家具類を刑務所で引き取り、修理技術を身に付けた受刑者が修理し、その修理したものを模範囚の生活や刑務所でまず使う。さらに学校、大学や福祉施設や生活保護者に優先して利用してもらえば良いと思う。廉価で販売して引き取ってもらうのだ。
 さらに品物が余れば刑務所内に各地域の自治体の援助で第三セクター方式の販売所を設立し、修理したリサイクル品を一般の人々に安価で販売するとなお良い。職員は刑を終えた受刑者を雇用すれば、再生事業にも寄与することができる。そうすれば、刑を終えた受刑者が出所する時の収入アップにもなる。
 次に民間のリサイクル業者の育成を自治体がいかなる方法で助成できるかについて論じたい。
 発泡スチロールやプラスチック等は、原料であった石油系オイルに還元可能である。もしそのようなものを開発できる技術を持っている企業が採算が取れず、赤字になって事業として成り立たないならば、国や自治体は財政援助して利潤が出る分まで助成すべきである。
 また国や自治体のリサイクル企業育成は不況による失業対策にも役立つ。不況やリストラで職を失った人々を一時的に雇用する企業として、自治体が財政援助した第三セクターのリサイクル企業を設立するのである。
 さらに、この種のリサイクル事業は福祉にも役立つ。福祉施設で作業所や福祉授産所に自治体が財政助成し、電気店や清掃局で下取りや回収された電気製品を引き取り、心身障害者のリハビリや就労として修理する技術修得に役立て、修理されたリサイクル製品は生活保護者や老人ホームのお年寄に優先して分け与えるのが好ましい。またそれを売った代金は、障害者の収入として還元するのも方法である。
 以上の方法でやればリサイクル事業はしっかりと社会に新経済システムとして根付く。               (流星群だより27号に掲載)



 

   我が考古学修得の体験記

 多くの分野の知識を持つ筆者にとって考古学を学ぶ方法は、他の知識を身につけたやり方と違っていた。他の知識は、大学、大学院、そして多くの講習を受けた後自分でその分野の本を図書館から借りて読み深めたもの、電気回路や溶接など高等技術校に通って身につけたもの、自分で本を読み、独学で身につけたものだが、考古学を身につけた方法は特異なものだった。
 初めて考古学に触れたのは、保育園に行っていた頃、父親に静岡市に連れて行ってもらい、古代人の住居が保存してある登呂遺跡を訪ねた時だった。ワラの屋根を持つ古代人の住んでいた竪穴式住居の中へ入ってみた時、古代の人々の家に感心したのだった。
 小学校に入ってからは、あまり考古学に興味はなかったが、学習雑誌の特集で、南米インカの人々の骨、頭蓋骨に四角い切った痕があり、それが頭を手術していたのではないかという記事に興味を持ったのが一つ。それと、江戸時代に福岡市の志賀の島の農民が畑仕事をしていた時、小さな金印を発見し、それが当時の中国の王朝、後漢に、倭の王族が朝貢していたことを証する印章であった。「漢倭奴国王」と印にあり、後漢書東夷伝」にも記述がある。
 この二つに興味を持った以外、大学生になるまで、中学、高校と殆ど考古学に興味を持たなかったが、弟の使っていた高等学校の国語の教科書に、小学校の学歴しかない行商人、相沢忠洋氏が、行商に行く途中の地層を調べ、それまで日本ではないとされていた旧石器時代が、日本にもあったことを証明した。群馬県岩宿で火山灰の層である関東ローム層の下から石器を発見したことが、相沢氏自身の体験記に載っていた。それを読み、考古学に興味を持った。昭和五十年頃のことである。
 同じ頃、かつて私が住んでいた東京都港区の新堀にあるお寺さんが経営している幼稚園の境内から、江戸時代の女性のミイラが発見され、肌が生きていた時のようにみずみずしい状態だったことを知った。たまたま自宅にあった港区の郷土史の本の中に、小学校時代によく遊んだ東京タワーの近くの芝公園は、全体が古墳であることが書かれていた。同公園は、階段を昇るようになっていて、二階の藤棚がある休憩場、そしてさらに三階へ階段が続き、頂上はベンチのある見晴し台と、すぐ隣にゴルフ場のネットがある。頂上には江戸時代の地図の測量家、伊能忠敬の石碑の台がある三十メートルの高さの丘である。この丘の前には柵で囲んだ梅園がいくつかあり池もある。
 この芝公園が、郷土史の本によると学術的に調査がまったく行われていない上に、残念なのは、半分以上ゴルフ場を建設した時、古墳の一部が切り崩されてしまったことだ。芝公園の隣は、徳川家ゆかりの増上寺や東照宮の分家があり、かつてはここで二代将軍、秀忠公の皮膚のみずみずしいミイラが発見された所である。
 私はそれを知り、すぐに芝公園の現地へ行き、簡易調査を行った。一階の梅園から二階の休憩場へはやや急な斜面になっていて、雑草が生えていた。そこには多くの貝殻の破片と、ごく小さな土器のような欠片が得られ、それを横浜の自宅に持ち帰り、和菓子の箱を区分けした中に入れ、標本にしたものだった。
 そのすぐ後、自宅の裏の小学校の社会科教師が、小学三年生の使う郷土の教科書を作るため、向い側の丘の私有地に遺跡があり発掘するというので、一緒に発掘を手伝った。約三十メートルの丘の斜面で、貝殻や土器の欠片を収拾できた。師岡遺跡であった。
 このように考古学に興味を持ち、昭和四十九年初版の小学館の「日本の歴史Ⅰ」古代史編で考古学の歴史について調べてみた。すると、日本の考古学は、多くの在野の、それも学歴も高校程度の人々によって調べられ、発展してきたことを知った。
 大学の考古学調査が行われず考古学者がいなかったのは、終戦前は、天皇が神格化され、紀元二千六百年前に誕生したという皇国史観が幅をきかせ、思想的にも取り締られ、科学的で客観的な考古学は、生神様である天皇の先祖を否定するものになるので、大学の学部に考古学が置かれることはなかった。そのため、多くの学歴のない庶民の研究家によって、考古学は調査、研究されることとなった。わずかに大学では、東大などの自然人類学などで、骨を中心に古代人の研究がなされているのみであった。
 大学の研究者ではなく考古学をやっていた人の例をあげると、東京開成中学の英語教師だった酒詰伸男氏、古墳の調査を行い論文集「史論」を刊行。岩倉鉄道高校出身で、兵庫県明石で、明石原人を発見し、後に早稲田大学の教員になった直良信夫氏。京都大学で空いた教室で自主講座を開いていた森本六爾氏。旧制中学の学歴しかなく、銅鐸や弥生時代の農耕文化について多くの論文を雑誌「考古学研究」や「考古学」に載せ発刊したが、病に倒れ、わずか三十二才で没している。
 森本氏に影響を受けた藤森栄一氏は、長野県諏訪で旅館を経営しながら、前記の「考古学」や独自のガリ版刷りの雑誌を作り、論文を発表していた。
 その他に橿原考古学研究所の所長となった末永雅雄氏。九州の邪馬台国の発掘をした原田大六氏など、いずれも旧制中学の学歴であった。
 中でも、前述の岩宿の発見をした相沢忠洋氏は、日本に旧石器時代の層を発見した考古学者だが、小学校ぐらいの学歴しかなかった。そして、それには伏線があった。この相沢氏の発掘を学術調査を行ったのが、明治大学考古学研究室の芹沢長介氏であったが、明治大学では先輩達が日本には旧石器時代は存在しないという説を教えていたので、旧石器時代の存在を主張する芹沢氏は、明大を追われることとなる。学歴のない相沢氏と共同調査を行ったこともその理由である。
 その後、芹沢氏は東北大学に移ることになるが、さらなる伏線がある。二〇〇四年頃、高卒の考古学者の研究者が集まる東北考古学研究所が、珍しい土器を発見して実績を上げていたのだが、ある時、その一人で、これまで「神の手」「ゴッドハンド」と呼ばれた者が、意図的に珍しい土器を地面に事前に穴を掘り埋め、新たな石器を発見したように見せかけたねつ造が新聞記者に見つかり問題になった。同研究所を応援していたのが停年で東北学院大に移っていた芹沢長介氏であった。その後同研究所は、役所からの助成金が打ち切られた。相沢忠洋賞も取り消しとなった。
 このように、学歴のない多くの人が、考古学の調査を行って来たことを知り、私も地域で考古学の活動をやってみたくなった。昭和六十年頃のことである。
 まず、自宅のある横浜市港北区大倉山あたりの遺跡を回ることにした。自宅近くにある熊野神社の資料室博物館は、毎年八月末のお祭りの時には無料開放している。この神社の山全体が遺跡であって、多くの考古学の貴重な出土品と鎌倉時代以後の古文書が、資料室には展示してある。中でもピンク色のガラス質の石器と薬研は特に珍しい。宮司の娘さんの説明によると、戦前から先代の宮司さんが、地道に発掘をし、出土品を分類し、学芸員が年代を整理したそうだ。国学院大学を出た宮司さんが、皇国史観が唱えられた神社で、考古学的調査を行われていたのには驚かされた。
 その他に自転車で菊名小学校にある菊名遺跡、網島遺跡、梶山遺跡、下末吉遺跡、川崎の夢見ケ崎公園の遺跡を回った。遠い所では、勝土遺跡、世田谷区の等々力渓谷の遺跡、大森貝塚、港区の亀塚古墳、横浜市南区の三殿台遺跡などを訪ねた。また、神奈川県の大和市や海老名市で、県庁がやっている発掘現場見学会にも参加した。一度、石原軍団の俳優で考古学研究家の苅谷俊介氏にお会いした。
 この間に、古代ではないが、教師をしていた父親の紹介で、東京都品川区の教育委員会に協力する形で、大井町のジェームス坂下の江戸時代の味噌屋の跡の発掘に参加し、味噌樽の破片や茶碗の破片を自分の手で発掘し、手に取って喜んだものだった。
 考古学現場に足を運ぶだけでなく、多少書物でも学ぶ機会を持った。港北区の持っているリサイクル文庫で、他の人がいらなくなった本を出し、別の人が出した本を無料で持ち帰ることが出来る書棚がある。ここで、東京都教育委員会の八丈島の遺跡考古学調査報告書、川崎市教育委員会の発掘調査紀要、富士吉田市教育委員会の考古学研究紀要などを無料で入手出来た。川崎区の貝塚町の歴史と名前の由来、忍野八海の古代遺跡などが勉強になった。中でも圧巻だったのは、八丈島は、元来鎌倉以来、犯罪を犯した者が島流しとなって、流刑者として一生を過ごした場所であったが、それより遥か前に、古代の人が船を作り島に渡って来た遺跡がある。そして、八丈島の地層には、大昔の九州桜島や阿蘇山が噴火した時に、黒潮に沿った風に乗って、火山灰が降った地層が見られることだ。そのくらい、二つの火山の噴火は大きかったことがわかる。鹿児島のシラス台地の地層と同じである。
 これからの筆者の抱負として、「自転車で回る考古学調査」として住んでいる港北区師岡町の周辺の町、樽町、新吉田町、篠原町には小さな遺跡があったが、家を建てた時に調査もされずに失われてしまった。家が建っている周辺から貝殻や土器片でも見つけ、ここには遺跡があったと推定される記録を残したいと思っている。
 かつて樽町の農家の畑に貝殻が多く出ており、何回も教育委員会に貝塚として保存を申し入れたが受け入れられず、しばらくしたら、ダイクマが建ってしまった苦い思い出がある。
 自転車で考古学の調査をやるだけでなく、近くの港北区の鶴見川の流域には、相模川大堰にしかないと言われるタコの足と呼ばれる吸盤のようなものを持つ赤い葉の雑草がある。それの植生を川の土手で監視しようと思う。さらに、新吉田町や樽町の丘で、枝葉の断層がないか調べてみたい。東日本大震災では、福島県などで枝葉の断層が動き、地滑り被害をだしたから。防災になるので。
                    (流星群だより26号に掲載)

 

   医者から処方された薬を無駄なく使う方法

 いつもゴミを捨てにゴミ捨て場に行く時に思うことだが、多くの人がお医者さんから貰った処方薬の多くを無駄にしていることに気がづく。医者に処方された薬が殆んど飲まずに薬袋ごと、透明のゴミ出し袋に入れられて、捨てられているのだ。殆んどの人が医者に処方されて、ある程度の薬を飲んだ後、例えばカゼなどの不快感や足を痛めた時など、それが治ると、残っている薬をもういらないとばかりに、薬袋ごとゴミ袋に入れて、捨ててしまうのだ。
 このようなやり方で、薬をむやみに破棄することは、大変もったいないことだ。考えてみれば、普通、患者は健康保険組合に加入していて、保険の種類によって一割から三割負担で薬を薬局から受け取っているので、薬の値段を安く感じている。が、もし、保険に加入しておらず、十割払っていたら、相当高い薬代を支払うことになる。そのことを多くの人々は認識していないのではないだろうか。それゆえ、医者から薬を処方され、ある程度飲んで病が回復し、気分が良くなると本来は高い値段である薬のおかげ、有難さをわすれ、残りをゴミとして捨ててしまうのだ。
 広く、人々がお医者さんから処方してもらった薬を、最後まで飲まず捨てないようにするにはどうしたらよいだろうか。それには、人々が薬の知識をつけ、処方された薬を知ることであって、さらに、もし、薬を保険が効かずに十割を支払ったなら、薬は大変高い値段になり、貴重なものだということを認識することだ。そうすれば人は、例えば、カゼをひいて、処方された薬をある程度飲んで、不快感がとれたとしても捨てずにとっておいて、次にカゼをひいた時に、また同じ薬を飲もうという意識が出来、ゴミに捨てたりして、薬を無駄にしないようになるだろう。
 薬の知識をつけるというのは、薬には一つの効果だけではなく、別の疾病の症状にも効くものがあることを知ることだ。人がそのような薬の知識を少し持てば、人々は医者から処方してもらった薬を捨てずに取っておいて、別の症状が出た時に使うようになるかもしれない。
 その具体的な薬の例をあげてみたい。ある人が、足を捻挫で痛めたり、膝をひねって痛めたとしよう。その場合、その人は整形外科へ行き、貼り薬と痛み止めの飲み薬を処方してもらうのが普通だ。そして、人は痛みを止めるためその薬を飲み、痛みが取れ、薬が余ったとする。その薬を捨てずに取っておけば、カゼをひいた時にカゼ薬としても使える。整形外科で処方してもらったその薬は、解熱鎮静剤と呼ばれ、カゼについては熱っぽいだるさや寒気の不快感を取ってくれるものだ。もし、薬の知識のある患者であれば、薬をゴミに捨てずに取っておき、風邪薬として使っただろうが、知らない人だと足の痛みが治ると、残りの薬を捨ててしまう。このようなことがないように、薬の知識をつけて、薬を捨てたりしないで取っておいて、カゼをひいた時に飲んで、内科医へ行って薬を処方してもらわなくても、整形外科でもらった痛み止めを飲んで代用するのだ。そうすれば、医者代、薬代を節約できる。私は、このような自己処方を実行している。
 同じように、解熱鎮痛剤を出しているのが歯医者である。主として歯を抜いたり、歯を削ったり、あるいは虫歯で、ひどいもので神経の根を深くいじって、ひどい痛みがある時、痛み止めとして出している。三日分とか少ないもので、整形外科や内科のように一週間分とか多くは出さない。歯の治療で、特に痛い場合は、飲まなくてはならないが、そんなに痛まなければ飲まなくても済むこともかなりある。私の場合がそうであって、何回も歯医者でもらった痛み止めを飲まずにとっておき、カゼ薬として使っている。
 歯医者は、一般の医者と違う傍系の医学なので、解熱鎮痛剤や抗生物質も一般の医者が出せる薬のほんの一部、限られたものしか患者に出せない。しかし、私が薬の辞典や一般向けに書かれた医学雑誌、NHKの「きょうの健康」などを見て調べると、歯医者が出している解熱鎮痛剤、抗生物質は、整形外科の出しているものと同じものを出している。また、これらは内科でもそれと同じものをカゼ薬としても出している。それ故、飲まずに取っておけば、カゼ薬としても使えるのがわかる。
 他に歯医者は歯を抜いた時には、抗生物質を出す。また内科でもカゼをひいた患者に解熱鎮痛剤と共に処方している。この抗生物質は、バイ菌を殺すための薬であるが、歯医者が出したり内科医がカゼをひいた時に使うのは、予防のためだ。歯茎が化膿しないためと、カゼの二次感染で肺炎にならないようにするためだ。このような抗生物質を飲まずにとっておけば、皮膚におできが出来て化膿した場合に、またヤケドをした時にバイ菌の感染を防ぐのに使える。
 私の経験として、抗生物質をためておいたものを使って、下痢を治した事がある。かって、私は品川区の八潮公園にカキを獲りに行っていた。人工の渚があり、海の中に多くの庭石のような岩を組み立て、海水に浸かった所に多くの天然のカキがひっついていた。大きめのをそれを大きなマイナスドライバーで引きはがし、スーパーのビニール袋に二つぐらい電車で持ち帰り、横浜の自宅でペンチで割り、カキの身を生でポン酢かレモンの汁をたらし、ケチャップをかけて食べていた。新鮮で生ものはなかなかのものだった。しかし、ある時、失敗したのは、貝殻が開きかけたカキをいいだろうと思って食べたところ、バイ菌に当たって数時間で大便が水のようになり、十分おきに便所へ行くハメになった。ひどい下痢で有り、一種の食中毒である。
 そこで私は、飲み残してためておいた抗生物質を片っ端に飲んで治療することだった。薬の知識があったので、すぐにこの方法が取れた。一番初めに抗生物質を飲んでも、すぐには効かず、十五分おきに水のような大便が出たので便所へ行った。そこで三十分おきに色々な種類の持っていた抗生物質を飲んだ。セフェム系の薬、青カビ系のペニシリン系、合剤、静菌性抗生物質などをかまわず飲んだ。中には、その時より十五年以上前、歯を抜いた時にもらった変質したカプセルもあった。そんな努力が叶い、二時間ほどで下痢が止まり、気分がよくなった。抗生物質が菌を殺してくれたからだ。
 この例などは、薬の知識があったので、医者に行かずに食中毒と思われる下痢を自分で治せた。保健所にも届けはしなかった。
 他の例として、精神安定剤があるが、私自身は神経内科より処方されている。この安定剤は神経不安を取るだけでなく、血圧を下げたり、その関係上、筋肉を柔らげてくれる。だから、高血圧の薬としても使われ、肩こりなどにも多少効く。この薬、安定剤を神経内科からもらう他に、麻酔科の開業医から緊張性頭重感のため、肩こりが原因なので、麻酔注射を首の神経節に打ってもらうだけでなく、肩こりを取るため、筋肉を柔らげる薬、ミオナールをもらっている。薬には相互作用というものがあって、二つの薬を一緒に飲むと互いの薬を強化するものがある。私は、薬の知識があるので、安定剤とミオナールを一緒に飲んで、相互作用を利用している。
 その他に神経内科からもらっている薬に古い型の胃潰瘍の薬として開発され、後にウツ症状に効くことがわかった。学名スルピリドという薬で有名なものは、ドグマチールとかアビリッドとかあるのだが、私が医者から処方されたのは、ジェネリックの薬、学名と同じスルピリドだった。ただし、この薬は、本来のウツ病の薬とはちょっと性質が違うものだ。
 その薬を飲んでいた時、偶然に面白い事が起った。元来、私は世の中で悪い人間が犯罪を犯したりすることを見ると、強い怒りを覚えたり、他人に嫌な事をされたりすると、すぐに怒ったりする。すると、胃が収縮するように感じたりしたが、約半日ぐらいすると、自然に治ったりしていた。実は、これが胃潰瘍の自覚症状であったのだが、胃潰瘍だとは思わず、内科へ行き、胃潰瘍の薬を処方してもらうこともなかった。が、後日、保健所で胃ガンの検診を受けたら、レントゲンに胃潰瘍の痕が見つかった。これは胃潰瘍の治った痕なので、間違いなく精神薬として、神経内科から処方されたスルピリドが偶然に効いていたことが判明した。もっと詳しい検査をしたら、その時は胃にそれ以上は異状がなかったが、それ以来、いやな事があった時などは、胃に収縮感を覚えた時は意識して神経内科で精神の薬として処方されたスルピリドを飲んで治療している。
 このように、薬には、お医者さんから処方された薬をある程度飲んで病気が治ったら、残りを捨てずに取っておけば、同じ症状だけでなく別の症状にも効くので、自分で処方し、お医者さんへ行かずに済む場合があることが筆者の体験でわかるであろう。他の人が私と同じようにやるとしたら、どうしたらよいだろうか。そのためには、言うまでもなく薬の知識をつけることだが、一番簡単な方法は、本屋さんに売っている厚い「お医者さんからもらった薬がわかる本」を買って来て読むことだ。これは一般向けにわかりやすく薬について書かれた辞典のようなもので、薬の効用、薬の学名や副作用、相互作用、一緒に飲んではいけない薬などが書いてあり、薬学の知識のない人でも薬の知識がつく。
 私の場合、今から二十年前、成人病になり、医学の勉強をしようと思い、たまたま横浜駅の地下鉄の駅の構内にあったリサイクル文庫で、医者が医療現場などから破棄した古い医学書を二百円とか三百円とかの二束三文でたくさん買って読み始めた頃だった。それに加え、たまたま平成の初め頃、ハゼ釣りを観見川の河口でした帰り道、観見駅の近くの古本屋さんで、白馬出版という無名の出版社が出していた「お医者さんからもらった薬がわかる本」を見つけ、安価で読み始めた。興味を持ち、毎日のように読んだ。その後、リサイクルショップで九四年版の医師が使う医学書院の「治療薬マニュアル」をわずか百円で手に入れ、それに製薬会社がお医者さん向けに渡した薬の論文や資料を医者からいらないものをもらい読んでいった。
 他の人は、そこまでする必要はないが、せめても本屋さんで、「お医者さんの薬がわかる本」を買い、薬の知識をつけて、薬を無駄にしないようにしてほしい。十割払ったら薬は高い上に、あと数十年で石油が枯渇すると、今の薬が飲めなくなるかもしれないからだ。殆んどの薬は石油から精製されている。将来は、漢方やその他の生薬に変えなくてはならないので、現在の石油から作った医者の処方薬を無駄なく飲むべきである。
 なお、「お医者さんの薬がわかる本」は、平成の初め頃、白馬出版が出したところ、売れたので、今では小学館や講談社などメジャーの出版社も出している。
                    (流星群だより25号に掲載)




   従来の経済学理論と異なるアジア、アフリカ、オセアニアの経済学

 現在我々日本やアメリカ、ヨーロッパで使われている経済知識、経済学や経済論は、ヨーロッパの国々、とりわけ、イギリス、フランス、ドイツやアメリカの学者が、それらの国々を中心に世界を見た視点に立ち、打ち立てられたものである。そして、それが主流となって世界中で受け入れられているが、人々は、そのことを意識せず、気付いていない。
 日本も、ヨーロッパやアメリカの経済学の本を読んで、経済学や経済論の本や論文を書いているので、日本の経済学もそれらの国々によって確立されたものであるという事を意識していない人が多い。官庁エコノミスト、経済学者、経済評論家なども当り前と思って、欧米視点の経済論を標準経済学として受け止め、大学の経済論として講義され、また高校や中学の教科書の経済論として記述されている。
 ヨーロッパ諸国、とりわけイギリス、フランス、ドイツの経済学がいかに構築したか、その時の経済や社会情勢背景についてみてみる。
 ヨーロッパの国々は中世以来、農業経済を基盤とする封建領土を持つ封建領主が公となり、その領国がいくつか連合し、王を君臨させ、封建王国が形成されてきた。その後、自由都市に商業や工業が発達し、資本主義の基礎を作った。
 十四世紀からポルトガルが海路でアフリカ中部へ向い、時を同じくして北アフリカ、マグリブのムアッハド王朝が、サハラ砂漠を縦に横切り、今のマリ王国のツンブクトゥまで達し、その後西アフリカのガーナに達した。またポルトガルはナイジェリアに商業貿易及び軍事拠点を築いた。
 十三世紀までは北アフリカの西部、とりわけ、今のモロッコのあたりまでを、イスラムのアラビア語で「マグリブ」即ち「西の端て」と呼ばれ、ムアッハド王朝が領土を治めていたが、今のアフリカ大陸の西端の岬、「セネガルの鼻」と呼ばれている所までがわかっていて、それ以南は、天地が落ち込んでいると信じられていた。
 ゆえに、イスラムのムアッハド王朝は、サハラ砂漠を大きく縦断し、ポルトガルは海路で大きく回り、西アフリカ南端の海岸線を発見し、アフリカを回る「セネガルの鼻」以南の地理を陸路と海路から双方で発見し、アフリカの地理上の発見となった。双方が貿易、交易の拠点を作り、商業交易のための植民地化の先例となる。
 十五世紀終わりから十六世紀に入ると、スペインやポルトガルが地理上の発見で互いに競争になり、アフリカの南海岸やアメリカ大陸を新大陸として、地理上の発見となる。
 スペインは新大陸に於いて、広大な地域を植民地とし、金銀などの金属材料や香料、農産物を本国に輸送し、大規模な資本主義を打ち立てた。
 イギリス、フランスそしてオランダは、スペインやポルトガルに一世紀遅れて、商業、交易目的で、主として北米大陸を植民地にし、毛皮、漁業産物、オットセイの毛皮などを本国に運送し、本国の商業交易の供給地とした。
 一般的には、食料資源、鉱物資源、毛皮、香辛料を求め、海外に拠点を設け、本国から本国人を移住させ、それらの供給物を集める交易に従事させ本国へそれらを安く輸入させることで本国の経済を発展、繁栄させる植民地依存の資本主義経済体制の確立であった。
 二十世紀に入り、イギリス、フランスやドイツ、ベルギーの国々は、アフリカやアジアの国々に、本国の繁栄、つまり経済を中心にした国力の向上、富国政策を取ることになる。
 言うまでもなく、食物資源、鉱物資源などを求め、交易拠点とするのだが、本国から市民を移住させず、本国人は最低限の統治する役人や軍人に限り、軍事力を背景に植民地化し、恒久に領有した。
 無知な原住民から原料を廉価で買い叩き、利益を与えず、それらを本国へ運送し、本国だけが繁栄するという本国を中心とした資本主義体制を作った。これを帝国主義という。海外の植民地と本国を海と航路で結ぶ資本主義体制である。
 一方、アメリカはというと、ヨーロッパの国々とは別の、そして違った資本主義経済体制の形成を見る。一七七五年に独立宣言し、一七七八年のパリ条約によって獲得した大西洋岸からミシシッピー川東岸までの領地の他に、同州の西岸の膨大な太平洋岸に至る外国領の土地を、一八〇三年にナポレオンから広大なフランス領ルイジアナを買収し、一八四八年には米墨戦争の結果として、メキシコ領だった西部のカリフォルニアに達する土地を手に入れることになる。
 これによってアメリカは、大西洋から太平洋岸に達する大陸国家となった。
 この間に人々は西の方の開拓地に移動をして行った。南部では人々は奴隷を使役し、プランテーション農業による綿花や農産物を生産し、中西部では穀物と牧畜による食肉を生産した。西部ではカリフォルニアから東へネバダ、コロラドへと人々が移住し、金や銀など鉱物資源を掘り起こした。
 さて、アメリカの経済がどのように発展したかと言うと、ニューヨークを中心とした東部地区の工業商業地帯は、南部の農業地帯、中西部の小麦を中心とする穀物地帯、さらに西部の鉱山まで鉄道を敷き、産業に必要な資源や原料や農産物、食肉を輸送し、産業の発展でアメリカの資本主義経済を確立していった。ヨーロッパの国々が海外の交易拠点、植民地を海路で結んだのに対し、アメリカは領土とした国内の原料供給地を陸路、長距離貨物鉄道で結び、独自の資本主義経済を打ち立てた。それ以後、百年以上も農村を中心とする農業社会とそれを経済支配する東部商工業社会との対立で、経済は進むことになる。
 アメリカも帝国主義形成期にハワイ、サモア諸島、フィリピン、キューバをも領有したが、ヨーロッパ諸国に比べ、強い統制や経済搾取などによる統制をしなかった。
 このようにヨーロッパやアメリカが植民地や原料供給地を支配して、商工業の発展を通じて本国の経済発展によった資本主義経済が確立する中で、現在までの世界で主流の経済学は、ヨーロッパの国々、とりわけイギリス、フランス、ドイツで原料供給地である植民地を搾取、踏み台にした本国中心に見た視点の経済学として確立したのだ。それが世界で標準の経済学として受け入れられた。アメリカもヨーロッパの経済学の影響を受けて発展した。
 日本は伝統的な江戸時代前の独特の経済学はあるにしろ、現代の日本の経済学は、ヨーロッパ、アメリカの資本主義経済学を手本にしているので、亜流ヨーロッパ型経済学と言えよう。ただ、アメリカは広大な南部や中西部の大規模農業地帯を対象にした農業経済学を発達させた。
 オーストラリアの大学で使用される厚い経済学の本は、「オーストラリアの経済学」と呼ばれ、アメリカなどと同じ英語で書かれているが、内容はヨーロッパで打ち立てられた標準型の経済学と視点がかなり異なる。需要と供給線とか、景気循環線などの基本経済理論は同じであるが、市場論や経済流通論などは、オーストラリアも含むかつてヨーロッパが植民地としたアジア、アフリカ諸国の側から見た経済学及びその理論なのだ。つまりヨーロッパ型の標準型経済学では、オーストラリアも含むアジア、アフリカの経済事情に合わず、役に立たず、彼ら独自の経済学理論を構築したのだ。
 南アフリカの経済学も視点をアジア、アフリカの側に置いたものである。また、同国の国際法や国際関係論もアジア、アフリカ、オセアニアに視点を置いたもので、それらを大学等で講義している。
 ベトナム人の学者の書いたエスペラント語版の経済を中心とした国際関係論を読んでみると、東南アジアの経済圏を中心とした貿易論を展開していて、なるほどヨーロッパやアメリカの経済学や経済国際関係論と違った、大変卓れた理論だなと感じる。ベトナムにも独自の優秀な学者はいるものだと思わせる。
 また、タイの経済学の本をタイ語で読むと、やはり、東南アジアに視点を置いた卓れた経済論を唱えている。
 東南アジアの国々は、一般的に言って、都会と地方の経済格差が大きい。特に、農村は自給自足の状態に近い。この都市と地方、特に農村との格差は、東南アジアの国々によって事情が異なる。また、これらの都会との格差を生む道路などの整備の状況も国によって異なり、商品の流通の仕方も東南アジアの国々によって異なる。
 これらの例からわかる通り、アジア、アフリカ、オセアニアの国々の経済学、経済論は、彼らの地域経済圏に当てはめた独自の理論に基づくもので、かって、それらの国々を植民地にして、工業資源を吸い上げ本国が繁栄した過程で打ち立てられたヨーロッパの経済学とは大きく異なり、世界で一般的に受け入れられている標準型のヨーロッパ中心に見た従来の経済学では、アジア、アフリカ諸国、オセアニアの経済実情には当てはまらない。
 二十一世紀に入って、東南アジアの国々が教育も普及し、工業化が進み、発展途上国から先進国へと変わりつつあり、毎年六%の経済成長を遂げている。そして、インド、ブラジル、南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランドの国々も、経済発展を遂げ、先進国の仲間入りをしている。
 かつて、スペイン、イギリス、フランスなどに植民され、原料供給で搾取されたアジア、アフリカ、オセアニアの国々は、ヨーロッパへの原料供給源とされ、また、ヨーロッパの作った商品のマーケットとして経済支配され、ヨーロッパが繁栄する一方で、百五十年もの間、経済的貧困の状態に置かれた。
 二十一世紀になった現在、経済発展を遂げ、先進国になりつつあり、ヨーロッパ、アメリカ、日本に追従している。
 ヨーロッパの国々やアメリカ、日本など先進国は、かってのようにアジア、アフリカ等の国々から安く原料を買い叩くことで経済繁栄をすることはできない。工業化したアジア、アフリカの製造した商品、民芸品、特産物を交換する貿易による経済関係を行うしかない。フェアートレードなどのように、アジア、アフリカの諸国が、かってのようにヨーロッパに搾取されず、相当の利益の上がる貿易でなければならない。
 このような国際経済関係の状況では、従来のヨーロッパ中心の観点からの標準化された経済学では、もはや有効ではなく、アジア、アフリカ、オセアニアの新興国のベトナム語、タイ語、インドネシア語などで書かれた、それも、もっと細かく、これらの国々の地域の実情に合わせた現実的な経済学、経済理論が重んじられなければならない。
                   (流星群だより24号に掲載)


 

   松井秀喜選手の引退会見のウラにある事情を推理する

 平成二十四年の十二月に入り、巨人、メジャー=リーグのヤンキース、カリフォルニア=エンジェルス、そしてダイヤモンドバックスの3Aと渡り歩いた松井秀喜選手が、半年ほどの沈黙を破り、突然、表に現われ、自身の引退の記者会見を開いた。記者を前にして、身の振り方として、二十年の野球人生に終止符を打つ旨を宣言したのである。
 二〇一二年の六月頃成績不振からダイヤモンドバックスからも契約解除、フリーエージェントされ、日本球界復帰も噂されながら、本人はあくまでも、メジャーリーグでプレーすることを目ざし、それ以後プレーする球団も決まらず、松井選手の動向は報じられず、忘れ去られた存在になっていた。
 ところが、十二月に入って、突然の記者会見を開いたのである。引退すると宣言したのだ。それも切望していたメジャー復帰してプレーすること、日本球界に復帰することも決まらず、又は今後の身の振り方、例えばテレビ解説者になることも、又コーチになることも決まっていない時、つまり中途半端の時に、突然の引退発表会見なのである。将来の不安が残るはずなのに、松井選手の会見での表情を見ていると、あたかも将来が約束されているような安心感と、引退のプレッシャーから解放された安堵感が見え、リラックスした気分で、時には微笑みを浮かべ、丁寧な言葉で、慎重に言葉を選びながら記者の質問に答えていた。
 他のプロ野球で活躍した選手が引退会見をした時も、見たことがあるが、同様に選手時代の練習の厳しさや実戦のプレッシャーから解放された安心感は誰もが表情として持っていたが、この人達は引退するに当たり、コーチや野球解説者の職が決まっていることが多く、その就職できた安堵感も含んで、さばさばした気持を表わし、引退の記者会見の質問に答えていたものだ。
 しかし、松井選手の引退会見を見ていると、まだ今後の就職先も決定していないのに、そして、現役にも未練があったにも拘らず、満足した表情と微笑みを浮かべ、言葉を意識して丁寧にし、記者の質問に対して、随所に言葉を慎重に選び、優等生の答えをしていた。その答え方もあらかじめ用意して置いたかのような不自然さがあった。メジャー=リーグに移籍後の松井秀喜は、初めの数年間は記者によってインタビューを受けるときは、アメリカ人記者に対しても、日本に於けるような、言葉を選び、都合の悪いことは避け、当たり触りのない言葉で応答していたが、とりわけ日本人の記者に対しては優等生の応答をしていた。これは日本の社会では、思ったことをハッキリ言えば、「アイツは態度が悪い」とか、「アイツは選手の資質が欠ける」とか、「良識が欠けている」とか悪者にされるので、思ったことを控え、体裁のいい言葉を選んで遠慮ぎみな言い回し、つまりタテマエを言わなければならない。とりわけ地位のある人は、立場に合わせたそつのない言葉使いをしなければいけない。野球選手も例外ではない。
 このような日本の習慣により、思い切り意見を言えない日本で、プロ野球選手はフロントから、相手の顔色を窺い、記者の質問に当たり触りのない言葉で対応し、「アイツはこう言った」と非難されないような受け答えをするよう指導を受けている。  松井選手も例外でなく、巨人にいた時やヤンキースの初めの数年は、アメリカ人記者にも日本人記者にも慎重に控え目な言葉で取材に応答していたが、ある時、ミーティングでヤンキースの監督に「監督に対して欠点を言って見ろ」と言われ、恐る恐る批判的に言ったら、「うん、参考になったよ」と言われ、安堵した。その際、松井は日本人記者に「こんなことを巨人で言ったら、監督批判の罰で百万円以上の罰金だよ」とコメントしていた。その後、上腕部を骨折した後、アメリカでは十分な言論、思ったことをズバリ正直に、気配りせずに記者のインタビューに答える習慣に慣れたのか、松井選手は日本人の記者の取材を受ける時、ゴジラらしいドスの効いた声で、かなりズケッとした言葉で受け答えしていた。
 ところが、引退会見の松井選手の記者を前にした応答は、言葉使いに気を付け、笑みを浮かべ、満足そうにした微笑さえも出た優等生会見であった。この松井選手の引退の裏側には、渡辺恒雄オーナーの影が見え、巨人との密約が存在するように見える。
 その根拠として、引退会見で、記者の「野球人生での一番の思い出は何か」という問いに、「巨人に入団した時に、長嶋監督につきっきりでバットを一緒に振ってもらい、指導してもらったことです」という言葉が出たことだ。他の野球選手の引退会見を見た限り、殆どの選手が初めてホームランを打ったこととか、タイトルを取った時とかを一番の思い出としていた。松井にも初めてホームランを打った時とか、ワールドシリーズでMVPを取ったとか、戦績の思い出があるはずである。しかし、敢えて入団時の長嶋監督とのことを一番の想い出として挙げた。この言葉の裏側には、巨人との密約が存在するように思われる。それも渡辺恒雄オーナーとの水面下に於ける交渉により、将来巨人の監督にするという内容があり、松井秀喜は日本での復帰し、どこかの球団でプレーする意志もあったのだが、すんなりと引き際、時期を選び、十二月の引退会見となったのだ。記者会見を行った松井の美学ともとられていたのだ。
 渡辺恒雄、巨人オーナーにとって、松井秀喜を巨人に生え抜き監督として迎えなければいけない事情があった。現在の原監督で、平成二十四年現在、ここ数年優勝したりして実績も残し、順調であるにもかかわらず、かつての巨人人気も陰り、テレビの視聴率も上がらず、ゴールデンタイムの巨人戦の放送も、BS日本テレビでかろうじてやっている有様である。そこで何か巨人人気を回復する方法を考えなければならない。また数年後の原辰徳監督の後釜についても、そろそろ考えなければならない。そこで、次期監督候補として、この渡辺恒雄オーナーの条件に叶ったのが、巨人より格上のメジャー=リーグの名門ヤンキースでそこそこの活躍をし、ワールド=シリーズでもMVPを取った名声のある松井秀喜だったのだ。
 一方、松井選手にとっては、あくまでメジャー復帰をめざしていることを前提に、ダイヤモンド=バックスを契約解除された後、選手活躍を続けたい未練があったのが、メジャー復帰は難しいので当然、水面下では日本のプロ野球球団と交渉していたことは間違いないだろう。
 スポーツ紙の報道では、松井選手の阪神タイガース入りが進展しつつあった。これは、松井選手にとっては自分の方からは巨人へ選手として復帰したいとは言えない。それは巨人からヤンキースへ移籍した時、渡辺恒雄オーナーがあくまでも巨人に留まる意向で、「松井君は巨人で永久にプレーしてくれることを信じている」と言っていたのに、それに耳を傾けず、ヤンキースへ入団したのだ。しかし、あくまで渡辺オーナーの恩情があったので、対立というほどではないが、巨人の意向を無視して出て行った形でヤンキース入りしたのである。
 一方、巨人、渡辺オーナーとしても、「出て行った」形の松井を、体面上、面子上、「帰ってこいよ」とは表面的には言えない。そこで阪神が松井を取ろうとし、その人気で阪神タイガースのブームを作り上げようとしたのである。衰えたと言っても、両膝を手術した今の松井でも打率三割、二十五本塁打は可能だと言われている。守備はあまり動かないファーストを守らせれば良い。メジャーの名声のある松井が阪神に入ることは、阪神にとって至福である。とりわけ対巨人で打ってくれることは阪神ファンを熱狂させるからだ。
 松井の阪神入りとそこでの活躍を一番恐れ、忌み嫌っているのが、巨人の渡辺恒雄オーナーである。言うまでも無く、阪神の選手として巨人戦で巨人出身のメジャーリーガー松井に猛打され、伝統の一戦で敗戦に追い込まれたら、巨人は大変な屈辱を受ける。「ゴジラ松井」にジャイアンツが破壊されるようなものだ。たまったものではない。
 さらに、松井が阪神でプレーすることは、将来の巨人の監督になる条件、資格を失うことになるのだ。つまり、巨人、ヤンキースと栄光のある松井にとって、国内の他球団阪神でプレーすることで、巨人の生え抜き監督候補としてキズ物になるのだ。巨人には創設期から現在まで、監督になる条件として厳然とした不文律がある。巨人の監督になる人物は、巨人の生え抜きの大選手でなければならないというものだ。生え抜きであっても、成績が低かったり、地味で守備の人も巨人の監督になれない。人気が上がらないからだ。そして大選手であっても、他球団にトレードされた選手や他球団でコーチ、監督をやった者は巨人の監督になれない。プロ野球の創設球団で球界の盟主、巨人の聖なる空気を他球団の汚れた空気を吸った者に汚されてはならないからだ。過去に古くは他球団に移籍したスタルヒン、呉昌征、千葉茂、南海出身だが生え抜き扱いだった別所毅彦、そして最近では森祇晶、広岡達朗、高田繁、高橋一三、中畑清、西本聖、駒田徳広などは他球団でプレーしたりコーチや監督をしたので、巨人ではコーチにはなれるが監督になれない。江川卓も入退団で問題を起し、阪神からトレードされたので監督になれない。例外は昭和五十年、秋山登監督下で大洋の投手、コーチをした藤田元司だけだ。
 また、他球団で監督をした者でも、巨人はコーチにしかしない。これは他球団で監督をした者を巨人生え抜きの監督の下に従え、球界の盟主巨人の監督は他球団の監督より上であることを示しているからだ。山内和弘、中西太、武上四郎などは、この例である。
 しかし、他球団出身の者も考慮に入れたことはある。王監督の後の古葉竹識、横浜大洋ホエールズの監督に就任する前の須藤豊、そして堀内恒夫の後任に星野仙一が監督として候補に上ったことがある。適任者が生え抜きに見当らない時にちょっと考慮された。
 巨人の大物選手が他球団でプレーしたと言っても、日本より格上のメジャー=リーグは別である。松井の場合、名門ヤンキースでの実績があるので、巨人の監督にはうってつけである。かって渡辺恒雄オーナーは記者の質問に、「イチローや野茂は将来巨人の監督にしますか」の質問に、「それは考えるな。但し、高橋由伸の後が良いな」と言明している。メジャーでの大選手ならば、日本の他球団出身者でも巨人の監督にするということだ。
 そこで渡辺オーナーは、松井選手が阪神タイガース入団へ動いていたのを阻止すべく、水面下で交渉したのだ。先述のように巨人を出て行った松井選手に渡辺オーナーの方からは声を掛けられない。そこで公私で親しく松井選手に近く、脳梗塞を患った後も、メジャー=リーグへ行っても電話などでアドバイスをしていた長嶋茂雄氏を仲介させ、まだ阪神でプレーをする意欲があった松井に、選手を続けることを断念させ、引退させる見返りに将来の巨人の監督を保証する密約を与えたのではないだろうか。実力の低下した松井は、巨人では選手として使えないからだ。
 かつて渡辺恒雄オーナーは、長嶋監督がやめる時にもこれと同じようなことをしている。長嶋氏を永久にジャイアンツの職員である球団重役待遇の終身名誉監督にしておいたのだ。これは渡辺オーナーが、引退後、自由の身になった超人気のある長嶋氏に他球団、とりわけセリーグの球団でライバルの阪神タイガースの監督になられるのを一番嫌がったのだ。それゆえ、丁度犬が逃げられないように鎖でつないでおくように、長嶋氏を永久職員として巨人に縛りつけておいたのだ。後に長嶋氏は脳梗塞で倒れたが、もしこの時だったら終身名誉監督にしなかっただろう。健康上、阪神など他球団で監督はやれないからだ。
 巨人サイドで、長嶋氏を介して渡辺オーナーに将来の巨人の監督のポストを密かに約束された松井選手は、きっぱりと現役続行をあきらめ、巨人側が設定したであろう良いタイミングで、十二月を選び、引退会見をしたのだ。会見での松井の表情は晴れ晴れとし、満足した表情で笑みを浮かべ、言葉を選び、優等生の言葉使いで記者の質問に答えていたのだ。そして、「松井選手にとって野球人生で一番の思い出は何か」と聞かれた答えとして、巨人やヤンキースでの活躍を胸にしまいつつ、「巨人に入団した時に長嶋さんにつきっきりで、バットを振ってもらった」ことを記者に答えたのも、将来の巨人での監督を約束すべく渡辺オーナーに密かに仲介してくれた長嶋茂雄氏に恩を感じ、感謝の気持を表わしたものと推察される。
                    (流星群だより23号に掲載)


     

アメリカ黒人より劣った日本人の選挙行動

 現在の日本人の選挙、例えば国会議員や市長、知事の選挙候補の選び方を見ていると、大変いただけない。日本人の有権者の選挙の際の、立候補者を選ぶ時の候補者に対する予備知識のなさはあきれるほどだ。選ぶ側、つまり投票者が、行政に対する知識もなければ、立候補の人物評価や、もしその立候補者が当選したならば、何を政治でやってもらえるかの可能性について、何の考慮もせず、ただ、思いつきで候補者に投票している。
 とりわけ問題なのが芸能人や有名人、スポーツ選手で名の知られている人が立候補したりすると、彼らが行政についての知識もなければ、議員になったら何をするのかという目的や政治に対する良識もないのに、顔を知っているというだけで、単に「この人を議員や市長、知事に当選させたら面白いわね」という安易な興味本位だけで投票して、当選させているのだ。
 そして、人気によって当選しても、選挙の運動中に公約したことを殆んど実行できてないことが多い。政治家として大した活躍をしていない。
 青島幸男は、テレビタレントとして当時の「いじ悪ばあさん」の主役の人気で、昭和四十三年に国会議員に当選し、その後、数回当選した後、大した活躍もせず、九〇年代終わりに都知事選に当選し、知事になったが、その実績はたいしたことはなかった。当選する前は、「都庁に風穴をあけてみせる」などと、豪語していたが、結局は役所の幹部にあやつられ、指導力を発揮できず、テーマ万博に失敗し、退任した。その時、「やるべき事はやれたと思う」などと強がりを言って、数年後、失意の中で他界した。
 たけし軍団のそのまんま東こと、東国原英夫は、たけし軍団のお笑いの人気にかこつけ、「故郷、宮崎をどげんかせんといかん」と県政を憂う、悲愴なキャッチ=フレーズで県民の人気者嗜好の心を得、当選したが、確固たる行政目標を持たず、役所の人間をしっかりとしたビジョンで指導しえず、たいした政策をしなかった。 やった事と言えば、自己の人気にかこつけ、観光客を知事室に招き入れた事と、宮崎産マンゴーや産物を自己のブランドで宣伝し、売り上げを延ばしただけであった。知事になっても相変わらず、タレント意識は抜けず、公務そっちのけでテレビに出演していた。「宮崎をどげんかせんといかん」と言っておきながら、「どげんもせず」、総理大臣をめざし国政に出ると言って任期半ばで知事職を投げ出した。
 この三人が、人気を武器に当選したが、当時、人気を武器に当選をねらったタレント候補の立候補に強い反対論があったことも事実である。たとえ、知名度は無くとも、立候補者の実力や見識を有権者は評価判断をし、選ぶべきだという強い声があった。それにも拘わらず世論は、テレビの画面を通して、人々に浸透している人を当選させた。
 これは人々の頭に、人気タレントのイメージが押しつけられ、タレントに投票すれば、何かをやってくれるのではないかという、(実際には、それはありえない架空のイメージなのだが)、マインド=コントロールになって投票させられているのだ。
 その良い例が、最近、俳優の森田健作を千葉県知事に選んだ選挙がある。千葉県民は、四十年も前の森田健作が出演した青春ドラマで、恋人役の早瀬久美とのシーンが心の奥底に焼きつき、潜在意識となり、マインド=コントロールされた。それが投票時に心の奥から湧き出し、現実は違うのに、青春ドラマと同じようなことを現実としてやってくれると思い投票しているのだ。本気でそう思っているのだ。
 このような思いで投票したタレント候補には、石原や青島以後、西川きよし、立川談志、扇千景、三原じゅん子など多くの有名人がいるが、人気のイメージとは掛け離れ、大した事をやっていない。人気倒れである。わずかに、野末陳平が庶民の税金問題に取り組んだだけである。

 筆者は、二十年以上前に、テキサス州ヒューストンにある黒人大学の大学院に留学していた時、大学の廻りの黒人社会や、他州の黒人社会を訪ね、四十代以上の黒人の人々、店のおばさんとか多くの年輩の人、労働者、サラリーマンなど庶民に会い、選挙時に各候補について話をし、候補者について質問するなどして政治論議をした。
 多くの学歴のある日本人の有権者に比べ、彼らは貧しく、差別され、かつて教育チャンスに恵まれなかったが、多くのアメリカ黒人の選挙に対する政治家の評価、即ち、市長、州知事、市会、州議院、上下両院、そして、間接選挙に於ける大統領候補に対する力量分析は大変卓越していた。選挙時の各政治家を選ぶ時の各候補者の知識と力量、つまり、過去の職歴、実績、見識、そして、もし当選した時は何が実行出来るかについて、他の候補と比較して、正確な分析が出来ていた。
 例えば、教育についてはA候補の方が市長になったら良いが、労働問題、特に労使関係や環境問題はB候補の方が良い。そして、さらにC候補の学歴や職歴を強調し、経済政策についてはC候補の方が良く、またC候補の会社履歴から、市長として役人の指導力があるだろうなどなど、実に詳細に分析出来ていた。
 私が選挙について話した何人もの黒人は、その当時、少なくとも四十才以上の人は、南部で黒人差別にあった環境で、劣悪な教育環境で教育を受けた人であり、不十分な教育機会にしか恵まれなかった。それなのに、政治に関する知識や見識はあり、的確に選挙分析が出来ている。
 それに比べ、日本人の大半は、大卒者にも拘わらず、選挙時に各候補者を慎重に分析し、適切な人を投票せず、タレント候補の有名なタレントとしてのイメージでマインド=コントロールされ、「あのタレントを当選させたら面白いね」と、他の有能な候補者に投票する事も考慮せず、安易な気持で投票している。なぜ、アメリカ黒人と日本人には選挙行動に差があるのだろうか。
 その理由は貪欲な知識の吸収力の差にあると思われる。アメリカ黒人は確かに前述のように、過去に差別され、貧しく、教育も十分に受けていない人が多いのだが、教育、学歴の高い人、特に白人と積極的に議論をする機会を見つけ、議論することで、素直に知識が劣っているのを認め、高学歴の人から知識を学ぼうとすることだ。
 これに比し、日本人の場合は、たとえ大学を出ていても、大学在学中、学生同志で遊びやクラブ活動に明け暮れ、授業には殆ど出ず、学問、知識を身につけていない。試験の前に友人のノートを借りたりして、単位を取り、お茶を濁しているだけである。殆どが名前だけの大卒者なのだ。
 大卒後も、仕事に就いた後、日常に於いて、日本人の場合は人との触れ合いに於いて、見識や教養を身につけることはない。職場で仕事後も上下関係が続き、つきあいと称し、飲食店に於いて会食をさせられる。早く帰って自分で本を読み、教養を身につけることが出来にくい。上役のくだらない話、仕事の話、時にはワイセツな話を、いやでも聞いたりしなければならない。黙って聞き役にならなければならない。西洋のように、教養のある者が、上役や先輩に話せば、その者は、「アイツは堅っ苦しい話をする」だとか、「なまいきだ」などと言って嫌われたり、イジメを受ける。そんな理不尽さがある。
 また、中学卒や高卒などの人間は、飲みに行った時、博学の者が高度な話をすれば、それを熱心に聞き、自分の欠点である教養のなさを補うどころか、反発をする。彼らは学歴コンプレックス、大学を出た者に対抗意識があり、難しい話をすると反発し、忌み嫌う。「オレをバカにする」とか言って、大卒者に対して嫌がらせをする。
 このような学のない者が学のある者から真摯に知識を吸収しようとする素直な姿勢がないので、学歴が劣っていながら、高学歴の人から会話して知識を吸収するアメリカ黒人より見識が劣っているのである。その結果、日本人の見識のなさが、安易にタレント候補に投票し、無名だが有能な者に投票しない行動パターンになっている。
 日常茶飯事に他人と積極的に議論をして教養を高める姿勢は、ヨーロッパ人やアジア人にも見られる。テレビ朝日の定番、「車窓から」を見ると、列車の座席で、色々な国の人々が、友人、家族、他人と議論しているシーンが度々見られる。
 また、かつて近世のイギリスでオックス=フォード大学やケンブリッジ大学の回りには、大学街が出来、その中でコーヒーハウス(喫茶店)が出来たが、その喫茶店は教授や学生達と近所のお店をやる人々のたまり場だったのである。(注) 当時は、大学は家柄の良い、優秀な、ほんの一握りの人しか入れない場所だった。そこで、あまり学校に行っていない、お店の経営者達は、こぞって教授や大学生が集まるコーヒーハウスへ足を運び、彼らと会って、積極的に議論し、彼らから知識を得て自分達の教養を高めたのである。
(注)
 日本人には普段の生活で、このようなことをしないので、教養が高まらず、おろかな選挙投票をするのであろう。 (注)中央公論社「世界の歴史」8 絶対君主と人民 昭和五十四年 P494‐P496

                       (流星群だより22号に掲載)



北朝鮮軍事問題に於るマスコミ報道や軍事専門家の盲点

 マスコミの報道は、客観的事実に、各マスコミが持つ主観的意見を混ぜながら政治、経済、外交、社会面など、日々起こる出来事を他のマスコミ各社と報道の早さを競いながら、詳細に報道し、市民に知らしめている。
 しかし、多くのマスコミが、ニュースになる出来事を忠実に報道していても、もう少し突っ込んだ、穿った見方をすると、なる程と思われる事が、その報道の中で論じられない事が多くある。また、その、なる程と思われる事が報道する者の曲解で見落される事が多い。それについて、北朝鮮の外交や軍事問題などを例に挙げ、指摘してみたい。
 まず、北朝鮮の政治首領金日成、金正日親子が外国へ訪問するのに列車でロシアや中国にしか行かず、それ以外の国へは飛行機で外交的訪問をしなかったために、日本の各新聞は「金親子は飛行機嫌いだ」というのを定説にしている。確かに、朝鮮の人民共和国建国の父金日成は、昭和三十年代からアメリカや欧州西側諸国と冷戦で対立していたソ連(現ロシア)と、当時中共と敵対的名称で呼ばれていた中国へ、時たま必要に応じ、自ら列車に乗り、これら二ヶ国の首脳と共産党の大会に出席したり、党の原則である共産主義思想の意見交換したり、外交交渉を自ら行っていた。長い列車に多くの党や政府首脳、そして信頼できる多くの側近や警護官を乗せ、厳重な警備の基にソ連と中国を訪問していた。決してそれら二国以外の遠い国々、アジア諸国やヨーロッパの諸国へは、たとえ外交的交渉の必要に迫られている時でも、自ら飛行機では行こうとしなかった。代わりの者を使者として航空機で派遣したり、相手国の首脳に北朝鮮に来てもらったりしていた。もっとも、北朝鮮の場合、共産主義と資本主義の対立で、中ソ以外のそれらの国々とは限られた外交しかしなかったが。このやり方は、金日成書記が没し、一九九四年に党務や政権を引き継いだ息子金正日にも受け継がれていた。
 この列車による中ソ二国外交の傾向を見て、日本の新聞等は金書記親子は飛行機を怖がって嫌いだから列車で中ソ二国しか訪問しないという、曲解した定説が生まれたのだ。
 しかし、この列車外交のマスコミによる定説はまったくのウソなのである。「飛行機が嫌だ」という説明は誤りである。そのウラには警備上深い意味がある。前述のように北朝鮮は小さな共産主義国で中ソ二国に経済的にも依存しているので限られた外交しか行わないが、たとえ、飛行機でアジア諸国へ外交的訪問をしたくても行けないのだ。もし、それを行なえば、すぐに軍部の戦闘機が飛んで来て、離陸した金書記の航空機を攻撃し、撃墜し、簡単にクーデターを起こすチャンスになるからだ。超独裁者である金書記親子は、軍部にも内心、強い反抗心を起こし、いつ反乱してもおかしくはない。そのチャンスをいつも狙っているのだ。飛行機で行くことは、その機会を与える、つまり、クーデターを起こすことのできる、アキレス腱なのだ。その事を金日成親子は、重々理解しているので、中ソのみを列車で訪問していたのだ。列車で行く時も、警護官を側近の信頼できる者にさせて、決して軍人にはさせなかった。
 日本のマスコミは、その事をしっかり分析できないばかりか、気づかずにいる。困ったものである。
 北朝鮮が出たことに関して、平成二十三年三月に起きた東日本大震災時に、アメリカ海軍が北朝鮮の日本への攻撃を想定し、早急に取った軍事配備について述べたいと思う。
 東日本大震災で、三陸沖を中心とする太平洋の海底の断層が数百キロにも渡ってズレ、地震後、断層線のところの岩盤が鋭く深く割れ、クレバスが出来る程すごいエネルギーが生じ、多くの人々が津波に飲まれ死亡し、家は流され、仕事を失い、避難生活を送っている。災害地は瓦礫の山となっている。
 この大震災が起った数日後に、アメリカ海軍は、すぐにグァムの基地から最大の空母に高速高性能の戦闘機を乗せ、房総半島の外房南部海岸沖に待機させていた。この行動は日本の防衛庁にも知らせずに行った。
 当時、マスコミはそのことを確かに報道をしたが、その軍事的な意味を深く洞察出来ていなかった。軍事評論家や防衛庁の職員でも理解していなかった疑いがある。
 アメリカ海軍が高性能戦闘機を最大数乗せて待機したのは、地震の動揺で人心が乱れ、防御が手薄になりがちな、日本海側の三県を万が一の北朝鮮の攻撃に備えるためである。北朝鮮は一九五〇年代の戦闘機ミグや中共時代の戦闘機、そして木製の羽根を機体に上と下二枚をはさみ、ワイヤー=ロープで固定した戦闘機や少しの爆撃機を保有している。大地震によって、人心は乱れ、多くの人々が災害に遭った東北三県に関心が向けられ、警察、自衛隊、そしてアメリカ軍も救助に向って集中し、注意が日本海岸に向けられない。その心理的なスキに乗じて、戦闘機と爆撃機を少い空母に乗せ、日本海か又は直接北朝鮮からスピードは今の戦闘機より遅いが飛んで来て、日本海側三県、即ち新潟、富山、石川に攻撃を加えられたら、簡単に占領されかねない。確率的には万が一だが、それに備えてアメリカ海軍は、太平洋側からでも日本海側へ高速な戦闘機で応戦し、防御出来るよう待機していたのだ。とりわけ木製の北朝鮮の戦闘機はレーダーに写らないので要注意だったのだ。それほどまでアメリカ軍は日本の防衛に力を入れているのだ。
 北朝鮮の軍事的脅威と言えば、平成二十三年九月と翌年の正月に二回、木製の小舟に数人が乗り、日本海側の能登半島と島根県隠岐島近くに漂流して来た事がそれにあたる。
 前者の方は、北朝鮮元山の軍に所属する木製の、あまり推進力を持たない小舟を夜間こっそり盗み、脱北をはかり、子供を含む家族数人で、食糧もつき、日本海の海岸にかなり近づいたところで発見され、海上保安庁に保護された。脱北目的であったので、調べの後韓国へ送られた。後者の方は、北朝鮮南部東岸の漁民が漁をしていた時、遭難し、海流に流され、島根の隠岐島沖に流れついた。結局、調べの結果、エンジンの欠陥により、遭難と見做され三国経由で北朝鮮へ帰国となった。
 脱北を志す市民や脱北を意としない漁民がこの二回の木の小舟に乗り遭難して日本近海にかなり近づいても、海の警備をする海上保安庁が気付かず、住民により発見され、通報でやっと対応したのである。
 このことは軍事上、北朝鮮の脅威を改めて思い知らされた事件で、軍事上のスキ、盲点を突かれたようなものだ。なぜならば、あまり出力のない木の小舟に、銃や爆弾を持って武装した北朝鮮の兵士が乗って来ても、日本海の沿岸近くに簡単に上陸され、攻撃を許すことになる。もし、新潟県あたりから島根県あたりまで、武装した兵士が乗った木の小舟が何艘も漂流して辿り着いたとしたら、日本の広い地域に軍事上陸され、大変な脅威であろう。日本の新聞等マスコミや軍事専門家でも、このような軍事的分析が出来ないでいる。そればかりか自衛隊や防衛庁の幹部でも考慮に入れていなかった可能性が高い。でなければ、小舟が目の前の沖に流れついても気付かないほど、防衛や海上警備が甘いはずがない。無防備な欠陥を突かれたと言ってよい。おそらく、未だそのことを認識されていないだろう。沿岸警備のより徹底が望まれる。
 木の小舟が辿り着いた二つの事例は逆に言えば、北朝鮮については軍事的には大変プラスとなる実験となった。小舟に兵士を乗せればレーダーには写らないので、漂流させても日本へ軍事進行を行なえる事が証明され、それを知ったからだ。北朝鮮の軍幹部が、この可能性について認識できたかどうかはわからない。これは筆者の超穿った軍事分析だからだ。もう一つ穿った見方をすれば、北朝鮮当局が、小舟を使って漂流させることを、脱北者や漁民を装ってウラでわざと、その軍事的目的を認識していて、偽装工作で行ったとすればもっと怖ろしいことだ。
                    (流星群だより21号に掲載)
 


    東日本大震災の対処の仕方の反省と
被災者に対する
    確実な救済方法

 平成二十三年三月十一日の三陸沖海底の長いプレートのずれにより引き起こされた大地震は、震度七を記録し、その大津波は陸の奥深くまで浸水し、多くの人々の家と財産と仕事を奪い、被災者は地元や他県の避難所で不自由な生活をしている。未曾有の大災害である。
 その間に三ヶ月も過っても、阪神淡路大震災の時と比べ、政府の災害に対応すべき法案の成立が遅れたとか、多くの人々や有名芸能人などが災害のために寄付したり、義援金として送ったお金が被災者に早急に分配されないとか、多くの瓦礫が少しも撤去されないとか、国の政府に対する対応が悪いとか、様々な怒りが政府に向けられているが、これは、悲惨な被災者の不満と怒り、そして被災者以外の国民が怒りの感情を政府にぶつけているだけなのだ。
 さらに、今まで経験しなかった、想定していなかった、地震による原子力発電所の崩壊による、ウランの流出による住民に対する被害についても、政府や東京電力に対して、その対処に関して強い非難を浴びせている。 しかし、この政府や原発の非難は、災害が起きて二、三ヶ月の間に鬱積した怒りの感情を爆発させたにすぎない。
 阪神大震災と今回の東日本大震災は災害の規模、性質、被害の発生の仕方が違うのだ。阪神大震災の時は、陸の地層がずれた地震であり、津波も発生せず、また、海からさほど内陸地に及ばない市街地のみの被災であった。それに比べ、東日本大震災は海底のプレートのずれによる地震であったため、大津波は内陸深く入り込み、瓦礫の量も数段に多い。阪神大震災の時は広く火災があり、廃材や瓦礫が焼けたので、それを撤去しやすかったが、今回の東日本大震災の主体は津波であったため、多くの家を飲み込み、瓦礫や廃材を広い地域に流し、消失することはなかった。
 そのため、それらをすべて取り除くのに十年以上も掛かるかもしれない。二、三ヶ月で簡単に取り除けるものではない。
 また、原発事故は、チェルノブイリの普通の事故と違い本来予想がつかなかった、地震による原発発電所の崩壊であったのだ。東京電力の幹部、経営者、研究者や学者、監督官庁も地震による発電所の破壊は予想していなかった。地震が起きても壊れないようにと建築されていたが、未曾有の震度7もの莫大なエネルギーによって脆くも壊れた。そのため、今まで経験しなかった予想外の原子核が漏れるという未曾有の事態に電力会社が、どのような核爆発やその他の核処理をしたらよいのか対応がわからず、適切な処理が出来ずにいた。そのため、核の汚染によって避難を余儀なくされた。つまり、津波による被害者とは別の人々や、野菜や食肉に被害を受けた農家の人々から、電力会社の核の処理の対応の遅れ、失敗による失敗の重なりに、不満が爆発し、怒りの矛先が電力会社や監督する国にぶつけられたのだった。しかし、電力会社の対処のまずさは、やむをえないことであった。それまで、原子力発電にあまり危機感を持たず、電力を使い放題していた住民が、被害に遭ったら一転し原発に憎しみを向けるのもいただけない。
 それ以上に、いただけないのは、大災害という非常時に、国全体がまとまって対処をしなければならない時に、野党自民党が菅内閣の災害の対処の遅れや、内閣の言葉のまずさを通し、被害者や不満、怒りに便乗し、退陣を求める不信任を出すなど政権を揺さぶりを掛け、政局混乱を招くなどやっていることがまったくいただけない。自民党のやっていることは、学校の授業で先生の話を聞かず、悪ふざけをしている悪ガキと同じである。不信任案に便乗した民主党の一部もしかりである。
 そもそも、阪神淡路大震災の経験が生かされなかったのは、そのデータを将来に備えなかった当時の政権にあった自民党の責任でもあるのだから。たとえ、他の人が首相に代ったとしても、災害対処が迅速に行なわれるとは思われないから。
 災害が起きてから何をしたかを見てみよう。
 まず、災害の当初、自衛隊、アメリカ軍、海外の救助隊、ボランティアがやったが、あまりにも瓦礫の量が多く、処理には今後十年以上もかかるであろう。仮設住宅の普及の遅れがあるというが、阪神淡路の大災害の時のように仮説住宅の建設出来る平野でなく、山岳地もあり、また瓦礫も残り、更地にしにくいことにもよる。
 その他に、被害者に何が出来たかというと、やはり以前と変らず物質的なものよりも精神的なものに重点が置かれているようだ。天皇、大臣、知事、横綱、有名アーチストなどによる被災者への訪問による慰労である。これは、菅首相が被災地を訪問した時に、被災者が避難生活に不満を怒りで示したような感情を鎮め、気晴しにはなるが、現実的には物質的な援助でなければ被災者は救えない。そのような物による援助はわずかに前記の訪問者やベトナム難民の人が仕出しをしただけである。
 現実的な被災者を救う方法として、災害に遭った当時は気持の動揺があって出来なかったが、数ヶ月も過ち気持が落ちついたら、被災者の人を労働力として、国や自治体が雇用し、莫大な量の災害による瓦礫や廃材の処理作業をしてもらい、日当を支払うことである。これで被災者の多少の収入にはなろう。また瓦礫の廃材の中から民芸品を作り被災者ブランドを作り、それらを避難所やドライブイン、道の駅、ネットなど訪れる人に買ってもらうのも良いだろう。
 さらに、被災した東北地方三県を復興させる方法として一番速効性のあるのは観光政策である。最近の旅行業社の発表では、被災した東北地方へ応援する人々の気持があって、夏の東北地方へのツアーの申し込みが増えているそうである。被災民以外の人々の同情もあるが、良いことである。やはり、東北地方への復興のためには、旅行で消費したお金を同地方へ持ってきて、地域的に流通させ経済活性化することは良い。その意味では平泉が世界遺産に登録されたのは追い風になる。観光客を多く東北に呼べるからだ。そのことにより、仕事を失った被災者を雇用する可能性もあるからである。その意味では、菅首相が、中国、韓国の首相を招き会談した時、被災からの復興のため、両国の観光客を来日させることは得策であった。避難生活をしている被災者の人々については、不自由な生活に疲れ果て、訪問した菅首相に憤懣の怒声をぶつけるのではなく、避難所に於て自分達で国や自治体に何をして欲しいかを話し合い、要請することが望ましい。首相に対する怒声はいただけない。
 国は被災地の復興、被災者への救済資金を捻出するため、まず、救済体制を組織化するため災害救済法を通し、国に被災者救済、災害地復興するための莫大資金がないので、予算の第二次、三次補正案を通して、赤字国債を発行したり、行く行くは消費税を十パーセントにも引き上げ、災害復興資金を稼ごうとしている。しかし、これは被災者の救済資金が国にないため、被災していない国民に負担させることになり、経済低迷で収入が減っている国民全体に、さらに財政負担させ、生活をますます苦しくさせることになる。
 そこで、政府や役所が考えていない被災者を救う方法として、政府がアメリカの低所得者向けに食費を補助するために発行している現金と同じに使えるフード=クーポンを国が無償で発行する。これにより国は資金がなくても、また何らかの税や国債で国民に負担をかけずに被災者の家計の大きな割合を占める食費面から支援出来るのだ。国が新たなクーポン券を印刷して発行するのだから、国は財政を使わずに済む。
 そもそもアメリカのフード=クーポンとは何かを説明する。フード=クーポンとはアメリカの国の政府である連邦政府が、一定の所得以下の人に対して、低い所得だと食費が十分に家族に賄えないので、その不足した食費を国が補助し、平均的な収入のある人と同じだけの食費を払えるよう発行する、現金と同じように使える金券である。五ドル、十ドル、二十ドルとあり、フード=クーポンの受給者はスーパーや飲食店で使える。アメリカでは黒人やメキシコ系米人が低所得者に当たり、同クーポンを受給している。
 アメリカのフード=クーポン発給のねらいは、所得の低い人々はエンゲル係数で低所得の中で、食費の占める割合が高く、また低所得であるため、十分な額を食費に回せない。さらに、低所得者は、平均的な収入の人々よりも子だくさんで、家族の一人当りの占める割合はきわめて少ない。そこで、もし国が食費を低所得者に補助せずに放置したら、低所得者の家族は、平均的な所得階層の人に比べ、栄養面で劣り、体力もなくなる。また食費に十分に回せない結果、体格も裕福な家族の人に比べ劣り、健康状態も大きな差が出てしまう。
 そこで、アメリカの農務省は、低所得者にその所得別に応じ、フード=クーポンを与える額を決め、食費を補助している。これにより、極貧の家庭に生まれた黒人であっても、スポーツの能力のある者は、栄養面で劣ることなく、体力を生かし、野球やフット=ボール、バスケットの選手になれるのだ。
 このアメリカのフード=クーポンにまねた金券を国が新たに印刷して東日本大震災で被災した避難生活している人々に、もれなく食費面で補助すべきである。被災者はお金も家もその他の資産を失っているので、食料面で金券の補助は大変な助けとなる。そして、大地震が起きてから多くの有名人や一般の人々からの寄付金や義援金はまた法整備などで給付が遅れているが、それと合わせ、また予算の一次、二次、三次補正案による補助金とフード=クーポンと合わせれば、大変な被災者への補助となる。
 政府は現金を支出せず、新たな印刷したクーポンを発行すればすみ、発行は金融機関を通じて、被災者全員に給付する。現金と同じに使えても、食費のみにしか使えないので、インフレにはならない。フード=クーポンの回収は普通銀行が保有しているクーポンを日本銀行が公開市場操作による買い上げで金融調整で行えばよい。
 もう一つ、有力な被災者への救済策で、国や自治体が行うべき策として、家を失った被災者に、アメリカで広く普及している移動式住宅、モービル=ホーム(MOBILE HOME)を与えることだ。現在、家を失った被災者に、遅れ気味だが仮設住宅を提供している。が、仮設住宅は永久的なものではなく、六年と年限を限って住まわせている設備にしかすぎない。ある一定期間は生活の場を提供しても、それ以後は仮設住宅より出なければならないし、建設する時も、解体する時も二重に財政資金が掛かる。無駄である。
 そこで、アメリカで普及している木造の家の土台の四隅に大きなタイヤがついていて移動式の住宅モービル=ホームを被災者に国が提供すれば、半永久的な住宅を持たせることが出来る。被災者の家のあった所の瓦礫を取り除いて更地にしたとしても、資力を失った被災者は自力で新たな住宅を建てることが出来ない。政府の財政資金や義援金を基に、安価なタイヤのついた移動式住宅、モービル=ホームを提供すればよいと思われる。三月に大地震が起きた時、すぐにアメリカ政府に中古のモービル=ホームの寄贈を求めることが出来たのだが、政府や官庁にその知識がなかったのでそれが出来なかった。在日アメリカ軍も中古のものを少し提供できるかもしれない。
 モービル=ホームは移動式なので、海岸のある所へ移動出来るので、ちょっとした行楽地にもなるし、また、ホームによって再建されれば、お店も作られる。さらに、自分の更地の余った敷地に、他の人のモービル=ホームを賃貸し、借地料を稼げるかもしれない。
                     
(流星群だより20号より)
 

奇妙な川崎市内電話回線の配線とその歴史的背景

 人は普段、なにげなく電話を掛けている。しかし、意外に知られていないのが、川崎市の電話回線が特異な配線になっていることだ。例えば、東京に住む人が川崎市内に住む知り合いに電話を掛けたとする。すると、その人は先ず川崎市の市外番号、〇四四をダイヤルし、そして残りの三ケタと四ケタの市内番号を回す。相手が受話器を取って話せば、ごく普通の電話に見える。が、電話回線の配線から見ると、川崎市内への別の所に住む人からの通話は異常な回線を経由しているのだが、ほとんどの人がそれに気付いていない。
 東京に住む人が川崎市の人に電話すると、誰でもが、東京から直接、相手につながっていると思っている。それは、JRの東海道線が東京‐川崎‐横浜と走り、それと同様に電話回線も通じていると人は思うからである。しかし、実際には東京から一旦、横浜へ行って斜め北上して、川崎に戻るルートを取っているのだ。
 もっと詳しくは、東京の電話キーステーションから、一旦横浜へ行き、そこから斜め、川崎市中原区の中原電話局の近くにある子母口の中継所を経て、西へは高津区、宮前区、そして、小田急線沿線の登戸や百合ヶ丘のある麻生区へ、さらに、反対方向へは幸区や川崎駅、京急大師駅などのある、川崎区へと通話が分散される。いわば、川崎市内の電話回線は本線から内陸に入った、陸の孤島のようなものなのだ。
 なぜ、そうなったかは戦争を含んだ歴史的背景による。
 戦前は、明治時代に電話回線が敷かれていたのであるが、陸軍が軍事通信権を持っていたため、電信電話回線は陸軍の本部通信施設のあった、今の世田谷区三宿あたりから二子玉川を経て、川崎市の蟹ヶ谷に行き、横浜の瀬谷、そして海老名の通信中継地を経て、御殿場を通り関西方面へと行っていた。
 陸軍が通信回線の主導権を持っていたのは一つには、当時は、今と違って安価な契約料金で誰でもが電話を持てた時代ではなく、一般の人が家庭で電話を持つには、相当高額な電話債券を購入しなければならなかった。そのため、一握りのお金持ちでなければ電話機を使用できなかったのだ。
 それ故、一般の電話加入者が当時は相対的に少数であったため、電話通信の需要は組織的な軍事利用の方が圧倒的に多く、電話通信回線は陸軍が支配していたのだ。これは、丁度、戦前は、五万分の一の地図の測量と製作は地図の軍事利用優先のため、陸軍の測量部が作っていて、戦後、陸軍の解体と共に、地図作製権が国土地理院に移管されたのと事情が似ている。
 戦時中、この陸軍軍用管理の電話回線が破壊される事態が起きる。太平洋戦争末期に米軍が本土を攻撃し、空爆を行った時である。
 現在もイラク戦争やカダフィ大佐のリビアを空から攻撃した時に、橋や通信連絡網をピンポイント爆撃をしたように、陸軍の世田谷からの軍事電話通信回線を分断するため、川崎市の蟹ヶ谷の通信中継地を爆破したのだった。
 川崎市中原区の旧米軍施設である印刷工場が返還された跡地に作られた平和公園の一角にある、川崎市立平和館には戦争の悲惨さを伝えるため防空壕の実物大模型と共に、爆破される前の蟹ヶ谷の通信中継所と爆破された後の中継所の写真が明かりをつけたフィルム状のパネルで壁に展示されている。また、本など資料もある。
 戦後電話回線は日本電々公社によって復旧された。東京の千代田区あたりから、東海道線と同じように東京、横浜と新しい電話回線を敷設した。問題は川崎市内への中継をどうするかであった。
 破壊された蟹ヶ谷の少し距離のある隣町、子母口に新しい電話通信中継地を作り、前述のように横浜から斜め戻るように子母口まで回線を継ぎ、中原局をキーステーションにして川崎市の東方、西方へと配信する形を取ったのだった。
 他の土地から川崎へ電話をすると、相手の人が受話器を取ると、プツッというパルス音が二度鳴り、つながる音が聞えるようだ。横浜につながる音と川崎でつながる音のようだ。
 そして、旧陸軍の軍事電話通信回線の中継地であった瀬谷と海老名の通信中継地はアメリカ軍が占領、駐留した時、接収し、それぞれ座間と厚木基地の通信中継施設として使っている。
 戦後、新しい電話回線が作られたことで、横浜市港北区北部の一部の地域が、横浜市内であるのに川崎市の中原局の配線となっていたという奇妙な現象があった。港北区箕輪町、日吉本町、日吉、下田町などが、横浜市内であるのに、市外局番が横浜の〇四五ではなく、川崎市のそれ、〇四四であった。平成四年まで〇四四であり、その後、中原局から網島局に配線が変わり、〇四五が市外局番となった。
 川崎市の電話回線が横浜からの枝派で継がっているのを知ったのは偶然のことであった。二〇〇三年の二月、川崎中原区にある、旧中原職業訓練校で当時の川崎高等技術校で、一回だけの四日間のデジタル工事担当者の受験講座を受講した時だった。旧電々公社、NTTで電信電話回線の配線工事を長年やっていた講師から説明を受けた時だった。
 当時一九九四年頃から、理工系やイスラム史、心理学、病院管理など色々な講座や講習を受けていた。高等技術校は中原区の川崎、川崎区の京浜、鶴見、二侯川の技術短大へ行き、板金加工、デジタル回路、電気工事士用の電気回路、ガスとアーク溶接など種々の職業的技術を学んでいた。ガスとアーク溶接、研削機械の資格免許も貰えた。受講料はタダだった。
 そして平成十七年頃から、川崎市公害研究所の環境セミナーで毎年学んでいたが、平成二十一年夏、同セミナーで、旧電々公社とNTTで、大学の理工系を出た後、技術者をしていた大学教授と一緒になった。その時、その人に高等技術校で習った川崎市の電話回線の特異さを話してみた所、その人はその事を知らなかった。
 このことは同じ旧電々公社やその後のNTTでも、大学や大学院卒で本社などで研究開発する人と工業高校を出て現場で電話回線を主として配線工事する人では、一線が引かれ別世界で、交流があまりなく、互いの技術知識を知らないことがわかった。

               
(流星群だより第19号より)
 


防災及び災害対策の将来のありかたについて

 日常、我々は災害や防災について何を考えているだろうか。わずかに民間人が消防署の指導の基に消防団を組織して訓練をしたり、学校での教育方針に基づき、避難訓練をしていたり、町内会で多少防災訓練をしたり、指導員が、三角巾や包帯の巻き方を指導しているくらいである。そして、せいぜい非常食を各家庭に配っていたりである。さらに自治体としての官庁は、丘や学校の校庭等に避難所を定め、非常時に人々が避難する場所を確保し、総務部に、災害時に災害対策本部を上げて、臨機に対処しているだけである。それ以上は日頃、将来起こりうる災害や防災については何もやっていないのだ。そこで以下の文章に於て、我々民間人や官庁が災害について何が出来るかを列挙してみたい。
 先ず、災害時に官庁が何をすべきかを二、三提案してみたい。
 災害の事例で大きなものとして、阪神淡路大震災が挙げられるが、この時は政府の対応が遅れた事については、普段、その地域は小さい地震が頻繁に起こる土地ではなかったことや、岩盤のひずみが何百年も地震エネルギーとして蓄積し大地震が起こることは学問上の理論としてはわかっていたが、それまで実際の経験がなかったので、無理もなかった。しかし、あのような大災害を経験したにも拘わらず、政府や自治体は、民間人との協力のあり方も含めて、将来に備えて、大災害が起きた時に緊急対策プランについて、未だ何も組み立てていないのだ。そこで、国や自治体に何が出来るかを以下に於て考えてみる。
 大地震にしろ、火山爆発にしろ、災害が起きた時に迅速に人々が避難できる場所については、すでに、緊急避難所を確保してあったり、臨時には、災害のあった場所の瓦礫を取り除き、作ったりしているので問題はないが、改善すべきは、災害本部のある自治体官庁と被災者とのコミュニケーション、つまり官庁による被害者に対する緊急指令のあり方である。阪神淡路大震災の時は、それがうまくいっていなかったので、食料の緊急配給や、仮設住宅への入居順序の割り当てについての伝達がうまくいかなかった。
 そこで、大災害に於て、電線が切れて、電源が使えなくなった事を想定して、いかに官庁からの緊急指令を被災者やその他の民間人関係者に指令するか、災害救済に関する情報を伝える手段について提案したい。
 あらかじめ官庁が電波局に災害時緊急用のラジオ周波数を登録しておき、災害時に電線が切れて電気が使えなくなった時でも、自動車エンジンの発電による、自動車ラジオを適切な場所に置き、エンジンを吹かして、災害緊急指令を出したりする。また、官庁が災害時の備えとして、ソーラー発電機や、エンジン発電機を用意しておき、適所に配置して、ラジオを使えるようにする。あるいは、災害時の備えとして、電池式の小形の安価なラジオを用意して被害者に配る。または官庁が各住民に災害用に電池式の携帯ラジオを用意しておくことである。
 さらに、昭和二十年代から三十年代に、子供達に玩具として流行った鉱石ラジオも官庁が用意しておくのもよい。材料さえ揃えば、安価に組み立てられる。学校などであらかじめ災害に備えてその作り方を教えておくのもよい。他に、阪神淡路大震災や上越長野大地震の時に、見た限り、救助に当る官庁の者達、医師、看護師、カウンセラー、ケースワーカー、消防団、警察、そして瓦礫を取り除いたり、食料を配給する民間人ボランティアなどの人海戦術的人員体制がなっていなかった。バラバラにやっていたように見受けられる。
 そこで、あらかじめ官庁が、将来の災害に備え、これらの人々と協議をしておき、災害が起きた時には、これらの人々をどのように配置して災害者に対応し救助するかを決めておくことである。
 この方法は、災害時の緊急の福祉であり、平時の福祉をケースワーカーとソーシャル=ワークと言うが、災害時のはパブリック=ワークと、アメリカなどでは呼ばれている。なお、パブリック=ワークには、公共投資による土木建設を指す場合もある。
 そして、日本ではやられていないが、災害時に崩れかかった歴史的建造物などをいかに保存するかについては、鉄柱を四方に打ち込み、崩れかかった歴史的建物の廻りにワイヤーロープを巻き縛り、保存することである。これからの災害時には日本の官庁が取るべき災害対策法である。
 災害により住宅を失った人々については、年月を限って仮設住宅に住めるが、期限を過ぎると出なければならない。その後は、土地は更地にされ、家を建て直す財力もないので、被害者は安アパートに住むことを余儀なくさせられる。そこで国がアメリカなどで普及されている移動式住宅、モービル・ホーム(MOBILE HOME)、トレーラーハウスを与える事である。トレーラーハウスは家の形をした土台の四つの角の所に大きなタイヤがついていて、牽引して家の瓦礫を取り除き、土地の上にトレーラーハウスを運ぶのである。仮設住宅は取りつけるのにも、取り壊すにも二重に税金出費があるが、トレーラーハウスなら安価である上、国が一度与えれば、被災者は年月が経てば修理代はかかるが、半永久的に住める。
 現在、国は、天皇陛下を被災地に訪問してもらい、滅多にお会い出来ない天皇陛下にお言葉を掛けて、被災者に慰安と感激させているだけで、あとは何も財政的援助を被災者にしていないのである。陛下の御訪問で、何もしない事に対する被災者や世論の批判をかわしているのだ。
 すでに述べた災害時の緊急ラジオ放送、パブリック=ワーク、そして災害時の文化財保全のやり方は、アメリカの危機管理庁(FEMA)がやっている通信教育講座で、学士や修士は出さないが、短大レベルから大学院レベル、あるコース(FEMA CORRESPONDECE CDURSEの一九九七年版)を参考にしたが、このコースを受講するのは無料で、アメリカ国内の災害担当の公務員だけでなく、外国の公務員もタダで受講できるので、日本の自治体の災害担当の人は受講し、新しい防災や災害対処の仕方を学ぶべきである。ただし、講座は英語である。
 最後に、災害時に於ける国内外の災害救助機関との連絡のまずさを指摘したい。阪神淡路大震災の時、三つの三級河川が地震の被災地を流れている。新聞に載った被災地図を分析した所、火の海になっている市街地に、自治体が所有している消防船が川から放水し、消防活動をしていなかった。もし、そうしていれば、川に面した市街地の一辺を消火出来たように思われる。
 海上保安庁が、各管区ごとに大形の消防船を持っている。海水を使った放水は、放物線で高さ二十八メートルも高く上がる。その他に各自治体、主として市が消防船を持っているが、主に船の火事を消すためである。しかし、現在では東京のお台場や横浜のみなとみらい地区など海や運河に面した臨海都市では、消防船による消火が今後望まれる。アメリカ海軍横須賀基地では、アメリカ軍の基地が火災にみまわれる怖れから、横須賀市消防局と協定を結び、消火に関する協助体制が出来ている。
 また阪神淡路大震災時に当時のクリントン大統領の指令によって、在日アメリカ陸軍による救助隊が待機していたし、またスイスやフランスの救助隊が来日していたのに、日本政府や自治体との連絡が十分でなく、ほとんど災害地の瓦礫撤去に活動出来なかった。
 特にアメリカ軍は輸送トラックで多くの兵士が救助に出動出来るよう待機していたのに、日本政府が援助要求をアメリカ軍にしなかったので、指令官の命令が下されず、兵士が救助活動に動けなかった。わずかにスイスの救助隊が、犬を使って匂いを嗅がせ、何人かを瓦礫から救ったのみであった。
 同じ時、地震の被災地に、アメリカの危機管理庁の長官や副長官が被害状況の視察を求めた時に、報道機関は援助しにきたとはやしたてていたが、実際はアメリカ当局が将来、自国に大災害が起きた時に備え、情報収集していたのだ。日本も、外国で大災害が起きた時、医療チームやボランティアだけでなく、しっかりとした被災情報を収集し、日本での大災害が起きた時の参考にすべきである。軍事情報などCIAが収集しているのと同じやり方で。
 対外的には多くの国が参加した国際防災及び災害協定を結び、各国が出来るだけの資金を出し合い、また、あらかじめ救助隊員の数と組織、援助物資の確保などを話し合い、決めておくことだ。
 一般的に貧しい国ほど、大災害に見まわれやすいので、そうすれば、大災害が起きた国に救助する人員と援助物資、復興資金を供給できるようになる。あの北朝鮮でさえ、阪神淡路大震災の時、四千万円という少額であるが見舞金を送って来たのだから。
                     (流星群だより18号より)
 

日本経済の虚栄の繁栄と変化 

 超好景気だった日本経済は土地の異常な高騰に規制がかかり、バブルがはじけ、一九九〇年代初めより経済崩壊となり、それ以後、マイナス成長になった。政府の適正な景気政策が取られず、楽観視していたため、経済状況は好転しなかった。その原因は不景気のため、消費者が買う物の出費を控え、売れなくなったので、店は値下げ競争を行い、激安、価格破壊などを行なった。その結果、商品の総生産高はバブル以後も現在まで延びているのに、個々の商品価格がどんどん下がり経済が萎縮していった。価格が下がれば、企業収益が下がり、給料が下がり、消費が悪くなり、経済全体が縮小する。これがマイナス=スパイラルである。
 これと逆なのが高度成長期の経済現象であった。企業は莫大な資本を投入し大量生産をし、手ごろな価格の商品を売る。すると消費者は買い、企業の利益が上がり、人々の給料は上がり、ますます、物を買う力は上がり、なお、企業の利益が上がり、経済成長をする。毎年、人々が買う結果、競争力により、物の価格は少しずつ上がっていく。
 だが、この高度成長期の物の価格や利益には風船のようなもろさ、膨張があったのだ。現在の不況時の値下げ競争で、価格が安くても利益が何とか出ているのに、高度成長時には種々の商品の価格がずっと高かった。つまり、通常より高くつり上げていたのだ。以下そのカラクリを事例で示して説明したい。
 まず、高度成長時、高額な価格を設定していたのが航空運賃である。とりわけ海外航空運賃である。国際協定機構(IATA)の国際協定により、法外な料金が定められていた。
 例えば、東京からヨーロッパ、ロンドン、パリへ行くのに当時は片道三十万円、往復六十万円もした。現在では同区間往復十万円前後である。この価格の意味は、個々の乗客に高額な運賃を払わせ、空席が出て、ガラガラになった時のフライト便の空席の分まで払わせていたのだ。通常、航空会社の国際線の全フライトは一年を通すと、満員になる時もあれば、半分以上空席の時もある。これでは、儲けが出ないで赤字になる危惧、リスク感がある。そこで、国際協定運賃で、例えば東京︱ヨーロッパ便など片道三十万円と定め、一年中すべてのフライト便が空席なく満席になったと想定して、空席になるだろう分も料金から補填させていたのだ。従って、ヨーロッパ便片道三十万円を払った乗客は、自己の運賃に他のフライト便の空席の分まで払っていたのである。これにより、航空会社は黒字利益を確保していたのだ。その上で、実際に空席が出たのをヤミの安い航空券として、かってに売っていたのである。高い料金で空席分を補填して利益を確保した上で、ヤミの安い航空券で売り、二重に利益を上げていたのである。当時も、旅行会社の安いパック旅行がヨーロッパ便を使ったものがあったが、団体料金の航空運賃は往復八万円ぐらいであった。これは片道三十万円の時に、空席をうめるためと、このような安い料金で出来たのは団体だと、一定数必ず乗ってくれる保証があったからである。現在は、かつての国際航空運賃の協定が規制緩和が取れなくなり、ヨーロッパ便は往復十万円前後となった。料金が安くなったことで空席は少なくなった。国際線を独占していたJALが破綻したのもそのような理由からだ。
 同様に旅館の料金にも、そのような傾向が現在でも見られる。旅館の料金は、春休み、ゴールデン=ウイーク、夏休みなど、人々が休暇があって旅行するオン=シーズンほど、旅行のピーク時に、オン=シーズン料金として、普段よりも割高な料金を設定する。旅行のピーク時は、たとえキャンセルが出ても、キャンセル待ち、ウェイティング状態であるので、すぐに代わりの客を補填できるのに、普通に考えたら変である。これも、かっての国際航空協定運賃と同じようなカラクリがある。旅館というのは、冬休み、夏休みなど、オン=シーズンにはお客が満室になる保証があっても、普段のオフ=シーズンの時はあまりお客が入らないので、空室の時が多いと一年通して赤字になるのではないかというリスクに対する不安がある。そこで、オン=シーズン中に一人当たりの宿泊料金を出来るだけつり上げ、シーズンオフの時の空室が出た時の分をも稼ぎ、赤字にならないようにしているのだ。そして、旅行会社は夏休みなどのシーズン中を避けて、普段の空室の出る時に一人当たり団体格安宿泊料金で安いツアーを組むのだ。旅行としては旅行会社に値切られても、夏休みなどのシーズン中に採算、黒字を確保しているので、ツアーを受け入れているのだ。ケーキの値段も同様である。ケーキ一個当たりは洋菓子屋によって違いがあるが、一個三百円から四百円している。この料金は、店頭のケースに並ぶ形のよい売り物になるケーキと、形が崩れたりした売り物にならない分も含めた、ケーキの材料費、加工費を含めた上で、利益が充分出るように想定して、ケーキ一個当たりの価格を定めている。形の崩れたケーキの数の方が店頭に並ぶ売り物になるケーキより多く出るかもしれないし、また店頭に並んだケーキも売れ残り、全部売れないこともある。それらを想定して一個当たりの値段をつけているのだ。
 売れ残りや売り物にならないケーキは捨てるか、店の人が私的に持ち帰るしかなかった。が、現在は長い不況で、形の崩れたケーキもワケあり品として売れるようになった。
 都会のスーパーでは、カレー粉、調味料、マヨネーズなどは小さい物を割高で売っている。ところが岩手県など地方のスーパーマーケットに行くと、料理店などが使う業務用の一キロとか二キロの大きな袋に入ったカレー粉、砂糖、調味料などを非常に安く売っている。これは、農村では農家など家の近くにスーパーがなく、交通機関もなく、アメリカのような車を持たなければならない社会なので、遠いスーパーへ車で行って、大量に調味料、砂糖などを買いだめしておかなければならない。そこで、キロ当たり安価な業務用商品が売れるのだ。これは都会だと大量に使う料理屋やレストランにしか売れないので、個人用としてのカレー粉や調味料など小さな商品を高い値段で売っている。スーパーが近くにあり、家庭では使い切れる家庭用の小量の調味料を頻繁に買い、業務用のキロ当たりの大量商品は使い切れないからだ。業者としては大量な業務用品は売れないので、利益確保のため家庭用の小さな商品を割高に売って利益を確保しているのだ。
 フランス料理や和風の高級料理店なども高い料金を設定し、利潤を上げていた。フランス料理店などは、牛肉、フォアグラ、エスカルゴなど、また和食料理店では神戸牛や松阪牛など、とびっきり高価な食材を選んで調理し出しているが、その量と言えばわずかな量しか出さない。フランス料理のフルコースも小量の食材を出している。これは高級イメージに便乗し、高い利潤を上げ、高級な雰囲気を出すための装飾を維持する費用に当てている。だが、不況が長く続き高級料理店も店を閉める所も出ている。格安な食堂などでもっと量の多いものを出しているからだ。もはや高い利潤は上げられない。高級ホテルは殿様商売をしていた。パーティーなどで一万円でちゃちな焼きそばや中華料理しか出さなかった。反対に一流でない小さなホテルは六千円でビーフシチュー、ローストビーフなど高級なものを出していた。
 このように、好景気の時は、売れなかった時のリスクを避けるため、多くの業種の企業が各商品の値段を高くつけて大きな儲けを上げていた。そのような高い値段で儲けていた構造が、長い不況で、グシャッとつぶれたのが現経済状況なのだ。が、長い不況で正規の物が、普通の値段では売れなくなり、キズのついた魚、大きさが不揃いな魚、形の悪い野菜、形の崩れたケーキ、一粒が半分になった米、くず米などが正規の値段と並列的に格安な値段で売れるようになった。

 これから消費者が自分のその時の経済状況に合わせ正規の値段で買うか、格安の値段を選んで生活する、安定経済が望まれる。案外、形の悪い野菜やキズ物商品など、それまで売れなかった物が売れるようになり、経済刺激になるかもしれない。

                    (流星群だより17号に掲載)
 

日本経済不況への誰も考えない奇策

 平成二十一年に麻生内閣が取った景気刺激対策は、アメリカのオバマ大統領がやった、環境問題すべてを対象とする解決目的とした、グリーン=ニューディール政策による経済対策、景気刺激政策を、ほんの一部をまねたエコ=プランであった。それは主として、長い不況で、製品が売れず、リストラ策を進めている、電気業界と自動車業界を救済するため、省エネ、電気を喰わない電気製品を買った者にポイントを与え、後に政府が税金で点数に合わせて、商品やサービスを与えるというものと、排気ガス等を出さないエコカーを買った時には減税や買うための補助をするというものだ。そして、太陽エネルギー利用による各家庭の屋根に取りつけるソーラー板購入を政府が補助金を出すというものだ。
 だが、これらの政府が行っている景気対策は片手落ちで、一時的には電気製品や自動車などを売り多少効果があろうが、長期に渡る効果は望めない。そこで、今、政府がまったく考えていない、経済対策についての良いアイディアを以下に於て述べてみたい。
 まず、政府が打ち出したソーラー発電板の取り付けに政府が補助し、個人が太陽発電を行い、消費分の余剰を将来、電力会社に買い取らせ、収入を上げる方法についてである。このソーラー発電の補助政策を、収入のある一般の人を対象とするのではなく、福祉優先に行うべきである。失業者、生活保護者、年金受給者で収入の少い人、老齢で収入の少い人、身体障害者、知的障害者の人々を優先的に税金で補助し、全額ソーラー板設備を提供し、発電した電気の内、個人で消費した電気の余剰を電気会社に買い取らせて収入を上げさせ、これらの働けない人、働きたくても働けない人を、働かなくても、ソーラー発電の設備補助で収入を上げさせ、働いたと同じ事にするやり方で、経済刺激をする方法である。障害者や貧困な老齢者、リストラなどの失業者の割合は人口の中でかなりの割合があるので、これらの人々の購買力を上げ、そこそこの景気刺激策となる。
 具体的には、年金生活や生活保護者、老齢で貧困な人については、家を持っている人やアパートに住んでいる人の屋根に全額的に国家が設備投資して、太陽エネルギー発電の自己消費分を引いた余剰電気を売り、収入を上げさせ、その中から政府が投資した分を少しずつ返してもらうのだ。身体障害者や知的障害者などは家族と一緒に住んでいる場合は前記と同じだが、福祉施設などに収容されたり、住んでいる場合は、その施設の庭や敷地などに共同のソーラー板の設備を国家が全面出資をして設置する。
 従来の介護ヘルパーや福祉ケアーは税金を福祉の業務に消費して終わりだが、太陽エネルギーのソーラー板設備への税金投入は、働けない障害者、貧困者などを、働いたと同じ形で多少収入を上げさせ、投入した税金を少しずつ回収することが良い。
 次に、不況下の日本でやるべき事は、家を災害などで失った人、派遣労働者で急に解雇された人、援助すべき、住宅問題についてである。災害にあった人、例えば阪神大震災の時や新潟大地震の時に、災害で家を壊され、失った人を救助する手段として、災害にあった土地を、残骸を取り払って広場にし、年数を限って仮設住宅に住まわしている。また、経済不況で、派遣切りにあったので、社宅を追い出され、ホームレスになった人に対し、政府や自治体は大きな公園に於て、テント村を作り、炊き出しをしたが、わずか一ヶ月で取り壊して、それ以後はまったく援助、救済をしていない。
 このような限られた年数、短期間しか行なわない自治体や国の援助に代って、導入すべき道は、アメリカに於て移動式住宅として普及しているモービル=ホーム(MOBILE HOME)、別名トレーラー=ハウスである。外見は普通の家であるが、土台(通常は木製)の四つの角のところに大きなタイヤが付いている。それを土地のある所に、トレーラー車やその他牽引できる車で移動する家である。従って、民法上は土地に付着していないので不動産ではなく動産である。
 この種の家は未だ日本では普及していないが、災害時に家を失った人や派遣切りで家を持たない人、ホームレスになった人に、政府や自治体が購入し、これらの人々に無償で提供し、永久に保持させるものだ。モービル=ホームは普通の家よりもずっと安価であり、一時的に政府援助金でモービル=ホームを与え、どこか別の土地を見つけ住むことになったらトレーラーなどで移動させる。そこで以後住むことになる。
 現在、災害の被災者や失業でホームレスになった人に、一時的に場所を見つけ、仮説住宅を作って住まわせているが、精神的に安定し、被災者が別の住む所を見つけると出てもらったり、数年の期限が来ると被災者を追い出し、プレハブなどで作られた仮設住宅を取り壊してしまう。それでは国や自治体の税金の無駄使いである。何故ならば、仮設住宅を建てる時に税金で費用を使い、取り壊わす時にもまた税金を使っている。二重に使っているのだ。それよりは、安価なモービル=ホームを被災者に与え、どこか借地を見つけたら、ホームをその土地に移動させ、永久的に所有、住まわすことが出来る。国家が家を与える形になるのだ。
 阪神大震災の時やその他の災害時に家を失った人は(老齢で無収入であるため)、自力ではもはや家を建て直せないで土地は所有しているが更地になったままでいる。このような時、国や自治体が安価なモービル=ホームを与えれば、自分の土地に同ホームを移動させ、永久的に家を持つことが出来る。
 モービル=ホームを日本に普及するためには、日本の法整備をしなければならないが(特に不動産に近い性質の動産なので民法も少し変えなければならない)、普及すれば安価なので、被災者以外の人で家を持ちたい人のマイホーム実現にもなるだろう。その他に漁村など風光明媚な所にモービル=ホームを移動させれば、避暑など季節的な観光政策にもなりうる。
 その他に日本政府が大不況対策として取るべきものでやるべきことは、不況対策用の特殊なデノミネーションである。これは文字通りお金の単価を高い方から低い方に変える事であり、それによりお金の価値を上げる事である。例えば、今まで千円の値段であったものを百円に十倍名目上引き下げて、実質上百円の価値を千円にするものだ。
 かつて、昭和五十年代の高度成長の真只中の時は、経済成長による拡大生産により、人々の収入が上がり、毎年物価が少しずつ上がるクリーピング=インフレーション(自然インフレ)だったので、名目上の単価を少し切り下げるべき事を、当時の経済評論家や経済学者等エコノミスト達が唱えていたが、平成不況になってからは、まったく聞かれなくなった。しかし、考えてみれば不況の今こそデノミをやるべきなのだ。忘れられたものをやるべきなのである。
 何故かと言えば、今現在の長い不況下では給料やボーナスは上がらず将来、経済不況がどうなるかわからないという不安から、また年金ももらえないのではないかという不安から人々、消費者が俗に言う財布のヒモを締めるということ、つまり人々が消費を大巾に控えるようになった。売れないから値下げ、激安、価格破壊となり、多くの商品の生産量は年々上がっているのに、価格が下がったデフレ現象になっている。デパートや大型スーパーは百円ショップで百円で買えるものを高く売っていたので倒産していた。
 このような時、不況対策としての特別なデノミを行うのだ。従来のデノミは千円から百円に十分の一に切り下げたとしたら、新しい紙幣を発行し銀行などに於て交換するやり方だが、これだと国民、消費者は何の利益も得ない。この場合の新しい特殊なデノミは現在、市中に出回っている量のお札やコインをそのままにして、政府が千円だった物を百円でかえるように宣言、布告するのである。そうすれば、今まで各消費者が持っていたお金が十倍に使えるようになる。千円を出さなければ買えなかったものが百円玉で同じものを買えるとなると、消費者は心理的に安くなったと錯覚し、思い込み、多くのお金を出し物を買うようになる。
 ただし、今まで持ったお金そのものが十倍の価値になったとすると、異常に購買力が上がり、市中に出回るお金が増えて、超インフレになるので、少しずつ時期を見て、政府や日銀が市中から貨幣を回収するべきである。十倍の価値のデノミは極端だが、一・五倍や二倍のデノミなら適性なのではないだろうか。
 政府や日銀は、新紙幣を発行することもなく、定額給付金のような税金を国民に出費することもない。

                    (流星群だより第16号掲載)
 

野球の新しい変化球の開発の実績

 あれは小学校六年生ぐらいの時だったと思う。昭和四十年、その時、川上哲治氏が巨人軍監督をしていて、それまで、初期の頃巨人軍の監督をし、昭和三十六年に阪神タイガースの監督になりダイナマイト打線を率いていた強敵、藤本定義氏と、同年に巨人軍の監督になった川上氏との間で巨人と阪神が交互に優勝していた。その年、昭和四十年は、V9、即ち、巨人軍が九年連続セ・リーグ優勝をした、V1、初めて優勝した年だった。
 この年のV1、優勝が出来た一番大きな理由は、当時の国鉄スワローズ(現在の東京ヤクルト)から金田正一投手が巨人に移籍したのと、城の内、中村稔、宮田征典の三投手三人がシーズン二十勝を上げたことが大きいが、何と言っても特筆されるのは最初のリリーフ専門投手宮田投手の活躍だった。
 宮田氏は当時、「八時半の男」と呼ばれ、文字通り当時テレビの野球中継が九時少し前に終る八時半になると、必ず登板したものだった。宮田氏は、昭和三十七年巨人軍に入団したが、肝臓に持病があったため、先発完投型の投手としては目がでなかったが、昭和三十九年頃、投手コーチの勧めもあり、短いイニングならいけるということでリリーフ専門投手となった。昭和四十年に、当時はセーブ=ポイント制は記録になかったが、今で言う二十勝、二十セーブ、合わせて四十セーブ=ポイントを上げ、巨人のV1に大貢献したのだった。
 結局、肝臓病のため、その年とその翌年五勝ぐらいを上げ、昭和四十五年に引退したが、今なお伝説の投手である。その理由は同投手が当時、「決め球」として使い多くのバッターを空振りさせ三振を取り、誰も打てなかった伝説の魔球、「落ちるタマ」を投げていたからである。当時宮田投手が投げる「落ちるタマ」の正体が何だろうという疑問が新聞記者、解説者アナウンサー、そしてファンの間に湧き、噂が噂を呼び、「落ちるタマ」がフォークボールなのか、ナックルボールなのか、パームボールか、それとも、別の新たな魔球なのか解らず、それが各バッターの心理的プレッシャーになり、さらに打てなくしていた。
 後に、引退し、コーチや解説者になってから宮田氏本人が語っているが、「落ちるタマ」の正体は、スピードがあるタテに垂直に曲がる捻ったカーブだったそうである。そうすると、宮田投手はカーブ、シュート、スライダー、直球と「落ちるタマ」の五種類の投球をしていたので、カーブは二種類投げていたことになる。宮田氏にしか出来ない独特で特殊なカーブだったようである。宮田氏がコーチをして、巨人や南海ホークスにいた山内新一投手がやってみたが、「落ちるタマ」にならなかったそうだ。
 当時、テレビの画面で宮田投手の「落ちるタマ」を見ていてすごい魔球だと思っていたが、同時に自分自身で新しい魔球か変化球を生みだすべく開発をしたいという意欲が出た。同じ頃、野球マンガがいくつか雑誌連載されていて、中でも「誓いの魔球」の題のマンガの主人公椿林太郎の投げる「ゼロの魔球」に影響されたからである。何か自分以外、誰も出来ない魔球を投げてみたいと決心した。頭に浮んだのは、単純に宮田投手の「落ちるタマ」の反対で、「浮くタマ」の発明だった。
 その年の六月だったと思う。学校から帰るとすぐ、一目散に家の近くのコンクリートの塀のある工場跡の空地へ行き、新しい変化球の開発に励んだ。「浮くタマ」を投げるのに、下手投げで(アンダースロー)でボールに回転を与えた上で、地面スレスレに直球を投げ、バッターの足元から浮き上がることを想定していた。しかし、実際にやってみたら、ボールに回転を与えすぎ、ボールが斜めに直球で上がって行き、塀を越し、塀の向こうの家の二階の窓の所に行き、ガラスを割ってしまった。後日、その家に弁償しに謝りに行くハメになってしまった。最悪である。失敗の原因はマンガに刺激され、空想的現実離れした魔球を作ろうとしたことと、引力に逆らいタマを浮かせることは理論上不可能である事が、小学生の理科の知識では解らなかったからである。これが中学だと引力の方程式を習うので、不可能な「浮くタマ」を開発したりしなかっただろう。それ以来、「浮くタマ」を作ることを封印し試みなかった。
 その代り、この当時、投げるのに成功した魔球、変化球がある。超スロー、フォークボールである。逆フォークボールだ。これは文字通り中指と人差し指でボールを挟んで投げるのだが、ボールを投げる時にちょうど鉄棒の逆上がりをやる時の逆手のように、手のひらを顔に向けたまま投げるので逆フォークボールというのだ。普通のフォークボールは、両指で挟んだ手のひらを打者の方に向け、足を上げモーションをつけ、手首手のひらに体重を載せて投げるが、逆フォークボールは逆手で投げるので、手首を痛めるので、ノーワインドアップで、上の方へ向け、挟んだボールを放つ、スローボールである。超スローのフォークボールだ。挟んだ指からボールを放つと、ゆっくりと斜めに直球で、回転しないで高く上がり、やがて上り切ると折れ曲るように、ゆっくりと真っ直ぐに下降する。もちろん、ストライクも入るが実践向きではない。逆手で多投すると手首を痛めて直球もスピードが落ちるからである。手首のやわらかい私は投げられるが、硬い人は投げることが出来ない。投手が登板したとして、完投をするなら一試合一球から三球が限度である。
 その他に小学校六年生の時に出来た変化球は、現在メージャーリーグで時たま、限られた投手が投げるサークル=チェンジである。これは親指と人差し指を十字に組み(人差し指を親指に乗せる)、そして残りの指、三本でボールを握り、直球を投げるようにボールを放すと直球で行って、バッターの少し手前にやや斜めに落ちるタマである。
 その時から二十数年、かって住んでいた東京都港区から横浜市港北区へと引越していた。ある時、それまではなかったのだが、自宅の裏の小学校に、まん中に的をペンキで書いた厚いコンクリートの小学生などがボールを投げて遊ぶ投球板が建設された。そこで、かつて小六の時にやっていた新しい変化球を再び発明しようと思いついた。日曜日にピッチャーのまねをして健康のため、投球板の的をめざし、直球やフォークボール、ナックルボールなど在り来たりのボールを投げる一方、自分独自の変化球を作りたいと思い、握りを変えたりして色々やってみた。
 その結果、二つの変化球を投げることに成功した。一つは回転を与えず、ボールを捻らず、直球で高く上げ鋭角に落下させる力を抜いたカーブである。これを投げたきっかけは、私自身、手首を捻りボールに回転を与えるカーブをやってみたが、投げられないので、苦肉の策として試ったのがこの投球法だった。投げ方は、バッターをイメージし、バッターの頭の上一メートルぐらいの高さに直球を投げるのだ。すると、球は伸びずに、鋭角に上の方から、やや斜めに下降するように折れ曲がるのだ。この鋭角に曲がる角度が、前述の通り、宮田投手がかって投げた「落ちるタマ」と同じだが、宮田投手のそれは、鋭角に曲げるため強い捻りをし、回転を与えた直球で行き、バッターの手前で胸あたりで急に落ちたものだったが、こっちの方はもっと、頭の上の方からやや斜めに落ちるものである。この方法だと、実際にピッチャーとして試合で登板し、バッターに投げた経験はないが、バッターの上の方から折れ曲がるように落ちてくるので、相当打ちにくいと思われる。
 そして、もう一つがナックルボールによる「浮くタマ」が出来た事である。ナックルボールをアンダースローですくい上げるようにして投げてみた。手の角度を水平より四十五度の角度にする。すると蝶のようにひらひらと、左右に揺れながら投球板の的に当たった。すぐそばでキャッチボールをしていた小学生がグラグラしていたと言っていた。
 その他に、アンダースローのナックルでも地面スレスレに投げる方法も試みた。投げ方はロッテの渡辺俊介投手の投げ方と同じで、手を地面から十センチぐらいの高さで、ボールを水平に投げるのだ。すると、どうだろう。ボールが地面に水平に行き、斜めに浮き上がり、さらに水平に曲がったのだ。感動であった。小学生の時に失敗した「浮くタマ」が偶然出来た瞬間だった。小学生の時に浮くタマを投げて、他人の家のガラスを割ったので、開発するのを封印していたのが、偶然に封印を解いた形になった、感無量だった。同時に思った。なぜ、小学生の時、ナックルで「浮くタマ」が出来なかったのかと。しかし、考えてみると、小学生の腕の力では無理だった。
 以上のようにいくつかの変化球、魔球を開発して来たが、軟球でしか試みていない。硬球ではやっていない。今後、それもやり、そして他の変化球も開発してみたい。
 それと共に、世の中の野球をする人にお願いしたいのは、私の開発した変化球を参考にし、試合で実践し役立ててほしい。
                               (流星群だより第15号掲載)
 

「新数の論理」

平凡な才能でも数多く積み重ねれば、大家と認められる

 「数の論理」と言うと、大概の人は、かつて闇将軍として政界に君臨した田中角栄が自分の派閥の議員を与党自民党内で最大多数を占め、党内の政策決定や首相の決定を数に物を言わせ意のままにし、牛耳りさらに国会内に於いて、与党過半数を武器に法案すべて自分の思う通り政治を動かした「数の論理」を思い浮かべるであろう。が、ここで言う「数の論理」は、具体的には後に述べるとして、ありふれた平凡な才能の人でも、芸術にしろ、スポーツにしろ自分のやっている事を能力が向上しなくても、平凡な才能のままの実績を数多く積み重ねれば、大家として認められるという論理、法則についてである。
 先ず、私自身の体験から。一九九五年以来私は自己流でキーボードやピアノでやさしく弾ける曲を数多く弾くことを趣味としている。きっかけは、自宅の向いの安アパートに住んでいた人が引っ越しの時、使った古いキーボードを譲ってくれた事だった。「引っ越し先で新しいキーボードを買うので捨てる」というので、もったいないので引き取ることにした。自分自身、小学校でオルガンの入門を習ったことはあるが、それ以来、鍵盤を弾くことはなかった。その時から十年、やさしく弾ける曲を出来るだけ増やし、数多く弾き、楽しんでいる。
 初歩のオルガンを習ったのは東京都港区に住んでいた小学一年生の時であった。きっかけは、母方のおばの家がそろばん塾を開いていたが、休みの水曜日に教室が空いているので、その日にピアノ普及のためライバルのヤマハと競っていたカワイ楽器がそこでオルガン教室を開いた事だった。その教室の生徒が足りないので頼まれ私が参加し、オルガンを習う事になった。最終的には小学四年生まで習い、一応修了証は貰った。
 オルガンは、中学に入って音楽の教師が教材として買わせた歌集が唱歌やドイツ等外国民謡で知らない良い曲がたくさん載っていたので、自宅にあったオルガンで実際に弾いて、どんな曲か確かめ楽しんでいたが、それ以来長年近所にいた人にキーボードを貰うまでは鍵盤を弾くことはなく、大きなブランクがあった。キーボードを手に入れた私は、保育園時代から耳にした曲すべてを弾くことにした。童謡、小中学校で習う唱歌、マンガの主題歌、演歌、歌謡曲、フォーク、ニュー=ミュージック、ポップス、CMソング、クラシックで比較的やさしい曲などすべてを当時から持っていたレコード、ソノシートそして最近のCD、テレビでの歌謡曲を聞き、耳で音をおぼえて、楽譜を見ずに、試行錯誤して弾いていると、何とか弾くことが出来たら、次の曲へとまた、適当に弾いていると何とか出来るようになる。そして、さらに別の曲へと試みる。という風に次々に多くの曲をマスターしていく。そうやって積重ねて弾ける曲が三百を越えた。かつてオルガン教室で習った弾き方はまったく忘れたので、楽譜を見ずに自己流で弾いている。一つには、やさしい曲でも楽譜を見て弾くと間違えるとイライラして、さらに間違えるからである。初歩のオルガンしか習っていない私は、自己流で両手で弾けるが、左手の和音は適当である。従って小学生レベルのピアノすら習ってないので、ちょっと難しいクラシックは弾けない。楽譜を見なければならないからだ。そんな私でも、子供会やクリスマス会などに呼ばれ次々に多くの曲を弾いてあげると、色々な人に「何でも弾ける天才だね」とか、「音楽の大家?」と呼ばれたのだ。まさに平凡な積み重ねによる「数の論理」である。
 おなじ事が登山にも言える。平凡な庶民は、ヒマラヤやスイス=アルプスに登る事は体力的にも能力的にも不可能である。また、山岳部やワンダーフォーゲル部の人々のように天候等厳しい自然を克服して日本全国の主要な山々へ登る事も困難である。それでは登山家でない普通の人はまったく登山家として認められないだろうか。否である。一生の内に出来るだけ多く、軽装で登れる低い山でも、少し高い山でも数をこなして登り、記録を残す事である。埼玉県に住んでいる人ならば、まず有名な山々だと秩父の名山、両神山、武甲山などは素人でも登れる。次に一千メートル以下の伊豆ヶ丘、九山、黒山三滝、正丸峠、五百メートル以下は宝登山や飯能の天覧山、物見山等があり、これ以外の無名な山は数多くある。所は変わるが横浜では九三メートルの天王台や百四五メートルの円海山も山として認められている。これらの山々を一生の内に出来るだけ多く登り、山の姿の写真を取り、スケッチを描き、登山記のエッセー、俳句、短歌、歌詞等を残し、安い印刷屋やワープロで本を自費出版しておけば、地方の登山家として認められるだろう。ヒマラヤなどの登山家は難関の峰を登るため、何年もかかって準備をし、世界の高山のみを登るので、地域の山など相手にしないので、知らない。富士山なんかも登ろうとはしない。登山道があり、素人でも登れる山だからだ。それだけに地域の山々を凡人が数多く登り、所感を残すのは、登山家として価値がある。
 世の中には平凡な能力の人でも数多く実績を積み重ね大家になった人はいる。元広島カープの衣笠祥雄選手は打撃については三割をも打てない平凡な選手だったが、試合を積み重ね連続試合出場で世界記録を作り、川相昌弘選手も巨人や中日に在籍した平凡な守備の選手だったが、バントを積み重ね犠牲打の世界記録を作った。将棋の世界でタイトル一つで八段、名人だと九段になれるが、タイトルを取れる人は何人もいない。が、通算二百勝以上、一勝一勝積み重ねれば、普通の棋士でも八段九段になれる。相撲で高見山や青葉城は並の力士だったが、長年相撲を取り積み重ね、出場記録と通算勝ち星歴代何位だ。牧本という力士は、長年幕下と十両を往復し、一場所だけ幕内をつとめたのみだったが四十歳まで取り、入門から出場数は歴代何位の数である。北陸石川県のあるお寺の何代か前の和尚が、生涯千五百もの俳句を残した。殆んどが駄作であったが、同和尚を記念した俳句の賞がある。植物学の大学者で、高等小しか学歴のなかった牧野富太郎博士は、莫大な草を収集し、分類して植物学の権威になり、東大の講師となった。地味な草集めの積み重ねだった。心臓や脳外科手術の大家は異口同音に平凡な手術の何千もの積み重ねが大家となると言っている。色々な物のコレクターも平凡な物を多く集める事で大家となる。地味な平凡な努力が芸術に於いても趣味に於いても大家となる。全日本女子バレーの監督柳本氏が、「一試合一試合の勝利の積み重ねが世界を制す。全日本女子は横綱にはなれないが、名大関になって世界を取る」と言ったが名言である。四流五流の能力でも、人並みはずれた数を実績として大家になろう。

                    (流星群だより第14号掲載)
 


奥丹沢での森林伐採体験をして

 去年、平成十九年の三月初頭、抽選に当たり、神奈川県森林づくり公社のプログラムで一泊し、奥丹沢の札掛の杉の森林の木の伐採体験に参加した。同公社は森林維持のため一年の内、県内各地で一般の人から募ったボランティアに木を切り倒す、日帰りのプログラムを何回かやっているが、一泊のそれは、この時期、年一回だけである。
 朝五時に起きて、横浜から電車で小田急線の秦野駅前に八時半に集合。用意されていたマイクロバスで奥丹沢へ出発。以前は、駅前は数軒のお店があっただけの田舎の駅だったが、今は駅ビルのある横浜や藤沢などと同じ都会になっており、そこを通ると、ほとんど枯れ川になっている水無し川に沿ったガードレールの道に出る。そこから小型バスは左に曲がり坂道に入る。道の脇には、前からある古い農家や民家が続く。それから十分も急な坂道を進むと、道の脇の家はなくなり、ガードレールのある山道の車道になり、左右に日光のいろは坂を小さくしたようになって、さらに高い所へ道はカーブを折り曲って進む。その時、窓から下を見ると、出発して来た秦野市やその向うの湘南に続く平野が望める。約四百メートルの高い所へ昇って来たと実感する。そして昇り詰めた所に、東屋やベンチのある見晴し台と公園を兼ねた所がある。ヤビツ峠だ。ここから下の平野への眺望は圧巻。名所である。
 ヤビツ峠を右に曲がると道は平らになり、行き先の札掛を通り、もっと奥の宮ヶ瀬湖へと向う。道の右手は約七十度の急斜面の杉の雑木林が続き、やがて大山の後姿がにょきりと高く聳える。初めて見る大山の反対側からの姿だ。厚木方面から登ると、雑木林の木がすべて切られ、ケーブルカーがあって、頂上は岩肌がゴツゴツした険しい山であるが、後姿は手つかずの杉の木が生えたままだ。人の頭で喩えると、前頭部半分がハゲで、後頭部は髪の毛がフサフサだ。やがて、道の脇に流れていた細い川藤能川に。もっと幅の広い布川が合流する。その川に三ヶ所、石垣で堰を作り滝になっている所があった。堰の形も三つとも違い、滝の白い瀑布の流れも異なる。峠から約三十分左側の布川の橋を渡り、県立札掛森の家に到着。十時半。
 建物はほとんど木で造られたログハウス=ロッジであった。入り口のフロントの脇には丹沢の木の標本や木の工芸品がいくつか陳列されている。他に和室の二階建てと小さな風呂、自炊場と広いホールがある。
 着くとすぐ、ホールで午前中は森林に関する学科の講義を聞き、持っていった弁当を食べ、午後一時半からいよいよ実践の森林伐採体験だ。初日の森林伐採の二時間の実習に行く。動きやすいトレーナーに着替え、ヘルメットをかぶり、運動靴で森の家の玄関の前に集合。伐採指導者である森林インストラクターを中心に、いくつかのグループに分かれる。伐採注意事項を聞いた後、木を切る鋸を借り、紐で腰に刀を差すようにぶらさげる。
 一時半出発。布川沿いに約二十分起伏のある山道を行くと布川の幅も広くなり、丸太の筏の橋がある所に出る。そこを渡ると左側は遙か下に川、右側は約七十度の斜面の杉の雑木林、鎖をつかみ五十センチの巾の小径を恐る恐る歩く。やがて切り株のベンチのある所でしばし休憩。そこからいよいよ伐採場へ。七十度の斜面を約五十メートル登って行く。
 杉林の間の小道を登ると、約十メートル登る毎に切り倒された太いものや細い杉の丸太が横に並べられ、枯れ葉が散らばっていた。途中、何度も約二メートルも土で足が滑り落ちた。急峻な斜面を登るのは難しい。
 やっと伐採場に着く。作業は二つ。枝伐採からやる。約直径二十センチの杉の幹に、根元から二メートル五十センチの所に、アルミの梯子を掛け、一番上に登り、鋸で全方向の細い枝を切り落とす。ゴキゴキと半分も切ると、枝は自然に折れて下に落ちる。二メートル上は下を見ると足が震えた。切り屑が鼻に入り、プーンと臭いがする。約一時間で終えた。
 次に直径五十センチ以上の杉の幹を切り倒す作業。まず、片方を直径の約三分の一を水平に切り、そこから三十度斜めに切る。くさびのような切片を取る。そして今度は反対側を水平に半分の長さに切って、ロープを回して縛り、近くの他の木にロープを掛け、滑車のようにして手前に向けて張る。左右に人がいないかを確認して、「倒れるぞー」と叫びロープを強く引く。少しミシミシとして、切り込みを入れた杉の木が、ゆっくりお辞儀をするように地に倒れる。太い幹を切ったので息が荒くなり、暫く休憩。これを四回やり、作業を終る。元の道を引き返した。
 森の家に着く前に、森の家の玄関の手前の脇にあるいくつかの木が植えてある公園のような庭で、丹沢の野生の鹿三匹と出合った。おいしそうに草を食べていた。茶に白いお尻の鹿達は我々を見ると危険を感じたのか、睨み合いになった。その目がマスカットぶどうの粒か、又は薄緑の翡翠の玉が光っているように見えた。鹿は我々が襲わないとわかると、ゆっくりと庭の川沿の網の張ってある柵の下をくぐり、斜面になって川に続く土手の上の柵の向こうで草を数分食べ、山へ帰って行った。
 夜は自炊した質素な食事とホールで全員でささやかな親睦会をやった。
 翌日、午前、二時間の伐採と午後講演を聞き三時出発、家路についた。
 伐採の体験プログラムに参加した人は三分の一が女性で、ほとんどが神奈川県内各地の人であったが、中には他県の人もいた。東京奥多摩での伐採に飽き、丹沢に参加した人もいた。自然の中で、だれにでも出来る伐採作業であったが、普段やり慣れてないと、息がハアハアし、きつかった。もっと太い木を切る木こりがいかに大変な仕事をしているか、垣い間見た。いい体験だった。

                    (流星群だより第13号掲載)
 


 

劣等感の恐ろしさ

──コムスン会長、ミート・ホープ社長、

         羽賀研二の犯罪に見る深層心理──

 ごく最近の事件、主として知能犯であるが、コムスン社長折口会長の介護士不正申告事件、精肉納入業者ミート=ホープ社の田中稔社長の牛肉をブタのハツやその他の肉を混ぜ、味が似ている物にすり替えた不正表示、詐欺事件、そして、俳優でジュエラーの羽賀研二容疑者による多額の借金を恐喝による踏み倒し事件が世を賑わしているが、それらの事件の概要や事件の悪質性についてはスポーツ新聞やテレビのワイド=ショーで詳しく伝えられているが、事件の背景には、犯罪を犯した主体である、折口氏、田中氏、そして羽賀研二が共通して、幼い時に味わった逆境、極貧、時には孤独が劣等感として心の底に傷としてあり、それがそれぞれの犯罪に走らせたという心理的分析をしていない。また、テレビなどに出演している心理学の専門家なども、それについて説明出来ていないので以下に於いて説明したい。
 すでに報道されているが、すごく問題になっている人々、折口コムスン会長、田中ミート=ホープ社長、そして羽賀研二についての過去の辛酸をなめた経験について触れてみたい。まず、福祉ビジネスコムスンの折口会長は幼い頃、両親が分かれ、自分も祖父母の所で育てられ、貧しい生活を送った。孤独感も味わった。貧しい境遇から十五才で少年自衛官になり、成績を残し、そこから推薦によって防衛大学校へ入り、卒業するも、自衛官に任官せず、自ら起業し、バブル期に芝浦でディスコ場、ジュリアナ東京を設立し成功するが不況で、福祉ビジネスに目をつけ、コムスンの事業を拡大し、今回の事件により事業を破綻させたさせた。
 田中ミート=ホープ社長も幼い頃、極貧の生活を余儀なくさせられた。母子家庭で食う物も満足ではなく、食べ物に対する保障があるので、肉屋に就職した。学歴など考える余裕などない。精肉業に二、三勤めた後、独立し、各方面に肉を納入する精肉業ミート=ホープを設立し、事業を大きくしたが、牛肉偽装により罰せられ、事業が倒産した。
 羽賀研二は、沖縄で米兵との子として生まれたが、生誕前に父親が帰国し、母子家庭で極貧の生活の中で芸能界へ入り活躍するも法的無知で連帯保証を多額にし、その補填のため知人に四億以上の借金をさせ、返済不能でヤクザに恐喝させて債務放棄させ、逮捕された。
 これら三人について共通して言える事は、幼い時に育った環境がひどい逆境、辛酸をなめている事だ。両親が離婚したりして、極貧を味わう境遇だったのだ。人並の生活から見たら遙かに劣る生活をしていた。そのことがひどい劣等感を生む。そんな境遇にあって、他人をどんなに妬んだことだろうか。特に極貧の体験は強い金銭欲を生む。それが深層心理の潜在意識、無意識に刻まれる。無意識にある性欲、攻撃欲、食欲などの本能と共に、金銭欲は準本能として記憶される。
 潜在意識に宿った極貧の体験による準本能的な欲求、強い劣等感は、その後の人生に於て強い富に対する執着心となり、事業を起こしある程度財をなすが、さらに富を求め、違法なことでも平気でやるようになる。極貧の体験は準本能的であるため、考え、良識をもって判断し行動する顕在意識で制えがきかず、行き過ぎ、法を犯し、他人をだましてもお金を得ようとする。本人は悪いという認識が湧かない。我欲に走るのだ。自分が極貧を味わったのだから何をしても良いという欲求が生まれる。コムスンの折口会長は、お金のない障害者を自分の金儲けにし、自分は豪邸に住んだりしている。
 似たようなケースに虐待を受けた者が、自分の子供や他人をケガさせたり殺人をする。又黒人にレイプされた女性が、それ以後、黒人やインド人、アブオリジンなど肌の黒い男性を見ると、善良な人なのに、レイプされるのだとして、避けるのも、過去の心の傷が準本能的になっているからだ。
 潜在意識極貧の劣等感を持った者が、企業などで上に立つと、必ず独裁者になる。田中ミート・ホープ社長は、下の者の意見をまったく聞かず、折口コムスン会長は劣悪な労働条件をヘルパーに押しつけ、防衛大学校出であるので、軍の絶対服従の教育を受けた人で、従業員に文句を言わせなかった。挙句のはてに違法行為が摘発され、事業を失い、多くの善良なる従業員が失職し、犠牲になった。人を踏み台にして、やりたい放題をした。
 過去に於て、ドイツのヒットラーは、自分自身がユダヤ人の血が入っているという劣等感があったので、権力に就くとユダヤ人を虐殺したし、エルビス=プレスリーは自分自身黒人の血が入っているのに、スターになってから黒人を差別した。同様に二十年前の豊田商事の永野社長、田中角栄、鈴木宗男なども極貧の劣等感により権力をふるった。横山やすしもしかりだ。
 さらに日本の社会は未だ江戸時代の身分社会を引きずっている。裏切りの戦乱を平定させた江戸幕府は、孔子学を発展させた陽明学で人々の日常生活を統制した。外面的には士農工商の身分差、内面的に親子関係、先輩と後輩などに身分差をつけ、上の人間には、逆らわせない。上が間違っていても、それを下の者が指摘してはいけない。現在も上の者は絶対だという江戸時代の社会そのままの意識が残っている。明治維新によって江戸幕府は倒したので民間人が政府に対しては物が言えるようになった。だが、戦後マッカーサー憲法で平等と言論の自由を与えられたにもかかわらず、江戸時代のまんまの習慣不平等が残っている。そのため地位についている者は偉く、やりたい放題だが、下の者は忍従しなければならない。
 人々は会話する時、自分より相手が上か下かを意識し、上の者には愛想を好くし、下の者には乱暴な言葉を使ったりする。日本人は我か強く、自分は他人より下に見られたくないという国民性のため、相手を立てて、へり下って話さないと相手は気を悪くして、本音の我を出し、相手に対し態度が悪いなどとケンカになってしまう。自分より能力のある者へは、気にくわないと言ってイヤガラセ、イジメをする。このような身分社会に於て極貧を味わった人間は下の下なので、どんなに屈折した感情、劣等感を心に持つか想像はつく。その人間が事業を起こすとワンマン独裁者となるのだ。
 劣等感を持った者が権力につくのを阻止するのは、むずかしい。官庁や大企業などが大学出の優秀な人材を雇用し、経営者にしているのは、権力欲の強い者、劣等感を持つ者が上に行かない工夫である。よく学歴社会というが、この意味では正しいのだ。権力に就いても自制心があり、良識で行き過ぎない者を登用しているのだ。
 問題は極貧を味わった者が、自ら起業し、初めから経営者になり事業を大きくした場合である。権力を欲しいままにする。折口会長や田中社長の類である。彼らにはカウンセリングを受けさせ、劣等感を取り除くことが出来るが、強制は出来ない。
 やはり、法を整備し、上の不正を告発し、告発者の身分を保護する方法とか、官庁の介入を強くし、劣等感を持った企業社長が行き過ぎた時、強制解任出来る制度にしなければならない。
               (流星群だより第12号掲載)


 

観光地のあり方について

 ここ二十年ぐらいの間に昭和五十年の沖縄海洋博や、その後筑波科学博や花の博覧会をまねて、日本全国の地方の過疎地で、自治体や第三セクターが多額の投資をし、観光施設を作り、ほとんどが十分な収益を上げられず、数年で倒産閉鎖し、失敗している。その事実を見て、長年、観光地開発に疑問を持っていたので、これまで観光地コンサルタントや経済学者などがあまり指摘しなかった観光開発のあり方などについて述べたい。
 まず、テーマパークについてであるが、平成の初め頃から、日本全国、多くの自治体や第三セクターが、それぞれの過疎地の地域の問題を解決し、活性化するため、莫大な予算を投入し、様々なテーマパークを建設した。ヨーロッパの町並を小さく再現したもの。おとぎの国を再現したもの。アジアの仏殿や仏像、寺院を模写したものなどなど。それらの建設したねらいは、それぞれの県で、特に観光地や特産物もない過疎の地の森林や山を崩し、人工的に独特な特徴のある行楽地を作り、そこへ爆発的に大量の観光客を呼び込み、収益を上げる振興策である。万博や浦安のディズニーランドの二番せんじをねらった、まねであった。ところが、多くのテーマパークは思い通りには客を呼べず、赤字になって倒産していった。その中でも比較的好成績であったオランダの町並を再現した、長崎のハウステンボスまでもが業績が悪くなり、倒産寸前で再建機構の管理下にある。
 それではなぜ、テーマパークは次々に失敗していったのだろうか。そしてテーマパークが手本にしたディズニーランドは不滅なほど好成績を維持し続けているのか。第一に、言うまでもなく、ディズニーは世界的知名度のあるキャラクターであるが、テーマパークはにわか造りの、宣伝も不十分で、全国的に知られていなかった事があるが、その事を抜きにしても、テーマパークは、元々地方の過疎地で、人のいない所に、崖や山林を切り崩し建て、日本全国の客を大量に集めようとした所に無理がある。人のいない過疎の地であるため、地元の人々を常にテーマパークに集客出来ない弱点がある。地元の人がパークに足を運ばないのだ。この点、ディズニーは近郊の人々が大勢集まる東京のそば、浦安に位置している。それ故千葉県にあり、距離の近い東京、千葉、埼玉、神奈川などの大都市から多くの観光客を入場させ、莫大な利益を上げている。これがテーマパークだと過疎の地なので望めない。ゆえに倒産し安いのだ。
 さらに決定的なパークの弱点は、丘や山を崩し建設したため、主要道路から、ずっと奥に入った所に位置していることだ。内陸の孤島であるため、東西南北に別の観光地、スポットとの連絡、お客の流れが作れない。パークを見終った人は、別の見どころへは行かず元来た道を戻るしかない。別の観光スポットから客が来ない。この点ディズニーは浦安にあり、四方八方、夢の島公園、水元公園、都内の浅草や皇居などから観光バスで来客があり、別方向にも葛西海浜公園、柴又や成田山など別の所から客の移動がある。つまり周遊が出来る。が多くのパークではそれが望めない。
 それを証明する良い例が日光に見られる。日光へは通常、宇都宮方面から入るが、中禅寺湖の奥には群馬県の方へ降りる道がある。その入口が金精峠である。日光を見終った客は観光バスで群馬県の九沼、老神などいくつかの温泉地で泊まる事が出来る。反対に東京方面から群馬県の温泉地に泊った後、栃木の方へ坂を登って逆方向から日光へも行ける。日光も温泉地も連絡が出来、双方から客が訪れる。周遊である。テーマパークにはそれがない。日光にとって金精峠から群馬への道は命綱なのだ。
 ローカル線が次々に廃止されたのも似たような理由だ。古い車両で、JRの本線の駅から数キロか十数キロ終点の小さな町まで長年、通勤路線として活躍して来たが、車に取って代わられた。行き止まりの所が終点であり、途中に商店街のモールや行楽地など客が集まる所を作らなかった事にもよる。従ってテーマパークは赤字ローカル線の駅に作ればよかったのだ。地方ローカル線で生き残っているのは有名温泉地に行く路線と、JRの二つの駅を結ぶ線である。例えば長野電鉄や関東鉄道のように。山の麓で終点になっているローカル線があり、さらに山の向側にも終点であるローカル線がある所では、山の両側に振興策として最小限のケーブルカーやリフトを作り、二つの終点駅を結べば両側から乗客が見込め、山の上は地価が上がり、茶店や展望台が出来、経済効果が出る。今後、このような振興策が望まれる。
 テーマパークの最大の失敗例としてはオウム真理教の上九一色村の拠点のサティアンを壊し代わりに作ったガリバー王国である。多くの信者が寝泊りして、秘密の部屋で殺人化学兵器サリンが作られ、地下鉄サリン事件を起こした。上九一色村の役場と住民は感情に走り、オウム憎しのあまり、一瞬にして取り壊し、代わりに悲惨なイメージを払拭するため、巨額の財政投入をし、メルヘン的な巨大なガリバー王国をテーマパークとして作ったが、ほとんど客が入らず、数年で業者に二束三文で払い下げられてしまった。大損であった。同パークは元々富士五湖のさらに奥に入った樹海などのある、超不便な所にあり、ガリバーを作っても東京などから集客は望めない。地元も人がいないので入場しない。経営は至難なのだ。むしろ、悪のイメージはあるが、科学的な価値のある大設備サティアンの多くをそのまま村役場が保存し、入場料を取り、科学的説明をガイドにさせ、悲劇を忘れないよう近くに平和の広場でも作り、追悼イベントをすれば、悪いイメージだが、有名になった所なので多くの観光客が恒久的に訪れ、採算も取れたのだ。日航機墜落の御巣鷹山が良い例である。悲惨な場所で観光地として役割をしている所の例として原爆の長崎、広島、真珠湾など数ある。
 熱海の観光客の激減も周囲の観光地との連携が不十分だからである。かつては東京の奥座敷と呼ばれ、週末は温泉客で人が溢れていたが不況で淋れてしまった。これは東京と熱海の往復のみの一方通行の客の流れのみに頼っていたからで、もっと湯河原、箱根、そして伊東、沼津と直通の交通機関を整備し、連絡し、割引共通宿泊クーポン券などを作り、老人ホームやドクターフィシュの温泉やハリやあんまの湯治の町と再生するのが望ましい。

                    (流星群だより第11号掲載)


 

商店街巡りの面白さ

 今から約十五年前、体重がありすぎ、変形膝関節炎を起こし、痛くて歩けなかった。医者に行ったら痛み止めの他、膝の下の筋肉をつける運動をするよう言われたがうまくいかず、何か楽に、自然に膝の筋力をつける方法はないかと考えた末、自転車に乗り出来る限り遠くへ行くことにした。最低でも半径五キロから十キロ自転車をこぎ、街並や風景、公園等を回り、本で学ぶのと違い、見て学ぶ体験をした。
 そんな時、新聞販売店から当時川崎球場にいたロッテ(現千葉ロッテ)のパ・リーグの試合の招待券を貰い、自転車で球場へ野球の試合を見に行くことにした。自転車で川崎球場に行くには、JRの川崎駅と観見駅との間でJRと並行して走る京急線の二つの路線を横切らなければならない。そこで、毎回自転車で球場へ行く時、元来、同じ道を通るのはつまらないので、京急の京品観見駅、観見市場、八丁畷京品川崎駅で二つの線路を横切ることにした。毎回、球場へ行く毎に線路を横切る場所を変えていたが、その時、思い掛けない発見があった。横切っていた踏切りのある京急線の駅の近くのいくつかの商店街の外見、街並、店の種類がそれぞれ違うことに気付いたのだった。
 例えば、京急観見駅の近くの商店街は銀座と呼ばれ、飲食店、コンビニ、スーパー、文房具屋、用品店、金物屋のあるオーソドックスな商店街。一方、隣の駅、観見市場は、古くからお寺のある小さな門前町だった面影があり、寝具屋、下駄屋、ぞうり屋、スッポン料理店などコンビニはあるが、あまり飲食店や生鮮食料品がなく、昭和三十年代のガラスのガラガラする戸で出来ているなつかしさがある街並の商店街。次の八丁畷駅は、JR浜川崎線と京急と二つの駅が交わる所で、商店街は二つの線路の下の狭い所にほとんどが飲食店でギッシリ詰っていて、一つか二つ化粧品屋があるだけだ。鶏肉やきとり、もつ煮、一杯飲み屋、小さな寿司屋など。
 このように商店街に特徴と違いがあることを発見した私は、それ以後、自宅を中心に十キロ以上、商店街を求めて長距離行くことにした。尻手、大口、六角橋、綱島、川崎の鹿島田、武蔵小杉、元住吉、そして電車でも磯子、蒲田、戸越銀座、弘明寺などへ行った。
 これらの「商店街巡り」の経験から買い方や商品について述べてみよう。各商店街には必ず、有名スーパーやコンビニの他に、地元の個人経営のスーパーがある。このようなお店だと、他で見られない商品を売っていることが多い。主として、お菓子、せんべい、ソース、調味料、パン、牛乳、お茶、ケーキ類、カレー粉、シロップなど、仕入れが違い、地場産業と呼ばれる地方の有名ブランドでない良品を売っていて、安価なものがある。普通のスーパーなどでは珍しいものだ。横浜のある個人スーパーでは「近藤牛乳」(百円)など非常に安価で売っている。この種のお店は古くは「よろず屋」と呼ばれていて、仕入れが違うのだろう。別の商店街には別の、この種の店があり、違った商品がある。別の商店街を訪ねる意味がある。
 有名スーパーでもスーパーの会社が違えば別の商品を売っているが、スーパーや町のディスカウント=ストアーも全体的には普通のお店よりも安いが、一つや二つ、普通のお店の方が安い品物もある。あるディスカウントマーケットは一般に魚は値段が安いが、タラコだけは魚屋の方が量が多くて安いという事例があった。
 同じ系統のスーパーでも違う場所のお店だと扱っていない商品もあり、さらに売れ残った商品の値切り方が違う。ある店では半値にするのに、ケチなお店では三十円とか五十円しか値切らないお店もある。値切りは店長の裁量に託されているからだ。百円ショップもいい商品でも、お店によっては売っていない場合がある。ましてや違う会社の百円ショップでないとない商品もある。ある百円ショップで売っているCD、プロレスの覆面、おもちゃは別の会社の百円ショップにはないし、同じ系統のお店でも店によってはない場合がある。黒まめココア、アンチョビーの缶詰、フィリピンの百円で十六個くるピーナッツ=クリームサンドクラッカーなどもしかりである。
 ディスカウントでない普通の商店でも、同じ商店街の中で他のお店にはない安価な良品はあるので、色々な商店街に何回も足を運び、この商品はこのお店で買おうと、別の商品は百円ショップで、さらに別の商品は地元のスーパーというふうに、商品別に買う店を決め、買い慣れたお店だけでなく、別のお店、よその商店街へ訪ね、色々な店で買うことをお勧めする。
                    
(流星群だより第10号掲載)


 

もう一つの自費出版の方法

 自分で出版したいという人々は多い。自分が歩んで来た人生を誰かに伝えたい。また、自分が長年培って来た知識や趣味の集大成を本にまとめたいなどと。それをするには、自費出版として発表するのが一番。というより、日本の出版社は、有名な小説家や文筆家、会社や公務員など専門家として見做される職務に就いている者でないと、執筆を依頼して来ないし、相手にしてくれないからだ。ヨーロッパやアメリカのように、有名人ばかりでなく、内容さえ良ければ、一個人でも持ち込み原稿で出版してくれ、読者が内容を判断し本を買うような出版市場でないからだ。詩、俳句、短編小説などは、会費を支払い同人として同人誌に発表できる。が、競争があるので作品掲載はあまりチャンスはない。
 自費出版には自費出版を扱う出版社か、自ら費用の安い印刷所を見つけ印刷製本にする方法と、パソコン、ワープロでやり、デパートなどで製本セットを買い安価に作る、自家製本とか私家本とか呼ばれるものを出版する方法がある。安い印刷屋で百部ぐらいで十五万円ぐらい掛かる。たとえお金を掛けても売れる見込みはない。無料で配るか、知り合いに義理で買ってもらうのみである。出版取り次ぎルートに載らないからだ。それ故、出版実績にはなるが、商売にはならない。
 その他に、自費出版の方法があるので紹介したい。一つは自分で点字で自分の詩や俳句や短歌など簡易な作品を打って残す方法と、もう一つはポーランド人の医者が考案した世界語、エスペラント語で自製本をつくり、出版ルートに載せてもらう方法である。
 先ず点字について。点字は言うまでもなく盲人が指で触れて読む六点による文字である。点字で自分の作品を作るには、基礎的な点字を習わなければならない。学ぶためには、福祉施設や地域の社会福祉協議会の点字グループによる点字入門講座を受講するのだ。盲人に奉仕するという意味で、受講料は無料の場合が多い。安い入門テキストと点字のプラスチック用器で、最小限基礎的な点字は打てるようになる。これにより、俳句、川柳、短歌、短い詩などの自分の作品は、点字用紙を買わなくても、カレンダーの紙や不動産会社の厚手の広告の紙などに点字で二〜三部作っておいて、盲人に配れるようにしておくことだ。普通の自費出版のように百部も作らなくても点字は、盲人に奉仕できるので数部でも公的性がある分出版実績と認められるだろう。
 小説など長いものは点字にして配るのは難しい。カッコや記号を多く学ばなければならず、上級レベルの点字技術が必要である。それに長編だと大変厚くなってしまう。又、盲人は有名な作家の作品を読みたいので、それらをボランティアグループが慎重に間違いなく点訳したもののみ点字図書館に納品できるからである。名作でさえ未だわずかしか点訳されていないので、名作の点訳が優先で、図書館は普通人の小説は求めていないのだ。
 もう一つの方法が世界共通語であるエスペラント語で出版することだ。約百年前に戦争の相次ぐヨーロッパで、言葉を統一する事が平和につながると信じ考案したのが世界共通語エスペラント語で、世界約百ヶ国、約百万人が言語を理解している。日本でも東京都新宿区早稲田に日本エスペラント学会があり、各地にエスペラント会があり、学習されている。エスペラント語で訳された物は各国の文学や社会科学や自然科学の本もあり、その中にワープロ製本も図書目録に入っている。それ故、各地のエスペラント会で、何年かエスペラント語を学び、自分の書きたい物をエスペラント語で書き、ワープロで自製本をつくり、日本エスペラント学会の出版部に申告をして、世界中に配本してもらう事が出来る。常時十部ぐらい配本出来るようにしておけばよい。これだと、そんなに売れるものではないが、充分出版実績になる。日本の出版社が相手にしてくれない研究者や作家などに最適であろう。

                     (流星群だより第8号掲載)


 

アメリカ人とオーストラリア人の野球選手の違い

 二〇〇四年のアテネ=オリンピックに於ける日本チーム対オーストラリアチームの野球の試合は私達、野球の観戦者に新たな事を教えてくれる。それは何かというと、同じ西洋人がやる野球でも、野球発祥の地であるアメリカの選手とオーストラリアの選手とでは、そのプレーに於いて能力的違いが出ている事だ。それについては、日本の野球評論家やスカウトなどが気付いていない。
 アテネ五輪では長嶋全日本監督が急病で倒れ、中畑清氏が代行し、銅メダルを獲得した。選手はセ・パ十二球団の最高の打者や投手が選ばれた日本最強チームとして五輪に望んだが、オーストラリアに完敗を喫した。各チームの強打者が完膚なき程に押さえられたからだ。その時のオーストラリアのピッチャーが、先発をしたオーストラリア=ナショナルリーグのエース、オックス・スプリングス投手と、それをリリーフした阪神在籍のジェフ・ウィリアム投手である。この二人の力投によって、日本チームは〇敗をくらってしまった。特に先発したオックス・スプリングスは、日本の最強打線をほとんどと言っていいくらい外野に打球を運ばせなかった。
 このようなオーストラリア人投手の力投には、日本のほとんどの野球関係者、特にスカウトが気付いていない特徴がある。それはメジャー=リーグを中心とするアメリカ人選手とオーストラリア人選手との身体能力に違いがあることだ。特に、オーストラリア人投手の投球はアメリカ人のそれと大きな違いがあるように思われる。
 まず、オックス・スプリングス投手。投球の速さはさほどない。アテネ=オリンピックのゲームを見た限り、スピードは画面で百三十キロ後半から百四十キロぐらいしかなかった。しかし、それにも拘わらず、日本のプロ野球、最強打者達を集めたチームが、ほとんど外野に打球を運べなかった。この投球、球質を見ていると、速くはないが大変重い球質で、オーストラリア人独特な投球で、アメリカ人の投手と違うように思われる。オーストラリア人独特の人種的な違い、さらに身体的な違いが球に出ているように思われる。オックス・スプリングス投手の重い球は、球に体重の載せ方がアメリカ人と違っているのではないか。西洋人については顔で見分けが付かないが、日本人の野球関係者は、そのことに気付いていないように思われる。
 もう一人は、アテネ=オリンピックの試合でオックス・スプリングス投手を八回からリリーフしたジェフ=ウィリアム投手。アテネ五輪の前年に星野仙一監督の元で優勝した時のリリーフ=エースで、初めリリーフ投手がいなかったのを同投手が独特の投球をしていたので星野氏がリリーフに起用したのだった。ウィリアム投手の特徴は左の横手投げ、サイドスローから鋭角に斜め横に曲がり落ちるカーブで、角度があり過ぎ、右バッターの脛に当ってしまう。この投球で阪神の優勝に貢献した。このような投球は、五十年以上のプロ野球の歴史で、黒人や白人のアメリカ人選手には見られなかった。強いて言えば、昭和四十年に「八時半の男」として活躍した宮田征典投手の鋭角に落ちるカーブ「落ちる球」以外、西武や横浜ベイスターズでリリーフで活躍したサイドスローの右投手、デニー友利ぐらいである。
 オーストラリア人とアメリカ人の野球能力の違いについて日本の監督、コーチ、スカウトなどは気付いていない。特にオックス・スプリングス投手に注目し、日本のプロ野球へスカウトしようとしなかった。これからは、日本のプロ野球に、オーストラリア人ばかりでなく、中国人やタイ式ボクシングのタイ人選手のムチのような柔らかさを持ったアジア人など、日本の選手と違った能力を持つ人種を入れるべきだ。

                    (流星群だより第7号掲載)


 

流星群に載せた作品と最近の出来事について 

 流星群十二号に於いて、「ケネディー大統領暗殺の謎を解く」を、同誌十三号に於いて、「第一次小泉内閣に田中真紀子外相の辞任の意味」についての作品を載せたが、ごく最近起きた出来事二つが、これら二つの作品で述べた事件と類似し、作品が部分的に二つの出来事を予測というか、証明したようになったので以下述べてみる。
 二つの出来事とは、ウォーターゲート事件の情報源を新聞社に流した元FBI副長官の告白と、石原知事による浜渦副知事の解任劇である。
 まず、ウォーターゲート事件について。約三十年前に起きた、ニクソン大統領による民主党本部のウォーターゲートビルに二期目の選挙戦略を知るため侵入し、盗聴器を仕掛けた事を、ワシントン=ポスト紙がニクソン氏の関与をスッパ抜き事件が明るみになったが、長らく、そのニュース源が明かされなかったが、ごく最近、当時のFBI副長官のマーク=フェルト氏が自らポスト紙に情報を漏らしたと告白した。このウォーターゲート事件を振り返ると、ニクソン大統領は二期目の選挙に備え、反対党の民主党本部のあるウォーターゲートビルに秘かに、CIAやFBI出身者など五人のグループを作り民主党の選挙情報を得るため、侵入させたところ、その一人が地元警察官に逮捕された。これだけだったら単に住居侵入罪で終わるところ、ニクソン氏の関与がワシントン=ポスト紙にスクープされ、結果として、特別検察官が任命され、米議会の弾劾裁判に掛けられる直前、免責特権と引き換えに、フォード副大統領に大統領職を譲った。
 流星群十二号で、ケネディー大統領は、ジョンソン副大統領とFBI長官フーバーの陰謀によって暗殺されたと述べたが、フェルト氏はフーバー長官の副長官であったので、ジョンソン大統領の前後の大統領二人、ケネディーとニクソンは、FBIの正副両長官による、陰謀(暗殺と政治的司法手続きと手段は違うが)によって失脚させられた事になる。それよりも、フーバー長官の暗殺陰謀の可能性を高めたのがフェルト氏の告白だ。
 もう一つは、石原慎太郎知事による浜渦副知事の解任である。石原慎太郎氏は都知事に就任すると、自らの強い指導力を発揮すべく、四人の副知事を任命し、一人を警察庁から、二人を都庁の幹部から、そして要に、自らの指導力と政策を都庁幹部から下部組織まで、事務局に浸透させるため、長年の政治秘書だった浜渦氏を副知事に任命し約四年間指揮をして来たが、ごく最近、事務当局の都庁幹部から同副知事に対する抵抗が起き、石原知事は同副知事を解任せざるを得なかった事だ。
 流星群十三号に於て、小泉内閣の一年目の外務大臣であった田中真紀子は、アメリカの女性国務長官であったオルブライト氏のような指導力のある外務大臣をめざし、局長、課長に対し、自分の立案した政策を指導した所、従来の官僚習慣である、事務当局が立案し、無能な大臣を指導して来たやり方に反するとし、田中大臣に反抗し、大臣の政策指導を無視し、直接首相官邸の指示を仰ぎ、田中大臣を機能させなくしたと書いたが、都庁幹部の浜渦副知事に対する抵抗も、まったく同じ様な現象なのだ。石原知事は、自分の政策指導力を発揮するため、浜渦副知事を通じて積極的に指示したが、局長以下都庁事務当局が猛反発し、同副知事をカリスマだとか天皇だと称し、不当に事務当局に介入したと、その事をマスコミにリークしたり、浜渦氏が辞任しないならば、二人の事務当局出身の副知事が辞職すると迫り、結局、石原知事は都庁内に自分の影響力低下を恐れ、泣く泣く浜渦副知事を解任せざるを得なかった。石原氏はテレビでハッキリとその理由を言えずお茶を濁している。これ以上都庁幹部の反発を防ぐためだ。
 かつて青島幸男も「知事になったら、都庁に風穴をあける」などと言っていたが、知事に就任したら、都庁事務局幹部にあやつられ、何も出来なかった。
 歴史は繰り返すと言うが、外務省幹部と田中大臣、都庁幹部の石原氏への国も県も事務当局の大臣や知事への反抗は悪質で、日本の行政のガンである。

                     (流星群だより第6号掲載)())


現代文藝社刊

黒田昌紀の総合知識論 第一集

2011.5.1発行

A5判  190頁 上製本  2,000円
ISBN978-4-901735-60-5

 本著は当社発行の文芸投稿誌「流星群」に投稿された作品、書き下ろし作品をまとめたものである。著者の幅広く豊富な知識によって色々な分野の事象を分析、評論した異色の作品群である。

収録作品
 ケネディ大統領暗殺の謎を解く
 「ケネディ大統領暗殺の謎を解く」の付記(書き下ろし)
 マスコミ報道の盲点
 学問の盲点
 ローマ法王選出とアメリカ
 アメリカ黒人大学留学記
 大学、学校、ヤクザの組織論
 第一次長嶋巨人軍監督政権の失敗と考察
 スコットランド法とイングランド法
 キャッチ=ボールの法則
 日本経済の平成不況下の原因と対策
 二つの肌の色と二つの結婚
 

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