ひぐらしの記
 
前田静良 作 


 2014.10.27カウンター設置
以前の作品は右掲載の単行本に収録しました。
 
内田川(熊本県・筆者の故郷) 富田文昭さん 撮影 

夏場所「朝乃山」優勝 

 大相撲夏場所(東京都墨田区・両国国技館)は、平幕(前頭八枚目)朝乃山(高砂部屋、二十五歳)の優勝で閉幕した。朝乃山の優勝は、もちろん称賛に値するところである。一方で私には、つまらない夏場所だった。それは番付上位すなわち横綱と大関陣の不甲斐なさに尽きる。横綱白鵬は先場所傷めた傷が癒えず、場所前から全休と伝えられた。この夏場所の期待と話題を一身に集めていた新大関貴景勝は、場所中に膝を痛めて余儀なく途中休場した。そののち再登場を図ったけれど、結局一日で再び休場に陥った。この二人には残念無念と思うだけで、もちろん同情はするものの非難をする気にはなれない。
 嫌悪感と非難を浴びせたくなっているのは、場所前から優勝の期待を集めていた横綱鶴竜、そして大関豪栄道と高安の不甲斐なさである。あまりの不甲斐なさに私は、番付抜きに総当たりの勝ち抜き戦のほうが面白いと、思うほどだった。番付がある以上番付上位陣は、それにふさわしい成績を叶えることこそ大相撲の醍醐味である。平幕力士の優勝や活躍は、横綱と大関陣の強さがあってこそ華になるものと、常々私は思う。結局、わが下種の勘繰りからすれば、生煮えの夏場所だった。
 そして、これに輪をかけたのは、千秋楽におけるアメリカ・トランプ大統領の大相撲観戦だった。もちろん、多忙な日程の中で大相撲を観戦されたトランプ大統領には、これまた感謝こそすれ非難する気はまったくない。不愉快な気分をつのらせたのは、トランプ大統領の大相撲観戦にのみならず、それらをもたらしている数々の政治ショーである。厳粛な外交というより、トランプ大統領に媚びへつらう様だけが目障りし、私は不愉快な気分に陥っていた。もちろんこの光景は、大相撲観戦にとどまるものではない。国と国との外交とは、こんなに安易でかつ私的なのかと、わが目を疑わざるを得なかったのである。
 最後に、トランプ大統領の大相撲観戦にまつわるメディアの配信ニュースの一つの引用を試みる。
 『トランプ氏登場で力士に影響「ルーティン壊された」』(5/26日・日曜日、19:54配信 日刊スポーツ)。「国技館を席巻した“トランプ狂騒曲”は力士にも影響を与えた。警備の関係で、いつものように花道までペットボトル入りの水が持ち込めなかったりして『ルーティンを壊された』と嘆く力士がいた。館内の自動販売機が前日夜から稼働しておらず、付け人が関取に用意する水を求めて右往左往する場面もみられた。またトランプ大統領が到着、安倍首相と升席に着くまで間が空いた。直後は優勝力士の朝乃山-御嶽海戦。館内のざわめきが収まらず、御嶽海は『もうちょっと工夫が欲しかった。あれじゃあ(観客が)トランプ大統領を見に来たのか、優勝した朝乃山を見に来たのかわからない。朝乃山がかわいそうでした』と話した。」
 朝乃山の優勝が色褪せ、後味の悪さを残した千秋楽だった。トランプ大統領は終始無表情だったけれど、安倍総理は破顔一笑どころでなく、満面ニコニコ顔だった。つまらない。

自己都合の文章 

 このところの文章には、夜明けの道路の掃除にかかわることばかりを書いている。まったく新鮮味なく、自分自身飽きあきし、恨めしい気分である。早朝の道路の掃除はどちらが前後となるかで、文章書きと追い駆けっこである。みずから決めごとにしているのは、文章を書き終えたのちに道路の掃除へ向かうことである。そしてこの決めごとは、特別な事情がないかぎり決めごとの順序どおりに実践している。
 しかしながら夜明けの早いこの時季にかぎり、ときには順序が逆になりがちである。それにはこんな理由がある。一つは時間的には早くても、夜明けが早いせいで掃除ができるためである。一つは夜明けが早いせいで、散歩する人たちも早出となる。わが意図するところには、散歩する人たちより前に、道路を綺麗にしておきたいというものがある。わが家周りは、住宅地の周回道路を成している。おのずからそれは、人様の散歩コースに織り込まれている。そのため私には、できるだけ道路を綺麗にして、清々しい朝を恵みたいという思いがある。すなわち、わがささやかなほどこしであり心意気である。しかし、加齢をきわめて今やこの志も限界にさしかかっている。
 きのう(五月二十五日・土曜日)は、早朝一時間半ばかりをかけて日課の掃除をした。さらに昼間には、道路に垂れかかっている側壁の草などを浚(さら)った。そのため、今朝(五月二十六日・日曜日)の道路は、いつもより汚くなっている。このこともあって今朝は、走り書きにとどまらず尻切れトンボのままに、道路へ向かうこととなる。時間的にはいまだに四時半過ぎだけれど、朝日が薄くのぼりはじめている。飽きなく、いや毎回繰り返す生煮えの文章には懲り懲りに飽きている。結文にして道路へ向かうこととする。このところの私は、恥を晒してみっともない文章の明け暮れにある。

悪夢をしりぞけるのどかな夜明け 

 五月二十四日(金曜日)、梅雨入り間近の晴れたのどかな夜明けである。できれば、一年じゅうこんな夜明けを望みたいものである。ところが、そうはいかないのが自然界の摂理であり、それにともなう人間界の営みである。最も身近なところで先ほどまでの就寝中の私は、悪夢に晒され続けていた。わが脳髄がパンクでもしたかのような、飛んでもない悪夢だった。良い夢および悪い夢、どちらの夢にしても、就寝中の夢の成り立ちはさっぱりわからない。悪夢の場合は、心中にさまざまなものが棲みついていて、悪だくみの絡み合いを演じているようにも思えるところがある。悪夢の現象は私の場合にとどまらず、どんな秀逸なSF作家でもまったく、創り出せるものではないだろう。人間の心理状態の狂乱と言えそうである。
 悪夢の歯がゆいところは、見ないで済めば安眠をむさぼり、目覚めてのどかな夜明けの気分に浸れることである。悪夢にかぎらず就寝中の夢見は、そのときどきの心理状態の反映であろうか。そうであれば悪夢続きのわが心理状態は、とうに破綻し異常をきたしているのであろう。もしそうであれば、この先はいっそう厄介である。
 今朝もまた、わが身にとりつくどうでもいいことを浮かべ、恥をさらして書き出している。しかしながら書けば、いくらかの憂鬱気分鎮めの効用にはなる。それでも、あえて書かなければ、わが気分はもちそうにない。悪しからず、と詫びを入れるところである。確かに、こんなことを書くようでは、「ひぐらしの記」の名折れである。いや、わが身の馬鹿さ加減である。
 庭中や周辺のアジサイは、日ごとに勢いを増して、玉が膨らみ続けている。まもなく、七変化の走りの色づきを始めるであろう。今朝の晴れたのどかな夜明けのあとには、関東地方の梅雨入り宣言待ったなしとなろう。そうであればのどかな夜明けを頼りに、悪夢の気分直しをしたいものである。それはやはり、手っ取り早く実益を兼ねた道路の掃除になりそうである。実際に気分を直してくれるのは、掃除を終えたあとの爽快感であり、ウグイスのさわやかな鳴き声である。かてて加えて、散歩常連の人達との和んだ朝の挨拶に遭遇すれば、悪夢気分の一掃が叶うことになる。
 結局、悪夢によるわが憂鬱気分直しは、自力では叶わず、人の声と鳥の声にすがる他力本願である。またまた、書くまでもないことを書いてしまった。ほとほと、みっともない。のどかな夜明けに救われている。

思いがけない「ふるさと便」 

 きのう(五月二十二日・水曜日)、西瓜が宅配されてきた。予告無しのため、不意打ちを食らい面食らった。宅配人にたいし、「うちですか?」と念押しをして、受取状に三文判を捺す前に、わが名と送り人の名を凝視した。「確かに、うちです。すみません」と言って、急いで三文判を所定の欄に捺した。配達回りを急がれている配達人の表情は、いくらか不満そうだった。少し時間を取られたり、配達先を疑われたことが原因であろう。確かにこのときの私は、配達人の自尊心を傷つけたのかもしれない。しかし、そうせざるを得ない心境だった。
 宅配されてきた西瓜は、一抱(ひとかか)えでヨロヨロするほどの段ボール詰めの一つ玉だった。一つ玉とはいえ、飛びっきりの大玉である。一つで、三ないし四個分くらいはありそうである。多分、道の駅「植木」の名物として、ひと際立ちに並んでいた中でも、特等の大玉なのであろう。私はヨロヨロと持ち上げて、送り人の心意気と優しさを感じた。
 送ってくれたのは、「ひぐらしの記」ではお馴染みの竹馬の友・ふうたろうさん(ふうちゃん)である。ふうちゃんと私は、ふるさと(現在・熊本県山鹿市菊鹿町)を共にする。しかし、現在の行政名では共にしっくりせず、今やまぼろしの往時の行政名をよみがえらせれば、熊本県鹿本郡内田村である。おのずから二人は、内田村立内田小学校および中学校へ通った。当時の内田村には、保育園や幼稚園などはなく、小学校への入学が就学の始めだった。それは令和の時代にあってははるかに遠い、昭和二十二年(1947年)四月初めの桜の季節だった。わが父は二人の妻を繋いで、「いろはかるた」の「(り)・律義者の子だくさん」さながらに、十四人の子だくさんだった。ところが、ふうちゃんのお父様は今様に子ども少なく、男児二人を大事に育てられたのである。その中でふうちゃんは、跡取り息子の長男である。県立鹿本高校を卒業するとふうちゃんは大阪へ向かい、私は東京へ向かった。そしてこのとき、かつての内田村は、二人の「ふるさと」と名を変えたのである。
 現在のふうちゃんは大阪府枚方市において、悠々自適の終の棲家を構えている。今は亡きお母様とお父様の晩年のおりにおけるふうちゃんの親孝行ぶりは、今や褒め言葉をともなってふるさとの語り草となっている。語り草は、絶えず随行された奥様の献身ぶり共々である。とてつもなく立派に跡取り息子の役割を終えたふうちゃんは、そののち生家を壊し、すべての田畑や山林を親戚の人に無償譲渡し、文字どおり心のふるさととしたのである。すなわちふうちゃんは、勇敢きわまりない善行のほどこしをやってのけたのである。そして奥様は、ふうちゃんの切ない胸の内を支えてくださったのである。
 私は西瓜宅配の御礼をふうちゃんの携帯電話にかけた。すると、思いがけなく奥様の声が届いた。
「今、文昭さんは運転中なのよ」
「そうですか。今どこにおられるのですか。西瓜が届きましたので、お礼の電話をかけました。ありがとうございます」
「三日三晩で内田にきています」
「そうですか。宿はどうされているのですか」
「山鹿市内のホテルに泊まっています」
「そうですか。ほんとにお二人は、偉いですね。ふるさとを訪れてくださったのですね。ありがとうございます」
 ほかにいろいろと、奥様と受話器の中の会話を交わした。
 夕方になると、ふうちゃんからわが携帯電話に掛かってきた。こまごまと私が尋ねたから、これまた長電話になった。このときの互いの言葉を一つずつだけ記せばこうである。
「内田へ行くのは、もう最後だろう」
「うん、そうかもしれないね」
 送られてきた西瓜は、ふるさと産ブランド「夢大地」だった。全国的には「うえき西瓜」(産地、かつての鹿本郡植木町)で知れ渡っている。最後の西瓜の味になりそうで、これまでとはひと味違いそうである。おそらく、美味しいだけでなく切ない味になるだろう。

雨上がりの朝 

 就寝中、やはり次々に夢を見た。ところが、幸いにも魘される悪夢ではなかった。雨戸を開けっぴろげの窓ガラスを通して、薄っすらと夜が明け始めている。一行書いているうちに大空は、朝日を帯びかけて明るくなり始めている。荘厳な夜明けのパノラマである。きのうの雨は、予報に違わず晴れの装いに替わっている。私は、かたわらの窓ガラスに掛かるカーテンを開いた。眼下の道路を眺めた。道路は乾き始めて、雨上がりの掃除が出来そうである。私は道路の掃除を決意した。もちろん、この文章を早く書き終えての決行である。現在の時間帯は、四時半過ぎあたりである。散歩にめぐる人たちの足元を清めたいため、敢然とその前の決行である。おのずからこの文章は、書き殴りに甘んじることとなる。それでも、良しとしなければならない。なぜなら、悪夢に魘されればこんな実の無い文章さえ書けずに、悶々とする朝を迎えていることとなる。
 きのう(五月二十一日・火曜日)の夜来の雨は、夕方になって止んだ。風雨強く降り続いたため、テレビ画面の上部に流れるテロップの警報や被害状況には、神奈川県が最も多く目立っていた。その中では、神奈川県の公立小中学校の臨時休校が知らされていた。加えて、県内に起きた事故も流れていた。わが家周辺も雨風共に強かった。ところが、被害はもたられそうにはなく、それをいいことに私は、茶の間でこんな悪だくみを浮かべていた。(もっといっぱい降って、側溝のゴミを流してほしい…)。しかし、側溝の水は道路に溢れることなく、わが思いは叶わなかった。このことからかんがみればわが家周辺の雨量は、大したことのない雨の日だったのである。そのため、明けてきょう(五月二十二日・水曜日)の夜明けには、乾き始めている道路の掃除が出来そうである。
 こんなことを書いて、私は尻切れトンボのままに道路へ向かうこととする。二十分近くの書き殴りである。わがささやかな志を口実に、身勝手を切にお許し願うところである。すっかり、夜が明けている。はやる気持ちを逆なでするかのように、朝日が明るく射し始めている。一心不乱、約一時間四十分かけて戻りました。老いの身には、もう限界である。草臥れも儲けではない。
 加速する悪夢
 就寝時、悪夢に魘(うな)されるばかりである。安眠を貪(むさぼ)ることなど、今やあり得ない夢物語となっている。この先、この傾向はいっそう加速することが予測される。だから、目覚めて起き出し文章を書く習性は、改めなければもはや文章は書けない。
 このところ頓(とみ)に、私にとりついている忌まわしい想念である。かつてもこのことは、何度か書いた。文章を書く時間を移行するとすれば、もちろん昼間である。ところが、試しのたびに現行が勝り、昼間への移行は叶わずにきた。昼間の弱点は日常の雑事に感(かま)けて、身が入らないことだった。結局、何度か試行のうえ、やはり現行を続けてきた。やはり現行が、昼間に比べればそれに勝る利点があったからである。しかし、今やその利点は、就寝中の悪夢のせいで消えつつある。もちろん、かつても悪夢はしょっちゅう見た。ところが、このところの悪夢は、質(たち)の悪さと頻度において桁違いである。それが加齢や人生終盤のせいだとすれば、おのずからこの先はもっと避けようがない。すなわち、いやおうなく悪夢の頻発を食らうであろう。
 こんな楽屋話のどうでもよいことを書いて、恥晒しを顧みず気分鎮めを試みた。言うなれば鎮静剤の序文である。確かに、それなりの効果はあった。しかしながら、いまだに悪夢の後遺症を引きずり、この先が書けない。おのずから文章は結文となる。
 夜明けの空は、しとしとの雨降りである。わが気分は土砂降りである。

 一粒の青梅

 五月二十日(月曜日)、順序を逆に道路の掃除を先に終えて、後れてパソコンを起ち上げている。夜明けの空には、かぎりなく朝日が輝いている。本当のところ今朝の私は、天気予報に騙されたような思いだった。なぜなら、雨の予報がちらついて、こんなに晴れた大空など、まったく予期していなかったからである。そのため、心中(占めた)と思い、勇んで道路の掃除へ向かったのである。しかしながら、雨の予報はやはり気に懸かり、いつもよりせわしなく掃除を終えた。
 ところが雨予報は、副次効果をもたらしてくれたようである。のんびりとかつ丁寧に掃除をしていたら、この文章は時間切れを口実に、書けずじまいになっていた。それでも、焦りながら書いている。それは、朝の定番のテレビ視聴の時間が迫っているからである。それらは、NHKBSテレビの番組で、『おしん』と『なつぞら』である。妻は、娘宅に泊まり留守である。朝餉の支度など数分で済むけれど、定番番組だけは見逃せないところがある。
 道路の掃除を終えて、掃除道具を物置にしまう途中、庭中に青梅が一粒落ちていた。不意を突かれて、指先で拾い上げた。梅の花はチラホラ咲いていたけれど、実は予想していなかった。実際これまで、梅の木の下を通るたびに、葉隠れの梅の実探しをしていた。しかし、一つさえ見つけ出せずにいたのである。だから私は、落下の一粒の梅の実にびっくりしたのである。梅の葉の茂りと一粒の梅の実の落下は、梅雨の訪れを告げるシグナル(合図)だったようである。沖縄地方はすでに梅雨入りをした。私は一粒の梅の実で、たっぷりと季節感を味わえたのである。
 一つあるいは一個と書くべきところだけれど、一粒と書いたのは一個になりきれない実の小ささゆえである。私は愛惜心をたずさえて、玄関内の花瓶の脇にそっと置いた。雨の予報は梅雨を間近にひかえて、時間をずらして当たるのかもしれない。書き殴りのため、時間に余裕をもって、階下の茶の間へ下りてゆく。

夜明けつれづれ 

 五月十九日(日曜日)、いまだに朝日はまったく見えず、薄っすらと夜が明けかかっている。ほぼ一か月先に「夏至」(六月二十二日)をひかえて、この時期の夜明けはすこぶる早い。しかも、このところの夜明けの空には雨なく、のどかな朝ぼらけに恵まれている。こんなおり、道路の掃除へ向かいしばしたたずむと、季節の恩恵にたっぷりと酔いしれることとなる。やがて訪れる鬱陶しい梅雨をひかえて、まさしく粋な天の配剤と言えよう。だから、この恩恵を心身に取り込まなければ損々である。
 このところの私は、こんなさもしい心持をたずさえて、夜明けまもない道路の掃除へ向かっている。言うなれば我欲むき出しで、夜明けの心地良さをむさぼっているのである。そのうえさらに、これに散歩常連の人達との和んだ朝の挨拶が加わると、一日の始動は好スタートとなる。しかしながら、こんな幸運にはめったに出あえない。その理由はわが行動が早く、散歩常連でお顔見知りの人達との出会いが、時間的にちょっぴりずれているせいである。かてて加えて、散歩常連の人達が入れ替わり、お顔見知りの人達が減り続けているせいでもある。おのずから、親しく挨拶を交わす人達は少なくなっている。やがては道路上からわが身が消えることになるけれど、このところの朝一番の寂しさである。
 ふるさと時代の子どもの頃の夜明け間近には、一番鶏(いちばんどり)の「コケコッコー」が眠たい目や耳を騒がした。今や聞きたくても聞けない、はるかに遠いかつての一番鶏の鳴き声である。もちろん、この鳴き声に呼応していたのは私ではなく、父や母たちである。いや、父や母はすでに起きて、一番鶏の鳴き声を聞いていたのかもしれない。内田川の川音は一番鶏の鳴き声などそっちのけにして、一年じゅう静寂な夜に「ゴーゴー」と川音を立てていた。夜明けて渋々起き出すと、見渡すかぎりにのどかな田園風景が広がっていた。もちろんこのときの私は、いのちに限りがあることなど、思うはずもなかった。残念無念! 今や、よくもわるくも夜明けの切なさに打ちひしがれている。確かに、いのちには厳然と期限がある。

あえて、無題 

 五月十七日(金曜日)、きのうもきょうもいつものように早い時間に目覚めて、そのまま起き出しパソコンを開いている。しかし、きょうもまた気分の滅入りに脅かされて文章が書けない。きのうは文章を書くのをやめて、気分直しに夜明けまもない道路の掃除へ向かった。時季的に夜明けの早い朝に救われて、夜明けまもない早い時間での決行だった。そのせいか常連の散歩組の人達には会えず、当てにしていた朝の挨拶もなく、気分直しは空振りに終わった。戻ってキーボードに就くや否や、この先の「ひぐらしの記」の終了を覚悟して、掲示板上に「休みます」と記した。今や、いちいちこう書くまでもないけれど、無断休養はできない心境の表れだった。もちろん、今朝も書く気をそがれて、きのうの延長線上にある。正直に言えば、今朝の文章を書くことをためらい続けていた。そのため、メディアの報じる配信ニュースなどを読み漁り、すでに長い時間をつぶしてきた。いまだに時刻は五時前である。ところが、とっくにのどかに朝日が射している。今朝もまた、気分直しに道路の掃除へ向かいたいところである。ところが今のところ、こんななさけない文章を書いている。もちろんそれは、単なる憂鬱気分鎮めの処方箋にすぎない。だから、こんな文章を掲示板に載せると馬鹿丸出しである。もちろん、現在はその気にはなれていない。すなわち、わが憂鬱気分鎮めのいたずら書きである。憂鬱気分鎮めには、もうひとつ特効薬がある。それは、庭中の草取りである。それに味方をしてくれるのは、山から鳴き続けるウグイスの高鳴き声である。一方では、まるで狐につままれるでもしたかのように矛盾しているけれど、抜き取る草花の可憐さと健気なさがある。
 きのうの私は、これらの特効薬にすがるかのように庭中の草取りをした。先ほどまでの就寝中には「泣きっ面に蜂」、いやムカデに寝首を晒された。確かに、毛のない頭や首周りに不快感をおぼえてはいた。そして、たまらず起きた。ムカデのしわざだったのである。ところが、取り逃してしまった。こののちは、夜具を総点検しムカデ探しに大騒動を余儀なくした。しかし、アホな私は現行犯逮捕をしくじった。このため今夜からは、安眠は得られない。
 きょうは、四か月ごとに訪れる「大船田園眼科医院」(鎌倉市)における緑内障の経過診察日である。この先は、「休みます」と書くまでもなく、自然消滅が危ぶまれている。せっかく、いたずら書きをしたから、推敲なく投稿ボタンを押して、道路の清掃へ向かう。きのうの今頃とは逆である。寂しく、侘しく、そして恥晒しの文章のため、ひぐらしの記の範疇に値しない。「あえて、無題」、とせざるを得ない。

 望郷

 この文章は、大沢さまの掲示板上のご投稿文にあずかっている。一度めの転載に続く第二弾の発意は、全編が望郷横溢のためである。わかりやすくするためにご投稿の経過を追って、ご投稿順を逆さまにして転載を試みている。このたびもまた事前のお許しを得ず、あえて柳の下のドジョウを狙ったくわだてである。もちろんそれは、ブログでは読むことの叶わない「ひぐらしの記」の読者にたいする、わが奉仕精神の表れである。いや、端的に言えば転載せずにはおれない、「もったいなさ」のせいである。
 転載の文章は、きのう・五月十四日(火曜日)の中で、順次ご投稿されたものである。それらは、発端の「望月窯だより」から「望月窯だより2~4」にいたるものである。そして、これらに加えてふうたろうさんのご投稿文と大沢さまのやりとりである。
「望月窯だより」。ご投稿者:大沢さま ご投稿日:2019年 5月14日(火)13時42分11秒。「夫と妹と私の三人連れで古河の実家に五月十一日(土)から五月十四日まで滞在した。今回はグリーンピース、絹さや、キャベツ、サニーレタスの収穫があった。グリーンピースの豆御飯を作った。まだ育っている豆が少なかったが、とにかくやってみようということになって、できるだけ太ったサヤを取った。グリーンピースを作ったのは初めてだったので、恐る恐るだったが、どうにか豆御飯らしいものが炊けて、もちもちとした食感と甘みがあっておいしく、次回も楽しみだ。絹さやはザルに溢れるほど収穫してもまだ取り切れず残っている。冬越ししたキャベツは育ちが悪かったが、ロールキャベツを作ることを思い立ち、鶏の胸肉で作ってみたら、柔らかくて美味だった。毎年種を蒔いても出来なかったにんじんが、寒さを耐え忍んで春になったらたくさんの葉を茂らせた。間引きをしたら、小指ぐらいの実が育っていた。それを茹でてみたら甘くてとにかくおいしい。生でもポリポリと食べられる。妹は癖になりそうだと言いながらつまみ食いをしていた。間引いたにんじんの葉は、柔らかくて卵炒
めにしたり、他の野菜と炒めたり、さっと茹でて冷凍にして保存した。朴の木の若葉が美しい。真っ白な大きな花がたくさん咲いて、草取りをしているとどこからともなく香ってくる。五目寿司の御飯を朴の葉に包んでおいて、お昼に食べた。いろいろな食材が採れて、草取りの合間に料理をして楽しむことが出来た。
 望月窯だより2。「絹さや、グリーンピース」。







 望月窯だより3。「アヤメがあちこちに咲き始めて、鮮やかな青い色が目を楽しませてくれる。豊後の梅の木に今年は実がたくさんついた。梅干しを作ろうと妹と二人で眺めていた。太陽(スモモ)も実を付けている。見上げてなっている実を探すのも楽しい。」



 望月窯だより4。「毎年期待しながら実が付かなかった禅寺丸柿の実がやっと二個ついた。何度見上げても二個しか見つからないが、落ちずに実ることを祈っている。」





 【内田に行きたいな!・・・】ご投稿者:ふうたろうさんメール ご投稿日:2019年 5月14日(火)15時56分48秒。「 望月窯だよりの冬場風景には、我が故郷と違う、寒々とした北国を感じますが、望月窯だよりの文章を読んだり、『絹さや・グリーンピース・アヤメ・柿の木』などの写真を見ていると、実家を思い出します。『絹さやとグリーンピース』は、親父を・・・庭先で咲き誇ったていた『アヤメ』は、道行く人が、立ち寄って、眺め・・・我が植えた『太秋の柿』は、沢山の実を付けるが、成熟せず、1個たりとも、食べたことがなく・・・今、あそこは、どうなっているのだろう?・・・」。
  【ふうたろうさん、お久しぶりで~す!】ご投稿者:大沢さま ご投稿日:2019年 5月14日(火)18時27分38秒。「故郷を思い出してくださり嬉しいです。毎年のように出かけておられた懐かしいふるさとは、遠きにあって思い出すのもいいものですよね。今は花の季節で、きっと、内田の里にもたくさんの花々が咲き乱れていることでしょう。胸にしまい込まれたご実家の風景も、ご両親様の思い出と共に蘇ってくることでしよう。そうして思い出してあげることが生きている私たちの務めでもあります。」
 望郷は懐かしく、果てしない。

 季節の移ろい

 道路を歩いていて、視界に見る確かな季節の移ろいは、自然界の営みからもたらされる。具体的には山の緑の濃淡、路傍の草花、そして庭中の花々などの咲き交代で見てとれる。もちろん、柿の木一本を眺めているだけでも、季節の移ろいは十分に見てとれる。ましてそれは、梅や桜の木を眺めれば一目瞭然である。
 この時季、視界に爛爛と咲き誇っていた花々は、もはや散り急いでいる。そしてそのあとには、アジサイの勢いだけが目立つようになっている。アジサイの大葉が茂り出すと、まるで「そこのけそこのけお馬が通る」さながらに、ほかの草花の存在は押しのけられる。確かに、このところの私は、道行くたびに目に入るアジサイの勢いや茂りに圧倒されている。横目で眺めると、すでに大葉に隠れて小さな花玉が着いている。この先アジサイは、日々小さな玉を大きく育んで艶やかに色付けして、季節の花として君臨するこことなる。
 アジサイが季節の花として君臨する候は、鬱陶しい梅雨の訪れのシグナル(合図)でもある。このこともあってアジサイは、気晴らしを兼ねて余計、人の口の端で愛(め)でられることとなる。おのずからアジサイは、得な役回りにある。狭小なわが家の庭中にあっても、はっきりと季節の移ろいを示すものはアジサイの茂りである。アジサイが勢いづくと手間暇要らずをいいことに、ほったらかしに咲いていた紫大根、エビネラン、シラン、スズランなど、今や顔色(がんしょく)無しである。もちろん、視界に見る季節の移ろいは、ことしだけの風景ではない。しかし、年齢を重ねるにつれて、その風景は一様ではない。それは、老い先をかんがみるわが心境の変化のせいであろう。
 もはや、季節の移ろいに無頓着では済まされない、いやあわてふためく老いの心境のせいかもしれない。そしてそれは、ふってわいた詩心と言うより、季節の移ろいへのつらい感情移入と言えそうである。

好む旅番組の罪作り 

 私のテレビ視聴時間は少ない。その中では妻がよく観ているため、横目で何とはなしに観ているものには旅番組がある。妻は、国内外の旅番組を録画撮りまでして好んで観ている。わが家のテレビ視聴は、スポーツ番組以外はほぼNHK一辺倒である。NHKテレビには地上波とBSがあるけれど、わが家ではBSを多く観ている。おのずからそれは、番組編成における両者の違いから生じている。旅番組自体、BSが多いせいである。下種の勘繰りをすれば、それにはこんな理由があるのかもしれない。旅番組は、長時間編成を強いられるからであろう。また、風景などを映し出すには、映像の鮮明なハイビジョンが適しているのであろう。
 妻はいろんな旅番組を漁っては、録画撮りを実践している。その挙句、「パパ。観なさいよ!」、としつこく強要する。しかし私は、「おれは、観ないよ!」、と言ってそれに応じない。確かに、妻のすすめる番組には、興味をそそられるものはたくさんある。ところが、一旦観だすと番組編成が長いせいで、拘束される時間が長くなる。私はそれを嫌うのである。その理由はこうである。テレビを観ているだけで一日が終わってしまうような気分に陥り、すっきりしないからである。それに輪をかけて一旦観だすと妻は、ここを先途とばかりに勢いづく。そして、録画撮りのあれやこれやを、「パパ、観なさいよ。パパのために、撮っておいたのよ、観なさいよ!」、と急き立てる。もちろん妻は、良い番組だから私にも、「観てほしい!」、と願っているのである。言うなれば、妻の善意の押し付けである。ところが、分かっちゃいるけどそれを私が拒(こば)むものだから、しばし茶の間は不穏な雰囲気に包まれる。こんな犬も食わない、夫婦話はどうでもいいことである。
 旅番組の醍醐味は、ところ変われど変わらぬ人情が垣間見られることである。かてて加えて、映し出されるところはだれかの生誕の地、すなわちかけがえのないふるさとである。そのたびに私は、ふるさと人情を煽られてくる。こんな心持をたずさえて観ていると、私は虜(とりこ)になりそうである。おのずからわが身は、長時間拘束される羽目となる。これを嫌って私は、妻のせっかくの善意に応えていない。私は素直になりきれない天邪鬼(あまのじゃく)である。

東京オリンピック、チケット受け付け開始 

 5月10日(金曜日)、なんだか久しぶりにのどかな夜明けの空を眺めている。きのうの夜明けの頃とはうってかわって、わが心身ものどかである。きのうの夜明けは、前夜の阪神タイガースの試合の影響をこうむっていた。その挙句には文章を書き続ける気力が失せて、『飛んだ祟り』と表題をつけて、早々に閉じて退散する憂き目を見た。だから、こんなにのどかな心境にあっては、のどかな文章を書きたいところである。ところが、そうは問屋が卸さないところが、無能力ゆえの悲しさ切なさである。
 きのうは来年、すなわち「東京オリンピック」(2020年7月24日開幕)の「チケット」の抽選販売の受け付け開始日だった。私の場合、観覧希望はなくそのため用無しのことではある。しかし、日本の国におけるオリンピック開催ゆえに、日本国民であれば無関心では済まされない。そのため、きょうの文章はわが自作文に替えて、チケット開始を伝える記事を転載し、記し置くものである。転載する記事は、購読紙朝日新聞(2019年・令和元年5月10日付け)の朝刊一面である。
 「2020年東京五輪のチケット抽選販売の受け付けが9日、始まった。1964年の前回大会から半世紀ぶりに日本の首都が迎えるスポーツの祭典。観戦に向けた手続きは開始7時間で130万人がサイトを訪れる大混雑で幕を開けた。今回の手続きは全てパソコンやスマートフォンで行わなければならない。組織委によると、応募に必要なIDの登録者は、9日午後5時時点で約356万人に達した。アクセス集中時に誘導される『ウェーティングルーム(待合室)』では、順番待ちの人数や待ち時間の想定が表示され、ピーク時は18万人が最大で約2時間待ったという。当初は累積の待ち人数が表示されたため、『50万人』などと画面に出ることもあった。締め切りは28日で、申し込み順は当選確率に影響しない。申し込みは第1希望が最大30枚、第2希望が最大30枚。開会式A席の30万円が最高金額で、競泳、柔道、体操などは酷暑を気にせず観戦できるため、人気が上がりそうだ。五輪チケットの総数は、780万枚(招待時の試算)。今回の抽選対象は計画凍結中のボクシングを除く32競技だが、何枚を販売するかは明かしていない。今秋にサイトで先着順で、来春には都内の窓口でも販売される。パラリンピックは今夏に抽選販売を予定している。」
 私はスポーツ好きではある。しかし、なんだか胡散臭いこのたびの東京オリンピックには、阪神タイガース戦並みのテレビ観戦を決め込んでいる。すなわち、私の場合はチケットを買ってまで、東京オリンピックを観覧する意志は毛頭ない。いや、そんな生活費の余裕はない。

飛んだ祟り 

 昨夜(五月八日・水曜日)のナイター・阪神タイガース対東京ヤクルトスワローズ戦は、延長十二回まで戦い二対二の引き分けで終わった。試合が終わったときは十一時近くであった。この試合、八回表までは五対〇でタイガースの楽勝が見えていた。もちろん私は、この時点までは気分を良くしていた。ところが、その裏に五点を入られて九回までには決着がつかず、延長戦最終回まで延びた。そして、十二回表にタイガースが二点を取りこれで決着と、再び思った。しかし、その裏に二点を取られて、結局七対七の引き分けで試合を終えた。
 タイガースの勝ちが予想されていた試合を引き分けて、私は気分悪く床に就いた。就寝時間は遅いうえになかなか寝付けず、飛んだ祟りをこうむった。祟りとは起き出しが遅く、言い訳と共にこんな文章を書いて結びとすることである。

追記 

 一時間半ばかりかけて道路の掃除を終えて、キーボードへ戻ってまいりました。常連のご婦人との和んだ会話に恵まれて、いくらか気分直しが出来ました。会話は、医者や薬剤要らずの最適かつ最良の処方箋ですね。

「文は人なり」 

 五月八日(水曜日)、大空はのどかな夜明けを迎えている。わが寝起きの気分は、目覚めの気分の良し悪しに左右される。目覚めの気分は、就寝の良し悪しにもろに影響を受ける。悪夢に魘されることなく熟睡できれば最良である。一方、悪夢にとりつかれ続けば最悪である。あえて、こんなことを書いているのだから、今朝の寝起きのわが気分は最悪の証しである。その挙句、こんな気分では文章は書けない。これまで、何度このような文章を書いてきたことだろう。しかし、こんななさけない文章を書きながら、これにいくらかの望みを託している。それは、書きながら気分の奮い立ちを待っていることである。具体的にはのんびりとキーを叩きながら、時の経過の利を得て、悪夢の消失や気分鎮静を願っている。ところが今の私は、いまだに悪夢のしでかした沈鬱気分を引きずっている。おのずから、この先の文章は書けない。のどかな朝ぼらけの下、なんと恨めしい寝起きの気分であろうか。ウグイスは、「早起き鳥(鶏)」さがらに鳴き声高く夜明けを告げている。
 私は文章を閉じて、道路の掃除に向かうことを決意した。寝起きの気分直しの実践である。「文は人なり」。わがお里の知れるところである。

 十連休明けて……

 「平成」から「令和」への改元にちなむ飛び入りの十連休は終わり、きょう(五月七日・火曜日)から人の営みは平常生活へ戻る。連休中には、メディアにより個人を襲った事故が伝えられた。連休中にかぎらずひっきりなしに見舞われる、日本社会の悲しい出来事である。ところが、恐れていた天変地異の鳴動は免れた。このことでは、おおむね穏やかな連休だったと言えるであろう。十連休明けてきょうの職場は、月曜病というにはいくらか齟齬がある休日病の蔓延となろう。一方、この時期の学び舎は毎年、憂鬱きわまりない五月病の蔓延である。どちらにしても今週あたりは、意気の上がらないかったるい日常生活が予想される。そうこうしているうちに日本列島の南・沖縄地方から、梅雨入り宣言が追っかけてくる。
 カレンダーの上できのうは、「立夏」(五月六日・月曜日)と、記されていた。自然界の日めくりは、人間界の鳴動にかかわりなく時々刻々と時を移してゆく。もちろんつれて、わが余生は縮んでゆく。年じゅう休日にありついている私の場合、きょうの休日病は無縁のはずである。ところが、現役のひとたちのことをおもんぱかってだろうか、あるいは忍びなく真似でもしているのであろうか。やはり、私も気分の重たい朝を迎えている。しかしながらそれは、ままごとみたいな気分の重さである。いや、実際のところは通常の気分である。だからそれは、にわかの休日病とは言えない、わが持病とも言えるぐうたら病である。
 きのうの文章では、大沢さまの掲示板上のご投稿文を拝借し、『晩春、初夏そして立夏』と題して、のどかな季節の総集編を試みた。立夏が過ぎて、梅雨入り、「夏至」(六月二十二日)、梅雨明け、そして本格的な夏の訪れも、のどかな季節であってほしいと、願うところである。
 夏が来ればこんどは、一年先に迫った「東京オリンピックおよびパラリンピック」の話題が賑々しくなる。この頃では改元話題も遠のいて、よくもわるくも令和時代が定着し始めている。自然界は、悠久に足早に時を移している。悲しいかな! 煽られる人の営みは、あわてふためいて有限である。

晩春、初夏そして立夏 

 五月六日(月曜日)の夜明けを迎えている。日本社会に喧(かまびす)しい話題を振りまいた十連休の最終日が訪れている。きのうは「こどもの日」(五月五日・日曜日)で、端午の節句でもあった。そしてきょうは、晩春から季節替わりの「立夏」である。不断の私は、長生きは望んでいないけれど、できれば無病息災で人生を閉じたいと、願っている。そのためきのうは、菖蒲湯に心身を浸した。単に、お呪(まじな)いを実践したまでのことである。どうせお呪いであれば、やはり馥郁(ふくいく)と香り立つユズ風呂のほうが余計気分がほぐれる。しかし、菖蒲を手にすると、郷愁つのるうえではこちらが勝る。
 きょうの文章は、お許しを得ずまったく身勝手に、大沢さまの掲示板上のご投稿文にあずかっている。その理由を二つ書けばこうである。一つは、ののどかな春の風景が満載に彩られていることである。このことでは過ぎた春の総集編と言えるものがある。そしてもう一つは、大沢さまの畑づくりにおける獅子奮迅ぶりに驚異と驚愕をおぼえているためである。これまた具体的には、植え付けておられる野菜や果物の多さである。投稿日時は逆さまになるけれど、経過が分かり易いように並び替えたものである。すなわち、最初は「望月窯だより1」で、締めは「私の畑」である。望月窯だより(3、4、5、6)には文章無く、畑に植えられている物の羅列である。
「望月窯だより1」ご投稿日:2019年 4月30日(火)。「今年の初めに末の妹が転んで腕を骨折し、手術の後のリハビリ通いで、古河の実家へ一緒に行けなかったが、週三回通っている整形外科が十連休の影響で休みとなったため、三泊四日(四月二十七日から三十日まで)で実家へ出かけた。二週間前に草取りを済ませたところは、また草が生え始めていた。これからは雑草との戦いである。十一時過ぎに到着して昼食までの時間に妹と畑に出た。すでに植わっている野菜の周辺の草取りから始めた。絹さやはピンクのかわいい花がたくさん咲いていた。去年は大風が吹いて、横倒しになったのを起こすのに苦労した。二週間前に訪れたときは、エンドウ豆の白い花がちらほら咲いていたが、大きなサヤになっていて、次回には豆御飯が食べられるだろうか。タラの芽、柿の若葉、アスパラを天ぷらにしてお昼に食べた。駐車場のところに植えてあるホオノキも若葉が出て、枝の先に白い大輪の花を咲かせていた。午後二時頃に雨が降り出して家に入ったが、いったん止んだので再び草取りを始めると雲行きが怪しくなり、冷たい風が吹き出し、勢いよく雨が降ってきたので、再び中断となった。突如、雷が鳴り、パラパラと音が聞こえた。障子を開けるとすさまじい勢いで大粒のアラレがたちまち地面を真っ白に
覆った。初夏になろうとしているのに、家の中は冬の寒さとなって、ストーブを付けた。大分経って日が差してきたので、外へ出ようとして気がついた。カメラを持ってきていたのに、アラレを撮ることに気付かなかった。アラレが大粒だったのでどこかに残っているかも知れないとあちらこちら見回したが、影も形もなかった。外は、寒くて身震いが出た。 
 望月窯だより2」ご投稿日:2019年 4月30日(火)。「朝からウグイスの高鳴きが響いていた。昨日、トンビか鷹か分からないが、鳴き声が空高く聞こえていた。しばらくすると、小鳥の声がしだしたので、嬉しくなった。昼近くなって、夫の運転で買い物に出かけた。途中の田んぼでキジの雄を見つけた。最近は鳴き声が聞こえなかったので、てっきり撃ち落とされてしまったかと心配していたが、無事に生き延びている姿に安心した。ホームセンターに立ち寄って、野菜の苗木を買い求めた。キュウリ、トマト、なす、枝豆、落花生、スイカ、カボチャ、さつまいもなどなど。ひと冬、大切に屋内で冬越しをさせたパッションフルーツの苗木を移植したが、突然の寒さに枯れてしまい、新しい苗木を購入した。今回は、妹も一緒だったので、予定通りに農作業がはかどった。














 「望月窯だより、3、4、5、6」(イチゴ、ジャガイモ、ニンニク、にんじん、ブラックベリー、たまねぎ、ぶどう、らっきょ、トマト、キュウリ、落花生、スイカ、カボチャ、モロヘイヤ)。



 「望月窯だより7」ご投稿日:2019年 4月30日(火)。「父母、弟が元気だった頃、見事に咲いていた三本の椿は、枝の剪定がうまくいかずに、虫の息だったのを、毎年少しずつ新しい枝を生かして、やっとまたも元のように大輪の花が咲くようになった。
 「望月窯だより8」ご投稿日:2019年 4月30日(火)。「ぼたんも白、ピンク、赤とあったけれど、これも枯れかかって花が咲かなくなったり、 接ぎ木のシャクヤクが出てきてしまったりと災難続きだったが、今年ようやくピンクの花が三輪蕾を持った。到着した日は、蕾だったが、一輪だけ少し膨らみ始めていて、妹と、もしかしたら開くのが見られるかもと楽しみにしていた。しかし、帰るまでに開花は間に合わなかったのが残念だ。

   「私の畑」ご投稿日:2019年 5月 5日(日)。「我が家のベランダにある私の畑は、どうやらいつもの平穏な日常が戻ってきた。今は、スイカ、なす、きゅうり、トマト、ピーマン、ミント、しその葉、ニラ、らっきょ、サニーレタス、レモンバーム、ワイルドベリーなどの苗が育っている。生ゴミの中から芽を出した柑橘類の種が元気に育っている。どんな花が咲くのか、毎年待っているけれど、なかなかである。どうやら今年も葉が茂って終わりかなって感じである。毎年芽を出す山芋のムカゴが今年も蔓を伸ばし始めた。山芋になるまでにはいかないけれど、緑の葉が茂った後に、必ずムカゴが出来る。それは、たくさんとれたときにはムカゴ御飯が
出来るけれど、平穏な日々でないと収穫の時期を見逃してしまう。五月五日の空は輝いている。静かな初夏である。」

「こどもの日」 

 「こどもの日」(五月五日・日曜日、祝祭日)の夜明けを迎えている。端午の節句、菖蒲湯、鯉のぼりや吹き流し、そして自然界は花いちめんである。あすは「立夏」(五月六日・月曜日)、そしてオマケの十連休の最終日にあずかっている。そんなこんなで今年は格別、一年じゅうで人心が最も華やぐ季節と言っていいだろう。かてて加えてきのう(五月四日・土曜日、みどりの日)には、改元にともなう令和天皇陛下による初めての皇位即位を祝する一般参賀が行われた。宮内庁によると14万1130人が皇居に訪れたという。天候は、初夏というより夏本番並みの暑い一日だった。
 私は噴き出る汗を拭きながら、ちょっとのま庭中の草取りを試みた。ところが、いたるところの草花は、それぞれがそれなりに綺麗に咲いていた。私は抜き取ることに忍びなく、草取りを止めた。茶の間に戻り、妻へこう言った。
「草花が綺麗に咲いているから、草取り止めたよ。しばらくのあいだそのままにして眺めるよ。おまえも見てよ。抜き取れないよ!」
「わたし、知っているわよ。綺麗でしょ! パパ、まだ取らなくていいわよ」
 さて、子どもの日であれば、ほぼ毎年メディアの伝える配信ニュースに関心を寄せてきた。その挙句には、記事を引用している。この日の記事には、日本の国の「少子高齢化社会」の推移が報じられているからである。私が憂え浮足立ったところでどうにもならないけれど、記録に留め置くくらいの義務はあるであろう。引用文は、令和元年(2019年・5月5日、日曜日)付け朝日新聞朝刊である。指先きわめて不自由だけれど、あえて転載を試みている。
 「今年4月1日現在の15歳未満の子どもの数は1533万人で、前年より18万人減った。1982年から38年連続の減少で、記録がある50年以降の最少を更新。『平成』の30年余りで、89年の2320万人から787万人減っており、少子化を象徴する結果となった。5日の『こどもの日』にあわせ、総務省が推計した。男子785万人、女子748万人で、男子が37万人多かった。都道府県別では、45道府県で減少した一方、一極集中の進む東京都は8千人増え、沖縄県は前年と同数となった。全人口に占める子どもの割合は、前年より0・2ポイント低下し、12・1%だった。75年から45年連続の低下で、こちらも過去最低を更新した。97年以降は、65歳以上の高齢者が子どもより多い。子どもと高齢者の割合の差は年々広がり、今年は高齢者の割合が28・3%と、子どもの倍を超え、『少子高齢化』が際立つ。」
 確かに、老い先短い私が心を痛めたところで、どうなるわけでもない。だから、日本の国はさずかりものの子どもたちを傷つけないで、大事に育ててほしいと願うだけである。
 のどかに朝日の昇る夜明けにあって、夜には菖蒲湯に浸かり、しばし国の行き先を案じてみたい。わが老婆心のタネは尽きない。

老いの身 

 人間はもとより、生きとし生きるものの浅ましさとは、言ってはいけない。生きるためには、食べなければならない。きのう(五月三日・金曜日、憲法記念日)の文章『たそがれの家路』においては、老醜をさらけ出す嘆き文を書いた。具体的には乗り物の車内において、人様の好意により席を譲られることが定番化しつつあることを書いた。その挙句私は、「もう、おれは外出したくないよ」と言って、妻に駄々をこねたことを書いた。夜明けにこんなことを書いたばかりなのに、昼間になると大船の街(鎌倉市)へ出かけた。私自身、狐につままれたような腑に落ちない行動だった。
 具体的には、いつもの家事役割にしたがっての買い物行動である。ところが、きのうはわが単独行動にあらずして、久しぶりに妻が連れ立っていた。妻は買い物ばかりではなく、妻特有の用件をたずさえていた。それは、髪カットだった。わが家の大船の街への買い物行には、必然的に往復に定期路線のバス利用がある。そのため、席を譲られる恐れがある。いや、恐れと言うには語弊がある。実際のところは、好意や善意をたずさえる人様に、迷惑をかける私自身のつらさがある。そんなつらさがあっても、買い物行は外せない。なぜなら、口が干上がっては生きることはできない。結局、食べるための買い物行は、浅ましい行為というより、われのみならず生きとし生きるものの宿命である。その証しに街中には、ゴロゴロと音を立てる手押し車に身をもたれて、買い物回りをする人たちがたくさんいた。そしてそれは懸命に生きる人間の姿と思えば、褒め称えるべき光景と言うべきであろう。もちろん、やがて訪れるわが夫婦の姿でもある。
 さて、肝心の買物の中の一端を披露すればこうである。実際のところきょうは、このことを書きたかったにすぎない。まったく飽きることなくまたもや買った物には、タケノコ(静岡産)、グリンピース(鹿児島産)、そして海産物・アサリ(熊本産)がある。この春はふるさと便のたまわりもののタケノコから始まり、何度これらを買って、御飯やその友として美味しく食べたことであろう。タケノコは、醤油煮、御飯、そして木の芽寿司など、なんでもござれと多用し、まさしく獅子奮迅の活躍ぶりだった。グリンピースはピース御飯一辺倒に、そしてアサリ汁はわが好物の汁物(つゆもの)の最上位にある。人間は食べるために生きるのか、それとも生きるために食べるのか。いまだにわかりかねる永遠のテーマである。私とてどっちつかずのままである。唯一言えることは、美味しいものは何度食べても飽きることはない。まさにこれこそ、わが食生活の真髄である。
 書くことが何も浮かばないままに、駄じゃれ文をかいてしまった。「みどりの日」(五月四日・土曜日)の夜明けの空は、どんよりとした曇り空である。朝日が昇れば、われ独り懲りなく大船の街へ向かうかもしれない。老いの身のつらい日課である。

 たそがれの家路

 十連休の後半、「憲法記念日」(五月三日・金曜日)の夜明けを迎えている。前半は、雨や曇りのぐずついた天候に見舞われた。ようやく、きょう一日はのどかに晴れそうな朝ぼらけである。それなのに起き立ての私は、こんななさけないことを胸中に浮かべている。確かに老いは、人生つらい回り舞台である。明らかに人様に迷惑をかけるようになり、頓(とみ)に外出が億劫(おっくう)になりはじめている。現象面ではバスや電車の車内で、席を譲られるようになってしまったことである。人様の好意は丁寧な感謝の言葉を添えて、素直に受け入れる心構えではいる。しかしながら内心では、人様の好意にたいししどろもどろの心地にある。確かに、わが身の老いは、鏡に映るたびに自分自身十分認識できている。それを恐れて普段の私は、意識的に鏡を見ないよう心している。もちろん、鏡に映るわが老いの身がつらいからである。しかし、人様から席を譲られるようになると、鏡にさらされて老いを認識するときとはまったく別のつらさがある。すなわち、いやおうない老いの完全認識である。もとよりそれは、人様に迷惑をかけているという、とてつもなくつらい心地でもある。ところが、私にかぎらずとうとう妻も、同類項になってしまった。だから、そんな光景を目にすると、妻のつらい心情を思いやること、しばしばである。
 バスを降りてわが家への帰り道を踏むと、私と妻はこんな言葉を交わした。もはや、老いの身ふたりのたそがれの家路である。
「とうとう、バスや電車の中で、席を譲られるようになってしまったよ。席に腰を下ろされたばかりの人様に、迷惑をかけるのはつらいね。だからおれは、もう外出はしたくないよ」
「わたしもそうよ。人様には年寄りに見えるのだからしかたないわよ。パパって、バカねえー、だから、外出したくないなんて…。みんな、ヨロヨロになってもしてるじゃないの…」
「いずれ、あんな姿になるのかと思うと、かなしいねよ」
「パパ、なるわよ。わたしもなるわよ。だけど、みんなそうして生きてるのよ」
「おれは、もう外出、したくないよ」
「パパって、ほんとにバカよ!」
 不断の私は、神仏を崇めることなく、いやちっとも当てにすることなく生きている。そのため神仏のご利益(りやく)なく、人生終盤になっても老いの身を悟りきれないのであろうか。このことでは、妻の心意気と悟りにボロ負けである。
 憲法記念日にあって、こんな身も蓋もないことをつづるようでは、ほんとに私は馬鹿じゃなかろうか! ほとほと、残念無念である。朝日が昇るにつれて、のどかに晴れた外出日和が恨めしいかぎりである。わが老いの身の証しは鏡を見るまでもなく、人を変えて見ず知らずの人様が教えてくれている。人生行路の切なさである。

 新たな日常

 改元にともなう皇位継承の儀式はとどこおりなく過ぎた。こののちのテレビ映像は、生中継からVTRの繰り返しとなる。おのずから平成時代は日本史の一つを画し、日本社会や国民は新たな令和時代に馴染んでゆく。つれて、人の命も粛々と代替わりを続けてゆく。厳粛かつ豪華な退位と即位の儀式は、一般家庭に置き換えれば主(あるじ)の代替わりである。もちろん、一般家庭のその様子は、見ることはできない。天皇家であるがゆえにテレビ映像で、その一部始終を観ることができたのである。それはやはり、幸運と喜ぶべきことであろう。もとより、日本の国の伝統儀式を臨場感にひたり、垣間見たことに尽きよう。すなわち、教科書の日本史の中における古来のしきたりを学ぶうえでは、まさしく「百聞は一見に如かず」と言える一大絵巻だった。
 きょうは五月二日(木曜日)、十連休に名を変えた例年のゴールデンウィークの真っただ中にある。そうであれば日常生活に戻り、普段の気分に落ち着きたいところである。そう思いながらキーボードに張りついけれど、いっこうに文章が書けない。わが命、令和とはほんのちょっぴりの御縁となりそうである。こんなことを浮かべているせいであろうか。夜明けの空にはぐずついた雨空をはらって、ほんのり朝日がさしはじめている。

改元、令和元年(二〇一九年五月一日) 

 令和元年(二〇一九年五月一日、水曜日)、きのう(平成三十一年・二〇一九年四月三十日、火曜日)に続いて、雨の夜明けである。きのうは、平成天皇陛下のご退位日にちなんむ、メディアの配信ニュースを引用した。するときょうは、令和天皇陛下のご即位日にちなで、新聞の記事の転載を試みている。キーボード操作が不得手の私には、きわめて骨の折れる試みである。記事は、今朝の朝日新聞朝刊の一面記事の中で、冒頭の大見出しによるものである。
 【令和 新天皇即位】「陛下退位 支えてくれた国民に感謝」。天皇陛下が4月30日に退位し、皇太子さまが1日、新天皇に即位される。退位特例法に基づく代替わりで、元号は平成から令和となる。陛下は30日、国事行為の「退位礼正殿の儀」に臨み「象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します」と述べた。陛下は85歳。高齢に伴い、2016年8月に退位の意向をにじませるビデオメッセージを公表。政府による検討を経て、17年6月、一代限りの退位を認める皇室典範の特例法が成立した。天皇の逝去によらない代替わりは、1817年(江戸時代後期)の光格天皇の退位以来202年ぶり。陛下は退位して「上皇」になり、美智子さまは「上皇后」となり、一切の公務から退く。新天皇は59歳での即位となり、55歳の雅子さまが新皇后となる。秋篠宮さまが皇太子待遇の「皇嗣」になる。皇位継承資格者は上位から順に53歳の秋篠宮さま、秋篠宮家の長男で12歳の悠仁さま、83歳の常陸宮さまの3人となる。新天皇即位に伴い、皇居・宮殿では1日午前10時半から、皇位のしるしとされる神器などを引き継ぐ「剣璽等承継の儀」、午前11時10分から新天皇が最初のおことばを述べる「即位後朝見の儀」がそれぞれ国事行為として行われる。退位する陛下は4月30日午後5時から宮殿で、憲政史上初の退位礼正殿の儀に臨んだ。美智子さまや皇太子ご夫妻、秋篠宮ご夫妻のほか、三権の長や閣僚、地方代表の294人が参列。安倍晋三首相が国民を代表して「深い敬愛と感謝の念をいま一度新たにする次第であります」と述べたのに続き、陛下が「今日をもち、天皇としての務めを終えることになりました」と在位中最後の「おことば」を述べた。天皇の務めを「国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした」と述懐。令和の時代が「平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」と結んだ。

平成時代(三十年三カ月余) 

 私は昭和十五年(一九四〇年)に生まれ、平成十二年(二〇〇〇年)に退職した。おそらく、あすの令和元年(二〇一九年五月一日、七十八歳)まで、生き長らえるであろう。私の場合、顧みれば平成時代のわが大半は、職業と収入を持たない人生晩年である。このことでは、わが人生たそがれどきである。それはともかく、わが年代の平成時代は、人生の締めくくりに触れる自分史の一端をなすであろう。もちろん、天皇陛下の場合は、年号と足跡が日本史に刻まれてゆく。
 きょうは平成三十一年四月三十日(火曜日)、年号「平成」の最終日である。このことでは自作文に頼らず、メディアの報じる配信ニュースを引用し、記録に留め置くものである。
 【天皇陛下30日に退位 光格天皇以来202年ぶり】(4/29日・月曜日 18:50配信 毎日新聞)。天皇陛下は30日、退位される。午後5時から皇居・宮殿「松の間」で行われる国事行為「退位礼正殿の儀」に臨み、天皇として最後のおことばを述べる。象徴のあり方を追求し続けてきた「天皇としての旅」を終え、平成は30年と3カ月あまりで幕を閉じる。5月1日午前0時、皇太子さまが皇位を継承する。天皇の退位は江戸時代の光格天皇以来202年ぶりで、憲政史上初めて。退位後は上皇となり、上皇后となる皇后さまと共に公務から退く。陛下は昭和天皇の逝去により、1989年1月7日に55歳で即位した。天皇を象徴と規定した現行憲法下で初めての即位だった。在位中は被災地見舞いや戦没者慰霊を重ね、全都道府県を2巡。遠隔地の旅を大切にし、55の島に足を運んだ。皇后さまと共に積極的に国民の中に入って交流する姿は「平成流」として定着した。記者会見などでは、戦争を経験した天皇として、平和への強い思いをたびたび語った。最後の会見となった昨年12月には「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」と述べた。国際親善などの海外訪問は36カ国に上った。陛下が退位を周囲に初めて相談したのは76歳だった2010年夏だった。関係者によると、高齢になって身体が衰え、象徴としての活動ができなくなるなら退位すべきだと考えていたという。16年8月8日にビデオメッセージを公表し、象徴天皇のあるべき姿についての考え方を述べ、活動の縮小や摂政の設置に否定的な見解を示した。皇室典範には退位を定める項目がなかったため、政府は同年9月に有識者会議を設置し、議論を開始。17年5月に「国民の共感を受けた一代限りの特例」として退位特例法案を国会に提出した。特例法は翌6月に成立し、退位が可能になった。退位日は同年12月、皇室会議を経て閣議で決まった。天変地異の鳴動を免れた、静かな雨の夜明けである。

十連休 

 昭和の日」(四月二十九日・月曜日、祝祭日)、十連休はすでに二日前から始まっている。世の中があまりにも十連休と言って騒がしいから、私自身まったく気乗りしない。本当のところ私には、無縁の十連休である。それでも、こんな覇気のない気持ちに陥るのは、十連休をする人たちへのやっかみがあるのであろうか。そうであればおとなげなく、心して詫びなければならない。なぜなら、普段忙しく働く現役の人たちにとっては、棚牡丹の十連休を楽しむ権利がある。確かに、年じゅう連休の私と違って、心逸り物見遊山に出かけたくなることにも、うなずけるところがある。そうであれば、それぞれが十分に連休を楽しんで、無事に連休明けの職場復帰を願うところである。
 おととい(四月二十七日・土曜日)、NHKテレビテレビニュースを観ていたら、こんな場面に出遭った。「出かけるときは『平成』で、帰るときは『令和』です」。インタービューに応える中年女性の表情は、うれしさを隠し切れず飛びっ切りの明るさだった。理由はともあれ、明るい気分になれることは万々歳である。もちろんわが気分は、僻みや妬みなく明るさのお裾分けをいただいた。本当のところは人様の気分にあやかり、私自身ごく近場でも物見遊山に出かけたいところである。ところが、出不精の私には、実際にはそれさえ夢まぼろしとなろう。その挙句には、きわめて気乗りのしない文章を書き続けるであろう。せっかくの人の世の十連休にあって、望むところは天変地異もお休み願いたいところである。かてて加えて私は、平成から令和への安らかな時代変遷を望んでいる。
「パパ。出かけなくても、周りには花や緑がいっぱいよ。わたし、これを眺めているだけで十分よ。どこにも、出かけたくないわ!」
 毎年、この時期の妻の常套句である。すると、甲斐性無しのわが返事もまた、これが決まり文句である。
「そうだよね…」
 十連休に埋没し、平成の世の昭和の日は、置き去りにされつつある。令和にあっては、その存続が危ぶまれるところである。昭和生まれのわが生存期限は、「令和二けたならず、一桁〇年」であろうか。昭和の日の大空は無窮、青く明るく輝いている。

長雨止んだ、朝が来た 

 四月二十八日(日曜日)、今朝の私はいつもとは異なる行動を強いられ、慌ててキーボードを叩き始めている。もちろん、いまだに朝飯前の行為である。もしかしたら、「平成」最後のという、形容詞が付くかもしれない。平成時代の終焉までのカウントダウンはあと二つである。異なる行動とは雨続きの道路の汚さに業を煮やし、文章書きを後回しにし道路の掃除を優先したことである。
 私は夜明けて間もない五時あたりから七時半余まで、二時間半近くをかけて黙然と掃除をした。黙然もそうだが、なお一心不乱に掃除をした。身なりは冬防寒重装備のひとつ、厚手のダウンコートを着込んだままである。それでも、覆いのない顔面や指先は、終始冷え冷えだった。長雨はようやく上がり、雨上がりの道路は、私に掃除の決断を促した。順序を違えたことには、散歩にめぐる人たちにたいし、雨上がりの清々しさを恵もうという、わが心意気があった。このため、わが心は逸(はや)り、丁寧かつ懸命に掃いた。もちろん、ときには手を休めて、私自身久方ぶりの青空を仰いだ。一方では恨めしく、道路を汚くした元凶の頭上の木々を見上げた。視界にはときおり、犬に引かれたり、犬を連れた人が現れる。山には、わが行動を褒めてくれているのか、それとも邪魔だからどけと思っているのか、ウグイスが高音で鳴き続けている。
 このとき、わが心中には二つのことが浮かんだ。一つは、犬連れ同士の人はしゃがんで、犬に丁寧かつ朗らかに言葉をかけている。ところが、挨拶を交わす姿勢で立って待ち受けている私には、目配せや言葉なく素通りする人がいる。すると、へそ曲がりの私は、犬好きの人は総じて人間嫌いなのかな! と思った。
 もう一つには、こんな思いを浮かべていた。ウグイスは代替わりをしているはずなのに、毎年決まって同じところで鳴いている。すると、ウグイスにも生家や実家の習わしがあるのだろうか? という思いである。今朝の文章は書きたくなっていた、この二つのことを書いておしまいである。
 朝のきつい労働のせいで、おなかがグウーグーと、音を立てている。平成の残り二日は、長雨が去って好天気に恵まれそうである。キラキラと朝日が輝いている。

暮らし 

 四月二十七日(土曜日)、十連休というやらの初日を迎えています。改元までは、残り三つのカウントダウンとなりました。きのうのテレビニュースには、「平成」の後片付けと、「令和」の準備の様子が、映り出されていました。一方で、国内外への旅立ちの様子がありました。「武運長久」とは言えません。ひたすら「平和」を望んでいます。夜明けの空は、またもや雨降りです。同時に寒が戻り、うすらバカな私は、とうとう風邪をひきました。これ以外、わが暮らしに変化はございません。

言葉「味を占める」 

 四月二十六日(金曜日)、夜明けの空は雨降りである。就寝中はそれなりに冷えていた。もはや、用無しと決めて畳んでいた冬布団を慌てて被った。まもなく訪れる五月晴れを前にして、晩春のやっかみのいたずらであろうか。そうであれば、晩春の名がすたるとんだいたずらである。
 寝起きのわが心中にはきわめて日常語で、もちろん知りすぎている言葉を浮かんでいた。それでも、あえて電子辞書を開いた。
 【味を占める】「一度経験した利益に味を覚えて、またそれを望む」。
 きのう(四月二十五日・木曜日)の買い物において私は、この言葉を実践したのである。先日書いたことを繰り返すと、私は衝動買いで高価な台湾産パイナップルを、手を震わしながら買った。ほかの買物と合わせて、ぎゅうぎゅう詰めにして重たく持ち帰った私は、まるで美装の衣(ころも)を剥ぐような面持ちで、丁寧に輪切りにした。そして、口内の美味しい食感に酔った。実際にはこのとき、パイナップルに味を占めたのである。その延長線上できのう、私は再びパイナップルを買った。文字どおり、味を占めるという言葉の実践である。併せて、鹿児島産グリンピースも買った。こちらは一度どころかすでに何度も買って、グリンピース御飯で味を占めている。
 売り場には、早くもふるさと・熊本産表示の西瓜が大量に並んでいた。それでも西瓜は、持ち帰りをためらい買うのは先延ばしにした。味を占めている好物を次々に買っていては、わが財布や胃がもたない。いや、強靭なわが胃は耐えてくれるけれど、貧相な財布は弱音を吐くどころか空っぽになる。私の場合、味を占めるものには、おのずから我慢を強いられる。晩春のいたずらとは言えない、期限のない甲斐性無しのわが懐(ふところ)ぐあいである。
 晩春の雨は、きょうかぎりであろう。実の無い単なる継続文は、ほとほとやるせない。

様変わる「児童教育」 

 もはや私は、小学生には戻れない。だから、無関心であってもいいはずである。しかし、日本社会に住むかぎり、無頓着では済まされない。なぜなら、未来の日本社会を担う子どもたちにかかわることだからである。国の舵取りだから、私が懸念するまでもないことくらいは承知している。そのため、いま浮かべていることは、懸念にはあたらない。わが小学生時代と比べて、様変わりつつある学習模様への驚きである。もちろん、これらのことは、メデイアが報じたことの羅列である。一つは、先日ちょっぴり記したデジタル教科書の導入である。一つは、中学校に倣っての教科担任制の導入である。一つは、英語授業の開始である。そして一つは、プログラミング教育の導入である。このことについては、私自身まったく理解しかねているため、インターネット上の記載項目で学習を試みた。
 【コトバンク 朝日新聞掲載「キーワード」の解説:プログラミング教育】「2020年度から実施される新しい学習指導要領に盛り込まれ、小学校で必修化される。コンピュータープログラムを意図通りに動かす体験を通じ、論理的な思考力を育むとともに、幼いころからプログラムの世界に触れ、ITに強い人材を育成する狙いがある。」(2018-08-09 朝日新聞 朝刊 神奈川全県・2地方)。
 様変わる小学生授業を浮かべて、私はむかしの児童でホッとしている。未来の子どもたちは、どう育つのであろうか。やはり、ちょっぴり老婆心をたずさえている。バカじゃなかろか、私が気を揉んでどうなることでもない。それでも、気を揉める長い夜である。

身勝手な成り行き文 

 娘は市議会議員選挙で、再びウグイス嬢をやったという。候補者もまた、高位当選を果たしたという。引っ込み思案の私を超えた娘を、素直に褒めてやりたいと思う。まさしく支離滅裂とも言える、どうでもいいことを書いた。しかしこれには、私固有の理由がある。私は生まれてこの方、引っ込み思案の性癖(悪癖)にさいなまれ続けてきた。だから、その遺伝子を覆(くつがえ)した娘を称賛したくなったのである。
 顧みて、わが人生行路における引っ込み思案は、損得で言えば大きな損の一つである。引っ込み思案の元凶は、もとより才能不足によるコンプレックス(劣等感)である。すると、わが引っ込み思案も致し方ないところではある。こんなことを浮かべながら、書き殴りで成り行き文を書き出している。
 確かにこんなことでは、書き続けてきた「ひぐらしの記」は、いよいよ風前の灯(ともしび)にある。風前の灯という言葉は、これまで何度記したことだろう。もちろん、わが記憶を超えた夥(おびただ)しい度数である。ところがこれは、単なる言葉の綾ではなく、実際にそういう心境に陥り書いてきたのである。そして、そのつどそれをやっとこさ覆したのは、母の唯一の人生訓すなわち「するが辛抱」に背きたくなかったからである。父は、子どもたちからの手紙を手放しに誉めていた。ひぐらしの記をこんなに長く続けたら、母は喜んでくれただろう。父もまた喜んで読み続けて、継続を褒めてくれたであろう。すると、ひぐらしの記の継続は、親孝行の一端になってくれたはずである。結局、人生の不条理は、親孝行したいときに親のいないことである。
 現在、亡き親に代わってくれているのはふるさとの長兄(九十二歳)と、東京都下国分寺市内に住む次兄夫婦(共に八十八歳)である。きのう(四月二十三日・火曜日)、固定電話へふるさと電話のベルが鳴った。待ち受け画面には、長兄の名が記されていた。私は長兄の名に、ホッと安堵した。長兄訃報の電話ではない。だから、うれしさが爆発させて受話器を取った。双方共にひどい難聴のため、電話のやりとりは長いあいだ沙汰止みになっている。どちらも「元気だろだいね!」「元気なあ!」という、言葉から始まった。次にはこれまた、「聞こえるか?」「聞こえているなあ?」の言葉となった。聞きづらかったけれど私は、受話器を必死に耳に押し当てた。長兄も、そうしているようだった。とぎれとぎれの声は、こう聞き取れた。
「あのね。今、『ひぐらしの記』が届いたもんね。まだ、書けきょっとるばいね。偉(えら)かたいね…。おとっつあんがいれば、とても褒めなるばってんねがー…」
「もうとどいたの? ちょっとずつ読んでみて!」
 このあとに、驚いたことが受話器に伝わったのである。それは、すでにひぐらしの記の一部を読んだと、思える証しだった。製本されたひぐらしの記の単行本の中には、こんな一編があった。それは、ふうちゃん(ふうたろうさん)の伯父さんに嫁がれた、長兄の亡き妻・フクミ義姉さんの叔母さんのことである。長兄はそのことに関して、こまごまと話していたようである。難聴のわが耳には、聞き取りづらいままに受話器を置いた。そのときの驚きは、すでに長兄は文章の一文を読んだのか?。
 ふるさと電話の受話器を置くと、こんどは携帯電話の呼び音が鳴った。ふうちゃんからの単行本受領の電話である。私は、前日の昼過ぎに長兄とふうちゃんに単行本を送付していた。早速私は、ふうちゃんにこう尋ねた。
「ふるさとの兄から、今電話があったのだけれど、もう文章の一部を読んだようである。難聴のせいで、良く聞こえなかったけれど、『伯父さんとフクミ姉の叔母さんのこと』を言っていたようだよ。こんなに早く、読むはずないよね。兄は、耳に輪をかけて目も悪いしね…」
「読まれたんじゃんないのかなあー? はじめのほうの十五ページに書いてあるから…」
「そうかなあ? それにしても早いね…」
 確かに長兄は、毎回隅から隅まで読んでいる。長兄はかけがえのない親代わりであり、後継をになうふるさとの守り本尊である。長兄の長生きにひぐらしの記が役立つかぎり、私には書き続けなければならない恩返しの義務がある。身勝手な成り行き文で、ほとほとかたじけない。

庭中の草取り 

 きわめて狭小ながら、ことし一度めの草取りを終えた。草取りは、秋までに三度か四度強いられる。そのたびに、わが心身を脅かす難事である。ようやく萌え出たばかりで、強く抵抗するのをムキになって引き抜くことには、もちろん忍びない思いがある。しかしながら同情の余地なく、総浚いにしなければ空き家同然になる。このとき胸中に浮かぶのは、やがて草取りさえできなくなるわが身への懸念である。いや、最も痛切感をともなうのは、わが亡きあとの庭中の荒れ放題である。
 草取りひとつとっても、老い先短いゆえに心痛むばかりである。半面、草取りは無心になれば、最も心安らぐひとときでもある。例年よりいくらか早い草取りを敢行したことには、こんな理由がある。一つは、草の根の柔らかいときにとっておこう、という魂胆である。そして一つは、気に懸かることは早く終えよう、という思いである。幸運にもピロリ菌撲滅以降、それまで持病として苦しんでいた腰痛は、完全に遠のいている。主治医さえ思い及ばない、ピロリ菌撲滅の副次効果である。
 それでもわが草取り風景には、なさけなさがつきまとっている。それは一〇〇円ショップで買い求めた、プラスチック製椅子を引きずってのヨチヨチ前進である。農家出の私には、恥ずべきあるまじき行為である。
 草取りには、地中のミミズとの出遭いが必然である。ミミズは硬い土壌を柔らかくしてくれる益虫である。かてて加えて私の場合、ミミズは童心を呼び戻してくれるものの筆頭に位置している。すなわち、ミミズの餌が無くては、ふるさと・内田川の魚釣りの楽しみは、まったく叶えられずじまいだった。このため、草取り中にミミズに出遭えば、わが心中には感謝の念と同時に、罪滅ぼしの思いが渦巻いている。実際にもこの思いは、動作や行為に表れている。もとより、決して潰すことはしないどころか、再び地中にもぐるまで指先を休めている。
 そして、ミミズに関し、今さら気づいたことを記すためにこの文章を書いている。それは、春先のミミズはまだ生まれたてなのだろうという、わが観察である。確かと思える証しは、身が細くからだ全体にピカピカと光る艶(つや)があることである。すると私は、生まれたてのミミズを虐めてはならないという、思いになる。もちろん、武士の情けではなく、遅すぎた罪滅ぼしである。秋口のミミズは図体も大きいけれど、何より腹が立つのは、逃げることなくふてくされてのそべっていることである。それでも私は、干からびないように土を掛けてやっている。罪作りも罪滅ぼしも、万物の霊長と崇められる人間の哀しい性(さが)である。

自然界の「恩に着る」夜明け 

 四月二十二日(月曜日)、夜明けが訪れている。きのう(四月二十一日・日曜日)とほぼ同時刻に起き出して、前面の窓ガラスを通して大空を眺めている。そして、きのうの文章『気分の良い夜明け』の追記を試みている。すると、真っ先に心中に浮かんだのは、(良い気分は二日と続かなかった)、という思いである。
 具体的には、就寝中悪夢に魘され熟睡を妨げられたことである。かてて加えて夜明けの空は味方せず、きのうとは打って変わりどんよりとしている。このため、今朝は「気分の滅入る夜明け」である。まさしく、きのうの夜明けの気分は、突然訪れた僥倖と言えるものだった。気分の良さに後押しされて私は、文章は短く結んで道路の清掃へ向かった。まったく久しぶりの行動だった。
 顧みれば年明けて四か月余の間に、三度ほどの行為だった。私自身、ずる休みを決め込んでいたことではない。落ち葉のない季節にあずかっていたのである。きのうとて、落ち葉は影を潜めていた。しかし、粗い舗装道路には、山桜の花びらや木の芽の破片がくだけて入り組んでいた。そのため、このところの私には、(道路、見た目、汚いなあー)の思いはあった。だけど、秋の落ち葉の季節のように仕方なく、道路へ向かうほどの汚れではなかった。
 過去二度の掃除の中で試みたのは、萌え出していた側溝周りの草取りだった。きのうの行為も、ほぼこれに似ていた。しかし、長くうっちゃっていたので草は、根強く入り組み地面には色を濃くしていた。それでも、散歩にめぐる人たちには、気になることもない程度の草の緑である。
 ところが、このところの私には、いくらか気になるところがあった。そんなおり、気分の良い夜明けがわが行動をそそのしたのである。いや、そそのかしたという言葉には語弊があり、まったくわが意に反した言葉である。実際には、気分の良い夜明けがとんでもない行為をもたらしてくれたのである。「恩に着る」とは、こういうときの粋な言葉であろう。すなわち、夜明けの気分の良さにさずかり、私はほぼ四か月余の罪滅ぼしを成し得たのである。
 時間的には五時半頃から朝飯しを先に延ばし、八時半頃まで約三時間をかけた。行為では側溝に入り組んでいた草の根まで、文字どおり根こそぎ取った。道路側壁の石垣の間の草も、跡形なくすべて引き抜いた。粗い道路にこびりついていた花びらや木の芽は、しゃがんで指先でこすり取った。この光景は、わが目にも気違い沙汰だった。しかし、ほぼ四か月間の罪滅ぼしと思えば、悔いのない重労働だった。そして、この行為には飛びっきりのオマケが付いたのである。疎遠になりがちだった散歩常連の人達と、ほがらかに会話を交わし得たのである。大袈裟に言えば、「旧交を温める」ことができたのである。
 ドンよりしていた大空には、朝日が昇りはじめている。だけど、今朝は道路へ向かうことは免れて、実がなくとも普段の長さの文章にありついたのである。悪夢の内容は、まぼろしになり始めている。時間が経てば、気分の良い夜明けになるだろう。平成時代の終わりに向けて、カウントダウンは、ひとけた九つである。

気分の良い夜明け 

 四月二十一日(日曜日)、まったく久しぶりに悪夢に魘されることなく、熟睡できた夜明けが訪れている。熟睡できた理由はわからない。たぶん、きのう(四月二十日・土曜日)の卓球クラブの練習の疲れであろう。いや、こっぴどくしごいてくれた仲間のおかげであろう。理由はともあれ、すこぶる気分の良い夜明けに恵まれて、もちろん爽快この上ない。かてて加えて朝日の照らす大空は、雨、風まったく出番のなく、まるで真空状態のようなのどかさである。
 こんなおり、椅子に座すのはもったいない。そのため、今朝の文章は沙汰止みを決め込んでいる。その理由は、これまたまったく久しぶりに、朝の道路の清掃に向かう気分になっているからである。まったく身勝手なわが意思だけれど、僥倖と思える気分の良さには勝てない。ウグイスは、すでに高鳴きしている。ウグイスの声はなんと澄明なのだろうと、ありがたくも不思議な思いである。なぜなら、難聴の耳にも障りなく聞こえてくる。案外、気分の良さが後押しをしてくれているのかもしれない。
 平成天皇陛下時代は十日を残すのみとなり、きょうからカウントダウンの始まりである。こんな気分の良い日が十日続いて、十日間の連続休暇を迎えたいものである。欲張りをしたい心地である。きょうも、卓球クラブの練習に行くつもりである。柳の下のドジョウ狙いだけれど、しかしあすの夜明けの気分は未知である。結文、かたじけない。

 自然界はのどかな夜明け、でも…

 四月二十日(土曜日)、明るく朝日の射すのどかな夜明けが訪れている。どうやら鼻風邪をひいたようだ。休養を決め込んで、寝床に横たわり朝刊を広げていた。鼻風邪のせいで気分はすぐれず読む気はない。朝日新聞・朝刊の大見出しには、「一人暮らし高齢者896万人」(社会保障・人口問題研 2040年推計)。小見出しには15年比43%増、東京116万人とある。記事は読まない。記事の内容は読まずともわかっている。「高齢者運転 また悲劇」の記事もある。こちらはちょっとだけ読んだ。八十七歳の人の運転する車が暴走し、母娘(三十一歳と三歳)が亡くなったという。ほかにも負傷者が出ているという。ネット上では、東京・池袋事故として非難噴出である。現下の高齢化社会の哀しい現実である。
 私は二〇四〇年まで生存することはない。しかしながら現在の社会とて、すでに似たり寄ったりの生きることの厳しさにある。こんなおりだから、あえてのほほんとしたこと書きたくなっている。また、それを咎める人もいないはずである。
 おとといと、きのうの延長線上の追記は、こうである。きのう(四月十九日・金曜日)のわが買い物には、予告に違わずタケノコ(福岡産)があった。このほかには想定ラインにのっとり、ノブキ(鹿児島産)、グリンピース(愛知産)も買った。柑橘類ではデコポン(熊本産)を買った。衝動買いでは最高級「極」と表示のパイナップル(台湾産)を買った。高額のパイナップルを所定の籠に入れるときには手が震えた。想定外の衝動買い特有の手の震えだった。それでも、総じて満足のゆく買い物だった。パイナップルを輪切りにして、味を占めるのはきょうの楽しみである。年寄りの身で、楽しみにありつけるのはもはやこれくらいである。

春特有の御飯(混ぜ御飯) 

 「ひぐらしの記」の題材は、非難を恐れておのずから自己制御するところがある。もちろんこれは、私日記ならず公開しているため、致し方ないところである。そんな中にあって食べ物のことは、きわめて無難な題材である。
 きのう(四月十八日・木曜日)の私は、『春は「花より団子』の表題で、「木の芽御飯」(木の芽寿司)に至るまでの、わが好みの混ぜ御飯(炊き込み御飯)のいろいろを書いた。このため、再びそれらことを書けば、冷や御飯や冷凍御飯の温め御飯のように蒸し返しとはなる。それでも書かずにおれないため、同様の題材で書き始めている。かたじけない思いつのるけれど、御免蒙りたいものである。
 きのうは、この春二度目のグリンピース御飯だった。ところがこの先、三度も四度もありそうである。それほどに私は、グリンピース御飯の美味しさに味を占めていたのである。ふるさと便によるたまわりもののタケノコを用いてのタケノコ御飯から始まり、海産のアサリ御飯はすでに何度か食べた。そして、グリンピース御飯へつないできたのである。この先の真打の登場には妻と、これらに山椒やノブキを混ぜた木の芽御飯をもくろんでいる。言うなれば、春の山菜の恩恵にさずかる「春特有の御飯」の堪能である。これらは御飯自体の美味しさに加えて、ふるさとの味、おふくろの味、すなわち郷愁や母の面影をよみがえらせてくれる。さらに、最も身近なところでは、グリンピースのみならず自作の春野菜の収穫で、日々ビールグラスを傾け合い、口、喉、胃、を潤されている渡部さんご夫妻(埼玉県所沢市ご在住)のお姿が浮かんでくる。渡部さんは会社同期入社のお仲間であるけれど、奥様も職場は違え優しさを知りすぎている。
 結局、「春特有の御飯」すなわち「混ぜ御飯」の特長は、食感だけではなくふるさと慕情や温かい人情がかぎりなく混じ合っていることであろう。
 きょう(四月十九日・金曜日)の買物のイの一番はタケノコである。木の芽御飯まで行き着くまでには、まだタケノコ御飯、グリンピース御飯が続きそうである。やはり、「春は、『花より団子』」である。

 春は「花より団子」

 目覚めて起き出してきたら、すっかり夜が明けている。時計の針は五時半を回っている。朝日の輝きは薄いけれど、春霞(はるがすみ)たなびくのどかな朝ぼらけである。
 昨夜(四月十七日・水曜日)のナイター、阪神タイガース対東京ヤクルトスワローズ戦(東京・神宮球場)は、延長戦最終回の十二回までになった。それでも決着つかず、二対二で引き分けた。私は、試合経過を観ながら最後までテレビ観戦する羽目となった。その祟りは就寝時間に現れた。あわてて、十一時半近くに床に就いた。かねて、懸念していた長引くテレビ観戦だったのである。今や、弱いタイガースにヤキモキしていては身がもたない。私は淡々と試合経過に観入っていた。その挙句には、(最後まで観ずに、早く寝ればよかったな!)と、遅寝(おそね)を悔いた。
 桜はところどころに遅咲きを残すものの、葉桜模様の加速をきわめている。花の季節は、明らかに晩春から初夏の花に変わりかけている。わが家周辺で見る光景には、シャクナゲやツツジの出番到来である。
 わが買い物でも変化が続いている。御飯に限れば、タケノコ、グリンピース、海産のアサリなどが、食材として春の香りを恵んだ。これらは、すでに何度か口内を賑わしている。満を持して、これらに加わったのがノブキである。ノブキは、わが夫婦共に好む春の山菜である。いや、山菜と言えるかどうかは疑わしく、今や栽培物らしい春野菜の一つと言えそうである。これまでのところノブキは混ぜ御飯には加わらず、きのうから醤油煮の御数の座に就いている。おととい買ったノブキには鹿児島産の表示がある。時季物のタケノコとノブキの売り場への出回りは、おのずから期間が短く制限されている。このため、これらのわが買い物には焦燥感をともなうところがある。タケノコはふるさと便で恩師平先生よりたまわり、すでに十分堪能できている。しかし、ノブキの出回りにより、この先一度だけは売り場から買うことになりそうである。
 おとといの(四月十六日・火曜日)の私は、ノブキを七束(一束・百八十円)買った。きのう、妻はそれを大鍋で醤油煮にした。この先、ノブキが売り場から消えるまで、こんな繰り返しになりそうである。なぜなら、馬の飼い葉(飼料)のごとく、私は三度の御数を食べるからである。例年のわが習わしでもある。この時の二人は、こんな会話をした。
「タケノコ、まだ売り場に並んでいるから、こんど買ってくるよ。タケノコ御飯の締めは、ノブキや山椒を混ぜた『木の芽御飯』だね」
「そうね。パパ、タケノコ買ってきてよ!」
 春の楽しさは、さまざまな食材に味を占める「花より団子」である。

愛惜「赤チン」 

 よくもわるくもむかし親しんで、世の名から消えてゆくものにはかぎりなく愛しさつのるものがある。それらの中でも富山の配置薬や、身近に頻繁に用いていた市販薬には格別の愛しさがある。もちろんそれは、薬の名と同時に、母の面影が懐かしくよみがえるからである。
 現在の私はこの配信記事を読んで童心に返り、「赤チン」を塗る母の姿をほのぼのと偲んでいる。このことでは、「ありがとう、『赤チン』」の思いを込めて、配信ニュースの引用を試みている。
 【消毒薬「赤チン」来年で生産終了 国内唯一のメーカー】(毎日新聞 最終更新 4月16日 21時43分)。傷口に塗ると赤色になることから「赤チン」の愛称で親しまれた消毒薬「マーキュロクロム液」の国内生産が2020年末で終わることが16日、分かった。日本で唯一のメーカーとみられる三栄製薬(東京)が生産をやめると明らかにした。昭和世代になじみ深い製品がまた姿を消す。赤チンはかつて家庭や学校の常備薬の定番だった。しかし、水銀が原因の水俣病が公害に認定され、生産過程で水銀を含んだ廃液が発生することから、1973年に原料の国内生産が終了した。三栄製薬などは海外から原料を輸入して生産を続けたが、71年に無色の消毒薬「マキロン」が登場し、売れ行きは落ち込む一方だった(共同)。
 父の姿を偲ぶ薬剤は、『救心』(救心製薬)である。幸いこちらは、いまだ現役バリバリで社会に貢献中である。そのため、愛惜には至らないけれど、心臓病を患っていた晩年の父の姿を偲ぶ薬剤である。

熊本地震「本震」から三年  

 「熊本地震」(平成二十八年・二〇一六年)から三年がめぐってきたことは、すでに二日前(四月十四日)に書いた。二日前の文章は、熊本地震における「前震」(夜の九時二十六分発生)にちなむものだった。熊本地震とは、前震に加えて「本震」(四月十六日未明、一時十五分発生)をいう。すなわち熊本地震には、前震と本震の二度が記録されている。地震の強度と被害の大きさは、二度目まさしく本震が見舞ったという。本震のあとには、千回にも及ぶほどの余震に見舞われ続けたという。
 すでに本震発生の時刻は過ぎて、現在の時間帯は三時近くにある。あらためて記せばきょう(四月十六日・火曜日)は、熊本地震の「本震」から三年になる。そして、熊本地震から三年のことを書くことは、おとといに次いで二度目である。それでもやはり記憶を新たにして、書かずにはおれない悲しい出来事であった。もちろん、わがふるさと県を見舞った地震ゆえである。
 最近のテレビニュースの一つには、熊本・阿蘇山の噴火(警戒)レベルの引き上げが伝えられていた。私にはギョッとするニュースだった。ところが幸い、これを追っかけたニュースは免れている。よくもわるくも世の中の出来事は、テレビや新聞を両翼にして、さまざまなメディア媒体から伝えられてくる。確かに、メディアニュース(情報)は、日本社会のみならず世界事情を知るためには、百科事典の役割さながらである。まさしく人類社会は、日々それらの恩恵にすがっている。もちろんそれらの多くは、無料では済まされず受信料や購読料として有料である。
 メディア情報には、おのずからそれを伝える媒体の違いがある。そして、テレビや新聞は、今やIT(情報技術)やSNS(ソーシャル ネットワーキング サービス)などの進化により、これまでの固い地位が脅かされている。最も卑近なところでわが身では、これらはパソコンと携帯電話の便利性に置き換えられつつある。電車に乗れば、座席の人達はスマホに指先を滑らすほぼ全風景がある。このことでは、先日驚いた実体験がある。
 私はおととい(四月十四日・日曜日)には、都下国分寺市内に住む二兄宅へ出向いた。帰りの車内は、午後の二時を回っていた。私はスマホ派ではなく、ガラケーと言われる携帯電話を固守続けている。もちろん、それで十分だからである。一方妻は、娘と孫とのやりとりを愉しむためにすでにスマホ派へ転じている。わが携帯電話にはCメールで、妻から時事刻々と阪神タイガースの試合状況が伝えられてきた。妻は茶の間でテレビ観戦中である。発信音がひびくたびに私は、携帯電話を覗いた。妻のCメールは、試合経過を短く伝えてきた。そのときである。私は、わが隣の座席の男性が凝視されている端末をチラッと見た。端末には野球の試合が映り、あたかもそれは阪神タイガース対中日ドラゴンズ戦だった。もちろん、男性がどちらのファンかは知るよしなかった。しかし私は、スマホではなく大きな端末機に鮮明に映っている試合に驚かされていた。
 確かに、携帯電話でも野球の経過や結果は知ることができる。ところが、わが携帯電話の使用目的は、文字どおり電話一辺倒に限っている。なぜなら、ケチ臭いけれどオプション使用には利用料がかさむからである。
 きのう(四月十五日・月曜日)の夜、七時台のNHKテレビニュースの中には、ある小学校における「デジタル教科書」の使用の光景が報じられた。総じて、先生と児童たちには好評だった。だけど、へそ曲がりの私はこう嘆息した。デジタル教科書時代になると子どもたちは、手書きの手紙や文章が書けなくなるぞ! パソコンで「ひぐらしの記」を書き続けてきた、わが実体験からの老婆心である。
 熊本地震から三年、この間にも日本社会は、様変わりに変遷を続けている。ところが、地震はもとより天変地異はいっこうに衰退なく、もちろん変わることなく襲い続けている。天変地異の教訓は警(いまし)めとはならず、絶えず私は、恐々としているばかりである。防げない、逆らえないものには無力感つのるばかりである。

 恐怖の記憶

 四月十四日(日曜日)、熊本県をふるさとする私には、忘れることのできない日がめぐってきた。きょうは「熊本地震」(平成二十八年・二〇一六年)から三年になる。実際のところは、「前震」(四月十四日夜、九時二十六分)と言われる日からのめぐりである。熊本地震は震度と被害の大きさで、二度目が「本震」(四月十六日未明、一時十五分)と記録されている。どちらにしても気を揉んで、ふるさと電話などで安否をたずねてジタバタした記憶がよみがえる。もちろん被災地や被災者は、日常生活の復旧いまだにならずのままである。こののちも日本列島は、「北海道地震」などいたるところで、大小の地震に見舞われ続けた。ふるさと地震にかぎらずそのたびに、恐怖と傷心をきわめてきた。そののちも日を替えて、テレビ画面にはどこどこに「地震発生」という、テロップ(告知)が流れ続けている。そのたびに恐怖に晒されては、低震度と被害無しの情報に、ホッと胸をなでおろすばかりである。
 海上に浮かぶ島国・日本列島の宿命とはいえ、なんでこんなにも地震が多いのだろうかと、嘆息するばかりである。こう書いているときでさえ、私は地震発生の恐怖に慄いている。地震はもとより天変地異(天災)がなければ日本列島は、まさしく風光明媚の桃源郷である。ところが、実際には寸刻も天変地異のもたらす恐怖から逃れることはできない。残念至極である。天変地異は、もとより時と所を選ばずである。なのに、熊本地震の教訓は活かされず、私は恐怖の記憶に怯えるばかりである。耐震の財源叶わぬわが甲斐性無しはつくづく無念である。

感涙と感動を呼ぶ『おしん』と『なつぞら』 

 わがファンとする阪神タイガースは、早々と敗色濃厚な試合ばかりを続けている。そのため、歯がゆい気分横溢である。しかし、一点だけこれに救われるところがある。それは、早々にテレビ観戦に見切りをつけることができることである。このところは歯がゆい試合が続き、一方では就寝時間が遅くなることを免れている。私は、負けが濃厚の試合はその時点でテレビ観戦を打ち止めにする。負け試合を最後まで観るのは気分が悪いことに加えて、就寝時間が遅くなるからである。このことはすでに何度も書いたけれど、就寝時間が遅くなれば日を替えての「ひぐらしの記」の執筆時間に、たちまち影響をこうむるからである。
 もともと私には、タイガース戦以外に夜のテレビ視聴の習慣や定番はない。かつては、NHK夜七時台のニュースだけは欠かさず観ることにしていた。ところが、これとてだんだん観なくなりつつある。その理由の一つは、それまでパソコンなどであらましニュースの内容を知っているからである。もう一つの理由は、明けても暮れても政治腐敗と元日産会長カルロス・ゴーン氏にかかわるニュースの多さに、辟易しているためである。言うなれば、あえて観るに値しないと思えているからである。
 安倍総理が拉致家族にたいし言明された「北朝鮮、こんどはわたしが行きます」の実践行動は、いっこうに霧の中である。わが政治不信つのる、最大の証しである。人ごととは思えず「早く、早く」と言いたくなるのは、拉致家族の人達には明確に加齢にともなう制限時間があるからである。
 昼間のテレビ番組には、まったく観る定番はない。しかし、朝の番組には待ち遠しく観るものがある。所要時間は三十分である。具体的にはNHKBSテレビ3チャンネルで報じられる、テレビ小説『おしん』と『なつぞら』である。時間は、七時十五分から七時四十五分までである。確かに、これらだけにはきっちりと身構えて観ている。共に、感動を呼ぶからである。
 わが夫婦が観るチャンネルは、NHK地上波およびBS一辺倒である。その中でわが定番と言えるものは、ほぼ先の二つにかぎられる。ところが妻は、テレビを生き甲斐とするほどに長時間の視聴である。もちろん、それを非難するわけではないけれど、しかしそれに付き合っていると、わが日常生活はテレビ漬けとなる。それを恐れて私は、二階へ上がりパソコンの前に座る。つまり私は、パソコン漬けとなり、妻と似たり寄ったりである。
 NHKテレビ夜の大河ドラマ『いだてん』は、ふるさと情景や言葉あふれていても、一度きりで観ないままである。このことはふるさと志向の強い私にあっては、自分自身きわめて不思議に思えているところである。結局、わがテレビ視聴の源泉は、切ない感涙と感動と言えそうである。それは、朝の三十分で十分に叶えられている。
 四月十二日(金曜日)、わが楽しみの時間が訪れている。投稿ボタンを押して、急いで茶の間のテレビの前に座る時間である。

 春、異変

 四月十一日(木曜日)の夜明けにあって、いまなおわが気分は萎えている。きのう(四月十日・水曜日)の関東地方は、この時季の季節用語のそろい踏みに見舞われた。花曇りなどそっちのけにして、寒の戻り、花冷え、花に嵐、いや小型台風並みの雨嵐、さらにテレビ画面には各地の雪降り光景が盛んに映し出された。驚いたことには北関東にとどまらず、東京都・青梅地方にあっても盛んに雪が降っていた。鎌倉地方は、雪は免れたけれど一日じゅう冷たい雨嵐に見舞われた。もちろん、気温は凍えるほどに低く、このため玄関口を一歩さえ出ることなく、わが夫婦は茶の間暮らしを強いられた。実際には身を縮めて、エアコンのフル稼働にすがっていたのである。気象予報士は、きのうの寒さを真冬並みと表現していた。しかしわが体感では、この表現は嘘っぱちに思えるほどの低気温だった。まさしく、散りかけの桜とわが心身に、一撃を見舞った異変だった。
 夜明けの空は、台風一過並みに青天井の日本晴れにある。しかし、いまだに寒気を留めたまである。不意打ちを食らった私は、身なりを冬防寒重装備に戻している。ところが、それでも寒気を防げず、わが身体は小刻みに震えている。輪をかけて気分は萎えている。そのため、この先を書く気分は殺がれて、これでおしまいである。寒さに震えてまで、こんな実の無い文章を書くくらいなら、寝床の冬布団にもぐっていたほうがましだった。嘆き足りない、あとの祭りである。

書き殴りの功罪 

 もう夜明け、まもないところにある。時計の針は、すでに五時を回っている。もちろん慌てふためいている。起き出して来て、パソコンを起ち上げた。すると、こんな思いが浮かんでいる。柄にもなく、日本社会のこの先のことである。私は、外国人を厭がっているわけではない。だがしかし、危惧するところは多分にある。現下の日本社会は、日本人人口が減り続けて、一方で外国人の居住が増え続けている。この傾向は、この先ますます加速をきわめるであろう。なぜなら、働き手不足という背に腹は代えられず、余儀なく日本政府が外国人受け入れの音頭を取っているからである。するとこの先の日本社会は、どうなるのであろう? 自分自身にたいするわが問いである。しかしながら、その答えは書けずじまいである。半面、わが余生をかんがみれば、もはやわが知ったこっちゃない、懸念とも言えそうである。いや自分が危惧して、どうする、どうなる? 愚の骨頂の極みと言えそうである。一方で、なんら脈絡なく、きのう(四月九日・火曜日)の「タケノコ御飯」は美味しかったなーという、思いを浮かべている。
 「ひぐらしの記」を書くにあっては、常に私はパソコンを起ち上げると指先に任せて、キーを叩いている。おのずから文章は、書き殴りと走り書きに甘んじている。もちろん私は、確かなテーマを浮かべて、用意周到に準備し、なお身構えて書き、そして推敲を重ねることを願っている。しかしながら一方、こんな準備万端な構えでは、わが目標とする継続にはありつけない。もちろん、わが無能力のせいである。すなわち、書き殴りや走り書きだからこそ、継続が叶っている。隠すことなく正直に楽屋裏を言えば、継続は書き殴りの確かな功である。もちろん、文章の不出来をかんがみれば、多くの罪作りになっている。だから、この実の無い文章の表題には、「書き殴りの功罪」と、決め込んでいるところである。
 文章は用意周到な準備と、推敲を重ねるものであることは十分知りすぎている。もちろんこの実践こそ、わが不断の願望である。しかしながらこれには、能力の有無がつきまとう。実際のところ、能力無い私がこれを望んだら何も書けない。もちろん、継続願望などまったく果たせない。このことでは書き殴りや走り書きの恩恵、すなわちその功にさずかっている。かねての私は、一度このことを吐露しようと思っていた。半面、馬鹿丸出しのわが弁明でもある。
 夜が明けてみると、雨降りである。わが焦る気持ちは、朝日の出ない暗い夜明けに救われていたのである。もちろん文章は、書き殴りに救われたのである。私は、身構えて書いても埒(らち)明かずを知りすぎている。しかし書き殴りの功で、継続にはあずかっている。

竹山、たけのこ、そしてご好意賛歌 

 竹の根っこが、なんでこんなに美味しいのだろう。今さらながらのわが実感である。プロ野球の公式戦さながら言えば、今シーズンのふるさと便第二号は、思い及ばなかったふるさと産タケノコだった。ふるさと産と言うには失礼至極である。実際には、恩師・お義母様の御志を意に留めてくださっての洋子様の手掘りである。
 わが生家には、栗山と杉山はあったけれど竹山はなかった。それでも竹山は、郷愁と童心返りに心潤むことではイの一番である。具体的なことでは森閑とした孟宗林に、足元の小石を拾っては投げ続けたおりの楽しさがよみがえる。必ずどの竹にかは当り、「カーン」、と澄み切った音が弾けた。ときには、「カーン、カン、カン」と三重奏を奏でた。竹山持ちには、かなり腹の立ついたずらだったであろう。しかし、それに腹を立てる人はいようもない、人気(ひとけ)のない竹山遊びだった。あるときは孟宗林に入り、竹の皮拾いに熱中した。これまた竹の皮は、森閑とした竹山に「ガサ、ガサ」と、音を鳴らした。ときには心地良さに促されて、スペスペする肌触りの太い幹を手で撫でた。
 竹山の極めつきは、他所(よそ)からもらっていたタケノコである。母の手に掛かるタケノコのレシピ(料理法)は、三通りが定番だった。おのずから、母の順番があった。最初は花かつを(削り節)をまぶした醤油煮だった。次には、タケノコ御飯だった。そして最後は、野蕗や山椒を和えた混ぜ御飯(木の芽寿司)だった。どれもが甲乙つけがたく、美味しさに外れのないものだった。
 再び記すと、硬くて武骨な竹の根っこがなぜ? あんなに美味しいのであろうか。この世で、恐るおそる最初に食べた人に尊敬つのるばかりである。生家に竹山はなかったけれど、タケノコ掘りがどんなに骨の折れることは知りすぎている。親戚に竹山持ちはたくさんあった。そのため、ときにはタケノコ掘りの現場に遭遇した。枯れた笹を手で払い、食べ頃の根を探し、いざ掘ろうとすると、往生(おうじょう)をきわめた。なぜなら、茶筅(ちゃせん)や刷毛(はけ)みたいに無数に固まった根っこの筋は強く抵抗し、ちょっとやそっとでは引き抜けない。それもそのはずである。強靭な根こそが竹のいのちであり、他を圧する特徴でもある。その証しに父は、地震の時など生家裏の貧弱な竹山に逃げることを命じていた。裏の竹山は、河川敷に川流れで出来た竹藪にすぎなかった。それでも父は、竹の強靭さにすがっていたのである。
 わがふるさとは、孟宗竹のみならず竹の名産地である。おのずから、さまざまなタケノコも名産地である。シイタケ、干しタケノコ、そして茶は、わが誇りとするふるさとの産物である。わがいつもの買物の店「大船市場」(鎌倉市)には、今を盛りに産地が競い合ってタケノコが並んでいる。幸運にも、値段も人気も他県物を凌いで熊本産、おそらくふるさと産が一頭地抜いている。私は、うれしさかみ殺して通り過ぎている。
 今朝のわが家は、ふるさとの味、おふくろの味を引き継いだ第二弾、妻の「タケノコ御飯」である。もちろん僥倖にありついているのは、思い及ばずたまわった「ふるさと便」のおかげである。花より団子、タケノコ御飯に舌鼓をうちそうである。間違いなく、恩師と洋子様のご好意に心身がしびれるであろう。
 夜明けて、ウグイスが高鳴きしている。いまだ桜日和、タケノコ御飯にヨダレが垂れるであろう。

身もそぞろの桜見物 

 きのう(四月六日・土曜日)の日本列島は、ところによっては真夏日(気温二十五度以上)の暑い日に見舞われた。鎌倉地方も、桜日和には少し度を超す陽射しに見舞われた。それでも、のどかな春日和である。桜も散り急ぎ始めていて、桜見物をするには焦りをおぼえていた。妻は、娘と孫に誘われて「東京スカイツリー」のバスツアーへ出かけていた。私は、話し相手不在の茶の間暮らしを強いられた。娘の呼び出しを受けて、妻不在はしょっちゅうである。そのため、ひりとり茶の間暮らしは、今や恨みっこなしの慣れっこである。一日じゅう、茶の間暮らしであっても退屈することもない。しかし、きのうの私は、好天気に誘われて単独行の桜見物を敢行した。行き先は、久しぶりに「鶴岡八幡宮」(鎌倉市街)である。買い物用の大きなリュックを背負って、亀にも負けそうなトボトボチンタラ歩きである。
 帰りはJR鎌倉駅からJR横須賀線の上り電車に乗り、二つ目のJR大船駅(鎌倉市)で下車する。大船はわが普段の買い物の街である。言うなれば桜見物は、買い物行を兼ねた心づもりでのお出ましである。まったくスピードの出ない歩行にもかかわらず、歩いていると顔面や首周りにはすぐに汗が噴き出した。このため、余儀なく片手にハンカチを握りしめての歩行である。行き交う人も汗を拭いている。はたまた、物見遊山の人の足取りは、わが鈍足とおっつかつである。私は前を歩く若い男女の背中や足元を眺めながら歩こうと決意し、実際には二人の足取りを目標としたのである。旅は道連れであり、独りで歩くより楽しく、そのため疲れにくいことを経験的に知っていた。
 ところが、二人の足取りを目標にしたことが徒(あだ)となり、わが老いの身を痛感する羽目になったのである。とりわけ急ぎ足とも思えない前を歩く二人の足は、だんだんと私を後方へ置いてきぼりにしたのである。私はいっそう汗を垂れ流し、目標とする二人の足元を気持ちの上では必死に追っかけた。しかしわが足は、わが意気込みにまったく応えてくれなかった。私は(年を取ってしまったなあー…)と、嘆息せざるを得なかった。先日は、電車の中で席を譲られてしまった。老いとの闘いは、いよいよ正念場(しょうねんば)を迎えている。とんだ桜見物のとばっちりだった。鶴岡八幡宮の桜は、散りかけていた。身も漫(そぞ)ろの桜見物だった。

 わがダイエット志向は常に「空夢」

 生来、三日坊主と意志薄弱が抱き合わせの私の場合、ダイエットの決意はそのたびに未達となり、後味の悪さをこうむっている。それでもこれまで何度も決意し、なさけなくも未達を繰り返してきた。わがダイエット決意の理由は、若い女性のように姿かたちの見目をよくするためではない。イの一番の理由は、太ると明確に体が重たく、歩行が鈍くなり、外出が億劫になるからである。次にはやはり、高血圧予備軍としての医師の警告に怯えているからである。こんなにはっきりした理由があるにもかかわらず、まったく達成できないのはそのたびに痛恨の極みである。幸い高血圧症状はなく、降圧剤の服用は免れている。ところが、主治医は体重を減らすこと、散歩や軽い運動をすることなど、通院のたびに「オウム」さながらに告げる。もちろん主治医には、いじめや悪意の意思があるはずもない。いや、わが長生き支援のアドバイスであり、はたまた好意の事前警告である。バカな私とて、このことは十分に知りすぎている。薬剤の処方箋と合わせてこの主治医の警告は、確かに長生きの秘訣における最良の処方箋だとも自覚している。
 降圧剤の服用は無縁だけれど、このところの一か月は、抗悪玉コレステロールの薬剤の服用を強いられている。バカじゃなかろか? 長生きは望まないと言いながら一方、長生きのための薬剤を服用することには、私自身腑に落ちない気分にさいなまれている。しかしながら人生には、このような相矛盾することはざらにあるのであろう。おそらく、その矛盾をきっぱり断つことができる人だけが、聖人君主や名君の称号にありつけるのであろう。私にはまったく縁無いことである。
 温州ミカンが売り場から途絶えてからすでに久しいけれど、一方で後続の柑橘類が次々に売り場に並んでくる。柑橘類生産者の知恵と努力そして汗のたまわりものである。そのため私は、義理を果たすかのようにも、それに報いるかのごとくにも、引き続きさまざまな柑橘類を鱈腹食べ続けている。柑橘類が大好物の私は、まさに有卦(うけ)に入り続けているのである。わが柑橘類嗜好は辛党の晩酌をはるかに超えて、夕どき一遍ではなく手当たりしだいである。一方、ビールをはじめアルコール類は、もう何年も口にしていないように思えている。もちろんこれには、いくらかの錯覚があろう。
 かつては、わがファンとする阪神タイガースが宿敵読売ジャイアンツに勝利したおりだけ、小さい缶ビールを妻と分け合って飲んでいた。ところが、この勝利の美酒もここ何年か沙汰止みになっている。軌を一にして、わが家の買い置きに缶ビールは一切ない。昨年のタイガースは、ジャイアンツ戦はもとより最下位に甘んじた。そして、今シーズン出だしのジャイアンツ戦三連戦は、一度さえ勝てずに終わった。
 かてて加えて不断の私は、ビールはもとよりアルコール嗜好はまったくない。現役時代の付き合い酒や宴会、そして同僚や友人とのたまの縄のれんのくぐりは、今や懐かしい遠い昔語りである。それでも桜の下で、ビールグラスを片手に和気藹々の光景を目にすると、羨ましさつのるものがある。あからさまには、一口だけでも泡を含みたくなる。しかし、買い置きのビール缶はなく、わが家近くにはコンビニもアルコール類の自販機もない。仕方なく柑橘類と駄菓子に手が伸び、口が「おいで、おいで」するのである。わがダイエット志向は、常に空夢(からゆめ)である。
 寝起きがしらの書き殴りを恥じて、かたじけない思いで、ダジャレ文を結文とする。四月六日(土曜日)、妻は、娘と孫の誘いで「東京スカイツリー」のバスツアーに間に合うように、駆け足でわが門口を後にした。夜明けの空はのどかな桜日和である。

「桜、さくら、サクラ」 

 日本社会にあって、おおむね三月は別れの月、四月は出会いの月と言われている。もちろん、どちらにも別れと出会いが入り組んでいる。別れを儀式として営むものの筆頭には、学び舎における卒業式がある。これに次ぐものでは、実業社会における人事異動のおりなす別れがある。しかしこちらは、多くは儀式を営む光景とは無縁である。いやどちらかと言えば、人知れずひっそり閑とした別れになる。これらに付随する別れは、友人、同僚、知人、はたまた、家族、親類、ごとにさまざまにある。別れは、人間の営みの中で最もつらいことである。だから、さまざまな人情や心情を交わし合い、いっそう惜別や愛惜をつのらせる光景は、この先なくなることはない。確かに、悲しい別れの光景とは言え、万物の霊長と崇められる人間の誇らしい特権の一つと言えそうである。
 一方、四月は逆に出会いの月本番である。そしてこちらは、さまざまなところで全天候型に明るい出会いの光景に遭遇する。学び舎は華やかな入学式に彩られる。さらには実業社会にあってもこんどは、大っぴらに入社式や入所式が行われる。それに集う新入社員や新入所者は、若さがみなぎり希望にあふれている。まさしく、人間の醸す絵になる光景である。こちらにもまた、付随するさまざまなグループの歓迎光景が展開される。これまた、人間として生まれた誇りと喜びが充満するところとなる。
 これら悲喜交々の人間の営みに、かぎりなく興趣を添えるのはこの時期の季節の恩恵である。具体的には寒気遠のき水温む春、野山と田園を色成す、自然界の恩恵である。百花繚乱、なかでも桜の花がなければ、別れと出会いにつきまとう哀歓は、よくもわるくも通り一遍のものとなろう。
 世は、IT(除法技術)とAI(人工知能)の万能の時代に向かいつつある。ところが、哀歓すなわち人間の情愛におけるこの時期の自然界の恩恵(貢献度)は、もちろんこの先も人間の知恵の及ぶところでは決してないだろう。「桜、さくら、サクラ」と、いくら愛でても、愛ですぎることはない。花びらが散ればこんどは葉桜が、さわやかに薫る五月(初夏)の風の先導役をになってくれる。
 四月五日(金曜日)、夜明けの空はのどかな桜日和である。新入社員と新入所者は、あすからの週末休日には桜見物で、緊張尽くだった心身を解してほしいと、かつての先輩サラリーマンの願うところである。

 わが下種の勘繰り

 四月四日(木曜日)、夜明け前を迎えている。季節用語の花冷えを浮かべて、肌寒さに震えている。このところ桜は、チラホラと散り始めている。人生を重ねて、心寂しいシーン(光景)である。人は勝手に、桜は散り際が美しいと言う。一年回りにようやく咲いた桜にすれば、ムカついて腹の立つ言葉であろう。なぜなら、桜とてわが世の春はともかく細々であっても、もっと長く生存(咲き)を続けたいはずである。とかく、人間は身勝手である。
 改元話題は、ようやく落ち着き始めている。インターネット上には、外務省の海外向けてとして、こんな記事があった。外務省は、平成に代わる新元号「令和」について外国政府に英語で説明する際、「Beautiful Harmony=美しい調和」という趣旨だと伝えるよう在外公館に指示した。今月1日の新元号発表後、「令」を「order=命令、秩序など」と訳す外国メディアがあったのを受けた措置で、外国メディアにも個別に説明している(毎日新聞)。
 もちろん、これには「ああ、そうか」と、思うだけである。しかし、私の場合、このたびの改元にかかわり二つの教訓を学んだ。もちろん、箸にも棒にも掛からないわが下種の勘繰りだけれど、臆せず記してみる。一つは、改元には政府(政治、政治家)をからめず、純粋無垢に粛々と有識者で決めたらどうであろうか? いやそうすべきであろう。この理由はたった一つ、政府先導の改元には胡散臭さがつきまとうからである。もちろん今回、あからさまにそう感じたゆえの教訓である。
 もう一つはこうである。やはり改元の公表は、新天皇陛下の即位と同時にすべきではないかと思う、これまたわが下種の勘繰りである。その理由もたった一つ、現在の天皇陛下がにわかに置き去りにされたように思えているのである。
 きょうはわが感じたくだらないことを吐露し、ケチな文章を閉じる。もちろん、花冷えの肌寒さのせいではなく、当てずっぽうに書いたわが身勝手を恥じて慎むせいである。

御免こうむりたい「令和狂騒曲」 

 新年号「令和」は、おおむね日本国民に好印象与えている。このため、わずか一日、二日で、日本社会に馴染んだ感さえある。改元すなわちこんな話題には、とかく難癖をつけたがる人がいる。ところが、非難めいた言葉は影を潜めて波静かである。実際にもさわやかな話題として、日本国民の各層に歓迎されているようである。令和の出典が「万葉集」とあって、案の定、これにかかわる本が大売れだという。これとてご愛嬌で、もちろん非難するにはあたらない。一方ではご多分にもれず、眉を顰(ひそ)めたくなることがあちらこちらで始まっている。それは商魂猛々(しょうこんたけだけ)しい、令和の早取り合戦の様相である。おそらく、この先にはまるで「雨後の筍(たけのこ)」さながらに、いろんなものに令和がくっついてくるであろう。
 へそ曲がりの私の場合、このことは歓迎より胡散臭いばかりである。かてて加えて、わが最も懸念するところは、政治家の自己保身や党利党略への令和の援用である。時あたかも選挙の季節である。誇らしげに「令和、令和」とがなり立てられては、虫唾(むしず)が走りそうである。本来、商魂とは無縁のはずの学び舎とて、われさきに新規あるいは改名までして、校名に令和を狙っているところもあろう。
 現在の私は、「令和狂騒曲」は、ほどほどであってほしいと、願うばかりである。日本社会(日本国民)は、令和にあずかり花の季節を寿(ことほ)ぐくらいで十分である。新元号「令和」の意味・理由は? 「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ。
 梅の花のように、日本人が明日への希望を咲かせる国でありますように」(インターネット、Yahoo検索より抜粋)。桜の季節に合わせて、「鎌倉まつり」(四月八日より)が予定されている。毎年恒例の祭りだけれど、今年は令和にあやかり、いっそう賑やかになりそうである。これくらいの騒ぎで、ちょうどよさそうである。

 改元「令和」

 月替わり初日、きのう(平成三十一日(二〇一九年)四月一日・月曜日)のテレビ各局は、ほぼ一日じゅう新年号(改元)にかかわる報道に明け暮れた。いくらか食傷するところはあったけれど、明るい話題だけに良しとしなければならない。そのうえ、日本史が刻まれる過程をつぶさに見られたことは、学習の上でも貴重な一日と言えるものだった。
 確かに、新年号「令和」の誕生は、わが生誕の年号「昭和」をはるかな時代へと遠ざける。しかし、時代はあとずさりできず、未来へ向かって進むものであれば、過去(昭和)への感傷は捨てなければならない。時代の変遷を画するには、西暦一辺倒でいいと主張する人たちは大勢いる。身近なところで、「ひぐらしの記」を物する私に、西暦および年号の並記には、確かに面倒くさいところがある。一方で、年号表記を無くすと、味気ない思いにとらわれる。実際の思いは、単に西暦という数字の移り変わりの中で、生存してゆく味気なさである。
 改元を前にしてテレビ各社は、現在の平成天皇陛下および皇后陛下の生い立ちから、これまでの歩みを盛んに報じた。これらの中では、昭和三十四年(一九五九年)四月十日のご成婚にともなう馬車行列のことが格別華やかに報じられた。映像にはわが思いが重なった。私はこの年の三月に高校を卒業し、ふるさとを巣立ち上京したのである。上京したての私は、華やぐ東京・三宅坂あたりで、押すな押すなと群がる馬車行列の見物人の中にまみれた。馬車上のお目当ては美智子さま(ミッチー)である。そして、綺麗な美智子さまのお姿を垣間見た感動は、わが東京記憶のイの一番にある。この記憶も、「昭和三十四年」と表記しなければ、なんだか味気ない。
 日本人であるかぎり、やはり年号は必要であろう。その証しはきのうのテレビ各社の報道のみならず、新年号の公表を待ち侘びる、日本列島各地の人々(国民)の様子からも十分に知ることができた。まずは、めでたく新年号「令和」の誕生である。平成時代は、残りのひと月を切った。令和の時代を前にして、しばしわが年齢を忘却し、日本社会の明るい前途を夢見たいものである。時あたかも日本の国は、桜はもとより百花繚乱の季節にある。
 万葉集<初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す>。しばし、自然界が恵む風物に酔いしれてみたいものである。なさけなくは、古人(いにしえびと)の詩心を真似ることはできない。

歴史を刻む月替わり 

 夜明けの大空は見渡すかぎりに明るく朝日が射して、のどかな花日和である。こんな夜明けの空には、ほとんどめぐり合えないままに春三月が過ぎてきた。ようやく「春眠暁を覚えず」の成句にありついて、すでに夜明けたなかに起き出してきた。きょうは三月から四月への月替わり初日である。この日にあって私は、日本の国のこの先の歴史にかかわる文章を書き始めている。もちろん、わが生涯にあって、二度とは書けない文章である。
 きょう、平成三十一年(二〇一九年)四月一日は、日本史に残る華々しい日を迎えている。現在は政府からの公表待ちでいまだ不明だけれど、午前十一時半頃には新年号が明らかになる。今さら言わずもがなのことだけれど、新年号とは「平成」に変わる「〇〇?」である。新年号の制定すなわち改元は、今上・平成天皇陛下の退位(四月三十日)と、翌日(五月一日)の現在の皇太子殿下の新天皇陛下への即位によるものである。かねがね日本政府は、新元号の公表は新天皇陛下の即位にひと月先駆けると、公表していたのである。実際の即位日とはいくらか違和感があるけれど、それでも日本社会は、新年号の発表を境にして華々しく沸き立つであろう。かてて加えてきょうは、区切りよく月曜日からの始まりでもある。こんな区切りの良い月替わり、年度替わりは、滅多にないであろう。さらに出会いの月・四月は、きょうを皮切りに真っ盛りとなる。企業と役所の入社式や入所式にあっては、だれもが新年号を誇らしくちりばめて、新入の若者を迎えることであろう。一方、学び舎には日を替え、所を替えて、入学式が挙行されてくる。学長や校長あるいは来賓の祝辞には、これまた異口同音に新年号が織り込まれるであろう。確かにきょうは、日本社会の華々しい門出である。まさしく日本社会は、わがありつけない未来に向かって、時々刻々と様変わっている。
 様変わる日本社会にあって、きょうの朝日新聞一面の記事を一部抜粋し引用すれば、これまたよくもわるくも新しい時代の到来である。
 「新制度スタート」:「新たな在留資格『特定技能』を創設し、外国人労働者の受け入れを拡大する新制度が1日に始まる。政府は、技能実習生からの資格変更を含めて今後5年間で最大約34万5千人を見込む。労働政策の転換点だが、4月の制度導入ありきで進められたため、現場の準備が整わないなかでの『見切り発車』となる。」
 介護予備軍としてひかえている私には、まったく無縁とも言い切れない見切り発車なのかもしれない。華々しく様変わる日本社会にあって、のほほんとしておれない出来事になりそうである。現在の私は、「ひぐらしの記」の恩恵にさずかり、日本史の一端に触れる文章を書き終えて、新年号の公表を待つところである。そして、人並みに「〇〇?」を埋める新年号を心中に浮かべている。浮かんでいるそれを書いてもいいけれど、書けばアホ丸出しである。だから、日本社会の有識者の知恵を待つのみである。追記:午前十一時四十一分、「〇〇?」は「令和」と公表されました。

切ない事件 

 三月三十一日(日曜日)、雨模様の夜明けを迎えている。きのう(三月三十日・土曜日)も朝日の見えない肌寒い夜明けだった。二日続けて、春らしくない夜明けとなりそうである。花冷え、花曇り、寒の戻り、そして花に嵐の季節用語を浮かべれば、驚くにはあたらない。しかしながら、せっかくの桜の季節にあって、癪に障るところはある。もちろん、寝起きのわが気分は萎えている。
 あすの月替かわり初日(四月一日・月曜日)の午前十一時あたりには、日本政府によって新年号が公表されるという。そののち、日本国民の話題にそれに集中し、日本社会は騒々しくまた華やかに一変しそうである。すると、きょうはほぼひと月早いとはいえ、実質的には平成最後の通常日になりそうである。確かに、あすの新年号への変わりは、文字どおり新時代の到来ゆえに素直に喜びたいところである。そのため、できれば麗らかな桜日和の訪れを願っている。
 きのうの私は、このところ続いている二兄宅(東京都国分寺市内)へ出向いた。上り電車に乗ったのは、「JR湘南新宿ライン・宇都宮(栃木県)行き」だった。わが家の最寄り駅・JR大船駅(鎌倉市)の発車時刻は、午前九時四十二分だった。土曜休日にもかかわらず車内は、老若男女(ろうにゃくなんにょ)の姿で結構込んでいた。いくらか当てが外れて、私は着席されている座席を前に吊り革を手にした。もちろん私は、座席を物ほしそうではなく立つのを覚悟して、背筋を伸ばし悠然と吊り革を手にしていた。いや、手にしていたつもりだった。ところが、少し間を置いて、背後から肩を静かにコツコツと叩かれた。難聴の耳には音は聞こえなかったけれど、体感は明らかに呼び出し音だった。私は背後を振り返った。すると、私のために立ち上がられたばかりの若い女性が空いた座席に、(どうぞ)の合図をされた。私は不意を打たれて合図に戸惑い、一瞬ためらった。しかし、タイミングを考慮し、「ありがとうございます。大丈夫ですから、座っていてください」と、難聴の者特有の大きな声で、言葉にした。しかし、車内の瞬間の出来事ゆえに、言葉と行動の判断には難しいところがある。私は、「ありがとうございます。ご迷惑をおかけしましたね」と言って、空かされた席に腰を下ろした。一瞬、ためらったとはいえ本当にありがたく、心中は感謝の気持ちでいっぱいだった。席を譲ってくださった若い女性は、お母さんと思える人と並んで座られていた。もちろん私は、お母さんにも同様の言葉をかけた。娘さんは、次の戸塚駅で降りられた。近くに明治学院大学があることから、私はそこの学生さんかな? と、思った。お母さんは、東戸塚駅、保土ヶ谷駅を挟んで、横浜駅で席を立たれた。降りられるのを目にすると、娘さんのおりもお母さんのときにも私は、「ありがとうございました」と、丁寧にお礼の言葉をかけて頭を下げた。二人は共にほほ笑んで、車内から姿を消された。
 このとき以降、わが心中にはこんな思いが渦巻いたのである。自分自身、内心ではそんなに年取ったとは思っていないところもある。ところがこのとき、外見は明らかに老人に成り下がっていることを知らされたのである。こうしてこの先は、いやおうなく年を取る寂しさがいや増していくのであろう。きのうの車内のこの出来事は、まぎれもなくわが気持ちに大きな変容をもたらしたのである。もはや、まだ若いと粋がってはおれない事件だった。
 人様のご好意を事件と呼ぶのは無粋(ぶすい)この上ないけれど、わが心中にそう思えていたのである。いよいよ、電車やバスに乗ること自体、人様へ迷惑をかけるようになったのか。確かに、平成最後にかけてのわが心身にとりついた切ない事件だった。
 夜明けの空は、のどかな桜日和に変わり始めている。桜見物も人様に迷惑をかけるようになったら、おしましである。

煩悩にさいなまれて 

 きのうのプロ野球開幕日(三月二十九日・金曜日)にあって、早速就寝時間に変化が起きた。それは開幕を待ちわびていた半面、強く懸念したことである。開幕日のテレビ観戦は、わがファンとする阪神タイガース対東京ヤクルトスワローズ戦(大阪・京セラドーム)だった。ところがこの試合は、九回では決着がつかずに十一回まで延びたのである。試合は、十一回の裏のタイガースのサヨナラ勝ちで終えた。確かに、タイガースの勝利ゲームゆえに気分は悪くなかった。しかし、テレビ観戦の時間が延びたため、就寝時間にもろに影響を受けた。急いで床に就いて、すぐに眠りに落ちた。二時間ほど眠り、日を替えた真夜中(一時近く)に目覚めた。ところが二度目の眠りに就けず、そののちは再び眠ることに苦闘を強いられた。再び寝付けない苦闘は、二時間ほど続いた。もはや、苦闘をはねのけるには起き出すよりしようがない。
 起き出すと、パソコンに向かうしか能がない。気乗りしない時間がいたずらに過ぎてゆく。一覧したメディアの配信ニュースには、とりたてて記し置くものはない。そうであれば、自作文に頼らなければならない。時計の針は、刻々と回っている。それでも幸か不幸か、文章を書くには有り余るほどの時間がある。しかしこんどは、書けない苦闘にさいなまれている。なさけない文章を書いてしまった。
 こんな現象は、この先も繰り返されるだろう。だから、次善の策を浮かべている。その一つは、テレビ観戦の途中打ち切りである。ところが、二度寝できない原因は、遅い時間までのテレビ観戦のせいばかりでもなさそうである。確かに、原因の多くは、生存にかかわる種々雑多だから厄介である。せっかくの桜の花の季節にあって、わが身に取り巻く煩悩(ぼんのう)のことを書いてしまった。こんどは、投稿ボタンを押すかどうかをためらっている。こんなことでは、この先が思いやれるところである。

プロ野球開幕日 

 三月二十九日(金曜日)、寝坊してしまって起き出してきたのは六時近くである。もちろん、慌てふためいてパソコンに向かっている。ところが、幸か不幸かはやる気持ちにブレーキがかかっている。ブレーキをかけているのは、夜明けの空模様である。具体的には、朝日の見えないどんよりとした曇り空のおかげである。本当であれば、朝日が輝くのどかな朝ぼらけにありつきたいところである。しかし、今だけはこんな望みは捨てて、どんよりとした曇り空に救われている。どうしてこんな時間まで寝坊してしまったのか。やはり、「春眠暁を覚えず」の候にあって、春の眠りを貪(むさぼ)っていたのである。しかしながら、こんな気分も今朝で打ち止めをこうむることになる。なぜなら、きょうからはいやおうなくわが日常生活に変化が強いられることとなる。具体的には睡眠時間の不足を嘆く日が多くなる。きょうは、プロ野球の今シーズンの公式戦の開幕日である。おのずからわが日常生活に、テレビ観戦の時間が織り込まれてくる。
 春の季節にあって良いことでは、待ちわびていたシーズンの到来である。しかし、良いことばかりではない。それは毎年経験してきたことだけれど、テレビ観戦による睡眠不足に見舞われることである。これに輪をかけて苦難を強いられるのは、「ひぐらしの記」の執筆時間への圧迫と、それによる文章の不出来である。これまた具体的には、眠気まなこまなこと朦朧頭による、余儀ない殴り書きや走り書きである。毎年体験済みだけに、現在の私は、早くもそれに怯えている。
 ようやくいくらか空が明るんできた。しかし、朝日はいまだに見えない。桜見物の賞味はまもなく切れて、花吹雪までの期限もそう長くはない。朝日が射してくれば桜見物日和になる。そうなればはやる気持ちをたずさえて、あてどなく桜木の下へ行きたいところである。重い腰が上がるかどうか、朝日の昇りぐあいになりそうである。よくもわるくも私にとって、プロ野球の開幕日は確かな春の訪れである。

 花に嵐

 三月二十八日(木曜日)、周辺の桜はいまだ満開には至らず七部咲き程度である。きのう(三月二十七日)、私は水曜日定例の卓球クラブ練習のために出かけた。わが家と卓球クラブの存在する「今泉さわやかセンター」(鎌倉市)の間は、歩いて片道十五分ほどの道のりである。当該住宅地は、鎌倉の市街地の尾根を成す一部を切り崩して忽然と出来たものである。出来立ての昭和三十年代の後半から初期にかけては、まさしく当時流行の新興住宅地であった。ところが今や、日本の少子高齢化社会のご多分にもれず、限界集落の色合いを深めて、当時の華やかさは遠い夢まぼろしである。
 鬱蒼とした山を切り崩して出来ただけに、住宅地は盆地型に山に囲まれている。開発を手掛けた大手デベロッパーは、旧市街住民のブーイングを恐れて、住宅地内にも適当に山の姿を残している。ところがへそ曲がりの私には、この風景はデベロッパーの善意というより、「お為ごかし」に思えている。皮肉をたずさえてあけすけに言えばそれは、ブーイングを躱(かわ)すだけのものであって、半面あからさまに人気取りの役を託されていたのであろう。
 しかし、へそ曲がりを隠して、デベロッパーの善意を素直に一つだけ称えたいものがある。周辺はもとより住宅地内にあっても、ヤマザクラの風景が残されていることである。これに加えて、見え透いた人気取りには、あちらこちらにソメイヨシノなどが植えられている。嘘っぱちとも思えるこの見えみえの人気取りの最大の目玉は、売り出し宅地名はなんと! 「鎌倉湖畔住宅地」であった。確かに、周辺に湖まがいの溜め池はある。ところがそれは、農業用水の利便を託された「散在が池」が本名である。
 世の中には「騙すより騙されるほうが悪い」という、腑に落ちないパラドックス(矛盾)の成句がある。確かに、騙された私には命名に魅かれた落ち度があった。もはや、あとの祭りである。このためもあってこの時期の私は、残されている桜木を仰ぎながら、わが憤りの嘆息をみずから鎮(しず)めている。
 きのうの往復に驚いたことだけれど、いまだ咲きそろう間もない桜の花は散り急いでいた。このため私は、「花の命は短かりき」という成句を浮かべては、道路に落ちていた花びらに同情を寄せていた。振り落としたのは、山にざわめいていた強風だった。嵐とまでは言えない強風にさえ耐えきれない桜の花は、確かに人の命からすればはるかに哀れである。私は強風を憎みながら、できるだけ花びらを踏まないよう心掛けて、隙間を選んで歩いた。
 一方、心中にはこんな身勝手な思いを浮かべていた。(嵐がなければ、花吹雪の風景は見れないな!)。花の命と人の命は、似て非なるところがある。花の命には、同情せずにはおれない儚さと健気さがある。そのうえ、満開に咲きそろうのを嵐が狙っている。この先当分、桜の花に同情つのる日が続きそうである。

人間、生きる証し 

 このところ鳴りを潜めていた歯痛(はいた)に悩まされている。開花した桜の花に捩(もじ)れば憂鬱気分満開である。確かに、歯痛を和らげるには歯医者通いは避けられない。ところがアホ丸出しに私は、歯医者通いを先へ延ばしている。その理由は、いろんな恐怖心に尽きる。具体的な恐怖心には、先ずは行けば根こそぎ引き抜かされそうな予感がある。その挙句には延々と歯医者通いが免れず、さらにはそのたびに重なる治療に怯(おび)える羽目となる。歯痛だけは放っておいて、自然治癒するものではないことくらい、アホな私でも知りすぎている。言葉に替えれば歯痛に抵抗するのは、「無駄な抵抗」の最たるものの一つである。
 桜の花見の時期にあってきょう(三月二十七日・水曜日)の私は、もちろん歯痛を堪えてまで夜中の二時半頃に起き出してきたわけではない。しかしながら、起き出したからにはパソコンに向かうのは、わがささやかな習性である。だからと言って、歯痛にしかめっ面をして、能無し野郎の文章が書けるはずはない。だからきょうは、自作文に非ずきのう掲示板上にさずかった、ご投稿文の「ひぐらしの記」への転載を決め込んでいる。
 ご投稿者の大沢さまには無断転載である。ところが、何度か読み返しているうちに私は、ひぐらしの記へ転載しておくべき決意に駆られたのである。私はきのう書いた『恐れず わが意見』の中において、ひぐらしの記にかかわるわが心情を吐露した。それはなさけなくも、常にわが心の襞(ひだ)に張りついているマイナス思考の吐露でもあった。すると早速、大沢さまは高尚な文章をつづられて、ひぐらしの記を書く私に、ありがたい勇気づけをさずけてくださったのである。それに報いるには何度も読み返すと同時に、ひぐらしの記に残しておくべきと、決意したのである。
 【ひぐらしの記に通じる真髄】(ご投稿者:大沢さま ご投稿日:2019年3月26日・火曜日、11時4分36秒)。昨日ラジオで日本民族学の開祖と言われている柳田国男氏のインタビューが流れた。「記録に何にも現れない人の生活というものが日本には 80%以上あるんですよ。悪いこともいいことも両方ともしなけりゃ記録に残りゃしないですからね。つまり、埋もれてしまって一生終わるであろう、訴える道がなくて、犯罪もしなければいいこともしないでいるっていうような人がね、ただ何となく息吸っていくのを惜しがって、それに関する知識を残そうとしたのがフォークロア(民俗学)という言葉なんですよ。」私はいたく感動した。そして、日本民族学の開祖と言われている柳田国男氏の言葉に並べるのはあまりにも恐れ多いことだけれど、私が現代文藝社を起業した発露を言い当てている言葉との出会いだと思った。インタビューの中で、椎葉村のことが語られていた。現代文藝社で自費出版のお手伝いをした椎葉花さんの「思い出の里 奥椎葉」のことが蘇ってきた。椎葉さんの生まれ育った椎葉村のことは、印象深く私の心に刻まれている。写真もたくさん掲載した。私自身のささやかな人生も記録に残さなければ、時の流れと共に消えて無くなる運命にある。一個人の私の歩んだ道など、取るに足りないことかもしれない。でも、今の時代は、記録に残す手段が色々あり、大切な命の生き様は様々で、学ぶものがあると思う。是非、語り継ぎ、残したいものである。
 この文章に付加する言葉は一つもない。私は神妙にわが生きる証しをかみしめている。その証しを、ちょっぴりひぐらしの記に託しているのかもしれない。歯は容赦なく、ズキズキ痛んでいる。

恐れず、わが意見 

 公開しない日記帳とは違って、インターネット上でつづる「ひぐらしの記」の題材には、絶えず自己抑制が強いられている。特に、みずからの意見や見解を記すことは、もとより憚(はばか)れるところがある。もちろんそれは、人様の非難やブログの炎上を恐れるからである。かてて加えてひぐらしの記は、現代文藝社(大沢さま主宰)のホームページの恩恵にさずかっている。このため、みずからの題材のしくじりでブログの炎上をこうむり、現代文藝社の名を汚すことは絶対に避けなければならない。すなわちこれ、固い自己抑制である。加えて私の場合、文章を物するには裏社会経験に乏しく、はたまた趣味を含めて題材に得意分野はまったくない。おのずから文章は新味なく、日々似たり寄ったりに甘んじざるを得ない。その挙句には自己嫌悪に陥り、もう書けない、もう書きたくない、という気分の蔓延にさらされている。もちろん、わが能力の無さのせいである。それでも書けば文章は、いやおうなく愚痴こぼしや自虐精神旺盛となる。
 確かに、能力相応の文章に甘んじれば、こんな気分から解放されることは百も承知である。それでも、常に忸怩(じくじ)たる思いをたずさえながら、これまで継続にありついてきた。このことでは、自分自身にさえかたじけない思いつのるばかりである。どうでもいいことを書いた。しかし、この文章では自己抑制の掟(おきて)を破り、わが意見の吐露に覚悟を決めている。
 大相撲春場所の千秋楽で全勝優勝を決めた横綱白鵬は、優勝力士インタビューの最後にあって、確かに突拍子(とっぴょうし)もないことをしでかした。それはみずから「三本締め」の音頭を取り、館内の観客に手拍子を促したのである。観客席はだれもが一斉に同調し、館内はにわかに盛り上がった。今回の春場所は平成最後であり、さらには白鵬自身、かねがね「わたしは、平成に育てられました」と、口にしていた。この思いが突然の三本締めに現れたのであろう。いやもしかしたら、場所前から必ず優勝を果たし、みずからの思いを三本締めに託していたのかもしれない。なぜなら、テレビ観戦のわが目に春場所の白鵬の取り口は、いつもにも増して強さと勢いが感じられていた。さらにはかねて非難を帯びていた取り口や懸賞金を受け取る姿勢にも、明らかに良い変化が現れていた。具体的には非難の的となっていた立ち上がりの「張り手」が影を潜め、懸賞金の受け取り姿勢にも謙虚さが現れていた。
 テレビ観戦の私は、突然の三本締めに非難はおろか、さわやかな好印象をたずさえていた。ところが案の定、横綱審議会員や関係者からは、堰を切ったかごとく白鵬の行為に、「横綱としてふさわしいものなのか? 一力士のやるべき行為なのか?」などという、非難の声がたらたらである。このため、きょう(三月二十六日・火曜日)の私は、ささやかにも白鵬擁護の意見を書きたくなったのである。もちろん、反対意見やブーイングに見舞われても、自己責任の覚悟は固めている。

春場所千秋楽 

 大相撲春場所は、きのう(三月二十四日・日曜日)の千秋楽で閉幕した。優勝は横綱白鵬の四十二回目の栄誉で飾られた。しかも、十五回目の全勝優勝である。当然称賛されるべき大偉業である。今回の春場所は、場所前から「平成最後の」という、冠をいただいていた。かねがね白鵬は、「自分は平成時代に育てられた」と、述べていた。このため、白鵬の心中には期すべきものがあったのであろう。そのため取り口には、いつもにも増して強さと勢いが感じられた。言わずもがなのことだけれど大相撲は、横綱の強さがあってこそ盛り上がる。この点では、甚く堪能できた場所中のテレビ観戦だった。
 十四勝一敗で、千秋楽まで大鵬の優勝を延ばした平幕・逸ノ城の健闘も称賛するに値する。しかし、千秋楽の取組にかぎれば私は、大関・栃ノ心対関脇・貴景勝の取組に最大の関心を寄せていた。実際にはどちらも贔屓の力士ゆえに、興趣を超えてつらい取組だった。もちろんそれは、勝負の世界の厳しさの証しでもあった。
 【平成の最後に非情の大関交代劇 春場所千秋楽】(3/24・日曜日20:25配信 時事通信)。大相撲春場所千秋楽(24日、エディオンアリーナ大阪)、平成最後の土俵に勝負の厳しさを刻み込む一番があった。7勝7敗のかど番大関栃ノ心と、大関昇進を懸ける関脇貴景勝。結果は貴景勝が会心の相撲で大関昇進を手繰り寄せ、栃ノ心は関脇への転落が決定。明暗があまりにもくっきりと分かれた。栃ノ心が負ければ大関から転落することは決まっているが、貴景勝の昇進について、取組前の阿武松審判部長(元関脇益荒雄)は「きょうの相撲を見ないわけにいきませんね」と語り、「終わってから」を繰り返しただけ。勝って10勝すれば昇進などとは口にせず、厳密に言えば事前に決められた「入れ替え戦」ではなかった。しかし、関係者も観客もすっかりそのつもりで目を凝らした土俵上。勝負はあっけなかった。貴景勝が頭で当たり勝って跳ね飛ばし、栃ノ心の厚い胸板へ強烈な二の矢の突き押し。まともに受けた栃ノ心は、なすすべなく押し出され、土俵下へ落ちた。西の支度部屋。まだ審判部が大関昇進を審議するための臨時理事会招集を八角理事長(元横綱北勝海)に要請する前から、貴景勝を取り囲む記者たちは昇進ムード。本人も「わんぱく相撲でも体の大きな人たちの中でやってきて、自分は体が小さくて、優勝とかできなかったけど、何とか自分の体を武器にしてやれる相撲を目指してやってきたことを思い出した。初めて相撲部屋に入った時、幕内力士を見て、こんなところでやっていけるのかと思ったけど、諦めずにやってきて良かった」と、喜びと安ど感に浸った。その頃の東支度部屋。栃ノ心は「(立ち合いに)もう駄目だと思った。俺が弱い」と肩を落とした。来場所、関脇で10勝すればすぐ大関に戻れるが、「しっかり休んで、今は何も考えない。負けた方が弱い。勝った方が強い」。早々に引き揚げていった。以下省略。
 関脇貴景勝は大関昇進をほぼ確実にし、一方の栃ノ心は、大関から関脇への陥落が決定したのである。テレビ観戦するわが目には、感涙より悲涙のほうがはるかに多くあふれていた。

 「高菜漬けふるさと便」

 きわめて馬鹿々々しいことだけれどわが気分は、みずからではどうしようもない、天気の良し悪しに左右される。きのう(三月二十三日・土曜日)の鎌倉地方は、一日じゅう小雨まじりの寒い日に見舞われた。春の季節特有の寒のぶり返しである。そのせいでわが心身は、カタツムリのように委縮した。結局、きのうの私は、妻と共にエアコンフル稼働の下、身動きの少ない茶の間暮らしに終始した。そのため、わが気分は憂鬱をきわめていた。
 寒のぶり返しは知りすぎているけど、あまりにも惨めな気分だった。寒さに負けて、早めに床に就いた。するとこんどは、悪夢に魘(うな)され続けた。この季節特有の「春眠暁を覚えず」というのどかな気分にはなれず、悪い気分を引きずったままに起き出してきた。その挙句には文章を書く気分は遠のいて、気分の悪さはいや増していた。つまるところきょうは、休もうと決め込んでいた。そのため、時計の針はとっくに六時をまわり、夜明けの空に朝日が輝いている。きのうの雨空をすっかり払いのけて、胸の透くさわやかな青空である。私はたちまち気分を良くし、休むと決め込んでいたパソコンを起ち上げたのである。
 だからと言って、慌てふためいていることには変わりない。実際、殴り書きさえ書けそうにない。だからこの先は、きのうたまわったうれしい「ふるさと便」のことだけを記し置くものである。
 宅配された段ボールに詰められていたのは、採り立てを漬けたばかりの濃緑瑞々しい「高菜漬け」だった。送ってくださったのは、ふるさとに隣接する菊池市(熊本県)にお住いの岡崎俊裕さん夫妻だった。実際の手漬けは、姪っ子の弘子さん(ふるさとの長兄夫妻の次女)である。フクミ義姉さん存命中の高菜漬けのふるさと便は、この時期毎年真っ先に届く定番を成していた。もちろん、フクミ姉さん亡きあとは、高菜漬けふるさと便は万事休すとなるところである。ところが、弘子さんの「叔父ちゃんは、高菜漬けがとても好きじゃろ。お母さんが送れんで、わたしが送ります」という受話器の声で、フクミ姉さん亡きあともわが家は、「高菜漬けふるさと便」の継続にさずかっている。
 確かに、春先の高菜漬けはふるさとの味のみならず、母そしてフクミ姉さんへと繋いできた、わが舌を潤すおふくろの味である。もちろん、春先の高菜漬けは大好物にとどまらずふるさと慕情をかきたて、亡き二人をこよなく偲べるもののイの一番である。
 宅配されて来たのは、昼下がりであった。食べるのを待って、夕御飯の食卓には高菜漬けが運ばれた。白い御飯に、高菜漬け一品御数で済ます夕御飯である。その途中、私は弘子さんへ固定電話の受話器をとった。先方の受話器は弘子さんがとった。
「高菜漬け、昼過ぎに届いたよ。ありがとう。だけど、すぐに電話はやめていた。夕御飯に高菜漬けを食べたあとで、電話をしようと思っていたから…、いま、高菜漬け食べてるよ。青々としていて、ほんとに美味いねー。フクミ姉さんを偲びながら食べている。フクミ姉さんを偲ぶには、高菜漬けに勝るものはないね。何度も言うけど、ありがとう。俊裕さんへ、よろしく言ってください」
 たくさん届いた高菜漬けは、妻が嬉々として冷蔵庫にしまい込んだ。確かに、春の天候は気まぐれである。しかし、ふるさと人情には異変なく、いつもかぎりなく温かい。

「惜別・寂寥 イチロー選手引退」 

 きのう(三月二十二日・金曜日)は、イチロー選手の引退表明にかかわる配信ニュースを引用した。これまで、一個人にかかわることを記すことは意識して避けてきた。しかし、イチロー選手の引退表明はもはや個人問題ではなく、大きな社会問題と言っていいだろう。なぜならそれは、野球界における個人の去就にとどまらず、社会の大きな関心事だったのである。さらに付言すればそれは、日本とアメリカを股にかけて、相共通する関心事でもあった。さらに付加すれば野球界におけるイチロー選手の生き方は、人間共通の生き方を学ぶお手本だったとも言えよう。
 実際、日々海の向こうから伝えられてくるイチロー選手の活躍ぶりは、わが日常生活に楽しさと生きる張り合いをもたらしてくれていた。それだけにきのうのイチロー選手の引退表明は、私自身にかぎりなく寂寥感つのるものだった。そしてこのとき、わが胸中にあからさまに悔いをおぼえていたのは二つ事柄だった。一つは、常々イチロー選手が口にしていた、最低五十歳までの現役が果たせないことだった。もう一つは、最後の打席でヒットを打ってほしかったけれど、それが叶わなかったことだった。今なおこのことはイチロー選手の悔いというより、わが悔いとして引きずっている。
 確かに、イチロー選手の引退表明により、わが日常の楽しみが一つ消えたのである。今となってはこれまでのイチロー選手の活躍が、どれだけわが楽しみをもたらしてくれていたか、あらためて知るばかりである。そのためこの先当分は、イチロー選手の引退の寂しさでわが心は、空洞に晒されるであろう。そしてそれは、ほかでは埋めようのない大きく空いた穴になりそうである。もちろんそれは、個人ベースにかぎらず国内外の社会に空いた大きな穴でもある。
 この文章の表題は、きのうの表題に新たに寂寥を加えて、「惜別・寂寥 イチロー選手引退」とする。日本列島は、日を替えて桜の開花宣言が相次ぐ時期にある。そんななか、イチロー選手の引退はわが春の憂鬱である。

 惜別 イチロー選手引退宣言

 平成時代最後の「春分の日」(平成三十一年・2019年、三月二十一日・木曜日)にあって、日本社会はとんでもない衝撃に見舞われた。それは、イチロー選手の引退宣言である。あまりにもつらい出来事のため、日本社会には寂寥感が漂っている。
 明けてきょう(三月二十二日・金曜日)の私は、イチロー選手の引退を伝える配信ニュースを引用し、「ひぐらしの記」に記し置くものである。 身辺および国内外の日々の出来事をつづるひぐらしの記にあって、悲しいかな! これほどふさわしい出来事はない。現在のわが胸中には、引退を惜しむ寂寥感がかぎりなくいっぱい渦巻いている。
 【イチロー 現役引退を発表 会見で「後悔などあろうはずがありません」】(Yahooニュース 3/21・木曜日、23:59配信 スポニチアネックス)。マリナーズのイチロー外野手(45)が21日、アスレチックスとの開幕2戦目終了後に現役引退を表明した。2試合連続の「9番・右翼」で先発出場。この日は三邪飛、二ゴロ、見逃し三振、遊ゴロだった。試合後には、帰らずにイチローの名をコールするファンの前に再び姿を現し、グラウンドを回り、手を振って感謝の意を示した。その後、マリナーズが公式サイトでイチローの引退を発表。その後、イチローが引退を記者会見を行い、「今日のゲームをもって現役生活に終止符を打ち、引退することになりました。この25年間を振り返るにはあまりにも長い時間だったので、ここで一つ一つ振り返るのは難しいのですが、ここまで応援してくださった方々への感謝の思い、球団関係者、チームメートに感謝したい。」と話した。また「引退を決意したことに後悔はあるか」と聞かれると「球場での出来事、あんなものを見せられたら後悔などあろうはずがありません。もちろんもっとできたことはありますが、結果を残すために自分が頑張ってきたこと、自分なりに頑張ってきたと言えるので」と胸を張った。「50歳まで現役」――。イチローが常々、口にしてきた領域にたどり着くことはできなかった。メジャーデビューの01年から前人未踏の10年連続200安打を達成したが、ここ数年は出場機会の減少とともに持ち前のバットコントロールも陰を潜めるようになった。マーリンズに在籍した17年は代打中心となり、打率・255。昨季は古巣マリナーズに6年ぶりに復帰したが、わずか15試合出場で打率・205と結果が出ず、5月3日にメジャー40人枠を外れ、会長付特別補佐に就任する異例の措置が取られた。今年1月にマイナー契約を結び、再び「選手」として戻ってきた2月のキャンプ。「“イチロー選手”って呼ばれるのは気持ちいいね。僕にとっては大きな記念日」と晴れやかな表情を浮かべたが、オープン戦では苦しんだ。昨年5月2日を最後に試合に出場していなかったブランクは大きく、巨人とのプレーシーズンマッチ2試合も含めて31打数2安打、打率・065。24打数連続無安打で、日米通算28年目の開幕を迎えていた。それでもイチローが残してきた足跡は永遠に色あせることはない。オリックス時代はNNPB初のシーズン200安打、7年連続首位打者などの偉業を達成。01年に海を渡ると、当時パワー全盛だったMLBにスピードと技術で挑み、次々に安打記録を塗り替えた。04年にマークしたシーズン262安打は不滅の大記録。16年には米野球殿堂入りの基準となるメジャー3000安打に到達した。通算安打は日米合わせて4367本だった。多くの人々に勇気と感動を与えた濃密な野球人生は28年で幕を閉じることになった。まさに「時代」を駆け抜けたイチローは、平成の終わりとともにユニホームに別れを告げた。 

「春分の日」・彼岸の中日  

 きょうは「春分の日」(三月二十一日・木曜日)、一方では「彼岸の中日」とも呼ばれる日である。きのう(三月二十日・水曜日)の私は、義父母の眠る菩提寺の墓に参った。きのうの天候は気象予報士の予報に違わず、高気温をもたらし大空は晴れわたっていた。閼伽桶(あかおけ)を提げて、ちょっと歩いただけで汗ばんだ。そのうえ風はまったくなく、墓参りには好都合の春日和だった。
 義父母の眠る菩提寺は、神奈川県三浦郡葉山町に存在する「新善光寺」である。墓は、その寺の墓域にある。一緒に参ったのはわが夫婦、そして妻の里の義姉夫婦であった。わが夫婦は、JR横須賀線・逗子駅裏に待つ義兄の運転するマイカーに乗った。正午近くの墓参りだった。墓参りを終えると、清々しい気分になった。昼食は帰途中にファミレス(外食店)で済ました。心優しい義姉夫婦の車は、風光明媚(ふうこうめいび)な葉山、逗子、鎌倉の海岸線を走り、わが夫婦を鎌倉駅近くまで送ってくれた。
 この日のわが夫婦は、鎌倉駅前で所用をたずさえていた。所用とは駅前に在る「カトレヤ画廊」で、初日を迎えていた水彩画展を見ることだった。二階にある画廊の階段下には、「水彩画 五人展」の立て看板があった。五人の中のお一人は、ご近所の安田様である。安田様は、現在は退会されているけれどかつての卓球クラブのお仲間である。いや、心優しく親しい先輩である。五人展は安田様所属の「スケッチの会」の秋の恒例の展示会のほか、毎年行われている。わが夫婦は、どちらも欠かさず鑑賞にあずかっている。すなわち、わが夫婦唯一の楽しい芸術鑑賞と言えるものである。もちろん安田様の水彩画は、堪能にさずかる玄人はだしである。ここまでは、委細に記したわが夫婦のきのうの行動記録である。
 さて、次に記すのは、彼岸にちなんでインターネット記事を読み漁ったものから、抜き書きしたくなったものである。その訳を記すと、彼岸の意味を孫(小学五年生)に聞かれた場合の備えである。
 【お彼岸の意味や、過ごし方について教えてください。「Q&A」】:昼と夜の長さが同じになる「春分の日」と「秋分の日」を中日前後3日間の計7日間を「彼岸」と呼びます。「彼岸」とは向こう岸を意味する言葉で、迷いの多い此岸(この世)に対して、仏の理想の世界である向こう岸、つまりは悟りの世界や浄土のことを言います。日本では、その浄土に渡るために、善事を行い、先祖に思いを馳せ、供養を行う期間を「彼岸」と言うようになりました。「彼岸」という言葉はインドで使われている言語の一つ、サンスクリット語の「パーラミター」(波羅蜜多)の漢訳で「到彼岸」の略だといわれています。約1200年前に全国の国分寺の僧侶らが、春と秋の年2回、7日間に渡り仏をたたえて経をあげたと伝えられています。それから次第に、一般の人にも「お彼岸」は広まったとされています。仏教行事ですが、インドや中国にはありません。お彼岸の時期の過ごし方として、家庭では仏壇を掃除し、新しい花や季節のもの、おはぎ、彼岸団子などをお供えして供養します。家族そろってお墓参りにも行きましょう。墓石をきれいに洗い、お墓の周囲も掃除して花や線香を手向けます。特に子どもをお墓参りに連れていくことは、ご先祖さまを敬う気持ちを通して、人を大切にする気持ちを育てることにつながります。菩提寺があるならば、お寺で営まれる彼岸法要に参加しましょう。正式な法要に参加することは、伝統的な仏教文化に触れる機会でもあります。また、他家に伺う時にはお供えにほかにお線香を届けましょう。「お香典」とは、本来、お香を届けたことに由来するものなのです。おしまい。

春、燦燦 

 もはや、知りすぎているけれど、あらためて電子辞書を開いた。「キブシ(木五倍子、付子)」:「キブシ科の落葉小高木。山地に生ずる。高さ2~3メートル。春、葉に先立って多数の黄色い花を穂状に垂らす。果実を粉とし、付子の代用として黒色染料とする。材は杖・柄・楊枝などとする。マメブシ。」
 最寄りの山の中で、春になって真っ先に花芽を着けるのはこのキブシである。そのぶん、最も早く道路上に落ちてくる。私にすれば確かな春の訪れの証しと同時に、掃除を急がれる厄介物でもある。麦の穂を下向きに一斉にぶら下げたような光景は、見ようによっては春ロマンの風情がある。そして、道路に落ち立ての瑞々しい黄色い穂や粒は、陽光に照らされて艶々に輝いている。しかし、落ちたあとに風雨に晒されると、たちまち見苦しくなる。それよりなにより、キブシが汚く散った道路の掃除には、とてつもない難渋を強いられるところがある。
 きのう(三月十九日・火曜日)の昼下がりにあって私は、落ちたキブシが敷き詰めていた道路の掃除に難渋を強いられた。だからと言って、頭上を仰いで厄介物にはできない。なぜならキブシは、本格的な春の訪れを告げる先導役を担ってくれているからである。
 人間界はこの時期、別れと出会いの光景に沸き立っている。時あたかも自然界は百花繚乱を恵んで、まるでBGM(バックグラウンドミュージック)さながらに、人間界のおりなす悲喜交々の舞台装置に大わらわである。確かにこの時期の人間界にあって、自然界の援軍がなければ別れと出会いにかかわる人情は、たがいに通いきれずにあっけなく過ぎるだろう。
 学び舎における卒業式や入学式などにおいては、学長や校長の言葉、はたまた居並ぶ来賓の祝辞には、とってつけたようにみな一様に自然界の恵みが織り込まれている。まさしく人間界と自然界が相成して、厳かでかつ華のある式典風景を醸すこととなる。あすは「春分の日」(三月二十一日・木曜日、祝祭日)である。卒業式はほぼ終盤戦を迎えている。一方、おとな社会における人事異動などにともなう、人の往来も落ち着き始める頃であろう。
 三月も残すところ十日余りである。ところが、この平成三十一年(二〇一九年)の三月から四月への月替わり初日、すなわち四月一日の日本社会には、一大イベントが予定されている。具体的には日本政府による、平成に変わる新年号(改元)の公表である。そして、四月三十日をもっての平成天皇陛下のご退位、明けて翌日の五月一日をもっての皇太子殿下の新天皇陛下へのご即位である。
 北上を続けてきた桜前線は、あちらこちらで夜空にのぼる花火のように、春の陽光に照らされて美景をひけらかすであろう。あすには、のどかなお墓参り光景も見られることとなる。まさしくこの時期の日本列島は、人間界および自然界相成して、悲喜交々の話題満載の春謳歌にありついている。好事魔多し、願うところは天変地異の鳴動無きことである。

春彼岸入り 

 暖かさを望んで待つわりには春は、名前負けあるいは期待外れになると、すでに何度か書いた。それはわが春待つ心にたいし、裏切られた恨みつらみの吐露でもある。ところが春の季節にあって、ピタリと暖かさをたずさえて、期待どおりにめぐってくるものがある。それは「春分の日」(三月二十一日・木曜日)を中日(ちゅうにち)において、めぐってくる春彼岸である。あえて春彼岸と記したのは、もちろん秋には「秋分の日」を中日において、秋彼岸があるからである。そして、秋彼岸も秋の季節にあっては、春彼岸同様に「暑さ寒さも彼岸まで」という季節用語をたずさえて、これまたピタリと暑さを打ち止める。
 きのう(三月十八日・月曜日)は、一週間における春彼岸の入り日だった。彼岸の初日とあって朝のうちは、いくらか肌寒さが残っていた。しかしながら、昼間には肌寒さは遠のいて、麗らかな春日和が訪れた。そして、きょう(三月十九日・火曜日)、現在(午前三時過ぎ)にあっては、まったく肌寒さを感じない。春彼岸こそ、望んだ暖かさの春の恵みと言えそうである。
 確かにこの先には、寒の戻り、花冷え、花曇り、そして花に嵐、さらに先には菜種梅雨(四月)などの季節用語がひかえている。しかしこれらとて、春の陽気にのほほんとしがちな人の営みにたいし、適度の緊張感をもたらしてくれるものとも思えば、ひととき我慢するしかない。春彼岸を迎えて季節は、いよいよ掛け値なしの春真っただ中にある。
 きのうの私は、昼間の陽気に浮かれて、買い物用の大きなリュックを背負って、いつもの大船(鎌倉市)の街へ出かけた。行きつけの野菜と果物の安売り量販店「大船市場」の売り場には、とり立ての春野菜がひしめき合っていた。売り場をめぐりながら私は、熊本産という表示にはかぎりなく郷愁をつのらせていた。同時に、瑞々しいそれぞれの野菜を眺めながら私は、春野菜の収穫に勤しまれている渡部さんのお姿を浮かべていた。
 渡部さん(埼玉県所沢市ご在住)のことは、「ひぐらしの記」においてはおりふしにご紹介している。再び短くご紹介すれば渡部さんは、会社同期入社のお仲間である。ところが、共にサラリーマン卒業ののちは、私とは大きく違って渡部さんは、多面にわたりご精励されている。中でも野菜作りにあっては、季節に応じて今や農家顔負けの多種類野菜作りの名人の域にある。春野菜の季節になり、それらを眺めながらめぐっていると、おのずからわが心中には渡部さんのお姿が浮かんでくる。
 春の彼岸が訪れて、わが買い物行は堰を切って加速しそうである。もちろん、まったくリュックの重さが苦にならない、いや! とてつもなく楽しい売り場めぐりの到来である。

 カンフル剤のおかげ

 三月十七日(日曜日)、「春分の日」(三月二十一日・木曜日)を間近にして、私は春の季節が嫌いになっている。起き立ての私は、肌寒くて心が萎えている。もちろん、待ちわびていた春の季節は、こんなはずじゃなかった。しかし、これまでの体験的では、まったく知らないわけでもなかった。それでもこの肌寒さは、大相撲の技に例えれば、「肩すかし」を食らった気分である。その挙句には文章を書く気分が殺がれて、寝床へのとんぼ返りを決め込んだ。だけど、いつものようにメディアの伝える配信ニュースは読み漁った。あからさまに逃げた気分で読み漁った。いや、正直に記すと配信ニュースを引用し、自作文の途切れを埋めようという浅ましい魂胆だった。ところが、幸か不幸か「ひぐらしの記」にふさわしい配信ニュースには出合えなかった。そうであればと、自分の好きな記事だけを選んで、時間をかけて読んだ。それには、こんな理由があった。それは、そうしているうちに気力の回復、具体的には書く気力の高揚を願っていたのである。しかしながらこんな小手先で、肌寒さを凌ぐ気力の高揚は得られなかった。いっそう投げやり気分が増幅し、やけのやんぱちになった。
 きのう(三月十六日・土曜日)の私は、東京都下国分寺市内に住む二兄夫婦(共に八十八歳)宅へ出向いた。この一か月強は、毎週出向いている。年老いても優しい二人は、私にとっては亡き父と母に代わるかけがえのない大恩人である。その恩に報いるための、表敬訪問の繰り返しである。わが家へ帰り着いときには日長の時季ににあっても、すでにすっぽりと夜の帳(とばり)が下り、煤けた玄関灯は輝いていた。
 就寝前に掲示板を開いた。きのうの私は東京行きの予定もあって、いつもにも増して書き殴りの文章を書いていた。ところがわが文章は、救いの神様に助けられていた。掲示板上には、大沢さまから勇気づけられる文章がご投稿されていたのである。ご投稿文の内容は、大沢さまご自身がエアコン掃除を為されたという、一部始終の顛末記だった。そして、見事に掃除を完結されて、再びスイッチを入れれば、エアコンから清々しいそよ風が吹いたと、記されていた。私にはまったく考えられない驚嘆すべきご投稿文だったのである。なぜなら私の場合、こんな大それたことは、端(はな)から手出し無用と決め込んでいる。それでいて、業者に頼むには金を惜しむケチ臭い根性がある。その挙句には古い形式のエアコンでありながら、買ったままにほったらかしである。耐用年数など知らぬが仏で、故障を恐れてオドオドしながらスイッチを入れるばかりである。もちろん、買って、もう何年になるのかさえわからずじまいである。
 ところがわが不安の虚を突いて、去年あたりから新聞の折り込みチラシには、エアコン掃除案内が目立っている。もちろん、無料のサービスではなく、それなりに値の張る業者の勧誘チラシである。そのため、このところの私は、勧誘記事に気も漫(そぞ)ろ気味である。就寝前でもあって、大沢さまのご投稿文は一度読んだだけであった。すると、閃(ひらめ)いたのである。具体的にご投稿文を読み直し、大沢さまの文章からカンフル剤を打ってもらおうという、他力本願の浅ましさである。ところがこの見えみえの浅ましさは功を奏して、この一文にありつけたのである。もちろん、エアコンの掃除ばかりではなく、大沢さまの多能ぶりには日々恐れ入るばかりである。大沢さまは、すごいなあー! わが身のなさけなさにはとことん呆れ返るばかりである。

たまわった好い気分 

 きのう(三月十五日・金曜日)、妻が「パパ。あしたはこのことを書いたら…書いてね」と、言った。「うん。書くよ」、と応じた。それは台所と茶の間を数歩行き来して、台所の窓に掛かるカーテン越しに眺めた光景である。私は、台所から茶の間を覗く妻の無言の手招きに応じた。数えたわけではないがそのたびに、いそいそと何度かソファから腰を上げた。そして、声と身を細めて妻のかたわらにたたずんだ。そのつど私たちは、カーテン越しにうれしい光景を眺めなら、ひそひそ話を短く交わし合った。ひそひそ話は、時の経過に応じて少しずつ変わった。たがいに顔をほころばせて、おおむね「パパ。うれしいね」「ほんとだね」という、阿吽の呼吸のやりとりだった。いつもであればソファから立ち上がるのが億劫で、「何よ!」と言って、諍(いさか)いを免れないところだった。ところが私たちは、仲良く窓の外の光景を眺めながら快感に浸っていた。それは、まったく見知らぬ人様からたまわったご褒美みたいなうれしい情景だった。その証しには眺めていた光景が閉じると、抑えていた声が堰を切ったかのように、何度も大きな声でうれしさを露わにした。以下は思いがけなく目にし、たまわったうれしい光景の一コマである。
 私は掃除を日課とする道路の側壁(コンクリ壁)の上に、手間の要らずの紫大根のタネをばら蒔いている。するとこの時期にあって紫大根は、二十メールほどのひとすじの帯を成して花開いている。タネをばら蒔いているのは、散歩道路にたいするわがほどこしのつもりである。確かに紫大根は、どこの路傍にもよく見られる草花のたぐいである。このため、ときには通りすがりにいたずらに花を摘んでゆく人がいる。この光景を台所から目にすると、妻は鬼気迫る勢いで「パパ。わたし、追っかけようかしら…」と、息巻いている。妻の剣幕に恐れて、私はなだめ役になる。「ほんとに、気分がわるいなあー、だけど追っかけたらみっともないよ!」という、私の言葉で妻の苛立つ気分はようやく収束する。草花まがいとはいえ身勝手に花を摘むのはやはり花泥棒であり、現行犯逮捕の範疇に入れていいのかもしれない。ところが、きのう眺めた光景はまったく逆で、その間ずっとうれしさが込み上げていた。まさしくその光景は、わが夫婦の老いた心身を癒してくれた快感だったのである。光景の変化に応じて、妻の手招きは何度も繰り返された。画板は正規の画用紙だったのか、それとも手持ちの紙の切れ端だったのか、不明のままであった。正面から見たわけではなく、遠目で眺めた後姿の光景でもある。しかしながら後姿は、ようやく中年の部類に入るくらいのいまだに若い女性である。おそらく、こんな素敵な心掛けだから、美しいお顔と共に心豊かな人だったのであろう。その女性は紫大根を前にして、結構長い時間たたずんで写生をされていたのである。最初は鉛筆で、粗いデッサンだったのであろう。右の手首が素早く動いていた。ところが驚くなかれ、次にはパレット上の絵の具と絵筆が、ちょっとばかり垣間見えたのである。しかしながら、道路上に立ったままの写生には、おのずから制限時間が訪れる。私は妻の手招きに応じて、妻のかたわらにたたずんだ。
「パパ。スマホで写真を撮られているよ」
「そうだね」
 女性は、立ち去られた。わが夫婦の気分は、全天候型に晴れわたっていた。

バリカン 

 日本随筆協会:共著『私の宝物』への投稿文。私は、二〇〇〇年七月に六十歳になり、九月に定年を迎える。加齢のたびに、郷愁が募っている。事実が遠くなればなるほど、思い出は鮮やかによみがえる。ふるさととは不思議なものである。遠い日に体験した小さいできごとまでが、まるでシネマスコープのように、心の中に投影されてくる。私のふるさとは、熊本県鹿本郡内田村(現在の菊鹿町)である。内田村は、遠くに国有林を望み、近くには村人たちの共有林をたずさえて、狭隘な田んぼと段々畑を山懐に抱いていた。村の中にひとすじの内田川を横たえて、その脇には競うように一本の県道が並走していた。ただ、その絵姿は、仲睦まじい鴛鴦(オシドリ)のように、ともにくねくねと曲線を描いていた。鄙びた農山村の風景が村全体をくるんでいて、どこの家にも、おだやかな暮らし向きがあった。
 この村で、私は昭和十五年(一九四〇年)七月十五日に生まれた。そのとき、父は五十六歳であり、母は三十七歳だった。父は先妻の病没後に、母を迎えていた。顧みれば、父四十歳、母二十一歳、十九も年が離れたわが親も華燭の典だったのである。父は異母に六人の子を生し、母に八人の子どもたちをもうけた。私は、十三番めにあたる。十四番めの弟は、生後十一か月の幼い命を絶った。庭先で這い這いしているうちに弟は、生業の水車の取水口にドブンと、落ちたのである。このとき、弟の守りをしていたのは、四歳半頃の私である。わが生涯の悔恨である。
 生業は、内田川から取水し、水車を回し、精米業を営んでいた。そのうえ、三反歩ほどの農地と、わずかばかりの山地を所有し、自給自足の農家を兼ねていた。私は昭和二十二年(一九四七年)四月、内田村立内田小学校へ入学した。ある昼下がり、陽だまりが暖まると母は、「しずよし、頭でも刈ろうかね」と、言った。広い庭先の一隅に茣蓙筵を広げて、小さな「母ちゃん床屋」が開店したのである。回転椅子は母の膝枕だった。実際に私の頭を刈ったのは、銀色のちっぽけなバリカンだった。バリカンを操ったのは母の右手だった。何人もの兄たちの首筋や頭の上を這ってきた「バリカン」であろう。バリカンは、母の手の中でスムースに弾んでいた。母は右手でバリカンを操り、左手で私の頭を押さえつけた。母は頭から手を放すたびに、頭上で深呼吸を繰り返した。バリカンの冷たい感触が、巣立って子どもたちの面影を、母の心に引き戻していたのかもしれない。母はバリカンの刃先に息を吹きかけて、へばりついた毛をひなたに舞わせた。そして、しばし刈りぐあいを睨んでいた。調子づいてきた母が、突然頭を横に向けると、首筋が驚いて、私は「痛い!」と、悲鳴をあげた。「痛かった? ごめん。もうすぐ、終わるからね…」母は、とりなしの愛想を言った。しかし、坊主頭が輪郭を露わにすると独り悦に入り、詫びたようすには見えなかった。
「これくらいの痛みも我慢できんかい。じゃ、ここらでやめようか。トラでもいいんかい…」
 母のことばがじゃれついた。
 頭が押さえつけられるたびに、首筋に痛みが走った。私は、
「母ちゃん。おらあ、トラでも気にならんけんで、もうやめてもいいよ…」
 と言って、ことばを返した。
 一方で、母はやめるはずない、と高をくくっていた。バリカンが小気味よい音をかなではじめていると、突然、毛髪が通せんぼをした。
「痛いよ、母ちゃん。無理にバリカンを押さえないで! おらあ、ほんとにトラでもいいんだから…」
 母も意地になりはじめた。
 私は、「もういいよ」と、一方的に終了宣言をした。早く、遊び仲間と遊びたかったからである。しかし、頭はまだ、母の膝枕に乗っかっていた。
 父がバリカンを握った記憶はない。父は手先が不器用だった。母は、「なんでも屋さん」だった。近所の遊び仲間では、トラ刈が流行っていた。だけど、母の床屋さんでは、虎にはなれなかった。いつもの母は、本職顔負けに仕上げていた。母は、大勢の子どもたちの頭を刈ってきたゆえの、すでに熟練工だった。するとこの日の母は、私が急いていたため、いくらか調子を狂わせていたのかもしれない。
 母は白い前掛けをはたいて、「もう終わったよ」と言って、仕上げた頭をひと撫でした。私は母の膝枕から起き上がり、刈り立てほやほやの坊主頭を撫でた。頭は芽吹きはじめのつくしんぼのように、つるつるになっていた。私は仕上がりぐあいにブーイングは吹かなかった。雛が親鳥から飛び立つように、私は母の膝枕から勢いよく跳ねて、遊び仲間のところへ駆けた。日足が長くなりはじめて、陽は西に傾きかけていた。遊び仲間たちが、「なあんだ、しいちゃんは、虎じゃ、ないんじゃん?」と、言った。私はうれしくなり、遊び仲間たちの坊主頭を見た。みんなの頭に、大虎が寝そべっていた。
 五十年もむかしのことだが、あのバリカンは母の宝物だった。同時に、私の宝物でもあったのである。

記憶そして思い出 

 だれもが、「近い記憶はすぐに忘れるが、遠い記憶は忘れない!」と言う。確かに、このことだけは万民共通のようである。さらに、加齢をきわめるにつれてこの傾向は、いっそう著しくなるようでもある。私にはなぜだかわからない。しかしながらこれは、天与の恵みなのかもしれない。確かに、年老いて生じた出来事の記憶が消えず、しょっちゅう心中にまつわりついては鬱陶しいばかりである。なぜなら、人生晩年の出来事なんて、おおむね碌なことはない。これに比べてはるかに遠い出来事の記憶には、心中で浮かべる是非を選別する余裕がある。すなわち、良くない記憶はできるだけ遠ざけて、心の和む記憶だけをよみがえらせればよいという、余裕である。
 遠い記憶は、思い出という言葉に置き換えてもいいだろう。だからと言って思い出は、必ずしも良いことばかりではない。いやむしろ、よみがえるたびに怯えて、身の毛のよだつものはたくさんある。しかしながらそれは、幸いにも年月の隔たりによって、かなり薄められている。ところがやはり、思い出には喜べないところがある。なぜなら、厄介なものにかぎり常に心の襞(ひだ)に張りついているからである。到底、それを根こそぎなくすことはできない。だから、意識してはねつけなければならない。これこそ、心中における記憶や思い出の選別作業である。
 ふるさとに流れる「内田川」にあって、水温む春先の良い思い出の一つには、のどかにテグスを垂らしていた魚釣りがある。一方、消そうにも今なお消えなく、ギョッとよみがえるものもある。それは緑なす畦道を心勇んで走っていたとき、思わず踏んづけた「くちなわ(蛇)」の足裏の厭な感触がある。
 記憶や思い出のすべてが心和むものであれば、もちろん人生行路は楽ちんである。しかしながら、実際にはそういかないからこそ、艱難辛苦という言葉があり、あてにはならないと知りつつもすがりたくなる神仏への祈りがある。今まさによみがえっている心の和む思い出には、あす(三月十五日)から四日間にわたる、ふるさと「相良観音・春季恒例祭り」がある。もちろんそれは、神殿に参ることなく何枚かの硬貨を汗がにじむほどに握りしめて、行ったり来たりした参道の記憶である。結局は「綿菓子」を舐めたり、赤、緑、黄色に染められた「ニッキ水」を買った思い出である。

春の憂鬱:花粉症 

 三月十三日(水曜日)、頃は花粉症の季節だけれど、幸い私はその症状から免れている。これは小さいことのように思えるけれど、実際には飛んでもない幸運である。決まって毎年、この症状に罹る人の多くは、四季の中で春が最も嫌いだと言う。梅を皮切りに桜はもとより百花繚乱の季節にあって、春を毛嫌いせずにおれないのは、どんなにつらいことであろうか。
 図に乗って他人話のようなことを書いたけれど、さにあらず娘は、この季節花粉症に悩まされ続けている。花粉症のつらさを理解できることは、私も一度くらいは罹ったのかもしれない。しかしながら、その記憶は曖昧である。ところが、花粉症のつらさとまったくの瓜二つではないけれど、少なからず似た症状の体験は何度もある。それは、夏風邪のもたらす鼻炎症状である。具体的な症状は、鼻がムズムズして気力は殺がれ、頭はボウっとして心身が萎えることである。この症状に罹ると、市販の鼻炎用風邪薬を服用する羽目になる。すると、幸い長引かずに症状は遠のいてくれる。花粉症のつらさが横綱とすれば、わが鼻炎症状のつらさは幕下いや序二段程度であろう。
 このとき服用する鼻炎用風邪薬は、市販の「スカイナー鼻炎カプセル」(エーザイ)である。確かに、わが鼻炎症状には効果覿面の薬剤である。なおこの薬剤は、同期入社の仲間が開発し、市販されているものである。このため、私は彼に会うたびにこのことを持ち出して、深々と首(こうべ)を下げお礼を述べている。なぜなら、そうせずにはおれない友情を超えてわが恩人である。
 花粉症にかかわることでは、いっこうに記憶が遠ざからない痛恨事がある。これもまた、勤務する会社における一コマである。当時の専務との面談のおり、私はやおらしゃべり続けていた。ところが専務は、花粉症に罹っておられたのである。確かに、テイッシュペーパーの大箱をかたわらにおいて、間髪を入れず鼻をかまれてとぎれとぎれに対話が続いた。その間専務は、花粉症のつらさを堪えておられたのである。能天気の私はそれに気づかず、ほぼ一方的に言葉を続けていたのであろう。とうとう、温厚な専務の堪忍袋の緒が切れたのである。専務は不愉快な表情を露わにされて、「もういいよ!」との断が下されたのである。確かなわが失態である。花粉症の季節になると、堪えようなく必ずよみがえる忌まわしい記憶である。
 さて、花粉症の季節にあって、常に腑に落ちない思いにとりつかれるのは、症状をもたらすスギ花粉原因説のことである。なぜなら、子どもの頃の私は、里山および国有林いっぱいに周囲を杉山で囲まれていた。そして、現在も見渡す山のほとんどは杉山である。このためこの季節、スギ花粉は逃れようなくわが鼻先にぶち当たってくる。それでも花粉症状を免れていると、はたしてスギ花粉が悪の根源なのかな? と、訝(いぶか)るところがある。
 ついでの話を添えれば、これはドラッグストアのレジ前に並んでいたおりの一コマである。かたわらに、エーザイと記された携帯用みたいに手軽な花粉症向けの薬剤がぶら下がっていた。(あれ、エーザイからもこんなの出ているのか?…)。わが現役の頃にはなかった薬剤である。にわかに、フツフツと愛着が湧いてきた。だからこのとき、だれかがそのコーナーに訪れたら、「それ、とても効きますよ!」と、言いそうだった。わが愛社精神横溢の証しと、当時の専務への罪の償いには、絶好の機会と言えそうだった。しかしながら未体験で、効くかどうかわからない薬剤を、みずからの罪滅ぼしに人様に押し付けことは、新たな罪作りにもなるところだった。
 好季節にあって、世の中から花粉症がいっこうに退散しないのは、春の憂鬱と言えそうである。私自身には無縁とは言っても、常にそのつらさは共有するところである。

きのうの「私日記」 

 きのう(三月十一日・月曜日)のテレビには、「東日本大震災」(平成二十三年・二〇一一年)にかかわる、追悼行事などが多く報じられていた。それらの中では発生時刻の午後二時四十六分にちなんで、あちこちで人々の黙祷する光景が映し出されていた。いずれも、あらためて痛ましさをよみがえらせていた。もちろん、他人事では済まされない光景だった。しかし、私の場合は被災地や被災者にたいし、なんら為すすべなく過ぎた八年のめぐりだった。
 この日の私は、ようやく訪れた春日和の下、こんな行動をした。午前中には、二つの病医院をはしごした。真っ先に外来へ向かったのは、午前九時に予約されていた「大船中央病院」(鎌倉市)の消化器内科であった。予約時間に遅れることなく、約二十分前には待合室の長椅子に腰を下ろした。予約表には、「予約時間は目安です」、と記されていた。しかしながらこれは、外来患者の立場に立てばまったく違(たが)えることの出来ない、一方通行の病院都合の文言と言えよう。この文言の切なさは緑内障治療において、予約時間をきっちりと守って通う「大船田園眼科医院」で、そのつど味わっている。
 予約という文言がいくらか文字どおりに思えるのは、歯痛のたびに予約を入れる「斎藤歯科医院」(横浜市栄区)の予約時間である。三号室(吉田先生)の診察は、九時五分前あたりから始まった。私より先に呼び出しマイクで名を呼ばれて、待合室から立って三号診察室へ入る人がチラホラし出した。私は集音機のイヤホンを両耳に嵌めて、呼び出しマイク音にありったけの神経をとがらした。難聴における事前行為は、なお怠りなく済ませていた。それは難聴のため呼び出し音が聞き取れないかもしれないという、怯えでもあった。私は受付窓口の女性係員にたいし場所さえ告げて、待合室の最前列すなわち三号診察室に最も近いところに座っていた。この行き届いた事前行為は功を奏して、マイク音で名が呼ばれる立ち上がり、女性係員に目配せして診察室に入った。予約時間の九時から、十分過ぎくらいで診察室に入った。ほぼ予約時間どおりと、言えそうである。
 できれば馴染みにはなりたくないけれど、ところがいまや、お顔馴染みになっている主治医先生に挨拶し、対話した。主治医先生は、すでにわが体内の胃と腸あたりをデスクの上のモニターに映し出されていた。見たくもないわが体内の肉部が、生々しく映し出されていた。
「ポリープを取ったあとは、どちらも良質ですから、心配要りません。今年は内視鏡検査は必要ないでしょう」
「うれしいです。すると、次の通院はいつごろになるのでしょうか」
「そうですね。一月頃にしましょう」
「先生、一月って来年の一月ですか?」
「そうです。その頃でいいでしょう」
 確かに、のちにいただいた予約表には、二〇二〇年一月二十七日、と記されていた。私は「先生、血圧を測っていただきますか」と、申し出た。早速、測られて「一三五ですね」と、言われた。私は「ほぼいつもの数値です」と、言った。これだけで退室するのは、せっかく来たのにあっけない。歯医者におけるいつもの悪い癖が出た。歯医者の場合は、後で悔いを残す新たな虫歯探しである。もちろん、これとはまったく違うけれど、先生にたいし、こうお尋ねした。
「先生。血液検査をお願いすれば、結果はきょうわかりますか」
「わかります」
「だったら、血液検査をお願いします」
「しましょう」
 私はすぐに書かれた手続書類を持って、館内の二階にある採血室へ移動した。四か所に居並ぶ採血係りは、顔面を白いマスクで覆った女性の人たちである。比べて、見目の良し悪しはわからない。
「痛くはないですか」
「痛くないです。とても、お上手ですね」
「ありがとうございます」
「結果が先生のところへ戻るまでには、何時間かかりますか」
「一時間ほどのあとになると思います」
「そうですか。ありがとうございました」
 私の褒め言葉にたいし、女性係員はマスク越しに微笑まれていた。
 確かに、一時間近く経って再び、待合室の長椅子に座っていたわが名を呼ばれた。検査データをもとに、再び主治医先生と相対した。検査データにはいつもどおり、クレアチニンとLDLコレステロールの二つの項目に、「H」(高い)印が付いていた。そのかたわらには、主治医先生の手書きで赤文字「腎障害」、一つは「悪玉高値、左近允先生にみせてください」と、記されていた。かねがね私は、主治医先生にたいし、最寄りの掛かりつけの医院は、住宅地内の「左近允院」と、告げていた。主治医先生は、快くこのことを承知してくださっていたのである。
 私は路線バスに乗って引き返し、これまた勝手知ったわが住宅地内に存在する左近允医院に出向いた。左近允先生は、わが持参したデータを丁寧に眺めて、ご自身の診断を下された。そして、悪玉コレステロールにだけ、一か月分の薬剤の投与が記された処方箋を書かれたのである。
 私は処方箋を携えて、近くの調剤薬局へ出向いた。この日の医療行動は、これで落着した。携帯電話のデジタル時刻は、12:16と表示していた。午後には一時半頃から三時半近くまで、二時間ほどをかけて雨上がりの道路の掃除をした。長く途絶えていたわが日課は、春の陽射しと共に頭をもたげ始めている。東日本大震災の被災者への黙祷は、後れてきょう(三月十二日・火曜日)へ日延ばしである。

日本(人):春の記憶 

 平成三十一年(2019年)三月十一日、きょうの私には病院通いが予定されている。昨年秋に指定された予約時間は午前九時である。外来は、「大船中央病院」(鎌倉市)の消化器内科である。早い予約時間のため、現在の私は気分が急いでいる。夜明け前にあって、寒さはまったく感じない。まぎれもなく待ちわびていた春の到来と言えそうである。自然界は春爛漫の時季を迎え、人間界は卒業式など別れと出会いの真っただ中にある。日本の国の一年の中で、悲喜交々に最も人情の通い合う好季節と言えそうである。
 この時期にあってよみがえるのは、「東日本大震災」(平成二十三年・2011年三月十一日、午後二時四十六分)の記憶である。こののち毎年マスメディアは、日本および日本人の痛みとして、そののちの経過と現時点の状況を伝え続けている。確かに、何年経とうと風化できない痛恨の大惨事である。このためきょうの私は、八年たった現時点の被災地の状況を伝える配信ニュースを記録に留め置くものである。おおむね時の経過は、よくもわるくも惨事を風化させるものである。しかし風化できない、また風化させてはいけない現実の痛ましさである。
 【なお5万2千人避難、人口減にも拍車 東日本大震災8年】(2019年3月11日00時00分 朝日新聞)。死者、行方不明者、関連死を含め、2万2131人が犠牲になった東日本大震災から11日で8年になる。今も約3100人がプレハブ仮設住宅で過ごし、約5万2千人が避難生活を続ける。東京電力福島第一原発事故が起きた福島県では今春、原発立地自治体の避難指示が一部の地域で初めて解除される。復興庁によると、新たな宅地を造る「高台移転」は93%、災害公営住宅は98%が完成した。住宅再建が進み、最大47万人いた避難者は5万2千人まで減った。ただ津波被害が甚大だった地域は遅れており、今も仮設住宅が残る。震災前から進んでいた人口減も歯止めがかからず、岩手、宮城、福島3県の人口は8年で計30万人減少した。福島県ではこれまで、10市町村で避難指示が解除され、原発が立地する大熊町の一部で4月にも解除される見通し。住民の帰還や定住を促す施策が進められることになる。原発の廃炉作業は、100万トンを超える汚染水や原子炉内の燃料デブリ処理など、難しい工程が控える。東日本大震災の復興期間は10年と定められ、復興庁は21年3月末に廃止されるが、原子力災害への対応や産業の再生といった課題が残る。政府は8日、復興庁の後も新たな組織を設置する方針を示した。平成の30年余、列島は阪神・淡路大震災、東日本大震災という峻烈な災害に見舞われた。次世代に向け、教訓をいかす取り組みが求められている。東日本大震災による被災の状況:《岩手県》死者4674人、行方不明者1114人、震災関連死467人、避難者1028人。《宮城県》死者9542人、行方不明者1219人、震災関連死928人、避難者4196人。《福島県》死者1614人、行方不明者196人、震災関連死2250人、避難者3万2631人。《3県含む全国の総数》死者1万5897人、行方不明者2533人、震災関連死3701人、避難者5万1778人。※死者・行方不明者は3月8日時点(警察庁)、震災関連死は昨年9月30日時点(復興庁)、避難者は2月7日時点(同)。

春、雑感 

 わが連日の嘆きに、ちょっぴり応えてくれたであろうか。きのう(三月九日・土曜日)の鎌倉地方は、ようやく春の陽射しに恵まれた。換言すれば、春の陽光がふりそそいだ。もっと具体的に言えば、暖かい太陽の光の恩恵だった。待ちわびていただけにわが気分は、手の平を返したのようにたちまち躍った。
 いや、いのちが高揚し、有卦(うけ)に入っていたのは私だけではない。庭中のあちこちには、紫大根(諸葛草)が瑞々しく花開いた。椿の花には、ヒヨドリとメジロが蜜を吸いにやって来た。もちろん、仲良く一緒に来たわけでない。メジロはヒヨドリに追われて、素早く逃げ飛んだ。
 この光景を茶の間の窓越しに目にすると、私はメジロにたいし甚(いた)く判官贔屓をつのらせた。なぜならメジロは、わが最も贔屓する愛鳥である。子どもの頃の私は、「籠の鳥」という言葉さえ知らないままに、メジロ籠に一羽のメスのメジロを入れて、日夜一心不乱に愛情をそそいでいた。一方のヒヨドリとて、憎さ百倍と言うことには憚(はばか)れるものがある。いや実際のところはヒヨドリにたいし、蜜を吸うままにするくらいの罪滅ぼしはしなければならない。かてて加えて、心底より詫びもしなければならない。
 子どもの頃の私は、ヒヨドリ一辺倒を目当てにして、里山に罠を掛けていた。運よくヒヨドリが罠にかかると、意気揚々として小走りで帰った。母は驚くと同時に、「掛かっとったばいね…」と言って相好(そうごう)を崩し、わが毬栗頭を撫でた。こののちはみずから毛を毟り、真っ裸にして火炙りした。ウナギが川(内田川)の幸であれば、ヒヨドリの捕獲は、それと好一対をなした里山の幸だったのである。
 行きつけの大船市場(鎌倉市)には、堰を切ったかのごとくに、春野菜が押し合いへし合いしながら並び始めている。さらには、山河の恵む野の物も並び始めている。わが好むものでは、川セリと早出しのタケノコやノブキなどである。確かに、この時期のノビル摘みは、わがふくよかな思い出である。フクミ義姉さん存命中にあっては、この時期はふるさと便第一号の栄誉をになって、早々と手漬けの「高菜漬け」が送られて来た。今では、願っても叶わないつらい思い出である。
 気象庁は先日、関東地方に「春一番」が吹いたと報じた。「啓蟄」(三月六日)も過ぎて、いよいよ「生きとし生けるもの」のいのち息づく、外連味(けれんみ)のない満開の春が訪れている。ところが人間界は、明けても暮れても胡散臭いことばかりが続いている。これまたひと言で言えば、人間に付き纏う「人間臭さ」と、諦めざるを得ないのであろうか。
 公立福生病院(東京都福生市)における腎臓透析の中断の件では、局外者が是非を論ずるには忍びない切なさがある。しかしながらこのことだけは、どうにもわが腑に落ちない報道である。それは現在の松井大阪府知事と吉村大阪市長共に任期途中で辞職し、そしてこんどは入れ替わりまた立候補するという。これまた局外者の私が知ったことではない。しかし、春の話題とも言えそうにない腑に落ちない報道である。
 きょう(三月十日・日曜日)の夕方からあすにかけては、また雨の予報である。ところが、自然界と違って人間界は、晴れの日に恵まれず、鬱陶しい雨の日ばかりが続いている。

 春先の悪天候

 三月八日(金曜日)、現在は夜明け前にある。かたわらの窓に掛かるカーテンを開いて、外模様を確かめた。実際には、雨が降っているかどうかの確認である。しかし、一基の外灯の灯る道路には、雨脚の照り返りは見えなかった。雨のない夜明けになりそうである。ところが、寝起きのわが身体は寒さで冷えている。おのずからわが気力は萎えている。
 これまで何度か書いているけれど、再び書かずにはおれない。それは三月なった途端、続いている悪天候のことである。これまた実際には雨の日が多いこと、そして同時併行に寒気に見舞われていることである。これらのせいでこのところのわが気分は、憂鬱気分にとりつかれてすっかり萎えている。具体的にはこの間の私は、それを克服する気力をまったく殺がれている。その挙句に現在のわが心中には、こんな思いが浮かんでいる。(冬のあいだの寒さと春の寒さは、異質なのか!)。確かに、気温は同じであっても心身に感ずる寒さは、春のほうがはるかに厳しく感じられるところがる。下種の勘繰りをすればこれは、冬と春における心構えの違いからもたらさているのであろうか。ひと言で言えば春の寒さは、(こんなはずじゃなかった!)という、心構えの緩みがもたらしているのであろうか。それも、一理ありそうである。しかし、三月になってからの雨の日の多さと、それにともなう肌身の寒さは、やはり尋常ではない。何の祟(たた)りであろうか? 私は日々泣きべそをかき続けている。
 人の世にあって三月は、多くは悲喜交々の門出の月である。学び舎には卒業式があふれて、会社や役所は人事異動の真っただ中にある。共に、哀歓まみれである。そうであればやはり、春の暖かい陽射しの下に、門出を迎えてほしいと願うのは、他人事(ひとごと)ならぬわがささやかな人情である。ところが悪天候のせいで、せっかくのわが人情がズタズタに砕かれることには忍びない。
 夜明けの早い時期にあってこのところは、さわやかな気分はまったくお蔵入りである。気象のことゆえに、恨みつらみを言っても、埒(らち)は明かない。だから、それを克服できないわが気力の萎えが嘆き節の根源である。久しぶりに朝日の輝く夜明けが訪れである。春が目を覚ましたのであろうか。欲張って、あすも望むところである。

蠢き立つ虫たち 

 「ひぐらしの記」は本当のところすべて、自作文で埋めたいところである。しかし、そう粋がったところで、実際にそうはできない。そのため、本意ではないけれど、私はやたらとメディアの報じる配信ニュースを引用している。もう一つは、カレンダー上に記されている歳時(記)の引用を試みている。もちろん、双方共に忸怩(じくじ)たる思いはある。しかし、一方では致し方ないかな! という自己弁護がある。なぜなら、私にかぎらず人の営みは、世の中の出来事や季節めぐりの中に存在する。現下の世の中の動きを手っ取り早く教え、そして伝えてくれるのには、やはりメディアの配信ニュースに勝るものはない。一方、古来の人間の営みや、折節の季節の行事や催事を伝えるものでは、カレンダー上に記載の歳時(記)に適(かな)うものはない。おのずから私は、これらのご利益(りやく)を度外視あるいは放棄して、ひぐらしの記を書き続けることはできない。なさけないけれど、引用多用のわが楽屋話である。
 きょう・三月六日(水曜日)のメディアの配信ニュースの中には、数か月にわたりに日本社会の話題を成していた日産元会長・カルロス・ゴーン氏の保釈にかかわるものがある。しかしながらきょうは、カレンダー上に記載の「啓蟄」のおさらいにとどめるものである。もちろん、今さらおさらいするまでもない、だれもが知り尽くしていることばではある。それでも、あえて電子辞書をひもとくのは、わが日暮らしにメリハリをつけると同時に、季節のめぐりを実感するためである。なぜなら、私にかぎらず人の日暮らしは、季節のもたらす恩恵にすがり続いている。この日になると毎年おさらいしているのは、もちろん春の息吹を手っ取り早く実感したいためでもある。
 「啓蟄」:(蟄居、すなわち冬ごもりの虫がはい出る意。二十四節気の一つ。太陽の黄経が345度の時で、2月の節。太陽暦の3月5日頃に当たる。季語は春)。
 「蟄居」:(①虫が地中にこもっていること。②家にこもって外出しないこと。③江戸時代、公家・武士に科した刑の一種。出仕・外出を禁じ、自宅の一室に謹慎させるもの。特に終身蟄居させることを永蟄居という。中世、所領没収などの他の刑とあわせて科されたこともある)。
 もちろん、①以外は啓蟄とは関係ない。啓蟄とは、虫たちにとってのわが世の春の訪れである。しかし、ちょっぴり同情するのは、きょうの鎌倉地方は雨の予報である。虫たちは、地中で地団太を踏んでいるかもしれない。私は、地上で長くぐずつく天候に気分を滅入らせている。しかしながら啓蟄は、確かな春の訪れの証しである。気まぐれ天候も、この先そう長くは続くまい。

「春ウララ」は、いつ?… 

 三月五日(火曜日)、夜明け前にあって、雨はようやく降り止んでいる。人に裏切られることとは違って、季節に裏切られることに腹を立てることは、確かにおとなげない。しかし、春の訪れを待ちわびていただけにがっかりはしている。身体の現象では冬には免れたのに、春になって風邪の兆しに見舞われている。パソコンを起ち上げる前に、カーテンの掛かる窓ガラスを開いた。突然、冷たい風が心身を晒した。待ちわびていた春は、こんなはずじゃなかった。
 きのう(三月四日・月曜日)の夕方のNHKテレビ、「お天気コーナー」にあって、女性同士のアナウンサーと気象予報士の会話の一部はこうである。「なんだか、雨の日ばかりが続いていますね」「そうです。関東地方は、一週間で晴れの日は一日だけでした」「雨だけでなく、寒い日が続いていますね」「あすは気温が上がり晴れますが、あさってにはまた雨が降りそうです」こんなことでは、三月上旬の天気はぐずつきそうである。まったく、うんざり気分である。
 うんざり気分晴らしには、桜だよりにすがることとなる。しかしこれにも、「寒の戻り」や「花に嵐」という、季節用語が待ち受けている。「春ウララ」という季節用語の出番は、いったいいつになるのであろうかと、気を揉むばかりである。あすは「啓蟄」(三月六日・水曜日)である。ところが、気象予報士の雨の予報が当たれば、地中の虫たちは出端(でばな)を挫かれそうである。もちろん、わがうんざり気分は長引くこととなる。季節は、私のみならず人が望むようにはめぐっていない。
 夜明けて東の空は、ほんのりと明るんでいる。予報どおりにきょうは晴れそうである。時間を追って、気温も上がってくるであろう。確かに、自然界の営みに腹を立てるのは、愚の骨頂と言えそうである。なぜなら人は、よくもわるくも自然界のなすがままである。桜だよりを待つ身にあって、「東日本大震災」(平成二十三年・二〇一一年、三月十一日)から八年がめぐってくる。

 朗報

 三月四日(月曜日)、時計の針は六時半近くを回っている。すっかり夜が明けて、きのうに続いて雨の朝を迎えている。こんなに遅く起き出してきたのは、肌寒さに耐えかねて、ずる休みを決め込んでいたせいである。何たる春の出だしであろうか、悪天候続きである。
 きのうの「雛祭り」(三月三日・日曜日)にあって関東地方は、夜来の雨に見舞われて一日じゅう降り続いた。気象予報士の予報によれば、鎌倉地方の雨の降り出しは午後過ぎと言う。ところがこの予報は半分外れて、同様に夜来の雨に見舞われ、これまた一日じゅう降り続けた。そのうえ雨は、春雨とは言えない冬戻りの冷雨だった。そのためわが夫婦は、一日じゅう茶の間暮らしを余儀なくした。悪天候は、もちろん外への足止めと憂鬱気分をもたらしていた。
 ところが、九時過ぎからの日本テレビは、飛んでもない画面をもたらした。画面は、たちまち憂鬱気分をはねのけた。そして、二人の意気高揚する気分は、一日じゅう続いたのである。まさしく、思い及ばなかった朗報だった。確かに、書くに耐えない身勝手な朗報だけれど、ずる休みに替えて配信ニュースの引用を切にお許し願うところである。
 記録に留め置くのは、全体の配信ニュースから、わが身にもたらした朗報部分のみを抜粋し、記すものである。
 【中大の堀尾謙介が学生初のMGC獲得 東京マラソン】(2919年3月3日11時48分 スポーツ報知)。◆東京マラソン(3日、東京都庁スタート~東京駅前ゴール=42・195キロ)。「男子は、中大4年の堀尾謙介(22)が2時間10分21秒(記録はいずれも速報値)で日本人トップの5位に入った。途中まで現中大監督の藤原正和が2003年のびわ湖毎日でマークした初マラソン日本最高&日本学生記録(2時間8分12秒)の更新も視野に入れた大健闘で、学生として初めて20年東京五輪マラソン代表選考会(MGC、9月15日)の出場権を獲得した。4月からトヨタ自動車に入社する183センチの大型ランナーが東京五輪代表争いに名乗りを挙げた。」
 パソコントラブルに見舞われて、一度書いた文章は突然消えた。このため、あらためての書き殴りである。こちらもお許しを願うところである。やはり、休むべきだったのかもしれない。雪に変わりそうな雨模様である。朗報の余韻が、たびたびの憂鬱気分を救っている。

雛祭り 

 天気予報によれば、午後あたりから雨が降りそうである。夜明け前の現在は、結構冷え込んでいて、寒くて気分が滅入っている。日本社会にあってきょうは、「雛祭り」(三月三日・日曜日)である。そうであれば気分は、おのずから華やぐところがある。すると、悪天候のもたらす気分の滅入りは、春気分を挫かれた罰当たりに思えるところがある。しかし、実際にはどうした罪で、罰が当たっているのかはわからない。
 日本社会にあって雛祭りは、歳時記によれば古来、女の子の節句(お祝い)として営まれてきた。もちろん、女の子の健やかな成長を愉しみ、またこの先の無病息災を願って、祝福する和みのある明るいお祝い事であろう。そして、この祝意を形にしたものが「雛段飾り」と言えそうである。わが下種の勘繰りゆえに、本当の意義は知るよしない。雛祭りの本当の習わしには外れていたとしても、そう大外れではないだろう。かてて加えて私は、雛段飾りの謂れも知るよしない。
 ところが、雛飾りはただ眺めているだけでもほのぼの感が沸いてきて、心和むものがある。やはり雛飾りの飾り人形は、女の子のお祝いにふさわしいものと、言えそうである。さらにそれは、雛飾りに託する親の気持ちがいっぱい詰まっているためでもあろう。
 わが子にたいする親の気持ちを表すものでは、男の子の場合は「端午の節句」(五月五日)として営まれてきた。確かに、男女平等が叫ばれている現代の世にあっては、双方一緒のお祝い日にしてもいいのでは? と、思えるところはある。実際にも、なぜ端午の節句は国の祝祭日と決められて、一方の雛祭りはそうならないのか。差別だ! と、声高に言う人たちは大勢いる。しかしながら実際のところは、そう盛り上がらないままである。私にすればやや不思議なところである。
 これまたわが下種の勘繰りをすれば、端午の節句が「こどもの日」(祝祭日)に置き換わりはじめて、男女共用のお祝い日になりつつあるためであろうか。それとも、これまでのように分けて商機を狙う商魂の逞しさのせいであろうか。確かに、春先の雛祭りは、気分的にも和むところがる。お祝い事は一度ならず二度、いや何度あってもいいとすれば、差別と難癖をつけて、あえて双方の節句と一緒にすることもなさそうである。
 わが雛祭りの遠い思い出には学童の頃、村中にただ一軒(かさじめ集落)だけ雛飾りをされていたお宅への、学校から遠い道のりを歩いての見学である。娘の誕生を祝う雛飾りは、たったの一度だけである。そののちは出したりしまったりが面倒で、埃まみれにしまい込んだままである。だから、今の私には、高いお金をはたいてくれた亡き義父母にたいし、すまなさがあふれている。やはり雛祭りは、人間の情愛を浮かべては懐かしむ、春一番のお祭りかつお祝い事なのかもしれない。
 雨の予報がちょっぴり恨めしい。いや、夜明けてみれば、もう雨の朝の「雛祭り」である。

わが春気分 

 「春は名前負け」と、書いた記憶がある。確かに、この体験は正しいと、言えそうである。きょうは春へと月替わって、二日目の三月二日(土曜日)である。ところが、きのう、おとといと、二日続けて雨降りに見舞われた。まったくの期待外れである。
 きのうの気象予報士によれば、きょうは晴れの予報である。この予報もいまだ夜明け前にあっては、もちろん確率にすぎなく確証ではない。そして、あすのひな祭り(三月三日・日曜日)は、またもや雨の予報である。こんなこともあってわが脳裏には、恨めしく冒頭の言葉がよみがえったのであろう。
 確かに雨は、冬のあいだの冷雨(ひさめ)から春雨のよそおいを醸し、冷気を遠のけてはいた。しかし、春待つ心が旺盛だったためか、春の出だしには興ざめを食らっていた。しかしながら、眺める野山は適度の雨降りを味方にして、瑞々しく早春の芽吹き風景に映えている。啓蟄(三月六日)を間近にして、地中の虫たちも蠢(うごめ)き出し、出番を待っている。そして、春にはつきものの嵐も出番を待っている。すでに庭中では、雑草が緑の色合いを深めている。この様子を眺めていると、おのずからわが心中には草取りの難儀が浮かんでいる。確かに春は、待つほどには「名前負け」のところがある。
 きょうの私には、次兄宅(東京都国分寺市内)への訪問の予定がある。片道三時間近くの道のりである。それでも、このところ毎週続いているのは、次兄夫婦への恩返しのためである。自然界と違って人間界は、行動しなければ恩返しはできない。予報どおりの麗らかな春日和を願っている。確かにわが春気分は、天候しだいである。それでだけに本当のところは、名前負けは御免蒙りたいものである。

米朝会談「拉致問題」 

 三月一日(金曜日)、「冬来たりなば春遠からじ」の成句を遠のけて、いよいよ正真正銘の春の到来である。寒がり屋の私には、やはり心躍るところがある。しかしながらきょうは、かなり心寂しい結果を伝える配信ニュースを記さずにはおれない。もちろん、そう簡単に展望が開けるとは思えていなかったけれど、拉致被害者家族のお気持ちを察すれば、他人事とは思えない寂しいニュースである。この報道にひと言添えれば、国交という政治の交渉事とは異なり、朗報を待つ身の家族には限られた日数しか残されていないことである。拉致家族の我慢のつらさが、わが身にもとことん沁みている。
 【拉致被害家族ら、落胆と期待 米朝会談で議題化「誠意感じた」】(毎日新聞 2/28日・木曜日 21:35配信)。北朝鮮の完全非核化や日本人拉致問題に進展はなかったのか。8カ月ぶりに開かれた2回目の米朝首脳会談は、合意に至らなかった。進展を信じて会談の行方を見守った拉致被害者の家族らは、落胆とそれでも期待する複雑な胸中をのぞかせた。「焦って妥協してほしくなかったので、前のめりにならなくて良かった」。トランプ大統領の記者会見後、川崎市の自宅マンションで取材に応じた拉致被害者の横田めぐみさん(行方不明時13歳)の母早紀江さん(83)は、非核化を巡り合意に至らなかったことを冷静に受け止めた。会談で拉致問題が議題に上ったことについては「きちんと伝えていただき、(トランプ大統領の)誠意を感じありがたい」と述べ、「拉致問題を解決しなきゃいけないのは日本。安倍さんにも頑張ってほしい」と話し、事態打開に向けた日朝首脳会談の実現を求めた。入院中の父滋さん(86)とは会談前に「どうなるか分からないね」と話した。早紀江さんは「拉致を信じてもらえなかった時代から40年過ぎても闘っている。その道のりを思えば世界中の人が見ている中で拉致がはっきりと認識されるようになった。あとはもう祈るしかない」と語った。拉致被害者、田口八重子さん(同22歳)の兄で家族会代表の飯塚繁雄さん(80)は米朝会談について「2回目だから具体的な交渉があって結果が出ると想像していた。我々の熱は冷めないが(会談が)3、4回目となると熱が冷めてしまう」と懸念を示した。一方で「安倍晋三首相がトランプ大統領からどのようなコメントを得られるか期待している。どういう状態でも(解決を)諦めない。もう一度政府と話したい」と語った。神戸市出身の拉致被害者、有本恵子さん(同23歳)の父明弘さん(90)はトランプ大統領の会見のテレビ中継を見た後に「(会談に)期待していたけれど、核放棄は難しい」と声を落とした。「核を放棄させるより、拉致被害者を取り返す方が早いと思う。安倍首相が『返せ』と迫るしかないのではないか」と話した。1978年に鹿児島県旧吹上町(現日置市)で増元るみ子さん(同24歳)と共に拉致された市川修一さん(同23歳)の兄健一さん(73)=同県鹿屋市=は、今回も拉致問題の進展がなかったことに「いつまで待てばいいのか」と声を絞り出し、涙をにじませた。拉致被害者で2002年に帰国した蓮池薫さん(61)は新潟県柏崎市を通じ、会談が合意に至らなかったことについて「意外であり残念」としたうえで、「下手に譲歩をした合意よりは真の非核化、さらには拉致問題の進展につながると思う。議題に拉致問題が上がったことは幸い」との談話を出した。

二月最終日 

 二月二十八日(木曜日)、二月の最終日が訪れている。現在の時間帯は、夜中の二時半過ぎである。夜中にあってももはや、寒気は感じられない。だから、寒がり屋の私は、季節のめぐりに感謝せずにはおれない。ただ惜しむらくは、季節めぐりの速さ(感)がわが余命を時々刻々と縮めていることである。しかしながら、これにはどうあがいてジタバタしたところで、どうなることでもない。早い話、愚の骨頂の極みである。
 きのう(二月二十七日・水曜日)の掲示板には、待ちわびていたふるさと情報のご投稿にさずかった。ご投稿くださったのは、わがふるさと(熊本県山鹿市菊町)ご在住の洋子様である。ご投稿のたびにお人となりを短く紹介しているけれど、それにならえば洋子様は、わが恩師のご長男の奥様である。ご投稿文には、私が普段懸念している恩師とわが長兄の近況がつづられていた。加えて、現在放映中のNHK大河ドラマ『いだてん』にちなんで、ドラマ当該地の活況ぶりがそえられていた。
 ドラマの主人公・金栗四三様の生誕地は、山鹿市に近接する玉名市である。このため洋子様は、恩師と連れ立って生誕地を訪れられたと言う。そして、文章の中にはわが知りたい近況が織り込まれていたのである。まさしく、私が知りたがっていたふるさと情報満載だった。そのためきのうの私は、洋子様にたいしお礼と感謝のふるさと電話をかけた。
 掲示板がご投稿文で賑わうと、わが疲れがちの心身はにわかに元気づいてくる。洋子様のご投稿文にさずかり、私はあらためてこのことを実感していた。人生終盤の寂しさと哀しさは、人様との交流が日を追って減り続けることであろう。すると、「ひぐらしの記」は、わが終盤人生に身に余る恩恵をもたらしている。恩恵とは、ひぐらしの記を通して人様との交流の継続にあずかっていることである。きのうの私は、そのことをあらためて強くわが肝に銘じていた。
 過ぎゆく二月もまた、一月ほどではないけれど、それでもやはり暖冬異変に恵まれた。恵まれたと書くことには誤解を招きそうだけれど、もちろんそれはわが寒がり屋ゆえの限定表現である。なぜなら、世の中には寒の季節や雪をあてにして、生業(なりわい)を営む人たちは数多(あまた)いる。それらの人達にとって暖冬異変は、必ずしもありがたいとは言えず、むしろ恨めしいものであろう。暖冬異変にかぎれば、確かに二月はありがたく過ぎてゆく。
 それでも、恨みがつのるものはある。それは、国政舵取りの不毛ぶりである。そして、こちらはもはや異変とは言えず、常態化しているありさまである。テレビカメラが映し出す国会中継にあっては、開きに直りの弁解や嘘まじりの言い訳ばかりが目立っている。あたかも閣僚の仕事は、国会で逃げ口上の返答に立つことなのか! と、勘繰りたくなる嘆かわしい光景である。
 日本の国にあって現在は、税の確定申告の時期である。ところが、納税者の気持ちと税を使う国政の舵取りは、かけ離れるばかりである。せっかくの冬から春への月替わりも、やたらと気を揉んで、二月が過ぎてゆく。

二回目の「米朝首脳会談」 

 世界の関心事。だからきょう(二月二十七日・水曜日)は、以下の配信ニュースを引用し、会談の成果に期待を寄せるところである。もちろんわが期待は、拉致被害者とその家族をおもんぱかってのことである。拉致問題の解決を、日本政府にすがれないはなさけない。
 【トランプ大統領、ハノイに到着 27日米朝首脳会談へ】(毎日新聞 2/26日・火曜日、23:22配信 )。2度目の米朝首脳会談に臨むため、北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長が26日ハノイに到着した。同日夜にはトランプ米大統領もハノイ入り。両首脳は27日、少人数の夕食会で2日間の首脳会談をスタートさせる。昨年6月以来8カ月ぶりとなる対面で、北朝鮮の非核化に向けた具体的な前進ができるかが最大の焦点となる。23日に平壌を出発し中国国内を南下していた金委員長の特別列車は26日午前、国境を越えてベトナム北部ドンダン駅に到着した。ベトナム共産党や政府の幹部が駅に赤いカーペットを敷いて出迎えた。北朝鮮最高指導者のベトナム訪問は、金委員長の祖父の故金日成主席(当時首相)が1964年に訪問して以来55年ぶり。ベトナムのニュースサイト・VNエキスプレスによると、金委員長は歓迎に対し笑顔で「とてもうれしい。ベトナムに感謝する」と語った。ドンダン駅で降車した金委員長はハノイまでの残り約170キロを車で移動、市内のホテル「メリア・ハノイ」に到着した。金委員長は首脳会談後も3月2日までベトナムに滞在。ベトナム首脳との会談や経済視察に充てるとみられる。一方、トランプ氏は26日夜、ハノイの空港に大統領専用機で到着した。ホワイトハウスのサンダース報道官は機中で記者団に、両首脳が27日夜、少人数での夕食会を持つと明らかにした。28日には通訳のみを交えた「1対1形式」の会談や昼食をまじえた会合が予定されている。

実感「便りの無いのは良い便り」 

 二月二十六日(火曜日)、時計の針は、夜中三時近くを回っている。起き出してきたのは、二時半あたりだった。そして、いつものようにメディアの伝える配信ニュース一覧に目を通した。記録に留めるほどのニュースはない。さしたるニュースがないのは、日本社会にとっては幸運である。なぜなら、これまでの体験からすれば、配信ニュースの多くは暗いニュースばかりである。このため、さしたるニュースがないことは、もちろんいっときとはいえ、喜ぶべきところである。
 世の中には、古来「便りの無いのは良い便り」という、成句が存在する。なさけなくもこの頃ではとみに、この成句は当を得たものと思うばかりである。なぜなら、私自身のみならず周囲が年齢を重ねたこの頃にあっては、私は常に「便り」にびくびくしている。今や実際にも、「良い便り」を受け取ることはまったく考えられない。だから、便りなど無いことに越したことはない。若い時分には思い及ばなかった現在のわが心境である。
 わが現住する鎌倉地方にかぎらずきのう(二月二十五日・月曜日)の日本列島は、蒸し暑いほどの高気温と明るい陽射しに恵まれた。いよいよ季節のめぐりは、冬と寒気を遠のけて、暖かい春へとめぐって来た。春待つ私は、ふりそそぐ陽気にもたれて茶の間暮らしに終始した。きのうの私は、めぐって来た季節の恩恵にたっぷりと浸かっていたのである。しかしながら、穏やかな気分で陽ざしを浴びていたわけではない。もちろん、きのうにかぎることではないけれど、このところの私は時ならぬ便りにびくびくしている。言うなればわが身と、それを取り巻く現象への怯えである。その根源は、ふるさとの長兄・九十二歳、東京都国分寺市内に住む次兄・八十八歳、そしてわが身・七十八歳にある。父がもうけた十四人の子どもたちの中で、残る三人の現状である。
 ネタ不足にこと欠いて、こんなことまで書くようでは、もはや「ひぐらしの記」はおしまいである。みんなが若い時分にはきょうだい同士で、待ちわびた「良い便り」が盛んに飛び交っていた。ところが今や、たがいにわずか一通の便りにさえも恐怖を強いられている。もちろん、良い便りが届くことは、まったくないからである。

平成天皇陛下「在位三十年式典」 

 日本の国における年号(元号)は、新たな天皇陛下の即位によって誕生し、退位にともなって時代を画し、過去ページに刻まれる。だからと言ってもちろん、人の生存自体が消えるわけではなく、人の営みは命をかえて、過去、現在、そして未来へとつながれてゆく。しかしながら年号の変遷は、日本の国にあっては確かなエポック(時の刻み)である。
 いよいよ四月三十日を打ち止めにして、「平成時代」という、三十年の今上天皇陛下のご退位が近づいている。それにちなんできのうは、「平成天皇陛下、在位三十年式典」(東京・国立劇場)が日本政府主催で行われた。私は、テレビでその様子を粛々と眺めていた。そして、過ぎ行く一時代にたいし、感傷と感慨をつのらせていた。きょう(二月二十五日・月曜日)は、その様子を伝える配信ニュースの引用を試みている。なぜなら、記して置くべき日本の国の一大エポックだからである。
 【象徴に「誇りと喜び」=感謝の言葉、何度も-天皇陛下、在位30年式典】(2019年02月24日16時41分 時事ドットコムニュース)。「天皇としての務めを、人々の助けを得て行うことができたことは幸せなことでした」。24日に行われた天皇陛下の在位30年記念式典。退位を約2カ月後に控えた陛下は、国民統合の象徴としての「誇りと喜び」を持って務めを果たしてきたと述べ、時折声を震わせ、国内外に何度も感謝の言葉を口にされた。式典は東京・国立劇場で午後2時に始まった。即位以来、象徴像を模索し続けた日々を振り返り、天皇の務めを果たしてこられたのは、象徴として「誇りと喜び」を持てる国民の存在と、日本が過去の歴史の中でつくり上げてきた「民度」のおかげだったと述べた。陛下は、日本で戦争がなかった平成時代を「国民の平和を希求する強い意志」に支えられたと述べた。被災地で多くの悲しみに遭遇し、けなげに耐える人々や、それに寄り添う全国の人々の姿も思い返し、自身も困難な人々に寄り添い続けた。しかし、象徴像を模索する道は果てしなく遠かったと心情を吐露。陛下が追い求めた象徴像を皇太子さまら次世代が補うことを願った。「ともどもに平(たひ)らけき代(よ)を築かむと諸人(もろひと)のことば国うちに充(み)つ」。
 平成が始まって間もなく皇后さまが詠んだ和歌も紹介し、昭和天皇逝去により深い悲しみの中で即位した直後の心情も明かした。この頃全国各地から「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」との言葉が寄せられたことを明かし、「静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています」と声を震わせながら語った。

三十五回目の「流星群だより」 

 きのう(二月二十二日・金曜日)、大沢さまより妹編「流星群だより」が送られて来た。流星群だよりは、年に二度発行される姉編「流星群」に集う、作者仲間たち向けの交流誌である。流星群だよりもまた、年に二度の発行が継続されている。このため姉妹編は、つごう年に四度発行されている。このため、大沢さまにすれば三か月に一度の発行となる。大沢さまにはまさしく大車輪のご奮闘が強いられている。ところが大沢さまは、両者の発行を二十年間一度も欠かさず継続されている。それを言葉で「神わざ」と言うだけでは、まったくわが意をなしていない。かてて加えてこれらの発行は、書き手サービスに志を置かれているものである。すなわち、掲げられている志は、書き手に寄り添う出版業の実現である。具体的にはお金のかかる本づくりをみずからの体験を通して、「安価に叶えてあげたい」という、初志一心をいだいての挑戦である。
 より具体的には大沢さまの場合は、自分史や自叙伝づくりなどに加えて、だれもが生涯に一冊だけとは! と夢見る、本づくりや写真集づくりへの奉仕精神である。発行と言えば誤解を招きやすいけれど、もちろん儲け主義一辺倒の大手出版社とはまったく初志を異にするものである。その志は、あくまでも書き手の創作意欲を本の形にしてあげようという一点張りである。その確かな証しは、出版社の大小や形態を求めず、自分ひとりの手作りを旨に、初志貫徹を徹底されていることである。
 私は詳細を知るよしはないけれど、出版業はきわめて手間暇のかかるものとは想像できる。かてて加えてそれよりなにより、一刻に神経を研ぎ澄まされて、かつ一字一句さえミス(誤り)が許されるものではないはずである。なぜなら、たった一字の文字の脱落、誤字、印刷のずれでもあれば、たちまち書き手から非難囂囂を受けて、頓挫の憂き目に遭うこととなる。もちろん書き手とて、俗に言う「鬼の首を取ったかのごとく」、むやみやたらと非難するものではないけれど、やむにやまれぬ悔しさがあるのであろう。それほどに書き手としては、ようやく書き上げた文章に、みずからの夢つなぎをしているのである。この作者の気持ちを受けて立たれる大沢さまの志は、どんなに崇高であり、半面厳しいものであろうかと、私は常に心に留めている。なぜなら私には、この思いだけしか恩返しのしるしがないからである。
 冒頭に戻れば流星群だよりは、まったく無償のたまわりものである。流星群および流星群だよりが届くたびに私は、大沢さまの志の崇高さに心打たれ、同時に継続の奮闘に称賛を重ねている。このため、きょう(二月二十三日・土曜日)の私は、三十五回目の流星群だよりご送付を受けて、たまりたまっているわが思いを吐露し、記してみたくなっている。しかし、ほんの一部の思いだけにとどまり、とうてい書き尽くすことはできない。