ひぐらしの記
 
前田静良 作 


 2014.10.27カウンター設置
以前の作品は右掲載の単行本に収録しました。
 
内田川(熊本県・筆者の故郷) 富田文昭さん 撮影 

 カンフル剤のおかげ

 三月十七日(日曜日)、「春分の日」(三月二十一日・木曜日)を間近にして、私は春の季節が嫌いになっている。起き立ての私は、肌寒くて心が萎えている。もちろん、待ちわびていた春の季節は、こんなはずじゃなかった。しかし、これまでの体験的では、まったく知らないわけでもなかった。それでもこの肌寒さは、大相撲の技に例えれば、「肩すかし」を食らった気分である。その挙句には文章を書く気分が殺がれて、寝床へのとんぼ返りを決め込んだ。だけど、いつものようにメディアの伝える配信ニュースは読み漁った。あからさまに逃げた気分で読み漁った。いや、正直に記すと配信ニュースを引用し、自作文の途切れを埋めようという浅ましい魂胆だった。ところが、幸か不幸か「ひぐらしの記」にふさわしい配信ニュースには出合えなかった。そうであればと、自分の好きな記事だけを選んで、時間をかけて読んだ。それには、こんな理由があった。それは、そうしているうちに気力の回復、具体的には書く気力の高揚を願っていたのである。しかしながらこんな小手先で、肌寒さを凌ぐ気力の高揚は得られなかった。いっそう投げやり気分が増幅し、やけのやんぱちになった。
 きのう(三月十六日・土曜日)の私は、東京都下国分寺市内に住む二兄夫婦(共に八十八歳)宅へ出向いた。この一か月強は、毎週出向いている。年老いても優しい二人は、私にとっては亡き父と母に代わるかけがえのない大恩人である。その恩に報いるための、表敬訪問の繰り返しである。わが家へ帰り着いときには日長の時季ににあっても、すでにすっぽりと夜の帳(とばり)が下り、煤けた玄関灯は輝いていた。
 就寝前に掲示板を開いた。きのうの私は東京行きの予定もあって、いつもにも増して書き殴りの文章を書いていた。ところがわが文章は、救いの神様に助けられていた。掲示板上には、大沢さまから勇気づけられる文章がご投稿されていたのである。ご投稿文の内容は、大沢さまご自身がエアコン掃除を為されたという、一部始終の顛末記だった。そして、見事に掃除を完結されて、再びスイッチを入れれば、エアコンから清々しいそよ風が吹いたと、記されていた。私にはまったく考えられない驚嘆すべきご投稿文だったのである。なぜなら私の場合、こんな大それたことは、端(はな)から手出し無用と決め込んでいる。それでいて、業者に頼むには金を惜しむケチ臭い根性がある。その挙句には古い形式のエアコンでありながら、買ったままにほったらかしである。耐用年数など知らぬが仏で、故障を恐れてオドオドしながらスイッチを入れるばかりである。もちろん、買って、もう何年になるのかさえわからずじまいである。
 ところがわが不安の虚を突いて、去年あたりから新聞の折り込みチラシには、エアコン掃除案内が目立っている。もちろん、無料のサービスではなく、それなりに値の張る業者の勧誘チラシである。そのため、このところの私は、勧誘記事に気も漫(そぞ)ろ気味である。就寝前でもあって、大沢さまのご投稿文は一度読んだだけであった。すると、閃(ひらめ)いたのである。具体的にご投稿文を読み直し、大沢さまの文章からカンフル剤を打ってもらおうという、他力本願の浅ましさである。ところがこの見えみえの浅ましさは功を奏して、この一文にありつけたのである。もちろん、エアコンの掃除ばかりではなく、大沢さまの多能ぶりには日々恐れ入るばかりである。大沢さまは、すごいなあー! わが身のなさけなさにはとことん呆れ返るばかりである。

たまわった好い気分 

 きのう(三月十五日・金曜日)、妻が「パパ。あしたはこのことを書いたら…書いてね」と、言った。「うん。書くよ」、と応じた。それは台所と茶の間を数歩行き来して、台所の窓に掛かるカーテン越しに眺めた光景である。私は、台所から茶の間を覗く妻の無言の手招きに応じた。数えたわけではないがそのたびに、いそいそと何度かソファから腰を上げた。そして、声と身を細めて妻のかたわらにたたずんだ。そのつど私たちは、カーテン越しにうれしい光景を眺めなら、ひそひそ話を短く交わし合った。ひそひそ話は、時の経過に応じて少しずつ変わった。たがいに顔をほころばせて、おおむね「パパ。うれしいね」「ほんとだね」という、阿吽の呼吸のやりとりだった。いつもであればソファから立ち上がるのが億劫で、「何よ!」と言って、諍(いさか)いを免れないところだった。ところが私たちは、仲良く窓の外の光景を眺めながら快感に浸っていた。それは、まったく見知らぬ人様からたまわったご褒美みたいなうれしい情景だった。その証しには眺めていた光景が閉じると、抑えていた声が堰を切ったかのように、何度も大きな声でうれしさを露わにした。以下は思いがけなく目にし、たまわったうれしい光景の一コマである。
 私は掃除を日課とする道路の側壁(コンクリ壁)の上に、手間の要らずの紫大根のタネをばら蒔いている。するとこの時期にあって紫大根は、二十メールほどのひとすじの帯を成して花開いている。タネをばら蒔いているのは、散歩道路にたいするわがほどこしのつもりである。確かに紫大根は、どこの路傍にもよく見られる草花のたぐいである。このため、ときには通りすがりにいたずらに花を摘んでゆく人がいる。この光景を台所から目にすると、妻は鬼気迫る勢いで「パパ。わたし、追っかけようかしら…」と、息巻いている。妻の剣幕に恐れて、私はなだめ役になる。「ほんとに、気分がわるいなあー、だけど追っかけたらみっともないよ!」という、私の言葉で妻の苛立つ気分はようやく収束する。草花まがいとはいえ身勝手に花を摘むのはやはり花泥棒であり、現行犯逮捕の範疇に入れていいのかもしれない。ところが、きのう眺めた光景はまったく逆で、その間ずっとうれしさが込み上げていた。まさしくその光景は、わが夫婦の老いた心身を癒してくれた快感だったのである。光景の変化に応じて、妻の手招きは何度も繰り返された。画板は正規の画用紙だったのか、それとも手持ちの紙の切れ端だったのか、不明のままであった。正面から見たわけではなく、遠目で眺めた後姿の光景でもある。しかしながら後姿は、ようやく中年の部類に入るくらいのいまだに若い女性である。おそらく、こんな素敵な心掛けだから、美しいお顔と共に心豊かな人だったのであろう。その女性は紫大根を前にして、結構長い時間たたずんで写生をされていたのである。最初は鉛筆で、粗いデッサンだったのであろう。右の手首が素早く動いていた。ところが驚くなかれ、次にはパレット上の絵の具と絵筆が、ちょっとばかり垣間見えたのである。しかしながら、道路上に立ったままの写生には、おのずから制限時間が訪れる。私は妻の手招きに応じて、妻のかたわらにたたずんだ。
「パパ。スマホで写真を撮られているよ」
「そうだね」
 女性は、立ち去られた。わが夫婦の気分は、全天候型に晴れわたっていた。

バリカン 

 日本随筆協会:共著『私の宝物』への投稿文。私は、二〇〇〇年七月に六十歳になり、九月に定年を迎える。加齢のたびに、郷愁が募っている。事実が遠くなればなるほど、思い出は鮮やかによみがえる。ふるさととは不思議なものである。遠い日に体験した小さいできごとまでが、まるでシネマスコープのように、心の中に投影されてくる。私のふるさとは、熊本県鹿本郡内田村(現在の菊鹿町)である。内田村は、遠くに国有林を望み、近くには村人たちの共有林をたずさえて、狭隘な田んぼと段々畑を山懐に抱いていた。村の中にひとすじの内田川を横たえて、その脇には競うように一本の県道が並走していた。ただ、その絵姿は、仲睦まじい鴛鴦(オシドリ)のように、ともにくねくねと曲線を描いていた。鄙びた農山村の風景が村全体をくるんでいて、どこの家にも、おだやかな暮らし向きがあった。
 この村で、私は昭和十五年(一九四〇年)七月十五日に生まれた。そのとき、父は五十六歳であり、母は三十七歳だった。父は先妻の病没後に、母を迎えていた。顧みれば、父四十歳、母二十一歳、十九も年が離れたわが親も華燭の典だったのである。父は異母に六人の子を生し、母に八人の子どもたちをもうけた。私は、十三番めにあたる。十四番めの弟は、生後十一か月の幼い命を絶った。庭先で這い這いしているうちに弟は、生業の水車の取水口にドブンと、落ちたのである。このとき、弟の守りをしていたのは、四歳半頃の私である。わが生涯の悔恨である。
 生業は、内田川から取水し、水車を回し、精米業を営んでいた。そのうえ、三反歩ほどの農地と、わずかばかりの山地を所有し、自給自足の農家を兼ねていた。私は昭和二十二年(一九四七年)四月、内田村立内田小学校へ入学した。ある昼下がり、陽だまりが暖まると母は、「しずよし、頭でも刈ろうかね」と、言った。広い庭先の一隅に茣蓙筵を広げて、小さな「母ちゃん床屋」が開店したのである。回転椅子は母の膝枕だった。実際に私の頭を刈ったのは、銀色のちっぽけなバリカンだった。バリカンを操ったのは母の右手だった。何人もの兄たちの首筋や頭の上を這ってきた「バリカン」であろう。バリカンは、母の手の中でスムースに弾んでいた。母は右手でバリカンを操り、左手で私の頭を押さえつけた。母は頭から手を放すたびに、頭上で深呼吸を繰り返した。バリカンの冷たい感触が、巣立って子どもたちの面影を、母の心に引き戻していたのかもしれない。母はバリカンの刃先に息を吹きかけて、へばりついた毛をひなたに舞わせた。そして、しばし刈りぐあいを睨んでいた。調子づいてきた母が、突然頭を横に向けると、首筋が驚いて、私は「痛い!」と、悲鳴をあげた。「痛かった? ごめん。もうすぐ、終わるからね…」母は、とりなしの愛想を言った。しかし、坊主頭が輪郭を露わにすると独り悦に入り、詫びたようすには見えなかった。
「これくらいの痛みも我慢できんかい。じゃ、ここらでやめようか。トラでもいいんかい…」
 母のことばがじゃれついた。
 頭が押さえつけられるたびに、首筋に痛みが走った。私は、
「母ちゃん。おらあ、トラでも気にならんけんで、もうやめてもいいよ…」
 と言って、ことばを返した。
 一方で、母はやめるはずない、と高をくくっていた。バリカンが小気味よい音をかなではじめていると、突然、毛髪が通せんぼをした。
「痛いよ、母ちゃん。無理にバリカンを押さえないで! おらあ、ほんとにトラでもいいんだから…」
 母も意地になりはじめた。
 私は、「もういいよ」と、一方的に終了宣言をした。早く、遊び仲間と遊びたかったからである。しかし、頭はまだ、母の膝枕に乗っかっていた。
 父がバリカンを握った記憶はない。父は手先が不器用だった。母は、「なんでも屋さん」だった。近所の遊び仲間では、トラ刈が流行っていた。だけど、母の床屋さんでは、虎にはなれなかった。いつもの母は、本職顔負けに仕上げていた。母は、大勢の子どもたちの頭を刈ってきたゆえの、すでに熟練工だった。するとこの日の母は、私が急いていたため、いくらか調子を狂わせていたのかもしれない。
 母は白い前掛けをはたいて、「もう終わったよ」と言って、仕上げた頭をひと撫でした。私は母の膝枕から起き上がり、刈り立てほやほやの坊主頭を撫でた。頭は芽吹きはじめのつくしんぼのように、つるつるになっていた。私は仕上がりぐあいにブーイングは吹かなかった。雛が親鳥から飛び立つように、私は母の膝枕から勢いよく跳ねて、遊び仲間のところへ駆けた。日足が長くなりはじめて、陽は西に傾きかけていた。遊び仲間たちが、「なあんだ、しいちゃんは、虎じゃ、ないんじゃん?」と、言った。私はうれしくなり、遊び仲間たちの坊主頭を見た。みんなの頭に、大虎が寝そべっていた。
 五十年もむかしのことだが、あのバリカンは母の宝物だった。同時に、私の宝物でもあったのである。

記憶そして思い出 

 だれもが、「近い記憶はすぐに忘れるが、遠い記憶は忘れない!」と言う。確かに、このことだけは万民共通のようである。さらに、加齢をきわめるにつれてこの傾向は、いっそう著しくなるようでもある。私にはなぜだかわからない。しかしながらこれは、天与の恵みなのかもしれない。確かに、年老いて生じた出来事の記憶が消えず、しょっちゅう心中にまつわりついては鬱陶しいばかりである。なぜなら、人生晩年の出来事なんて、おおむね碌なことはない。これに比べてはるかに遠い出来事の記憶には、心中で浮かべる是非を選別する余裕がある。すなわち、良くない記憶はできるだけ遠ざけて、心の和む記憶だけをよみがえらせればよいという、余裕である。
 遠い記憶は、思い出という言葉に置き換えてもいいだろう。だからと言って思い出は、必ずしも良いことばかりではない。いやむしろ、よみがえるたびに怯えて、身の毛のよだつものはたくさんある。しかしながらそれは、幸いにも年月の隔たりによって、かなり薄められている。ところがやはり、思い出には喜べないところがある。なぜなら、厄介なものにかぎり常に心の襞(ひだ)に張りついているからである。到底、それを根こそぎなくすことはできない。だから、意識してはねつけなければならない。これこそ、心中における記憶や思い出の選別作業である。
 ふるさとに流れる「内田川」にあって、水温む春先の良い思い出の一つには、のどかにテグスを垂らしていた魚釣りがある。一方、消そうにも今なお消えなく、ギョッとよみがえるものもある。それは緑なす畦道を心勇んで走っていたとき、思わず踏んづけた「くちなわ(蛇)」の足裏の厭な感触がある。
 記憶や思い出のすべてが心和むものであれば、もちろん人生行路は楽ちんである。しかしながら、実際にはそういかないからこそ、艱難辛苦という言葉があり、あてにはならないと知りつつもすがりたくなる神仏への祈りがある。今まさによみがえっている心の和む思い出には、あす(三月十五日)から四日間にわたる、ふるさと「相良観音・春季恒例祭り」がある。もちろんそれは、神殿に参ることなく何枚かの硬貨を汗がにじむほどに握りしめて、行ったり来たりした参道の記憶である。結局は「綿菓子」を舐めたり、赤、緑、黄色に染められた「ニッキ水」を買った思い出である。

春の憂鬱:花粉症 

 三月十三日(水曜日)、頃は花粉症の季節だけれど、幸い私はその症状から免れている。これは小さいことのように思えるけれど、実際には飛んでもない幸運である。決まって毎年、この症状に罹る人の多くは、四季の中で春が最も嫌いだと言う。梅を皮切りに桜はもとより百花繚乱の季節にあって、春を毛嫌いせずにおれないのは、どんなにつらいことであろうか。
 図に乗って他人話のようなことを書いたけれど、さにあらず娘は、この季節花粉症に悩まされ続けている。花粉症のつらさを理解できることは、私も一度くらいは罹ったのかもしれない。しかしながら、その記憶は曖昧である。ところが、花粉症のつらさとまったくの瓜二つではないけれど、少なからず似た症状の体験は何度もある。それは、夏風邪のもたらす鼻炎症状である。具体的な症状は、鼻がムズムズして気力は殺がれ、頭はボウっとして心身が萎えることである。この症状に罹ると、市販の鼻炎用風邪薬を服用する羽目になる。すると、幸い長引かずに症状は遠のいてくれる。花粉症のつらさが横綱とすれば、わが鼻炎症状のつらさは幕下いや序二段程度であろう。
 このとき服用する鼻炎用風邪薬は、市販の「スカイナー鼻炎カプセル」(エーザイ)である。確かに、わが鼻炎症状には効果覿面の薬剤である。なおこの薬剤は、同期入社の仲間が開発し、市販されているものである。このため、私は彼に会うたびにこのことを持ち出して、深々と首(こうべ)を下げお礼を述べている。なぜなら、そうせずにはおれない友情を超えてわが恩人である。
 花粉症にかかわることでは、いっこうに記憶が遠ざからない痛恨事がある。これもまた、勤務する会社における一コマである。当時の専務との面談のおり、私はやおらしゃべり続けていた。ところが専務は、花粉症に罹っておられたのである。確かに、テイッシュペーパーの大箱をかたわらにおいて、間髪を入れず鼻をかまれてとぎれとぎれに対話が続いた。その間専務は、花粉症のつらさを堪えておられたのである。能天気の私はそれに気づかず、ほぼ一方的に言葉を続けていたのであろう。とうとう、温厚な専務の堪忍袋の緒が切れたのである。専務は不愉快な表情を露わにされて、「もういいよ!」との断が下されたのである。確かなわが失態である。花粉症の季節になると、堪えようなく必ずよみがえる忌まわしい記憶である。
 さて、花粉症の季節にあって、常に腑に落ちない思いにとりつかれるのは、症状をもたらすスギ花粉原因説のことである。なぜなら、子どもの頃の私は、里山および国有林いっぱいに周囲を杉山で囲まれていた。そして、現在も見渡す山のほとんどは杉山である。このためこの季節、スギ花粉は逃れようなくわが鼻先にぶち当たってくる。それでも花粉症状を免れていると、はたしてスギ花粉が悪の根源なのかな? と、訝(いぶか)るところがある。
 ついでの話を添えれば、これはドラッグストアのレジ前に並んでいたおりの一コマである。かたわらに、エーザイと記された携帯用みたいに手軽な花粉症向けの薬剤がぶら下がっていた。(あれ、エーザイからもこんなの出ているのか?…)。わが現役の頃にはなかった薬剤である。にわかに、フツフツと愛着が湧いてきた。だからこのとき、だれかがそのコーナーに訪れたら、「それ、とても効きますよ!」と、言いそうだった。わが愛社精神横溢の証しと、当時の専務への罪の償いには、絶好の機会と言えそうだった。しかしながら未体験で、効くかどうかわからない薬剤を、みずからの罪滅ぼしに人様に押し付けことは、新たな罪作りにもなるところだった。
 好季節にあって、世の中から花粉症がいっこうに退散しないのは、春の憂鬱と言えそうである。私自身には無縁とは言っても、常にそのつらさは共有するところである。

きのうの「私日記」 

 きのう(三月十一日・月曜日)のテレビには、「東日本大震災」(平成二十三年・二〇一一年)にかかわる、追悼行事などが多く報じられていた。それらの中では発生時刻の午後二時四十六分にちなんで、あちこちで人々の黙祷する光景が映し出されていた。いずれも、あらためて痛ましさをよみがえらせていた。もちろん、他人事では済まされない光景だった。しかし、私の場合は被災地や被災者にたいし、なんら為すすべなく過ぎた八年のめぐりだった。
 この日の私は、ようやく訪れた春日和の下、こんな行動をした。午前中には、二つの病医院をはしごした。真っ先に外来へ向かったのは、午前九時に予約されていた「大船中央病院」(鎌倉市)の消化器内科であった。予約時間に遅れることなく、約二十分前には待合室の長椅子に腰を下ろした。予約表には、「予約時間は目安です」、と記されていた。しかしながらこれは、外来患者の立場に立てばまったく違(たが)えることの出来ない、一方通行の病院都合の文言と言えよう。この文言の切なさは緑内障治療において、予約時間をきっちりと守って通う「大船田園眼科医院」で、そのつど味わっている。
 予約という文言がいくらか文字どおりに思えるのは、歯痛のたびに予約を入れる「斎藤歯科医院」(横浜市栄区)の予約時間である。三号室(吉田先生)の診察は、九時五分前あたりから始まった。私より先に呼び出しマイクで名を呼ばれて、待合室から立って三号診察室へ入る人がチラホラし出した。私は集音機のイヤホンを両耳に嵌めて、呼び出しマイク音にありったけの神経をとがらした。難聴における事前行為は、なお怠りなく済ませていた。それは難聴のため呼び出し音が聞き取れないかもしれないという、怯えでもあった。私は受付窓口の女性係員にたいし場所さえ告げて、待合室の最前列すなわち三号診察室に最も近いところに座っていた。この行き届いた事前行為は功を奏して、マイク音で名が呼ばれる立ち上がり、女性係員に目配せして診察室に入った。予約時間の九時から、十分過ぎくらいで診察室に入った。ほぼ予約時間どおりと、言えそうである。
 できれば馴染みにはなりたくないけれど、ところがいまや、お顔馴染みになっている主治医先生に挨拶し、対話した。主治医先生は、すでにわが体内の胃と腸あたりをデスクの上のモニターに映し出されていた。見たくもないわが体内の肉部が、生々しく映し出されていた。
「ポリープを取ったあとは、どちらも良質ですから、心配要りません。今年は内視鏡検査は必要ないでしょう」
「うれしいです。すると、次の通院はいつごろになるのでしょうか」
「そうですね。一月頃にしましょう」
「先生、一月って来年の一月ですか?」
「そうです。その頃でいいでしょう」
 確かに、のちにいただいた予約表には、二〇二〇年一月二十七日、と記されていた。私は「先生、血圧を測っていただきますか」と、申し出た。早速、測られて「一三五ですね」と、言われた。私は「ほぼいつもの数値です」と、言った。これだけで退室するのは、せっかく来たのにあっけない。歯医者におけるいつもの悪い癖が出た。歯医者の場合は、後で悔いを残す新たな虫歯探しである。もちろん、これとはまったく違うけれど、先生にたいし、こうお尋ねした。
「先生。血液検査をお願いすれば、結果はきょうわかりますか」
「わかります」
「だったら、血液検査をお願いします」
「しましょう」
 私はすぐに書かれた手続書類を持って、館内の二階にある採血室へ移動した。四か所に居並ぶ採血係りは、顔面を白いマスクで覆った女性の人たちである。比べて、見目の良し悪しはわからない。
「痛くはないですか」
「痛くないです。とても、お上手ですね」
「ありがとうございます」
「結果が先生のところへ戻るまでには、何時間かかりますか」
「一時間ほどのあとになると思います」
「そうですか。ありがとうございました」
 私の褒め言葉にたいし、女性係員はマスク越しに微笑まれていた。
 確かに、一時間近く経って再び、待合室の長椅子に座っていたわが名を呼ばれた。検査データをもとに、再び主治医先生と相対した。検査データにはいつもどおり、クレアチニンとLDLコレステロールの二つの項目に、「H」(高い)印が付いていた。そのかたわらには、主治医先生の手書きで赤文字「腎障害」、一つは「悪玉高値、左近允先生にみせてください」と、記されていた。かねがね私は、主治医先生にたいし、最寄りの掛かりつけの医院は、住宅地内の「左近允院」と、告げていた。主治医先生は、快くこのことを承知してくださっていたのである。
 私は路線バスに乗って引き返し、これまた勝手知ったわが住宅地内に存在する左近允医院に出向いた。左近允先生は、わが持参したデータを丁寧に眺めて、ご自身の診断を下された。そして、悪玉コレステロールにだけ、一か月分の薬剤の投与が記された処方箋を書かれたのである。
 私は処方箋を携えて、近くの調剤薬局へ出向いた。この日の医療行動は、これで落着した。携帯電話のデジタル時刻は、12:16と表示していた。午後には一時半頃から三時半近くまで、二時間ほどをかけて雨上がりの道路の掃除をした。長く途絶えていたわが日課は、春の陽射しと共に頭をもたげ始めている。東日本大震災の被災者への黙祷は、後れてきょう(三月十二日・火曜日)へ日延ばしである。

日本(人):春の記憶 

 平成三十一年(2019年)三月十一日、きょうの私には病院通いが予定されている。昨年秋に指定された予約時間は午前九時である。外来は、「大船中央病院」(鎌倉市)の消化器内科である。早い予約時間のため、現在の私は気分が急いでいる。夜明け前にあって、寒さはまったく感じない。まぎれもなく待ちわびていた春の到来と言えそうである。自然界は春爛漫の時季を迎え、人間界は卒業式など別れと出会いの真っただ中にある。日本の国の一年の中で、悲喜交々に最も人情の通い合う好季節と言えそうである。
 この時期にあってよみがえるのは、「東日本大震災」(平成二十三年・2011年三月十一日、午後二時四十六分)の記憶である。こののち毎年マスメディアは、日本および日本人の痛みとして、そののちの経過と現時点の状況を伝え続けている。確かに、何年経とうと風化できない痛恨の大惨事である。このためきょうの私は、八年たった現時点の被災地の状況を伝える配信ニュースを記録に留め置くものである。おおむね時の経過は、よくもわるくも惨事を風化させるものである。しかし風化できない、また風化させてはいけない現実の痛ましさである。
 【なお5万2千人避難、人口減にも拍車 東日本大震災8年】(2019年3月11日00時00分 朝日新聞)。死者、行方不明者、関連死を含め、2万2131人が犠牲になった東日本大震災から11日で8年になる。今も約3100人がプレハブ仮設住宅で過ごし、約5万2千人が避難生活を続ける。東京電力福島第一原発事故が起きた福島県では今春、原発立地自治体の避難指示が一部の地域で初めて解除される。復興庁によると、新たな宅地を造る「高台移転」は93%、災害公営住宅は98%が完成した。住宅再建が進み、最大47万人いた避難者は5万2千人まで減った。ただ津波被害が甚大だった地域は遅れており、今も仮設住宅が残る。震災前から進んでいた人口減も歯止めがかからず、岩手、宮城、福島3県の人口は8年で計30万人減少した。福島県ではこれまで、10市町村で避難指示が解除され、原発が立地する大熊町の一部で4月にも解除される見通し。住民の帰還や定住を促す施策が進められることになる。原発の廃炉作業は、100万トンを超える汚染水や原子炉内の燃料デブリ処理など、難しい工程が控える。東日本大震災の復興期間は10年と定められ、復興庁は21年3月末に廃止されるが、原子力災害への対応や産業の再生といった課題が残る。政府は8日、復興庁の後も新たな組織を設置する方針を示した。平成の30年余、列島は阪神・淡路大震災、東日本大震災という峻烈な災害に見舞われた。次世代に向け、教訓をいかす取り組みが求められている。東日本大震災による被災の状況:《岩手県》死者4674人、行方不明者1114人、震災関連死467人、避難者1028人。《宮城県》死者9542人、行方不明者1219人、震災関連死928人、避難者4196人。《福島県》死者1614人、行方不明者196人、震災関連死2250人、避難者3万2631人。《3県含む全国の総数》死者1万5897人、行方不明者2533人、震災関連死3701人、避難者5万1778人。※死者・行方不明者は3月8日時点(警察庁)、震災関連死は昨年9月30日時点(復興庁)、避難者は2月7日時点(同)。

春、雑感 

 わが連日の嘆きに、ちょっぴり応えてくれたであろうか。きのう(三月九日・土曜日)の鎌倉地方は、ようやく春の陽射しに恵まれた。換言すれば、春の陽光がふりそそいだ。もっと具体的に言えば、暖かい太陽の光の恩恵だった。待ちわびていただけにわが気分は、手の平を返したのようにたちまち躍った。
 いや、いのちが高揚し、有卦(うけ)に入っていたのは私だけではない。庭中のあちこちには、紫大根(諸葛草)が瑞々しく花開いた。椿の花には、ヒヨドリとメジロが蜜を吸いにやって来た。もちろん、仲良く一緒に来たわけでない。メジロはヒヨドリに追われて、素早く逃げ飛んだ。
 この光景を茶の間の窓越しに目にすると、私はメジロにたいし甚(いた)く判官贔屓をつのらせた。なぜならメジロは、わが最も贔屓する愛鳥である。子どもの頃の私は、「籠の鳥」という言葉さえ知らないままに、メジロ籠に一羽のメスのメジロを入れて、日夜一心不乱に愛情をそそいでいた。一方のヒヨドリとて、憎さ百倍と言うことには憚(はばか)れるものがある。いや実際のところはヒヨドリにたいし、蜜を吸うままにするくらいの罪滅ぼしはしなければならない。かてて加えて、心底より詫びもしなければならない。
 子どもの頃の私は、ヒヨドリ一辺倒を目当てにして、里山に罠を掛けていた。運よくヒヨドリが罠にかかると、意気揚々として小走りで帰った。母は驚くと同時に、「掛かっとったばいね…」と言って相好(そうごう)を崩し、わが毬栗頭を撫でた。こののちはみずから毛を毟り、真っ裸にして火炙りした。ウナギが川(内田川)の幸であれば、ヒヨドリの捕獲は、それと好一対をなした里山の幸だったのである。
 行きつけの大船市場(鎌倉市)には、堰を切ったかのごとくに、春野菜が押し合いへし合いしながら並び始めている。さらには、山河の恵む野の物も並び始めている。わが好むものでは、川セリと早出しのタケノコやノブキなどである。確かに、この時期のノビル摘みは、わがふくよかな思い出である。フクミ義姉さん存命中にあっては、この時期はふるさと便第一号の栄誉をになって、早々と手漬けの「高菜漬け」が送られて来た。今では、願っても叶わないつらい思い出である。
 気象庁は先日、関東地方に「春一番」が吹いたと報じた。「啓蟄」(三月六日)も過ぎて、いよいよ「生きとし生けるもの」のいのち息づく、外連味(けれんみ)のない満開の春が訪れている。ところが人間界は、明けても暮れても胡散臭いことばかりが続いている。これまたひと言で言えば、人間に付き纏う「人間臭さ」と、諦めざるを得ないのであろうか。
 公立福生病院(東京都福生市)における腎臓透析の中断の件では、局外者が是非を論ずるには忍びない切なさがある。しかしながらこのことだけは、どうにもわが腑に落ちない報道である。それは現在の松井大阪府知事と吉村大阪市長共に任期途中で辞職し、そしてこんどは入れ替わりまた立候補するという。これまた局外者の私が知ったことではない。しかし、春の話題とも言えそうにない腑に落ちない報道である。
 きょう(三月十日・日曜日)の夕方からあすにかけては、また雨の予報である。ところが、自然界と違って人間界は、晴れの日に恵まれず、鬱陶しい雨の日ばかりが続いている。

 春先の悪天候

 三月八日(金曜日)、現在は夜明け前にある。かたわらの窓に掛かるカーテンを開いて、外模様を確かめた。実際には、雨が降っているかどうかの確認である。しかし、一基の外灯の灯る道路には、雨脚の照り返りは見えなかった。雨のない夜明けになりそうである。ところが、寝起きのわが身体は寒さで冷えている。おのずからわが気力は萎えている。
 これまで何度か書いているけれど、再び書かずにはおれない。それは三月なった途端、続いている悪天候のことである。これまた実際には雨の日が多いこと、そして同時併行に寒気に見舞われていることである。これらのせいでこのところのわが気分は、憂鬱気分にとりつかれてすっかり萎えている。具体的にはこの間の私は、それを克服する気力をまったく殺がれている。その挙句に現在のわが心中には、こんな思いが浮かんでいる。(冬のあいだの寒さと春の寒さは、異質なのか!)。確かに、気温は同じであっても心身に感ずる寒さは、春のほうがはるかに厳しく感じられるところがる。下種の勘繰りをすればこれは、冬と春における心構えの違いからもたらさているのであろうか。ひと言で言えば春の寒さは、(こんなはずじゃなかった!)という、心構えの緩みがもたらしているのであろうか。それも、一理ありそうである。しかし、三月になってからの雨の日の多さと、それにともなう肌身の寒さは、やはり尋常ではない。何の祟(たた)りであろうか? 私は日々泣きべそをかき続けている。
 人の世にあって三月は、多くは悲喜交々の門出の月である。学び舎には卒業式があふれて、会社や役所は人事異動の真っただ中にある。共に、哀歓まみれである。そうであればやはり、春の暖かい陽射しの下に、門出を迎えてほしいと願うのは、他人事(ひとごと)ならぬわがささやかな人情である。ところが悪天候のせいで、せっかくのわが人情がズタズタに砕かれることには忍びない。
 夜明けの早い時期にあってこのところは、さわやかな気分はまったくお蔵入りである。気象のことゆえに、恨みつらみを言っても、埒(らち)は明かない。だから、それを克服できないわが気力の萎えが嘆き節の根源である。久しぶりに朝日の輝く夜明けが訪れである。春が目を覚ましたのであろうか。欲張って、あすも望むところである。

蠢き立つ虫たち 

 「ひぐらしの記」は本当のところすべて、自作文で埋めたいところである。しかし、そう粋がったところで、実際にそうはできない。そのため、本意ではないけれど、私はやたらとメディアの報じる配信ニュースを引用している。もう一つは、カレンダー上に記されている歳時(記)の引用を試みている。もちろん、双方共に忸怩(じくじ)たる思いはある。しかし、一方では致し方ないかな! という自己弁護がある。なぜなら、私にかぎらず人の営みは、世の中の出来事や季節めぐりの中に存在する。現下の世の中の動きを手っ取り早く教え、そして伝えてくれるのには、やはりメディアの配信ニュースに勝るものはない。一方、古来の人間の営みや、折節の季節の行事や催事を伝えるものでは、カレンダー上に記載の歳時(記)に適(かな)うものはない。おのずから私は、これらのご利益(りやく)を度外視あるいは放棄して、ひぐらしの記を書き続けることはできない。なさけないけれど、引用多用のわが楽屋話である。
 きょう・三月六日(水曜日)のメディアの配信ニュースの中には、数か月にわたりに日本社会の話題を成していた日産元会長・カルロス・ゴーン氏の保釈にかかわるものがある。しかしながらきょうは、カレンダー上に記載の「啓蟄」のおさらいにとどめるものである。もちろん、今さらおさらいするまでもない、だれもが知り尽くしていることばではある。それでも、あえて電子辞書をひもとくのは、わが日暮らしにメリハリをつけると同時に、季節のめぐりを実感するためである。なぜなら、私にかぎらず人の日暮らしは、季節のもたらす恩恵にすがり続いている。この日になると毎年おさらいしているのは、もちろん春の息吹を手っ取り早く実感したいためでもある。
 「啓蟄」:(蟄居、すなわち冬ごもりの虫がはい出る意。二十四節気の一つ。太陽の黄経が345度の時で、2月の節。太陽暦の3月5日頃に当たる。季語は春)。
 「蟄居」:(①虫が地中にこもっていること。②家にこもって外出しないこと。③江戸時代、公家・武士に科した刑の一種。出仕・外出を禁じ、自宅の一室に謹慎させるもの。特に終身蟄居させることを永蟄居という。中世、所領没収などの他の刑とあわせて科されたこともある)。
 もちろん、①以外は啓蟄とは関係ない。啓蟄とは、虫たちにとってのわが世の春の訪れである。しかし、ちょっぴり同情するのは、きょうの鎌倉地方は雨の予報である。虫たちは、地中で地団太を踏んでいるかもしれない。私は、地上で長くぐずつく天候に気分を滅入らせている。しかしながら啓蟄は、確かな春の訪れの証しである。気まぐれ天候も、この先そう長くは続くまい。

「春ウララ」は、いつ?… 

 三月五日(火曜日)、夜明け前にあって、雨はようやく降り止んでいる。人に裏切られることとは違って、季節に裏切られることに腹を立てることは、確かにおとなげない。しかし、春の訪れを待ちわびていただけにがっかりはしている。身体の現象では冬には免れたのに、春になって風邪の兆しに見舞われている。パソコンを起ち上げる前に、カーテンの掛かる窓ガラスを開いた。突然、冷たい風が心身を晒した。待ちわびていた春は、こんなはずじゃなかった。
 きのう(三月四日・月曜日)の夕方のNHKテレビ、「お天気コーナー」にあって、女性同士のアナウンサーと気象予報士の会話の一部はこうである。「なんだか、雨の日ばかりが続いていますね」「そうです。関東地方は、一週間で晴れの日は一日だけでした」「雨だけでなく、寒い日が続いていますね」「あすは気温が上がり晴れますが、あさってにはまた雨が降りそうです」こんなことでは、三月上旬の天気はぐずつきそうである。まったく、うんざり気分である。
 うんざり気分晴らしには、桜だよりにすがることとなる。しかしこれにも、「寒の戻り」や「花に嵐」という、季節用語が待ち受けている。「春ウララ」という季節用語の出番は、いったいいつになるのであろうかと、気を揉むばかりである。あすは「啓蟄」(三月六日・水曜日)である。ところが、気象予報士の雨の予報が当たれば、地中の虫たちは出端(でばな)を挫かれそうである。もちろん、わがうんざり気分は長引くこととなる。季節は、私のみならず人が望むようにはめぐっていない。
 夜明けて東の空は、ほんのりと明るんでいる。予報どおりにきょうは晴れそうである。時間を追って、気温も上がってくるであろう。確かに、自然界の営みに腹を立てるのは、愚の骨頂と言えそうである。なぜなら人は、よくもわるくも自然界のなすがままである。桜だよりを待つ身にあって、「東日本大震災」(平成二十三年・二〇一一年、三月十一日)から八年がめぐってくる。

 朗報

 三月四日(月曜日)、時計の針は六時半近くを回っている。すっかり夜が明けて、きのうに続いて雨の朝を迎えている。こんなに遅く起き出してきたのは、肌寒さに耐えかねて、ずる休みを決め込んでいたせいである。何たる春の出だしであろうか、悪天候続きである。
 きのうの「雛祭り」(三月三日・日曜日)にあって関東地方は、夜来の雨に見舞われて一日じゅう降り続いた。気象予報士の予報によれば、鎌倉地方の雨の降り出しは午後過ぎと言う。ところがこの予報は半分外れて、同様に夜来の雨に見舞われ、これまた一日じゅう降り続けた。そのうえ雨は、春雨とは言えない冬戻りの冷雨だった。そのためわが夫婦は、一日じゅう茶の間暮らしを余儀なくした。悪天候は、もちろん外への足止めと憂鬱気分をもたらしていた。
 ところが、九時過ぎからの日本テレビは、飛んでもない画面をもたらした。画面は、たちまち憂鬱気分をはねのけた。そして、二人の意気高揚する気分は、一日じゅう続いたのである。まさしく、思い及ばなかった朗報だった。確かに、書くに耐えない身勝手な朗報だけれど、ずる休みに替えて配信ニュースの引用を切にお許し願うところである。
 記録に留め置くのは、全体の配信ニュースから、わが身にもたらした朗報部分のみを抜粋し、記すものである。
 【中大の堀尾謙介が学生初のMGC獲得 東京マラソン】(2919年3月3日11時48分 スポーツ報知)。◆東京マラソン(3日、東京都庁スタート~東京駅前ゴール=42・195キロ)。「男子は、中大4年の堀尾謙介(22)が2時間10分21秒(記録はいずれも速報値)で日本人トップの5位に入った。途中まで現中大監督の藤原正和が2003年のびわ湖毎日でマークした初マラソン日本最高&日本学生記録(2時間8分12秒)の更新も視野に入れた大健闘で、学生として初めて20年東京五輪マラソン代表選考会(MGC、9月15日)の出場権を獲得した。4月からトヨタ自動車に入社する183センチの大型ランナーが東京五輪代表争いに名乗りを挙げた。」
 パソコントラブルに見舞われて、一度書いた文章は突然消えた。このため、あらためての書き殴りである。こちらもお許しを願うところである。やはり、休むべきだったのかもしれない。雪に変わりそうな雨模様である。朗報の余韻が、たびたびの憂鬱気分を救っている。

雛祭り 

 天気予報によれば、午後あたりから雨が降りそうである。夜明け前の現在は、結構冷え込んでいて、寒くて気分が滅入っている。日本社会にあってきょうは、「雛祭り」(三月三日・日曜日)である。そうであれば気分は、おのずから華やぐところがある。すると、悪天候のもたらす気分の滅入りは、春気分を挫かれた罰当たりに思えるところがある。しかし、実際にはどうした罪で、罰が当たっているのかはわからない。
 日本社会にあって雛祭りは、歳時記によれば古来、女の子の節句(お祝い)として営まれてきた。もちろん、女の子の健やかな成長を愉しみ、またこの先の無病息災を願って、祝福する和みのある明るいお祝い事であろう。そして、この祝意を形にしたものが「雛段飾り」と言えそうである。わが下種の勘繰りゆえに、本当の意義は知るよしない。雛祭りの本当の習わしには外れていたとしても、そう大外れではないだろう。かてて加えて私は、雛段飾りの謂れも知るよしない。
 ところが、雛飾りはただ眺めているだけでもほのぼの感が沸いてきて、心和むものがある。やはり雛飾りの飾り人形は、女の子のお祝いにふさわしいものと、言えそうである。さらにそれは、雛飾りに託する親の気持ちがいっぱい詰まっているためでもあろう。
 わが子にたいする親の気持ちを表すものでは、男の子の場合は「端午の節句」(五月五日)として営まれてきた。確かに、男女平等が叫ばれている現代の世にあっては、双方一緒のお祝い日にしてもいいのでは? と、思えるところはある。実際にも、なぜ端午の節句は国の祝祭日と決められて、一方の雛祭りはそうならないのか。差別だ! と、声高に言う人たちは大勢いる。しかしながら実際のところは、そう盛り上がらないままである。私にすればやや不思議なところである。
 これまたわが下種の勘繰りをすれば、端午の節句が「こどもの日」(祝祭日)に置き換わりはじめて、男女共用のお祝い日になりつつあるためであろうか。それとも、これまでのように分けて商機を狙う商魂の逞しさのせいであろうか。確かに、春先の雛祭りは、気分的にも和むところがる。お祝い事は一度ならず二度、いや何度あってもいいとすれば、差別と難癖をつけて、あえて双方の節句と一緒にすることもなさそうである。
 わが雛祭りの遠い思い出には学童の頃、村中にただ一軒(かさじめ集落)だけ雛飾りをされていたお宅への、学校から遠い道のりを歩いての見学である。娘の誕生を祝う雛飾りは、たったの一度だけである。そののちは出したりしまったりが面倒で、埃まみれにしまい込んだままである。だから、今の私には、高いお金をはたいてくれた亡き義父母にたいし、すまなさがあふれている。やはり雛祭りは、人間の情愛を浮かべては懐かしむ、春一番のお祭りかつお祝い事なのかもしれない。
 雨の予報がちょっぴり恨めしい。いや、夜明けてみれば、もう雨の朝の「雛祭り」である。

わが春気分 

 「春は名前負け」と、書いた記憶がある。確かに、この体験は正しいと、言えそうである。きょうは春へと月替わって、二日目の三月二日(土曜日)である。ところが、きのう、おとといと、二日続けて雨降りに見舞われた。まったくの期待外れである。
 きのうの気象予報士によれば、きょうは晴れの予報である。この予報もいまだ夜明け前にあっては、もちろん確率にすぎなく確証ではない。そして、あすのひな祭り(三月三日・日曜日)は、またもや雨の予報である。こんなこともあってわが脳裏には、恨めしく冒頭の言葉がよみがえったのであろう。
 確かに雨は、冬のあいだの冷雨(ひさめ)から春雨のよそおいを醸し、冷気を遠のけてはいた。しかし、春待つ心が旺盛だったためか、春の出だしには興ざめを食らっていた。しかしながら、眺める野山は適度の雨降りを味方にして、瑞々しく早春の芽吹き風景に映えている。啓蟄(三月六日)を間近にして、地中の虫たちも蠢(うごめ)き出し、出番を待っている。そして、春にはつきものの嵐も出番を待っている。すでに庭中では、雑草が緑の色合いを深めている。この様子を眺めていると、おのずからわが心中には草取りの難儀が浮かんでいる。確かに春は、待つほどには「名前負け」のところがある。
 きょうの私には、次兄宅(東京都国分寺市内)への訪問の予定がある。片道三時間近くの道のりである。それでも、このところ毎週続いているのは、次兄夫婦への恩返しのためである。自然界と違って人間界は、行動しなければ恩返しはできない。予報どおりの麗らかな春日和を願っている。確かにわが春気分は、天候しだいである。それでだけに本当のところは、名前負けは御免蒙りたいものである。

米朝会談「拉致問題」 

 三月一日(金曜日)、「冬来たりなば春遠からじ」の成句を遠のけて、いよいよ正真正銘の春の到来である。寒がり屋の私には、やはり心躍るところがある。しかしながらきょうは、かなり心寂しい結果を伝える配信ニュースを記さずにはおれない。もちろん、そう簡単に展望が開けるとは思えていなかったけれど、拉致被害者家族のお気持ちを察すれば、他人事とは思えない寂しいニュースである。この報道にひと言添えれば、国交という政治の交渉事とは異なり、朗報を待つ身の家族には限られた日数しか残されていないことである。拉致家族の我慢のつらさが、わが身にもとことん沁みている。
 【拉致被害家族ら、落胆と期待 米朝会談で議題化「誠意感じた」】(毎日新聞 2/28日・木曜日 21:35配信)。北朝鮮の完全非核化や日本人拉致問題に進展はなかったのか。8カ月ぶりに開かれた2回目の米朝首脳会談は、合意に至らなかった。進展を信じて会談の行方を見守った拉致被害者の家族らは、落胆とそれでも期待する複雑な胸中をのぞかせた。「焦って妥協してほしくなかったので、前のめりにならなくて良かった」。トランプ大統領の記者会見後、川崎市の自宅マンションで取材に応じた拉致被害者の横田めぐみさん(行方不明時13歳)の母早紀江さん(83)は、非核化を巡り合意に至らなかったことを冷静に受け止めた。会談で拉致問題が議題に上ったことについては「きちんと伝えていただき、(トランプ大統領の)誠意を感じありがたい」と述べ、「拉致問題を解決しなきゃいけないのは日本。安倍さんにも頑張ってほしい」と話し、事態打開に向けた日朝首脳会談の実現を求めた。入院中の父滋さん(86)とは会談前に「どうなるか分からないね」と話した。早紀江さんは「拉致を信じてもらえなかった時代から40年過ぎても闘っている。その道のりを思えば世界中の人が見ている中で拉致がはっきりと認識されるようになった。あとはもう祈るしかない」と語った。拉致被害者、田口八重子さん(同22歳)の兄で家族会代表の飯塚繁雄さん(80)は米朝会談について「2回目だから具体的な交渉があって結果が出ると想像していた。我々の熱は冷めないが(会談が)3、4回目となると熱が冷めてしまう」と懸念を示した。一方で「安倍晋三首相がトランプ大統領からどのようなコメントを得られるか期待している。どういう状態でも(解決を)諦めない。もう一度政府と話したい」と語った。神戸市出身の拉致被害者、有本恵子さん(同23歳)の父明弘さん(90)はトランプ大統領の会見のテレビ中継を見た後に「(会談に)期待していたけれど、核放棄は難しい」と声を落とした。「核を放棄させるより、拉致被害者を取り返す方が早いと思う。安倍首相が『返せ』と迫るしかないのではないか」と話した。1978年に鹿児島県旧吹上町(現日置市)で増元るみ子さん(同24歳)と共に拉致された市川修一さん(同23歳)の兄健一さん(73)=同県鹿屋市=は、今回も拉致問題の進展がなかったことに「いつまで待てばいいのか」と声を絞り出し、涙をにじませた。拉致被害者で2002年に帰国した蓮池薫さん(61)は新潟県柏崎市を通じ、会談が合意に至らなかったことについて「意外であり残念」としたうえで、「下手に譲歩をした合意よりは真の非核化、さらには拉致問題の進展につながると思う。議題に拉致問題が上がったことは幸い」との談話を出した。

二月最終日 

 二月二十八日(木曜日)、二月の最終日が訪れている。現在の時間帯は、夜中の二時半過ぎである。夜中にあってももはや、寒気は感じられない。だから、寒がり屋の私は、季節のめぐりに感謝せずにはおれない。ただ惜しむらくは、季節めぐりの速さ(感)がわが余命を時々刻々と縮めていることである。しかしながら、これにはどうあがいてジタバタしたところで、どうなることでもない。早い話、愚の骨頂の極みである。
 きのう(二月二十七日・水曜日)の掲示板には、待ちわびていたふるさと情報のご投稿にさずかった。ご投稿くださったのは、わがふるさと(熊本県山鹿市菊町)ご在住の洋子様である。ご投稿のたびにお人となりを短く紹介しているけれど、それにならえば洋子様は、わが恩師のご長男の奥様である。ご投稿文には、私が普段懸念している恩師とわが長兄の近況がつづられていた。加えて、現在放映中のNHK大河ドラマ『いだてん』にちなんで、ドラマ当該地の活況ぶりがそえられていた。
 ドラマの主人公・金栗四三様の生誕地は、山鹿市に近接する玉名市である。このため洋子様は、恩師と連れ立って生誕地を訪れられたと言う。そして、文章の中にはわが知りたい近況が織り込まれていたのである。まさしく、私が知りたがっていたふるさと情報満載だった。そのためきのうの私は、洋子様にたいしお礼と感謝のふるさと電話をかけた。
 掲示板がご投稿文で賑わうと、わが疲れがちの心身はにわかに元気づいてくる。洋子様のご投稿文にさずかり、私はあらためてこのことを実感していた。人生終盤の寂しさと哀しさは、人様との交流が日を追って減り続けることであろう。すると、「ひぐらしの記」は、わが終盤人生に身に余る恩恵をもたらしている。恩恵とは、ひぐらしの記を通して人様との交流の継続にあずかっていることである。きのうの私は、そのことをあらためて強くわが肝に銘じていた。
 過ぎゆく二月もまた、一月ほどではないけれど、それでもやはり暖冬異変に恵まれた。恵まれたと書くことには誤解を招きそうだけれど、もちろんそれはわが寒がり屋ゆえの限定表現である。なぜなら、世の中には寒の季節や雪をあてにして、生業(なりわい)を営む人たちは数多(あまた)いる。それらの人達にとって暖冬異変は、必ずしもありがたいとは言えず、むしろ恨めしいものであろう。暖冬異変にかぎれば、確かに二月はありがたく過ぎてゆく。
 それでも、恨みがつのるものはある。それは、国政舵取りの不毛ぶりである。そして、こちらはもはや異変とは言えず、常態化しているありさまである。テレビカメラが映し出す国会中継にあっては、開きに直りの弁解や嘘まじりの言い訳ばかりが目立っている。あたかも閣僚の仕事は、国会で逃げ口上の返答に立つことなのか! と、勘繰りたくなる嘆かわしい光景である。
 日本の国にあって現在は、税の確定申告の時期である。ところが、納税者の気持ちと税を使う国政の舵取りは、かけ離れるばかりである。せっかくの冬から春への月替わりも、やたらと気を揉んで、二月が過ぎてゆく。

二回目の「米朝首脳会談」 

 世界の関心事。だからきょう(二月二十七日・水曜日)は、以下の配信ニュースを引用し、会談の成果に期待を寄せるところである。もちろんわが期待は、拉致被害者とその家族をおもんぱかってのことである。拉致問題の解決を、日本政府にすがれないはなさけない。
 【トランプ大統領、ハノイに到着 27日米朝首脳会談へ】(毎日新聞 2/26日・火曜日、23:22配信 )。2度目の米朝首脳会談に臨むため、北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長が26日ハノイに到着した。同日夜にはトランプ米大統領もハノイ入り。両首脳は27日、少人数の夕食会で2日間の首脳会談をスタートさせる。昨年6月以来8カ月ぶりとなる対面で、北朝鮮の非核化に向けた具体的な前進ができるかが最大の焦点となる。23日に平壌を出発し中国国内を南下していた金委員長の特別列車は26日午前、国境を越えてベトナム北部ドンダン駅に到着した。ベトナム共産党や政府の幹部が駅に赤いカーペットを敷いて出迎えた。北朝鮮最高指導者のベトナム訪問は、金委員長の祖父の故金日成主席(当時首相)が1964年に訪問して以来55年ぶり。ベトナムのニュースサイト・VNエキスプレスによると、金委員長は歓迎に対し笑顔で「とてもうれしい。ベトナムに感謝する」と語った。ドンダン駅で降車した金委員長はハノイまでの残り約170キロを車で移動、市内のホテル「メリア・ハノイ」に到着した。金委員長は首脳会談後も3月2日までベトナムに滞在。ベトナム首脳との会談や経済視察に充てるとみられる。一方、トランプ氏は26日夜、ハノイの空港に大統領専用機で到着した。ホワイトハウスのサンダース報道官は機中で記者団に、両首脳が27日夜、少人数での夕食会を持つと明らかにした。28日には通訳のみを交えた「1対1形式」の会談や昼食をまじえた会合が予定されている。

実感「便りの無いのは良い便り」 

 二月二十六日(火曜日)、時計の針は、夜中三時近くを回っている。起き出してきたのは、二時半あたりだった。そして、いつものようにメディアの伝える配信ニュース一覧に目を通した。記録に留めるほどのニュースはない。さしたるニュースがないのは、日本社会にとっては幸運である。なぜなら、これまでの体験からすれば、配信ニュースの多くは暗いニュースばかりである。このため、さしたるニュースがないことは、もちろんいっときとはいえ、喜ぶべきところである。
 世の中には、古来「便りの無いのは良い便り」という、成句が存在する。なさけなくもこの頃ではとみに、この成句は当を得たものと思うばかりである。なぜなら、私自身のみならず周囲が年齢を重ねたこの頃にあっては、私は常に「便り」にびくびくしている。今や実際にも、「良い便り」を受け取ることはまったく考えられない。だから、便りなど無いことに越したことはない。若い時分には思い及ばなかった現在のわが心境である。
 わが現住する鎌倉地方にかぎらずきのう(二月二十五日・月曜日)の日本列島は、蒸し暑いほどの高気温と明るい陽射しに恵まれた。いよいよ季節のめぐりは、冬と寒気を遠のけて、暖かい春へとめぐって来た。春待つ私は、ふりそそぐ陽気にもたれて茶の間暮らしに終始した。きのうの私は、めぐって来た季節の恩恵にたっぷりと浸かっていたのである。しかしながら、穏やかな気分で陽ざしを浴びていたわけではない。もちろん、きのうにかぎることではないけれど、このところの私は時ならぬ便りにびくびくしている。言うなればわが身と、それを取り巻く現象への怯えである。その根源は、ふるさとの長兄・九十二歳、東京都国分寺市内に住む次兄・八十八歳、そしてわが身・七十八歳にある。父がもうけた十四人の子どもたちの中で、残る三人の現状である。
 ネタ不足にこと欠いて、こんなことまで書くようでは、もはや「ひぐらしの記」はおしまいである。みんなが若い時分にはきょうだい同士で、待ちわびた「良い便り」が盛んに飛び交っていた。ところが今や、たがいにわずか一通の便りにさえも恐怖を強いられている。もちろん、良い便りが届くことは、まったくないからである。

平成天皇陛下「在位三十年式典」 

 日本の国における年号(元号)は、新たな天皇陛下の即位によって誕生し、退位にともなって時代を画し、過去ページに刻まれる。だからと言ってもちろん、人の生存自体が消えるわけではなく、人の営みは命をかえて、過去、現在、そして未来へとつながれてゆく。しかしながら年号の変遷は、日本の国にあっては確かなエポック(時の刻み)である。
 いよいよ四月三十日を打ち止めにして、「平成時代」という、三十年の今上天皇陛下のご退位が近づいている。それにちなんできのうは、「平成天皇陛下、在位三十年式典」(東京・国立劇場)が日本政府主催で行われた。私は、テレビでその様子を粛々と眺めていた。そして、過ぎ行く一時代にたいし、感傷と感慨をつのらせていた。きょう(二月二十五日・月曜日)は、その様子を伝える配信ニュースの引用を試みている。なぜなら、記して置くべき日本の国の一大エポックだからである。
 【象徴に「誇りと喜び」=感謝の言葉、何度も-天皇陛下、在位30年式典】(2019年02月24日16時41分 時事ドットコムニュース)。「天皇としての務めを、人々の助けを得て行うことができたことは幸せなことでした」。24日に行われた天皇陛下の在位30年記念式典。退位を約2カ月後に控えた陛下は、国民統合の象徴としての「誇りと喜び」を持って務めを果たしてきたと述べ、時折声を震わせ、国内外に何度も感謝の言葉を口にされた。式典は東京・国立劇場で午後2時に始まった。即位以来、象徴像を模索し続けた日々を振り返り、天皇の務めを果たしてこられたのは、象徴として「誇りと喜び」を持てる国民の存在と、日本が過去の歴史の中でつくり上げてきた「民度」のおかげだったと述べた。陛下は、日本で戦争がなかった平成時代を「国民の平和を希求する強い意志」に支えられたと述べた。被災地で多くの悲しみに遭遇し、けなげに耐える人々や、それに寄り添う全国の人々の姿も思い返し、自身も困難な人々に寄り添い続けた。しかし、象徴像を模索する道は果てしなく遠かったと心情を吐露。陛下が追い求めた象徴像を皇太子さまら次世代が補うことを願った。「ともどもに平(たひ)らけき代(よ)を築かむと諸人(もろひと)のことば国うちに充(み)つ」。
 平成が始まって間もなく皇后さまが詠んだ和歌も紹介し、昭和天皇逝去により深い悲しみの中で即位した直後の心情も明かした。この頃全国各地から「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」との言葉が寄せられたことを明かし、「静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています」と声を震わせながら語った。

三十五回目の「流星群だより」 

 きのう(二月二十二日・金曜日)、大沢さまより妹編「流星群だより」が送られて来た。流星群だよりは、年に二度発行される姉編「流星群」に集う、作者仲間たち向けの交流誌である。流星群だよりもまた、年に二度の発行が継続されている。このため姉妹編は、つごう年に四度発行されている。このため、大沢さまにすれば三か月に一度の発行となる。大沢さまにはまさしく大車輪のご奮闘が強いられている。ところが大沢さまは、両者の発行を二十年間一度も欠かさず継続されている。それを言葉で「神わざ」と言うだけでは、まったくわが意をなしていない。かてて加えてこれらの発行は、書き手サービスに志を置かれているものである。すなわち、掲げられている志は、書き手に寄り添う出版業の実現である。具体的にはお金のかかる本づくりをみずからの体験を通して、「安価に叶えてあげたい」という、初志一心をいだいての挑戦である。
 より具体的には大沢さまの場合は、自分史や自叙伝づくりなどに加えて、だれもが生涯に一冊だけとは! と夢見る、本づくりや写真集づくりへの奉仕精神である。発行と言えば誤解を招きやすいけれど、もちろん儲け主義一辺倒の大手出版社とはまったく初志を異にするものである。その志は、あくまでも書き手の創作意欲を本の形にしてあげようという一点張りである。その確かな証しは、出版社の大小や形態を求めず、自分ひとりの手作りを旨に、初志貫徹を徹底されていることである。
 私は詳細を知るよしはないけれど、出版業はきわめて手間暇のかかるものとは想像できる。かてて加えてそれよりなにより、一刻に神経を研ぎ澄まされて、かつ一字一句さえミス(誤り)が許されるものではないはずである。なぜなら、たった一字の文字の脱落、誤字、印刷のずれでもあれば、たちまち書き手から非難囂囂を受けて、頓挫の憂き目に遭うこととなる。もちろん書き手とて、俗に言う「鬼の首を取ったかのごとく」、むやみやたらと非難するものではないけれど、やむにやまれぬ悔しさがあるのであろう。それほどに書き手としては、ようやく書き上げた文章に、みずからの夢つなぎをしているのである。この作者の気持ちを受けて立たれる大沢さまの志は、どんなに崇高であり、半面厳しいものであろうかと、私は常に心に留めている。なぜなら私には、この思いだけしか恩返しのしるしがないからである。
 冒頭に戻れば流星群だよりは、まったく無償のたまわりものである。流星群および流星群だよりが届くたびに私は、大沢さまの志の崇高さに心打たれ、同時に継続の奮闘に称賛を重ねている。このため、きょう(二月二十三日・土曜日)の私は、三十五回目の流星群だよりご送付を受けて、たまりたまっているわが思いを吐露し、記してみたくなっている。しかし、ほんの一部の思いだけにとどまり、とうてい書き尽くすことはできない。

北海道に再び地震  

 「好事魔多し」。春が来たと喜んでいたら、北海道が再び強い地震に見舞われていた。
 【「とても驚いた」「ぎょっと…」夜間の大揺れに厚真町民 北海道地震】(毎日新聞 最終更新 2月22日 01時20分)。「最大震度7を観測した昨年9月の地震で大きな被害を受けた北海道厚真町。震度6弱だった今回は目立った被害はなかったが、仮設住宅で暮らす町民らは夜間に発生した大きな余震に不安な表情を浮かべた。」
 幸い大きな被害は報じられていないようだけれど、他人事に思えずその恐怖には心痛むものがある。そして、時の経過につれて、地震につきものの被害情報がもたらされてくるであろう。なぜなら震度六弱であれば、被害無しでは済まされないであろう。
 日本列島にあって地震は、もちろん避けて通れない国民共通の恐怖である。それどころか地震は、常に多くの被害や死傷者を生む一大惨事である。そのため私は、常日頃という悠長なことでは済まされず、時々刻々とめぐる時の刻みの中で、地震の発生に怯えている。こんなに怯えているけれど、ところが実際にはまったくの無防備である。これまでも、文章を書いている最中にあって、なんど揺らいだことであろう。そのたびに私は、じっと揺れの収まりに耐えるしかなかった。
 地震は天気予報とは異なり、予報はあり得ない。確かに、文明や科学は日進月歩である。しかしながら、地震、雷、台風、集中豪雨などの自然災害には、まったく防備の知恵は働いていないままである。このため人間界は、恐怖に慄いてひたすら耐えるのみである。
 海洋国そして島国の日本列島は、確かに山紫水明に恵まれて美しい国である。だから私は、日本列島に生存することに悔いはない。ただ惜しむらくは、地震をはじめそのほかの災害を含めて、災害列島の名をほしいままにしていることである。
 きのう(二月二十一日・木曜日)の今頃(夜明け前)にあっては、腰痛のため文章を途中で投げ出した。ところが幸い、きょう(二月二十二日・金曜日)現在の私は、その腰痛は自然治癒にさずかっている。しかし今の私は、瞬発の地震発生に怯えている。バカじゃなかろか、怯えてどうする? と言えないのが地震の恐ろしさである。厚真町民の安寧を切に祈るところである。

無題 

 「冬来たりなば、春遠からじ」。冬の入り口にあってこそ、浮かべるべき成句を、出口に浮かべるようでは、おっちょこちょいどころか馬鹿丸出しである。実際には出口でなく、すでに春が来ている。だから、「春めいて」、という言葉も適当ではない。それでは、どんな言葉が適当なのか。その答えは、この会話である。
「この暖かさは、異常ですね」
「そうですね。暖冬異変とも言えないですね」
 これは、互いが家最寄りの「半僧坊下バス停」で降りて、歩き始めたおりの挨拶がわりの会話である。互いに名も知らず、家の所在も知らない、ときおり出会う人との会話である。年恰好は、私とうっつかつ(似たりよったり)であろう。ところが、私と違うところは長身で、風貌にはいまだに若さを残されている。加えて会話には、優しさや人柄の良さがあふれてくる。女ならずとも、一目惚れしたくなるような紳士である。
 きのう(二月二十日・水曜日)の夕暮れ時の会話である。どうしたことか、今朝(二月二十一日・木曜日)の寝起きの私は、ひどい腰痛に見舞われている。今は痛くて、額に冷や汗が滲み出ている。気分は激痛を堪えることに集中し、そのためこの先の文章は書けそうにない。無断欠勤は免れたけれど、事情を記して早退である。文章の体をなさないから、おのずから「無題」である。ほぼ一時間苦しんで、書き添えます。激痛は収まりました。

いよいよ「春がめぐってきた」 

 二月二十日(水曜日)の夜明け前にある。現在、心中に浮かべているのは、今さらながらに季節のめぐりへの驚きである。驚きにあっては、二つの相反する熟語を浮かべている。それは、同音異義の驚異と脅威である。
 きのう(二月十九日・火曜日)の私は、妻を茶の間に置き去りにして独り、いつもの大船(鎌倉市)の街へ買い物に出かけた。出かける前の私は、普段より着衣を一枚減らし、そのうえダウンコートに替えて、薄手のジャンパーを羽織った。それでも買い物めぐりの私は、早々と汗をかき始めた。それほどにきのうの鎌倉地方には、気温の高いポカポカ陽気が訪れていた。もちろん、汗をかいたからと言って、気分が悪くなるはずはない。いや実際のところは、いよいよ本格的な春の訪れを実感し、うれしさに浸りきっていた。
 その証しには、このときもまた冒頭の二つの熟語を浮かべて、歩いていた。もちろん私だけではなく、往来する人たちの身なりも薄くなり、街自体が暖かい陽気に染まっていた。私は、たっぷりと季節めぐりの恩恵を実感していた。それは言葉で表せば、まさしく季節のめぐりがもたらしていた、驚異と脅威だったのである。現在あっても、私はまったく寒さを感じない。
 二月は一週間余を残して、季節のめぐりの実感は、早手回しに待ちわびていた春の訪れにある。鎌倉地方は春近い二月になって、「まだまだ」とダメを押されるかのように、二度の雪降りに見舞われた。それでもやはりこの冬は、初冬からこの方暖冬異変と言えそうである。
 さて、「ひぐらしの記」は日々成り行き的にこんなことを書いて、十二年目をめぐっている。もちろん、もっとましなことで書き出したいけれど、わが能力の欠乏の証しに見舞われてそれは叶わない。この惨めな気分が救われているのは、大沢さまからたまわった「前田さん。何でもいいから書いてください!」というお言葉である。私はこのお言葉に甘え続けてきたけれど、だからと言ってこんなことで済まされるはずはない。しかしながら一方、生来の三日坊主を克服した満足感にはありつけている。だから、ほんの少しだけど独り、祝杯をかざしてもいいかな! という思いがある。もちろん、自惚れることのほどはない。しかしながら、ときにはわざとこんな思いをたずさえなければ、生来の三日坊主に継続はまったくあり得ない。わがお里の知れるところだけれど、お許しを願うものである。
 季節めぐりの恩恵にたっぷりとつかって、春らしい和んだ文章を望んだけれど、やはり叶わずじまいである。しかし、夜明けの早い春がめぐってきたことだけは、確かなことである。きょうの文章は、それに甘んじよう。そして、春の訪れに素直に、驚異と称賛をつのらせよう。
 今、記憶を新たにしているのは、かつての日本随筆家協会の亡き神尾久義編集長のお言葉である。それは、「前田さん。春になって、文章が書き易くなりましたね」という、お言葉である。恩師のお言葉ゆえ、信じよう。

変容する日本社会 

 もはや、是非を言う段階はとっくに過ぎているようである。今朝は、目に留めた配信ニュースを記録に留め置くものである。
 【新入生49人のうち41人が外国籍 愛知の小学校】(2019年2月18日21時11分 朝日新聞デジタル)。知立東小学校の入り口にあった「ようこそ知立東小学校へ」の看板にはポルトガル語が添えられていた。「愛知県知立市の市立知立東小学校で、新年度の新入生49人中41人が外国籍になる見込みになった。市は同校で日本語指導などを担当するサポート教員を2人増やすことを決めた。知立東小は、ブラジル人など外国人住民が多い知立団地内にあり、1月現在の在校生308人中212人(68・8%)が日本語指導が必要な外国籍児童。新年度は外国籍新入生が8割を超え、国籍は12カ国に及ぶ。新入生の日本人児童は8人で、初めて1桁になる。知立市では、不登校やいじめ対応のため、1日4時間勤務の臨時講師として教員免許を持つサポート教員が小・中全10校に1人ずつ配置されていて、知立東小のみ2人増えて3人態勢になる。新年度予算案に増員分を含めた12人分の人件費2857万円を計上した。」
 一言添えれば、「壁を作る」と大叫びするアメリカ・トランプ大統領の声が無縁に思えなくなりつつある。そうであればこの際、世界から「戦争」という言葉や文字を死語に追いやるべきであろう。それが叶えばこれこそ、トランプ大統領の欲しがる「ノーベル平和賞」に値するであろう。
 わが買い物の街・大船(鎌倉市)でも、とみに外国人おとなの姿が増え続けている。どなたと出遭おうといくつかの異なる言葉で、「こんにちは」、と言えるくらいにはしておくべき時代なのかもしれない。いや、これまで出遭いに無頓着にこれた私は、良い時代に生きてきたのかもしれない。

「山を成した、塵」 

 ほぼいつもの三時近くに起きて、一時間くらいメディアの伝える配信ニュースを読み漁った。さまざまな配信ニュース項目は、時々刻々と変わりゆく世の中の出来事の一覧表でもある。そしてその多くは、人の生きることのつらさを映している。確かに、人間は生きていると、何でもありである。しかし、その多くはつらいことばかりである。読み漁ったあとは脱力感に襲われて、長いあいだぼっとしていた。実際のところは気力喪失状態に陥り、その挙句には悶々として、いたずらに時が過ぎている。
 こんな状態では休めばいいけれど、しかし休んだら明日へ続きそうにない。このため、気分鎮めに久方ぶりにカウント数に目をやった。すると今現在、「91、300」、と表示されていた。大沢さまのお計らいでカウント数が表示され始めたのは、「ひぐらしの記」を書き始めてから、一年くらいたったあとからである。そのためその後の私は、表示のカウント数に10、000を加えて、日々カウント数の増えるのをひそかな楽しみにしていた。その証しには長いあいだ、日々のカウント数の推移をメモ帳に書き並べていた。ところが、その行為はもう何年も沙汰止みになり、カウント数はチラッとさえ見ないままになっていた。このことは、わが気力減退の明らかな証しだった。加えてこの頃は、カウント数はもう打ち止めになっているとも思っていた。正直なところは、自業自得の証しとも思えていた、カウント数を見ることを避けていたのであろう。
 このこともあって今の私は、実質100,000のカウント数の達成にびっくり仰天している。そして、手前味噌にみずからの偉業を祝福し、大っぴらに酔いしれている。もちろんカウント数は、大沢さまはじめご常連の人たちの足跡である。しかし、それにいくらか加わってみると、確かに10万を超えるカウント数は祝福するに値する。だから私は、パチパチと手を叩いて、しばし自惚れてみたくなっている。言うなれば、まったく思い及ばない数値の達成だった。勝手にわが身に置き換えれば、生来の三日坊主が成し得た「塵も積もれば山となる」という、成句の実現だったのである。そうであれば、生きることの喜びの一つに、カウントしてもよさそうである。こんなことを書くようでは、やはり休むべきだったのかもしれない。

 わが瞼の中の優しい父

 受験シーズンは、中学入試、高校入試、そして大学入試へと進んで、ほぼ終盤戦にさしかかっている。これらにちなんで、わが入試の記憶がよみがえってくる。もちろん、入試にからめては心の和む想い出はほとんどなく、多くは苦々しいものばかりである。それらの中で唯一、心癒されるものがある。それはこの文章の最後段に記す、父にたいする切ない思い出である。
 小学校から中学校への進学は、同じ敷地内にあったふるさと・内田小学校から内田小学校への持ち上がりだった。どちらも、当時の内田村・村立ゆえに受験の必要はなかった。中学校から高校へは義務教育ではなく、おのずから厳しい入試が待ち受けていた。すなわち、十五の春の体験である。これを合格で克服するには、正規の授業を終えた放課後において、課外授業が設けられていた。もちろん、高校受験を希望する生徒のための特別の対策だった。
 高校進学を希望していた私は、当然のことながらそれを受けていた。ところが、実際には課外授業をほとんど受けず、部活のバレーボールの練習に明け暮れていた。内田中学校の生徒が進学を希望する普通高校は、選択の余地なく自宅から自転車通学ができる熊本県立鹿本高校にかぎられていた。学力的にそこに不安をおぼえる人は、同じ来民町内にある鹿本農業高校を受けていた。私立高校は近場になく、この二校に進む者だけが高校へ進学した。その数は同級生百十数余名の中で、二十名程度であったろう。昭和三十年代初めの当時は、高校へ進学する人はまだまだ限られていたのである。もちろん、合格の喜びはあったものの、高校入試にあってはさしたる思い出は浮かんでこない。
 高校生活の思い出は、これまた中学生時代から延長線上における部活のバレーボール一辺倒である。ところが、これにまつわる思い出は、必ずしも善き思い出とは言えない。放課後の練習は中学生時代とは比べようなく、厳しくそのうえ長い時間だった。日曜祭日とてなく、日暮れまで練習に明け暮れていた。疲れ果ててわが家へ向かって、明かりを点けて上り道の自転車のペダルを踏む日はざらにあった。もちろん、対外試合があればバスに乗って、はるばると遠い熊本市内へ出掛けていた。高校でも大学への進学を志す者には、進学組として課外授業が設けられていた。記憶は定かでないけれど、私も進学組に入っていたと思うけれど、課外授業の記憶はよみがえらない。おそらく、部活のせいで欠席ばかりしていたのであろう。一方では、課外授業を受けているクラスメートを傍目にみて、焦っていたはずである。
 これらのこともあって私は、部活に明け暮れる日々、すなわちバレーボールクラブに入ったことをかなり悔やんでいた。それでも、途中退部を申し出る勇気はなく、最後の三年生の秋まで全うした。そろそろ、大学進学かそれとも就職をするのか、決断の日が迫っていた。私自身は、決めかねていた。内心では、就職だろうと思っていた。そんなおり、姉や兄の言葉が一致し、こう告げられたのである。
「大勢、きょうだいがいるんだから、ひとりくらい大学にやろうじゃないかね」
 もちろん、そのひとりは私である。
 東京には二兄、三兄、そして四兄がそろって、八百屋を開いたばかりだった。三人は二兄の名前から一つをとって、「八百弘商店」(東京都下国分寺市内)の看板を上げて開店していた。この言葉を告げられて、わが大学入試の受験生活が始まったのである。それは課外授業や塾などまったく用無しの、下校後の夜中の勉強一辺倒だった。
 わが受験勉強には、父の愛、母の愛、長姉、長兄および義姉、そして東京で待ち受ける兄たちの愛情が詰まっていた。受験校は手っ取り早く、三人の兄が住む東京である。目指す大学は、従弟(いとこ)が通っていた中央大学と決めた。受験する学部もまったく同じで、法学部と商学部だった。受験のため一月末に上京するおりの父は、あいにくかねての心臓の病が篤く、父の床の周りには家族や近場の身内が陣取る危篤状態だった。私は受験に向かうかどうかを躊躇した。こんな言葉飛び交っていた。
「おとっつあんがこんなときだから、しずよしは行かんがよかろうだい」
「ばってん、行かんとみんな、悔いが残るばい」
「おとっつあんは、しょんなかもんじゃけ、行くとええたい」
「しずよし、はよ、行かんとまにあわんぞ!」
 私はあふれる涙を学生服の袖で拭きながら、何度も父の姿を振り返り、小走りに戸口元を出た。つらい、受験への上京だった。
 危篤の父は、幸いにもこのときは危機を出したという、知らせを得た。二つの受験は、法学部を落とし商学部に合格を得た。それでも私は、入試結果に十分満足していた。なぜなら、綱渡りと思える受験生活から得た、うれしい合格だったからである。
 合格の喜びをたずさえた私には、三人の兄たちからこんなご褒美の言葉を得たのである。
「おとっつあんの病気のこともあるから、入学前にいっぺん帰ってきたがいいね!」
 私の気分はうれしくて弾んだ。私は心弾んで、「ただいま」と言って、戸口元から土間を小走りに走り、座敷の客間へ上がった。そこには、きょうだいで買い与えていた部厚いマットレスに半身を起こして、わが到着を待っていたやつれた父の姿があった。
「とうちゃん、合格したよ!」
 と告げると、父は病で力の無い両手をいつまでも叩いていた。脳軟化症を患い、ボケが始まっていた父は、「おめでとう」の言葉をかけてくれたかどうかは、わが記憶にない。しかし、受験シーズンのこの時期にあっては、この光景がしょっちゅう浮かんでくる。もちろん、ほろ苦くも、甘酸っぱいでものではなく、とことんわが心を潤す清々しい光景である。このことを書きたくて、長々と走り書きをしたのである。
 こののち私は、入学のために再び父の姿を何度も振り返り、ふるさとをあとにした。わが、ふるさとから巣立ちのときである。
 父は、わが大学生二年の暮れ、昭和三十五年(一九六〇年)十二月三十日に他界した(享年七十五)。しかし、八百弘商店の忙しさと書き入れ時でもあり、葬儀には四兄のみが代表で向かった。ところが、いまではこれが幸いし、父にたいする最後の思い出は、マットレスの上で半身を起こし、両手を叩き続けてくれていた優しい父の姿に凝縮している。三兄、四兄はすでに亡い。
 きょう(二月十七日・日曜日)は、先週に続いて国分寺へ行く予定である。父代わりに私を育ててくれたことにたいするお礼の表敬訪問である。

春を産む苦しみ、雪降り 

 人間界には産みの苦しみという言葉がある。どうやらこの言葉は自然界、具体的には季節替わりにも存在しそうである。のほほんと有卦(うけ)に入っていた暖冬異変という言葉は、一月から二月へ月が替わると、打ち止めを食らっている。気象予報士の予報によればきょう(二月十六日・土曜日)は、気温が高く暖かくなると言う。なぜこんなことを書く羽目になっているかと言えば、一膳めし屋の日替わりメニューみたいに、日替わりの天候のせいである。
 きのう(二月十五日・金曜日)の鎌倉地方には、昼間に雪が降り出した。この光景を茶の間のソファにもたれて眺めていると、私は季節も春の産みの苦しみに喘いでいるな! と思った。確かにこの光景は、春がすんなりとは来ない証しだった。一方、春近しとも思える光景だった。
 雪は結構長いあいだ舞い続けて、にわかに視界を白く染めた。しかし、積もる恐れは感じなかった。横殴りに雪を蹴散らす、風も吹いていなかった。確かに、雪はひらひらと舞っていた。ところが雪片は、それぞれが空から地上へひとすじの直線を引くかのように、のどかにほぼ真下に降りていた。眺めている雪降り光景は、春の淡雪と言える程度のものだった。積もる恐れの無い雪降り光景は、私に和んだ気分をもたらした。
 もちろんこんなおり、外歩きでもしていたらこんな気分になれない。しかし、茶の間の私は、たっぷりとエアコンのフル稼働の恩恵に浸っていた。案の定、やがてはちょっぴり陽が射して、うたかたの雪景色を恵んだくらいで、積もることはなかった。それでもやはり、私は春を産みだす季節のもがきにびびっていた。幸いきょうは、気温高く暖かくなる予報である。しかし、夜明け前にあっては、いまだにきのうの雪降りの名残をとどめていているのか、暖かくなる兆しは感じない。しかし、暖冬異変に背いて過ぎ行く二月は、あと十日余りである。どうやら、きのうの雪降り光景は、寒波の打ち止めだったのかもしれない。寒がり屋の私は、心中で(パチパチ)と手を叩いている。

受験生にまつわる格差 

 入試シーズン真っただ中だと、どうしてもこれにまつわることを何度も書きたくなる。確かに入試は、本人の努力なしには合格の結果はありえない。しかしながら下種の勘繰りをめぐらすと、努力では補えそうもないものがあまた存在する。それらをひっくるめてひと言で言えばそれは、受験生の身の回りに存在するさまざまな格差である。
 浮かぶままに書いてみると、これらのことである。まずは、先天的な知能や能力格差である。これこそ、どんなにもがいて努力しても、補えないものの筆頭と言えそうである。そうであれば後天的に、受験生の努力で補わなければならない。もちろんこのことで、かなり先天的格差を縮めることはできる。だからこそ受験生は、必死に長いあいだ努力を続けて、かつその苦闘に耐えることもできる。
 ところが、これには歴然とこんな格差が存在する。その最たるものは親のお金の有無、すなわち家庭の経済力格差である。このほか挙げればきりないけれど、こんな格差が浮かんでくる。大きくは住む都道府県、あるいは地区や地域における教育力格差がある。学校や教師の格差もある。これらを総合すれば、憲法に定められている教育の機会均等は、必ずしも叶えられているとは言えそうにない。
 確かに、これらの格差は昔から存在していた。いや昔は、もっとあからさまに存在していたのであろう。だからこそ、憲法に定められたと、理解するところはある。しかしながら私には、このところ格差が歪(いびつ)に顕在化しているように思えるものがある。具体的にこの傾向にとみに拍車をかけているのは、さまざまな入試スタイルの変化である。なかんずく、この先の入試において英語が重要視されるようになってから、この傾向はいっそう加速し始めている。
 こんなおり大学入試において、普段私が懸念していることの一つにたいし、はからずもこんな見出し項目に遭遇したのである。この見出しは、朝日新聞デジタルの有料記事によるもので、そのため無断借用のため、見出しだけに留めるものである。それでも、かねて私が懸念するところと、まったく一緒である。【富裕層や都市部が有利?英語民間試験「これでいいのか」】。
 きょう(二月十五日・金曜日)の文章は、この見出し項目に出遭って、得たりやおうとばかりに書きたくなったのである。しかしテーマは、奮闘する受験生にまつわるつらい格差の実態である。

 快い「バレンタインデー」

 仕掛けたり、仕掛けられたりする商戦の中にあって、きょうの「バレンタインデー」(二月十四日・木曜日)は、双方共に罪作りを免れるところがある。バレンタインデーの商戦にあって仕掛ける方は、クリスマスや過ぎたばかりの節分商戦のケーキや恵方巻のように、売れ残りに頭を痛めるようなことはなさそうである。なぜなら、バレンタインデー商戦にあって主に売り込む品物は、日持ちのするチョコレート類や菓子類だからである。確かに、このところは、これらに代わる高価な品物も念入りに選ばれているようではある。もちろん、贈る側のこの心理は、傍(はた)が非難するにはあたらない。いや、格別の恋心を伝えるための、悲壮感ただよう品物選びなのであろう。そして、チョコレート類や菓子類以外の多くは、食べ物ではないようである。おのずから商戦を仕掛ける側にとっては、売れ残りに心を痛める度合いは少なさそうである。一方、仕掛けられる方は、早手回しに待ち望んでいたところもある。準備万端ととのえて、首長くして待ち望んでいた日と言えそうである。
 もし仮に、選んだ贈り物がわが願いを叶えず、恋心が藻屑のごとくはかなく消えても、思いを告げた満足感には浸ることができる。なぜなら、バレンタインデーにちなんでそそぐ恋心は、もとからそれほど執念深いものではなく、双方共に遊び心満載にすぎないところがある。実際にも贈る側の心情には、「義理チョコ」とも言われるように、端(はな)から恋心などまったく無縁のところがある。これらのことからバレンタインデーの商戦には、仕掛ける方にも仕掛けられるに方も、もとからあっけらかんとした遊び心がある。すなわち、バレンタインデーの商戦にかぎれば、双方共に罪作りの無いものと言えそうである。
 顧みて会社勤務時代の私は、バレンタインデーの出勤にあっては、ひそかに大きな紙袋をたずさえていた。そして、帰りにはチョコレート類や菓子類をいっぱい詰めて、恥ずかしさに追われて逃げ足で急いだ。紙袋が膨らんだのは、わが職場には多くの女性社員がいたためである。ホワイトデーにあってはこの逆の行為で、いち早く出勤し始業前にひそかに義理返しをした。バレンタインデーには、私は会社の人事配置の恩恵にたっぷりとありついていたのである。
 あたりまえのことだけれど、定年後にはこの恩恵はぷっつりと途絶えている。だからと言って、まったく寂しくはない。いやむしろ、義理チョコにまつわる面倒臭さが無くなり、清々しい気分横溢のところがある。もちろん、ない物ねだりの負け惜しみではない。いやいや本心では、たった一つの義理チョコさえ遠ざったことには、やはり心寂しいところがある。
 こんなおり、きのう(二月十三日・水曜日)の卓球クラブの練習にあって私は、義理チョコをたまわるひとりに選ばれたのである。渡部さんは手作りのチョコレートを綺麗なリボンで結んで、待ち構えてくださっていたのである。思いがけない、義理チョコの美味しい味覚だった。無縁に思えていたバレンタインデーに、私は渡部さんのご厚意でありついたのである。あからさまな義理チョコではあっても、お裾分けにさずかれば心弾むものである。私は、やはりバレンタインデーは大好きである。
 義理人情は、人の世になくてはならない心の癒しである。だから、飽くなき商戦とはいえ、バレンタインデーの商戦は、ほかよりひと味違って、私の好む商戦である。

「挑戦」という言葉のおさらい 

 動詞では挑む、名詞では挑戦という言葉がある。英語では、共にchallenge(チャレンジ)で表現される。だれもがしょっちゅう浮かべたり、みずからも体験している、言葉自体はきわめて簡単明瞭な日常語である。特に、受験シーズンのこの時期にあっては、わが心中にはこの言葉が浮かぶどころか、しょっちゅう貼りついている。もちろん、どんな挑戦にも結果がともなってくる。ところが結果の多くは、挑戦という当初の心意気に背いて、必ずしも願望は果たせずしまいになる。
 中学、高校、そして大学入試にかぎらず、就職あるいはそのほか選抜を課される試験には、必ず合否判定が下される。そして、不合格になれば挑戦の願望は挫かれる。なぜ? こんなあたりまえのことを浮かべて、しかもあえて記しているのかと自問すれば、挑戦という言葉につきそう、切なさを浮かべているからである。
 入試シーズンのこの時期にあって、街中で多く目にする光景の一つには、児童・生徒連れ合っての家族の姿がある。児童(小学生)の場合は、子どもを中に挟んで脇に、両親またはお母さんが付き添っている光景が目立っている。この光景は、中学入試にからむものと言えそうである。この光景は中学入試に比べれば少ないけれど、高校入試においても日常的に見られものである。かてて加えて大学入試にあっても、試験会場近くまでの親の同伴は、今やあたりまえになる傾向にある。
 大学入試にあってのこの光景は、かつてはメディアを通して非難めいた報道があった。ところが、このところこの手の報道は鳴りを潜めている。おそらく常態化して、ニュースのネタから外れているのであろう。もちろん私は、これらの光景を非難する気にはなれない。なぜなら受験は、家族総がかりの一大挑戦だからである。こんな難事業の挑戦にたいし、他人の目を気にすること自体、馬鹿らしいことと言えそうである。他人は、あくまでも結果の埒外(らちがい)に身を置く他人にすぎない。肝心なことは受験生本人の意思に沿って、親の行動を決めればいいことである。
 例えば、親がついてくればみっともなくて、答案用紙に気持ちが入らなければ、本人の意思で断ればいい。逆に、親の付き添いがあれば、普段の力が出るとすれば、臆することなくそうすればいい。入試は、ごく短く限られた時間の中の挑戦である。これを悔いなく終えるためには、他人の目あるいは社会の非難にたじろぐことこそ、人生行路における大損である。
 入試はもちろんあらゆる受験には、合否という厳しい判定が下される。これこそ、あらゆる受験にともなう厳しい現実である。ただ、入試の場合、唯一わが目に救われるのは、垣間見る親子の和んだ光景である。確かに、入試は厳しいゆえに、そのぶん親子の情愛の深まりを助長してくれるのかもしれない。もちろん、入試のみならずあらゆる受験、いや挑戦には結果を分けて涙があふれてくる。それなのに挑戦は、避けて通れない人生行路における試練である。だれしも感涙にむせびたいところだけれど、そうは問屋が卸さず多くは、悲涙に濡れるものでもある。だからこそ私は、入試シーズン真っただ中にあっては、しょっちゅう挑戦という言葉を浮かべて、他人事には思えずだれしもの健闘を願っている。
 挑戦という言葉はだれしも容易に口にするけれど、初志貫徹の結果にありつけることはごく稀である。季節の春の訪れ間近にあって、この時期の人の世は、入試という厳しい挑戦のさ中にある。きょう(二月十三日・水曜日)は、入試にからんで挑戦という言葉のおさらいである。言葉を浮かべるだけで、厳しい現実にわが身は震えている。

たまわった「祝メール」 

 「ひぐらしの記」は、わが日常生活のすべてをさらけ出して書き続けている。このことでは、わが生存の証しでもある。おのずから文章の内容は、取るに足らないわが身辺のことばかりになりがちである。もっと具体的には愚痴こぼしや、私自身の甲斐性無しを詰る文章に成り下がっている。人様からみれば読むに堪えない、わが自虐日記とも言える代物である。しかし、ちょっぴり弁解を許していただければ、あてずっぽうにこんなことが浮かべている。それは、私にかぎらず人様にあってもほぼ毎日文章をつづれば、案外同じような文章になるであろうかと?…。それほどに人がこの世に生存を続けることは、安寧至極とはなり得ず、それぞれに難事業と言えるものである。だからこそ私の場合は、ときには小さなことに大袈裟に自惚れてみたり、はたまたこんな私信メールをたまわれれば、能天気に人様に見せびらかしたくなる。わがお里の知れるところである。
 きのうの私は、『めぐってきた「金婚式」』の一文を書いた。すなわち、きのうの「建国記念日」(二月十一日・月曜日、祝祭日)は、結婚記念日と同時に「金婚式(五十年)の記念日」でもあったのである。東京行きの次兄宅からわが家へ戻ると、大沢さまからこんな「祝メール」が届いていた。事前のお許しは得ていないけれど、わが夫婦の金婚式にたいする晴れがましい祝意として、ありがたくひぐらしの記に留め置くものである。
 前田様 結婚記念日、金婚式おめでとうございます。今から十一年前(二〇〇八年四月十日)発行の「ひぐらしの記」は、私にとってもとても印象深い思い出として胸に刻まれています。結婚記念日(サファイア婚)と題して芝桜の華やかな表紙で彩られた「ひぐらしの記」の誕生だった。その当時の私の本作りは、試行錯誤で、いろいろなパーツの組み合わせで作る手作りの単行本は苦心惨憺だったが、今となればそれも楽しみな日々であった。一冊ずつ積み重ねていく「ひぐらしの記」は、前田さんの歴史と共に私の出版の歴史にも重なっていく。結婚記念日と題された本の頁を開くと、「四十回目の結婚記念日」と題されて、前田さんの結婚式のことが書かれており、「私は、ボートに乗り込んできた妻をつれだって『きじま』大船店で二人だけのささやかな『お祝い膳』をつつくことになろう」と記されていた。そして、次の項で「のどかな結婚記念日」と題して、それは実行に移された。その後、ご夫婦でお散歩を日課とされているお知り合いから牡丹餅が届けられた。夕食の時間にお二人で牡丹餅を食べながら、奥さんは二つ食べて「パパ、もう駄目だわ」と言って、ポンポンと腹鼓を打たれたとあった。なんとほほえましい至福の時間を過ごされたことか。それから十年が無事に過ぎ、今回五十回目が訪れたのでした。こうして今、改めて読み返すことの出来る「ひぐらしの記」の継続に感謝感激した次第です。大沢。
 もちろん一服の清涼剤とは言えない、万感きわまる「祝メール」文だった。このため、私は感謝感激のお返しを試みている。以下では、「ひぐらしの記」につきものの恥を忍んで、夕御飯時の一コマを添えるものである。
 私は台所から調理用の清酒と、ごく小さなガラスコップを茶の間の貧弱なテーブルに運んできた。二つのガラスコップには、底から一センチ程度にお酒をそそいだ。小さな祝宴の口火は、私がきった。
「三々九度、みたいだね。長いあいだ、ご苦労さん。『きじま』に行かなくてごめんね。結婚式をしたのはどこだか、知っている?…」
「これでいいわよ、そうね。市ヶ谷(東京)の宴会場でしょ?…」
「おぼえているんだね。今は綺麗なホテルになってるよ!」
 妻の大好きな折詰寿司も、手作りの祝い膳ひとつない、ことさらの会話もない普段の夕御飯だった。しかし、これくらいで十分だった。なぜなら、二人して五十年がかりの、人生大事業をなしてきた証しには十分になっていた。たまわった「祝メール」は、きょう(二月十二日・火曜日)、かたわらに妻を置いて、「読んでみて!」と、言うつもりである。確かに、「ひぐらしの記」は恥をさらし続けてきた。それでも、書き続けてこなければ、こんな僥倖をさずかることはできなかった。
 金婚式記念日を祝っていただいただけにとどまらず、「祝メール」はわがこの先の生存へ大きな弾みをたまわったのである。

めぐってきた「金婚式」 

 きのう(二月十日・日曜日)の文章には、『薄っぺらい残雪』と、記した。もちろん、文章を書きながら眺めた、夜明けの風景をそのまま表現したにすぎない。ところが、きのうの昼間は台風一過のごとくに、冬空の日本晴れに恵まれた。前日の寒々しい日和からは一転し、気温も上がり心の和む冬空だった。
 季節は三寒四温を繰り返し、まぎれもなく本当の春へ向かっている。このため、わが気分は緩み、卓球クラブの練習へ出向いた。すると、人みな心境は同じようであり、体育室ではいつもより多くの仲間たちが、若々しくピンポン玉を打ち合っていた。それぞれの姿は、春の恵みに浸っているかのように和んでいた。その様子を見て咄嗟に私は、人の気分は(季節や天気しだいだな!)という、思いを浮かべた。短い二月の月はすでに上旬が過ぎて、きょうから中旬へとさしかかる。本格的な春が近づくのは良いけれど、一方で私は、季節の速まわり感に慄き戸惑っている。
 きょうは三連休最後の「建国記念日」(二月十一日・月曜日、祝祭日)である。この日にちなんで、ごく私的なことを備忘録的に書き添えれば、きょうはわが夫婦の「結婚記念日」である。結婚記念日は一年に一度めぐってくるから、あえて書き記すまでもない。はたまた、そうめでたくもない。しかしながらきょうにかぎれば、めでたくはないけれど、事実を記して置かなければならない。なぜなら、きょうの結婚記念日は、わが夫婦あいなす人生一大事業の完結編とも言えそうだからである。確かに、完結編のすぐ先には、おのずから偕老同穴の終焉の時が待ち受けている。そのことをかんがみれば、確かにそう祝福すべきことではない。しかし、ひそかにでも祝福すべきかな! という思いもある。それほどに共白髪にいたるまでに、ふたりして人生行路を歩み続けることは、やはり生涯における最大の難事業である。
 顧みてわが夫婦の華燭の典は、喧々囂々(けんけんごうごう)たる是非論争の末の制定(昭和四十一年・一九六六年)から二年のちの、昭和四十三年(一九六八年)の建国記念日だった。そして、式と披露宴会場は、当時の私学会館で現在の「アルカディア市ヶ谷」(東京都千代田区九段北)であった。それは、新郎二十七歳そして新婦二十四歳での、ふたりしての新たな人生行路のスタート日だった。この日以来めぐって来たきょうの結婚記念日は、世に言う「金婚式」にあたる。まさしく、共に艱難辛苦の人生一大事業の完結編である。あくまでも途中経過と嘯(うそぶ)くには、先の短いいやごく限られた余生にある。だからこそ私自身、心中でひそかに内祝いを試みて、記録に留め置くくらいの価値はあろう。相方(妻)の思いは知るよしない。一つだけ記憶を添えれば、披露宴では当時大流行の『世界は二人のために』(佐良直美歌)を満場合唱の中に、共に顔を薄紅色に染めて歌っていた。しかしながら二人連れの人生行路は、歌詞のとおりにはならずじまいである。それは、わが甲斐性無しのせいである。罪滅ぼしするには、わがいのち短しである。

薄っぺらい残雪 

 二月十日(日曜日)の夜明け前が訪れている。キーボードに就く前に窓ガラスを開けて、一基の外灯の灯す道路を確かめた。すると、積雪はまったく見えなかった。入試の採点ふうに言えばきのうの私の決断は、百点満点だった。具体的にはほぼ十分間の書き殴りで、身勝手におさらばしたことである。なぜなら、このことで私は、寸でのところで風邪をひかずに、この文章にありついている。
 きのう(二月九日・土曜日)の鎌倉地方は、この冬初めての雪降りに見舞われた。雪がチラホラ降り出したのは、昼過ぎあたりからだった。もちろんこれくらいでは積もることはなく、気象予報士の予報にちょっぴり背かぬ程度のものだった。前日の予報は、「関東地方大雪、昼過ぎがピーク」と、いうものだった。このことでは、昼過ぎの頃までの予報はいくらか外れていた。まったくの〇点ではないけれど、十点程度にすぎない予報だった。ところが、夕方の三時過ぎあたりから予報はかなり挽回した。もちろん、百点には届かなかったけれど、八十点くらいまでにはなった。このことで私は、心中で(予報にたいする合格点をあげていた)。
 天気予報は正確ではあり得ず、あくまでも確率予報とである。おのずから確率予報は、ピッタシカンカンのときもあれば、まったくの外れもある。このことをかんがみれば、八十点を得れば気象予報士は、どうにか面目を保ったことになろう。本格的に降り出す時間のずれはあったけれど、チラホラの雪は三時過ぎからやたらと降り出した。茶の間の窓から眺めていた雪の降りようは、吹雪にも見えるところがあった。その証しに道路は、またたくまに白く化粧をし始めていた。
 妻の留守中の私は、雪の降りように恐れをなして、早々と雨戸を閉めにかかった。ところがここで、私は予告に背いた。それは、梅の花をじっくり眺めることなく、チラッと見ただけで雨戸を閉めたことである。なぜなら、きのうの文章で私は、「きょうはじっくり見よう」と、予告していたからである。しかし、チラッと見ただけでも、梅の花のたくましさを感じた。梅の花は雪をかぶりながら、かえって凛ときらめいていた。私とは違って、梅の花は雪降りを待っていたのかもしれない。まさしく、自然界のおりなす神秘な風景だった。「梅にウグイス」とは、古来の絵になる風景である。それをもじれば、案外「梅に雪」も似合いの風景なのかもしれない。
 雨戸を閉めたのちの雪模様は知ることなく、独膳の夕御飯ののち、早々に床に就いた。枕元に置く携帯電話の呼び出し音が鳴った。娘と孫に同行していた妻からの「帰りコール」だった。この日の妻は、孫のバレエ公演の付き添いで、なんと! 新宿(東京)まで出かけていたのである。妻は八時過ぎにわが家へ帰って来た。
「パパ。東京には雪がちょっと降っただけよ。鎌倉には降ったのね。今は止んでいるけど、道路に雪が光っていたわよ」
「瞬間的には、結構降ったよ。降り止んでいるのか? 長く降らないで助かったね。おれは、雪が降っていたから、雨戸を閉めて早く寝たよ」
「そう。それがいいわよ。あおば(小学五年生・十一歳)、よくできたわよ!」
「そうか。おれ、寝るね。おまえが帰ってくる前に、部屋を暖かくしようと思って、暖房を入れに起きていたのだから」
「そうなの。ありがたいわ」
「御飯、炊いたから食べればいいよ」
「そう。食べるわ。パパは、もう寝なさいよ!」
「うん、寝るよ」。
 きょうもまた懲りずに、書き殴り、走り書きである。しかし、風邪ひきを免れたので、約三十分間の書き殴りを得たのである。
 夜が明けた。のどかに朝日が射している。前方の開けっぴろげの窓ガラスから見える家並みの屋根には、薄っすらと雪の光が照り返っている。

寒い朝 

 きのう(二月八日・金曜日)の夕方、雨戸を閉めていたら目の前の梅の木に、花がほころびていた。私の気づきが遅かっただけで花は、数日前から咲いていたのであろう。私の気分は和んだ。探し求めていた明るい気分だった。だから、あしたは、このことをちょっぴり書こうと思った。
 きょう(二月九日・土曜日)は、「建国記念日」(二月十一日・月曜日、祝祭日)に向かっての三連休初日である。起き立ての私は、ゴホン、ゴホン、と咳を繰り返し、キーボードへ就いた。咳は今も止まらず、間欠泉のごとく繰り返している。もちろん、こんなことは滅多にない。そのため、(風邪をひきそうだな!…)と、思った。確かに、身震いが襲ってくる。
 いつものように、メディアが伝える配信ニュースを瞥見した。その中から、二つの見出し項目を気に留めた。一つは「関東地方大雪、昼過ぎがピーク」であり、そして一つは「北海道歌登、-30度今季初」である。きのうの私は文章の中で、この冬は暖冬異変に恵まれて、寒さのことを書いた記憶はないと、まさしく極楽とんぼの心境を記した。ところが、それからたったの二十四時間ののちに、私自身のみならず日本列島の寒気まみれのことを書いている。もちろん、私自身が豹変したのではなく、気象状態が様変わっているのである。しかしながら、これとて驚くなかれ! 季節は三寒四温の最中にある。このことでは案外、この寒気自体、きょうあたりがピークなのかもしれない。しかし私は、風邪ひきを恐れて、わずかに十分間の殴り書きと走り書きで、一目散に退散することとする。やはり私は、寒気にはめっぽう泣き虫・弱虫である。
 夜明けて雨戸を開ければ、寒気の中の梅の花をじっくり観察するつもりである。妻の留守中の朝めしの支度が待っている。その手始めはなんてことはない、冷凍御飯を冷蔵庫から取り出して、レンジで三分間の「チン」である。咳は収まっているから、この先、書けないこともないけれど、風邪ひきを恐れて、これでおさらばである。身勝手、かたじけない。

たまわった激励文

 季節のめぐりは、カレンダー上ではすでに「立春」(二月四日)が過ぎている。しかしながらわが感覚的には、二月いっぱいはいまだに冬である。これに倣えばこの冬は、確かな暖冬異変であろう。なぜなら、これまでを顧みても、寒気に慄いた記憶はほとんどない。その証しは、日々の文章に如実に表れている。確かに、記憶を戻しても例年とは違って、文章において寒いと記した記憶は浮かばない。寒がり屋の私にすれば、まさしく天恵の暖冬異変を享受してきたことになる。だからと言ってわがつづる文章は、必ずしも温かく和むものではなかった。いや、実際のところは、愚痴こぼしまみれの冷え冷えのものだった。
 すると、読むに読みかねてお二人様から、私信メールと掲示板上のご投稿文で、泣き虫・弱虫の私にたいし、わが身に余る激励文をいただいたのである。まさしくお二人様は、わが生涯の宝人(たからびと)である。私信メール文で、常に心震える温情とご厚情をさずけてくださるのは、渡部さん(埼玉県所沢市ご在住)である。「ひぐらしの記」においては、これまで渡部さんのご紹介は、折にふれて繰り返してきた。だからと言って、それで済むものではない。だから、うろ覚えの英作文の構文を浮かべれば、お礼は「いくら、言っても言い過ぎではない」、というのがピタリである。
 渡部さんは、会社同期入社の仲間のおひとりである。そして、驚くなかれ! 渡部さんには、ひぐらしの記にあっては第一集から直近の第七十三集にいたるまで、有料購入にあずかっている。このことは、すでに何度も書いたところである。しかし、なお繰り返し書かずにはおれないし、英作文の構文になぞらえれば、まさしく「いくら書いても、書き過ぎではない」ものである。
 激励文をさずけてくれたもうひとりは、掲示板上ではおなじみのふうたろう(ふうちゃん)である。これまた、短くご紹介を繰り返すと、彼の場合はこうである。たがいに竹馬の友であり、現在の彼は府警を終えて、悠々自適に大阪府枚方市に終の棲家を構えている。ふうちゃんの激励文は、これまた友情の眼差しにあふれていた。なぜなら、あえて大書の小説の一文を引いて、逆説的にわが泣き虫に「友情の檄」を飛ばしてくれたのである。その確かな表れは、こうである。「知っているかね? しいちゃん! マイナスにマイナスを掛ければ、プラスだよ。だから、マイナスに臆せず、バンバン書けよ!」という、温かい叱咤激励だった。
 わがマイナス思考は、お二人の激励文を得て、どうやらプラス思考へ戻り始めている。きょう(二月八日・金曜日)の文章は、お二人様の激励文にたいし、お礼文に替えるものである。渡部さんとふうちゃんの激励文のおかげでわが気分は、暖冬異変をはるかに凌ぐ、ポカポカの暖かさである。春気分は、気象だけが恵むものではない。現在の私は、このことを十分に知らされている。お二人様には、感謝感激である。

人の世は、闘いと戦い 

 生きとし生きるものすべて、生きるためには戦いが存在する。そしてその戦いには、常に弱肉強食の掟(おきて)が存在する。もちろんその戦いは、相手との戦いばかりではなく、自分自身との闘いも存在する。同時に、双方が存在するたたかいもある。この例に真っ先に浮かぶのは、人の世のこの時期に行われている、受験戦争とも呼ばれているさまざまな入試である。受験戦争は、まずは自分自身との闘いに勝たなければならない。そして次には、たったひとりの相手ではなく、途轍もなく大勢の相手に、勝たなければならない。まさしく、厳しい戦いである。戦いの武器は、みずからの努力と奮闘である。しかしながら悲しいかな! 結果(勝ち負け)の多くは、努力や奮闘では補えない生来の知能や才能の違いからもたらされる。もし仮に人の世に闘いや戦いがなければ、どんなにか極楽浄土であろう。
 相手との戦いには、大小さまざまにある。双方の睨み合いから始まり一対一や、群れを成す相手との戦いもある。子どもの喧嘩もあれば、夫婦の口喧嘩ある。企業社会には、常に戦略という言葉が飛び交っている。国同士では、常に戦端に怯えている。アメリカのトランプ大統領は、メディアが報じた演説模様で、誇らしく「わたしでなければ、北朝鮮と戦争になっていたはずだ」と、叫んでいた。
 さて、飽くなき欲得をたずさえて、戦争と準(なぞ)えるものには商戦がある。しかし商戦は、もともと欲得にからんで独りよがりに仕掛けてくるものだけに、負ければ仕掛けた張本人の自損で収まるところがある。このため、仕掛けられた相手が無傷に済むことでは、確かにほかとは異質の戦いである。ところが、商戦にも戦いにつきものの痛手は存在する。大小を問わず戦いの特徴は、相手のあら探し、いざこざ、その挙句には非難の応酬が発端である。この点でも商戦は、ほかとはまったく異質のところがある。すなわち商戦の本質は、人の世の大小の営みから商機を探したり、あるいはみずから作り出して、人の暮らしの中に一斉に仕掛けてくることである。もちろんその相手は、無防備の国民大衆である。勝ち負けなく相手が無傷に済むことでは、本当のところは戦争の埒外(らちがい)と言うべきであろう。ところが仕掛ける当事者は、あえて商戦と銘打って「売らんかな!」の姿勢を強めて、押しつけ販売に狂奔するありさまである。もちろんそのしっぺ返しは、当事者へ降りかかってくる。
 節分にちなむ「恵方巻」商戦が終わり、来週には「バレンタインデー」(二月十四日)の商戦が近づいている。恵方巻商戦のあとの現象の一つには、メディアから「大量に残った恵方巻は、豚の餌になった」というものがあった。幸いバレンタインデーの目玉は、チョコレートを筆頭に腐敗の恐れの無い商品になりそうである。このため、バレンタインデーの商戦には後顧の憂い無き戦いが仕掛けられてもくる。仕掛けられるほうとて、いくらか夢心地にある。だから、仕方なく財布をはたく羽目になる恵方巻商戦とは、これまた異質のところがある。戦いにあって、もちろん双方がこんなに快い戦いは滅多にない。そのため、バレンタインデーの商戦を毛嫌いすることはない。それでもばかじゃなかろか! 度が過ぎると売れ残りに同情するところはある。やはり戦いは、ないのに越したことはない。現在の私は、受験生の戦いを慮(おもんぱか)っている。

わがマイナス思考の祟り 

 常々、明るい文章を書きたいと思う。しかし、書けない。わがマイナス思考のせいである。おのずから文章は、愚痴こぼしまみれとなる。しかしながら人の生存とは、本来明るさとは無縁なのかもしれない。確かに、人みな生きること自体、艱難辛苦(かんなんしんく)なのであろう。その証しは日本社会のみならず、マスメディアが時々刻々に伝える世界事情でも知らされる。すなわち、人の世にあっては、一日たりともいや一瞬たりとも、安寧はあり得ない。最も心が安らぐはずの親と子の関係にあっても、いじめはもとより血なまぐさい事件が連日報道されてくる。NHKテレビが映す国会中継にあっては、真実は故意に隠されたままに無用の論駁(ろんばく)に明け暮れている。
 もともと人の世は、明るさとは無縁なのかもしれない。そうであれば悩みの根源は自責ではなく、悩むこと自体が馬鹿げている。それなのに、無理に明るさを求めるから、わが悩みは尽きないのであろうか。だとしたら、こんな愚かなことなど浮かべず、もっと大らかにあっけらかんと、生きたいものである。わかっちゃいるけど、それができないのは、確かなわが生来の小さい器ゆえである。もちろん、こんな愚の骨頂の文章を書くために起き出してきたのではない。ところが、パソコンに向かって成り行き文を叩き始めると、真っ先にこんなことが浮かんだ。恥をさらして記したまでのことである。
 「継続は力なり」。確かに、継続は生きるエネルギーになる。一方では、無用の罪作りにもなる。私の場合は、罪作りと言えそうである。望んでも、明るい文章が書けないゆえである。二月は受験シーズン真っただ中にある。受験生の奮闘や苦闘が浮かんでいる。私と違って、受験生の苦悶には希望がある。 

 約束事

 きのうの「立春」(二月四日・月曜日)にあって、私はこんな思いに駆られていた。それは、カレンダー上の立春と季節のめぐりの合致にたいする驚愕であった。確かに、立春は春の訪れを告げるものである。しかしながらこんなにピッタシカンカンであれば、それは自然界のおりなす驚異であり、脅威とも言えそうである。もちろん、実際のところは何ものにも代えがたい、うれしい気象のもたらす驚異だった。立春の日本列島は、まさしく春の訪れを告げるポカポカ陽気に恵まれた。
 私は満身に春の息吹を実感した。すると、ふりそそぐ暖かい陽射しがもったいなくて、久方ぶりに道路の掃除に向かった。道路はあえて掃く必要のないほどに、綺麗な状態に保たれていた。目に見える落ち葉は箒など用無しで、片手の指先で数えながら拾い上げるほどにすぎなかった。それでも私は、掃除の実行を決意した。物置から掃除三セットすなわち、箒、塵取り、半透明の袋を持ち出して来た。暇つぶしというより、ポカポカ陽気に誘い出されての実践躬行だった。この日の掃除は、年が明けては三度目くらいだった。しかも、いずれも昼間だった。人間、いや私にかぎればもともと怠惰な動物にすぎない。下種な思いを浮かべたことには、こんな理由があった。確かに、大晦日を打ち止めにして年が明けると、落ち葉はめっきり影を潜めた。そのため、見回りに出ても、道路が汚らしいと思う日はなかった。これ幸いとばかりに、道路の掃除は沙汰止みになった。だからと言ってほんとうのところは、掃除を怠けていい理由にはならない。なぜなら、側溝あたりには日を追って雑草が萌え出している。山の枯れ枝の木屑も落ちている。かてて加えて、日課を止めてはいけない理由がある。それは、朝の散歩めぐり常連のご婦人様との約束事である。それをたがいの会話で記すとこうである。
「毎朝の掃除はたいへんですけど、からだにいいから、続けてくださいね!」
「ありがとうございます。そうですね。私の場合、掃除は散歩がわりみたいなものですね!」
 私はこう言って、快く相槌を打ったのである。言うなれば、阿吽(あうん)の呼吸がもたらした快い約束事であった。
 ところがこの約束事は、年が明けるとわが怠け心のせいで、無残に反故(ほご)となっている。顧みれば去年の秋口から大晦日までは、寒風吹きすさぶ中にあっても夜明けを待って、私は勇んで道路の掃除へ向かっていた。しかしながら年が明けては、昼間にあっても掃除を怠けてきた。このことをかんがみればわが怠け心は、一旦怠け始めると止めるブレーキが利かない。生来の怠け心、すなわち三日坊主の悪癖は、いっこうに直っていない証しでもある。
 ふりそそぐ立春の暖かい陽射しの下、私は約束事の違(たが)えたことに気を揉んでいた。掃除は隅々まで綺麗にしたため、二時間近くかかった。今朝(二月五日・火曜日)のご婦人様の散歩のおり、綺麗になった道路に気づいてくだされば、ちょっぴりの罪滅ぼしである。しかし、ときには約束事を果たさなければならない。もう寒くはないから、怠け心をほうむるわが決意しだいである。

立春 

 春が来て喜ぶ者は、寒がり屋の私だけではない。きのうの「節分」(日曜日)にあって私は、殊更このことを実感した。わが不断の買い物の街・大船(鎌倉市)の夕暮れ近くには、大勢の人出が繰り出していた。いつもであれば昼下がりに出かける私は、きのうは遅れて三時過ぎに出かけた。確かに、日が延びているとはいえ、夕暮れが迫る買い物には焦燥感をつのらせていた。もちろん、人出の時間としても遅く、すでにピークは過ぎていた頃だった。
 ところが、大船行き路線バスを降りて、いつもの買い物コースに歩を進めると、行き交う人の多さに度肝を抜かれた。しかし、行き交う人の風情はおおらかで、足取りはのんびりしている。連れをなす人たちは、それぞれに破顔一笑を湛えて、和んで歩いている。(なんで?)と、自問を試みた。いや、実際のところはあえて自問するまでもなく、答はすらすらと浮かんだ。私は心中の答案用紙に、答えをこう記した。「それは節分と日曜日が重なり、しかも気温がめっぽう高く、まったく寒気のないポカポカ陽気に恵まれて、さしたる用件もないけれど、家族総出で外歩きをしたくなったゆえである。」採点を望めば、100点満点間違いないところであろう。
 私は初っ端の人出の多さに驚きながら、いつものように定番コースの四つの店を順繰りにめぐった。順路には、「大船仲通り商店街」の通り抜けがある。ここでは、真っ先に行き交う人出の多さに仰天した。次には、すれ合う人の表情にびっくりした。人出の足取りはのんびりと緩く、身形(みなり)や風貌は春の陽気に解(ほぐ)されて、のどかに和んでいた。すでに買い物時間のピークを外していた四つの店は、これまた驚くなかれ! 買い物客でごった返ししていた。限られた大船の街にあって、人出の多さに驚いていた私は、再び思いを浮かべた。(きょうの日本列島は、どこかしこに多くの人出が繰り出していることだろう…)。きのうの節分は、まさしく季節を分けて、冬を遠ざけ春を呼び込んでいたのである。
 きょうは「立春」(二月四日・月曜日)である。気象庁の予報によれば、これまでで最も気温の高い立春になるという。確かな、春立ちである。春が来て喜ぶのは、もちろん私だけではなく、人みな同様である。いや、地中の虫たち、山の木々、路傍の草花、わが家の庭中の雑草、みな同様に喜び勇んで、いのち浮き立っている。
 現在は、予報に違わず気温の高い立春の夜明け前にある。寒がり屋の私は、とうに厚手のダウンコートを用無しに脱ぎ捨てている。

 節分

 節分(二月三日・日曜日)の夜明けが訪れている。朝日はいまだ昇らないけれど、薄く染められたのどかな夜明けの空である。寒気は遠のいて、待ちわびていた春のたたずまいの夜明け模様である。いつものように、夜中の一時近くに目覚めた。仕方なく起き出して、パソコンを起ち上げた。そして、これまたいつものように、あらかたメディアの報じる配信ニュース項目に目を通した。
 幸か不幸か、引用し留め置くほどの日本社会の変動はない。いつもであればそののちは、文章を書き始めるところである。しかし、まったくそんな気分になれない。そのため、パソコンを前にしていたずらに長居は無用と決め込み、再び寝床の中へ潜った。いつもであればこののちは、数々の妄想に襲われて悶々とするばかりである。ところがすぐに寝付いて、腰が折れるほど長く眠りこけていた。もちろん、安眠熟睡をむさぼっていたゆえではなく、きのうの東京行きの疲れのせいである。
 東京行きとは、都下国分寺市内に住む次兄宅訪問である。用件は楽しめるものではなく、加えて片道二時間半ほどかかる道のりである。途中、私は混雑する店頭に身を細めて、たそがれの道を急いだ。店頭のあちらこちらには、恵方巻の短冊が垂れていた。その賑わいぶりは、まるで節分の前夜祭とまがうほどのにわか商戦の渦だった。しかしながら私は、どの店にも立ち寄らず、わが家への帰りを急いだ。
 節分と恵方巻の風習がこうまで賑々(にぎにぎ)しくなったのは、いつの頃からだったであろうか。確かに人生には、頼りになないとはわかっていても、神頼みや風習にすがりたくなるものがある。これにつけこむ商魂とは、ミエミエの「御為こがし」と、言えそうである。
 こんなことを浮かべているようでは、わが身に春の恵みはなさそうである。気分の乗らないきょうの文章は、確かに休むべきだった。

春は名前負け 

 月替わり初日(二月一日・金曜日)は、心猿(しんえん)に襲われて文章を書く気になれず、無断欠席へと逃げ込んだ。寒気に耐えてようやく暖かい春が訪れたというのに、この先もしょっちゅう襲われて、無断欠席を繰り返しそうである。結局、文章が書けるかどうかは外的条件というより、内的すなわち心的条件に左右される証しと、言えそうである。
 鎌倉地方は恐れていた降雪予報が外れて、幸いにも月替わりは好天気に恵まれた。きのうの首都圏の多くには、私立中学入試が行われたようである。かつては十五の春(高校入試)と言われていたけれど、今や十二の春が定番になりかけている。日本社会は少子化の真っただ中にある。そのうえ、小学生を受け入れる中学校は、公立はもとより私立などあまたある。だから、親は愛(いと)しいわが子をそんなに追い立てなくてもいいのに! と思うのは、もはや時代遅れののんきな爺さんであろうか。少子化になり、選ばなければ全入学時代になっている。それでも、子どもたちを追い立てるのは、親の愛情なのか? それともわが見栄欲しさの欲の突っ張りなのであろうか。やはり可愛さゆえの、競争社会におけるわが子の将来をおもんぱかってのことであろうか。かんがみれば日本社会のみならず社会は、常に競争という弱肉強食を強いられる鬱陶しい人の集団である。
 プロ野球は、きのうから各球団一斉に開幕前のキャンプインとなった。待ち詫びていた、華やかな球春の訪れである。しかしながら、実際には必ずしもすべてが華やかとは言えない。なぜなら、開幕式にあっては、競争社会における哀歓がつきまとっていた。具体的には、グラウンドに立ち並ぶ顔ぶれの入れ替えである。すなわち、見慣れていた選手の姿が去り、新人選手の顔にやたらとスポットライトが浴びせられていた。
 競争社会は、おのずから合格や勝ちが求められるサライバル(生き残り)ゲームなのであろう。競争ゆえにもちろん負ければ、不憫と言って同情を買うこと自体、なさけない思いさらされるのかもしれない。めぐって来た二月は、いよいよ受験シーズン本番である。社会人は、人事異動の時期の訪れでもある。春の訪れは、思いのほか厄介な季節めぐりである。
 あすは「節分」(二月三日・日曜日)である。確かに、わが気分は沈んでいる。春は、名前負けと言えそうである。

早や、一月が過ぎてゆく 

 一月三十一日(木曜日)、壁時計の秒針は夜中の二時半あたりを回っている。寒気は身が震えるほどではないけれど、私は時のめぐりの速さ(感)に慄(おのの)いて、震えている。新年と記し続けてきた平成三十一年(二〇一九年)は、きょうで早や一月が過ぎ去る。季節は日を追って寒い冬を遠のけて、待ちわびている暖かい春の足音が近づいている。それなのに私は、寂しさをつのらせている。もちろんそれは、ジタバタしてもどうなることでもない、時のめぐりの速さ(感)から生じている感傷と寂莫感ゆえである。
 私は、長生きは望んではいない。しかしながら、こうも時のめぐりの速さ(感)に追い立てられると焦燥感がつきまとい、その挙句には長生きしたくにもなっている。未練がましいけれど、時々刻々と縮まるわが余命への確かな未練と言えそうである。
 私にかぎらず人は、人生行路において信条や信念を全(まっと)うすることは、きわめて無理難題なことである。特に、余命を減らす晩年にあっては、絶えず信条や信念の揺るぎに脅(おびや)かされるところがある。私は生来の意志薄弱であり、そのため輪をかけて日々脅かされている。顧みれば去年の秋から暮れにかけての私は、ムズムズ感をともなう鼻炎症状を長引かせていた。ところが、どういうわけか一月は、幸いにも鼻炎症状は遠のいていた。そればかりか私は、猛威を振るっているインフルエンザにも罹(かか)らず過ぎてきた。もちろん、こんな配信ニュースに出合うと、この先のことはわからない。
 【インフル患者 東京で過去最多 インフルエンザ大流行、東京で過去最多の患者数 - 半数近くが10歳未満、小中学校で欠席者急増も】(1/30日・水曜日、14:28掲載 医療介護CBニュー)。「東京都のインフルエンザの1週間当たりの患者報告数が、感染症法に基づく調査が始まった1999年以降で過去最多を記録したことが30日、都がまとめた21日から27日までの週の患者報告で分かった。小中学校などで学級閉鎖が相次いでおり、患者が急増している自治体は警戒を強めている。」
 少子社会にあって、インフルエンザによる子どもたち虐めは、御免蒙りたいものである。もちろん、有り余るからと言って、高齢者虐めも御免蒙りたいものである。時のめぐりの速さ(感)に身を置くと、薄弱な信条や信念などすぐに消え去り、長生きしたくもなっている。いや、わが信条や信念は、もともとこころもとないものである。
 足早に一月が過ぎてゆく。暖かい春を間近にして、わが心身は震えている。寒気のせいではなく、時のめぐりの速さ(感)に慄いているからである。

苦闘の胸突き八丁 

 一月三十日(水曜日)、節分(二月三日)と立春(二月四日)を間近にして、寒気は胸突き八丁にある。確かに、節分や立春が過ぎても、経験的に寒い日は何度も訪れる。しかしながらその寒さは、もはや賞味期限はもちろんのこと、消費期限すれすれにある。だから、最後の我慢のところを耐えれば、待ちわびていた春がやってくる。季節は三寒四温を繰り返し、まさに暖かい春へとめぐっている。
 こんなあたりまえのことを書いていると、ふとこの時期の受験生の苦しさと切なさが浮かんできた。大学入試センター試験はすでに終わり、受験シーズンは個々の大学の文字どおり個別試験へと向かっている。これまた受験生にとってこの時期は、最後の追い込みを為す胸突き八丁を強いられている。確かに、寒い冬から暖かい春へ向かうこの時期は、受験シーズンすなわち受験生活と瓜二つのところがある。しかしその過酷さは、寒さに耐えて春待つ心境とは比べようのない苦闘である。もちろん春の暖かさは、人みな一様に訪れる。ところが受験結果は、そうではなく合否にさらされる。このことをかんがみれば、先に記した瓜二つの言葉は、もとから当を得ていないところがある。いや、実際に瓜二つと思えるところは、合格を成した人にかぎられる。なぜなら、不合格の憂き目を見た人には、こんなに恨みつらみのつのる受験シーズンはない。
 人は生まれながらに平等という。耳あたりの良い言葉の半面、実際のところは切ないフレーズ(言葉)である。なぜなら、生まれながらの才能の有無や差異は、後天の努力では補えないところがある。もちろん、受験シーズンにかぎることではない。しかし、受験シーズンにあってこの言葉は、とりわけ嘘っぱちに思えてくる。桜の開花の前に「サクラ、チル」とは、つれないかつての電文である。私は、すべての受験生の健闘を願っている。けれど、受験シーズンだけは、すべての受験生に「合格の春」はめぐってこない。やはり、三寒四温の季節のめぐりと受験シーズンは、瓜二つとは言えそうにない。わが、とんでもない勘違いである。ただこの時期は、どちらも最後の苦闘を強いられる、胸突き八丁とは言えそうである。

わが日常生活 

 この時季のプロ野球はオフシーズンで、いまだ公式戦はない。選手は、それぞれが自主トレーニングの最中にある。ところが、自主トレーニングも残り三日となり、今週の二月一日(金曜日)からは、全球団が一斉にチームキャンプに入る。各球団はそれぞれに暖かい地方へ出向いてキャンプ(練習漬け)を張り、三月末の公式戦開幕に備えることになる。
 長ったらしく書いたけれど、この間には公式戦が無いことを言いたかっただけである。おのずからこの間の私は、ナイター(夜間試合)のテレビ観戦を免れることとなる。一方で公式戦が始まれば、ファンとする阪神タイガース戦にかぎりテレビ観戦漬けとなり、そのぶん夜の時間をとられることになる。言うなればプロ野球の開幕を皮切りに、わが日常生活はよくもわるくも様変わりする。
 プロ野球と人気を争うサッカーの多くは、夜のテレビ番組で放映される。ところが、私は大きな国際試合でないかぎり、サッカーのテレビ観戦は放棄している。その理由は、ファン(サポーター)と言えるチームが無いことである。さらには、子どもの頃からサッカー自体に馴染んでいないせいである。ほかの夜のスポーツ番組は、まったく観ないままである。
 「ひぐらしの記」を書くようになって以来、意識して私は夜間のテレビ視聴を遠ざけてきた。具体的には、夜の八時いやもっと前の七時半以降の番組とは、早々とおさらばを決めこんできた。もちろんこのことは、ひぐらしの記の執筆への影響を恐れているからである。なぜなら、ひぐらしの記の執筆には、日を替えた夜中あるいは夜明け前の習わしにしている。バカのいっちょおぼえのごとく、このことはすでに何度も記してきた。
 昼間のテレビ番組で、決まって観るものは一つもない。どうにか昼間に観るのは、これまた大相撲はじめ時々のイベントのスポーツ番組である。すると、朝はどうなのか? と、自問する。すると、唯一決まって観るのがある。それはNHKテレビが放映するわずか十五分間にすぎない、「朝のテレビドラマ(小説)」である。現在放映中の題名で言えば、『萬平さん』である。
 長々とくどったらしく書いてきたけれど、わがテレビ視聴時間はごく短く限られている。すると、テレビ視聴にかえて多くの時間を割いているものには、パソコンとの向き合いがある。すなわち私は、ひぐらしの記の執筆はもとより、パソコンとしょっちゅう向き合うことで、持て余しがちな時間を埋めているのである。このことでは、わが日常生活は「パソコン、様さま」である。このため、一旦パソコントラブルに見舞われると、たちまち茫然自失となる。確かに、文明の利器は「両刃の剣」である。しかし現在の私は、あらためて定年(六十歳)後にパソコンがなかったならば! と、「ぞっとする」思いにとらわれている。
 どうでもいいことだが、わが日常生活のほんの一端の披露である。わが日常生活は、パソコンに「おんぶにだっこ」されている。

大相撲初場所、玉鷲初優勝 

 感動や感激は、もはや自分自身ではまったく生み出せなくなっている。そのため、このところの私は、人様が生み出す感動や感激をわが身に取り込み、共有なり共感なりしてそれに浸っている。言うなれば、人様すがりの感動や感激の享受である。もちろんそれでもいい。なぜなら他力本願であろうと、感動や感激を味わえること自体、わが至福のときである。
 きのうの文章においては、全豪オープンにおける大坂なおみ選手の優勝を伝える配信ニュースを引用し、再び余韻に浸りわが感動をつのらせていた。そして、きょう(一月二十八日・月曜日)もまた、メディアの報じる配信ユースを引用している。だからといって、なさけなくはない。いや、感動や感激にさずかった報いとして、記して置かなければならない。もちろん、感動や感激の根源に国籍の違いは無用である。大坂選手のお父様はハイチ出身、そして玉鷲自身はモンゴル出身である。しかし現下の日本社会にあって、特にスポーツ界においては、今や出身国など是非の議論の余地ない現実である。確かに、感動や感激をもたらしてくれれば、私は国の違いにこだわらず一様に称賛するものである。
 【関脇玉鷲、34歳で初優勝…2番目の年長記録】(2019年01月27日19時47分 読売新聞)。「大相撲初場所は27日、東京・両国国技館で千秋楽が行われ、モンゴル出身の関脇玉鷲(34)(本名バトジャルガル・ムンフオリギル、片男波部屋)が13勝2敗で初優勝を飾った。ただ一人2敗で首位に立っていた玉鷲は千秋楽の一番で平幕の遠藤に快勝。賜杯を手にした表彰式でのインタビューで、『毎日毎日、今までになく集中して本当に(15日間が)長かった』と喜びを語った。2004年初場所、19歳で初土俵。34歳での初優勝は、年6場所制以降、37歳で優勝した旭天鵬に次ぐ2番目の年長記録となった。片男波部屋からの優勝は、1971年名古屋場所の横綱玉の海以来、48年ぶり」。
 人様が生み出した感動や感激であっても、わが身に取り込めば寒気を和らげている。二日続けての配信ニュースの引用にも、恥じらいはない。

寒いわが身を温めている、大坂なおみ選手の快挙  

 一月二十七日(日曜日)、夜明け前にあって恐れていた雪は、まだ降っていない。きょうの関東地方には、広範囲に降雪予報が出ている。確かに、身が震えるほどの寒い朝が訪れている。しかしながら、わが心はいたって温かい。それは、きのうの夕方から夜にかけてのテレビ観戦で、ありついた心地良い余韻にいまだに浸っているからである。きょうの文章はもちろん手抜きではなく、記して置かなければならない日本社会の朗報である。
 【大坂なおみ、全豪優勝 全米に続き2大会連続Vでアジア勢初の世界ランク1位】(1/26日・土曜日、20:13配信 スポーツ報知)。「◆テニス 全豪オープン第13日 ▽女子シングルス決勝 大坂なおみ2―1クビトバ(26日・メルボルン) 女子シングルス決勝で第4シードの大坂なおみ(日清食品)が第8シードのペトラ・クビトバ(チェコ)と対戦し、7―6、5―7、6-4のフルセットで下し、日本勢初の全豪優勝を果たした。4大大会では、初優勝した昨年の全米に続き2大会連続の快挙となった。男女シングルスを通じてアジア勢初の世界ランキング1位に就いた。ウィンブルドン選手権女王に2度輝いた28歳のクビトバ相手に第1セットを7―6で先取した。第2セットは0―2からブレークに成功し逆転したが再逆転され5-7で失った。第3セットは6-4で奪った。1968年のオープン化以降、4大大会女子で初優勝からの連続Vは2001年全豪、全仏覇者のジェニファー・カプリアティ(米国)以来6人目。優勝賞金は410万豪ドル(約3億2千万円)。生涯獲得賞金は日本女子初の1000万ドル超えを達成した。」
 ちなみに大坂なおみ選手は、大阪府大阪市中央区出身、二十一歳。お父さんはハイチ出身、お母さんは日本人である。

 寒い夜

 一月二十六日(土曜日)、夜中の三時過ぎに身を置いている。体感温度は低く、身に堪える寒さである。きのうの気象予報士は、きのうの夕方からきょうあす(日曜日)の週末にかけて、日本列島各地の降雪予報に大わらわだった。その予報によれば、特に日本海側の各地は大雪に見舞われそうである。加えて、九州地方の降雪予報も報じられていた。降雪予報には太平洋側の一部地域も含まれていて、関東甲信のくくりの中に、わが住む神奈川県も含まれていた。しかし、関東甲信にあっては、「山沿い」という限定地域が付されていた。確かに、わが住む住宅地も山沿いだけれど、神奈川県の場合は箱根の山あたりに限られるであろう。望むのは、きょうの雪降りは御免蒙りたいものである。なぜならきょうの私には、人様との出会いのため東京行きが予定されている。
 突然の降雪予報を凌いで、このところの日本社会を戦々恐々に陥れているのは、インフルエンザの大流行のニュースである。きのうのNHKテレビニュースにおいて日本列島は、隙間なくインフルエンザの流行を示す赤色で染められていた。当然のことながら私は、真っ赤に染まった日本列島に驚愕した。同時にアナウンサーは、都道府県のいくつかを挙げて、患者数や対応状況などを報じていた。幸いわが夫婦は、この先のことはわからないけれど、これまでのところは罹患を免れている。さらに、娘家族も免れている。
 真っ赤に染まった日本列島を見て、へそ曲がりの私は、腑に落ちない思いにとらわれていた。それは冬が近づくと盛んに警告を発せられる、インフルエンザ予防措置の効き目である。これまでのわが夫婦は、一度さえ予防措置をしたことはない。そのため、インフルエンザ予防措置とは、実際のところはどうされるのか、知らないままである。常識的に勘繰れば、身体部位のどこかに注射を打つのか? 薬剤だけの服用なのか? まるで幼稚園児の知識にも満たないほどのなさけなさである。それでもこれまでは、夫婦共に罹患を免れてきた。しかしながら多くの人たちは、われ先に予防措置を講じていたはずである。特に児童生徒は、学校ぐるめで予防措置を講じていたはずである。ところがアナウンサーは、日本列島各地の多くの学級閉鎖模様を伝えていた。もちろんおとなたちの多くもまた、予防措置を講じていたはずである。それでも日本列島は、流行を示す真っ赤で染められていたのである。
 テレビ画面でこの状況を観ながら下種(げす)な私は、かたわらの妻にたいし、こう言った。
「インフルエンザの予防効果は、どうなってるんだろうね? 効き目がないのかね!…」
 すると、妻はこう返した。
「そうね。不思議ね。みんな予防注射(?) したはずなのにね!」
 こんなバカな会話しかできないわが夫婦は、長い人生で年の功なく、「ぼうっと生きて」きたのだろう。
 いまだに真っ暗闇で、窓の外の空模様はわからない。それでも、旅立ちの支度が迫っている。

 早春の陽射し

 カレンダー上の「立春」(二月四日)はまだ先だけれど、晴れた日の陽射しはすでに早春の輝きである。晩冬すなわち寒の底にあって、晴れの日の大気は飛びっきり澄み切っている。冷えた天上の大海原からそそぐ陽射しは、そのぶん視界くまなく見通せるほどに澄み切っている。陽射しは全天候型とはいえ、必ずしも万全の暖かさではなく、時季相応にわが身は寒気を感じていた。私は、わが家最寄りの「半増坊バス停」に佇んで、巡り来る「大船(鎌倉市)行き」をバス待っていた。バスを待つのは、私に後れてやって来られたご婦人と二人である。ご婦人を勝手に高齢者と決めつけことは忍びなく、いまだ予備軍と思えるほどのお姿である。お顔馴染みではなく、私は軽く会釈して佇んでいた。
 バスがめぐって来るまでのわが視線の多くは、道路を挟んだ先の草むらを凝視していた。それは、早春の陽射しのおりなす光景に見惚れていたからである。ありふれた表現を用いれば、陽射しは辺(あた)り一面に、澄明(ちょうめい)にそそいでいた。それを受けて、萌え出し始めていた雑草がキラキラと光っていた。緑道を成す周辺の木々には、小鳥が飛び交っていた。わが愛鳥のメジロかな? と、見つめたけれど、名を知らぬ鳥たちだった。私は、しばしこれらの光景を堪能した。実際のところは春の訪れを実感し、快い気分に酔っていたのである。
 私は高揚する気分を抑えきれなくなり、かたわらのご婦人にたいし、「いい天気ですね」と、言葉をかけた。ご婦人は不意をうたれたのか、それでも無言で微笑(ほほえ)まれた。
 めぐって来たバスへ乗り込むと、私は空いていた窓辺に座った。走り出す車窓を眺めながら真っ先に浮かんだのは、(また、庭中の草取りが始まるな!)、という思いだった。私は窓の陽射しに日向ぼっこをしながら、バスはのどかにわが買い物の街・大船へ巡って行った。草取りの難渋を浮かべていると、すべて良しではないけれど、待ち詫びていた春が近づいていたのである。

「才色兼備」物語 

 このところの私は、今さらながら人生行路における後悔や、ない物ねだりを浮かべて、自虐精神に圧し潰されそうになっている。とことん、身の程知らずの馬鹿な私である。おのずから文章は、みっともない愚痴こぼしとなる。その挙句には、わが器の小ささにみずから呆れかえっている。さまざまなコンプレックス(劣等感)にさいなまれた自虐である。もちろん、どうにもならないことにジタバタすることこそ、きわめつきの自虐である。
 私は、人様から虐められたことは一度もなく、もちろん人様を虐めた記憶はまったくない。こんな幸運にあって、自分が自身を虐めることほど、馬鹿げて愚かなことはない。もちろんそんなことは、わが骨の髄までわかっちゃいる。だから、きょう(一月二十四日・木曜日)は、世の中の明るい話題を探し、かつ人様の幸運を垣間見て、わが身の慰安と癒しを求めている。言うなれば、他力本願にすがるしばしの自虐離れである。
 すると、明るい話題と人様の幸運、共に抱き合わせの格好のニュースに出合ったのである。わが題して、才色兼備物語である。
 「ミス日本グランプリは現役東大生 理科3類で医学を学ぶ才色兼備の21歳!」(めざましテレビ 2019年1月22日 火曜 午後0:12 放送分より)。第51回ミス日本コンテスト2019の最終審査 今年の応募総数は2354人 東大理科3類在学中の度會亜衣子さんがグランプリ 特技はフランス語とフルート。「医学の入口に立ったばかりですが、最先端の研究などで貢献できたらいい。まさか自分がこのような賞をいただけるとは夢にも思っていませんでした。ですが ミス日本グランプリの名に恥じないよう これからも精進してまいります」。
 今後の進路について聞かれると、「私は今 東京大学の医学部の2年生で医学を勉強しています。まだ医学の入口に立ったばかりなんですが、なにか最先端の研究などで貢献できたらいいなと思っています」。
 人様の幸運を称えて、一時的にしろ、わが自虐精神は遠のいている。

紙上・社会面に映る茨道 

 かつては三面記事と言われていた新聞紙上の社会面は、人の生きることのつらさと強欲さを映す縮図である。すなわち紙面は、よくもわるくも人の生き様のオンパレードである。実際には胸の透くほほえましい記事に出合うことは、滅多にない。こんな思いをたずさえて、見開き二面にわたる社会面における、見出し記事だけを眺めてみた。見出し記事は、きょう1月23日(水曜日)付け、朝日新聞朝刊からの抜粋である。記事の内容は省略し、見出し文字のほぼ大きさの順に記してみる。「黒字と偽り報酬捻出か 老人ホーム創業者に年3億円 入居一時金前倒しで計上 民間施設外部の目届かず」 「オリンパス報告漏れ853件 医療機器の不具合」 「8大学私学助成減額 不適切入試東京医大、2年間ゼロ」 「後発薬 価格維持図る 2社カルテル容疑」 「ゴーン前会長保釈再び却下 東京地裁口裏合わせ警戒か」 「横浜事件上告却下 弁護団、書類提出忘れる」 「金銭問題見えぬ収束 小室圭さん『解決済み』相手は反論」 「消防署員2人消火中死亡か 秋田4棟全焼」。唯一、ほほえましい記事はこれである。
 「『菫にらみ』韓国凱旋」:今年4月、史上最年少で囲碁の日本棋院のプロ棋士となる大阪市の小学4年生、仲邑菫さん(9)が22日、7歳から修業を積んできた韓国・ソウルに凱旋した。会見に集まった韓国と日本の報道陣約50人を前に、『アンニョンハセヨ(こんにちは)』とあいさつ。『世界で戦える棋士になりたい』と決意を語った。以下略」。
 社会面の記事を深読みすることはないけれど、読まなくても見出しだけで、人それぞれに生きることのつらさは読み取れる。確かに、人生行路は幸(さち)少なく、艱難辛苦の茨道である。

 寒波に負けて…休養

 一月二十二日(火曜日)、体感的にこの冬一番の寒波に見舞われている。このため、心が萎え休養と決め込み、遅くまで寝床に就いていた。受験シーズン真っただ中にあって、受験生のつらさを浮かべるばかりで、私自身は寒気に勝てなかった。これまでの暖冬異変が本来の冬の寒気へ戻り、そのためきょうは、自分自身にたいする寒中見舞いである。見舞いの手土産は「休養」である。冬本来の寒波ゆえ、寒気を憎々しいとは言えない。言えることは、私自身の意気地なしである。

 寂寥「平成最後の天覧相撲」

 日本史上にあって時代区分を明確に表すのは、文字どおり改元である。新年(平成三十一年・二〇一九年)になり、身近な現実となっていろんな物事に、平成最後のという言葉が付されている。そして、新たな時代の訪れに希望を抱いて胸をふくらます人がいれば、去り行く時代に寂しさをおぼえて胸を縮める人がいる。私の場合はもちろん後者で、それもとことん寂しさをつのらせている。
 大相撲のテレビ観戦は、わが最も好むテレビ番組である。大相撲初場所(東京都墨田区・両国国技館)は、きのうの「大寒」(一月二十日・日曜日)にあって、中日(なかび)を迎えていた。中日までにおける最大の話題と関心事は、三日目後に突如公表された元横綱稀勢の里の引退だった。もちろん、大相撲ファンのみならず、日本国民に惜別と悲涙を誘う引退だった。初場所の次の大相撲興行は、三月に行われる春場所である。ところが、春場所は大阪場所とも言われて、国技館から変えて大阪府立体育館で行われる。今上・平成天皇陛下のご退位は、四月末日である。このため、はるばる大阪へ出向いて、大相撲観戦をなされなければ、天皇陛下の大相撲観戦はきのうで打ち止めとなる。そのため、きのうの天皇陛下と皇后陛下おそろいでの大相撲観戦には、「平成最後の大相撲観戦、すなわち天覧相撲」と、銘打たれたのである。このため私は、いつものテレビ観戦とは違って、居たたまれないほどの寂しさをつのらせていた。同時に、時代の変わり目にわが身を置く、とてつもない寂しさだったのである。
 【平成23回目、最後の天覧相撲…両陛下が拍手】(2019年01月20日20時50分 読売新聞)。天皇、皇后両陛下は20日、両国国技館(東京都墨田区)で大相撲初場所の8日目を観戦された。天覧相撲は平成に入って23回目。両陛下は説明役を務めた日本相撲協会の八角理事長(元横綱北勝海)に力士の出身地などを尋ねながら、幕内後半の9番を観戦し、盛んに拍手を送られた。八角理事長によると、天皇陛下は平成最後の天覧相撲を楽しんだ様子で、終了後、「きょうはよい相撲をありがとう」と述べられた。両陛下は、今場所で引退した元横綱稀勢の里について「今後どうするのですか」と案じられていたという。完勝で初日から8連勝とした横綱白鵬関(33)は、「寂しい気持ちがある。平成に育ててもらいましたから」と話した。白鵬関は2007年夏場所後の横綱昇進以降は、両陛下の前で6戦全勝となった。

大寒  

 火の気がまったくない部屋ながら、冬防寒重装備を身に纏(まと)い寒気を免れている。もちろんこれには、この冬の暖冬異変が加勢している。きょうは寒気の底とか、胸突き八丁とも言える「大寒」(一月二十日・日曜日)である。寒気厳しいおりのよりにもよって日本社会は、きのうときょうには大学入試センター試験が実施している。なんで、大寒あたりに大事な試験をするのか。受験生でなくとも、嘆きたくなるような試験日程と言えそうである。私は、受験生にたいし同情をつのらせている。
 顧みれば、過去の大学入試センター試験のおりには、多く雪降りに見舞われていた。その挙句には交通機関の乱れから生じる、受験生の難渋や悲哀が報じられていた。ところがこの二日は、幸運にもこの手のニュースは免れている。このこと一つとってもこの冬の日本社会は、暖冬異変の日暮らしなのであろう。ありがたい、異変と言えそうである。実際にも私は、例年と比べて文章の中に、「寒い、寒い」、と書かずに済んでいる。もちろん私は、大寒を過ぎての気象の変化、すなわち寒気の戻りぐあいは知るよしない。しかしながら戻ったところで、もはや寒い日は限られて、二週間先には「立春」(二月四日)が訪れる。
 現在プロ野球は、試合(特にナイター)のないオフシーズンである。おのずから私は、ナイター(夜間試合)のテレビ観戦を免れている。そのためわが就寝時間は、いつもよりいっそう早くなっている。そのせいもあって目覚めは、日を替えて間もない、真夜中の一時近くにある。そして、一度目覚めればさまざまな不安感が胸中に出没し、二度寝を妨げられて、仕方なく起き出している。すると、おのずからパソコンを起ち上げて、時間潰しにメディアの報じる配信ニュースを読み漁る。気重く文章をつづり始めるのは、これらのあとである。もちろん、パソコンがなければ文章は書けない。そのため、文章に呻吟するときには、パソコンがなければと思う。
 一方で、一旦パソコントラブルに見舞われると、まるで世の中の変転や天変地異に遭遇したかのようになる。ジタバタとうろたえて、文字どおり狼狽する。結局、現在の私にとって、最大かつ最良の文明の利器はパソコンである。パソコントラブルのおりの狼狽ぶりは、確かなその証しである。もし仮にパソコンがなければ、無職に甘んじている定年後(六十歳)のわが日常生活は、生きる屍(しかばね)同然であったろう。実際にはありあまる自由時間を持て余し、オロオロするばかりだったであろう。その挙句には、余儀なくかつて揶揄(やゆ)された「濡れ落ち葉」や「ワシ族(わしも行く)」現象に見舞われて、夫婦仲違(なかたが)いの元凶へ成り下がっていたにちがいない。このことを浮かべていると、パソコントラブルを帳消(ちょうけ)して、やはりわが日常生活は「パソコン、様さま」である。
 父の日々の労働は、馬やリヤカー頼り一辺倒だった。だから、よみがえる父の姿には、軽トラックがあったならと思う。一方、母の姿には、電気洗濯機、炊飯器、冷蔵庫があったならと思う。もちろん、たがいの五右衛門風呂への水汲みや沸かしの苦労姿もよみがえる。文明の利器にちなんで、さまざまによみがえる父と母の在りし日の面影である。大寒にあっては、堀炬燵の火熾(ひおこ)しの母の苦労がよみがえる。

 とりつかれる不安(感)

 一月十九日(土曜日)、きょうあす(一月二十日・日曜日)にあって、日本社会には大学入試センター試験が行われる。受験生やその家族は、期待と不安にとりつかれて、眠れない夜の最中であろう。もちろん、一夜漬けならぬ長い受験生生活の最後の総仕上げに、徹夜さえ厭(いと)わず奮闘している受験生も数多(おまた)いよう。大学入試センター試験のみならずすべての受験は、他人事(ひとごと)として済まされるものではない。なぜなら受験は、わが身を顧みても大事な人生の岐路の一つである。あらゆる受験には、悲喜交々に当落がつきまとうことになる。そして、合格して歩く道、落ちて歩く道、それぞれに人生行路となる。受験は若人の特権とは言え、過酷きわまりない特権である。
 さて、私は一度目覚めると再び寝付けず、仕方なく起き出してきた。真夜中の一時近くである。悶々とする真夜中を強いているのは、残りの人生における不安(感)である。いや、実際のところは、わが死後における不安(感)である。もっと具体的には、わが死後における後処理にたいする不安(感)である。さらにひと言で言えば、さまざまな後処理を年老いて残された妻がやりきれるだろうかという不安(感)である。まさしく、不安(感)のオンパレードである。確かに、こんなことを就寝中にめぐらしていたら、安眠はもちろんのこと、熟睡できるはずはない。言うなれば、愚の骨頂である。また、こんなことを臆面もなく吐露し、恥をさらしてまで記すことは、なおさら馬鹿げている。確かに、現在の私は、馬鹿丸出しである。
 これまで、こんなどうでもいいことを書き殴りながら、たくさんの文章を書いてきた。そしてそれらの多くは、大沢さまのご厚意で単行本に編まれている。今やそれらは、その処置に戸惑うほどの冊数である。ときには読み返そうと思うけれど、ふるさと言葉を用いれば、もはや「読みこなさん(読み切れない)」多さである。文章の出来栄えはともかく、よくも書いたりである。もちろん、自惚(うぬぼ)れることはできないけれど、書いた文字数はどのくらいであろうか? と、心中に浮かべることはある。実際のところは、生来の三日坊主を凌いだ、自分自身にたいする驚愕である。もちろんそれよりなにより、それを成し得た大沢さまのご厚意と、ご常連の読者のお支えが身に沁みる。
 あすの「大寒」(一月二十日・日曜日)を前にして、暖かい夜である。受験生の奮闘を願うところである。確かに、厳しい受験ではある。しかしながら、やはり若者の特権でもある。私は、行く末に悩まされている。若者とは違って、箸にも棒にも掛からない悩みである。きょうは、このことを記して結文とする。

一陽来復を願う 

 今週末の「大寒」(一月二十日・日曜日)を前にして、きのう(一月十七日・木曜日)の鎌倉地方には、一日中ポカポカ陽射しがふりそそいだ。おのずから私は、まるで早春の暖かい陽射しを前どりしたかのような、のどかな気分に浸っていた。今さらながら、(わが気分は、天気次第だな…)と、頬が緩んでいた。いや、私にかぎらず、人みな同様のはずである。まさしくきのうの好天気は、天上が地上の人々に等しく恵んだ、新年のお年玉とも言えるようなものだった。
 私は午前中には茶の間のソファにもたれて、日向ぼっこでふりそそぐ寒中の陽気を満喫した。しかし、これだけでは飽き足らず、実際には(茶の間の日向ぼっこだけではもったいないなあ…)という気分に陥り、午後には買い物へ出かけた。行き先は定期路線バスに乗っての、いつもの大船(鎌倉市)の街である。ところが、きのうにかぎれば、あえて買わなければならない物はまったくなかった。それでも、好天気に誘われて気分が高揚し、出かけずにはおれないものだった。言うなればきのうの大船行きは、バタバタと燥(はしゃ)いで、路線バスに乗車しての小旅行気分だった。私にとって好天気は、冬ごもりのさ中にあって、突如現れたオアシスみたいなものだったのである。
 好い気分にはなお尾ひれがついて、わが家へ帰るやいなや私は、新年初めての道路の掃除を敢行した。落ち葉は影を潜めていたけれど、道路脇や側溝周りには、いち早く春の息吹を感じてか、草が萌え出していた。そのため、思いがけない長い時間と難渋を強いられた。ところが、これまた思いがけない幸運に恵まれた。朝の掃除と違って常連の人ではなく、初対面と思える人からこんな言葉をかけられのである。
「いつも、綺麗にされていますね」
 たちまち、汗玉も嫌気も吹っ飛んだ。
 すかさず私は、こんなおりの常套句、「ありがとうございます」、と言葉を返した。常套句には、「そう言っていただいて、ありがとうございます」、というのもある。しかしながらこれは、むやみやたらには言えず、その場の雰囲気を見定めて心すべきものである。なぜなら挨拶言葉は、「諸刃の剣」とも言うべき、一瞬の双方の感情や心情の交流である。よかれと思うことでも行き過ぎや、大袈裟過ぎては徒(あだ)となり、相手に嫌悪感をさずけることになる。このことでは、短い挨拶であっても言葉は、瞬間の芸術品とも言えそうである。つまり挨拶言葉は、図に乗らないよう常にみずからを警(いまし)めなければならないものの一つである。
 きのうの妻は娘宅へ出向いていて、これまで記したことは、わが単独行動だった。妻が帰宅すると、私は「きょうは暖かかったから、買い物はなかったけど、散歩がてらに大船へ行ったよ。帰ると、ことし初めて道路の掃除をしたよ」と、言った。
 きょう(一月十八日・金曜日)は、四か月ごとにめぐってくる、ことし最初の「大船田園眼科医院」への予約受診日である。寒さが戻っていても出かけることになるけれど、欲深く二日続きの暖かい陽射しを願っている。新年にあって病医院通いが加わり、いよいよわがルーチン(日常)の始まりである。大寒を過ぎれば、三寒四温を繰り返し、春の陽光が近づいてくる。一陽来復を願うところである。

横綱稀勢の里引退 

 ファンのみならず日本国民に愛され、惜しまれて横綱稀勢の里が引退した。中学を卒(お)えて十五歳で大相撲界に入り、萩原少年の夢を叶えた怪童・稀勢の里は立派だった。寂しさつのるおり、こんな記事に遭遇したのは幸運だった。このため、きょう(1月17日・木曜日)は自作文に替えて、稀勢の里引退にちなむ配信ニュースを記し置くものである。記事全編は同じ地位に身を置く横綱白鵬からの、去り行く稀勢の里への餞(はなむけ)や慰労の言葉と、白鵬自身の横綱にかかわる心境である。
 【白鵬「つらい」稀勢に友情星「引退…死ぬってこと」】(2019年1月16日20時4分 日刊スポーツ)。横綱白鵬(33=宮城野)が驚異の粘り腰で全勝を守った。西前頭2枚目北勝富士に押し込まれたが、土俵際で左脚、さらに右脚だけで残って突き落とし。物言いがついたが、軍配通りに白星を手にした。連勝記録を63で止められた宿敵であり、盟友でもあった稀勢の里引退の日。自らを「託された者」と呼び「引退、負けは死ぬってこと」と表現する横綱の責任を、執念で体現してみせた。必死の攻防だった。若い北勝富士の圧力に、白鵬が耐える。左右の張り手を8発見舞っても、押し込まれた。そこからだった。絶体絶命の土俵際。左脚1本で残りながら、左脚1本で立ち、勢いあまった北勝富士を泳がせた。すかさず残り脚を右に替え、相手が落ち行く姿を確認してから、外に出た。「まあ、稽古のたまものだよね」。軍配は自分に上がったが、もの言いがついた。「見ていて(相手が宙に)飛んでる感じがあったんで、悪くてももう一丁かなと」。諦めない。絶対に勝つ。勝たなきゃ意味がない-。稀勢の里が土俵を去った日、白鵬はいつも以上に横綱だった。「朝から寂しいことがあったんで、場所に来て“切り替えなきゃ”と思った」。都内の自宅で朝起きて、妻紗代子さんに「稀勢の里引退」を知らされた。朝稽古後に心境を語った。「さびしいって感じです」-。1番の思い出を問われて「それは63連勝で止められた時ですよ」と即答した。7日目には双葉山の69連勝に届いた10年九州場所2日目だった。「遠慮なく向かって来た。だから、止められた。横綱になってくれた時はうれしかった。連勝を止めた力士ですから」。13年名古屋場所14日目にも連勝を43で止められた。「言葉少な、暗いとか思われているかもしれないけど、全く逆の好青年」と人柄を愛し、力士として「上に上がって行こうっていう気持ちがあった。一生懸命さは他の力士に比べると強かった」と認める。昨年には「できる限りのことをしようと思った」と三番稽古の相手を務め、助言も送った。横綱の座を去る戦友の思いはイヤほどわかる。「つらい、大変なことなんです。見た目は良くても、勝たないとダメ。引退、負けるっていうのは、死ぬってこと。託された感じになりますね」-。だからこそ、この日は、いやこの日も絶対に負けられなかった。もう戦いたくても、戦えない。「これからよろしくお願いしますというか。今度は酒でも飲みに行けるかな」。横綱の厳しさ、強さを見せつけた白鵬が、ニコッと笑った。

成人の日に垣間見えた日本社会の変容 

 多分、良いことであろう。メディアの報じる配信ニュースには、日本社会を揺るがす大きなニュースはない。しかしながらこの先、天災および人災なく、一年がめぐるわけはない。人の世は、常に一寸先は闇の中にある。最も身近なところで私は、ひょんなことで脇腹と腰回りを痛めてしまった。大したことではないけれど、そのためいくらかモチベーション(意欲や気力)の低下に見舞われている。しかし、モチベーションの低下はしょっちゅうあることで、時間をかけて気力の回復を待つより仕方ない。もともとこのところの私は、モチベーションの低下に見舞われている。なさけないけれどその確かな証しは、いつものことながら新聞を読みたくならないことである。
 そんなおり、成人の日にちなむ記事に、驚かされたものがある。記事の内容はこうである。朝日新聞・平成31年(2019年)1月15日朝刊。「新成人の2人に1人が外国人の東京都新宿で14日、成人式が行われた。会場にはマレーシア、ウガンダ、マダガスカル、ブラジル、中国、韓国、カナダ、フランスなどさまざまな国の若者の姿があった。区によると、新成人は4109人で、うち外国人が1868人と約45%を占める。区全体の外国人比率は10%余りだが、日本語学校や大学も多く、20歳を迎える留学生が多いことが一因という。晴れ着姿で一緒に参加した米国出身のキャリー・ラリーノさんとメキシコ出身のアレン・モンテスさんは『ワクワクしてます』と笑顔を見せた。母がフィリピン人で新宿生まれの田中亜美さんは『フィリピンのおばあちゃんに20歳になったことを報告しに帰りたい』と話していた。」
 今ではいくらか驚いたけれど、やがては驚くこともないであろう。なぜなら、この先避けて通れそうにない、日本社会の早手回しの現象と言えそうである。いや、過疎化傾向にある地方や、日本人働き手の少ない地域では、とっくの現象かもしれない。
 島国・日本社会にあって、いよいよ人類融和の時代の到来と言えそうである。もちろん、わが身にとりつく「肥後もっこす」(熊本県人特有の偏屈・頑固者)では、済まされない時代の到来でもある。

平成最後の「小正月」 

 現在は、ふるさと時代の子どもの頃とは違って実感はない。しかし、卓上カレンダーの行事欄には明記されている。きょうは、日本社会古来の歳時(記)の一つ、「小正月」(一月十五日・火曜日)である。きのうの「成人の日」(一月十四日・月曜日、振替休日)を含む、新年最初の三連休も明けた。いよいよ日本社会は正月気分を遠のけて、平成最後(四月末日)までと、その先の新年号(元号)における一年の本格始動に入る。
 今週末には「大寒」(一月二十日・日曜日)を控えて、暖冬異変もこのところは、本来の厳しい寒さに戻っている。日本列島にあっては、新年になってもどこかしら、地震に見舞われている。新年にあって日本社会は、厳しい船出にある。私は、この先一年の日本社会の安寧を望むところである。
 どうでもいいことだがきのうの私は、予告に違えた行動に甘んじた。予告行動は、成人の日にちなんで「鶴岡八幡宮」(鎌倉市街)詣でと、その帰りに大船(鎌倉市)における買い物だった。このためには、暖かい陽射しの好天気を願っていた。この願いは必ずしも満願とはいかず、好天気には恵まれたけれど、陽射しは冷えていた。こんななか予告行動の欠落は、肝心要の鶴岡八幡宮詣でだった。確かに私は、予告行動の意志を固めて、準備万端ととのえていた。その矢先、髪カットに出向いていた妻から、こんな電話がかかってきた。
「もう、終わったのよ。大船で買い物しましょうよ。いつもの、ルミネの四階で待っているわよ」
 すると私は、あっさりと意志を曲げて、「そうか、じゃ、そこへ行くよ」と、返答した。
 こののちは鶴岡八幡宮詣でを捨てて、妻と共に買い物行動に終始した。わが生涯の果てにかけてまで、生来の意志薄弱と優柔不断は、ちっとも是正されていない証しだった。
 思いがけなく二人での買い物は、どちらの背のリュックもまん丸に膨れて、なおそれぞれの両手にはレジ袋が重たく下がっていた。ところが、大船の街中には、わが目を疑うほどに晴れ着姿の新成人の姿が目立っていた。今や晴れ着は女性の和装(着物)のみならず、男性の新調の背広そして和装(羽織袴)姿も引けを取らず目立っていた。いや、実際のところは目立つという表現はなまぬるく、ふるさと言葉で言えば「けまつれる」(足を踏んで、ひっくりかえる)ほどに、群れを成して行き交っていた。この様子にどぎまぎした私は、かたわらの妻にこう言った。
「芸術館(大船の街中にある鎌倉芸術館)で、成人式があったのかね」
 すると妻はすかさず、
「そうでしょう。大勢の式をやれるところは、鎌倉には芸術館しかないでしょう」
「そうだな…」
 私は、まさしく僥倖にめぐりあったのである。
 予告行動どおりに、鶴岡八幡宮詣でをしていたら新成人に会うことなく、わが神様嫌いはいっそう増幅していたことであろう。もちろん、神様には飛んだとばっちりである。
 成人の日は、天の粋な計らいだったのか、棚から牡丹餅だったのか。平成最後の小正月は、新成人の幸福を願って、結文とする。

成人の日 

 きょうは「成人の日」(一月十四日・月曜日)、振替休日で三連休の最終日にあたる。新年最初の三連休が明ければ、あすの「小正月」(一月十五日)を境にして、日本社会の正月気分はまったく遠ざかる。私の正月気分も、あすまでである。
 私の場合、本当のところはすでに正月気分は抜けている。しかし、子どもの頃を想起すれば、小正月までは正月気分に浸れるところがある。小正月には元旦同様に、家族そろって雑煮餅を食べていた。小正月前後には、村中の集落ごとに「どんど焼き」が行われていた。どんど焼きはおとなと子どもが入り混じり、集落挙げての楽しい行事だった。どんど焼きの中には、門松、注連縄(しめなわ)、書初めの反故(ほご)、さらには正月行事の見切りの物などが、燃え盛る火の中に投げ込まれていた。火の勢いが衰えて燻(くすぶ)り出すと、周囲に陣取る人たちはわれ先に、青竹の先っぽに挟んだ鏡餅を焙(あぶ)り始めた。陣取る人たちの顔は、みな赤く火照(ほて)っていた。当時の小正月とどんど焼きは、まさしく正月気分の打ち止め儀式だったのである。
 新年一月は、きょうでほぼ半月が過ぎてゆく。年の瀬にはあんなにバタバタしていたのに、明けて元日からきのうまでの私には、日課を免れているものが二つある。一つは道路上に落ち葉を見なくなり、夜明け後の道路の掃除が沙汰止みになっていることである。もう一つは必ずしも日課ではないけれど、これまたこの間、たったの一度さえ大船(鎌倉市)の街への買い物を免れていることである。この理由は買いだめしていた正月食品で、食いつなぎをしてきたからである。ところが、いよいよ買いだめの品々も底をついて、きょうあたりから買い出し開始になりそうである。日課は免れても、ときには道路の掃除もしなければならないであろう。
 こんなことを浮かべていると、わが新年の行動は、きょうあたりから本格始動になりそうである。おりしもきょうは成人の日である。そのため、例年にならい野次馬根性むき出しで、「鶴岡八幡宮」(鎌倉市街)へ出向く心づもりである。そして、帰りには大船の街で、買い物を予定している。このため、願うところは陽射しの暖かい好天気である。加えて、本格始動にあたり願うものには、この一年のわが身、妻、子孫(こまご)、身内親戚、友人知人の無事安穏(ぶじあんのん)がある。ちょっぴり欲張りすぎたかな! そうであれば鶴岡八幡宮では、野次馬ついでに賽銭箱に十円玉を放り投げてもいい。
 わが子どもの頃の小正月には、元旦同様に父と一緒に神棚に両手を合わせていた。ところが、わが家に神棚はない。そのせいで、罰(ばち)が当たっても構わない。いや、無能な神様は、罰さえ与えきれないだろう。成人の日の鶴岡八幡宮詣では、華やぐ新成人を見てわが身に若さを取り込むためであり、もとからあてにならない神頼みではない。

「おしるこ(汁粉)」と「ぜんざい(善哉)」 

 インターネット上に記載の「日本語マニア」からの引用である。
 【おしることぜんざいの違い】(おしることぜんざいの違いは地方によって異なります)。「関東:おしるこは、汁気の多いもの全般を指します。小豆の粒がないものは御膳しるこ、粒のあるものは田舎しること呼ばれることもあります。小豆を煮てつくることもありますが、こしあんやつぶあんで代用することも多いです。ぜんざいは、お餅や白玉団子に汁気のない餡を添えたものです。白玉団子の場合は、冷たいこともあるそうです。こちらの餡も小豆から作るのではなく、つぶあんで代用することがあります。関西:おしるこは、こしあんを使った汁にお餅などを入れたものです。ぜんざいは、つぶあんを使った汁にお餅などを入れたものです。関東で言う田舎しるこがこれにあたります。関西の場合も、小豆から作る場合とあんこから作る場合があるようです。ちなみに、関東で言うぜんざいは、関西では亀山と呼ばれるそうです。これは大阪天満の亀山屋というお店で販売していたからだ、という説が有力なようです。九州:基本的には関西と同じようです。地方によっては、お餅入りをおしるこ、白玉団子入りをぜんざいと呼ぶそうですが、逆に白玉団子入りをおしるこ、お餅入りをぜんざいと呼ぶ地方もあるそうです。名古屋:おしるこは、汁気が多くすすりながら食べるもので、ぜんざいは、汁気が少なく箸で食べるもの、というイメージのようです。ちなみに名古屋のある喫茶店では、おしるこスパというおしることスパゲッティのコラボメニューが存在するそうです。北海道:おしることぜんざいは、あまり区別がないようです。一部の地域では、お餅や白玉団子の代わりにかぼちゃを入れることがあるそうです。お米がなかなか収穫できず、かぼちゃを代用品として用いたのが始まりと言われています。要点まとめ:おしるこは、小豆を使った汁気の多い料理。小豆の粒の大きさによって呼び名が異なることもある。ぜんざいは、お餅や白玉団子に甘く煮た小豆を添えた料理。汁気の有無は地方による。地方によって呼び名が異なるということは、それだけこだわりのご当地メニューがあるということかもしれません」。
 要点まとめだけでいいものを、原文のままに長々と引用した。ところが、読み終えても私は、おしることぜんざいの区別がつかないままである。いや、正直なところ、いっそうややこしくなっている。そのため、以下にわが実体験の事実を記すこととする。
 きのう(一月十二日・土曜日)の私は、寒さが堪えて体を温めたくなり、かたわらの妻にたいし、こんなお願いをしたのである。いや、実際のところは、これは口実にすぎずずばり、「しるこ(汁粉)」を食べたくて、作ってほしいと嘆願したのである。
「きょうは寒いね。北海道産の小豆の買い置きがあるから、ぜんざいを食べたいよ。小豆が煮えたら、餅をすぐ焼くよ」
 ところが、この言葉にはいくらかよそゆきのつくろいがあった。本当のところは、言い慣れている「しるこ」と言いたかったけれど、もったいぶって言い慣れていないぜんざいにかえたのである。
 ふるさと(熊本県)時代の子どもの頃にあっては、ぜんざいの言葉知ることなく、「しるこ」一辺倒だった。母が作る「しるこ」には、茹で汁(じる)の粒の小豆餡に丸餅が入っていた。丸餅は小豆の粒餡と一緒に煮餅にされたり、粒餡の中に焼餅で放り込まれていた。どちらにしても、、小豆の粒餡の中に丸餅の入った、甘党のわが大好物の「しるこ」だった。
 きのうのしるこは、丸餅ではなく市販の平たく長方形の切り餅だった。それでも小豆は缶詰ではなく、文字どおり原形を成す豆を、妻が時間をかけてコトコトと煮たてた粒餡だった。できあがったしるこは、ふるさとの味とおふくろの味をかきたて、さらには冷えていたわがからだを温めてくれたのである。 私は「美味いねー…」と言って、妻にたいし素直に感謝した。
 食べたり、要点を読んだりしても、今なお「しるこ」と「ぜんざい」の区別は、わからないままである。しかしわが舌は、区別なくどちらも好んでいる。もちろん、きょう(一月十三日・日曜日)もまた、残りの粒餡に焼餅を入れて、「しるこ」の味を占めるつもりである。寒さ防止と食感を潤して、二兎を叶える「しるこ」は、わが生涯の大好物の一つである。もちろん、呼び名は「ぜんざい」でもかまわない。

わが防寒装備 

 一月十二日(土曜日)、「成人の日」(一月十四日・月曜日)に向かって、三連休の初日にある。現在の時間帯は、夜中の二時あたりである。部屋の中に温度計はないから、現在の気温は知るよしないけれど、体感的には結構寒さを感じている。しかしながら、この先「大寒」(一月二十日)が控えていることをかんがみれば、この程度の寒さはあたりまえであろう。このところは寒い日もあるけれど、いまだに暖冬の範疇に入るだろう。寒さに極端に弱い私には、幸運な晩冬の日めくりにある。
 寒さに弱いだけに、わが身に着ける防寒装備は万全である。写真を添えれば一目瞭然だけれどそれは叶わず、わが現在の姿を文字で表すとこうである。頭には毛糸編みの帽子を被り、両耳まで覆っている。首には同様の手編みのマフラー(襟巻)を巻いている。腹と腰には、ネリの腹巻を二重に巻いている。足には厚手の靴下を穿(は)いて、さらに足首から脛(すね)にかけては、これまた毛糸編みの脚絆で覆っている。さらになお足先には、踵(かかと)や足首まで、すっぽりと入る毛ふさふさの厚手のスリッパを穿いている。そして身体は、黒一色の厚手のダウンコートで覆っている。現在、露出している部位は、顔面、手の平、指先である。顔面には覆面を試み、手の平と指先には軍手を用いたこともあったけれど、それは沙汰止みにしている。なぜなら、覆面は面倒で、軍手はキーを叩くのに不都合だったからである。あえて、こんな恥さらしをしてまで、わが防寒装備を記したのは、一方、このおかげで「ひぐらしの記」の継続が叶っているからである。言うなれば、防寒装備への敬意である。どれもこれもが防寒に役立っている。
 これら防寒装備の中で、イの一番の働きをしてくれているのは腹巻きである。私の場合、経験的に腹や腰回りが冷えると、風邪症状にとりつかれる。逆説的に言えば、そのあたりを防寒・防備すれば、風邪症状を遠のけることができる。そのほかの防備は、風邪除けではなくもっぱら防寒一辺倒である。

 私は、なんでこんなくだらないことを書いているのであろうと、自問する。するとその答えは、これらの防寒装備があってこそ、こんな夜中に寒さを凌いで、キーを叩く恩恵にさずかっているからである。もちろん神様に頼るより、みずからが編み出した実のある防寒身形(みなり)である。壁時計の針の刻みは、いまだ真夜中あたりである。確かに、オバケみたいな防寒装備は、寒さを凌いでくれている。

鏡餅、鏡開き、蔵出し 

 一月十一日(金曜日)、卓上カレンダーの行事欄には、二つの歳時(記)が記されている。それらは「鏡開き」と「蔵出し」である。どちらも、今さら電子辞書やインターネット上の人様の学習や知恵にすがることもない、日本社会における古来の営みである。しかしながら私は、あえて電子辞書を開いて復習を試みている。鏡開きについては、まずは「鏡餅」を見出し語において、電子辞書を開いた。
 鏡餅:「平たく円形のように作った餅。大小2個を重ね、正月に神仏に供え、または吉例のときなどに用いる。古くは餅鏡、おそなえ、おかざり、円餅」。
 蔵出し:「①倉庫に寄託した貨物を引き出すこと。②貯蔵してあった酒などの、蔵から出したばかりの物。③金庫に入れてある金銭を引き出すこと。」
 わが家の場合、蔵出しは縁ないけれど、鏡餅と鏡開きは正月のしきたりとして、お呪(おまじな)い程度に現存している。わが子どもの頃であれば、精米業を生業(なりわい)にしていたこともあってか年の暮れには、母はいたるところに鏡餅を供えていた。半紙を敷いた二段重ねの鏡餅の上には、近くを歩けば今にも落ちんばかりに窮屈そうに、新米のおひねり、小さなミカン(熊本県内・河内産)、母手作りの吊るし柿(干し柿)が乗っかっていた。そして、松の内明けの鏡開きの日には、父の大好きな雑煮餅となっていた。現在のわが家の鏡餅は、もちろん当時とは比べようもなく、端(はな)から雑煮餅など望めない、お呪いの飾り餅にすぎない。ごく小さな二段重ねの鏡餅は、毎年繰り返し使用できるかのように、分厚いプラスチックに包(くる)まれている。まったく食べ物の用をなさない、まるで永久保存のプラスチック製おもちゃさながらである。その証しに、鏡開きなど知らぬが仏で、下駄箱の上にいつまでも埃まみれで鎮座している。
 きょうは鏡開きにかかわる文章の一部を、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋し、子どもの頃の思い出を呼び起こし、亡き父と母を偲ぶものである。
 鏡開き・鏡割りとは、正月に神(年神)や仏に供えた鏡餅を下げて食べる、日本の年中行事である。神仏に感謝し、無病息災などを祈って、供えられた餅を頂き、汁粉・雑煮、かき餅、あられなどで食される。江戸時代、新年の吉日に商家では蔵開きの行事をしたが、武家において新年の11日(もと20日)に行われる行事で鎧などの具足に供えた具足餅を下げて雑煮などにして食し「刃柄」を祝うとした行事。また、女性が鏡台に供えた鏡餅を開くことを「初顔」を祝うといった。この武家社会の風習が一般化したものである。江戸城では、重箱に詰めた餅と餡が大奥にも贈られ、汁粉などにして食べた。刃物で餅を切るのは切腹を連想させるので手や木鎚で割り、「切る」「割る」という言葉を避けて「開く」という言葉を使用する(「開き」は「割り」の忌み言葉)。鏡は円満を、開くは末広がりを意味する。また、鏡餅を食すことを「歯固め」という。これは、硬いものを食べ、歯を丈夫にして、年神様に長寿を祈るためという。鏡餅の割れ方で占いをする地域もあり、「鏡餅の割れが多ければ豊作」と言われている。武家の具足式を受け継ぎ、柔道場・剣道場などでは現在も鏡開き式を新年に行うところもある。

 寒い夜明け前の戯(ざ)れ文

 一月十日(木曜日)、現在の時間帯は夜明け前の四時あたりにある。この時間帯にあって私は、この冬で最も寒さを体感している。起き出してきたのは三時近くだった。そして、いつもどおりにメディアが伝える配信ニュースを読み漁った。よくもわるくも、深く読みたくなる記事はない。そうこうしているうちに、体は冷え切った。つれて、文章を書く気分は萎えた。再び、寝床の中へもぐりたくなった。私はとことん寒さに弱虫である。ところがわが身を詰(なじ)り、寝床返りをとどまった。
 日本社会にあって頃は、受験シーズン真っただ中にある。これにちなんではるかに遠い、わが受験期が想起されたのである。そして、当時の思い出が、再びの寝床返りをおしとどめてくれたのである。受験生時代の私は、エアコンはもとより暖房装置など一切(いっさい)無い部屋で、毎晩寒さに耐えていた。しかし、防寒や眠気防止には、父や母のかぎりない愛情にくるまれていた。母は、厚手のネリの下着を何枚も着せて、なお腹巻きをぐるぐる巻きにし、さらにその上には綿入りの丹前を羽織らした。それでも、足元の冷えには堪(こた)えた。すると、母はいつの間にか、市販の「足のせ行火(アンカ)」を買って来てくれていた。確かに、アンカは足指や足裏を暖めてくれた。父は、寝床に就く前にわが背後に忍び足で近づいて来た。そして、寝間着の袖からごっだま(飴玉)を取り出して、無言で机の上に置いてくれた。ときたま、「風邪ばひくぞ、もう寝れよ!」と、言った。ところが、多くは無言のままに寝床に就いた。無言こそ、父の優しさだったのであろう。母の場合は、アンカをわが両足にぴったりと合わせて、「さぞ、寒かろだいね…」と言って、床に就いた。
 当時の父と母そしてわが寝泊まる家は、別棟(べつむね)を成して母屋から離れていた。別棟とは、母屋の近くに急造で建てられていた小さな一軒家だった。もともとその家は、異母二兄夫婦の新婚部屋だったのである。ところが二兄は病死し、チズエ義姉さんはのちに再婚されて出て行かれ、空き家となっていたのである。空き家となったあとは、父と母そして私は、母屋で夕食を済ます寝泊りだけに使っていた。私の場合は、おのずから勉強部屋となっていたのである。寝泊りするだけの家は、炬燵をはじめ火の気はまったくなく、裸電球が暗い明かりを灯していた。
 別棟は、私が故郷を離れ、父が他界すると、再び空き家になった。そしてそののちは、ふるさとの長兄の妻・フクミ義姉さんが飼育する、蚕の蚕室(ざんしつ)となっていた。チズエ義姉さんは、再婚されたのちも変わりなくわが家との交流が続いて、もちろん今なお優しいわが義姉さんのままである。現在は、わがふるさと菊鹿町との合併前の山鹿市に住んでおられて、健在(九十六歳)である。一方、チズエ義姉さんとははるかに年下のフクミ義姉さんは、すでに先立たれている。
 ひょんなことから、書くまでもないことを書いてしまった。しかし、実の無い成り行き文ではあっても、どうにかきょうの一文をなしてくれたのである。寒い夜明け前の戯(ざ)れ文として、切にお許しを請(こ)うところである。

パソコントラブルは修復 

 昨年の暮れに、姪っ子夫婦が送ってくれた丸餅は、きのう(一月八日・火曜日)で食べ尽きた。お節料理も食べ終えた。妻がこしらえた料理を詰めた三段重ねの重箱は、用を終えて戸棚の元の位置に戻った。今や数少なくなった年賀状は、後れて、もう届くことはないであろう。買い置きしていた甘酒は、きのう沸かして飲み終えた。正月用に連日買いだめしていたミカンは、もはや数個を残すのみである。駄菓子の山は、小さな丘になって崩れている。きのうまでであらかた、正月気分は遠のいた。いや、もとから正月気分はそんなにない。しかしながら上に掲げたこれらは、確かにわが非日常をなしていた。ビールはもとより、元旦のお神酒(みき)や御屠蘇(おとそ)さえ、甘党の私にはたったの一滴(ひとしずく)さえ用無しである。わが好む甘酒は、もちろん甘いお酒ではなく、アルコール分はゼロである。
 私の場合、一本のタバコも口にしないままに人生を閉じることになる。宴会であれば付き合い酒のグラス一杯程度のビールは嗜(たしな)むけれど、すぐに顔面は赤鬼さながらになる。顧みれば、三々九度の祝い酒を持て余した記憶がよみがえる。人様があんなに楽しそうにかつ旨そうに嗜好するアルコールとタバコをそこのけにしたことには、悔いが残るところがある。これらの楽しみを逸したことは哀れ! わが人生における「後悔、先に立たず」の一つと言えそうである。
 人様が楽しむことでは、私は、競馬、競輪、水陸のモーター類、パチンコ、麻雀、釣り、ドライブ、囲碁、将棋、旅、ハイキング、ほかすべての遊興無縁である。われながら味気ない人生で閉じ、締めることになる。
 きのうのパソコントラブルは解決した。しかし、解決したところでこんな文章しか書けないのは、きょう(一月九日・水曜日)もまた、「嗚呼、ああ…」である。正月気分は去っても悔いないが、ふるさとの丸餅には未練がある。

嗚呼、ああ…… 

 二時過ぎに起きて文章を書き始めたところ、パソコントラブルに見舞われて、きょう(一月八日・火曜日)の文章は諦めました。私はパソコン難民ゆえに、一旦トラブルに遭遇すると、にっちもさっちもいきません。きょうの昼間、コールセンターへ電話を入れて、教えを願って修復に努めるしかありません。鬱陶しい一日になりそうです。自己判断で、トラブルはきわめて幼稚なことに思えています。しかし、それさえ自力解決できないわが無能さに滅入っています。
 山の枯葉も昨年の大晦日で落ち尽くし、年明けから朝の道路の掃除を免れています。このことでは、心身に負担の無い朝が訪れています。一方、冬至からいまだに二週間余にすぎないのに、確かな昼間の伸びを体感し始めています。冬の深まりは「小寒」(一月六日)を過ぎて、「大寒」(一月二十日)へ向かっています。ところが、幸い暖冬が続いて、寒さで身の震えは遠のいています。
 こんななか、年明け早々にこんな文章を書く羽目になり、無念です。ITやSNS時代にあって、幼稚なパソコントラブルに嘆き、書き止めを食らっているわが能無しにたいし、私自身とことんあきれかえっています。

 「七草」

 きのうは歳時(記)とは言えないけれど、カレンダーの上では「小寒」(一月六日・日曜日)だった。そしてきょうは、古来の日本社会における歳時(記)の一つ「七草」(一月七日・月曜日)である。春・秋の七草には異なるものがあるから、厳密には「春の七草」とも言われている。すなわち春の七草は、芹(セリ)、薺(ナズナ)、御形(ゴギョウ)、繁縷(ハコベ)、仏座(ホトケノザ)、菘(スズナ)、蘿蔔(スズシロ)である。そして、七草と言えばこの日が古来、大事な歳時(記)の一つを成してきた。それは、正月年頭の日本社会の営みと結びついているからと言えそうである。
 七草の日に根づいている習わしの一つには「七草粥」がある。七草粥とは、文字どおり春の七草を食材にしたお粥御飯である。普段目にしない七草は、わが行きつけの買い物の店「西友ストア大船店」(鎌倉市)には、七草粥商戦の一つとしてセットで大量に並んでいる。ワンセット五〇〇円前後である。ところが毎年、それらの多くは売れ切れず、フロアに萎(しな)びかけて残っていた。その光景に出合うたびに私は、少なからず西友ストアへ同情した。わが同情心の発露はこうである。期日(一日)限定でかつひ弱な野草商戦は、端(はな)から利を産むものではなく、だからと言ってフロアに並べないわけにもいかないのであろう。もちろん、わが下種(げす)の勘繰りであり、西友ストアはロスを見越して高い値付けをしているのであろう。いくらか俗っぽいことでは、正月七日の七草にお粥御飯を食べる謂れは、正月三が日におけるお節料理や雑煮餅の食べ過ぎによる胃の疲れの癒しという。これに加え新しい年の年頭にあって、七草には無病息災の願掛けが込められているという。もちろん、お呪(まじな)いにすぎないとわかってはいるけれど、そうであれば七草粥は、不味(まず)さに顔を顰(しか)めても、食べるべきものかもしれない。
 ところが、どんなに高級あるいは美味な具材であろうと、私はお粥御飯自体が根っから大嫌いである。お粥御飯は、病人食の筆頭に位置している。そして、病を治すにはお粥御飯は避けられない。言うなればお粥御飯は、生き残るためのエッセンス(本質)である。確かに、神様にはどんなに祈りすがっても病は治らないけれど、お粥御飯にありつけば覿面(てきめん)に治る場合がある。それでも、へそ曲がりの私は、お粥御飯を食べるくらいなら、死んでもいいと覚悟している。
 七草は、実質松の内の明け日でもある。長い年末年始休暇に浴した人たちには、きょうは新しい年の始動日になりそうである。平成三十一年(二〇一九年)は、いよいよ年号のゴール(四月三十日)に向かって、本格駆動である。七草粥は食べなくても、わが身体の無病息災は願うところである。ちょっぴり、虫が良すぎるかもしれない。

 どうでもいいわが年頭所感

 普段の生活に正月三が日などの非日常が挟まると、ペースが崩れて日常への復帰が厄介である。現在のわが心境である。これを避けるため私は、三が日も空けずに、実の無い文章を書いた。これが功を奏していくらか早く、普段の生活に戻りかけている。
 ところが、いまだに戻りかけないものがある。それは、新聞を読む気分になれないことである。確かに、日刊紙と言われるように新聞を読み続けることは、文字どおり日常生活のバロメーター(尺度)でもある。毎年のことながら念頭にあって、新聞を読みたくならない理由の一つには、こんな腹立たしさがあるからである。腹立たしさをおぼえるのは、元旦早々に郵便受けに投げ込まれている束の厚さである。現象的には、新聞社の身勝手な善意の押しつけである。実際のところは、満を持していたかのごとく、通常に加えて別刷りの特別版の多さである。私は、だれが正月早々こんなに読むのか? と呆れて、同時に憤懣やるかたない思いにとりつかれている。さらに、新聞には年の瀬商戦を引き継いで、初売りチラシが分厚く挟まれている。もちろん、わが家の郵便受けが貧相なせいもある。これには、少なからず配達員に同情するところはある。しかし、郵便受けが壊れるほどにぎゅうぎゅう詰めの束を引き出すことには、私は額に汗がにじむほどに梃子摺(てこず)っている。実際にも私は、腹立たしくぶつぶつ呟(つぶや)いて、引き出している。その挙句すぐに、特別版のみならず通常紙共に、チラシ入れと分けた箱に放り込んでいる。それほどに私には、元旦早々の新聞(社)の身勝手な行為(善意)には、腹立たしさをおぼえるところがある。
 ところが、その腹立たしさはその場だけでは収まらず、三が日にとどまらず尾を曳いて、いまだに読む気分を殺がれている。腹いせまぎれに再び記すと、元日こそ休刊日にしてほしいものである。確かに、読まなければ済むことだけれど、投げ込まれれば、新聞受けから引き出さなければならない。
 このところスーパーやデパートなど、昔返りで元日だけは休む傾向にある。もちろんこの傾向は、大歓迎である。社会の木鐸(ぼくたく)と任じ、あるいは嘯(うそぶ)きながら、新聞やテレビなどのメディアには、もともと身勝手な習性がある。テレビもそうだけれど、正月番組の身勝手な押し売りには閉口するところがある。せっかくの非日常は、息の抜ける静寂こそ肝心である。
 過ぎた三が日にちなむことをもう一つ加えれば、やはりそれは「お節料理」に尽きる。ところが、こちらには腹立たしさはまったくない。わが家は、湯水のごとく投げ込まれてきた予約チラシの中から、(買うか、買わないか)と、最後まで迷いに迷って、最も安価な三段重ねお節料理(一万円)を予約注文した。たったの一万円にもかかわらず、夫婦仲違(たが)いするほどに、喧々諤々に揉めた末の決断だった。
 私は「買わなくていいよ」と、真っ向から主張した。一方妻は、最後の決断まで思案投げ首を続けた。その挙句、「お正月だから、お節料理くらいあったがいいかもね…」と言って、私に妥協を促した。私は渋々、(それも、そうだな…)と、OK言葉を返した。
 たかだか一万円のお節料理は、もとより美味や食感はそっちのけで、正月気分を味わうためのものであった。ところが、朱塗りの三段重ねのお節料理は、十分にその役割を果たしてくれたのである。重箱自体、日本人の知恵なのであろう。なぜなら、お祝い気分を醸し、寸分の狂いなく三段重なる重箱には、あらためて魅(ひ)かれるものがあった。三段の箱それぞれに、ほんのちょっぴりずつ整然と詰められた見栄えの良さに私は、妙(たえ)なる匠(たくみ)の技さを感じた。私は祝箸で摘みながら、(よくもこんなに綺麗に詰められるものだ!)と、詰め方の妙技に度肝を抜かれていたのである。そして私は、お節料理は食感を超えて、手間暇やお祝い気分を醸すためのコスト(お金)だなと、心底より納得したのである。
 きょう(一月六日・日曜日)の文章は、正月三が日に感じた腹立たしさと愉快さを並記し、どうでもいいわが年頭所感にかえるものである。

カレンダー 

 一月五日(土曜日)、机上のカレンダーには記されてはいないけれど、きょうは卓球クラブの初打ち日である。例年どおり一月は、カレンダーに付記されている歳時(記)を眺めて文章をつづってゆく。あたりまえだけれど、一月の歳時(記)の多くには「初」という、文字が付せられている。つれて、正月の習わしは日々遠ざかってゆく。時計の針は文字どおり時々刻々と時を刻み、カレンダーは歳時(記)を出没させながらめぐって時を移してゆく。じっくりとごく小さな卓上カレンダーを眺めていると、まさしく過去、現在、未来へとつながる、人間の営みが記されている。たかが100円ショップで買い求めただけなのに、利用価値にはかぎりないものがある。もし仮に、わが日暮らしに文章を書かなければ、カレンダーは瞥見(べっけん)する程度で、もちろんこんなに凝視することはあり得ない。なぜならカレンダーは、わが起き出しの文章のネタ探しの役割もになっているからである。
 IT(情報技術)やSNS(ソーシャル ネットワーキング サービス)の時代にあっては、しだいに紙のカレンダーは用無しになりつつある。おのずから、人それぞれに紙のカレンダーの使用目的も変わり始めている。私の場合は、カレンダーに歳時(記)さえ付記されていれば、100円ショップのもので十分であり、それを買い続けている。
 ところが一昨年は、わがカレンダー購入に異変が生じた。異変とは、時機を逸したのか例年使い慣れてきたものが店内に見当たらず、やむなく承知の助で歳時(記)の付されてないものを買う羽目になった。すると、この祟(たた)りはひどく、一年を通して不自由をきわめたのである。これに懲りて昨年の私は、カレンダーが並び始める時期には、心して100円ショップに足を運んだ。その甲斐あって歳時(記)が記され、かつ使い慣れてきた例年のものを買うことができたのである。たかが100円にすぎない卓上カレンダー選びだけれど、私の場合はこんな心の揺れに見舞われている。ケチな私は、確かに金銭的(コスト)にも100円ショップのもので我慢しているところはある。
 一方、妻のカレンダー選びはこうである。妻は本屋など一年じゅう用無しなのに、カレンダーが出回る頃になると、それを求めて店内を覗く。妻のカレンダーの使用目的は、コストなどお構いなしに見栄えのする風景写真一辺倒である。特に、綺麗な富士山の絵や写真には目がないところがあり、おのずから高価である。かたわらにたたずみ業(ごう)を煮やした私は、「そんな高いもの買わなくていいよ。買うなら早く買えよ。どれでもいいよ。くたびれたよ。もう、帰ろうよ……」と、買う意欲を抑制する言葉を投げる。ところが、妻は聞く耳もたずに、なおあれやこれやと品定めにたっぷりと時間をかけている。その挙句、小声で「パパってバカねー、一年に一度じゃないのよ。わたし、富士山の絵や写真が好きなのよ。わたし、買うわよ。パパは、先に帰っていいわよ!」と言って、高値のカレンダー選びに余念がない。私は店内の言い争いを嫌って、店外に出て最寄りのベンチに腰を下ろす羽目になる。ときには、先に帰ることもあった。
 きょうの成り行き文は、カレンダーにまつわる侘しい物語である。カレンダーの使い方は、人それぞれである。いま眺めている卓上カレンダーの歳時(記)欄には、「初水天宮」と付記されている。カレンダーにすがってネタ無しの文章は、やっとこさ結にたどり着いたのである。

御用始め 

 一月四日(金曜日)、机上のカレンダーには「官庁御用始め」と記されている。官庁(公務員)のみならず日本社会は、国民それぞれが新しい年(平成三十一年・2019年)の始動日にある。もちろん、年末年始休暇なく公務や民間で働き尽くめで、新しい年を迎えた人は数多いる。何らかの受験を控える受験生は、挙げて休みなく追い込みの真っただ中にある。
 「おめでたい」と言う、非日常の三が日が明けた。はたして「おめでたい」と言えるのか。私には、三が日の疲れがどっと出ている。わが日常生活は、文字どおり日々の流れの中にある。そのため、疲れを招くだけの三が日は、そうめでたくはない。いや、正直なところ、三が日がめでたい年齢ではない。わが始動には、助走にもならないこんな愚かなことを書いている。
 三が日最終日のきのう(一月三日・木曜日)の夕方、ふるさと熊本には震度六弱の地震が襲ったという。地震をはじめ天災は、非日常なく年中無休で襲ってくる。新しい年は、初っ端から地震の恐ろしさに震えあがっている。
 昨年の日本社会の世相を表す漢字一字は、「災」だった。三が日明けて望むのは、熟語で表せば「幸運」である。しかしながらそれは、叶わないものねだりの空(から)望みにすぎない。実際には新しい年にあっても、一寸先は闇の中にある。正月三が日のみならず、とんでもない「非日常」の訪れに、恐々(きょうきょう)としているわが始動日である。

「箱根駅伝」復路 

 早や、一月三日(木曜日)、きのうよりいくらか寒い夜明け前に身を置いている。それでも、寒波に震えることはなく、なお暖冬の恵みにあずかっている。しかしながら身体とは異なり、心中は冷え切っている。わが正月気分は、母校(中央大学)の「箱根駅伝」の成績しだいである。
 きのう(一月二日・水曜日)の往路の成績は、「はじめよければすべてよし」とはいかず、尻すぼみで終えた。具体的には、一、二区では一時トップに立った。ところが、三、四、五区の走りの中で大きく遅れて、ゴールの芦ノ湖畔(箱根町)では十二位に沈んだ。糠喜(ぬかよろこ)びをしただけに、きわめて残念無念だった。現在、この悔しさを引きずり憂鬱気分に陥っている。そのためこの先の文章は、書いてもしどろもどろとなる。だから、このさきの文章は書く気になれない。憂鬱気分はなお曇ったままになるのか、それともいくらか薄日が射すのか。それは、きょうの復路の走りにかかっている。
 具体的には、出だし六区の走りしだいである。まことになさけなく、身勝手な文章を書いた。しかし、もとからきょうは、休むつもりだった。憂鬱気分のいくらかの憂さ晴らしを願ったにすぎない。もちろん、書いたところで憂さが晴れるわけではない。憂さの晴れぐあいは、六区の成績次第である。六区は、芦ノ湖畔から小田原中継所までの山下りである。
 箱根駅伝のテレビ観戦は泣き笑いではなく、東京・大手町のゴールまで、私は多くは泣きの状態にある。

 「箱根駅伝」往路

 新年(平成三十一年・2019年)一月二日、壁時計の短針は夜間三時過ぎのところにある。眠くて仕方がないのに瞼が閉じなく、寝床から起き出してきて、予定外のキーを叩き始めている。幸運なのは昨年からのこの冬の暖かさが続いていて、いっこうに寒さを感じない。現在、体感しているのは眠気だけである。
 きのうの日本列島は、新しい年の年頭すなわち元日だった。これにかかわる日本国民の習わしはおおむね、ふるさと帰り、里帰り、国内外への小旅行、そして近在の神社仏閣への初詣などである。掲げたこれらの習わしにしたがえば、わが家の場合は娘と孫(小学五年生・十一歳)の訪れを待つ身だった。娘たちは夕方の六時近くに、逗子市に隣接する神奈川県横須賀市内からマイカーでやって来た。これより前の五時過ぎには、わが現住する鎌倉市に隣接する逗子に住む、義姉夫婦がマイカーでやって来た。予定されていたのは、それぞれ二人の三家族が集い合う年始会だった。予定していた娘の連れ合いは、実家の役回りについたという。核家族そろった小さな年始会は、和やかに進んで遅い時間にお開きとなった。義姉夫婦は自宅へ帰り、娘たちはわが家に泊った。おのずから私の就寝は、十二時近くになっていた。
 ところが、寝ついても熟睡が得られず、終始うとうとしていた。それに耐えきれず、起き出してきた。寝ぼけまなこをこすりながら、机上の卓上カレンダーを眺めた。すると、歳時(記)を記す正月二日の行事欄には、三項目が並んでいた。あえて記すと、初荷、書初め、皇居一般参賀日、である。私にはいずれも縁がない。私の場合、きょうの催しで縁があるのは、「箱根駅伝」の往路である。往路があれば復路(あす・三日)がある。結局、箱根駅伝の往路と復路のテレビ観戦のため、私はきょうあすの文章は書かない、いや書けそうもないと、決め込んでいたのである。その理由は、箱根駅伝のテレビ観戦のもたらす事前事後の興奮のため、正常心が保(たも)てないからである。
 往路は東京・大手町の読売新聞本社前から、復路は神奈川県・箱根町の芦ノ湖畔からである。走り始めは、どちらも午前八時である。ところが、これを放映する日本テレビは、一時間前から煽(あお)りの報道に大わらわである。かのごとく煽られて私は、テレビの前に陣取ることになる。実際には、事前事後の興奮にさいなまされる。この興奮が「ひぐらしの記」の執筆を妨げる。その挙句私は、きょうあすのテレビ観戦を新年二日のわが行事と決めている。そのしっぺ返しには、文章の沙汰止みをこうむることになる。だからこの文章は、ひぐらしの記の埒外(らちがい)にある番外編である。
 眠たくも眠れなかったのは、就寝時間の遅さと、箱根駅伝・往路がもたらしている公憤のせいであろう。だからと言って、もちろん祟(たた)りとは言えない、善の報(むく)いである。もはや、二寝(ふたね)する時間はない。

平成三十一年(二〇一九年)、元旦 

 いつものように、いや、いつもよりめっぽう早くパソコンを起ち上げた。しかし、時代区分は大きく変わって、きょうは新しい年の元旦である。新しい年とは、平成三十一年(二〇一九年)である。そして、現在の時刻は、いまだに除夜の鐘の余韻が去らない、真夜中〇時五十三分である。パソコンを起ち上げて、わが目に真っ先に飛び込んだ配信ニュースはこのことである。それは、新しい元号(年号)名の公表は、四月一日というものだった。もちろんこのことは、今上・平成天皇陛下のご退位(四月三十日)と、そして翌日(五月一日)の新天皇陛下のご即位の流れの中にある。すなわち、訪れたばかりの新しい年・平成三十一年は、四月末日まででとどまり日本史に刻まれてゆく。そして、その先の日本社会は、四月一日に公表されるという新たな年号に引き継がれて、新たな年号時代の幕開けに移ってゆく。
 もちろん、日本社会および日本国民の営みは、実際には年号の変化につれてそう変るものではなく、平成の世の延長線上にある。しかしながら年号の変化(改元)は、やはり時代を画(かく)する日本社会の大きな出来事である。だからこそ私は、分かりきっていることをあえて、つらつらと記したのである。
 確かに、このことでは例年に比べて現在の私は、はるかに厳粛な心持で平成三十一年の元旦を迎えている。しかし、習性とは恐ろしいものであり、こんな厳粛な元旦にあっても、私にはいつもの愚痴こぼしが擡(もた)げている。すなわち、私はきのうの大晦日にあって、ちょっぴり体調を崩し、それを引きずり新年の元旦を迎えている。書くまでもないごく些細な体調不良だけれど、こぼさずにおれないわが悪の習性である。
 きのうの大晦日にあって、ふるさと便が届いた。宅配されて来たのは、搗(つ)きたての丸餅である。送ってくださったのは、わがふるさとの行政名・山鹿市(熊本県)に隣接する、菊池市にお住いの岡崎俊裕様・弘子さんご夫妻である。弘子さんとは、ふるさとの長兄の次女で、私には身内・姪っ子にあたる。もちろん、かつての私は「弘子」と呼んで、常々妹のごとく可愛がっていた。しかし嫁いで、現在はご主人と子孫(こまご)に囲まれた健(すこ)やかな暮らしぶりである。おのずから私は、呼称をそれにふさわしく変えて、敬愛心を丸出しにしているのである。また、そうせざるを得ない理由もある。なぜなら日頃の夫妻は、多忙を厭(いと)わず何かにつけて、わが長兄(九十二歳)の励ましに駆けつけてくださっているのである。
 丸餅のふるさと便が届けられると、私には一気に正月気分が沸いた。そして、訪れている元旦は、わが子どもの頃の父と母にまつわる思い出尽くしにある。父との思い出は、雑煮餅の食べ競争(個数)だった。私は父の五十六歳時の誕生である。それでも、雑煮餅の食べ競争にはたったの一度さえも、老いた父に適(かな)わずじまいだった。父は餅好きの私をはるかに超えて、とりわけ無類の雑煮餅好きだったのである。元旦においてよみがえる母の思い出は、目覚めれば枕元に真新しく冷や冷やする、肌着類が置かれていたことである。
 父と母にまつわる懐かしい思い出を彷彿とさせながら現在の私は、平成最後の正月元旦を迎えているのである。すると、おのずから正月気分がつのってきた。ご来光、すなわち夜明けまでには、まだたっぷりと時間がある。落ち葉はキリよくきのうの大晦日で打ち止めとなり、今朝の道路の掃除は免れている。夜明けが近くなれば、山越えで鶴岡八幡宮(鎌倉市街)へ初詣に向かう声がざわめいてくる。ところが、私にはあてにならない神様にすがる気はまったくない。それでも年頭にあたり、平成の末の世と新たな年号の時代のつつがない一年を願っている。

平成三十年(2018年)、大晦日 

 眠くても目が冴えて眠れず、堪(たま)らなく起き出してきました。現在、壁時計に針は夜中の一時半近くをめぐっています。どうにか、平成という年号のつく、最後の大晦日(十二月三十一日・月曜日)まで、命長らえてきました。今年一年を振り返り、漢字一字を浮かべると、なさけなくも「脅(きょう)」が浮かんでいます。この漢字が浮かんだのは、来し方の悔いごとに脅(おびや)かされ、さらには行く末の不安に脅かされているせいでしょう。そうであればこの漢字は、今年にかぎらずこの先も毎年、老い先短いわが人生に張り付くことになるでしょう。
 亡き母が唯一われに諭(さと)した人生訓は、「楽は苦の種、苦は楽の種」でした。ところがもはや、苦の種を蒔いても、楽にありつけことはおぼつかなくなりました。しかしながら何はともあれ、平成という年号のつく大晦日にたどり着いています。鎌倉五山の一つ・円覚寺の除夜の鐘が響くのは、夜明け、昼間、そしてなお夜の先です。それでも、つつがなく大晦日を迎えています。なんらなすすべなく迎えている大晦日ではあるけれど、しかしながらつつがなく迎えていることだけは、みずからを寿(ことほ)いでもよさそうです。
 こんな実の無い文章を書いて、平成という年号の最後の大晦日の、わが生き様にかえたいと思います。除夜の鐘が鳴り、新年(平成三十一年・2019年)になれば、平成という年号は残り四か月、すなわち四月末日までとされています。そして、平成に変わる新たな年号(元号)の名は、そのひと月前と公表されました。新しい年にあっては、粛々とそしてつつがなく、平成最後のお正月(元旦)を迎えたいものです。読者各位様には、今年もまた「ひぐらしの記」の継続にあたり、多大のご支援と激励を賜りました。末尾ながらそれに感謝し、そして訪れる新しい年の皆様のご多幸を心が祈念するものです。平成三十年(2018年)の結文といたします。
 蛇足ながら、こんなことを浮かべているからか、それとも「脅」に慄(おのの)いているためか、眠たくても目が冴えて眠れないのかもしれません。冬至過ぎても、なお長い夜に苛(さいな)まれています。

書き納め、余分② 

 平成三十年(2018年)十二月三十日(日曜日)、頃は夜明け前に在る。「冬至」(十二月二十二日)からわずか十日にすぎないのに、夜明けの早さを感得し始めている。もちろん、一陽来復という言葉にあずかっている気分のせいであろう。一寸先は闇の世にあって、どうにか今年のブービーまでたどり着いたことは、確かに喜ぶべきことであろう。しかし、あす(大晦日)までのわが存命の保証はない。
 日本列島各地が大雪や寒波に襲われている最中にあって、鎌倉地方には雪降りはもちろんのこと、さしたる気温の低下のない夜明け前である。ほんとうにこの秋からこれまでの冬は、暖かい日に恵まれてきた。その証しにはいまだに山の枯葉が落ち切らず、そのせいで大晦日を打ち止めと見越していた道路の掃除は年越ししそうである。
 こんなことはどうでもよいことだけれど、しかしながらこんなことを書いて、「ひぐらしの記」はようよう継続叶ってきたのである。いや実際のところは、こんなどうでもよいことを臆面もなく書いてきたからこそ、継続が叶ったのである。確かに、愚痴こぼしはわが専売特許である。しかし、愚痴こぼしや恥晒しに怖気(おじけ)ていたら、もちろんわが文章は一行さえ書けない。このことでは、常に忸怩(じくじ)たる思いに苛(さいな)まれているところである。
 書かずもがなのきょうの文章は、きのうに続いて「今年の書き納め、余分②」である。まもなく夜が明ければ、道路の掃除へ向かう心づもりである。

 書き納め、余分

 予報どおりに日本列島は、年の瀬ぎりぎりにあって厳しい寒波に見舞われている。まるで、これまでの暖冬を詫びて、本来の冬へ復帰したような光景を、テレビ画面が映し出していた。NHKテレビニュースが映す雪降り光景を眺めながら私は、(寒いだろうなあ…)、と案じていた。しかし、寒くて可哀そうと思ったり、同情はつつしんだ。なぜなら、そう思うことに私自身が、傲慢に思えたり、跳ね上がりに思えていたからである。
 人は、みずから生誕地を選ぶことはできない。さらに付加すれば人は、みずから親を選ぶことはできない。もちろん、生来の知能やさまざまな能力差も、自分自身ではどうすることもできないで、生まれてくる。言うなれば人の誕生は、運否天賦(うんぷてんぷ)のあてがいぶちの誕生である。すなわち人の誕生は、生まれながらに無限の宿命を負っている、と言えそうである。そうであれば、生まれながらのさまざまな不条理は、まさしく運命ないし宿命と諦めて、泣き言はご法度(はっと)とである。私自身、こういう思いをたずさえて、ないない物ねだりを諦めてきた。しかしながら小器の私は、泣き言を禁ずることはできず、常に泣き言に脅(おびや)かされてきた。嗚呼、なさけないわが人生である。
 雪降りの日が多く、寒いところに生まれたからといって、そこで生まれた人には生誕地となる。そして生誕地は、先祖代々・子々孫々の地となったり、ある場合はふるさとと名を変えて存在する。もちろん、生涯を生誕地に住む人にすれば住めば都であり、生誕地を離れた人には懐かしいふるさととなる。そのため私は、寒々しい雪降り光景を見ても、同情などのわが感情移入は場違い! と、心している。
 わがふるさと(熊本県)は、台風銀座と異称されるほどの台風の通り道である。加えて、夏の暑さはひととおりをはるかに超えて、無類の蒸し暑さでもある。それでも私は、この地で生まれたことを悔いたことは一度もない。わが思いに照らせば、多雪地帯や寒いところで生まれた人も、たぶんそうであろう。
 結局、人の暮らしぶりはそれぞれにさまざまであり、傍(はた)から可哀そうだと思ったり、当てずっぽうの同情をすることなど、禁物と言えそうである。

平成三十年(2018年)、御用納め日 

 十二月二十八日(金曜日)、日本社会は今年の御用納め日である。きりよく、明日からは通常の週末休日になり、明ければ大晦日(三十一日・月曜日)となる。しかし、大晦日には多くの人が有休をとるだろう。そのため、日本社会はきょうあたりから例年の年末年始休暇に入る。除夜の鐘が鳴れば、来年(平成三十一年・2019年)のカレンダーへ切り替わる。ところが、今年の残り四日のカレンダーはもはや用無しなので、私は先ほど来年のカレンダーに置き換えた。わが愛用のカレンダーは、机の上に置くごく小さな卓上カレンダーである。それを眺めると、明けて四日(金曜日)には「官庁御用始め」と、記されている。しかし、これまたこの日を有休にすれば、通常の週末二日の休みが訪れる。そのため、多くの人の仕事始めは、一月七日(月曜日)となりそうである。
 サラリーマン時代であれば、涎(よだれ)の垂れそうな長い年末年始休暇にありつける。もちろん今のわが身には、この限られた恩恵はない。しかしながら現在の私は、休みだけは無限の恩恵に浸っている。そのぶん、限られたことから得られる感激はあじわえない。身近なところでは大沢さまは、きょうあたりからご実家帰りになられるのかもしれない。大沢さまのご実家帰りは、唯一わが身に感ずるメリハリのある年末風景である。確かに、大沢さまにはご両親亡きあとの、ご長女として役割があるのであろう。具体的には、妹様たちの里帰りを待つご両親代わりの心意気なのであろう。つつがなく、ご主人様と共に年始のご帰還を願うところである。
 これまでのこの冬は、とんでもない暖冬に恵まれてきた。まさしく、異常気象である。私には異常気象のもたらしたうれしい誤算だった。だから余計、この先の気象の変化に気を揉んでいた。寒がり屋の私にとっては、この先も暖冬が続けば万々歳である。しかし、そうは問屋が卸さない。パソコンを起ち上げると、こんな配信ニュースに出合ったのである。
 【年末年始、厳寒続く…山沿いは数十cm積雪か】(2018年12月27日21時37分 読売新聞)。「気象庁は27日、年末年始(12月29日~来年1月3日)の天気予報を発表した。この冬で最も強い寒気が西日本まで南下し、日本海側は広い範囲で大雪となる見通し。太平洋側も山沿いでは断続的な降雪が予想されるが、乾いた風が吹き込む平野部や沿岸部は晴れる日が多くなる。同庁によると、期間を通して全国的に最低気温が0度前後となる厳しい寒さが続く。特に30日にかけて冬型の気圧配置が強まり、日本海側や山沿いを中心に24時間に数十センチの積雪となる恐れがある。元日は太平洋側のほぼ全域で晴天が見込まれ、気象庁は『初日の出が見られる可能性が高い』としている。日本海側は厚い雪雲が空を覆うとみられる。」
 寒気の到来と同時に、私には「箱根駅伝」(一月二日と三日)の空模様が気になるところである。わが母校(中央大学)の、スッテンコロリン、だけはテレビで観たくない。私は書き納めをしたくなっている。

時事問題:捕鯨 

 年の瀬も大晦日が迫り、きょうは十二月二十七日(木曜日)である。日本列島の街中は、歳末商戦たけなわにある。買い物客はいやおうなくそして渋々と、財布を緩めて正月用品に群がっている。わが家は予定より一日早めてきのう(十二月二十六日・水曜日)、妻と二人連れで大船(鎌倉市)の街へ、正月用品の買い物へ出かけた。そのおり私は、普段買いたくて仕方がなかったクジラのベーコンを買った。先日の妻の留守のあいだのわれ独りの買い物のおりには、とうとうクジラの赤身の刺身を買った。人様には大袈裟で滑稽に思える表現だけれど、私は抑えていた願いを叶えたのである。
 これら二つのクジラの肉を買いたくなっていたのは、美味しい食感もさることながら、生前の父や母を偲ぶ懐かしさによるものだった。それでも、これまでの私は、買うことを渋っていた。その訳は、店頭に並ぶクジラの肉が子どもの頃に馴染んでいたものとは違って、あまりにもみすぼらしく見えていたからである。私自身、毒にあたるようで食べることに不安をおぼえていた。この不安に輪をかける、妻の言葉も少なからずわが買う意欲を鈍らせていた。妻は、クジラの肉は食べたことがないと言う。このこともあってか常々妻は、
「パパ。クジラの肉、絶対買っちゃだめよ。毒にあたったらたいへんよ!」
 と、言い続けていたのである。
 確かに、見た目の悪いクジラの肉は、これまでわが買いの手を引っ込め続けていた。ところが先日、妻のいないまにその禁を破り、赤身を買ったのである。私は刺身と書いてあるにもかかわらず、「刺身でも、大丈夫ですか?」と、売り場の人に念押しをした。もちろん、「OK」の返事だった。それでも私は、なお不安に慄(おのの)いていた。
 ところが、その不安を払拭(ふっしょく)できたのは、わが隣に立つ人が迷わず、三切れも買われたからである。こんなおり意外や、その人のお顔にいくらか見覚えがあった。
「今泉さわやかセンターのスタッフの人ですね。刺身でも、大丈夫でしょうかね?…」
「大丈夫でしょう。うちは子どもたちが好きだから、焼き肉で食べますけど…、私もお顔見知りの人だなと思っていました」
 押すな押すなの買い物客に押されて、共にあっけなく押し出された。
 子どもの頃のわが家は、父がクジラの肉が好きだったせいもあって、母はいろんなクジラの肉を自転車でやってくる人から買っていた。すなわち、クジラのさまざまな肉は、家族にかぎらずわが食感を美味しく潤していた懐かしい食べ物なのである。このこともあって不断から私は、クジラに肉にはかぎりなく愛着をつのらせてきたのである。
 そんなこともあって、クジラにかかわる二つの配信ニュースは、他人事には思えなかった。このため、きょうの文章は、わがケチな論評を加えず、二つの配信ニュースを並記するものである。いや、ちょっぴり私見を添えれば、外国の不評を買ってまで、今さら捕鯨解禁を望むものでもない。
 【水産庁VS外務省、捕鯨めぐり攻防 最後は政治決着】(産経新聞)国際捕鯨委員会(IWC)からの脱退決定をめぐり、日本は反捕鯨国との根深い対立に加え、政府内では捕鯨政策をつかさどる水産庁と、国際協調を重んじる外務省との間で激しい駆け引きがあった。「IWCは機能不全」と主張する水産庁に対し、「国際的信頼を失う恐れ」と抵抗する外務省。「IWC脱退を決め、捕鯨もやめるのはどうか」との外務省側の意見も飛び出したが、最後は政治決断での決着となった。
 【日本の「IWC脱退に失望」=反捕鯨の豪州とNZ】(時事通信)反捕鯨国のオーストラリアとニュージーランド(NZ)は26日、日本が商業捕鯨の再開に向けて国際捕鯨委員会(IWC)を脱退すると発表したことを受けて「失望した」と批判した。

歳末商戦の渦 

 きのう(十二月二十五日・火曜日)には、わが普段の買い物の街・大船(鎌倉市)へ出かけた。年の瀬にあって、きのうまでは日常の買い物のためである。ところが、めぐった店はもちろんのこと買い物客もまた、きのうあたりから明らかに歳末商戦を帯びていた。もちろん、店の場合は目に見えて、歳末商戦への臨戦態勢に入っていた。その確かな証しは、正月用品向けへの売り場の変更である。
 ところが、わが買い物足の向く売り場は、ことごとく食品売り場である。すでに何度か書いたことだけれど、再びわが買い物の定番コースを記すとこうである。わが買い物行は、身体の足と「大船行き」路線バスである。バスの終着バス停はJR大船駅前である。しかし、買物目当ての場合、私は一つ手前の「行政センター前停留所」で下車する。そして順次、四か所の定番コースを歩いてめぐって行く。コース順はこうである。先ずは野菜と果物の安売り量販店「大船市場」、次には安売りの「駄菓子専門店」、そのた次には魚の安売り専門店「鈴木水産」、最後は「西友ストア大船店」の地下一階の食品売り場である。なさけなくも、すべてが安物漁りの懐(ふところ)乏しい買い物客へと成り下がっている。おのずから異なるこれら四つの店は、きのうあたりをスタートにして、ほぼ一様に歳末商戦の臨戦態勢に入っていた。この明らかな光景は、売り場の正月食品への変更と、それらの大量の陳列であった。
 大船市場で目立ったのは、それぞれに産地が記されて、段ボール箱詰めで売られていたミカンだった。もちろん、普段はあまり目にしない、明らかに正月目当ての売り場光景だった。駄菓子屋の店頭には、特にチョコレート類が目立たっていた。さもありなん、きのうはクリスマスだった。おそらく、クリスマスと正月の二兎狙いの売り場模様だったのであろう。鈴木水産の場合は、もはや正月食品一辺倒への売り場替えと、それらの大量の陳列だった。西友ストアの場合、駄菓子類は一階、野菜と果物そして魚や総菜類は地下一階が売り場である。どちらも専門店ほどではないけれど、あからさまに正月向けの売り場へ様変わり、フロアや棚にはそれらの品々が大量に並んでいた。これらの店の臨戦態勢に引き込まれて、買い物客も正月向けの買い漁りに血眼(ちまなこ)になっていた。私は普段の買い物のままに帰宅した。
 私の場合、妻と連れ立って歳末商戦の渦に嵌(は)まるのは、あす(二十七日・木曜日)あたりになりそうである。きょう(十二月二十六日・水曜日)は、卓球クラブのことしの打ち止めである。 

クリスマス 

 きょうは年の瀬、「クリスマス」(十二月二十五日・火曜日)である。しかし、イブやクリスマスも、わが老夫婦にはまったく関係なく過ぎてゆく。この点では現在のわが夫婦は、社会生活といくらか遊離した暮らしぶりと、言えるかもしれない。
 もともとわが夫婦は、外来のこの手の習わしには、まったく関心がない。クリスマスにあって、ちょっぴり世間の人様の真似をしたのは、娘の幼い頃だけにすぎない。しかしながらそれも、娘にせがまれてクリスマスケーキを最寄りの店から予約購入しただけである。同時に、七面鳥はおろか、鶏の唐揚げを購入した記憶はさらさらない。肝心要のクリスマスの謂(いわ)れは、今なおまったく知るよしない。いや、実際のところは知ろうともしないし、知らないことを恥とも思っていない。
 クリスマスの思い出には、唯一苦々しい記憶がよみがえる。勤務する会社の独身寮時代にあって、私は同期入社の仲間に誘われ、赤い灯・青い灯きらめくネオン街へ繰り出した。店内へ入るやいなや、華やぐ夜の女が駆け寄り、三角帽子を被(かぶ)された。すかさず、いくつかの爆竹が破裂した。店内に臭いと煙が充満した。高音の音楽がうるさく流れている。けばけばしく派手なクリスマスの夜は、勘定書きに法外な金額を示された。ぼられたな! と思っても、逆らえず渋々支払って外へ出た。わが悔悟まみれのクリスマス経験である。
 クリスマスに比べると正月は、もちろんわが性(しょう)に合っている。なぜなら、正月の思い出に悔悟はまったくなく、子どもの頃の楽しい正月風景がよみがえる。そしてそれには、正月を迎える準備の年の瀬の楽しさが対(つい)を成している。クリスマスの頃すなわちきょうあたりには、その一つの正月用の餅つき風景がよみがえる。当時のわが家の餅つきは、近くに住んでいた異母長兄家族が寄り集まってのものだった。土間に石臼を置いて、その周りに男たちが立ち、長い杵棒で「エッサ、エッサ」と、声を掛け合いついた。上り口から座敷にかけては、つきたてを待つ女たちが陣取った。そして、手早く丸餅に丸められた。大勢そろっての一日がかりの餅つきは、今なお脳裏に焼きついている楽しい思い出である。
 餅つきに続くものでは、これまた正月準備の一つである、シダ(羊歯、歯朶)やユズリハ(譲葉、交譲木、楪)採りがあった。こちらは、冬休みに入っていたわが単独行だった。私は、勝手知った近くの里山に採りに行った。これらは、母がこしらえる飾り餅に挟まれていた。もちろん、それらが添えられる謂れなど知るよしなく、冬休み中の年の瀬の家事手伝いの一つだった。
 クリスマスにかかわる子どもの頃の思い出には、クリスマスを捩(もじ)り父がよく言っていた「クルシミマス(苦しみます)」の言葉だけである。

クリスマスイブ 

 きのうの平成最後の「天皇誕生日」(十二月二十三日)は日曜日と重なり、明けてきょう(十二月二十四日・月曜日)は、振替休日による三連休最終日となる。なにかにつけて、平成という冠が付く日めくりが消えてゆく。おのずから、消えゆくものへの感傷が渦巻いている。しかし、実際には平成という年号を失くすだけで、新たな年号の下に行事や歳時は先々へと続いてゆく。もちろん、消えゆくものは過去ページへと移り、時の流れの中に歴史として刻まれる。きょうは、わが身にはまったく無縁の平成最後のクリスマスイブである。ところが、きょうのクリスマスイブは振替休日と重なり、街中もとりたてて喧騒なく過ぎるであろう。
 かつての勤務時代にあっては、クリスマスイブの賑わいを目にしながら帰宅していた。もはや、この光景も忘れてしまうほどの遠い昔のことになってしまった。イブやクリスマス自体、かつてのように大騒ぎしなくなったようでもある。日本社会に、落ち着いたイブやクリスマスの過ごし方が定着したのかもしれない。
 きのうは、これまた平成最後の全国高校駅伝(京都府・都大路)でのテレビ観戦に興じた。この駅伝は、年の瀬の風物詩の一つに数えられるものである。このこともあってNHK地上波テレビは、午前中には女子の部をそして午後には男子の部をライブ(生)放映した。この駅伝にかぎらず駅伝ファンを自認する私は、あらためてテレビの恩恵を堪能した。女子の部は、私立・神村学園(鹿児島県代表校)が初優勝し、男子の部は、私立・倉敷高校(岡山県代表校)が二年ぶりの優勝に輝いた。両校共に、留学生ランナー(アフリカ出身)の活躍がもたらした栄冠と、言えるものだった。
 もはや、高校駅伝にかぎらず駅伝は、日本人選手だけが走る光景ではなくなっている。言うなれば外国人ランナーが混じる駅伝は、すでに見慣れた光景である。それでも、いまだに常に驚くのは、留学生や外国人ランナーのスピード(速さ)である。このため高校駅伝にあって、留学生ランナーに頼る傾向は、この先いっそう加速するであろう。そして、高校駅伝やほかの駅伝にかぎらず、今やすべてのスポーツに見られる光景である。いや、日本社会にあっては、年年歳歳というより日々において、外国人が増え続ける時代である。このことを捩(もじ)り、「平成の世も末」と言えば、時代錯誤の烙印を押されそうである。時の流れに身を置いて、くわばら、くわばら、…である。

 天皇陛下、平成最後の「天皇誕生日」

 「ひぐらしの記」は、私自身の日暮らしをつづるだけでは味気なく、もちろん長続きするはずもない。このため、日本社会や世界の日々の出来事に関心を持ち、そして記録に残すべきものはメディアの伝える配信ニュースの引用を試みてきた。これこそ、ひぐらしの記存在の「意義」であろう。一瞬、意義にかえて「価値」という言葉が浮かんだけれど、もちろんそんな自惚(うぬぼ)れはご法度(はっと)である。
 きのうは半年ごとに訪れる季節の折り返し点、「冬至」(十二月二十二日・土曜日)だった。今さら言わずもがなもことだけれど冬至は、夜間が最も長くそのぶん昼間が最も短い日という。そして、人間の営みを記す歳時(記)にしたがえば古来、冬至には無病息災を願う「ユズ風呂」が習わしという。確かに、湯船に身を沈めると、ユズの香りがのぼりたち、しばし、ほのぼのと無病息災への願いが沸き立った。
 明けてきょうは、この先、日を追って昼間の時間が長くなる初日である。同時に、きょうの日本社会は、「天皇誕生日」(十二月二十三日・日曜日)である。そして、今年の場合は、「平成最後の」という冠(かんむり)が付く。
 きのうは、日本社会にあって減り続ける出生数にかかわる統計を引用した。もちろん、記し置くべき大きな関心事ゆえである。ところが、きょうは天皇誕生日にかかわる配信ニュースの引用を試みている。もちろん、例年とは異なり、平成最後の天皇誕生日ゆえである。
 【天皇陛下、平成最後の誕生日 涙声で「国民に感謝する」】(12/23・日曜日、0:00配信 朝日新聞デジタル)。天皇陛下は23日、85歳の誕生日を迎えた。事前の記者会見では、来年4月末の退位を見据え「天皇としての旅を終えようとしている」「支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝する」と涙声で語った。象徴としての歩みを振り返り、「譲位の日を迎えるまで、引き続きその在り方を求めながら、日々の務めを行っていきたい」と述べた。誕生日前の会見は即位翌年の1990年からほぼ毎年行われてきたが、今回が最後となった。在位中の会見としても最後となる見通しで、陛下は約16分間、何度も感極まり、言葉を詰まらせながら思いを語った。戦争を経験した天皇として、平和への思いに時間をかけた。戦後の平和や繁栄が多くの犠牲で築かれたことを忘れず「戦後生まれの人々にも正しく伝えていくことが大切」とし、「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」と語った。また、皇太子時代を含めて11回にわたり訪れた沖縄について「実に長い苦難の歴史」をたどってきたと言及。皇后さまと歴史や文化を理解するよう努めてきたといい、「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」と述べた。心に残ることとして、平成の時代に多発した自然災害を挙げた。多くの死者や被害があったことに「言葉に尽くせぬ悲しみを覚えます」。
 ボランティア活動など、人々の間に助け合いの気持ちや防災の意識が高まってきたことに勇気付けられると述べた。来年4月に結婚60年を迎える皇后さまとの歩みも振り返った。「深い信頼」のもとで伴侶との旅を続けてきたと述べ、「長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労いたく思います」と感謝の気持ちを明かした。最後に、代替わり後の新時代に言及。新天皇となる皇太子さま、皇嗣となる秋篠宮さまについて「皇室の伝統を引き継ぎながら、日々変わりゆく社会に応じつつ道を歩んでいくことと思います」と語った。

「出生数」統計 

 出生数統計にかかわる記事は、公表のたびに「ひぐらしの記」に引用してきた。なぜなら、私はもとより日本社会の直面する大きな関心事だからである。出生数が減り続けて、半面死亡者数が増え続け、その挙句年を追って日本社会は、「少子高齢化社会」深めている証しを示す通信簿とも言える。この傾向を補うため労働力として、外国人頼りが国是(こくぜ)となったばかりである。
 【出生数、3年連続100万人割れ 人口減は年45万人】(12/21・金曜日、15:41配信 産経新聞)。「厚生労働省は21日、平成30年の人口動態統計の年間推計を発表した。出生数は明治32(1899)年の統計開始以来、最少だった前年の94万6065人(確定数)を下回り、92万1千人で過去最少を更新した。出生数が100万人を割るのは3年連続で、少子化に拍車がかかっている。死亡者数は前年の134万397人を上回り、136万9千人で、戦後最大だった。死亡数から出生数を差し引いた人口の自然減は44万8千人で、平成19年から12年連続の人口減。昨年の自然減は39万4332人で、40万人を超えるのは初めてとなり、人口減少も浮き彫りになっている。女性が生涯に産む子供の推定人数を示す合計特殊出生率は29年が1・43で、17年の1・26を境に緩やかな上昇傾向にあり、近年は横ばい。  婚姻件数は59万組で、前年の60万6866組を下回り、戦後最少を記録。離婚件数は前年の21万2262組を下回る20万7千件と推計した。厚労省の担当者は、出生数減少について『出産適齢期(25~39歳)の人が毎年25万人ぐらい減っていて、その影響が大きい』と分析している。」
 わが家周りは空き家と空地が増え続けている。わが家すなわち私自身にやがて訪れる大きな悩みである。

様変わる歳末商戦 

 十二月二十一日(金曜日)、今年(平成三十年・2018年)もいよいよ残り十日となり、大晦日や正月に向けて、カウントダウンが始まる。それはまた、本格的な歳末商戦の訪れでもある。この間には歳末の迎春準備に加えて、一時のクリスマス商戦もある。まさしく歳末商戦は、戦争を捩(こじ)り戦いの場へと様変わる。
 かつての商戦では買い物客は慌ただしく店頭へ出向き、一方売り手は、買い物客への売り込みや呼び込みに大声を嗄(か)らしていた。よくもわるくも、文字どおり絵になる歳末風景だった。もちろん、私はこんな風景を好んでいた。なぜならその風景は、人間の浅ましさと必死に生きる姿を垣間見せていたからである。
 しかしながら、こんな歳末風景は年々様変わり傾向を強めて、目に見える歳末商戦は翳(かげ)り始めている。かつての歳末店頭の賑わいを知る私には、これまたよくもわるくも寂しさつのる歳末商戦風景である。私は距離的あるいは周辺の店の消失からこうむる、俗に言う買い物難民ではない。しかし、時代に取り残された買い物客とは言えそうである。
 世の中の買い物傾向は、店頭離れが加速している。ところが、私の場合はこれについていけないのである。テレビでは、終日(ひねもす)テレビショッピング(通販)の垂れ流しがある。かててくわえて、パソコンやスマホいわゆるSNS(ソーシャル ネットワーキング サービス)では、ネット通販が店頭販売を脅かし続けている。もちろんこれらは、歳末商戦にも分け入っている。そしてこれらは、これまでの黒子的(別働体)存在から、今や歳末商戦にかぎらず年じゅうの商戦に主位置を占める勢いである。だから、たかだかここ数年のうちのテレビ通販やネット通販の勢いをかんがみれば、この先その勢いはよりいっそう加速しそうである。
 こんなことを胸中に浮かべていると、様変わる歳末商戦と言えそうである。半面、人の息づかいや温もりが見えなくなり、金銭の損得(効率)だけがまかり通る商戦とも言えそうである。こんな思いを浮かべるから、私は時代に取り残されるのであろうか。ちょっぴり、切ない。 

ためらう、投稿ボタン 

 本当にもう書けない。夜長にあって、いっそう書けないつらさが身に沁みている。なさけない書き出しで、キーを叩き始めている。こんな文章を書くようでは、(書かずに休んだほうがいいよ!)と、心中でみずからを嘲(あざけ)っている。しかし、きょう休めばあすは書けるという、保証や自信もない。書けないつらさは、先延ばしにすればするほど深みに嵌(は)まってゆく。すると、つらさはなおいっそう増幅し、にっちもさっちもいかなくなる。その挙句、つらさに加えてかなしさが同居する。それらに耐えきれずわが長年の営みは、なんらの華を残すことなく木端微塵(こっぱみじん)に砕(くだ)かれて終焉(しゅうえん)する。「立つ鳥跡を濁さず」どころか、濁しっぱなしの終焉となろう。
 これまでの私は、こんな愚痴こぼしを何度繰り返してきたことだろう。振り返れば、わが「生き恥」である。私は、ときには柄にでもなく哲学者の真似をする。浅ましくもそれは、わが人生行路の俯瞰(ふかん)や振り返りである。すると、さまざまになさけない事柄が頭をもたげてくる。ところがそれらのすべては、今さら嘆いてどうなることでもない、わが無能力と小器に起因している。文章とは、時々の心象風景の言葉や文字による描写である。なさけなくも現在のわが心象自体、殺風景(さっぷうけい)である。その証しには、こんなことしか描(か)けない。
 あさってに「冬至」(十二月二十二日・土曜日)をひかえて、きょう(十二月二十日・木曜日)は、悶々とする長い夜である。戯言(ざれごと)だ! と、一笑に付すことのできない文章を書いてしまった。わが身のなさけなさが、とことんわが身に沁みている。夜明けまでには、まだつらくて長い夜である。実の無い文章を人様の目に晒して、恥さらしではないのか! と、自問している。その答えは、投稿ボタンを押すかどうか? をためらっている。

年の瀬の母の姿 

 十二月十九日(水曜日)、夜長もいよいよカウントダウン少なく、「冬至」(十二月二十二日)に向けて、残りは四日にすぎない。その先は「天皇誕生日」(十二月二十三日・日曜日)を挟んで、振替休日(十二月二十四日・月曜日)に向けての三連休となる。こんなあたりまえのことを書いたのは、三連休が明けると大晦日や来年(平成三十一年・2019年)の元旦がごく近くなるからである。これまた、きのう(十二月十八日・火曜日)の文章に続いて、年の瀬の感傷と言えるのかもしれない。
 年の瀬にあっては、なぜか? やけに日めくりにとらわれるところがある。そしてこれには、常に多忙という焦燥感がつきまとっている。今の私には、実際には心忙(せわ)しい用件はなにひとつない。それでも焦燥感に急(せ)き立てられるのは、年の瀬に根づいている心象風景のせいであろうか。
 具体的には、わが子どもの頃に見ていたこんな光景がもたらしている。父や母はもとより兄たちは、年の瀬になると例月に比べていっそう忙(せわ)しなく働いていた。この光景がトラウマ(心的外傷)さながらとなり、なんらの用件なくても私に焦燥感を招くのであろう。
 当時のわが家の生業(なりわい)は、三段百姓に兼ねて精米業を営んでいた。いや、実際のところは逆に、精米業を主にして三段百姓を兼ねていたのかもしれない。年の瀬にあって農作業は、一年の中でも最も閑(ひま)なときである。それでも家族は、年の瀬には忙しなく働いていた。この忙しなさをもたらしていたのは、精米業だったのである。精米や製粉の器機類は、母屋の中の土間に据えられていた。言うなれば母屋は、作業場付きの住まいだったのである。そのため、不断から住まい、すなわち座敷などのいたるところに粉塵が舞っていた。板張りなど、歩けば綺麗に足型がついていた。このこともあってわが家の場合、年の瀬の大掃除は他家(よそ)とは違って、格別大事で大きな仕事だった。すると母は、その中心を担っていたのである。
 不断の母は、家政に加えて精米業の内的仕事の一切を任されていた。このため母は、まるでコマネズミさながらに、母屋の内外(うちそと)を忙しく走り回っていた。さらに年の瀬の母には、年の瀬特有の仕事が加わっていた。それは迎春(正月)準備である。具体的には、大掃除、餅つきにかかわる準備、餅つき、丸餅づくり、お供えの飾り餅、元旦に家族のために用意する新品の肌着や杉下駄の買い物などがあった。もちろん母は、雑煮(具)の準備にも心をくだいていた。結局、わが年の瀬の忙しなさや焦燥感は、当時の母の年の瀬姿に由来していると言えそうである。しかしながら、忙しなく走り回る母の姿を偲べば、快い焦燥感と言えなくもない。実際、今の私は、母の面影を浮かべて快い焦燥感に浸っている。

平成三十年、年の瀬の感傷 

 今年・平成三十年(2018年)は、あと二週間も残さず、年の瀬を流れて行く。時のめぐりにあって、平成という年号(元号)を記すのは、すでに半年を切っている。だから、例年の年の瀬とは異なり、私には切切感つのるところがある。来年(2019年)の五月一日には新天皇陛下が即位される。このため、この日から新たな元号となることが公表されている。ところが、元号そのものは現在まで未発表のままである。そのため、現在の日本国民は、新元号の公表に大きな関心を寄せている。
 新元号の制定にあっては、元号自体に不要論を唱える人たちがいた。元号制制定の是非をたたかわす論駁(ろんばく)はもはや消えたが、いっとき日本社会を賑わした。結局、元号不要論は退けられて、これまでの慣行どおりに存続で決着した。
 わが私見を添えれば、私は元号存続の賛成派である。その理由の一つは、日本社会における歴史的慣行である。もっと端的には、歴史の区切りとして元号の存在を認めているからである。逆に言えば、西暦表示だけでは歴史観を損(そこ)ないそうだからである。年号不要論者は、二重表記の煩わしさやグローバルの世に逆行すると言う。確かにこの先の世界には、現在よりいっそうIT(情報技術)やSNS(ソーシャル ネットワーキング サービス)など、コンピュータ技術の進化や旺盛が予測されている。こういう時代傾向の中にあって、日本社会が煩わしい元号に固執するのは、それらの進行の妨(さまた)げになるとも言う。もちろん二重表記は面倒であるし、そのためその言い分には一理ある。加えて、天皇制にまつわる人それぞれの思想(考察)も起因しているのであろう。
 しかしながらデジタル社会、すなわちなにもかもが効率一辺倒の社会は、必ずしも是とはかぎらない。まして日本社会であれば、古来の元号制度まで失くすことはないであろう。浅はかなわが私見である。昭和生まれのわが感傷であろうか。長い夜をもてあますゆえの妄想であろうか。平成三十年は数々の感傷をたずさえて、時々刻々と早瀬のごとく年の瀬を流れている。

娘と孫娘に、引かれて… 

 きのう(十二月十六日・日曜日)は、誘われていくらか遠出した。誘ったのは娘と孫娘(小学五年生・十一歳)である。妻も同行した。行き先は、夜の「江ノ島」(神奈川県藤沢市)である。誘った理由は、江ノ島のイルミネーション見物だった。見物コースをめぐりながら孫娘に尋ねると、「ここは、神奈川県一番のイルミネーション」、と言う。もはや、県内事情なかでも近場の観光スポットの最近事情さえ、孫娘に後塵を拝し教えにさずかった。
 イルミネーションは、夜の人工的輝きである。このため、娘たちと待ち合わせたのは夕方の五時十五分。夕方とは言っても昼間の短いこの時期は、すっかり暮れて夜のたたずまいだった。待ち合わせ場所は、JR大船駅改札口(鎌倉市)。ほぼきっかりの時間に出会えた。一路、江ノ島へ向かった。
 駅ビル「ルミネ」の中を通り出て、「湘南モノレール」へ向かった。このモノレールは大船駅始発、終着駅「片瀬江ノ島」である。モノレール特有に、車両は小さく連結も短い。それでも日曜日の夕方とあって、観光地へ向かう車内はがら空きだった。寒さの厳しいこの時期かつこの時間、わざわざイルミネーション見物に出かける人はいないはずである。
 ところが江ノ島へ着くと、これはわが早とちりとわかった。なぜなら、往来する多くの人出に遭遇した。それらの中には昼間からの居残りではなく、イルミネーション目当てに向かうらしい人も大勢いた。しかし、華やぐ声はカップルや若者連ればかりで、わが夫婦の姿は街灯の中では異物だった。娘と孫娘の誘導尋問に乗った、気乗りのしないイルミネーション見物は、歩きながら恨めしく思えていた。
 夜の片瀬の海をまたぎ長く架かる橋をようやく渡り切り、江ノ島へ着いた。江ノ島は、観光の島である。特にこの時期の江ノ島は、イルミネーション見物を当て込む観光の島になりきっていた。商魂とは恐ろしいもので、エスカレータを四度も乗り換えてのぼるほどの島は、人の手すなわち人工のイルミネーションで張りめぐらされていた。これこそ、正真正銘の「夢の島」の輝きだった。
 展望台へのぼるには、整理に汗だくの係員から「60分」待ちと、告げられた。それでも娘たちは、怯(ひる)むことなく行列の最後尾に並んだ。仕方なくわが夫婦も並んだ。最後尾はすぐに後続人達に譲った。結果良し。
 まるで、牛に引かれた善光寺参りさながらの江ノ島・イルミネーション見物だった。もちろん、イルミネーションの輝きに堪能した。しかし私はそれを超えて、島全体をイルミネーションで覆った人間技に驚嘆していたのである。
 江ノ島のイルミネーション見物を終えると、帰途に就いた。島の平地へ下りると、思いがけなく娘の連れ合いがマイカーを停めていた。それに乗車し、途中ファミレスで夕食を摂った。わが家へ送り届けてもらったときは十時近く、娘たちが横須賀市内のわが家へたどりついたのは、十一時頃だったであろう。
 私は旅の疲れでぐっすり眠った。目覚めて、こんな書き殴り文を書いたのである。推敲する時間もない。またもや、かたじけない。

 木枯らし

 十二月十六日(日曜日)、冬本来の寒さへ戻っている。それまで、暖かい冬に身を置いていたぶん、余計寒さが身に沁みている。昼間の場合、冬の寒さを増幅させる自然界現象は、冷たい木枯らしである。今さら学習することもないけれど、木枯らしとは風である。電子辞書を開いてみる。「こがらし(木枯らし・凩」:(木を吹き枯らす意)。「秋から初冬にかけて吹く、強く冷たい風」。
 木を吹き枯らすほどに冷たい風であれば、わが身が震えるのはあたりまえである。このことは気象庁から受け売りですでに書いたけれど、「木枯らし一号」の吹く時季にあって、東京には吹かなかったという。まさしく、この秋から初冬にかけての稀に見る自然界の異常気象である。このことが本格的な冬の季節になっても、暖かい冬をもたらしていたのであろう。
 ところがこのところの鎌倉地方は、後れてやって来た木枯らし一号現象に見舞われて、冷たい風に吹き晒されている。このところのほぼ一週間にかぎれば、冬特有の寒い北風が吹き荒れている。そのため、暖かい冬を貪(むさぼ)り落ち遅れていた山の枯葉は、この一週間で一気に後れを取り戻している。落ち葉の遅さにたいし、前半は気分を良くし、後半は気を揉んでいた。あえて、気分の良し悪しの理由を記すとこうである。実際、前半は道路上に落ち葉が少ないことで気分を良くし、そして後半はそれが気を揉む誘因になっていた。
 例年、落ち葉の打ち止めはほぼ大晦日である。すなわち、わが早朝の道路の掃除を強いられるのは、おおむね大晦日まである。しかし、落ち葉が後れていたから、年明けまでの懸念となっていた。ところがその懸念は、一掃されたのである。懸念を除いたのは、後れてやってきた木枯らしである。
 きのう(十二月十五日・土曜日)の昼間、私は卓球クラブの練習に出かけた。その往復のわが身は、木枯らしに晒されていた。身に沁みる寒さだった。一方で私は、寒さを我慢した。なぜなら、吹きすさぶ木枯しは、落ち葉の打ち止めを例年どおりに大晦日と、予感づけたのである。木枯らしは、年を越えてなお先へ延びそうに思えていた早朝の道路の掃除を、例年どおりに大晦日までで打ち止めにしそうである。今や、予感は確信になりつつある。木枯らし吹きすさぶなかで私は、「塞翁が馬」の故事を浮かべていた。また、電子辞書を開いてみる。
 【塞翁が馬】(淮南子・人間訓)。「塞翁の馬が逃げたが、北方の駿馬を率いて戻って来た。喜んでその馬に乗った息子は落馬して足を折ったが、ために戦士とならず命長らえたという故事。人生は吉凶・禍福が予測できないことのたとえ」。
 妙なことを浮かべたものである。もっと、適切な故事成句があるはずなのに、私にはそれらが浮かぶ能力はない。木枯らしが身に沁みた。

夜長のお茶濁し文 

 十二月十五日(土曜日)、年の瀬も半ばを迎えている。さしたる用事もなく今年が日々暮れていく。もちろん、用事があっては困る。なぜなら、もはや良い用事があることはなく、ふるさと電話に日々恐々とするばかりである。
 ふるさとの長兄は先月(十一月二十七日)、九十二歳の誕生日を迎えている。東京都下国分寺市に住む次兄は八十七歳である。父親代わりの二人の兄のことばかりでなく、わが年齢とて七十八歳である。加えて、妻をはじめ身内の多くはこの周辺の年齢である。このため、この頃の私は、つくづく「便りがないのは良い便り」という、人生訓を実感している。だから、野暮用にかぎらず用事がないのは、幸運と言うべきであろう。一方でこの幸運には、ひしひしと消費期限が迫っている。そのため私は、表向きの用事はないけれど、内心では始終あわただしく、びくびくしながら暮らしている。書くテーマもなく、ふと胸中に浮かんだことを臆面もなく吐露してしまった。まことに恥じ入ることだけれど、現在の素直なわが心境の吐露である。
 わが日常生活にあって、唯一用事と言えるものには、大船(鎌倉市)の街への買い出しがある。買い出しには戦時中の買い出し姿さながらに、幅広の背中さえ隠れるほどの大きなリュックを背負っている。それなのに帰宅時は、なおレジ袋に詰めた買い物の両手提げ姿である。(なんで、いつもこんなに買い物があるのだろう?)と、苦々しく自問する。そのうえこの自問には、(夫婦二人だけの生活なのに…)という、思いが重なっている。すると、自問にたいする自答は、わが夫婦が果物好きだからだろうと、落ちが着く。なぜなら、果物は嵩張るだけではなく重たくて、大きなリュックの大半を埋め尽くすことになる。
 初秋から中秋にかけては栗三昧だった。実際のところは栗団子三昧だった。栗の季節が終わると、こんどは出回り始めた柿と蜜柑に買いの手が伸びた。柿は次郎柿から富有柿三昧だった。このところの掲示板には、『流星群』の文章を発端にして、「禅寺丸柿物語」が話題となっている。日本人であれば柿は、おおむね万民が好む果物である。そのため柿の話題は、尾ひれをつけて楽しく人様の口の端へ渡ってゆく。その柿も現在は、生柿の最後に出回る富有柿の姿は細り、売り場は干し柿(吊るし柿)へと移行している。
 柿は、甘柿と渋柿に大別される。そして干し柿は、渋柿に手を焼いた人間の知恵なのであろう。おのずからこの先のわが買い物の手は、干し柿へと様変わってゆく。次郎柿や富有柿、すなわち生柿が売り場から影を潜め始めると、買いの手はもっぱら蜜柑一辺倒になる。蜜柑は温州ミカンを皮切りに、さまざまに形(品種)を変えて、柑橘類として春先までわが買いの手が引っ込むことはない。これらに加えてわが夫婦は、同時並行に嵩張るバナナ、重たい林檎も大好物である。結局、嘆くにはあたらないわが買い物の頻度と買い出し姿は、自業自得というより、わが納得ずく行為である。
 休めばよかったのかもしれない。ネタ不足で、書くまでもないことを書いて結文とする。かたじけない。夜長も残り一週間である。

 世相の話題から

 十二月十四日(金曜日)、年の瀬も半ばを過ぎて河口の大晦日へと向かっている。往生をきわめていた落ち葉は、ようやく細りかけている。これは、わが身にたまわる唯一の年の瀬の恵みである。
 こんなおり、胸中にはメディアの伝えるこのところの日本社会の話題が浮かんでいる。だから、日本社会の様変わりぶりを示す証しとして、是非の論評なしに記し置くものである。いや、少しばかりは当てずっぽうに、わが下種の勘繰りを添えるものである。
 この時期、明けても暮れても落ち葉に難渋する道路の掃除のことを書いてきた。それゆえ、柄になくたまには世相のこともいいかなと、思う。いや、日本国民であれば本当のところは、しょっちゅう日本社会の出来事を俯瞰し、その是非を書くべきであろう。しかしながら私には、そんな能力は芥子粒ほどにもない。
 一つは東京医科大の入試不正を発端として、芋づる式にかつ鬼の首を取ったかのように、相次いで伝えられてくる私立大学医学部の入試にからむ不正報道である。確かに、合否段階における受験者差別は、大小にかかわらず言語道断である。そのため、正義の剣(つるぎ)をひけらかすメディアには、格好の叩き潰すべき反社会的行為なのであろう。しかし、私にすれば今さらという観がある。なぜなら、私立大学ゆえに過去から内々には行われていたことであろう。そして日本社会は、知って知らんぷりを装っていたことにすぎないことでもあろう。確かに、このたびの入試不正は単なるコネ入学ではなく、正規の規則を意図的に曲げての差別入試である。もちろん、このことではとことん糾弾されるべきことである。しかしながらこの頃の報道には、親の母校だからその子どもを優遇したとかまで、記事にさらされている。言うなれば、事の大小を問わずいっしょくたにの報道へと成り下がっている。すなわち、私立大学であれば医学部にかぎらずコネにかかわる不正入学は、これまでも見て見ぬふりを決め込んでいたところがあった。これまでであれば半面、嘆かわしくも社会的常識としてまかり通っていたことでもある。このことではこれらの報道も、これまでの日本社会の悪の常識の浄化の一端くらいはあるのかもしれない。
 また、このところの国政から盛んに報じられているニュースには、教師と医師の働き方、より具体的には働く時間のことがある。かつての教師と医師は聖職者として君臨し、日本国民に気高く崇(あが)められてきた。それゆえに日本国民は、これらの職業に就く人たちの働き方、実際には働く時間には意を留めずきた。しかしながらもはや、働く時間の長さとそれゆえの過酷な労働実態は、聖職者の領域を超えているのであろう。結局、国政の議論は、聖職者が一様に労働者へと様変わる証しの鬩(せめ)ぎ合いの過程であろう。
 私には、前者すなわち私立大学医学部、そして後者すなわち教師と医師の働き方、いずれにも論評し得る能力はない。ただ、腑に落ちない思いはたずさえている。
 夜が薄く明けて、落ち葉を掃く時間の到来である。 

「流星群 第40号」は、20年「記念号」 

 きのう(十二月十二日・水曜日)の掲示板は、「流星群」(現代文藝社発行・主宰大沢さま)や、投稿文そして私信メールを仲立ちにして大賑わいだった。こんな大賑わいは、もちろん愉快でわが好むところである。同時に私は、あらためて文字や文章の威力を痛切に悟った。言葉では、文章ほどにはいかない。なぜなら、言葉では物理的にも不可能である。さらに、言葉には言い放しのところがあり、しだいに曖昧になり、やがては忘れ去られていく。
 ところが、一旦文章になれば繰り返しの必要はなく、一目瞭然に記録としてとどまることとなる。そののちは時を限らず、よくもわるくもさまざまなことに波及することとなる。これこそ、文章の恐ろしさであり、反面素晴らしさである。
 幸運にもきのうの場合は、流星群に書かれていた文章にちなんで、人それぞれに思いがけない素敵な記憶がよみがえっていた。言うなれば流星群がさずけた、和んだ人のつながりだった。
 このたびの「流星群、第40号」は、二十年の足跡を残す「記念号」である。この間、一度さえ欠けることなく編まれ続けてこられた大沢さまのご奮闘に報いる、半面発行者冥利に尽きるとも言える大賑わいぶりだった。期せずして、記念号を飾ったかのような大賑わいぶりだったのである。それは同時に、長く流星群にあずかり続けてきた私にも、とんでもない僥倖をもたらした大賑わいぶりだったのである。
 これにかかわった竹馬の友・ふうちゃんと、高校同級生・古閑さん、そして大沢さまのとりもつ御縁にあらためて敬意を表するものである。

「流星群」がとりもつ僥倖 

 12月12日(水曜日)、窓の外はいまだに真っ暗闇である。そして、このところの寒波を逆なででもするかのように、氷雨が降っている。そのせいであろうか? 郵便受けを覗いてもいまだ朝刊の投函なく、配達が遅れているようである。一瞬、(氷雨では、それもそうだろう…)と、配達人に同情を寄せた。現在の時間帯は、夜長にあって三時近くである。
 きょうは自作文にあらずして、突然遭遇した「ひぐらしの記」書き手冥利に尽きる、お二人様のご投稿文を並べて記し置くものである。もちろん、お二人様には事前のお許しを得ていないわが身勝手である。しかしながら私とすれば、記して置きたい僥倖である。そのため、この文章の表題には、お二人様のご投稿文にたいするわが思いを込めて、ずばり「『流星群』がとりもつ僥倖」と、付けた。
 【手紙】:ご投稿者:ふうたろうさん(ふうちゃん) ご投稿日:2018年12月11日・火曜日15時50分13秒。大沢さんから、送って頂いた、流星群(40号)を相良(あいら、ふるさとの集落)に住んでいる従姉に送りましたところ、次のような手紙が届きました。----------------前半略-------------前田さんや、あなたの執筆、大変楽しくなつかしく読みました。前田さんの義姉さんは、主馬おじさんの嫁さんの姪で、相良にある畑が、私の畑の側で、若い時から、畑仕事に行ったときに、会っておりました。そして、時間の経つのも忘れて、話し込んでいました。ミカンの缶詰工場でも、一緒だったし、知らない人から、「姉妹だろう」と、言われたこともありました。-------後半略-----------従姉は、本家筋の末娘で、ボクとは、6~7歳年齢差があります。ボクは、ブラジル(ご結婚ののちご夫妻で移住されていた)の主馬叔父とは、2回、会っただけで、叔母さんは、「相良から嫁に来た人」だということくらいしか知りませんでした。静良君の義姉さんが、叔母さんの姪とは知りませんでした。流星群のおかげで知らずにいた親族の知識を知ることができました。
 【嬉しい投稿】 ご投稿者:大沢さま ご投稿日:2018年12月11日・火曜日16時48分42秒。ふうたろうさん、いつもながら感激しております。「流星群」がきっかけで、家系のことまで知ることになる なんて、心温まる出来事ですね。ふうたろうさんの従姉様は、前田さんの義姉さんと姉妹のように仲良しだったのですね。そして、ふうたろうさんの叔父さんのお嫁さんの姪ごさんが前田さんのお義姉さんだったということですね。よくよく考えてやっと理解できました。早い話が、前田さんとふうたろうさんは、遠い遠い親戚ということになりますね。どうりで仲が良いはずです。
 【わが追記】義姉とは、わがふるさとの守り本尊・長兄の今は亡き奥方・フクミ義姉さんである。確かに、フクミ義姉さんの叔母さんは、ふうちゃんの伯父さんのお嫁さん・奥様である。ふうちゃんは知らないと思うからあえて記すと、フクミ義姉さんはわが亡き父の甥がもうけた長女である。そしてフクミ義姉さんは、わが父の長兄すなわちふるさとの兄のお嫁さん・奥方へと嫁がれたのである。このことではふるさとの長兄とフクミ義姉さんは、もともとの縁戚だったのである。「流星群」と「ひぐらしの記」のとりもつ縁にちなんで、人生の縁(よすが)を追記したのである。かたじけない。氷雨はまだ止まないだろうか。

寒がり屋の、泣きべそ 

 暖かい冬をのほほんと貪(むさぼ)っていたため、突如訪れている本来の寒い冬の寒さに困惑している。そのため、きのう(十二月十日・月曜日)にはこの先の寒さ対策をめぐらした。一つは、現行夜間に書いている習わしを昼間へ移行することである。一つは、ノートパソコンの便宜性にさずかり、エアコン装置のある一階の茶の間に持ち込んで書くことである。確かに、この二つは喫緊の寒さ対策と言える。ところがこの二つには、明らかに一長一短がある。そのため、これまでどおりエアコン装置の無い二階の部屋で夜間、寒さに耐えて書くかである。残された決断は、寒波の時季は書くのを止めるかである。しかし、寒波はこの冬にかぎらず、毎年こんな思いをたずさえてすでに十年、夜間に書き続けてきた。あらためてそのことを浮かべれば、現行の寒さに震えながらも夜間に書くのがいちばん良かったのであろう。確かに、寒さに負けて止めてしまうことはなさけなく、まずこの考えは放逐(ほうちく)しなければならない。
 昼間の自由時間はたっぷりとあるゆえ、昼間への移行は理に適(かな)っている。ところが、これにも弱点がある。それは買い物や細々した所要のため、気分が漫(そぞ)ろになることである。夜間における茶の間へのノートパソコンの持ち込みにもまた、気乗りしないところがある。この方策の最大の弱点は、テーブルにノートパソコンを置いて書くため、姿勢が悪く肩が凝(こ)ることである。つまり、どの方策も決め手なしである。だからと言って春を待つには長すぎて、どれかに決めなければならない。
 このためきょう(十二月十一日・火曜日)は、現在夜間に茶の間にノートパソコンを持ち込んで、温かくのんびりとキーの試し打ちをしている。確かに、これには温かいという一長の利便がある。ところが案の定、目の前のソファに妻が座し、テレビを観ている。そのため、懸念していたことだが気分を殺がれている。すなわち、この方策の明らかな一短である。結局、浮かんだ方策はいずれも万全とは言えず、もちろん定着は叶いそうにない。その挙句、元の木阿弥になりそうである。
 バカじゃなかろか、「春よ、こいこい、早くこい!」である。

寒気、到来 

 十二月十日(月曜日)、寒い冬二日目である。現在の時間帯は、真夜中の二時近くである。エアコンの無い部屋のわが身は冷えて、寒さを嘆いている。寒さに震える二階のわが身は、貧乏暮らしである。階下の茶の間にはエアコンがある。そのため、ノートパソコンの便利性をかんがみて、茶の間への持ち込みをめぐらしてみた。しかし、断念した。なぜなら、茶の間にはテレビがある。ときには妻ネズミがこそこそ動くため、気が散って書けないからである。書き殴りや走り書きにすぎないけれど、私の場合は、気が散ったら文章は書けない。能力ある人は、周囲がどんなに喧騒であってもスラスラと書ける。実際にも、新幹線や電車の座席に座りながら書く人はざらにいる。
 このことでは遠い昔の光景がよみがえる。それは勤務時代にあって、大阪支店に単身赴任していたおりの光景である。なお具体的には電車の通路を挟んで、相向かいの座席に座っていた人のおりなす光景である。中年から高年くらいと見受けした女性は、膝がしらへ俯いて寸刻の切れ目なく文章をつづられていた。まさに、工場の流れ作業を見ているような指さばきだった。私はあっけにとられ驚嘆し、ずっと見入っていた。この間、たぶん名の知れた作家であろうと思っていた。そして、名を知らず下車したのを悔やんだ。この光景の結論は、世の中には凄い人がいるものだ! と、いうものだった。他郷における単身赴任で、今なおほのぼのとよみがえる驚異の光景である。文章を書くのを得手にする人は、どんな環境でもスラスラと書ける証しであった。私の場合は望むべくもなく、望んでも叶えられるものでもない。だから、できれば寒さくらいには負けず書きたいところである。ところがそれさえできず、こんな愚痴こぼしをしている。
 朝の散歩めぐりの人たちとの挨拶は、きのうあたりから変わり始めた。具体的にはたがいに、「寒くなりましたね」、と変わった。この冬は、これまで暖冬で過ぎてきた。もちろん、寒さに極端に弱い私の場合は、暖冬に恵まれてきた。このこともあってか、きのうあたりからの寒さは、余計身に沁みている。しかし、冬本来からすればこれくらいの寒さは、いまだ暖冬の範疇であろう。それにさえ弱音を吐くようでは、この先の本格的な寒さが案じられるところである。
 こんな実の無い文章を書くよりは、さっさと茶の間へ逃げ込もう。そして、この先の寒さ対策に、しばし思案をめぐらすこととする。やはり、寒さに震えて書くまでもなかったのかもしれない。

国家予算における懸念 

 12月9日(日曜日)、これまでのほほんとしておれた暖かい冬は、一転寒さ厳しい夜明け前に様変わっている。ほぼいつもの時間帯に寝床から起き出してきた私は、思いがけない寒さに遭遇し身震いしている。こんなに寒くては起き出さず、寝床の中に夜明け近くまで潜っておるべきだった。だから、メディアが伝える配信ニュースの中で、懸念する項目の一つを引用し、布団の中へとんぼ返りを決め込んでいる。
 【防衛費総額、5年で27兆円へ】(12/8・土曜日20:19配信 共同通信)。「政府は、今後の主要装備品を含む経費総額が示される次期中期防衛力整備計画(中期防)を巡って、2019年度から5年間の防衛予算総額を27兆円台とする方向で調整に入った。中期防単位では現行(14~18年度)の約24兆7千億円から2兆円超の大幅増となる。政府関係者が8日、明らかにした。今後、政府は地上配備型迎撃システム『イージス・アショア』など米国からの高額装備導入を進める。防衛予算拡大への懸念が強まりそうだ。防衛費増の背景は、トランプ米政権による高額装備品の購入圧力があるとみられる。」
 この記事を読んで、背筋がいっそう冷えてきた。次の起き出しは、道路の掃除へ向かう夜明けの頃(6時半)になる。