ひぐらしの記
 
前田静良 作 


 2014.10.27カウンター設置
以前の作品は右掲載の単行本に収録しました。
 
内田川(熊本県・筆者の故郷) 富田文昭さん 撮影 

「七五三」 

 十一月十五日(木曜日)、夜間、ほぼいつもの時間に起き出して、キーボードへ向かっている。ところが、部屋の中は冷え切っており、たちまち心身が萎えてしまった。いよいよ、望まぬ寒波がやってきたのか。余儀なく、寝床へのとんぼ返りを決意している。その前に、メデイアが報じる配信ニュース項目に目を通した。それらの中では、北朝鮮による拉致被害の未解決が、あらためてわが身にも堪えた。被害者そして被害者家族共に絶え続けて、41年にも及ぶという。ほんとうに、どうなっているのか? と思う。一方で、日・ロ両首脳の会談記事の項目があった。こちらも、記事を読むことはしなかった。しかし、これまたどうなっているのか? と思う。
 北海道ではきのうあたりから、ことしの初雪が舞い始めているという。過去二番目に遅い初雪だという。きのうの昼間の鎌倉地方は強風にさらされた。私は、てっきり「木枯らし一号」かと、思った。しかし、気象予報士の言葉にそれはなかった。
 きょうの日本社会は、華やぐ「七五三」である。夜明けの空模様はいまだわかりかねるけれど、小春日和であってほしいと、願っている。不意の寒さに耐えきれず、とんぼ返りでわが身大事のなさけなさである。

 「団子(だご)」作りの恵み

 十一月十四日(水曜日)、夜長をいいことに、のんびりと夜長の夜遊びを試みている。先ずは、開くまでもない電子辞書を開いて、「団子」を見出し語に置いた。 【団子】「穀類の粉を水でこね、小さくまるめて蒸かしまたはゆでたもの。付け焼きにし、または餡や黄な粉などをつけて食べる」。
 この説明によれば団子の作り方は、三つに分けられている。これらの中で、これまで馴染みないものがある。それは三番目の付け焼きである。そのため次には、試しに「付け焼き」を見出し語に置いた。すると、その説明書きはこうである。「魚肉や獣肉に醤油などを塗って焼くこと。また、その焼いたもの。てりやき」。
 この説明書きを読んでも、団子との関連が浮かばず、しばし脳髄をめぐらした。すると、好物の一つとして、行きつけの「西友ストア大船店」(鎌倉市)でよく買う、「みたらし団子」と「草団子」が浮かんだ。そうか、確かにあれも団子だな! と、納得した。
 子どもの頃、ふるさと(現在熊本県山鹿市菊鹿町)にあっては、団子のことを「団子(だご)」一辺倒に、言っていた。ところが現在は、ごちゃまぜで言われているようである。確かに、これには必然性がある。それは、あんずの丘(市役所の菊鹿町支所のある広場)、JA(農協)の売店、さらには街道筋の道の駅などで、他郷の買い物客が増えているせいである。そのため、それらの店で並んでいるものには団子表示が通例である。家庭の中でも代替わりして、おそらく「だご」という、言い習わしは廃れつつあるであろう。
 どう言おうが、こんなことはどうでもいいことではある。しかし私は、郷愁にとりつかれてこの文章では「だご」と表示する。なぜならそれが、今なおしっくりくるからである。
 電子辞書の説明によればだごの作り方は、蒸かすものと茹でるものに二分されている。ところが、亡き母の作り方を想起すれば、蒸かしたものは「饅頭(まんじゅう)」と言い、茹でたものは「団子(だご)」と、言っていた。そして、饅頭にはソウダを用いていたので、ずばり「ソウダまんじゅう」と、言っていた。
 ソウダまんじゅうで唯一よみがえるのは、小豆餡を包(くる)んだソウダまんじゅうだけである。一方、茹で作りのだごには、次のようなものがよみがえる。真っ先に浮かぶものは、この秋には八度も作った「栗だご」である。これに加えて、里芋を包んだ「芋だご」、小豆餡を包んだ「小豆だご」、そしてからいも(さつまいも)を包んだ「からいもだご」などがある。
 これらを包む材料はすべて小麦粉である。さらには茹でだごの一つとして、こねた小麦粉を文字どおりベロ(舌のうように平らに伸ばした)の形にしただけの「ベロだご」がある。これには何も包まず、おおむね焼いて生醤油を付けるか、黄な粉をふりかけて、食べていた。これこそ、「付け焼き」だったのである。さらに、春先のフツ(ヨモギ)の芽吹きどきには、小豆餡のだごが作られた。ところがこれだけは小麦粉ではなく、くだけと言っていたもち米をくだいた粉で包まれていた。
 「団子(だご)」と「餅だご」の違いは、包む小麦粉ともち米の違いであった。餅には、ときにはわが嫌いな「粟餅」もあった。餅だごは、おおむね小豆餡一辺倒だった。
 きのう(十一月十三日・火曜日)、わが家は夫婦和んで、芋だごを作った。このときのわが言葉は、「だごを作っているときは、喧嘩しないで済むからいいね!」、だった。確かに、ふるさとの味、おふくろの味は、味覚に加えて老夫婦にひとときの和みをもたらしている。

 嗚呼、難聴

 人生は体験してみて、初めて知ることの繰り返しである。私自身、このことを痛切に感じているのは、難聴になってからである。特に最近は、難聴にとりつかれたことを恨めしく感じている。具体的には難聴のせいで、人様との会話の楽しみが減り、あるいは奪われている。その挙句には人様との交流が不自由になり、途絶えがちにもなっている。確かに、人様との交流の途絶えは、人生最大の損失である。現在の私は、職業に就いている身ではない。このため、人様との交流はごく限られている。日常的に相対し、必然的に会話を要するのは妻だけである。ところが妻は、娘宅へ泊りがけで出かける日数が多い。そうなるとまた、必然的にわが独りの生活になる。
 幸いかな! 耳用無しでも済む日が増えている。私はテレビを観なければ一日がもたないというほどの、テレビ爺(じじい)ではない。もちろん、テレビ視聴には耳があることに、越したことはない。しかし現代の世は、文字放送は充実してなくても済む。実際にも不断のわがテレビ視聴は、音声に付随する文字にすがりがちである。テレビ視聴自体、ながら族である。いくらか決めてリモコンを操る番組は、スポーツ番組である。本来、スポーツは目で楽しむものである。このため私は、スポーツ番組あっては音声を消しがちである。
 スポーツ番組以外に決めてよく観るのは、NHK朝のテレビドラマ「まんぷく」くらいなものである。しかし、このときの私は、耳で聞く音声でなく、目で見る文字に頼っている。次によく観るNHK夜の七時台のニュースもまた、文字機能にすがっている。どちらかと言えば、担当の鈴木菜穂子アナウンサーの笑顔に魅かれて観ているだけで、音声不要である。こうしてあらためて記してみると、案外難聴は気に病むことでもないようにも思えてくる。
 しかし、やはり気に病むことがある。その一つは、妻が留守中の茶の間での独居生活のおりにこうむっている。それは、玄関口に取り付けのブザー音を茶の間で聞き取れないことである。このことになぜ気を病むかと言えば、もちろんブザーを押される人様に迷惑をかけしているからである。それらの多くは、宅配便(人)と郵便物(人)である。宅配便で、予(あらかじ)め到着日がわかっているときは、ブザーが鳴るまで両耳に集音機のイヤホンを嵌(は)めて構えている。ところが、いつブザーが鳴るかわからないのに、終日構えていることには緊張感をともなってきわめて厄介である。そのため、ブザーが鳴って宅配便を受け取ると、ほっと安堵していっぺんに気が緩む。そののち、ようやくわが普段の日常生活が始まることとなる。
 宅配便のうちで予め到着日が予測できているものは、一応このような対応できる。ところが、これ以外の宅配便と郵便物は、配達通知の紙片を頼りに、ほぼ二度手間をおかけすることになる。そのため、二度目の配達のおりは、平謝りを余儀なくしている。しかしながらこれらは、人様に迷惑をかけるだけで、私自身の楽しみを失くすことはない。
 すると現在、難聴によりわが楽しみを奪われている最大のものには、卓球クラブの親しい仲間の人たちとの会話がある。卓球クラブの人たちとの出会いは、水曜日定例に加えて、随時の土曜日と日曜日があり、つごう週三度もある。職業をもたず人様との交流が途絶えている私にとって卓球クラブは、唯一親しく会話を楽しめる絶好の機会である。ところが、わが難聴のせいでままならなくなり始めている。結局、このことがわが難聴のもたらす、最大かつ最悪の機会損失である。
 これを防ぐには補聴器購入にすがる便法がある。ところが私は、このところの医療費出費の多さに驚いて、補聴器の購入をためらうばかりである。しかし、そろそろ決断するときがきているのかもしれない。それを遮(さえぎ)るのは、意志薄弱、三日坊主、そして優柔不断という、わが生来の悪癖の三点セットである。加えて現在の私は、生活費の欠乏に怯(おび)えている。もちろん、決して耳を悪ものにしてはいけない! わが甲斐性無しの「身から出た錆」である。

夫婦和む季節 

 鼻炎症状が長引いており、すっきりしない日が続いている。天候もこれまでは、晴れわたる秋晴れに恵まれず初冬を迎えている。幸い、厳しい寒さは免れている。この点では、可もなし不可も無しの日めくりと言えそうである。十一月も早や中旬に入り、きょうは十二日(月曜日)であでる。わが買い物行きつけの野菜と果物の安売り量販店「大船市場」(鎌倉市)には、柿では後順位に現れる富有柿が目立ち始めている。温州ミカンは、すでに最盛期を過ぎつつある。
 今年の実りの秋にあっては、幸運にも栗団子を間断なく食べることができた。そのしまいにあって妻は、とうとう「パパ。栗団子、飽きたわね!」と、つぶやいた。すると私は、この言葉を恐れて間髪を容れず、
「そうか。おれはとても幸せだったよ。ありがとう」
 と、言った。
 柄でもなくこんな殊勝な言葉が素直に出たことに、われながら感嘆と驚きをおぼえた。それほどに私は、栗団子を堪能したのである。しかしながらこの言葉には、わがさもしい魂胆が隠されていたのである。すなわち私は、今年の栗団子三昧が、来年に繋がることを望んでいたのである。このことでは決して褒められる言葉ではなく、我欲まみれだったのである。栗の出始めから影を潜めるまで、わが夫婦は栗団子づくりに感(かま)けていたのである。この秋のうれしい誤算だった。
 栗団子を打ち上げると温州ミカン三昧になり、そして現在の私は、柿腹を肥やし続けている。果物は目白押しと言うか味覚甲乙つけがたく、ちょっぴり時期をたがえて切れ目なく出回ってくる。これらの中でも妻は、「わたし、やっぱり柿が一番好きだわ!」と言う。これには私も、「おれも、そうだね!」と、相槌を打つ。しかし、本当のところ私は、栗を食べているときは栗が一番、蜜柑を食べているときは蜜柑が一番、そして柿を食べているときは柿が一番である。つまり、栗、蜜柑、柿にかぎらず、葡萄、梨、桃、そのほかの物でも、食べているときにはそれぞれ一番である。この世に生まれてきてよかったと、思うことはほとんどない。しかし、実りの秋にありつけるときだけは例外である。
 わが家の買い物は、わが専売特許である。買い物のたびに現在は、温州ミカンや柿を大きなリュックに詰め込んでいる。業(ごう)を煮やした妻は、「パパ。そんなに買って来て、どうするの? 腐るじゃないのよ!」と、小言を言う。私は、「腐らないよ。おれが食うんだ。おまえは、食わなければいいよ!」と、言葉を返す。すると妻は、大慌てで「わたしも、食べるわよ!」と言って、眼を怒(いか)らす。せっかくのわが好意にケチをつけずに、好きなものを鱈腹食べればいいのにと、私は思う。しかし、実りの秋は夫婦和む季節である。

謝辞 

 きのう(十一月十日・土曜日)には、現代文藝社(大沢さまご主宰)から、直近の「ひぐらしの記」の単行本と版下が届きました。いつも同様に、甚(いた)く感謝の思いを込めて、開封いたしました。私もそうだが世の中には、一冊の単行本の出版を終生の目標にして、結局叶わずじまいで最期を迎える人ばかりです。幸運にも叶えた人であっても、その多くは多額のお金を費やしての自費出版です。
 ところが私の場合は、寝ぼけまなこはもとより、走り書き、書き殴り、さらには愚痴こぼしまみれで書こうが、大沢さまのご厚意ですぐさま単行本にあずかっています。なんという幸運児であろうか、いや、幸運爺であろうか。このことだけも私にとっての大沢さまは、崇(あが)め続ける女神様です。
 今回、お送りくださったのは、第72集「夜来の雨」です。これからは、わがしでかしたミスの校正作業にとりかかることになります。ところがこの作業は、まるで裁判沙汰の被告席に立ったような、きわめて気の重いものです。毎度、その思いをどうにか打ちのめすのは、大沢さまへの感謝の気持ちからだけです。もちろん、大沢さまへの感謝に加えて、常に感謝の気持ちをたずさえているものもあります。それは今さら記すまでもないことですが、拙い文章を読み続けてくださっているご常連の人たちへの感謝です。
 きょう(十一月十一日・日曜日)は、感謝の気持ちだけをお伝えして、文章を閉じようと思っています。しかしながら、このことだけは書き添えます。一つは、大沢さまのお便りに「口内炎はおさまりましたでしょうか」と、お気遣いをたまわっていました。なので、幸いにも「現在は治っております」と、記します。もう一つは読者共通の喜びであり、そのため書き添えます。お便りによれば、ご主人様の体調の快復と共に、大沢さまも元の日常生活にお戻りのようです。このことは、きわめてうれしいお便りでした。
 初冬の候、この先しだいに寒さが厳しくなりますが、大沢さまご夫妻はじめ、ご常連の人たちのつつがなきことを切に願っています。 謝辞

嗚呼、わが難聴 

 目覚めて、ふと浮んだ言葉の正否(適否)を、いつも枕元に置く電子辞書を開いて確かめた。「空返事(からへんじ):相手の言うことを聞かず、いいかげんに返事だけすること。うわべだけの返事。生返事、そらへんじ」。すると、わが思いと当たっているところもあるけれど、違っているところもある。私の場合、違っているところはいい加減に返事しているわけではなく、耳を欹(そばだ)て目を凝(こ)らし、真摯(しんし)に返事している。ところがその返事は、相手の人には頓珍漢になりがちである。いや、実際にも多くは頓珍漢になっている。ときには、当てずっぽうに返事をしている。これは、黙りこくって会話を切らさないための必要悪の返事である。もちろん、私にはまったく悪意はない。しかし、相手の人は怪訝(けげん)に思われて、その挙句、不愉快きわまりないであろう。
 これを防ぐために私は、心してあらかじめ一つの言葉を添えている。その言葉は、「私は難聴ですから、失礼になるところがあるかもしれません」。この言葉に似た言葉を必ず初めに添えるのは、パソコントラブルなどに見舞われたとき、コールセンターの人とのやりとりである。具体的には、「すみません。私は強い難聴ですから、大きなお声でお願いします」。
 最近、道路の掃除に立って気を揉んでいることには、こんなことがある。それは立ち止まって挨拶を交わす人へではなく、ちょっぴりお顔見知りの人への対応である。先方から歩きながら挨拶言葉を投げかけられていても、おそらく私は、その言葉に気づいていない。すると、せっかくの好意が徒(あだ)となり、私はその人に朝っぱらから不愉快な思いをさせていることとなる。もちろん、わが意に反しお里の知れるところでもある。もちろんこのことは、厳に慎まなければならない。そのため、現在のわが大きな悩みとなっている。それを防ぐには、お顔見知りの人にだけには、あらかじめこんな言葉の投げかけが浮かんでいる。「私は難聴ですから、気づかず返事をしていないかもしれません。申し訳ありません」。実際のところ、告げていたほうがいいのかな? と、気を揉んでいるのである。
 ところが、この言葉は挨拶を強要しているようであり、野暮な言葉でもあり、もちろん実践するほど私は愚か者ではない。つまりは、難聴がもたらす道路上の大きな悩みとなっている。妻との会話も、頓(とみ)に不自由をきたしている。その挙句、妻との多くの会話は、ずばり電子辞書どおりの「空返事」になりかけている。このところの妻は、わが難聴に配慮して大きな声でしゃべっている。それでも聞き取れないとしまいには、夫婦仲たがいの不穏な状況にさらされる。すると私は、それを嫌って早々と茶の間を切り上げて、二階のパソコン部屋に籠る羽目となる。結局、わが難聴は、会話というわが最大かつ最高の楽しみを奪っている。
 くだらないことを走り書きしたから、一度読み直しても三十分足らずの文章で済んだ。きょう(十一月十日・土曜日)、休もうと決め込んでいたせいだけど、「生煮え」の文章である。ほとほと、かたじけない。

 春夏秋冬・思い出の数々、吊るし柿

 十一月九日(金曜日)、夜中の一時前に目が覚めて、馬鹿じゃなかろか! 起き出してきた。夜長にあって、たっぷりと執筆の時間はある。それをいいことに私は、メディアが報じる配信ニュースをほぼ読み尽くした。そして、きょうは何を書こうかな? と、凡庸な脳髄を揺らした。すると脳髄は、すぐにお二人のやりとりのこのことを「ひぐらしの記」に転記しなさい! と、促した。確かに、そうだ! 私は得たりやおうとばかりに納得した。なぜなら、ひぐらしの記は春夏秋冬にあって、胸中に浮かぶ思い出を記すブログでもある。
 この二日にわたり私は、季節に応じた思い出を書いた。それらを再び記すと、立冬(十一月七日・水曜日)にあっては、過ぎ行く晩秋を惜しんで「椎の実拾い」のことを書いた。そして、立冬が過ぎたきのう(十一月八日・木曜日)には、初冬と名を変えて「焚きもんとり(薪取り、拾い)」のことを書いた。続いてきょうは、これまた初冬の懐かしい「吊るし柿」の思い出である。しかしこれは、わが脳髄がもたらしたものではなく、お二人のメールのやり取りから想起された思い出である。ところが、お二人からさずかった思い出とはいえ、夜なべして吊るし柿作りに勤(いそ)しむ母の面影を偲ぶには十分だった。
 お二人とは、大沢さまとふうちゃん(ふうたろうさん)である。ふうちゃんの場合は、ひぐらしの記に登場のたびに、短くプロフィールを紹介している。すなわち、ふるさと(熊本県山鹿市菊鹿町)を同じくする、かけがえのない竹馬の友(同級生)である。ところがふうちゃんは、ご両親亡きあとはふるさとと縁切りし、現在は大阪府枚方市に終(つい)の棲家を構えて、悠々自適の暮らしぶりである。現下の日本社会にあっては、個人情報の公表は慎まなければならない。そのため、ちょっぴりの付記に留めれば、現役時代のふうちゃんは大阪府警の辣腕刑事だった。そして、お伴される見目麗しい奥様は高知県のご出身である。ベランダに吊るされている「吊るし柿」光景は、ご夫妻相和しての手作りであろう。私は、異郷にすっかり馴染んだ竹馬の友・ふうちゃんにたいして、この文章をつづることで届かぬ拍手喝采を送っている。 【ふうたろうさんの優しさ】(ご投稿者:大沢さま ご投稿日:2018年11月8日・木曜日05時42分36秒)。昨日ふうたろうさんさんから「秋の日に……」と題してメールが届いた。写真も添えられていた。読み進むうちに胸がいっぱいになった。ふうたろうさんの思いを分かち合いたくて、掲示板に転載させてもらうことにした。「大沢様 お袋の形見に植えた木だったのに、親父が勝手に切り倒した『ミモダの木』、紀元(杉紀元君・ふるさとの同級生)と再会記念に植えた、『実が成熟しないで落ちてしまう柿の木』、・・・あの場所から、一刻も早く、逃げ出したかった。あの庭先の風景が、『望月窯だより』を読んでい
ると、ほろ苦く、甦ってきます。もう、親も、叔父叔母も、皆、死んでしまった。従兄姉も、高齢になった。ボクを覚えていてくれる里人は、ほんの数人だけになった。あの場所は、遠いとおい所になってしまった。そして、あの庭先に行くこともなくなってしまった。でも、まだ、かすかな繋がりがあり、今日、従姉が渋柿を送ってくれた。子供のころは見向きもしなかった、その柿の皮を剥き、ベランダにぶら下げた。 ふうたろう」。
 生家を「あの場所、あの庭先」と呼ぶふうちゃんの切なさは、ふるさとにお住いの従姉様の情愛が詰まったふるさと便が、こよなく癒してくれているだろう。(写真付き)。

初冬の思い出 

 十一月八日(木曜日)、就寝中にあって、しばし鳴りを潜めていたカラス曲がり(こむら曲がり)に襲われた。この間、ずっとエネルギーを溜め込んでいたのか? と、思いたくなるほどの強烈な痛さだった。まるで、鳴りを潜めていた火山が、突然噴火したかのような脅威だった。まさしくわが身は、一寸先は闇の中にある。
 腓(こむら)と脹脛(ふくらはぎ)は同義であり、その部位が突然引き攣(つ)る症状である。この症状は文字どおり「腓曲がり」と言われたり、またなぜか「カラス曲がり」とも言われている。私の場合は、子どもの頃からカラス曲がりと教えられてきた。
 突然、安眠を妨(さまた)げる厄介で、かつ痛い就寝時の症状である。就寝さえ脅(おびや)かされるようではおちおちできず、私は和らぐまで人生の安寧を殺がれたような気分に陥っている。
 きのうの立冬にあって私は、未練がましく晩秋の思い出を一つ書いた。再び記すとそれは、里山に入っての椎の実拾いである。これに準(なぞら)えてきょうは、初冬の思い出を浮かべている。夏の間の思い出の多くは、ふるさとに一筋流れている内田川からよみがえる。しかしながら冬季にあっては、内田川からの思い出はお蔵入りである。すると、内田川に代わる思い出の多くは里山が恵んでいる。
 初冬の時季にあって、それらの中から真っ先によみがえるのでは、「焚きもんとり(薪拾い)」がある。初冬は、里山にあっては枯れ枝や枯葉の季節である。これを狙って家事手伝いとして私は、枯れた枝取り、さらには枯れた杉の葉や落ち葉拾いに出かけていた。枯れ枝や杉の葉は、風呂沸かしに用いられていた。そして落ち葉は、堆肥づくりに積み上げられていた。どちらも、貴重な家事手伝いとなっていた。そのため、ちょっぴり汗をかく程度で、みずから率先した苦にならない家事手伝いだった。子どもの頃の私は、農家の子どもであればだれもがしていた、さまざまな家事手伝いを体験した。今では懐かしい思い出であり、同時にわが現在の日常生活にことごとく役立っている体験である。

立冬 

 なんと、真夜中の一時頃に起き出してきた。そして、母校・中央大学の応援団の演技を動画でたっぷりと観た。女子学生のチアー応援と共に、若人(わこうど)の躍動する動画だった。テレビでは放映されない、パソコンの恩恵にさすかるものだった。
 このところはユーチューブ動画の充実により、私には頓(とみ)に新聞やテレビ離れが続いている。そして、今やわが日常生活にあっては、パソコンとの向き合いで多くの時間が割(さ)かれている。後悔先に立たず、今さらでは年寄りの冷や水にすぎない。
 パソコンの便宜性にすがり、新たな日課に加えたものがある。すでに何度か書いたけれど、再び書けばこのところの私は、メディアにおける外来語のカタカナ表示の多さに面食らっている。そのため私は、新たに英単語の復習や勉強を試みている。このための教材は、さまざまな形でパソコンの中に存在する。もちろん、今さら目覚めても何の役にも立たない。だから、しいて言えばわが記憶力のテストである。日本語の語彙の忘却阻止と新たな習得を生涯学習に掲げているかぎり、カタカナ文字の学習も類縁であろう。このことが発意である。生来、私には意志薄弱と三日坊主の性癖(悪癖)がある。そのため、この先いつまで続くかおぼつかなく、まったく不明である。今のところ三日は乗り越えて、ひと月近く継続中である。実際には片手に電子辞書を持って、一日に三時間程度はこれにとられている。もちろん、暇つぶしを兼ねているため、受験生当時の意気込みはさらさらなく、合間にのんべんだらりとパソコンに向き合っている。しかし、嫌いな数学ではないので苦にならず、ひとり遊びのレジャー代わりに黙然と、パソコンに向き合っている。こんな、いつまで続くかわからないことはどうでもいいことだけど、夜長にあってネタがないため書いただけである。カラスに、「アホウ、アホウ」と、鳴き蔑(さげす)みされそうなお笑い種(ぐさ)である。
 さて、感覚的にきのうまでを晩秋と言えば、きょうはカレンダー上に明記されている「立冬」(十一月七日・水曜日)である。晩秋と立冬、季節の変化はもとより、私は言葉の響きの違いに唖然としている。具体的には、こんな違いを感じている。すなわち、晩秋には心の和む暖かさがあり、ところが一日違いで、立冬には身が縮む寒々しさがある。立冬、いよいよ冬の玄関口が訪れたのである。もちろん私には、つらい季節の始まりである。
 遅まきながら、子どもの頃の晩秋の思い出を浮かべている。すると、真っ先によみがえるのは、里山に入って椎の実拾いに興じたことである。森閑とした山の中で、落ち葉の上に点々と散らばっていた小さな椎の実を、一つずつ拾っては花籠に入れた。嬉々(きき)として小走りでわが家へ帰ると、母がニコニコ顔で迎えた。
「いっぱい、拾って来たばいね」
「まだ、少しは落ちてるばってん、早よ、帰ろうごつなったもんじゃけ…」
「これだけあると、ええたい…」
 母は、すぐにフライパンで炒(い)った。椎の実を食べたことがない人は、その美味さを知らず、哀(あわ)れである。妻に尋ねても、食べたことはないという。憐(あわ)れである。晩秋の野山は、田舎育ちの者にとっては思い出の宝庫である。穫り残された熟柿(じゅくし)に群がる小鳥の風景は、目で癒されていた原風景である。冬の始まりにあってよみがえる思い出は、炬燵(こたつ)周りからである。

 「天声人語」から借りた鎌倉情報

 十一月六日(火曜日)、夜明けの薄明りの中で、玄関灯は点けたままに玄関口から門口に出た。そして、わが掃除区域へのんびり進んだ。この行動は、道路の湿り具合を確認するためだった。案の定、落ち葉はあちこちに汚(きたな)らしく散乱している。いつもであればすぐに引き返し、箒、塵取り、半透明の袋という、掃除三用具を持ち出して掃除を始めるところだった。しかし、道路が濡れていて、またもや今朝の掃除は諦めた。このところ二日ほど道路が濡れているため、掃除ができない日が続いていた。それはそれでありがたいところはあったけど、晩秋らしいさわやかな天候に恵まれていない証しでもある。
 確かに、過ぎた文化の日(十一月三日・土曜日)は、気象庁の過去データに背かず、昼間はすっきりと晴れた。ところが空模様は、夕方になるにつれて怪しくなった。そののち、ぐずついた小雨模様が続いている。この間、夜明けのひとときには、朝日が昇る日もあった。しかし、まもなく小雨模様になった。すると、このときの私は、「女心と秋の空」という、場違いのフレーズを胸中に浮かべていた。
 すっかり、夜が明けた。やはり、朝日は見えず、今にも雨が降り出しそうな雲行きである。さて私は、きょう付け(11月6日・火曜日)の朝日新聞朝刊コラム・「天声人語」の引用を試みている。言うなれば、わが出不精のせいで紙上から借用した晩秋の鎌倉情報である。
: 秋の盛りのイチョウの美を先週、この欄で取り上げた。「私の街ではイチョウの黄葉が見られません」。愛知県と和歌山県の読者の方から電話をいただいた台風による塩害で枯れてしまったという。▼24号は9月末、列島を低速で縦断。その影響が鹿児島や兵庫、静岡など各地のイチョウに表れた。「これほど広範囲で被害を受けるのは珍しい。10年か20年に一度という現象です」と樹木医の小林明さん(67)は話す▼典型的な「風」台風だった。海の水を巻き上げ、沿岸各地に吹き散らす。台風の去った直後から雨が降らず、イチョウの葉から塩分が洗い流されなかった。このため葉が「脱水症状」を起こし、色づく前に枯れ落ちたという▼イチョウの美しい神奈川県鎌倉市をきのう歩いた。例年ならまもなく黄葉する時期である。だが今年は違う。1本の木で、海風を浴びた側の葉だけが茶色くしおれ、反対側は夏の緑色のまま。木々に広がるまだら模様が痛々しい▼残念ながら、塩害をこうむった葉に秋の彩りはもはや望むべくもない。鶴岡八幡宮の境内では、生気を失った葉の間から新芽が吹いていた。季節をたがえて顔をのぞかせたらしいが、冬はとても越せそうにない▼それでもイチョウはたくましい。幹は太く、寝はどっしりと大地に張っている。樹齢100年、200年という大木なら、塩害などこれまで幾度も乗り越えてきたはずである。来年のいまごろは、黄金色を全身にまとい、秋を実感させてくれるにちがいない。

 切ない晩秋の空模様

 「文化の日」(十一月三日・土曜日)は、気象庁の過去データに背かず晴れた、ところが、明けのきのう(四日・日曜日)は、生憎(あいにく)の小雨模様で肌寒い一日だった。あえて、あいにくと記したことには二つの理由がある。文化の日を挟んで多くの学び舎では、学園祭や文化祭が行われている。これらは、体育祭や運動会と相並ぶ年に一度の華やかな祭典である。おのずから期間中のキャンパスには、当校の生徒や学生のみならず、他校や父兄の見学者が訪れる。するとキャンパスは、往来する人がごった返し大賑わいとなる。
 大賑わいの光景の一つには、部活費を稼ぐにわか作りのさまざまな屋台が並んでいる。そして、部員は玄人(くろうと)の香具師(やし)さながらに、呼び込みの大声を張り上げている。言うなれば咎(とが)めの無い、体(てい)のいい客引き光景である。もし仮に私が出向けば、女子学生の愛くるしい切ない声に釣られて、味覚などそっちのけにして次々に頬張ることになる。ところが、きのうの雨は大賑わいにちょっぴり水を差したであろう。確かに、お祭り騒ぎにあって、雨降りほど憎たらしいものはない。そのため、私は空模様を眺めながら同情心をつのらせていたのである。
 遅まきながらもう一つの理由は、わが身にかかわる直接的な心配と同情だった。この日の妻は、日帰りのバスツアーで甲州ブドウ狩り(山梨県)へ出かけた。もちろん、私も誘われたけれど、つれなく断った。このツアーのもともとの発端は、娘と孫の誘いだった。本当のところは、妻も渋々の参加だった。このことでは妻にたいし、少なからず同情するところがある。結局、娘たちの誘いに乗ったのは、断り切れない義姉と妻だった。その挙句には、いずれの配偶者の同行の無い女性四人の旅だった。妻のバスツアーは年振りともわからない、いや孫(十一歳)は初参加だから、十一年以上は間遠(まどお)のものだった。そんなおり、あいにく肌寒い小雨模様に遭遇したことにたいし、私は四人を慮(おもんぱか)って気を揉んでいたのである。
 今朝(十一月五日・月曜日)の夜明けの空は、寒気を遠退けてのどかに晴れている。きのうには小雨を降らした恨めしい晩秋の空模様である。

 過ぎた「文化の日」

 きのうの「文化の日」(十一月三日・土曜日)は、過去の気象データに背かずのどかに晴れた。しかし、夕方の西空には待ちわびていた夕焼け雲は現れなかった。待ちわびていただけに、いくらかがっかりした。そして、夕焼け雲は待ちわびるものではないと、気分を直した。夕焼け雲はたまに現れ突然それに気づいてこそ、童心返りにみちびかれて興趣つのるものであろう。その証しは、直近の大沢さまのご投稿文が如実に示している。確かに、おとといの大沢さまのご投稿文は、まぎれもなくその証しだった。
 「『夕焼け雲』: 私は千昌夫の『夕焼け雲』の歌が好きだ。昨日の夕方、二階の私の部屋から見える町の空は、真っ赤に燃えていた。まさに、夕焼け雲の情景である。思わず窓辺にたたずみ、赤く染まった彼方の空をながめていた。今は亡き父母、弟との思い出がよみがえってくる。夕焼け雲に誘われてどこまでも歩いて行きたくなる。父や母や、弟に会えそうな気がする。いくつになっても恋しさはつのるばかりだ」。
 まさしく、抒情詩を詠むような夕焼け雲情景礼賛の文章である。ところがこれこそ、突然出合えたことで急いでカメラで撮り、しばしの感興に浸れた証しでもある。だからこれにこそ、待ち構えて撮ったものではない情景の清々しさが伝わってくる。私には老心を童心返りに触発されたありがたいご投稿文だった。

 きょうの文章はここでおしまいにしたいところである。しかし、蛇足ながら以下の配信ニュースを引用し、記録に留めるものである。【ソフトバンク2年連続日本一、広島またも届かず】(2018年11月3日 22時7分 読売新聞)。プロ野球の「SMBC日本シリーズ2018は3日、広島市のマツダスタジアムで第6戦が行われ、福岡ソフトバンクホークスが2年連続9度目(南海、ダイエー時代を含む)の日本一に輝いた。パシフィック・リーグ2位から勝ち上がったソフトバンクは、2―0でセントラル・リーグ覇者の広島東洋カープを破り、対戦成績を4勝1敗1分けとした。工藤公康監督は就任4年目で3度目の日本シリーズ制覇となった。広島はセ・リーグ3連覇を果たして1984年以来の日本一を目指したが、またも届かなかった。」
 わがファンとする阪神タイガースの出ない日本シリーズには、まったく興味なく一度さえのテレビ観戦もしないままである。なぜなら晩秋は、空や野山に自然界のおりなす風景に魅せられ、それを十分に堪能すればことたりるからでもある。

 「触発」果たせず

 「文化の日」(十一月三日・土曜日)、ほぼいつもの時間に起きて、キーボードへ向かっている。壁時計の針は三時あたりを回っている。晩秋の夜長にあって、物思いに耽るには絶好の時間帯である。執筆時間に追われて、焦ることもない恵まれた時間帯でもある。ところが、雑多な物思いだけが絶え間なく堂々巡りをするばかりで、文章にしたくなるものは何もない。いやこれは、いつもとほぼ同じ状態である。ところが、いつもであれば何かを無理やり浮かべて、どうにか実の無い文章を書いてきた。しかし、きょうはそれさえできそうにない。実際のところは、書けない、書きたくないほどに、気力喪失に見舞われている。苦しい胸の内の吐露である。こんななさけないことを書くようでは、もはや「ひぐらしの記」は打ち止めにきている。そして、書けば愚痴こぼしになるわが文章である。
 さて、現在のわが心中には、「触発」という言葉が浮かんでいる。あえて電子辞書を開くまでもない、きわめて簡単明瞭な日常語である。しかし、気分鎮めに開いた。触発:「①ものに触れて爆発・発動すること、②感情・衝動・意欲などを誘い起こすこと」。
 だれもがわかりすぎている言葉を電子辞書にすがったのは、こんな理由からである。もちろん、わが意図したものは②の説明文である。きのう(十一月二日・金曜日)の掲示板には、大沢さまから心の和むご投稿文があった。ご投稿文の内容は、ご自宅の窓からふと眺められた「夕焼け雲」にまつわる追懐だった。ご投稿文には文章による情景にかぎらず、晩秋の夕焼け雲風景を咄嗟にカメラで撮られた、二枚の写真が添えられていた。もちろん、出来栄えの良いカラー写真である。そのため、本当のところはこの文章に添えたい写真である。しかしながら惜しむらくは、この文章に借用してもカラー写真にはなり得ない。すると、素敵な夕焼け雲風景が興(きょう)に乗り切れない。やむなく私は、文章だけで伝えている。
 私は、大沢さまのご投稿文と二枚の写真に甚(いた)く「触発」されたのである。それは、夕焼け雲にまつわる童心返りだった。夕焼け雲は、わが子どもの頃の原風景だったのである。実際のところ往時の私は、夕焼け雲を眺めながら隣近所の遊び仲間との遊びを切り上げていた。別れの言葉は「また、あした」、そしてそのしぐさには、だれもが「あした、天気になあーれ…」と言って、履いていたゴム草履を空高く飛ばしていた。ゴム草履が表になるか、裏になるかでのあしたの天気占いだった。このほか、夕焼け雲にまつわる佳き思い出はたくさんある。このため、大沢さまのご投稿文と二枚の写真に「触発」されて、きのうの私は、あしたは夕焼け雲にまつわるわが思い出を書こうと、決め込んでいた。ところが、キーボードへ向かうと、この思いは無残に空振りに終わったのである。すなわち、大沢さまのご投稿文に「触発」されて志を立てたけど、果たせずじまいである。わが凡庸は、かえすがえす残念至極である。
 夜明けまでには、まだたっぷりと時間はある。せっかくの好機を棒に振って、はがゆさつのるばかりである。晴れの予報が出ている文化の日、私は待ちわびて夕焼け雲を眺めるつもりでいる。せっかく「触発」された文章を書けずじまいに終わった罪滅ぼしでもある。

ニューヒロイン・わがアイドル 

 十一月二日(金曜日)、きのうあたりから急に寒くなり、わが心身は寒さが身に沁みて萎縮している。そのせいで治りきらずに長引いていた風邪は、引き直して本格的になり始めている。それを恐れてこの一文を書けば、布団の中にとんぼ返りを決め込んでいる。いや、自作文をつづる気力はない。このため、メディアの多くの配信ニュースの中から、風邪薬代わりにうれしいニュースを引用し、布団の中に潜り込むこととした。
 先日、長年、私自身のアイドルとしていた女子卓球界の「愛ちゃん」が引退した。愛ちゃんらしい笑顔を湛えて、さわやかな引退だった。しかし、私は寂しさをつのらせていた。ところが、愛ちゃんに代わるニューヒロインの誕生である。すると、わがアイドルは、愛ちゃんからいまだにあどけない笑顔の「茉愛ちゃん」へと、バトンタッチされた。
 【村上茉愛が快挙 日本女子初の個人総合銀メダル】(11/2・金曜日、 0:00配信 日刊スポーツ)。「体操:世界選手権>◇1日◇カタール・ドーハ◇女子個人総合決勝」。女子個人総合決勝でエース村上茉愛(22=日体大)が最終種目の床運動で3人を抜く大逆転を演じ、55・798点で銀メダル。66年ドルトムント大会の池田敬子、09年ロンドン大会の鶴見虹子以来となる日本女子史上3人目の個人総合メダルを獲得した。優勝はリオデジャネイロ五輪4冠のシモーン・バイルス(21)だった。ゴムまり娘が砂漠の地で軽快に弾んだ。最終種目の床運動で完璧な演技。14・000点の高得点が表示され、メダルを確定させると、感無量の涙を浮かべた。昨年の個人総合決勝で落下し、表彰台を逃すことになった鬼門の平均台をノーミスで乗り切ったのが大きかった。「すごく良かった」。短い言葉に実感を込めた。苦闘の道程だった。7月の練習中に右足首靱帯を部分断裂し、全治3カ月の診断。内村航平も使う「体外衝撃波」の治療を行い、大舞台に照準を合わせてきた。8月、代表候補だった宮川紗江(19=高須クリニック)が、監督である塚原千恵子強化本部長をパワハラ問題で告発。大会直前には主力の杉原愛子(19=朝日生命ク)が腰痛で欠場するなどのトラブルにも見舞われた。先月30日の団体総合決勝は52年ぶりのメダルはならず6位。主将を務めた寺本明日香(22=ミキハウス)が「本当に申し訳ない」と涙をぼろぼろ流してミスした自分を責める中「(順位は)全員の問題。誰か1人を責める訳でなく、自分たち1人1人が0・1、0・2点を拾っていければいい」と毅然と前を向いた。様々な困難を乗り越えた精神力は大一番にいきた。昨年の種目別床運動金メダルに続く2年連続のメダル。東京五輪のメダル獲得に向けて最高のアピールとなった。

 十一月、月初

 十月から月が替わって、十一月一日(一日・木曜日)が訪れている。十一月はどんな月になるのか、クエスチョンマーク(?・疑問符)である。上旬には「立冬」(十一月七日)が訪れて、いよいよ冬は門口から入り玄関口へ迫ってくる。それでも自然界は、いまだに晩秋の装いを残していて、一年の中でも好季節の部類にある。その確かな証しには、見渡すかぎり黄色や紅色などへ色づく野山の彩りがある。さらには、ときには麗らかな小春日和が訪れる。かてて加えて、「文化の日」(十一月三日)の前後は、過去の気象統計上では一年の中で最も晴れ日が多いという。農家にとって実りの秋の大団円は、苦労が報われ金銭を得て、大喜びのさ中にある。
 確かに、十一月の自然界は、人間界に多くの恩恵をもたらしてくれる。しかし好事魔多し、気を揉(も)むのは寒冷の季節の訪れである。もちろん、それに泣きべそをかいても埒(らち)は明かず、じっと耐え忍び我慢するより便法はない。一方、十一月の人間界の営みをかんがみれば、真っ先に浮かぶのはこんなことである。それは齷齪(あくせく)する人間模様丸出しの光景でもある。一つは、街頭にはきょうから年賀はがきの売り出しを伝える幟旗(のぼりばた)がはためき始める。そして一つには、わが家の郵便受けには今や遅しとばかりに堰(せき)を切って、おせち料理の予約を促すダイレクトメールが投げ込まれてくる。ところがもはや、どちらもわが家には無縁になりつつあるご愛嬌物(あいきょうもの)である。これらに比べて、ご愛嬌物とは言えず切ないものには、日を追って増えてくる喪中はがきがある。はたして、何枚手にするのか? この先恐々とするものである。
 私自身に直接かかわる十一月初っ端の関心事には、十月から持ち越している風邪症状の治りと、口内炎の消滅がある。これらに脅かされて現在の私は、憂鬱気分を引きずっている。そのため、実の無い文章書いて、結文にするものである。この二つの症状が遠のかなければ、十一月のわが身は思いやられるところである。

十月末日

 十月三十一日(水曜日)。きょうで十月は、またたく間に過ぎてゆく。あらためて私は、歳月の速めぐり(感)に慄(おのの)いている。季節は晩秋の候であり、あすから十一月へ替われば、まもなく「立冬」(十一月七日)がめぐってくる。この季節、自然界のおりなす目で見る特徴には、野山や木立の色づきがある。わが身にごく身近なものでは、いよいよ落ち葉との闘いが厳しくなる。一方、体感するものではずばり、寒冷は日を追うにしたがって強くなる。やがては、寒々しい季節用語の木枯らし一号にも遭遇する。そんなおり、寒冷に遭って縮んだ心身を暖めてくれるのでは、合間に訪れる小春日和がある。
 このところの私は、朝の道路の掃除を終えるたびにしばしたたずんで、やおら頭上を見上げている。すると、日々落ち葉の量は増しているのに、見た目にはまったく空(す)かず、いまだに満々と枝葉を残している。わかっちゃいるけど、そのたびに切なくわが嘆息が漏れる。この先の二か月は、これらが落ち尽くすまで、落ち葉との闘いが強いられるからである。
 このところ、わが身体の衰弱を自覚しているものの一つは、風邪がすっきりと治りきらないことである。実際にも十月は、なんだかずっと風邪ひき状態のままだったように思えている。もちろん、今なおすっきりしないままである。「風邪は万病のもと」という、古来の言い伝えは、耳に胼胝(たこ)ができるほどに知り尽くしている。換言すれば、風邪を侮(あなど)ってはいけないという、人生訓である。そして、この人生訓を粗末にすれば、命を縮めることも知りすぎている。それでも、風邪退治にいっこうに本気が出ないのは、わが「身から出た錆」と言えるのかもしれない。風邪をひきっぱなしの状態では、もちろん気鬱症状にとらわれて意気は上がらない。知りすぎていることをうっちゃっているのは、確かなわがぐうたら病であろう。長引いている風邪が悪さをしているのかどうかとは知らないが、十月には途絶えていた口内炎の相次ぐ発症に見舞われている。
 「ひぐらしの記」を読み返せばわかるけど、ピロリ菌を何年前に退治したかの記憶はない。ピロリ菌退治(消滅)の薬剤投与は、それまで持病と諦めて苦しんでばかりいた二つの症状に著効をもたらした。顧みればそれは、それまでの人生の中で最も幸運な出来事だった。長く苦しんでいただけに症状改善によるわが喜びは、確かに天にも昇る心地だった。
 それまで苦痛を我慢し続けていた二つの症状とは、具体的には腰痛と口内炎の発症である。ところが、なぜか? ピロリ菌を退治するやいなや、この二つの症状がピタリと消えたのである。あえて、なぜか? と書いたのは、主治医先生にお尋ねしても、わからずじまいだったことでもある。言うなれば、理由や原因知らずの症状の改善だったのである。そのため、あらためてわが喜びを語彙で表せばそれは、天啓であり、僥倖であり、棚から牡丹餅を得たようなものだった。なぜなら、それ以来私は、腰痛と口内炎の痛みから解放されたのである。そして、腰痛はなお免れたままが続いている。ところがこの十月には、かつての口内炎が二度にわたりぶり返したのである。かえすがえす残念であり、今や腑に落ちない出来事だった。すると、月替わってしばらくは、口内炎の発症動向に気を揉(も)むことになりそうである。もちろん、現在の私は、十月だけの異変であってほしいと、切に願っている。
 まもなく、十月最終日の夜明けが訪れる。夜明けの掃除へ向かう時間の到来である。朝の心せわしいひとときである。

様変わる世の中 

 街中は再開発という名のもとに、超高層ビルの乱立状態にある。このため、街の様子は様変わりを続けている。超高層ビルの多くは人の住むマンションである。一方、郊外では人の住まない空き家が増え続けている。身近なところでは駅が様変わりを続けている。駅の変化は商売(店舗)スペースへの模様替えである。駅(経営者)の魂胆は、さまざまなテナント(店子)を駅中に入れて、安定した収入増を狙っているのであろう。
 これまでの駅は隣接して駅ビルを建て、スペース(区割り)をテナントに賃貸していた。ところが、もはやこの方式は時代遅れとなり、駅中に直接テナントを引き込んでいる。おのずから駅中は、華やかに賑わうデパートや商店街風景に様変わりつつある。すなわち、様変わりゆく駅中は、単に電車や列車を乗り降りするだけの役割(用途)から脱皮しつつある。電車や列車を乗り降りするだけでは、確かにプラットホームだけで十分だった。しかし、人の往来の激しい駅中をそれだけにしておくことは、もったいないと気づいたのであろう。なぜなら、駅は街中の一等地にあり、かてて加えて駅舎の立地と敷地の広さは、飛び抜けて周辺を圧している。確かに、この好条件を見す見す見捨てて置くことはない。すると、このところの駅中の様変わりようは、これまでのほほんとしていた駅(経営者)がようやく商売人根性に目覚めた証しであろうか。かつての国鉄がJR(民間)になって以来、むしろ遅すぎた様変わりであろう。私鉄は、もっと早く気づくべきだったのかもしれない。
 ところが、駅(経営者)が商売に本気度を出せば、おのずから周辺の店はそのあおりを食って寂れてゆく。その確かな証しは、わが買い物の街・大船(鎌倉市)においても見られる。JR大船駅中に本屋ができて以来、駅ビル・ルミネの本屋の人影は、まばら傾向をきわめている。もちろん、ルミネの本屋における人影の途絶えには、ネット書店が加担していることもあろう。しかしながら、駅中の本屋がルミネの本屋に災難をもたらした張本人と言えなくもない。確かに、新陳代謝や弱肉強食は世の中の定めではある。なぜなら、駅ビル・ルミネに本屋が開店した折には、周辺にいくつかあった本屋をまたたくまに蹴散らされ、閉店の憂き目に遭遇している。大袈裟さに言えば世の中のすべては、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)の中にある。
 駅中の様変わりを見るにつけ私は、この思いを強くしている。卑近なところで私自身にも、世の中の様変わりようが乗り移っている。かつて、ときには買っていた雑誌は、まったく無縁になった。夫婦共に携帯電話を持つようになって以来、固定電話も用無しになりつつある。本当のところは、新聞購読も潮時にある。さらには、この頃の私は頓(とみ)にテレビを観なくなり始めている。デジカメ、ファックス、プリンターは、今やまったく用無しである。すなわち、パソコン画面にしがみついていれば、家庭内情報媒体は用無しになりつつある。もちろん私は、パソコン難民と言えるほどにその使用技術は、パソコン本来の機能の一パーセントほどにも満たないなさけなさではる。それでも、私にとってのパソコンは、ほかの情報媒体を無用にするほどに利便である。
 その一方で私は、時代の様変わりに置いて行かれている。携帯電話は頑(かたく)なにガラケーである。ところが、妻はガラケーからスマホへ替えた。私はかたわらでスマホを操る妻の姿を、操作を恐れて手出し無用で眺めている。街中にかぎらず、わが家の様相もとうに変わり始めている。駅中の賑わいとは異なり、いくらか心寂しい様変わりようである。

 孫の運動会見物

 一々、「休みます」、と書くのが億劫になってきた。もう、書けなくなってきたからである。だから、もう書かずに、休もうと思う。わが心象風景は、日々、いや時々刻々に揺れ動いている。もちろん、穏やかに揺れ動いているわけではない。実際には悶々と、揺れ動いている。心象風景でつづる文章は、もろに影響をこうむっている。その挙句、もう書けない気分に陥り、さいなまれている。言うなれば、ほとほとなさけない状態にある。
 よくもわるくも物思いに耽る秋の夜長にあって、実際のところ私は、こんな思いにとりつかれている。物思いに耽るせっかくの好機は、マイナス思考の渦中にある。こんなことを書くためにキーボードへ向かっているわけではない。できればきのう(十月二十八日)休んだ穴埋めをしたいという思いで、キーボードに就いている。ところが、みっともない文章を書いている。わが脳髄が「もう文章を書き続けることは無理だ!」と、赤信号を点滅させているせいである。
 きのうの私は妻と連れ立って、朝早くから神奈川県横須賀市における孫の運動会見物へ出かけた。近いようで遠く、電車やバスを乗り継いで、二時間ちょっとかけて、朝の八時四十分頃に校庭に着いた。運動会の開始時刻は九時からである。
 孫は、誕生以来「ひぐらしの記」にたびたび登場してきた。その孫も、早や小学校五年生(十一歳)である。孫の誕生は、ひぐらしの記の誕生とほぼ同時期である。日にち的には、ひぐらしの記の誕生が半月ほど早い。もちろん私は、孫の誕生を見越してひぐらしの記を書き始めたわけではない。ところが、誕生の機をほぼ同じくしたことにより、図らずもひぐらしの記は、孫の成長記録ともなっている。このことから私は、孫の成長過程における十一年の重みをひしひしと感じている。もちろんそれは、孫にかぎらず人の命の尊厳と偉大さにたいする驚異である。具体的な証しの一つは、あんな赤ちゃんが運動場を駆け回ったり、下級生の面倒を見る役割までに成長している驚きである。一方でわが十一年は、無為無策のままに老体を深めるままで過ぎた。
 コース取りの白線の外側には、本部席と敬老席の二張りの天幕が立っていた。私は妻と並んで、娘夫婦が陣取っていた敬老席の最前列に腰を下ろした。私はプログラムを手にしながら孫の出番を待っていた。孫の出番が来ると、孫の姿に目を凝らした。周囲で押し合いへし合いしながら賑わう多くの観客は、それぞれがさまざまな文明の利器を翳(かざ)して、わが子、わが孫の姿を無心に追っかけていた。楽しく、一方で切ない孫の運動会見物だった。秋天青空ののどかな運動会日和だった。私は神妙に十一年の重みに浸っていた。

わが身、肥ゆる秋 

 過ぎたこの夏、私は夏痩せ願望を掲げた。しかし願望は、数グラムも果たせずじまいだった。それでも、その後もいくらかの減量を願って、食事や食べ物には気配りを続けている。実際に気配りしているものの一つは、やたら滅多らと摂っていた間食を間遠くしている。間食となればもっぱら、駄菓子などのスイーツ(甘味類)のつまみ食いである。確かに、私は根っからの甘党である。ところが、生来のこの性癖をいくらかでも断とうと決断をしたのである。いや、断つことはできそうにないから、実際にはしばしの是正の試みである。こんな小さな試みであっても、決断には苦慮を強いられた。もちろん、実践するにはなお強い意志が課せられた。しかし、その意志に勝てず、やがては元の木阿弥となった。すなわち、志したダイエットは、こんどもまた未達に終わったのである。
 これまでの人生において私は、こんなことを何度繰り返してきたことだろう。その元凶となる意志薄弱と三日坊主は、わが生来の確かな悪癖である。まもなく、私には食べたくても食べられない人生の終幕が訪れる。それなのに、食べたいものを我慢するのは愚の骨頂の極みである。いつものようにこんな自己都合の口実をもうけて、このところの私は頓(とみ)にダイエット志向の解禁に心が揺さぶられている。それでも少しは初志を残して、駄菓子類のつまみ食いだけは控え気味にしている。ところが、実際にはこれも期限切れに迫られている。せっかく志しているダイエットが風前の灯火(ともしび)になりつつあるのは、もちろんわが意志の弱さである。かてて加えて、実りの秋がわが意志に通せんぼしている。
 中秋は晩秋へと深まりつつある。つれて、わが行きつけの野菜と果物の安売り量販店「大船市場」(鎌倉市)には、秋の果物のしんがりに出回る柿が並び始めている。ミカンを間断なくたらふく食べて、その間隙に柿をむさぼり始めると、おのずから「わが身、肥ゆる秋」となる。よくもわるくも、「果糖」に脅(おびや)かされる季節の到来である。

再び、二番煎じの文章 

 きのう(十月二十五日・木曜日)は、この先に予測される日本社会の変質について、わが下種(げす)の勘繰りの一考を書いた。大まかに再び記すとそれは、将来にわたり予測されている日本人人口の減少を補う、日本社会における外国人急増現象にかかわるものだった。さらに具体的に言えば、背に腹は代えられないとはいえ、その現象を危惧するものだった。もちろん私は、外国人自体を毛嫌いしているわけではない。個々人では、仲良くすればこと足りることである。一方でわが危惧は、増え続けるにつれて起きそうな日本社会の変質である。日本社会の変質と言っても、もちろん良く変わればしめたものではある。ところがここでは、危惧と書いていることから悪化を恐れてのものである。
 さて、きょう(十月二十六日・金曜日)もまた私は、二番煎じのことを書く羽目になっている。二番煎じとは、すでに書いたことの繰り返しである。しかしながらこちらは、冒頭の事柄とは異なり、私自身につきまとう戸惑いである。ずばりそれは、日本社会におけるカタカナ語の氾濫である。日本社会にあっては英語をはじめとする外国語、すなわち外来語の表示にはカタカナが用いられている。もちろんその表示には一理があり、分かり易いところがある。ところが、これまた増え続けると、日常的に戸惑いをおぼえることとなる。かてて加えて、新聞をはじめとする様々な情報媒体には、外国語(英字)の短縮表示が増えている。すると、カタカナ語やさまざまな英字の短縮語を知らなければ、おのずから媒体が伝える情報に疎(うと)くなったり、戸惑いをおぼえることとなる。
 実際のところ私は、それらの現象の渦中に嵌(は)まりかけている。大衆紙と謳(うた)う新聞にかぎっても、このところその傾向は著しいものがある。確かに、難解なカタカナ語や英字短縮文字には、その説明書きが添えられていることはある。しかし、多用や汎用(はんよう)となると日常語扱いとなり、おのずから説明文は省(はぶ)かれる。新聞は日刊紙と銘打っている。このため、日々読み続けて読み慣れることこそ、肝心なのであろう。しかし、寸断を余儀なくすることは多々ある。
 カタカナ語や英字短縮語の汎用の背景は、グローバル時代(地球規模的交流)の反映である。そしてその手段は、IT(情報技術)やSNS(ソーシャル ネットワーキング サービス)の開発および進歩である。馬鹿じゃなかろか! 私はその渦中に嵌まりどうにかそれらを使用し、日々脅(おびや)かされてもいる。その挙句、実際には変質続ける日本社会の落後者になりつつある。それゆえ私は、日々必死にもがき続けている。もちろん、わが凡庸な脳髄と小器のせいである。いのち、残り幾ばくも無いとはいえ、生きるにつらい世の中である。秋の夜長は、深々と更けてゆく。

秋の夜長の迷い文 

 十月二十五日(木曜日)、秋の夜長はいまだ中盤と言ったところで、この先に向かってまだまだ長く深まってゆく。夜間に文章を書く習わしにしている私の場合、夜長にはたっぷりと執筆の時間がある。ところが実際の私は、必ずしも夜長の恩恵を得ていない。すなわち、いたずらに妄想にとりつかれて、文章は浮かばず悶々と更けてゆく。もちろん、せっかくの夜長を得手(味方)にできないのは、わが凡庸な脳髄のせいである。それゆえ誰を恨むこともできず、嘆いて自分自身を恨んでいる。
 なさけない文章で書き出しているけれど、書き出したかぎりは何かを書かなければならない。つくづく、能無し野郎のつらいところである。すると、二番煎じで心中に浮かんでいることがある。確かに、先々の日本社会のことなど、私がかかわることなど何もない。だから、杞憂や老婆心と言えなくもない。それは、この先いやわが死後に見舞われそうな日本社会の変質である。さまざまなところで変質が予測される日本社会にあって、わが最も懸念するところは将来にわたり減り続ける日本社会の人口動態である。その明らかな現象は、今や耳に胼胝(たこ)を生じるまでにもなっている次のようなことである。すなわち少子高齢化社会、そして多くの自治体の人口減少、とりわけ地方・地域の過疎化傾向である。
 現在、これらから生じている現象の一つには、日本社会における日本人働き手の減少がある。おのずからその対策は、日本社会の喫緊の課題ともなっている。すると、それを補うためには背に腹は代えられず、外国人とりわけ労働者としての受け入れが国政の対策課題となっている。さらには、人の手が足りなければ科学の進歩やIT(情報技術)で補う、ロボットやAI(人工知能)の開発が大わらわになっている。
 これらの中では、私は日本社会における外国人の激増にかなりの不安をつのらせている。なぜなら私には、このことが先々の日本社会に大きな変質をもたらしくる予感がある。このこともすでに書いたことだけど、再び書けばそれは、「庇(ひさし)を貸して母屋を取られる」という、恐れと怯(おび)えである。もちろん、日本社会にかぎらず社会を形成しているのは、個々人のおりなす人の集団である。すなわち、この先の日本社会にあって、さまざまな国の人が混在すれば、日本社会の変質は当然の帰結である。すると私は、変質の仕方を憂い危ぶんでいるのである。馬鹿じゃなかろか! 取り越し苦労は、わが「身から出た錆」である。

 私は頑張りを称賛する

 映像を観ていない人にはわからない。しかし、映像を観ていた人にはショッキング(衝撃的)な光景だった。戦いを終えて、その光景にたいする賛否両論が沸き立っている。私はどちらの見解も理に適(かな)っていると思う。だから、一概に賛否のけりをつけたくはない。このため、たった一つだけわが見解を記すと、当該選手の敢闘精神だけは全員一致で称賛すべきだと思う光景だった。頑張り抜いた選手は、岩谷産業チーム所属の熊本県出身(十九歳)という。
 【駅伝負傷選手はいずりに賛否…監督棄権も伝わらず どうすればよかったのか?】(10/23・火曜日、19:58配信 産経新聞)。福岡県で21日に開催された全日本実業団対抗女子駅伝予選会の2区(3・6キロ)で、負傷した岩谷産業の選手がたすきをつなぐため、四つんばいになって競技を続けたことが賛否の議論となっている。選手に称賛が集まった一方で、主催者には「やめさせるべきだった」との批判も寄せられている。選手は、中継所まで約200メートルのところで突然倒れた。両手と両膝をついて四つんばいになり、アスファルトの上を進んだ。両膝はすれて血がにじみ、その様子を見守った次走者の同僚選手は涙で目を潤ませた。レース後、負傷した選手は右脛の骨折で全治3~4カ月と判明。岩谷産業は、監督が棄権を申し出ていたことを明かし「誠に遺憾であり、大会運営の改善を願う」とするコメントを発表した。なぜ棄権できなかったのか。主催者の日本実業団陸上競技連合によると、負傷選手に監督らが触れ、介抱するなどした場合は棄権になる。ただ、この大会では車での伴走は認められておらず、監督らはコースから離れた部屋で中継を見ていた。異変に気づいた監督はすぐに主催者側に「止めてくれ」と棄権の意思を伝達。コースの担当者に連絡し、選手の意思確認に向かった。だが、選手は強い続行の意思を示したため、担当者は再度、監督に確認作業を行った。監督の棄権の意向は変わらなかったが、現場との連絡に時間を取られている間に中継所まで約15メートルの地点まで迫っていたため見送ったという。日本陸上競技連盟駅伝競走規準では、審判らが危険と判断した場合などは、強制的に選手を棄権にさせることもできる。ただ、飯田選手に声をかけた審判の一人は「本人の『絶対に行く』という思いが明確で、止めるのを躊躇してしまった」と話している。判断は妥当だったのか。日本陸連の河野匡長距離・マラソン・ディレクターは「駅伝はたすきをつながなければ終わり。選手や監督、審判の思いなど複雑な要素がからむので一概に止める方がいい、よくないとはいえない」と指摘する。一方、スポーツ評論家の玉木正之氏は「『あと少しだったから続けさせた』というのは審判の越権行為ではないか。今回の事態をきっかけにして審判が棄権にできる基準を作っていくべきだ」と訴える。主催者の日本実業団陸上競技連合、鎌倉光男事務局長は「意識がないなど明確に続行不可能な場合は審判の権限で止めることができるが、今回のような場合は難しい」と吐露。「今後のあり方を協議していきたい」としている。

名句をくちずさんだ「柿のふるさと便」 

 「古池や 蛙飛び込む 水の音」(松尾芭蕉)。「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」(正岡子規)。いずれも後世(現代)に残され、謳い継がれている名句である。実際にもこの二句は、先日の「今泉さわやかセンター」(鎌倉市)のフェスティバルにおいて、人を替えて朗詠された。なんとはないと思えていた句だったけれど、詩吟に乗ってしんみりとした感動をもたらした。不断の私は、おこがましくもこれくらいの俳句なら作れそうだと、思っていた。その理由には別段難しいところはなく、むしろ幼稚なものにさえ思えていたからである。その思いに悪乗りして、もともと大家ゆえの句だから、名句に数えられるのだろうとも、思っていた。さらには、名の無い人が詠んだらこの二句は、鼻にもかけられないものだろうとまで、思っていた。
 世の中には大家ゆえに箔(はく)の付くものはさまざまにある。「玄人(くろうと)はだし」という言葉があるけれど、日常的に玄人と素人(しろうと)の境など、分別できないものはたくさんある。実際にも私はフェスティバルのたびに、さまざまな展示の作品にこの思いをつのらせている。
 きのう(十月二十二日・月曜日)、「ふるさと便・柿」が届いた。送ってくださったのは、熊本県菊池市にお住いの岡崎俊裕さん夫妻である。奥方は、ふるさとの長兄夫婦の次女の弘子さんである。ご夫妻からの柿のふるさと便は、ここ数年恒例となっている。もちろんわが夫婦は、あからさまにおねだりはしていない。しかし、ひそかに待っているところはある。ご夫妻からの柿のふるさと便は、一度だけにかぎらず二度、三度にわたるときさえある。手間暇と送り賃かけて、ご夫妻からたまわるうれしい好意である。
 柿自体は屋敷内に生っている、言うなれば庭柿である。庭柿の特徴は、味覚そして外観共に素朴のところである。ところがこれには、ご夫妻の温かい人情と郷愁がまつわりついてくる。きのうの柿のふるさと便は、携帯電話のこんなメール履歴の末に送られて来たのである。一度目は、「ことしは、柿が少ないから送れません」。そして二度目は、「少しばかりとれたから送りました。あしたあたり、届くと思います」。
 予告どおりにきのう、段ボール詰めの柿が送られて来た。心勇んで、上り口で段ボールを開けた。明るんだ武骨な庭柿が詰まっていた。私は「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」と、詩吟の音調で声を出した。茶の間に居た妻が慌ててやってきた。
「パパ、どうしたの?」
「柿が届いたよ。だから、おとといの詩吟の真似をしたのだよ」
「そうなの。パパが認知症になったのかと、思ったわよ」
 心落ち着いて、二人、茶の間で味見をした。異口同音に、「甘いわねー」、「美味いねー」と、言葉がほとばしった。
 秋の日、私はふるさと便に心和んで、名句のかもす味をも味わっていたのである。

 晴れた秋の日、「日々是れ好日」

 週末の土曜日(十月二十日)、日曜日(十月二十一日)にかけて、「今泉さわやかセンター」(鎌倉市)では、年に一度のフィスティバルが行われた。掲げられていた横断幕には、「第二十六回フィスティバル」と、記されていた。センターの中にあるさまざまな同好クラブの中で、私は卓球クラブに属している。このこともあって連日、昼近くに出かけた。フィスティバルは福祉協議会が催す、市内在住の六十歳以上の高齢者が通う、さしずめ秋の文化祭である。
 この手の施設は、鎌倉市内に三か所ある。さまざまなクラブの同好の士は、座敷広間と体育室さらには展示会場において、所属クラブの技を披露する。しかし卓球クラブは、体育室を二日とも社交ダンスや太極拳など、ほかのクラブに明け渡すため出番はない。文化祭と並ぶ運動会は、高齢者には今や用無しである。センター脇の広場にはテントが七基も立てられて屋台が並び、それなりのお祭り気分を盛り上げていた。
 二日とも秋の好天気に恵まれて、広場のあちらこちらにはいくつものテーブルが置かれていた。私は二日とも昼近くに出かけた。そしていずれも、おにぎりを買ってひとりテーブルに着いた。すると、卓球クラブの仲間が声掛けに見えた。賑わう多くのテーブルには普段見慣れた高齢者に、まったく見慣れない小さな子どもたちが連れ添っていた。そして、それぞれが屋台の食べ物を買って、和んで食べていた。小さな子どもたちは、孫あるいは曽孫なのであろう。フィスティバルが訪れるたびにおぼえるのは、見慣れていた人の姿が絶えてゆく寂しさである。もちろん、やがてわが身である。
 私は広間の催し物の三つを観た。一日目は詩吟、そして二日目はフラダンスとオカリナ笛の演奏である。詩吟クラブの練習日は、定例水曜日の卓球クラブの練習日と重なっている。おのずからお顔見知りが多いため、応援観覧である。二日目の広間の午後の時間帯には、フラダンスとオカリナ笛が続いて行われた。フラダンスには、卓球クラブの渡部さんが笑顔をまき散らし華やかに踊られた。そのため、観なきゃソンソン(損々)という思いをたずさえて、これまた応援観覧であった。
 オカリナ笛の演奏には、長い間「ひぐらしの記」の回読をたまわっていた佐藤さんが出演されていた。このため、お礼返しの気持ちを込めて、またまた応援観覧だった。オカリナ笛クラブは、昼休みの時間を惜しんで広間の舞台で練習していた。練習から観ていたのは私だけだった。結局、そのときからしんがりのオカリナ笛が終るまで、私は広間に居座っていた。
 今年のフィスティバルは終わった。わが身を含めて、来年のフィスティバルのことはわからない。願うことは、恙(つつが)なくめぐってきてほしいことである。

美智子さま、賛美 

 私は恐れ多くも「美智子さま」のファンである。遠目の出会いは三宅坂で観た、ご成婚パレードの馬車の中の絶世のお美しいお姿である。私はその年の三月に高校を卒業し、上京していたのである。大都会で出合った、夢見る心地の華やかな光景だった。
【皇后さま誕生日の宮内記者会質問と回答全文】(2018年10月20日05時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun)。「この一年も、西日本豪雨や北海道の地震をはじめとする自然災害など様々な出来事がありました。今のお立場で誕生日を迎えられるのは今年限りとなりますが、天皇陛下の退位まで半年余りとなったご心境をお聞かせ下さい。」「昨年の誕生日から今日まで、この一年も年初の大雪に始まり、地震、噴火、豪雨等、自然災害が各地で相次ぎ、世界でも同様の災害や猛暑による山火事、ハリケーン等が様々な場所で多くの被害をもたらしました。「バックウォーター」「走錨(そうびょう)」など、災害がなければ決して知ることのなかった語彙にも、悲しいことですが慣れていかなくてはなりません。日本の各地で、災害により犠牲になられた方々を心より悼み、残された方々のお悲しみを少しでも分け持てればと思っています。また被災した地域に、少しでも早く平穏な日常の戻るよう、そして寒さに向かうこれからの季節を、どうか被災された方々が健康を損なうことなく過ごされるよう祈っています。そのような中、時々に訪れる被災地では、被災者の静かに物事に耐える姿、そして恐らくは一人一人が大きな心の試練を経験しているだろう中で、健気に生きている子ども達の姿にいつも胸を打たれています。また、被害が激しく、あれ程までに困難の大きい中で、一人でも多くの人命を救おうと、日夜全力を挙げて救援に当たられる全ての人々に対し、深い敬意と感謝の念を抱いています。約30年にわたる、陛下の『天皇』としてのお仕事への献身も、あと半年程で一つの区切りの時を迎えます。これまで『全身』と『全霊』双方をもって務めに当たっていらっしゃいましたが、加齢と共に徐々に『全身』をもって、という部分が果たせなくなることをお感じになり、政府と国民にそのお気持ちをお伝えになりました。5月からは皇太子が、陛下のこれまでと変わらず、心を込めてお役を果たしていくことを確信しています。陛下は御譲位と共に、これまでなさって来た全ての公務から御身を引かれますが、以後もきっと、それまでと変わらず、国と人々のために祈り続けていらっしゃるのではないでしょうか。私も陛下のおそばで、これまで通り国と人々の上によき事を祈りつつ、これから皇太子と皇太子妃が築いてゆく新しい御代の安泰を祈り続けていきたいと思います。24歳の時、想像すら出来なかったこの道に招かれ、大きな不安の中で、ただ陛下の御自身のお立場に対するゆるぎない御覚悟に深く心を打たれ、おそばに上がりました。そして振り返りますとあの御成婚の日以来今日まで、どのような時にもお立場としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの、というその時に伺ったお言葉のままに、陛下はこの60年に近い年月を過ごしていらっしゃいました。義務を一つ一つ果たしつつ、次第に国と国民への信頼と敬愛を深めていかれる御様子をお近くで感じとると共に、新憲法で定められた『象徴』(皇太子時代は将来の『象徴』)のお立場をいかに生きるかを模索し続ける御姿を見上げつつ過ごした日々を、今深い感慨と共に思い起こしています。皇太子妃、皇后という立場を生きることは、私にとり決して易しいことではありませんでした。与えられた義務を果たしつつ、その都度新たに気付かされたことを心にとどめていく――そうした日々を重ねて、60年という歳月が流れたように思います。学生時代よく学長が『経験するだけでは足りない。経験したことに思いをめぐらすように』と云われたことを、幾度となく自分に云い聞かせてまいりました。その間、昭和天皇と香淳皇后の御姿からは計り知れぬお教えを賜り、陛下には時に厳しく、しかし限りなく優しく寛容にお導き頂きました。3人の子ども達は、誰も本当に可愛く、育児は眠さとの戦いでしたが、大きな喜びでした。これまで私の成長を助けて下さった全ての方々に深く感謝しております。陛下の御譲位後は、陛下の御健康をお見守りしつつ、御一緒に穏やかな日々を過ごしていかれればと願っています。そうした中で、これまでと同じく日本や世界の出来事に目を向け、心を寄せ続けていければと思っています。例えば、陛下や私の若い日と重なって始まる拉致被害者の問題などは、平成の時代の終焉と共に急に私どもの脳裏から離れてしまうというものではありません。これからもご家族の方たちの気持ちに陰ながら寄り添っていきたいと思います。 先々には、仙洞御所となる今の東宮御所に移ることになりますが、かつて30年程住まったあちらの御所には、入り陽の見える窓を持つ一室があり、若い頃、よくその窓から夕焼けを見ていました。3人の子ども達も皆この御所で育ち、戻りましたらどんなに懐かしく当時を思い起こす事と思います。赤坂に移る前に、ひとまず高輪の旧高松宮邸であったところに移居いたします。昨年、何年ぶりかに宮邸を見に参りましたが、両殿下の薨去よりかなりの年月が経ちますのに、お住居の隅々まできれいで、管理を任されていた旧奉仕者が、夫妻2人して懸命にお守りして来たことを知り、深く心を打たれました。出来るだけ手を入れず、宮邸であった当時の姿を保ったままで住みたいと、陛下とお話しし合っております。公務を離れたら何かすることを考えているかとこの頃よく尋ねられるのですが、これまでにいつか読みたいと思って求めたまま、手つかずになっていた本を、これからは一冊ずつ時間をかけ読めるのではないかと楽しみにしています。読み出すとつい夢中になるため、これまで出来るだけ遠ざけていた探偵小説も、もう安心して手許に置けます。ジーヴス(※1)も2、3冊待機しています。また赤坂の広い庭のどこかによい土地を見つけ、マクワウリ(※2)を作ってみたいと思っています。こちらの御所に移居してすぐ、陛下の御田の近くに一畳にも満たない広さの畠があり、そこにマクワウリが幾つかなっているのを見、大層懐かしく思いました。頂いてもよろしいか陛下に伺うと、大変に真面目なお顔で、これはいけない、神様に差し上げる物だからと仰せで、6月の大祓の日に用いられることを教えて下さいました。大変な瓜田に踏み入るところでした。それ以来、いつかあの懐かしいマクワウリを自分でも作ってみたいと思っていました。皇太子、天皇としての長いお務めを全うされ、やがて85歳におなりの陛下が、これまでのお疲れをいやされるためにも、これからの日々を赤坂の恵まれた自然の中でお過ごしになれることに、心の安らぎを覚えています。 しばらく離れていた懐かしい御用地が、今どのようになっているか。日本タンポポはどのくらい残っているか、その増減がいつも気になっている日本蜜蜂は無事に生息し続けているか等を見廻り、陛下が関心をお持ちの狸の好きなイヌビワ(※3)の木なども御一緒に植えながら、残された日々を、静かに心豊かに過ごしていけるよう願っています。◇(※1)ジーヴス 英国の作家P・G・ウッドハウス(1881~1975年)による探偵小説の主人公の名前。執事で、お人よしの主人とともに数々の事件を解決する。海外ではシャーロック・ホームズと並ぶ人気を誇るといい、日本でも出版されている。(※2)マクワウリ 上品な甘さが特徴で、戦国武将・織田信長が朝廷に献上したという記録が残る。その名は、名産地・岐阜県真桑村(現本巣=もとす=市)に由来する。「瓜田に履を納れず」(不用意に人から疑われるような事はするな)という中国の教えがある。(※3)イヌビワ クワ科の落葉樹でビワに似た実をつける。関東より西の海辺で多く自生。天皇陛下は2009年から5年間、研究者とともに皇居内のタヌキの食性を調査し、16年に掲載された論文でイヌビワの実を食べていると発表された。」

果物の秋 

 秋が深まり行くにつれて、行きつけの野菜果物の安売り量販店「大船市場」(鎌倉市)の店頭風景が変わって行く。現在、変りようの中心を成すのは、温州ミカンの本格的な出回りである。店内は、野菜フロアと果物フロアに区分されている。野菜売り場の色合いは、根菜類そのままに緑や土色で地味である。一方、果物売り場は、それぞれの明るんだ色合いの競演さながらに華やかである。果物の場合は根菜類と違って、バナナをはじめ外国産も多く並んでいる。
 バナナは別として私は、さまざまな外国産には馴染みなく、これまで試し買いをしたこともない。果物にかぎらず食べ物は、子どもの頃から食べ慣れてきたものに惹かれるところがある。舌に馴染んだ習慣と言えるのかもしれない。確かに、食べてみれば甲乙つけがたくどちらも美味しいものである。しかし、葡萄、林檎、桃などに比べてわが買いの手は、梨、柿、栗、蜜柑類に伸びがちである。この違いは子どもの頃にかぎれば前者には馴染みが薄く、後者は庭先をはじめ身近なところにやたらと生って、食べていたせいであろう。そのうえ、私の場合は味覚や食べ慣れに輪をかけるのは郷愁がつきまとう。後者の中で今秋は、幸いにもこれまで「栗団子」三昧に明け暮れた。妻と相和して、「もう、これで終わりだな!」と、言い合いながら何度も作り続けた。
 きのう(十月十八日・木曜日)の栗団子作りにあっては、とうとう妻の口からこんな言葉が出た。
「パパ。栗団子、何度作ったかしら?…」
 すると、私は作るたびに数えていたことから、得たりやおうとばかりに即座に、「八度だよ。ありがたいよ。うれしいよ。ありがとう!」と、言った。しかしながら栗団子作りは、もう、きのうで打ち止めになるだろう。なぜなら、このところの妻は、実際のところ栗団子作りにへこたれていた。そのため、後半にかけてはやむなく、私自身が主導権(チーフ)をになって、せっせと作っていた。いや、三度くらいは、栗団子作りの全工程を私単独でまっとうした。このため、私自身、いくらか疲れ気味で、栗団子作りはきのうで打ち止めにする気分になっていた。
 もう、栗団子作りは打ち止めにしてもいいなと思えていたのは、温州ミカンの出回りにありついているからでもある。実際にもこのところのわが買い物には、温州ミカンが切れ目なくなりつつある。重たいリュックを下ろすたびに、妻は「パパ。ミカンをいつも買ってきて、どうするの? 食べきれないでしょ!」と、恨めしそうに小言を言う。
「おまえは食べきれなくても、おれが、ばんばん食うよ! わかってて、買って来ているんだから、一々、文句言うなよ!」
 このところの温州ミカン売り場は、県内ところを替えて熊本産のオンパレードである。すると私は、その前をよそ者風情(ふぜい)で通り過ぎることができないのである。
 このところは、好物の柿も出回り始めている。柿には熊本産の出回りはないけれど、ふるさと時代の柿風景がよみがえる。三人掛かりで庭先の柿を千切ると、土間の上り口で母は、包丁で皮を剥いた。四つ切の柿には、われ先に父とわが手が伸びた。栗団子はきのうで打ち止めたけれど、郷愁つのる果物はこの先、蜜柑と柿が共存し盛りをなしてくる。すると、それらの買い物のたびにわが心中には、生前の父と母の姿が彷彿する。
 確かに、道路の掃除では落ち葉の量に手を焼いている。しかし、それをしのいで、楽しい果物の秋の真っ盛りである。

夜明け間際の愚痴こぼし 

 十月十八日(木曜日)、夜明け間近に書き出している。秋の夜長にあっても、焦燥感に見舞われている。先日、秋の夜長にあっては焦燥感なくのんびり書ける、と書いたばかりである。ところが、早とちりをしてしまったようである。なぜなら、秋の夜長にあっても、やはり焦燥感はつきまとっている。焦燥感をもたらしているのは、朝のうちの日課と謳(うた)っている、道路の掃除との兼ね合いである。
 私には自認している四つの日課がある。あえて記すと、これらである。一つは、「ひぐらしの記」の執筆である。一つは、わが家周りの道路の掃除である。一つは、分別ごみの所定の場所への持ち込みである。最後の一つは、路線バスに乗っての大船(鎌倉市)の街への買い物である。これらのなかで買い物だけは、日課とは言えど必ずしも毎日出かける必要はない。そのうえ、買い物行動は昼間である。分別ごみ出しも、文字どおり回収車が回ってくるのは、午前九時あたりからである。そのため、そう慌てることはない。すると、厄介なのは前二つ、すなわちひぐらしの記と道路の掃除のことに尽きる。
 具体的には、実行する時間帯の重なりである。これとて、順位を付ければひぐらしの記の執筆が優先する。確かに、道路の掃除は朝のうちにできなければ、昼間や夕方に延ばすことはできる。はたまた、落ち葉の無い季節は、朝、昼、夕、すなわち一日中休むこともできる。ところが、落ち葉の季節にあっては、休むことは許されない。とりわけ、十月から十二月の三か月は、飛びっきりの落ち葉の季節にある。このため、この三か月は昼間や夕方への先延ばしは許されず、私はみずからに夜明けまもなくの掃除を強いている。
 なんで、こんな難渋なことを強いているのかと自問すれば、その答えはわが目に道路が汚いからである。特に、先の三か月は落ち葉尽くしの季節である。すると、私は朝の散歩めぐりの人たちに先駆けて、道路を綺麗にしておきたいという、思いに駆られてくる。その挙句にはやむなく、たびたびひぐらしの記の執筆と道路の掃除の時間が重なる羽目になる。道路の掃除は、一基の外灯の灯す下ではできない。もし仮にそれをやれば、「あのあたりには気違いがいる」という評判をこうむり、わが志とは逆に散歩めぐりの人たちへの邪魔者になりかねない。そのため、おのずから道路の掃除は、どんなに心が急(せ)いても夜明けを待つことになる。そして、その前にあっては、ひぐらしの記を書き終えていなければならない。ところがこれこそ、「言う易く行うは難し」の見本みたいなものである。結局、夜明けとほぼ同時に道路の掃除を叶えるには、おのずからひぐらしの記は走り書きや殴り書きをこうむることとなる。
 長々と身も蓋もない切ない楽屋話を吐露した。実際のところ秋の夜長にあっても、焦燥感に襲われるわが苦しい胸の内である。大規模新興住宅地にあって、好んで山際に居を構えたしっぺがしなのか、罰当たりなのか、私は本格的な落ち葉の季節の到来に当惑している。落ち葉の多さに比例するかのように、拾い上げても葉っぱは日に日に重量感を失くし、葉色は艶なく枯葉色、黄色、紅色などへと、変幻自在の様相を深めている。もちろん、落ち葉やドングリとて、好んで落ちるわけではなく、寿命に逆らえず泣き泣き落ちてくるのであろう。そうであれば好季節にあって、死に向かう命の儚(はかな)さを一句に託しても、罰は当たらないはずである。しかし、惜しむらくは私に詩心はない。
 書き殴りをしたせいで、夜明けまでは約十分の残しである。このためきょうは、夜明けを待って、道路の掃除へ向かえることとなる。確かに、うれしいといえばうれしいが、一方では文章の走り書きに、やるせなさがつのっている。

ふるさと産新米 

 私にとって実りの秋の最頂点は、ふるさと産新米との出合である。昨晩(十月十六日・火曜日)、ふるさと産の新米が宅配人から担ぎ込まれた。面倒を掛けて送ってくれたのは甥っ子である。新米の時期にあってはふるさと産の購入を続けている。購入は一回にあたり三十キロである。これを二度と決めているから、年にはつごう六十キロ(一俵)である。一俵を食い尽くすのは六月初めの頃である。その先、ふるさと産の新米が出回る間は、こちらの市販のコメに切り替えている。その理由には二つある。一つは、夏の間のふるさと産には虫が付き易いためである。刈り入れてすぐに揉みずりをしたコメを保存する技術は、商売目当ての専門業者にふるさと産が敵(かな)うはずはない。もちろん、これは当然至極である。だから、甥っ子にたいし、「虫が付いたよ」などと、決して言いたくないための予防措置である。もう一つの理由は市販のコメであれば、九月初めには早々とどこかの新米が出回り始めてくる。ブランド米の早出し競争は、避けて通れないコメ生産者の宿命である。
 私の場合、九月初めの新米には、今一つ信頼を置けないところはある。それでも、「今年度産新米」という表示には、やはり気分ワクワクするところがある。もちろん、よそ物としても先駆けの新米は、ふるさと産につなぐにはありがたいものである。先駆けの市販の新米から比べれば、ふるさと産新米の宅配には、二か月余りの遅れを我慢しなければならない。ふるさとの稲仕納(いねじのう)は、(確かに、十月だった)と、今なおわが脳裏に焼きついている。
 ふるさと産新米は、ブランド米の競争場裏にはない。このため農家は、昔と変わらず季節のめぐりに合わせて、作付けと刈り入れを行っている。言うなればふるさと産新米は、農家の自然体の産物である。そのため、ふるさと産をこよなく愛し、それ一辺倒にすがろうと思えば、待ち遠しくても時期の遅れは我慢しなければならない。これまた、当然至極である。待てど、ふるさと産新米の宅配こそ、わが実りの秋の大団円(だいだんえん)である。
 ふるさと産新米の味覚には、コメ自体の美味しさだけではなく、かずかずの興趣が上乗せられてくる。もちろんそれらは郷愁であり人の温もりであり、かてて加えて、偲ばれてくる亡き人の姿である。
 早速、ふるさと電話をかけた。
「コメ、今、届いたよ。いつも、面倒をかけるね。ありがとう。ふるさとが遠くならず、ほんとにありがたいよ。お金は、きょうの昼間に振り込んだからね」
 こののちは、余得のさまざまなふるさと話にありついた。ふるさと産新米が届くたびにありつける、わが至上の幸福である。

 くだらない、つぶやき

 十月十六日(火曜日)、秋の夜長は日々深まってゆく。その確かな証しは、夕暮れの早さと夜明けの遅さである。どちらも、私には味方している。具体的には「ひぐらしの記」の執筆に際して、気分的に余裕をもたらしている。特に夜明けが遅いことにあっては、格別その恩恵にさずかっている。なぜなら私は、文章は夜間から夜明けの頃までに書き上げることを習わしにしている。もちろん、わがもくろみは半分ほども実践できず、実際には絵に描いた餅さながらの状態にある。しかしながら、昼夜の時間の逆転にあっては、わが心理状態は様変わりとなる。すなわち、秋の夜長なお具体的には夜明けが遅いと、執筆時間に迫られる焦燥感は消失する。かてて加えて、夕暮れが早いとおのずから就寝も早くなる。このため、安眠とはいかなくとも、就寝時間はたっぷりととれる。そのため、目覚めの気分はよく、そのうえ執筆時間の切迫感も免れて、二兎が叶えられるのである。このことでは、秋の夜長は大歓迎である。
 ところが好事魔多し、この気分に通せんぼをするのは、夜長とともに強まりゆく寒気の到来である。もちろんこれには、どうもがいて抗(あらが)っても、抗いきれるものではない。結局、昼夜時間の違いの損得は、わがモチベーション(意欲・やる気)しだいに帰結する。こんなどうでもよいことをのんびりと書くことなど、夜明けの早い時期にはとうてい許されない。しかし、秋の夜長に恵まれ、のんびりと書いてようやく夜明けを迎えたのである。恥を忍んで尻切れトンボの文章を閉じて、落ち葉の季節の朝の道路へ向かうこととする。身勝手、かたじけない。

 怠け者

 きのう(十月十四日・日曜日)は、突然見舞われた寒気に気分が萎えて、そのことを理由に余儀なく文章を休んだ。季節は中秋の候ゆえに実際には、寒気はいまだ序の口である。それでも文章を休むほどに気分が萎えていたのは、のほほんとしていて心身共に、寒気への備えが緩んでいたせいであろう。それに懲りてきのうから私は、身は冬防寒重装備で包(くる)み、心は冬構えの状態に置いている。その甲斐あってきょう(十月十五日・月曜日)、現在(夜中の三時前)の私は、寒気をはねのけて気分の萎えを免れている。しかしながら気分は、完全回復までには至っていない。それは、長引いている鼻風邪のせいである。実際に悩まされていることは、常に鼻ムズムズ感に襲われている鼻炎症状である。老体の加速につれて身体の自然治癒力は、あからさまに衰退傾向を強めている。この傾向に抗(あらが)うにはもはや自力ではなし得ず、おのずから医師の診立てと技術、そして処方箋の薬剤にすがるしか術(すべ)はない。このためこのところの私には、効能を替えた薬剤が増え続けている。
 一旦、病医院へ出向けば医師の技術料だけでは収まらず、必然的に薬剤費がついてくる。そのたびに私は、月極めで多額の健康保険料を前払っているのに、なぜこんなに医療費がかかるのだろうかと、腑に落ちない思いに苛(さいな)まれている。確かに、病気を治すには、薬剤の服用は仕方のないところではある。しかし、丁寧に能書を読めば効能より、副作用の多さに慄然とするありさまである。すると、副作用を恐れるあまり、おのずから服用が途切れがちになる。それにようやく打ち克つのは、せっかく買ったのだから服まなきゃソンソン(損々)という、わがケチ臭い根性である。こんなことを繰り返しているから埒明かず、たかが鼻炎症状でも長引いているのであろう。ケチ根性は「身から出た錆」であり、「馬鹿じゃなかろか!」と、嘆息や自嘲さえ免れないわが性癖である。
 文章は一旦休むと、再始動には骨が折れるところがある。この文章は、明らかなその証しである。きのうはいまだに序の口の寒気に遭って、この先の文章の継続が思いやられていた。きょうは文章そのものに脅(おびや)かされて、この先の継続を危ぶんでいる。もちろん、鼻炎症状のせいではなく、わが「能タリン」のせいである。
 文章を書くには好都合の秋の夜長に心身を置いて、なさけなくもこんな体(てい)たらくぶりである。怠け者には罰(ばち)が当たる。人の世のならいである。

寒さに負けた。なさけない 

 十月十四日(日曜日)の夜明け前を迎えている。季節は中秋の候にある。急に寒くなり、冬布団を重ねていても、幾度となく目覚めを繰り返した。そのなかで堂々めぐりしたのは、起き出しを渋る思いだった。私は寒さに負けたのである。それでも勇を鼓して、ほぼいつもの時間に起き出してきた。しかし、寒さで気分はすっかり萎えている。寒さに極端に弱虫の私は、安易な道を選んだ。いや、選んだというより逃げ込んだ。すなわち、サラリーマン時代の日曜日にあやかり、文章書きの休養を決め込んだのである。秋の夜長は、夜明け前にもかかわらず深々と冷えている。好季節の中秋にあってもこんなに弱虫では、この先のわが身、わが気概が思いやられるところである。ああー、なさけない!

新聞社(新聞)の危機 

 きのう(十月十二日・金曜日)、ふと、こんな思いがよぎった。それは、新聞紙上におけるカタカナ文字や略式文字の多さにかかわっている。すなわち、この頃の新聞は、みずからを含めてお年寄や、読み慣れていない人たちには、いっそう読みづらくなっているだろう? という思いだった。もちろんそれらのほか、紙上には外国語(英字)の短縮文字も多く入り混じっている。インターネット時代になって、やむを得ずであろうか? この傾向は、ますます深まりつつある。
 スマホをはじめSNSが隆盛をきわめる中にあって、若い人たちの新聞離れはもはや旧聞に成り下がっている。これに加えて、お年寄りたちが余儀なく新聞離れをすれば、おのずから新聞の購読者は減るばかりである。このため、新聞社は受難の時の最中にある。それを防ぐための一考であろうか? わが下種の勘繰りをめぐらすと、このところの新聞は、やたらとページ数が増え続けている傾向にある。ところが本末転倒、馬鹿じゃなかろか? これまた新聞離れを誘引することとなる。なぜなら、新聞を読み慣れた人ではあっても、一日中かつ一心不乱に読み続けても、ふるさと言葉で言えば「読み熟(こな)さん」(読み切れない)状態にある。
 私の場合、新聞は子どもの頃から慣れ親しんで読み続けている。かてて加えて、英字を含めて語彙には比較的関心を持ち続けてきた。それでもなお私は、六十(歳)の手習いとはいえ、語彙の忘却防止と新たな出合いを求めて、語彙の習得を生涯学習に据えている。これらのことをかんがみれば、もちろん自惚れるほどではないけれど、私は新聞を読み慣れている部類に入るであろう。そうであってもこの頃の私は、夙(つと)に読みづらさをつのらせている。
 その理由の多くは、冒頭のカタカナ文字や英字の多さである。ところが、そう書きながら私は、すでにこの文章の中にあっても、「スマホをはじめSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)」と、書いている。もちろんそれは、たまたまこの語彙(言葉)を知っていたからにほかならない。しかしながらもはや私は、新聞紙上に現れるカタカナ文字や英字の短縮文字の多くに手を焼きつつある。そのうえパソコンを起ち上げて、メディア(新聞等)の伝える配信ニュースを読み漁れば、朝夙(あさまだき)配達の朝刊さえ、すでに旧聞さながらにある。おのずから新聞の役割は、変貌かつ変質している。言うなれば「ニュースペーパー(新聞)」としての役割と価値は、劣化を続けている。
 私はかたわらの妻にたいし、
「テレビの言葉で、わからないのが増えているだろうね」
 と、尋ねた。すると、妻はあっさりと兜を脱いで、「そうね!」と、言った。
 私は救済の言葉を繋いだ。
「おまえだけじゃないよ。特に、この頃の新聞は読みづらくなっているよ。テレビはまだ絵や写真と同時進行だからわかるところある。だけど、新聞は読み慣れていない人には、とても読みづらくなっている。だから、多くの人はもう読んでいないはずだよ。おれは、ニュースはパソコンで読んでいるから、新聞を取るのをやめたいよ。おまえは読まないし、やめてもいいだろう?…」
 妻の返答には、しばし沈黙が続いた。
「パパ。新聞くらいとりなさいよ。みっともないわ!」
 新聞社は、かろうじて妻の言葉に救われている。
 わが年代がこの世から消え去れば、新聞社(新聞)には、本当の危機が訪れるであろう。これまた、尽きない老婆心である。

 「去る者、来る者」人間模様

 またまた、わがファンとする阪神タイガースのことを書く羽目になった。突如、予期していなかった金本監督が辞意を表明されたからである。セ・パ両リーグには、それぞれ六球団がある。そのうち、今のところセ・リーグでは三人、パ・リーグでは二人の監督交代が公表されている。プロ野球にかぎらず勝負の世界は、「勝てば官軍、負ければ賊軍」の習わしにある。そして、敗軍を率いる監督や指導者は、語らず突如として退陣の憂き目に遭遇する。退陣の多くは、みずから身を退く潔い辞意表明である。しかしながら本当のところは、辞めたくなくてもさまざまなプレッシャーに負けて、辞めざるを得ないのであろう。このことでは、辞めてゆく監督に同情するところである。
 ところがこの時期のプロ野球は、監督交代にかぎらず栄枯盛衰の人間模様の真っただ中にある。好成績をともなって栄える選手は、来シーズンの年俸アップに夢を繋ぐ時期にある。一方、成績が振るわなかった選手には、戦力外通告という解雇の嵐が吹き荒れている。
 確かに、プロ野球球団は企業体である。企業体であれば、意地を為して存続を続ける宿命にある。具体的には野放図に選手を抱えることはできず、おのずから定員管理がほどこされている。もちろん、真っ先にこの煽りを食うのは、成績が振るわなかった選手たちである。その証しにこの時期には、各球団ともあからさまに選手の入れ替えに腐心している。実際には戦力外通告で定員枠を余したところに、有望選手の取り合いをして新たな新人選手を嵌め込むのである。戦力外通告に甘んじた選手にすれば、どうもがいても逆らえない企業道理である。戦力外通告は、去る者は追わずというにはあまりにも寂しくかつ厳しい掟(おきて)である。
 一方、籤当てしてまでも来る者は拒まずいう祭典は、文字どおり賑々(にぎにぎ)しく華やかに行われる。新人選手選びの祭典とは、そのものずばり「新人選択会議(ドラフト会議)」であり、この十月二十五日に予定されている。確かに、企業であれば定員の入れ替えは宿命である。しかしながら来る者は別として、メディアを通して去る者の名が公表されることには、いっそう侘しさつのるものがある。華やかな世界に身を置いた者の宿命とはいえ、これまた同情するところである。秋は、こころ寂しい季節である。

「豊洲新市場」門出 

 私日記風にほぼ毎日「ひぐらしの記」を書いていると、いやおうなく記録として残しておくべき国内外社会の出来事に遭遇する。それらの多くは、メディア報道として伝えられてくる。そして、インターネッ社会になって以来、それらの報道はリアルタイム(同時性)のスピードを持って伝えられてくる。きょう(10月11日・木曜日)の私は、多くかつさまざまなメディアの配信ニュースの中から下記のニュースを、ひぐらしの記への引用を試みている。なぜならそれは、喧々諤々の是非の論争のうえ、長いあいだたな晒しになっていた「豊洲新市場」の華やかな門出の日だからである。
 【「豊洲市場」開場 予定より2年遅れて】(10/11・木曜日1:32配信 日テレNEWS24・NNN)。「東京都の新しい中央卸売市場、豊洲市場が、11日に開場した。当初の予定からは2年遅れのスタート。江東区にある豊洲新市場は、11日午前0時に開場した。豊洲市場は、築地市場から2.3キロ離れた臨海部に位置し、広さは築地市場の1.7倍となる40ヘクタール、閉鎖型の建物で、東京都は、魚の鮮度を保つための温度管理や衛生管理ができるのが特徴だと説明している。豊洲市場への移転は、地下の土壌汚染問題で予定より2年遅れた。今月6日、築地市場が営業を終え、各業者は急ピッチで引っ越し作業を行った。11日の午前5時半ごろには、初めてのマグロのセリが行われる予定で、『日本の台所』と呼ばれた築地市場の伝統や文化を継承し、新たな『豊洲ブランド』の確立を目指すが、交通渋滞などの課題も指摘されている。」
 記事によれば午前0時に開場し、午前5時半頃には初めてのマグロのセリが行われるという。現在壁時計の針は、午前4時半過ぎを回っている。初セリの掛け声はまもなくである。お祝い気分で、きょうのマグロは高値となりそうである。いずれにしても、「めでたし、めでたし」の豊洲新市場の門出である。日本社会は、久しぶりにお祝い気分横溢である。

好季節が恵んだ「人情劇」 

 十月十日(水曜日)、かつてはこの日が「体育の日」だった。ところが、現在は平成十二年(二〇〇〇年)のハッピーマンデー法施行以来、十月の第二月曜日に移行している。移行以来、かなりの年月が経つので、もう馴染んでもいいはずだが、いまだにいっこうに馴染めない。
 体育の日にかぎらず国民祝日は、やはり一定日のほうが馴染みやすくてしっくりくる。ハッピーマンデー法の長短をなすところである。ところが、この名称も二〇二〇年(東京オリンピックおよびパラリンピック)からは、「スポーツの日」へ変わるようである。さ迷える体育の日と、言えそうである。
 体育の日にちなんで、懐かしく想起されてくるのは学び舎の運動会である。現在の私は、運動会とは無縁に成り下がっている。わずかに命脈を保っているのは、孫のあおば(小学五年生・十一歳)の運動会である。ところが、いまだにお呼びがかからない。日本社会のご多分にもれず児童数の減少傾向にあって、どこかしこ学校事情は様変わりを続けている。もちろん運動会は、体育の日やその前後にかぎることでもない。そのため、よもや中止ではなく、この先にお呼びがかかるのかもしれない。
 季節的に、体育の日あたりは中秋の候である。体育の日が過ぎれば秋は、晩秋から初冬へ向かって深まってゆく。おのずから季節は、寒気を強めてゆく。だから私には、暑さを遠退けた彼岸から寒気が近づくこのあたりが、秋の中でも最も好む好季節である。
 きのう(十月九日・火曜日)のわが家には、思いがけない電話が入った。電話をくださったのは、卓球クラブのかつてのお仲間である佐藤様だった。同時に佐藤様には、長いあいだ「ひぐらしの記」(単行本)の愛読をたまわっていた。ところが、佐藤様は体調を損(そこ)なわれ余儀なく退会され、つれてひぐらしの記の愛読も沙汰止みになったのである。かてて加えてこれを境に、親しかった御縁も遠のき始めていた。
 佐藤様は、わが年齢(七十八歳)とおっつかつの貴婦人である。受話器は妻が手にした。しばし、妻の明るい声が続いていた。そののち、「主人に代わりますから…」と言って、妻から受話器が手渡された。久しぶりの電話で、わが気分は弾んでいた。用件は「前田さん。柿を捥(も)いでいただけないかしら?」と、早や合点した。私は「午後に伺いますから…」と、言って電話を終えた。柿千切りは妻との共同作業である。私が長い柄の剪定鋏で落とすのを妻は、下で雨傘を仰向けに広げて柿の落下を待っている。のどかに秋の陽射しがふりそそぐ昼下がり、私と妻は準備万端柿千切りの用意をととのえて、佐藤様宅へ出向いた。
 久しぶりにお会いした佐藤様は、明るい笑顔で出迎えてくださった。明るんだ柿が、陽射しに照らされてたわわに生っていた。私は、心中(全部千切るには、自分では手に負えないな!)と、思った。それでも私は、引き受けたからには全部千切らなければならないと、覚悟した。剪定鋏を木鋏に持ち換えて、まずは手の届くところから千切り始めた。すぐに、大きな発砲スチロールの箱にいっぱいになった。ところが途中、妻が「パパ。もう、穫らなくていいそうよ」と、呼びかけた。
「なんで? これから全部、穫るんだよ!」
「佐藤様が、『もう穫らなくていいわ!』と、おっしゃっているわよ」
「なんで? 全部千切りに来たんだろう…」
「まだ、五人ほど捥いでくださる人がいるそうよ」
「そうか…」
 私は腑に落ちない面持ちで、柿千切りを止めた。
 佐藤様が「前田さん。柿を捥いでくださらない?…」と呼びかけられたのは、佐藤様の優しさの証しだったのである。すなわち、柿好きの私と妻にたいする、格別のお心くばりだったのである。私と妻は千切った柿を一つも残さずリュックとレジ袋に詰めて、わが家へ引き返した。振り返ると佐藤様は、二人の背中をたたずんで見送られていた。好季節にあって突然、ふってわいた人情劇の一コマである。

 屈辱の「体育の日」

 過日、私は「ビリになりそう」と、書いた。案の定、阪神タイガースはビリになった。あまりの不甲斐ない戦いぶりに、悔しさはとうに消えていた。だから、最下位確定であっても、一粒の涙も出ない。もちろん、私自身がしらけいっているからである。しかし、タイガースファンとしては、かぎりない屈辱ではあっても、記録に残しておこうと決意した。わが生存中にあって、今シーズンの屈辱を果たすことなど、もちろん「夢、ユメ、ゆめ」のまぼろしである。
 【阪神がノムさん以来17年ぶり最下位、対燕10連敗】(10/8・月曜日 20:56配信)(日刊スポーツ)。<ヤクルト6-5阪神>◇8日◇神宮。「阪神がヤクルトに敗れ、野村監督の率いた01年以来、17年ぶりの最下位が確定した。前夜、金本監督就任以降ワースト更新となる77敗目を喫したばかりだが、この日もヤクルトに序盤、大量6点を奪われ、後半追い上げたものの悪夢の10連敗で78敗目。借金も今季最多を更新する『18』にまで膨れあがった。先発才木が誤算だった。ヤクルトの初回、雄平に2点適時二塁打。2回には坂口の適時三塁打、バレンティンにも38号3ランを浴び、2回6失点でKOされた。阪神は5回に二ゴロ併殺が崩れ、ヤクルト遊撃・西浦が一塁悪送球の間に1点を返した。5点を追う阪神は8回に打線が爆発。5番大山の左前適時打、6番陽川の中越え二塁打、7番梅野の右前適時打と続き、一挙4点を奪い1点差と詰め寄った。1点ビハインドで迎えた阪神は、ヤクルトの守護神石山に3者凡退で勝利に届かず、屈辱の『10月8日・「体育の日」(振替休日・月曜日)』となった。」
 こんななさけないことを私は、日が替わったばかりの10月9日(火曜日)の真夜中、12時過ぎに書いている。ほとほと、馬鹿じゃなかろか! もちろん、弱い阪神タイガースのせいである。

 パソコン修復劇

 きのう(十月六日・土曜日)の文章は、前日(五日・金曜日)からのパソコントラブルに見舞われて余儀なく休んだ。パソコントラブルが発生したのは夕方の停電のおりである。私はパソコン画面で、大学野球・母校中央大学対国学院大学の生中継を観ていた。停電は消えたり点いたりを三、四度繰り返した。突然の停電の原因は知るよしない。停電は回復した。しかしパソコンは、初体験のメッセージを画面に残して使用不能になった。
 これまでの体験では、停電が回復すればパソコン使用も元に復していた。そのため、このときの私はすぐに回復するだろうと高をくくっていた。そして、間隔を置かずに何度となく再起動を繰り返した。ところが、そのたびに当初のメッセージが画面に現れるだけだった。私は業(ごう)を煮やして、有償契約済みの「J:COM、お任せサポート」に電話をかけた。受話器は男性係員がとった。私はパソコントラブルの経過を詳しく伝えた。男性係員は丁寧に応じた。このときの私は、わがパソコンだけのトラブルを恐れていた。ところが係員は、「停電で、わがほうに障害が発生しているようです」と、言われた。私はこの言葉に胸をなでおろした。なぜなら、気を取り直して、先方の障害が回復するのを待つのみである。しかし係員は、意外な言葉を付加されたのである。
「お客様、夜の八時頃までか、あすの朝頃まで待っていただけますか。この間の経過は、電話を入れて確かめてください」
 私は虚しく、「わかりました」と言って、やりとりを終えた。
 そののちは、時をみはらかってパソコンの再起動を繰り返した。しかしながら自動回復は叶わず、お任せサポートセンターへ電話をかけ始めた。そのたびに自動音声は、「電話の受付時間は終わっています。電話の受付時間は朝の九時から夕方の六時までです」と、繰り返した。それでも私は、先方の異常事態ゆえに、臨時のメッセージが流れるかな? と思って、間隔を置いて電話をかけ続けた。同時に、パソコンの再起動も続けていた。
 待ちに待って私は、翌朝の九時きっかりにお任せサポートセンターへ電話をかけた。混雑をきわめて、多分繋がりにくいだろうと思いきや、案に相違し電話は一発でつながった。受話器を取られたのは、前日とは違う男性のようである。電話(会社)のしきたりにしたがって、まったく同様のわが身の確認がなされた。それが済むと私は、焦る気持ちで前日からの経過をこまごまと伝えた。そのなかで腹いせまぎれに強調したのは、「こちらの障害です」と言われて、復旧を待ち続けてきたことだった。ところが意外や意外、「停電で、うちのほうに障害は出ていませんよ。停電で、お客様のコンピュータに異常が起きたのでしょう」。
 私には怒髪天を突く、腑に落ちない言葉である。しかし、ここで怒りをあらわにしては、相談事は成り立たない。このため、私は堪忍袋の緒を切らず、すがるような心持で丁寧な言葉で対応した。ところが、先方のこの言葉には今にも堪忍袋の緒が切れそうになった。
「修理に伺うとすれば、休み明けの九日の火曜日になります。予約を入れましょうか?」
 私は「ちょっと、待ってください。トラブルのおりいつもしていただいているように、この電話のやりとりで修復はできないのですか?」と、オウム返しに言った。
「できるでしょう」
「それなら、そうお願いしますよ!」
 双方のこの言葉を皮切りに、電話のやりとりで修復作業が始まった。
 私は携帯電話を聞こえるほうの左耳に当て、右の指先で先方の指示どおりに修復作業を進めた。このときの作業はいつもとは違って、キーを叩くことでは一度もなく、回線を外したりつけたりの繰り返しだった。修復作業の最後には、パソコンの再起動を試みた。パソコンは正常状態に戻っていた。狐につままれたような、二日がかりのパソコン修復劇だったのである。

飽(あ)きがきている 

 十月五日(金曜日)、パソコンを起ち上げると日々の慣習にしたがって、メデイアの伝える配信ニュースを読み漁った。すると、さまざまに数ある中で、この記事が苦々しい気分をともなって、目に留まった。【国支出額が8011億円 国説明の7倍超に】(毎日新聞 最終更新2018年10月4日21時20分)。全体支出は3兆円規模か 会計検査院が試算を明らかに。「会計検査院は4日、2020年東京五輪・パラリンピックを巡る国の支出額が8011億円に上るとの試算を明らかにした。これまで国は大会関連予算を1127億円と説明しているが、7倍以上も上回っている現状が浮かんだ。東京都と大会組織委の負担分と合わせると、全体の支出は20年までに3兆円に達する可能性が高い。検査院は国に、施策と大会の関連性を精査して全体規模を示すよう求めた。」
 この記事を読んでなぜか? わが心中には子どもの頃のうろ覚えのこんなフレーズが浮かんだ。「そこのけそこのけお馬が通る」。浮かんだだけで、本当の意味は知るよしなかった。そのため、電子辞書にすがった。しかし、「ことわざ成句使い方辞典」(明鏡)にあっても、掲載はない。仕方なくいつもの習性にしたがって、インターネット上の人様の知恵と学習にすがった。すると、山梨県民図書館提供として、こんな説明が記されていた。「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」(小林一茶『おらが春』より)「もともと「そこを退き去れ」と大名行列の人払いをするときに使われた格式ばった言葉。ここでは、子供が遊びの場で「お馬が通る、先のけ先のけ」と囃す語へ転化したもの。「馬場退け馬場退けお馬が参る」(狂言「対馬祭」)を踏まえているとも。」(『新編俳句の解釈と鑑賞事典』より)。
 なぜ? ふとこのフレーズが浮かんだかと言えば、こうである。すなわち、オリンピックという「錦(にしき)の御旗」のもとに、ごり押し、無理押しがまかり通っていると、感じたからである。オリンピックは一度誘致さえすれば、開催費用の水ぶくれには頬かぶりである。実際には当初の予算など、まったくの上の空である。
 ここでまた、二つの言葉が浮かんだ。一つは杜撰(ずさん)である。すなわち、当初の予算は、誘致をもくろむためだけに安く見積もったものだったのであろう。杜撰とは、言葉を置き換えれば出鱈目(デタラメ)である。一旦誘致が決まれば関係者は、予算やその後の費用の水ぶくれにはもはや聞き耳をもたずさながらである。
 すると、一つは驕慢(きょうまん)である。もちろんここでは、関係者の驕(おご)り高ぶりである。伝えられる予算の水ぶくれを危惧すると、オリンピックは「一都栄えて、国滅びる」の元凶にもなりかねない。わが周辺はもとより日本列島津々浦々には、空き家の激増が目立っている。オリンピックをひかえて,老婆心のタネは尽きない。近づく祭典・オリンピックを前にして、私には飽(あ)きがきている。

秋なのに…… 

 この文章はいつもどおりに書いたのに、投稿ボタンを押し忘れたものである。そのため、日にちや時間のずれはあるけれど、没にするのも忍びなく、ほぼ一日半後れて投稿ボタンを押したものである。
 長く続いていた歯医者通いは、きのう(十月二日・火曜日)の通院治療で、ようやく終止符が打たれた。私は診療室から出る際には先生にたいし丁寧に頭を下げて、「お世話になりました」と言って、誠実かつ真摯(しんし)に謝辞を述べた。先生の脇にたたずんで、マスク越しにほほ笑まれていた若い女性歯科衛生士にたいしては、「また、来ます」と、言った。するとすぐさま、「来てください。待っていますから…」と、即妙の言葉が返った。
 私は気分を和らげて、「ここには、もう十八年通い続けていますから…」と、言葉を重ねた。この言葉にたいし衛生士はキョトンとして、「十八年?…」、と言葉を重ねられた。私はすかさず、「そうです。定年退職後からですから…」と、言った。本当のところは、もう来たくはない。しかしながらそれは、わが思いなどそっちのけにして、歯の痛み出ししだいである。
 へんてこなやりとりを残して、互いのしばしの別れの言葉となった。いや、わが余命をかんがみれば歯医者通いも今回で打ち止めとなり、案外、永遠(とわ)の別れ言葉になったのかもしれない。
 斎藤歯科医院(横浜市栄区)を出ると、夏のぶり返しとも思えるほどの秋天の暑い陽射しがふりそそいでいた。それでも、通院に終止符が打たれたことで、わが気分は軽やかに弾んでいた。診療椅子に横たわるたびにわが心中には、要(い)らぬ思いが蠢(うごめ)いている。それは世界中の歯医者が寄ってたかっているのに、たかが虫歯さえ根絶できないのか、というやるせない思いである。その挙句には虫歯は歯医者の「飯のタネ」であり、そのため端(はな)から根絶の気概などないのでは? という、わが下種(げす)の勘繰りである。歯医者通いの文章は、これで一巻の終わりしたいところである。しかしそれは、わが歯にとりつく、まだ見ぬ虫の暴れ方しだいである。
 このところの私は、いまだに風邪が治りきらず、鬱陶しさにとりつかれている。さらにこれに加えて、長いあいだ鳴りを潜めていた症状の発症に見舞われて、鬱陶しさがいや増している。このため現在の私は、せっかくの好季節を台無しにしているなさけなさである。
 再発の症状とは、生来の宿痾(しゅくあ)として我慢し続けていた口内炎である。過去の経験的に口内炎をもたらす食材は、わが好む落花生(ピーナツ)とイカ類と、自認してきた。ところが、ピロリ菌を薬剤で消滅して以来、どういうわけか口内炎はぴたりと影を潜めたのである。(もう死んでもいい)と、思うくらいの痛快きわまりない摩訶不思議な幸運だった。そのためそれ以後の私は、かつて強いられていた我慢の怨念を晴らすごとくに、それらをむさぼり食べ続けた。それでも、口内炎の発症は途絶えていた。
 ところが好事魔多し直近、口内炎がベロ(舌)や喉(のど)に相次いで発症したのである。確かに私は、イカの塩辛を食べていた。ピロリ菌消滅効果は、期限切れだったのだろうか。このため現在の私は、かつてのように軟膏「ケナログ」(ブリストル・マイヤーズ製)を塗って痛みを堪(こら)えている。しかし、舌裏や喉には塗れず、そのため痛みに顔を顰(しか)めて泣きべそをかいている。ピロリ菌は虫歯と違って、一度消滅すればこと足りると言われてきた。このため、ピロリ菌のせいではないはずである。
 実りの秋や食欲の秋にあって、とんだ厄介もの再発である。せっかくの好季節、秋なのに…、一難(虫歯の痛み)去って、また一難(口内炎の痛み)である。長引いている風邪を加えれば、さらにまた一難である。

わが嘆きの老婆心 

 少子高齢化社会、過疎化傾向を強める地方自治体、総体的に減少続ける人口動態、いずれも悩ましい日本社会の課題である。これらの難題克服には、確かに背に腹はかえられないさまざまな対応が求められている。
 その一つは、日本人働き手の不足を補う外国人すがりの施策である。実際にもこのところの日本社会のさまざまな職業や職場には、日常的に外国人(籍)の姿が増え続けている。もちろん私は、外国人働き手の増加傾向を毛嫌いしているわけではない。まさに、背に腹はかえらず現下の日本社会は、外国人の存在がなければ立ち行かなくなりつつある。しかしながらこのことには日本人として、日本社会の大きな変容を覚悟しなければならない。
 具体的にはさまざまな職業や職場において、日本人は外国人の脅威に怯(おび)えなければならない。その挙句、日本社会および日本人は、気づいたときには庇(ひさし)を貸して、母屋を取られることにもなりかねない。このことは変容する日本社会にあって、私が具体的に恐れていることの一つである。その恐れをこの記事は露わにしている。
 もはや外国人は、あらゆる職場で日本人を凌駕し始めている明らかな証しでもある。ウカウカのほほんとしているとこの先の日本人は、外国人にいろんな職業や職場を奪われて、泣き目を見そうである。わが嘆きの老婆心である。
 【メルカリ、新卒9割が外国籍=インド名門大出身も】(10/1・月曜日、17:00配信 時事通信)。「フリーマーケット(フリマ)アプリ最大手のメルカリは1日、同日付で入社した中途採用や新卒社員向けの説明会を東京都内で開いた。新卒50人のうち44人が外国籍で、インドの名門、インド工科大学(IIT)卒業生も含まれる。同社は通年採用を実施しており、中途・新卒の計約100人が参加した。新卒の出身地域を見ると、インドが32人で最多。メルカリは昨年、同国でIT技術を競うイベントを開催。知名度が向上し、IIT卒業生の採用に結び付いた。台湾や中国、米国の出身者も採り、海外展開の強化を狙う。IIT卒業生でソフトウエア開発が専門のサヒル・リシさん(22)は『インターンシップ(就業体験)にも参加し、ぜひ社員になりたいと思った』と話した。」
 顧みれば凡庸な私は、良い時代に生まれて、泣き目を見ずに逝(い)ける。しかしながら、子孫(こまご)やこの先の日本人を慮(おもんぱか)れば、心許無(こころもとな)い心境に苛(さいな)まれている。
 その一方で私は、外国人介護スタッフ(職員)に終末のわが身を委(ゆだ)ねないともかぎらない。確かに、背に腹はかえられない、よくもわるくも日本社会の現実である。

台風去って、「月下美人」 

 十月はじめのきのう(一日・月曜日)は、余儀なく文章を休んだ。北上中だった台風二十四号は、鎌倉地方には九月三十日(日曜日)の夜をピークにして、夜明けにかけて過ぎ去った。台風襲来の予報の場合のわが家には、すべての雨戸を閉めて就寝する習わしがある。このため、就寝中の台風の強弱は、おのずから山の音で判定することとなる。ところが、難聴の私はとんでもなく大きな音でないかぎり、山の音を聞き取れない。その挙句、台風の強弱の判定はおぼつかない。
 この日の私は、台風襲来の予報をもとに、普段よりいっそう早めに床に就いた。そのため、真夜中(1時)の頃に目が覚めてしまい、いやおうなく文章を書くために起き出しにかかった。するとこのとき、停電に気づいたのである。それでも私は、常時枕元に置いている懐中電灯を片手にして、パソコンの前へ向かった。マウス無線操作のパソコンは、あわよくばキーが叩けるかもしれないという、思惑があったからである。しかしながら思惑は外れて、やはりパソコン使用は不能だった。仕方なく、電灯の明かりを待った。ところが、夜明けの時刻の頃(五時半)までには、停電の回復はなかった。あとで妻が言うには、停電が回復したのは六時過ぎだったようである。
 私は文章を諦めて、隣近所に気兼ねしてできるだけ静かに雨戸を開け広げた。台風は過ぎ去っていて、もはや山の木の葉の揺れは普段どおりだった。雨も止んでいた。私は眼下の道路に目をやった。道路には大枝、小枝、入り混じり、濡れた落ち葉が汚(きたな)らしく隅々に敷き詰めていた。夜明けの明かりにはまだ薄暗く、それでも私は、急いで玄関口を出て道路へ向かった。まずは散歩めぐりの人たちの足元を脅(おびや)かす、大枝、小枝を一つひとつ拾い上げて、山の中へ戻した。この行動を皮切りにきのうの私は、いつもとは違って早速、濡れ落ち葉の掃除にとりかかった。あまりにも狼藉(ろうぜき)きわまりなく、あくまでも手を焼く応急処置である。それでも、四時間ほどがかかった。
 昼間は大船(鎌倉市)の街へ出かけた。帰宅するいなやこんどは、すでに乾いていた道路の掃除へ向かった。ここでは、仕上げの丁寧な掃除に終始した。ここでは、二時間ほどかかった。結局、きのうの掃除にはつごう六時間ほどがかかったことになる。その甲斐あって道路は、台風の跡を残さず綺麗になった。大袈裟に言えばきのうの道路の掃除は、台風去ったあとのわが復旧作業と、言えるものだった。
 余儀なく休んだきのうの掲示板には、大沢さまのご投稿文にあずかっていた。ご投稿文に添えらては、月下美人開花の様子を撮られた写真がキラキラと光っていた。写真は、月下美人の美しさをあまねく写した見事な出来栄えである。おのずから私は、「ひぐらしの記」への転載をお願いせずにはおれなくなったのである。
 【月下美人物語】(ご投稿者:大沢さま ご投稿日:2018年10月 1日・月曜日、20時30分37秒 )。「本日昼頃から少しずつ開き始めた月下美人の花が、八時二十四分満開です。昨日は台風を心配して部屋の中に取り込んだため、少し早めに蕾が膨らみ始めました。いつもはこの時間ではまだ八分咲きぐらいなのに、今夜はやきもきせずに見られました。」(添付の写真)。

 助け舟は「栗団子」

 台風二十四号が近づいている。そのせいか、窓ガラスには雨垂れが絶え間なく幾筋も引いている。秋の夜長が更けてゆく。ほぼいつもの時間帯(三時近くに)に起き出して、メディアの配信ニュースは読み尽くした。しかし、あえて引用したくなるニュースはない。一方、心に浮かぶテーマもない。書き手の悩ましいところである。雨降りのせいで、今朝の道路の掃除は免れる。このため、いつもと違って焦らずとも、執筆時間はたっぷりある。もちろん、いつもは執筆時間に飢えている。だから、現在の私は願ってもない時間帯を享受している。
 ところが、書くテーマがまったく浮かばない。だれのせいでもなく、わが凡庸な脳髄のせいである。一層、悩ましさが増幅している。本音のところは寝床へとんぼ返りして、秋の夜長と掃除を強いられない時間を睡眠でむさぼりたいところである。しかし、早寝したことで睡眠はたっぷりとれて、目は冴えている。冴えていないのは脳髄である。これまでの私は、なんどこんな無粋(ぶすい)のことを書いて、「ひぐらしの記」の継続を自惚(うぬぼ)れてきたことだろう。まさしく、みずからを「馬鹿じゃなかろか!」と、蔑(さげす)むところである。
 こんな残酷な境地のおり、きょうの助け船は「栗団子」である。この秋のわが家は、すでに五度にわたり栗団子をこしらえた。例年にない多さで、栗団子の堪能にあずかっている。五度の栗団子作りは、妻主導にわが加勢がともなった共作だった。栗団子が大好きな私に気配りして、妻が率先してこしらえてくれたのである。ところが、栗団子になお未練を残す私は、六度目の栗団子作りを欲したのである。しかし今回は、妻の気配りにたいし、私にはちょっぴり気兼ね(遠慮)が疼(うず)いた。
「栗団子、大好きだから、もう一回食べたいよ。しかし、こんどは自分ひとりで作るよ。いいだろう…」
「いいけど、パパ、ひとりで作れるの? わたしが、作るわよ!」
「いいよ。ひとりでできるよ。だけど、途中で、ゴタゴタ言うなよ!」
「わかったわ。やってみなさいよ!」
「やってみるよ」
 私は、妻を茶の間のテレビの前に置き去りにして、大袈裟に言えば厨房、実際のところは蟻の穴みたいな小さな台所に立った。
 茹で栗と皮剥きは、わが専売特許さながらにお茶の子さいさいである。最大の難度(難所)は、これまでの見様見真似での粉(強力粉)の練り上げと塩加減である。この難所を越えれば、練り上げた粉にすでに剥いて置いた栗を包(くる)むのは、何度も経験済みでこれまたお茶の子さいさいである。包みながら、かたわらの鍋に水をたっぷり入れて、湯を沸騰させておけばいい。その湯の中に、手の平で栗を包んだ団子を指先でかつがつ落としていけばいい。まもなく、出来上がりである。この全工程をこんどは、妻の手を煩わすことなく、私ひとりで挑むのである。
 「好きこそものの上手なれ」とはいかなくて、たとえ「下手の横好き」と罵(ののし)られようと、「思い立ったが吉日」である。私はボウルに強力粉を入れて水を含まし、ちょっぴり食卓塩をふりかけた。そして、強力(ごうりき)で粉を何度も何度もこね回し、適当なぐあいに練り上げた。ただ惜しむらくは、いくらか柔らか気味で、練り上げた粉がべたついた。次回に向けての課題である。
 かたわらで沸騰し始めている湯に、小匙で粗塩をちょっぴり落とし塩湯加減にした。準備万端がととのうと、いざ! 手の平で丸めてべたついた団子を作った。しめた!、茶の間の妻はじっと我慢をしているのであろうか、懸念していた途中のごたごた言葉はまったくない。私は一心不乱にひとつずつ栗を包んで団子に仕上げ、指先から沸騰している湯に落としていった。すべてを落とし終えた私は、出来上がるまで極楽気分で、舌舐めずりをしていた。
 私は試食をしないままに、妻にたいし大声で、「できたよ!」と、言った。シエフ(料理長)さながらに、真っ先に試食にありついたのは妻だった。
「パパ。とても美味しいわ。塩加減がちょうどいいのよ。これまでで、一番おいしいわ!」
「そうか…」
 私はもったいないから、まだ試食さえしないままである。そのため、わが全工程の栗団子の味は、きょうへ持ち越しとなっている。もちろん、食べ出すと尽きるまで食べそうで、それを恐れてみずからに我慢を強いているのである。みずから手作りの栗団子には愛着がともない、食べるに忍びないところもある。このため、郷愁がらみのおふくろの味に出来上がっているかどうかの自己判定は、きょうの試食待ちである。
 お粗末!、助け舟は「栗団子」、一巻の終わりである。

朝のつれづれ文 

 きのう(九月二十八日・金曜日)は、予告どおりにいまだに夜明け切らない、いくらか薄明りのうちから道路の掃除をした。二日続きの雨上がりのあとだけに、難渋と二時間近くを覚悟のうえに、急いで道路へ向かったのである。もちろんこの心積もりは、散歩にめぐる人たちに先駆けて、道路を綺麗に掃き清めて置くためであった。こんな逸(はや)る心意気があったから、一心不乱に掃除をした。その甲斐あって道路は、一時間強で鏡面のごとく綺麗になった。たちまち、わが気分は清々しくなった。しかし、早い時間だったので常連の人を含めて、散歩めぐりの人たちにはほとんど出会えなかった。たったひとり、いつもの若い女性のマラソンランナー(ジョギング)が、走りながら「おはようございます」と、わが背に呼びかけられた。私は走り去るランナーにたいし、大慌てで「おはようございます。がんばって!」と、言葉を返した。
 掃除が済んだあとに、ひとり、ふたり、後方から散歩めぐりの人たちが見え出した。これらの人たちを皮切りに、散歩めぐりの人たちが増えてゆく。これらの人たちは綺麗になっている道路を歩いて、私同様に清々しい朝を迎えられるはずである。そうであれば、わが一念の思いは叶えられたことになる。まずは「めでたし、めでたし」である。
 今朝(九月二十九日・土曜日)の掃除は、いつもの時間帯と時間に復するであろう。そうすれば、散歩めぐりの多くの人たちと、いつものように朝の挨拶を交わすことになる。きのうはからだに寒さをおぼえながら、きょうとほぼ同じ時間帯(五時前)に、「ひぐらしの記」の文章を書いていた。ところが、きょうはまったく寒さを感じない。
 きのうの昼間は、本来の秋のさわやかな陽射しに恵まれた。私は心躍る気分だった。このため、妻と連れだって大船(鎌倉市)の街へ買い物に出かけた。ところが人の心はまったく同様で、大船の街には心ウキウキ風情(ふぜい)の大勢の買い物客が繰り出していた。のどかな買い物風景を眺めながら私は、(秋の天候は、いつもこうあってほしいものだ!)、と願っていた。ところが、南の海上から日本列島に狙い定めたかのように、台風二十四号が近づいているという。そうであれば、きのうのさわやかな秋天はつかのまになりそうである。このため、きょうの天候にすがる思いである。
 台風は前触れそして余波ともに、わが道路の掃除にきわめて難渋をもたらすこととなる。台風シーズンの本家をなす九月は、きょうとあすの二日かぎりである。台風はシーズンの面目にかけて、時期にやや遅れてもやってきそうである。つらい九月の末と、十月の初めになりそうである。尻切れトンボの文章のままに、日課の道路の掃除に出向くため、これでおしまいである。きょうは、やや、出遅れたかな!

まだ、中秋なのに… 

 おう、寒い! 秋も、冬も、春も嫌いだ! やはり、夏がいい。少しでも寒気に縁のある季節は、とことん嫌いだ。寒気に極端に弱虫の私は、泣きべそをかいて駄々をこねている。馬鹿じゃなかろか、こんな心細い心境で、よく書き続けてきたものだ。
 キーボードへ就く前に窓辺へ寄り、のそり窓ガラスを開いた。現在の時間帯は、三時半過ぎである。一基の外灯の照らす道路には、雨露の光の返りはない。どうやら、夜が明ければ今朝(九月二十八日・金曜日)は、真っ先に道路の掃除へ向かわなければならない。雨が続いて余儀なくさぼり、楽をしたぶん今朝の掃除は厄介をきわめそうである。実際のところ粗い舗面にこびりついた濡れ落ち葉を、指先で一つずつ剥がしながら掃くことになる。そのため、二時間近くかかるかもしれない。
 このところは、夜明けまもない頃の掃除が続いている。そのたびにわが心中には、(掃除はもう手に負えないなあー)、という嘆息交じりのなさけない思いがフラついている。この思いをようやく払拭(ふっしょく)できているのは、自分がやらないとやる人がいない、というささやかな公共心である。それに輪をかけて、最たる支えは散歩常連の人たちと互いに交わす朝の挨拶言葉、「おはようございます」の心地良さである。
 ところが、この頃はかつての常連の人たちの姿がめっきり減り、顔ぶれが入れ替わっている。朝の散歩にめぐる多くの人たちは高齢者である。人それぞれに、できるだけ健康で長生きを願っているのであろう。だから、それらの人たちの姿が入れ替わるのは、おのずから寂しいかぎりである。人の行為や行動あるいは命の入れ替わりにあって、新陳代謝とか端境期(はざかいき)という言葉はもちろんふさわしくない。しかしながら、おのずから高齢者の散歩の寂しさは、これまでひかえていた(予備軍)人たちが歩き出すと、いつのまにかかつて歩いていた人たちの足が遠のいていることである。これすなわち、高齢者散歩の厳しい掟(おきて)である。もちろん、いずれというより、まもなくわが身でもある。
 好季節、中秋にあって、寒さに震えながらこんな一文を書くようでは、ほとほとわがお里の知れるところである。

 広島カープ、セ・リーグ優勝

 「天災は忘れた頃にやってくる」。このフレーズを捩(もじ)れば、事故や災難もまったくそのとおりである。私の場合は、風邪が治りきらないうちに、また風邪を重ねてしまった。このところの悪天候に、うっかり気の緩みの隙を突かれたようである。ごく小さいこととはいえ、気分の滅入るとんだ災難である。
 きのうは(9月26日・水曜日)は、彼岸の明け日だった。通りすがりの路傍の彼岸花は、一週間の彼岸にほぼきっちりと合わせて咲いていた。ところが彼岸花は、もはや弱々しく萎(しお)れていた。一本立ちに凛(りん)と伸びていた茎は、次の出合では周囲の雑草の上に折れていた。この哀れな終末の姿は、彼岸らしからぬ雨続きの天候のせいであろう。「暑さ寒さも彼岸まで」と言って気を許し、のほほんとしていた私は、寒気まじりの雨続きの天罰を食らったのである。確かに、寒気や雨続きは、わがどうにもならない天の悪業(あくごう)である。命の短さではセミに劣らず彼岸花もおっつかつである。わが天罰の巻き添えをもたらしたことには、かえすがえす忍びないものがある。
 気分の滅入りは、自作文を妨(さまた)げている。このため、メディアの伝える配信ニュースの朗報を引用し、わが気分直しをはかるものである。
 【広島、セ・リーグ3連覇…27年ぶり本拠地V】「プロ野球のセントラル・リーグは26日、優勝へのマジックナンバーを1としていた広島東洋カープが広島市のマツダスタジアムでヤクルトに10―0で勝ち、3年連続9度目のリーグ優勝を果たした。セ・リーグの3連覇は2012~14年の巨人以来で、巨人以外では初めて。チームにとって地元・広島での優勝は、1991年以来、27年ぶりとなった。昨季、球団として37年ぶりの連覇を達成した広島は、今季も開幕4連勝と好スタート。強打で4月24日以降は一度も首位を譲らなかった。(2018年9月26日 21時27分 読売新聞)」。
 わがファンとする阪神タイガースは、巻き添えならぬ広島カープの煽(あお)りを食って、ビリになりそうである。風邪は治っても、気分の滅入りはこの先当分のあいだ治りそうにない。夜明け前(9月27日・木曜日)、雨戸とカーテンを開けっ放しの窓ガラスには、またまた幾筋もの雨垂れが光っている。

おっちょこちょいで、アホな私 

 歯医者通いが、ほぼ一週間おきに延々と続いている。歯医者通いは、一度始めるとなかなか終わらないものの一つである。自分では気づかないけれど、先生は新たな虫歯を次々と探されて、「これも治療しておいたほうがいいですね。どうされますか?」と、問いかけられる。こんな問いにたいし、「いいえ、いまは痛みませんから、そのままにしておいてください」と、拒絶言葉を告げることは困難である。その挙句には渋々、「そうですね…、先生にお任せします」、と言ってしまうなさけなさである。本当のところは、いや本音のところではもっと駄々をこねたい思い山々である。
 先回のおり、先生とアシスタントの歯科衛生士(女性)には言わない言葉を、受付係りの女性にたいし言ってしまった。確かに、口は禍(わざわい)の元である。
「もう、来なくていいかと思ったら、また、虫歯を探されました。無理して、探さなくてもいいんですけどね……」
 お顔馴染みの受付係り女性は相槌が打てず、ちょっぴりほほ笑んですぐに俯(うつむ)いて、次回の予約作業を始められた。もちろん私は、お顔馴染みの気安さから冗談で言ったことであり、(しまった!)とは、思はなかった。しかしながら、受付係りの女性のそぶりは真顔で、いくらか戸惑い気味の様子だった。このことでは愧(は)じて後悔するところがあった。私の要らぬ言葉が先生と歯科衛生士へ回って告げられたとは思わないけれど、告げられても仕方のないわが口の禍であった。
 きのう(九月二十五日・火曜日)は、掛かりつけのその「斎藤歯科医院」(横浜市栄区)への通院日だった。いつもの先生と歯科衛生士がタッグを組んで、所定の治療が行われた。あたりまえのことながら診療室に入ると、私はいつもどおりに丁寧に腰を折りこんな挨拶をした。
「こんにちは。お世話になります」
 そして、持参のバッグと携帯電話、眼鏡をはずして所定の台に置いた。次には診療椅子に横たわり、かたわらの紙コップを取り、三、四度うがいをした。いつもどおりにすぐに、先生と歯科衛生士がわが体の両脇に侍(はべ)られて、診療と治療が始まった。再び私は、「お世話になります」と、言葉だけでお礼を告げた。
 先生の開口一番の常套句は、「痛みましたか、どうですか?」。これにたいし私は、「いいえ、まったく痛みませんでした。とても、都合いいです」と、言った。耳そばで聞こえる先生の施術の音は的確で、ときおり薄目で見る歯科衛生士のアシスタントぶりは、いつもと変わりなく絶えず微笑みを湛(たた)えて優しい対応である。
「きょうの治療は、終わりました」
「そうですか。ありがとうございます。ところで先生、また来るんでしょうか? きょうで終わりかと、思っていました」
「上の歯の三か所に、まだ虫歯があります。それも、治療しておいたほうがいいと思います。できれば、三か所をもう一回で、終えたいとは思いますが……」
「そうですか……、まったく、痛みはありませんけど、仕方ないないですね。先生にお任せします」
 私は横たわっていた診療椅子から立ち上がり、重ねて腰を折り丁寧に「お世話になりました」と、お礼の言葉を言った。
 素早く、バッグ、携帯電話、メガネを取り、診療室を出る支度をした。このとき、私はまた要らぬ言葉を口走った。
「目、耳、歯、風邪、胃カメラ検査などの掛かりめぐりで、このところ医療費がかさんでいます。また、来るんですね。そうですね。この際、腕の良い先生に治してもらっていたほうがいいですね。また、来ますから、よろしくお願いします」
 この医院では院長の斎藤先生の治療に遭遇することはめったになく、何人かの男女の若い先生が持ち回りで担当されている。すると、敵もさるもの? かたわらの歯科衛生士がほほ笑みながらこう言われた。
「また、来てください。待っていますから……」
 私は、すかさず「ありがとうございます。できれば診療室ではなく、街中でお会いしたいですね!」と、言った。「そうですね!」、と言葉が返った。
 先生と歯科衛生士は、にこやかに私を見送ってくださった。こののちのお二人の会話は、嘲(あざ)けりか蔑(さげす)みか? もちろん私は知るよしない。立つ鳥(私)、跡を濁したのかもしれない。嘘八百の無い、なさけないノンフィクション(実話)である。

中秋の名月 

 きのう(九月二十四日・月曜日、振替休日)は中秋の名月で、そしてきょう(九月二十五日・火曜日)は満月という。そのため、私は窓ガラスを覆うカーテンをめいっぱい開いて素通しにし、そのうえ部屋の明かりをすべて消して寝んだ。もちろん、煌々と照り輝く月光を寝ながらに迎え入れるためだった。ところが月光は、このわが粋な計らいに応えてくれなく、私はやむなく電灯を点けて起き出してきた。せっかくの月の恵みは、妬(ねた)みでもしたのか? 雲のいたずらで享受できなかった。かえすがえす残念至極である。
 きのうの私は、終点の大船(鎌倉市)の街までは、妻と肩を並べてバスに同乗した。バスがエンジンを止めると、足元に気をつけてそろりそろり降りた。妻と私は、互いに「じゃあね!」と、言って別れた。妻は、予定していた里のお墓参りに出向いた。菩提寺とお墓は、葉山町(神奈川県三浦郡)に存在する。妻の里は、鎌倉市に隣接する逗子市にある。葉山町は、逗子市に隣接する。葉山町は、亡き義母の里である。妻は里を守る長姉夫婦と待ち合わせて、義兄が運転するマイカーに乗ってお墓参りに行くのである。
 私はいつもの買い物用の大きなリュックを背負って、大船の街で買い物をする手はずになっていた。この日の買い物には、一つだけ外せないものがあった。それ以外には、特段の目当てはなかった。外せないものとは、コメの購入である。不断のわが家は、ふるさと産のコメを甥っ子の手を煩わして購入している。しかし、今年度産のふるさと産新米は、十月末にならないと届かない。そのつなぎのため、市販のコメを買うためである。私は新潟産新米を十キロ購入し、自宅への配送手続き(伝票書き)を終えた。
 この店の場合、3000円を超えると無料配送になる。五キロではそれには届かないけれど、十キロ買えば5000円を超える。万事いや一点、この日の買い物の目的は果たした。このあとは普段の買い物コースをめぐり、衝動買いを交えて気の済むままに買いまわるだけである。コースの起点はいつもどおり、野菜と果物の安売り量販店「大船市場」だった。大船市場を終えるとコースにしたがって、鈴木水産、西友ストア大船店へと、向かった。
 ところが、きのうはその途中、道筋の店先に足を止めた。店先には、二個入りパックのおはぎがたくさん並んでいた。それに、わが目が留まったのである。しばらく思案投げ首風情で、買うか買わないかをめぐらした。ようやく、彼岸だから買おう! と決断した。妻は、夕方になると帰ってきた。両親のお墓参りを済ました心地良さからだろうか、いつになく妻の声は弾んでいた。
「パパ。お彼岸だから、おはぎを買ってきたわよ! パパは、おはぎ大好きでしょ。一緒に食べましょうよ!」
「うん、おれ、ぼたもちは大好きだよ。おれも、買ってきたよ!」
「そうなの…いいじゃない、どちらも食べてみましょうよ!」
 妻のおはぎには、西友ストアのワッペン(値札)が貼りついていた。
 中秋の名月や満月には、あっけなくフラれた。しかし、「花より団子」さながらに、彼岸のおはぎが満腹にしてくれたのである。
 好季節にありついているけれど、きょうは雨の予報である。雲と雨がそろって通せんぼをすれば、月光の出る幕はない。

切ない思い 

 いつもわが身周辺のことを書いている。きょう(9月24日・月曜日、振替休日)は、私なりの日本社会の懸案事項(課題)を浮かべている。もちろんそれらは、不断にマスメディアが伝える課題とピタリ符合する。ランダム(浮かぶまま)にそれらのいくつかを記すと、すぐさまこんな事柄が浮かんでくる。少子高齢化社会。年年歳歳、過疎化を強めている地方および地域問題。将来的に減少傾向を深めている人口動態。これらに対処するための外国人労働者の増加。一方、企業社会における高知能外国人の増加。身近なところでは介護および認知症問題。増え続けている空き家対策。買い物難民現象。今後の日本社会は、よくもわるくもIT(情報技術)やAI(人工知能)の進化にもさらされる。これらをひっくるめて表現すれば、変質を続ける日本社会! と、言えるだろう。これらに加えて、対策のほどこしようのない天災および人災共に見舞う、災害列島の現実がある。なんらなすすべないことを胸中に浮かべてこのところの私は、日本列島に生き続けるつらさを実感している。
 ところが、わが生きづらさを嘆くことには、失礼千万に思えるものがある。それは拉致被害者および被害者家族の悲嘆である。テレビ画面に長年映し出されてくる光景は、そのたびにつらさを慮(おもんぱか)って、私は切ない思いにとらわれる。もちろんそれは、いっこうに埒(らち)の明かないことにたいする苛立ちと嘆きである。
 【北朝鮮拉致 「具体的成果」切望も「前のめり」には警戒強く 家族会】(9/23日 20:13配信 産経新聞)。拉致被害者家族会は23日の国民大集会で、北朝鮮に対し、全被害者の即時一括帰国という「譲れない条件」を重ねて示した。一方、政府には拉致の全面解決とともに、交渉に前のめりにならないよう慎重な対応を求める声が相次いだ。「期待したが、動きは中断している雰囲気もある」家族会代表で田口八重子さん(63)=拉致当時(22)=の兄、飯塚繁雄さん(80)は、6月の米朝首脳会談でトランプ大統領に拉致解決を提起された金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長が、日本との対話に応じる意向を示してからの情勢に複雑な思いを漏らした。現状を「解決の最後の好機」ととらえる家族らは、日朝間の実質的協議を切望する。1月に発表した運動方針では、昨年に続き「今年中」の全被害者救出を要望した。ただ、飯塚さんはこの日、「何としても今年中とか来月中に、という話は私から言えない。焦らず着実に、被害者の確実な帰国に焦点を絞った取り組みを進めてほしい」と訴えた。日本側の「前のめり」姿勢への警戒といえる。その背景には、北朝鮮が拉致解決をちらつかせながら被害者解放に至らなかった過去の苦い経験とともに、政界や学界の一部にある「経済支援を先行させて国交正常化を急ぐべき」とする認識への懸念がある。北朝鮮は国営メディアなどで「拉致は解決済み」とし、経済協力などの「植民地支配の過去の清算」に日本が応じることが、対話の条件だと主張し続ける。横田めぐみさん(53)=同(13)=の弟、拓也さん(50)は「国家犯罪を行い、テロ支援国家である北朝鮮の主張をうのみにはできない」とした上で、「私たちは被害者の即時一括帰国しか求めない。北朝鮮が示す合同調査委員会や『報告書』に同調する動きは、救出への妨害行為だ」と憤る。安倍晋三首相は集会のあいさつで「安倍政権で拉致問題を解決する」と、改めて決意を述べた。ただ、高齢化した家族に残された時間は少ない。めぐみさんの母、早紀江さん(82)は「今が正念場。力強い交渉をしていただけると信じている」と語った。家族が求めるのは具体的成果だけだ。

 横綱白鵬、二つの偉業

 日曜日と重なった「秋分の日」(9月23日)が訪れている。もちろん、秋彼岸の中日である。彼岸の入り日(9月20日・木曜日)あたりから、二日ばかり鬱陶しい雨に見舞われていた。ようやく、きのうには秋天の晴れ間が覗いた。せっかくの秋も雨続きでは爽快さがまったくない。いまだに夜明け前の真っ暗闇であり、きょうの天候を知ることはできない。しかしながらきのうの天候を浮かべると、きょうの秋分の日(彼岸の中日)には、絶好の秋晴れが訪れそうである。このため、天候においては鬱憤晴らしができそうである。まずは、めでたし、めでたし、である。
 さてきょうの文章は、大相撲界におけるめでたい出来事を伝えるメディアの配信ニュースを引用し、記録に留めるものである。大相撲秋場所(東京都墨田区・両国国技館)は、きょう千秋楽を迎える。ところが、今場所の優勝は千秋楽を待たずに、きのうの十四日目にして横綱白鵬に輝いた。残された関心度は、白鵬の全勝優勝なるかどうかである。
 【白鵬、41度目V…前人未到の幕内1000勝】(2018年9月22日19時51分 読売新聞)。「大相撲秋場所は22日、東京・両国国技館で14日目が行われ、横綱白鵬(33)(本名ムンフバト・ダバジャルガル、モンゴル出身、宮城野部屋)が、千秋楽を待たずに5場所ぶり41度目の優勝を決めるとともに、2004年夏場所の新入幕以降の幕内勝ち星が前人未到の1000勝(180敗109休)に達した。新入幕から所要86場所のハイペースで大台を記録した白鵬は取組後、『場所前から幕内1000勝を目標に臨んできた。(1000勝は)誰も達成していない。最高に気持ちいいです』と喜びを語った。」
 まさしく秋分の日にふさわしい、秋場所における白鵬にまつわる話題である。具体的には41度目の優勝と幕内在位1000勝という偉業である。いずれも前人未到の偉業である。これらのほか、いろんな前人未到の数値を刻んで白鵬は、なお大横綱道をきわめてゆく。まずは、記録に留めて置かずにはおれない、今秋場所における二つの偉業である。 

 林檎

 桃、葡萄、林檎、栗、蜜柑、柿、プラム、バナナ、サクランボ、などの果物が大好きな私にとって、売り場でそのたびに戸惑うのは林檎である。大好物の西瓜は、果物なのかそれとも野菜なのか? 私は今なお迷っているところがある。
 インターネット情報は現代社会における文明の利器である。私はキーを叩くのをしばし中断し、インターネット上の人様の学習と知恵を閲覧した。世の中には、私にかぎらずこの区別に迷っている人はいっぱいいるようである。なぜなら、わが疑念にたいする答えが真っ先に記されていた。
 【スイカは野菜であり果物でもある。】「では、スイカは野菜と果物のどちらに分類されるのかということですが、実はスイカは分類上では野菜になります。しかし、みなさんもご存知のようにスイカは、果物として利用をされることが多いことから、単なる『野菜』ではなく『果実的野菜』として扱われています。果実的野菜とは、なんとも曖昧な表現ですが、これは農林水産省により定められているのです。つまり、スイカは野菜でもあり果物でもあるのです。農林水産省によると、野菜と果物の分類にはっきりとした定義はありません。生産や流通などそれぞれのラインによって、決め方が異なってしまいます。例えば一部の卸売市場では、スイカは野菜として出回っていますが、八百屋やスーパーでは消費者が消費する形態に合わせて、スイカは『果物』として扱われているのです。ちなみにスイカは英語で『Watermelon』(ウォーターメロン)ですが、メロンもスイカと同じく『果実的野菜』として扱われています。」
 私だけが阿呆ではなく、人みなを阿呆にするような曖昧模糊とした農林水産省の見解である。
 さて、文章をもとの筋へ戻すと、昔とは違ってこの頃の売り場には、果物にかぎらず野菜や山菜にいたるまで産地の表示がある。まさしくこのことは、たいへん有意義な消費者サービスである。なぜなら私は、産地表示を見ながら未踏の地方や地域に親しみをおぼえている。また同時に、生産者の苦労を偲んだり、慮(おもんぱか)ってもいる。もちろんこれは、私自身が三段百姓の出のゆえんである。とりわけ西瓜などには、生産者の顔写真や電話番号までもが、貼り付けられるまでにもなっている。すなわち、信頼を得るにはさまざまな工夫が苦心されている。
 私は、わざわざ「あまり美味しくなかったですよ!」などと言って、下種(げす)な電話をかけることなどはもちろんしない。しかし、一度はふるさと産西瓜の購入にあって、「とても、美味しかったですよ!」と言って、電話をかけたことがある。人様からさずかったわがうれしいことは、先方に伝える義務があろう。見ず知らずの受話器の中のお声は、思いがけない電話に明るく弾んでいた。電話をかけたわが一つの目的は、十分に叶えられたのである。しかし、本当のところそれを上回るわが真意は、苦心惨憺されている生産者への勇気づけだった。すなわち、あなたが作られた西瓜が鎌倉の売り場で、買い物客の人気を得ていることを告げたかったのである。もちろん、このことも言葉にした。
 再び脱線した文章を軌道に戻せば、売り場において林檎選びに戸惑うのは、今や林檎の品種の多さにある。確かに、林檎以外の果物も品種を異(こと)にするものはある。しかしながら、林檎に比べればそう多くはない。かつては、実の硬いものでは「国光」、逆に実の柔らかいものでは「紅玉」くらいの知識で、二者択一の品選びは十分だった。ところが、この頃の林檎選びは、もはやこんな半端(はんぱ)な知識では用をなさなくなっている。
 私はいつもの習性に倣(なら)い、長々と書き殴りの文章を記した。結局、この文章の目的は、林檎の品種選びの中でどなたかに、体験上の林檎の美味しさの品種を教え乞うためであった。もちろん、売り場の林檎の一つひとつを買って、品種の味を確かめることにはわが財布がもたないという、ケチな自己都合のせいである。

秋の夜長のつれづれ 

 インターネット上のブログに書き続けている「ひぐらしの記」の題材(ネタ)には、おのずからさまざまな自己規制を強いられている。このことはすでに何度か書いたけれど、それはバッシングや炎上を恐れているせいである。すると、題材(ネタ)は当たり障りのないものになりがちで、その挙句には同じような文章を何度も繰り返し書いている。もちろん、このことは(すでに書いたな!)と、そのたびに私自身が承知しているところである。確かに、承知しているから悩ましいところである。
 ひぐらしの記は随筆集と銘打っている。ところが、実際のところ多くの文章は、日記スタイルにわが身周辺の日常的な出来事にとどまっている。そのため文章の多くは、終始変り映えのしない似たり寄ったりのものに成り下がっている。これまた、わが悩ましいところである。結局、題材(ネタ)を自己規制し、そのうえほぼ毎日書き続けているひぐらしの記は、おのずから新味がなく書き手の私自身、うんざりしているところがある。もちろん、好意に読み続けてくださっている人たちには、かぎりなくかたじけない思いがつのるばかりである。
 さらに多くの文章は、わがマイナス思考の性癖が祟(たた)り、読んで気分の滅入る愚痴こぼしに成り下がっている。今さら言わずもがなのことだけれど、これまた十分承知しているところである。閑話休題、私は明るい題材(ネタ)探しを試みている。すると、この時季行き着くところはやはり、実りの秋の堪能(たんのう)である。現在、店頭では実りの秋のおりなすさまざまな産物が出回っている。わが日々の買い物行きつけの店は、おおむね「大船市場」、「鈴木水産」、そして「西友ストア大船店」(いずれも鎌倉市大船)である。大船市場は野菜と果物の安売り量販店、鈴木水産は海産物の量販店、そして西友ストアは首都圏エリアにある総合スーパー・チエーン店である。かつてはこれら三店舗に駄菓子屋が加わり四店舗を成し、バスを降りて歩く順に、大船市場、駄菓子屋、鈴木水産、西友ストアへと、回っていた。ところが現在、わがダイエット志向の憂き目に遭い、駄菓子屋は余儀なく外されている。しかし、生来意志薄弱の私の場合、この先ずっと外すことはおぼつかなく、現在の私は、駄菓子屋の復活に日々恐々するところにある。
 大船市場で実りの秋を先駆けて、旺盛をきわめているのは栽培物の果物類である。こののちは、野生の山菜も次々に並んでくる。松茸も並ぶけれど、私には手出し無用である。果物類に目が無い私は、おのずから有卦(うけ)に入っている。しかしながらこれにも、おのずから財布の事情という制限がある。だから、余儀なく目を凝らして、品定めとお金の釣り合いを強いられている。そのため、国内物と海外物の並ぶ選り取り見取りの中にあっても、実際に買うものは限られている。
 その選別のみずからの基準は、おおむね子どもの頃からの食べ慣れと郷愁、そして値段の安さである。この基準に照らすと、真っ先に外れるのは海外物である。次に、涎を垂らして食指をひかえるのは高価な物である。結局、わが買いの手が伸びるのは、食べ慣れて比較的安価な物で、そのうえできれば郷愁がワクワク湧き出る物にかぎられる。
 これらの選別基準で、これまでのところ実りの秋の筆頭に位置するものは栗である。わが家の場合、栗のレシピ(調理法)は、茹で栗、栗御飯、栗団子である。茹で栗はわが単独作業、栗御飯は妻の単独作業、そして栗団子は二人の共同作業である。これらの中でこの秋にかぎり特筆すべきは、すでに五度の栗団子作りを為している栗三昧である。五度ともなれば二人の栗団子作りの手さばきは、慣れて素早くなっている。栗御飯もすでに二度味わい、茹で栗はこれらをいくらか食べ飽きた頃へと、先延ばしになっている。なぜなら茹で栗は、手間暇要らずで容易だからである。確かに、栗こそ選別基準に合致するものの最たる一つである。中でも、栗山を生業(なりわい)の一つにしていた長兄を偲べば、郷愁は無限につのるものがある。年老いた長兄は、栗山仕事はやむなく無償で人様まかせにある。このこともあって私は、栗には余計に郷愁つのるものがある。いや、実際のところ栗は子どもの頃から食べ慣れて、かぎりなく賞味をそそられている。
 郷愁と賞味に駆られて、栗のあとに買い続けるのは蜜柑と柿である。言うなれば秋の果物において、わが買い物の順序は栗、蜜柑、そして柿である。いずれもふるさとのわが家の庭先に生っていて、いや増して郷愁にありつけるものだからである。梨も庭先になっていたけれど、なぜか後順位である。もちろんたまには買うけれど、梨は日持ちがしないため後順位に成り下がっている。これらよりさらに後順位になるのは、桃、葡萄、林檎である。賞味の点では、栗、蜜柑、柿、梨を凌ぐものがある。ところが、桃、葡萄、林檎がこれらに競り負けするのは、食べ慣れと郷愁の差であろう。
 このところの私は、三度続けて青森産の林檎を店所定の籠に入れている。林檎の表示には「さん津軽(サンつがる)」とある。テレビは、先回の台風のおりに青森産林檎の落下を報じていた。今、店頭に並んでいる「さん津軽」は、台風の直撃を受けた物であろう。なぜなら、いまだ真っ赤とはならず、値段も箆棒(べらぼう)に安く付けられている。私は生産者の嘆きをおもんぱかってというより、値段の安さに釣られて三度も買ったのである。ところが「さん津軽」は、生産者の嘆きが偲ばれるほどに美味しかった。
 実りの秋はわが食感を潤(うるお)すと同時に、ひぐらしの記の題材(ネタ)切れをすでに何度か防いでくれている。もちろん、他愛(たわい)無い題材(ネタ)は、バッシングや炎上にはまったく無縁である。一方で書き殴りには木っ端恥ずかしいところと、ちょっぴりこそばゆいところがある。

 「嗚呼、無情」

 夜明けが遅くなり、時間はたっぷりあるのにまったく書けない。私の場合、文章が書ける、書けないは時間的制約ではなく、精神状態の良し悪しに左右される。すると、このところの私は、精神状態に翻弄されて、やっとこさ書いているにすぎない。こんな身も蓋もないことを書くようでは、きょう(九月十八日・火曜日)は、やはり休むべきだった。
 実際のところ寝床の中の私は、固くそう決め込んでいたのである。冒頭にこれまで、なんどこんな恥さらしのことを書き連ねてきたことだろう。わが器の小ささと、てっきりお里の知れるところである。そして、そのたびに私は、「ひぐらしの記」の潮時に苛(さいな)まれてきた。ところが、そのたびに踏ん切りがつかず、継続だけにはありついてきた。しかしながら、現在の精神状態をかんがみれば、こんどこそ踏ん切りをつけるべきところにある。過去同様の心理状態である。
 踏ん切りをつけてプレッシャーを逃れて安楽をむさぼるか。だけど、踏ん切り後の空虚な心理状態に耐え得るか。これまた、過去同様の堂々めぐりに苛まれている。こんなことを書いていると、ふとこんな成句が浮かんだ。実際のところはなんらつながりの無いことだけれど、電子辞書を開いてその成句を記してみる。
 【創業は易く守成は難し】使い方:「新しく事業を興すよりも、それを衰えさせないように守っていくほうが難しい。」
 ひぐらしの記の執筆とちょっとだけ似通っているとすれば、それは始めたものの継続の難しさである。そして、絶えずそれにつきまとうのは、わがひ弱な精神力(状態)である。確かに、こんなことだけを書いておさらばするのは、とことん情けない。そのため、秋らしい話題を一つ添えて、文を閉じることとする。
 きのうの「敬老の日」(九月十七日・月曜日)にあってわが夫婦は、わが家の柿の実千切りを敢行した。小さな柿の木には、三十個足らずの実を着けていた。わが夫婦は、山に棲みつくタイワンリスと争って一つさえ残さず千切った。私は長柄の剪定鋏を手にした。妻は柿の木の下の道路上に雨傘を仰向けに広げて立った。わが家の柿の実千切りにおける、夫婦共々の定番風景である。同時に、このときのわが脳裏には、子どもの頃の柿の実千切りの風景がよみがえっていた。父は柿の実をめがけて長い竹竿を操(あやつ)り、母は柿の木の下で千切った柿の実を入れる目籠(めご)をたずさえていた。父と母の面影をともなって、和やかな風景が彷彿(ほうふつ)とした。仰いだ大空は、敬老の日を寿(ことほ)ぐかのような胸の透く日本晴れだった。
 わが胸中には、生涯学習の現場主義にしたがって、ひとつの成句が浮かんだ。【柿が赤くなると医者が青くなる】:「柿が赤くなる秋は天候が良いので病気になる人が少なく、医者は商売にならずに青ざめる。秋の快適な気候をいう」。
 日本列島には、きのうあたりから秋本来のさわやかな気候が訪れたようである。こんなおり、わが文章の表題は「嗚呼、無情」である。とことん、情けない。文章に行き詰まるたびに私は、ひぐらしの記の潮時に悩まされている。すなわち、「嗚呼、無情」である。

「敬老の日」 

 わが父は「敬老会」の案内がくると、「おれは行かないよ!」と言って、駄々っ子のように拗(す)ねていた。自分は、まだ若いという思いが強くあったのであろう。当時の村の集落の敬老会への案内は、六十五歳からだったか、それとも七十歳からだったか、の記憶は定かでない。遠い昔のわがふるさと時代の記憶だからである。わが誕生は、父の五十六歳時である。このためどちらにしても、わが児童あるいは生徒時代の不確かな記憶である。私は高校を卒業する(十八歳)と、ふるさとを巣立ち上京した。敬老の日が訪れるたびに、わが心中によみがえる甘酸っぱい思い出である。
 きょう(九月十七日・月曜日)は、平成時代最後の敬老の日である。現在、七十八歳の私は、みずからを敬老呼ばわりすることにはおこがましけれど、まぎれもなくお年寄りである。敬老の日は、日本の国民の祝日の一つである。現在、日付は九月の第三月曜日となっている。しかし、平成十四年(二〇〇二年)までは毎年九月十五日となっていた。ところが、平成十五年(二〇〇三年)から現行の規定となっている。祝日の日曜日との重なりを防いで、休日を増やすハッピー・マンデーの施策によるものである。ただ私の場合は、今なおこの日付変更にはなじめず、かつての一定日・九月十五日にこそ、しっくりくるところがある。このことではきょうの敬老の日も、日付的にはしっくりこないところがある。
 ところが、日本社会にあって敬老の日は、年年歳歳その意義や様相を替えている。それはわが下種(げす)の勘繰りからすれば、今や日本国民の多くが高齢の身にあるからであろう。すなわち、かつてのお年寄りは今や、一緒くたににはお年寄りとは言えなくなっているのである。その挙句、言葉や年齢の刻みのうえでもあやふやとなり、いまだに定まらずしょっちゅう揺れ動いているありさまである。国民の多くが敬老の身にあずかるようになり、かつて盛んに行われていた自治体や集落の敬老会も意味をなさなくなり始めているのである。幸か不幸か現下の日本社会は、敬老すなわち長生きしてお年寄りになるのは、あたりまえになりつつある。このため、ことさらに敬老を寿(ことほ)ぐこと、すなわち敬老会やそれに類(たぐい)する催しをすること自体、意義が薄らいでいるのであろう。日本社会にあって敬老の日はもとより、敬老の意義自体の様変わりぶりである。
 結局、高齢化を深める日本社会は、敬老の線引きに戸惑いを続けている。為政者や傍(はた)から、「敬老、必ずしもめでたくはありませんよ!」と、嘯(うそぶ)かれるようになっては、当人にとっても長生きは損々(ソンソン)である。長生きがうしろめたくなるようでは、確かに平成の世も末である。

ひとみな、終生の母恋慕情  

 購読紙・朝日新聞夕刊の金曜日には、わが愛読しているコラム記事が掲載されている。連載はこのたびで、二〇六回を数えている。書き手は女優の大竹しのぶさんで、コラムの名は『まあ いいか』である。大竹さんは先日、ご高齢のお母様を亡くされたばかりである。この点では読者のひとりとして、衷心よりお母様のご冥福をお祈りせずにはおれないものがある。娘・大竹さんの悲しみやつらさはいかばかりであろうと、察するところである。それでも大竹さんは、悲しみを堪(こら)えて連載を絶たずに書いておられていた。その文章の中に、いたく共鳴したしたところがあった。そのため私は、無断で原文のままに引用を試みている。共鳴とは、終生の母恋慕情である。
 引用文の掲載紙は、朝日新聞夕刊のおととい(二〇一八年(平成三〇年)九月十四日)の金曜版である。引用個所は、コラム末尾記載の次の文章である。「100歳で亡くなった新藤兼人監督の言葉を思い出す。『僕は今、95でしょ、それでもお母さんが恋しいです。お母さんに逢いたいです。お母さんとは、そういうものなのです』。私は死ぬまで、母のことを恋しく思うのだろう。それでいい。それがいい」。
 母思いは、妻思いとはまったく別物である。この時期の母は、わが子のために汗水たらして、栗団子作りに勤(いそ)しんでいた。今の私は、母のその姿を恋しがっている。

爽秋の候 

 「敬老の日」(九月十七日・月曜日)へ連なる三連休の夜明け(九月十五日・土曜日)を迎えている。窓の外は、きのうの朝同様に小降りの雨に見舞われている。このため、日課とする夜明けの道路の掃除は先送りとなる。初秋は、大した残暑もなく中秋へ向かっている。もちろん、残暑のない秋は、それなりにありがたいところはある。しかし、夏の早送りは、ちょっぴり未練が残る気分でもある。わが上半身は、すでに半袖から長袖に覆われている。確かな記憶ではないけれど、例年に比べれば早い装いの変化に思えている。こんなことはどうでもよいことだけれど、私は起き立てがしらに仕方なく書いたのである。
 寝床の中にあっては、きょうは書けない、と決め込んでいた。それは、長引いている鼻風邪と、薬剤の副作用がもたらしている筋肉痛と、加えてカラス曲がりに襲われて、気分が滅入っていたせいである。ところが、起き出すとこんどは、書かないことによる気分の滅入りが増幅して襲ってきた。しかし、こんな気分では、自作文は書けそうにない。そのため、適当なメディアの配信ニュース探しを試みた。ところが、それを探し当てることはできなかった。私は仕方なく書き出した。しかし、こんな実の無い文章を書くようでは、やはり休むべきだった。
 秋には文字どおり爽秋(そうしゅう)という、格別の季節用語がある。しかしながら、これまでのところ爽(さわ)やかな秋の実感はない。それは、わが身に照らせばうっかりしていて風邪をひいたせいである。一方、日本社会にあっては北海道を見舞った大地震をはじめ、日々ところを替えて地響きが起きているせいである。加えて、台風シーズンという悪名に違(た)わず、日本列島(国民)は台風発生のニュースには恐々とするばかりである。一週間のちには秋彼岸が訪れる。気候的には一年の中でも最もしのぎ易い季節の到来である。だとすればそろそろ、爽秋にありつきたいものである。
 店頭は早や実りの秋の真っ盛りにある。秋ならでは好季節を憂鬱気分で過ごすのは馬鹿げているし、もちろんもったいない。生煮えの文章には、ほとほと恥じ入るところがある。爽秋の候にあって、はなはだなさけない文章である。

物思いの季節到来 

 日常的に自分の姿は、鏡に映さないかぎり見えない。しかし、人様の姿は、わが目でじかに見ることができる。すると、わが年代(年齢)に近いと思える人は、出会うたびに容貌を老いの姿に変えている。もちろん、人様の目から見るわが姿もまったく同然である。まさしく、人様の姿を見てわが老いを実感する、せつなく、やるせない瞬間である。身近なところで、これほどわが身の老いを感ずるところはない。いや、もっと身近なところでは、茶の間の妻の姿を通してわが身の老いを感じている。
 点けっぱなしのテレビでは、かつての美男美女も老いの姿をさらけ出している。あまりの老いの姿を観るに忍びなく、リモコンを手にしてチャンネルを変える。確かに老いは、誰もが避けて通れない。だから、そう気にすることでも、そう気になることでもない、のかもしれない。しかし、やはり寂しい老いの現実である。こんな気分の滅入ることは、書くまでもない。人生は、どうもがいてもなるようにしかならない運命のいたずらである。そうであれば「ケ・セラ・セラ」と嘯(うそぶ)く、豪放磊落(ごうほうらいらく)さがほしいところである。ところが、実際にはわが身にそれがないゆえに、起き立ての胸中にこんなことが浮かんだのであろう。他意はないと言いたいところだけど、やはり本意なのであろう。身体内面(精神)はともかく、身体外面(外見)の老いは、隠しようなくさらけ出されてくる。これこそ、老いの現象であり、現実の姿である。
 初秋も中秋へ向かい、夜長は日々深まり行く。秋の夜長は、物想う好季節である。しかし、こんなことが先走るようでは、この先が思いやれるところである。ときには、爽快で愉快な物思いに耽りたいものである。結局、わが人生はない物ねだりの人生である。よくもわるくも、物思いの季節到来である。

玉石混交文 

 現在の私が日々遭遇することで、悩ましいことの一つは、薬剤のもたらす薬効と副作用の関係がある。服用中の抗悪玉コレステロールの薬剤は、わずかに一か月の服用にすぎないのに著効あらたかで数値を改善した。ところが一方、これまで数値に表れていなかった副作用数値が顕在した。あちらを立てればこちらが立たずで、私にはきわめて悩ましい問題である。このことでは私のみならず、匙を投げずに主治医先生も一緒に苦慮されている。その挙句に主治医先生は、副作用数値のほうを余計懸念されて、現在は薬剤服用の中断を指示されている。ところが、私はせっかく悪玉コレステロールの退治に著効を示したことがもったいなく、ひそかに服みたい気分に晒されている。加えて、薬剤費にしみったれの私は、実際にも一週間の中断の末に、主治医先生の指示を無断にはねのけて、恐るおそる服み始めている。
 薬剤の効果と副作用にかぎらず、物事には相反する現象がかぎりなく存在する。もちろん、それを示す言葉はかぎりなく存在する。すなわち、言葉のうえでは対義語(反対語)の構成を成している。ほぼ無限大にあるものから、わが心中に浮かぶままにいくつか記すと、長短、善悪、是非、好悪、などがある。
 九月十三日(木曜日)、きょうの文章はわが心中に浮かんでいる事柄を脈絡なく記すものである。実際のところこれらは、大げさな表現を用いれば幸不運混じる(玉石混交・混淆)成り行き文である。そして、幸運すなわち玉(ぎょく)と思えるものの一つには、僥倖(ぎょうこう)が重なっている。凡庸の私であっても僥倖の意味くらいは、勝手知っているところである。しかし、あえて電子辞書を開いてみる。僥倖:「思いがけない幸せ。偶然の幸運」。
 きのう(九月十二日・水曜日)の私は、いつものように夜明けまもない頃に日課の道路の掃除をしていた。その途中、運よく散歩めぐりのご常連のご婦人に出会ったのである。出会っただけでも幸運なのに、まさしく僥倖が付き添っていたのである。
 いつものように対面で、和やかに朝の挨拶を交わした。ところがご婦人は、いつもとは違って足早に先を急がれず、たたずみこう言われたのである。
「わたしに、毎日書かれているご本を読ませてください。ご本あるのでしょ?」
 私は喜色満面に即座に応答した。
「はい、いっぱいあります。読んでくださるのですか。うれしいですね。あとでお持ちします。お宅はどのあたりですか?」
「どのあたりと言われても、いまお借りすればいいです」
「そうですね。じゃ、走って帰り、すぐに持ってきます」
 私は踵(きびす)を返して走り、門口、玄関口を抜け、慌てふためいて二段跨(にだんまたぎ)で二階へ駆け上った。
 整理整頓なく堆(うずたか)い単行本・「ひぐらしの記」の中から、68集と69集の二冊を取り出した。それらに加えて、書棚から『さようなら物語』(立松和平・池田理代子:選。双葉社)を持ち出して、転げ落ちるかのように階段を下りた。このあとは一目散に駆けて、道路で待たれているご婦人のところに着いた。
「選ぶ暇もないので、とりあえず『ひぐらしの記』の二冊と、『さようなら物語』を持ってきました。さようなら物語は、弟を失くしたわが痛恨事ですけど、読んでみてください」
「そうですか。お借りします」
「すみません。お願いします。ほんとに、うれしいですよ」
 飛びっきりの僥倖であり、まさに玉の筆頭に位置するのであった。
 これに続く玉は、きのうには妻と共に三度目の栗団子をこしらえた。栗団子には、二度目の栗御飯も加わっている。栗団子には美味しさのみならずオマケで、想定外の二人でこしらえる和気藹々(わきあいあい)の利得にもありついている。
 一方、石(せき)と言えるものは、日を替えて訪れる通院である。具体的にはきょうには、歯医者通いがある。一週間のちの二十三日には、眼医者の予約がなされている。きのうには、飛び入りの風邪薬もらいの通院もあった。そろそろ、冒頭に記した薬剤服用の是非の診断を仰ぐための通院も待ち受けている。月が替わり十月になれば、またまた胃カメラ検査の予約日が記されている。
 いつもは石(いし)だらけ、すなわちマイナス思考の文であふれているけれど、幸いきょうは玉(たま)の文章を添えることができたのである。確かに、「めでたし、めでたし」である。
 まもなく、夜が明ける。僥倖は、欲張っても叶えられるものではない。一度だけでも遭遇できたのは、まさしく僥倖だったのである。

好きなものだけを食べる 

 九月十二日(水曜日)、例年であればいまだに残暑厳しい時期にある。ところが、昼間であってもこのところは、もはやそれを感じることはない。八月から九月へと月が替わって、体感的に気候は激変している。「秋めいて」という、季節用語を死語に追いやったかのように、すっかり秋が訪れている。厳しい夏の暑さに辟易していた頃をかんがみれば、もちろん歓迎すべきしのぎ易い秋の訪れにある。しかしながら私は、夏の暑さに未練がましいところがある。うっかりしていたら、本格的に風邪をひいてしまった。現在の私は、半袖のTシャツの上に慌てて長袖シャツを覆っている。風邪のせいで、憂鬱気分に陥っている。きょうには、風邪薬をもらいに余儀なく通院しそうである。こんなこともあってか、わが心中には(もう、寒くなるのか!)という、思いが渦巻いている。こんな思いを浮かべているのは、私自身が根っから寒さに弱く、とことんそれを嫌うためである。寒さは冬が引き連れてくる。つまり現在の私は、いまだ初秋にもかかわらず、中秋や晩秋を飛び越えて、冬の季節に怯(おび)えている。せっかくの秋の好季節にあって、先々の冬の季節に怯えるのは愚の骨頂、すなわち馬鹿丸出しである。
 実りの秋の訪れにあって、案の定、体重増加の兆しが見えている。夏痩せ願望の途絶もあって私は、その反動を恐れていた。ところが、その恐れは早くも現実になりつつある。私には実りの秋を棒に振ってまで、食の欲望を抑制する意志や能力はまったくない。連載中の新聞小説を読んでいると、その中に強い味方の一行があった。おおむね、こんなことだった。「八十歳になったら、からだに良いものを食べることなどしないで、好きなものだけを食べるつもりだ。あと何度、御飯を食べることになるかと、数えたことある?」。確かに、八十歳と言わずその近辺になると、生きるための体重コントロール、ダイエット、さらにはからだに良いものを選んで食べるなど、なんらの役立たずであろう。好きなものを食べたり、食べられたりできるときだけが、幸せなのであろう。今さら食の欲望を抑えて健康や長生きを願っても、なんらの効き目もないであろう。からだに良いからと言って嫌いなものを無理して食べるより、好きなものだけを食べることこそ、まさしくこの先のわが幸せの秘訣である。
 わが買い物の行きつけの店の一つで、野菜と果物の安売り量販店「大船市場」(鎌倉市)の店内は、もはや実りの秋満開で秋の果物満載にある。ハウスミカンを皮きりに産地ところを替えて、黄色に色づいた蜜柑が日々出回り始めている。桃、梨、葡萄、栗はすでに食べて、するとこんどは蜜柑にパクつき、次には大好物の柿が加わってくる。すなわち、好きなものを絞るには骨の折れる季節が訪れている。もちろん、あえて絞ることなく口が好むままに、食べれば済むことではある。
 「良薬は口に苦し」。薬にかぎらず苦いものをしかめっ面して、飲んだり、食べたりする年代は、とうに過ぎている。だれが、いや妻が何と言おうと、好きなものだけを食べる、わが人生で最良の幸せの時期が訪れているのかもしれない。ただ惜しむらくは、そんな機会は数えるほどになり、何度とはきそうもないことである。それに備えていくらか矛盾するけれど、通院して風邪薬はもらっておくべきであろう。なぜなら、好きなものだけを食べるにも、先ずは健康第一だからである。

ふるさと電話の感激! 

 この文章は、あまりにも私事ゆえに恥を忍んで書いている。それでも書かずにおれない、私的感激だった。
 先日、わが家の固定電話に、ふるさと電話のベルが鳴った。受信表示画面にはフルネームで、ふるさとの長兄の名が記されていた。こんなときにはほぼ決まって、妻が「パパ。お兄さんからの電話よ!」と言って、焦り気味に受話器を私に手渡すのが習わしとなっている。兄の名が刻まれたふるさと電話は、兄の異変ではない。それでも、ふるさと電話のベルは毎回、わが心をドギマギさせる。実際のところふるさと電話は、「便りがないのは良い便り」の範疇(はんちゅう)にある。長兄の名の電話、またそれ以外の名のふるさと電話にたいするわが第一声は、常に決まって「何かあったの?」である。なかでも、受話器を通しての長兄との会話は、両者共に極度の難聴のため隣近所に筒抜けるだけでなく、地響きするほどの大声になる。唯一の利点は受話器を下ろしたあとに、かたわらの妻に話の内容の説明を要しないことである。それでも、両者の耳に話の内容が伝わるのは、どれくらいであろうか。とりわけ長兄の場合は、私よりはるかにひどい難聴である。その証しに受話器の中の長兄の声の多くは、「しずよしだろだいね。そっちの声は、いっちょん、聞こえんもんね」の繰り返しである。そのたびに私は、いっそう大声を張り上げて、「しずよしたい!」と、言いまくる。それでも長兄は、「そっちの電話ん声は、いっちょん、聞こえんがねー」と、独りごちを言っている。ところが、わが耳にはそれが聞こえている。そのため私は、途方に暮れて泣きたくなっている。それでも私は、「しずよしたい! しずよしたい! 何かあったの?」と、大声で叫び続けている。このところのふるさと電話は、ほとほと切ない電話へと、なり下がっている」。もちろん、かつてのふるさと電話は、楽しいばかりだった。
 私は「ひぐらしの記」の単行本ができあがるたびに、すなわち初刊から直近の第71集『わが人生行路は茨道』に至るまで、長兄に送り続けている。言うなれば、ひぐらしの記は長兄の長生きを願って、ひたすら書き続けているようなものである。長兄の優しさは、十分に応えている。長兄は単行本が届くと、決まって「本が届いたよ。ありがとう。もう読み始めているよ。文子さんは、元気じゃろだいね。あおばちゃんたちも、みんな元気だろだいね。国分寺(次兄宅)のほうも、拝島(故三兄宅)、恋ヶ窪(故四兄宅)も、みんな元気だろだいね。国分寺とは電話をしたかばってん、あっちも耳が聞こえんから、電話でけんたいね。国分寺のことは、おまえにまかせるより、しよんなかたいね。もう一遍、行きたかばってん、もう行けんもんね。よろしく言ってくれ」「みんな元気です。わかった。国分寺も、どこも元気です。国分寺のことは、心配しなくてもいいよ。おれがときどき、行っているから」。
 このまえ、単行本を送ったばかりのとき、いつものように長兄は、
「きょう、本が着いたよ。ありがとう。これから、読むけんね。とてん、楽しみたいね!」
 と、電話をかけてきた。そのときの私は、「読まんでもいいよ。目が見えないのに、無理して読まんでもいいよ!」と、言った。長兄は難聴に輪をかけて目が極度に不自由になり、あれほど好きだった新聞や月刊誌「文藝春秋」も遠ざけ始めていた。強いて読むときには、拡大鏡を片手に前のめりになって文字筋を丁寧に追っていた。私には、つらい兄の姿だった。
「あのねー。もう、ひぐらしの記は読んでしもうたもんね。とてん、おもしろかったたいね。よう、書けてるね。まだ、書きよっとたいね。ようがんばるね。誕生日のこつ、書いていたろ。そのとき、おとっつあんと、おっかさんのことを書いていたね。いろいろと思い出されて、うれしくて涙が出たよ。ひぐらしの記を読むと、いろんなことが出てきて、楽しみたいね。ばってん、おまえが遠くまで買い物に行くのだけは、たいへんじゃろだいと思って、心配してるよ。自分は十一月で九十二歳になるもんね。長生きたいねー」
 私の相槌が聞こえないままに、長兄はしゃべり続けていた。
 私はこんな相槌を挟んでいた。
「もう読んでしまったの? 速いなあー。誕生日のこと? ああ、ひぐらしの記の誕生日のことかな? そのときの、おとっつあんのウナギのことかな? おっかさんの赤飯のことかな? こんどの本には、フクミねーさんの蚕のことも書いてあったでしょ!」
 このことだけには、長兄の反応言葉が返った。
「よう、いろんなことをおぼえているたいね。フクミは、蚕飼いがとても上手だったもんね」。
 ひぐらしの記を送るたびに生前のフクミねーさんは、長兄から受話器を手渡されていた。その第一声は決まって、「しいちゃんね。しいちゃんの頭ん良さには、たまがる、たまがる。文子さんも元気だろだいね」。
 そう言われると私は、受話器を文子に手渡した。ひぐらしの記にかかわるフクミねーさんとの思い出の一番は、こんなやり取りである。
「この本は本屋にはないもん」
 と言うと、
「なんでな? 本屋に置けばよかろだい! もったいなかよ」
「本屋においても売れんもん!」
「置いてみれば、よかろだい!」
 NHK大河ドラマ『西郷どん』の毎回の締めのナレーションにあやかれば、「チェスト(気張れ)、今朝はここらでよかろうかい」で、閉めることとする。ふるさと言葉の乱発だけは、かたじけない。 

きわめつきの朗報 

 ここ二日(ふつか)、夜明けの道路の掃除を怠った。このため、今朝(九月十日・月曜日)は夜が明ければ一念発起し、道路の掃除を決め込んでいた。夜明けの早い時期であれば、とっくに朝日が昇る時間であっても、夜明けの遅いこの時期はまだ真っ暗闇である。それでもわが気分は、お焦りをおぼえるほどに駆り立てられていた。その最大の証しは、今朝の文章は止めるか、掃除のあとにしようかと、決め込んでいた。私は二階から下りて、朝まだき玄関ドアを開いた。わが家の玄関灯と、道端の外灯がほのかに周辺を照らしていた。二、三歩、歩を進めた。いくつかの雨粒が体にあたった。(あれ、雨が降っているのか?)(これくらいなら、掃除はできそうだな!)。道路の濡れぐあいを確かめるため門口へ出た。道路はびしょ濡れではないけれど、舗面は濡れていた。(これでは、掃除はできないなあー…)。私は掃除を諦めて二階へ引き返し、キーボードに向かってこの文章を書き始めている。
 現在の時間帯は、五時半近くである。遅い夜明けであっても一旦明け出すと、またたく間に明けてくる。大空は彩雲で染められ、のどかに晴れた夜明けが訪れている。(しまったかな)と、思った。私はキーボードの前から離れて、窓辺に立った。そして、窓ガラスを通して再び道路の濡れぐあいを確かめた。先ほどのわが判断は正しかった。道路は隅々が濡れて光り、満遍なく落ち葉がべたついていたのである。ようやく焦る気分は収まり、私は再びキーボードを前にして、椅子に腰を下ろしている。ところが、行きあたりばったりに書き始めた文章は、この先が書けそうにない。そのため私は、書かねばならないことの一つだけを書いて、結文に甘んじることとした。
 さて、それはこうである。私は、大沢さまメールでうれしいご一報をいただいたのである。もちろん、こんな朗報は私だけにとどめおくものではなく、「ひぐらしの記」の読者各位様に共通する朗報である。大沢さまのメールには短く、こうしたためられていた。「どうやら夫の病状は安定してきました。本日(九月八日・土曜日)から数日、古河に滞在します」。
 大沢さまのご実家は、茨城県古河市にある。ただ、ご実家とはいえご両親亡きあとは長姉の大沢さまご自身が後継者であり、ご主人様と共にご実家の守り本尊の御身である。現在のお住まいは、埼玉県和光市である。大沢さまはご主人様の車の運転で、長年毎週末には寸分の狂いなく、ご実家通いを続けられていた。そのたびに私は大沢さまの偉さに加えて、大沢さまに報いられるご主人様のひたむきな愛情に、度肝を抜かれ続けていた。ところが、ご主人様が体調を崩されるこんどは、ご主人様の報い返しに大沢さまは倍返しの愛情を注ぎ込まれたのである。このことにはまた、私は度肝を抜かれ続けていた。もちろん私は、ご夫妻がおりなされるまさしく「至上の愛」の堪能に浴していた。大沢さまのご実家返りの復活は、首長く待ち焦がれていた「古河だより」にもありつけそうである。まずは、ご主人様の体調の復活の兆しを、心より寿(ことほ)ぐものである。ご自宅周りに夏草茂る風景をおもんぱかるところはあるけれど、きわめつきの朗報だった。ご夫妻共に、焦らずご自愛を願うところである。 

わが唯一の「芸術の秋」 

 きょう(九月九日・日曜日)の文章は、わが芸術の秋をご紹介するものである。そしてこれは、わが「ひぐらしの記」を約十年も凌ぐ継続の力でもある。受付の記帳のおり戴いた案内には、「第21回『スケッチの会』水彩画展 出品目録」、と記されていた。十二名の会員の出品案内では、安田様は三作品を出されていた。題名は、「三ツ池公園(名残の桜)」、「海の公園(横浜・金沢区)」.「生物」である。
 安田様は、ご近所にお住いのいくらか私よりご高齢の先輩である。かつては、卓球クラブの心優しいお仲間だった。しかし、現在は退会されて、ご造詣(ぞうけい)の深い書道と絵画に勤(いそ)しまれている。とりわけ書道は、現役時代の勤務地である東京都文京区において、名のある書道クラブのいまだ現役指導者である。安田様は文京区において、教育界にたずさわれていたのである。
 安田様と私の出会いは、ご近所とはいえ見知り得ず、どちらも定年後の卓球クラブのとりもつ縁である。そして私は、この出会いあって以来こんにちにいたるまで、ご夫妻様共々に「ひぐらしの記」の押しつけのご回読にあずかっている。そのたびに驚かされるのは、ご夫妻様のお心根の優しさである。具体的な証しは、毎回同じような文章にもかかわらず、丁寧にお読みくださっていることである。すなわち、私はご夫妻様のお人柄に幸運をさずかっているのである。ときには読後感の付箋さえ付されて、わざわざわが家へ返却に足を運ばれる。このとき、妻共々に私は敬意をたずさえて、ひたすら恐縮するばかりである。
 スケッチの会の会場は、わが知るかぎり毎年「鎌倉芸術館」(鎌倉市大船)の中の第3ギャラリーである。きのうの私は、妻を連れだって昼近くに芸術館へ赴(おもむ)いた。天高い秋空の下、キラキラと残暑の陽射しがそそいでいた。久しぶりに芸術館の外観を仰ぎ見るなかで、まずわが目をとらえたのは「鎌倉芸術館 二十五周年」の垂れ幕だった。
 陽射しの翳(かげ)る側壁に沿ってわが夫婦は、年なりの鈍(のろ)い足取りで館内に入った。自動ドアを境にして、館内は程よく冷えていた。広い面ロビーの正面長椅子には、思いがけなくお顔見知りの鈴木様ご夫妻が座られていた。鈴木様ご夫妻もまたご近所にお住まいで、ご主人様は安田様同様に、定年後のかつての卓球クラブの先輩お仲間である。ご夫妻共々に心優しいお人柄であり、私たちはお会いすれば親しく言葉を交わし合っている。私たちに気づかれるとご夫妻は、お人柄を露わにしてすぐに立ち上がり、近づく私たちをほほ笑んで迎えてくださった。挨拶の言葉を交わし合うとご夫妻は、安田様の絵の鑑賞にお見えの先客だったのである。
 数分間の会話ののち私たちは、ご夫妻に促されて第3ギャラリーへ出向いた。ロビーにはたたずんで、わが未知の人と対面し、会話されている安田様が目に留まった。安田様も私たちに気づかれたようである。すぐに、ギャラリーへ向かう私たちを足早に追っかけてこられた。私は先だってギャラリーへ入り、その後ろで安田様は、妻に付き添ってくださっていた。私は二人の高齢の男性が並ぶ受付で、いつものように記帳簿にわが名と妻の名を記した。会員十二名の中で二人が二作品、十名は三作品、これに講師の一作品が展示され、つごう三十五の作品の展示である。妻は安田様の三作品の前で、付き添いで絵を眺めながら説明を受けている。私も割って入ったけれど、難聴の耳にはひそひそ声はまったく聞き取れない。そのため私は、踵(きびす)を返して順番に観て回った。追っかけて、安田様から離れた妻もついてきた。二人して、素人の鑑賞の目を研ぎ澄まし、声ひそかに批評を加えながら、ゆっくりと観て回った。
 毎回訪れていることから、見知らぬ人たちとは言っても、お名前にも絵にもすでに馴染みがある。素人のわが目には、そのたびにいずれも甲乙つけがたい出来栄えである。ところが、私に比べて自称「絵に詳しい」と自尊する妻は、観終えて出口を出るとすぐに、恥じらうほどにわが耳に口を近づけて、
「安田さんが一番上手ね!」
 と、言った。私は呼応し、
「そうだね。安田さんが一番で、おれには浅井さんが二番で、菊池さんが三番かな?」
 と、言った。
 確かに、安田様の絵は講師先生の一枚の絵の脇に、負けず劣らず三枚並んでいた。毎年、秋真っ先に安田様たまわるわが芸術の秋の走りである。走りと表現したけれど、ところがこれに続くのは毎年皆無である。
 末尾になるけれど、ひぐらしの記を毎回丁寧に読んでくださっている証しを付加せずにはおれない。安田様はわが難聴の耳をおもんぱかって、ギャラリー内にもかかわらず大声で、貴重な体験をご教授くださったのである。それはこうである。
「腓(こむら)曲がりのときには、すぐに立てば痛みはなくなりますよ」
 安田様は、とことん優しいお人柄である。「絵は、人となりである」。確かに、安田様の絵にはお人柄がにじみ出ていて、まさしく人は、その絵に魅(ひ)かれているのである。たまわりもののわが芸術の秋の一幕のご披露である。

 ほのぼの文を書きたい

 「味を占める」という言葉がある。電子辞書を開くまでもない、きわめて簡単明瞭な日常語である。しかし、私は開いた。「味を占める」:「一度経験した利益に味を覚えて、またそれを望むこと」。
 先日の栗団子の美味しさに味を占めた私は、再び栗を買って来た。買い物のつどの品選びは、わが家において買い物を任されているわが専売特許である。だから、妻が手渡すメモにはなくても唯一、わが意のままにできる最良の楽しみでもある。半面、自分嗜好の品選びにもなりがちで、汗をたらたらと流し帰るやいなや、妻の小言や不平にさらされることはしょっちゅうある。
 再度栗を買って来たのちの妻は、あえて嘆願するまでもなく快く応じて、早々と手作りの栗団子をこしらえた。皮剥きには、再び私が専念した。すなわち、一度目同様に老いぼれ夫婦の仲睦まじい栗団子づくりの再現だったのである。茹でたてほやほやの栗団子は、二度目であっても食べ慣れすることなく、やはり美味しかった。その証しには言葉に先立って、皺を刻んだ二人の顔にほのかに笑みがこぼれた。小さな幸せとは、このようなことを言うのであろうか。たまにはこんなほのぼの感ただよう文章で、閉じたいものである。なぜならわが文章は、常にわがマイナス思考がわざわいする鬱陶しさで満杯である。だから、本当のところきょうくらいは、ここで結文にすべきであろう。
 ところが、そうは問屋が卸さないのは、昨今(さっこん)日本列島を襲い続ける天災のもたらす悲しみがあるからである。被災者はもちろんのこと、悲嘆に暮れる日本国民を浮かべると、おのずから自分自身のほほんとしてはおれない。その挙句、わが心中にはこんな思いが渦巻いている。それは、近づく「東京オリンピック」(2020年)にたいする虚しさである。もちろん、今さら返上はできない。しかしながら、現下の日本社会をかんがみれば、東京オリンピックの誘致は、為政者の早とちりの宴(うたげ)だったと、言えそうである。
 文章の執筆時間は、まだたっぷりとある。しかし、意図してここで終わりにしないと、せっかくのほのぼの感ただよう文章は、いつもの鬱陶しさになりかねない。きょう(九月八日・土曜日)の夜明けは、彩り旺盛な朝焼けののどかな秋空である。北の地方(北海道)をおもんぱかりながらそれでも私は、階下に下りて我欲丸出しに栗団子を頬張るつもりでいる。なさけない! と書けば、いつもの繰り返しである。

 北海道地震

 思い浮かべれば「ひぐらしの記」の文章構成は、おおむね三部構成になっている。まず一つは、日本列島に起きる天災の記録である。そして一つは、わが五官の衰えにともなう通院状況である。さらに一つは、わがマイナス思考の性向に付随するさまざまな愚痴こぼしである。三つのうち二つもが、わがなさけない性癖で埋められている。この点では忸怩(じくじ)たる思いがつのると同時に、読者各位様にたいし心底より詫びるところである。言うなればひぐらしの記は、読み物としてはまったく面白味に欠けるどころか、わが憂鬱気分の拡散の元凶でもある。
 それにしても日本列島にはなぜ? 地震、台風、豪雨など天災が多いのであろうかと、自問を試みている。するとこれは、幼稚園児からおとなの私へ問われたら、冷や汗をかいての当てずっぽうの答えでもある。「そうだね。日本列島は海の中にあるからだろうね…」。こんななさけない答えは、わが能力の無さの証しである。
 台風二十一号のもたらした惨事を書き終えた途端、思いも寄らず北海道には大きな地震が起きていた。このため、きょう(九月七日・金曜日)は自作文に替えて、メディアの伝える配信ニュースを引用し、記録にとどめるものである。まさしくひぐらしの記には、地震、台風、豪雨などのもたらす災害状況が暇(いとま)なく続いている。もちろん、憂鬱気分がつのるばかりである。
 【震度7観測、死者9人…28人不明305人負傷】(2018年9月7日 01時00分 読売新聞)。「6日午前3時7分頃、北海道南西部の胆振地方を震源とする地震があり、厚真町で震度7を観測した。厚真町では大規模な土砂崩れが起きるなどし、政府によると、道内で計9人が死亡。道庁によると、計305人が負傷し、行方不明者や連絡が取れない人は28人に上る。地震の影響で、道内のほぼ全世帯の約295万戸が一時停電。札幌市や旭川市の一部は夕方までに復旧したが、完全復旧には1週間ほどかかる見通し。一方、閉鎖していた新千歳空港は早ければ7日にも一部再開するという。気象庁によると、震源の深さは37キロ、地震の規模を示すマグニチュード(M)は6・7と推定される。国内での震度7は2016年4月の熊本地震以来で6回目、北海道では観測史上初めて。余震とみられる地震も相次ぎ、7日午前0時現在、震度4以下の揺れを83回観測。今後1週間程度は最大で震度7程度の地震が起きる可能性があるという。人的被害が最も大きいのは厚真町で、土砂崩れによって倒壊した住宅などから、死者が発見された。道庁などによると、厚真町では少なくとも19棟の建物が倒壊。28人が行方不明や連絡が取れない状態になっている。吉野地区では幅約500メートル、最大で高さ70メートルの土砂崩れが起き、道警や自衛隊は、夜通しで捜索を進めている。むかわ町、新ひだか町などでは、自宅で倒れたたんすの下敷きになるなどして、死者が出た。北海道電力などによると、地震の影響で道内全ての火力発電所が停止し、約295万戸が停電した。札幌市や旭川市など一部は夕方までに復旧したが、北海道全域の復旧には少なくとも1週間ほどかかるという。道庁によると、避難所には計5777人が避難している。厚生労働省によると、6日午後3時現在、災害拠点病院34施設を含む349病院が停電。救急患者の受け入れを制限している病院もある。泊村の泊原子力発電所1~3号機(停止中)は、停電によって外部電源が喪失したが、午後1時までに復旧した。天井や壁のパネルが崩落するなどした新千歳空港では国内線、国際線とも全便欠航。国土交通省によると、6日午後6時頃から電気供給が開始され、7日にも国内便は運航再開できる見通しという。JR北海道は、北海道新幹線28本を含む1282本を運休。北海道新幹線は7日午前も運休を決めた。一方、今回の地震では、震源近くの震度計からデータが届かず、気象庁は当初、最大震度を安平町の震度6強としていた。その後復旧し、厚真町で震度7を観測していたことが判明した。今回の地震は、地盤が押されて上下にずれる『逆断層型』の直下型地震で、04年の新潟県中越地震と同じタイプ。同庁は『平成30年(18年)北海道胆振東部地震』と命名した。」
 古来、日本列島にあって言い伝えられてきた成句、すなわち「天災は忘れた頃にやってくる」は、もはや死語同然である。このため、あえて置き換えれば「天災は忘れる暇なくやってくる」が至当である。ところが、そのたびに気象庁から付される命名は、多くてわが能無しの脳髄は刻むことができない。そのため、私はやむなくメディアの配信ニュースを引用し、記録にとどめているのである。もちろんけたくそわるいけれど、一方では案外、ひぐらしの記の効用なのかもしれない。先ずは、北海道の安寧を望むところである。
 きのうの私は、予約済みの「斎藤歯科医院」(横浜市栄区)へ通院し、新たに出来ていた入れ歯費用のため、渋々多額のお金を支払った。やんぬるかな! ひぐらしの記は、三部構成の繰り返しである。

 秋の走り、雑感

 台風一過の日本晴れほど、恨めしく理不尽なものはない。きのう(九月五日・水曜日)の鎌倉地方の天候は、まさしく台風一過の恨めしい日本晴れだった。実際のところ鎌倉地方を襲った台風二十一号は、ミニ台風とも言えない風雨の跡を残したにすぎない。しかしながら台風二十一号は、日本列島各地に大きな被害をもたらして去った。確かに、台風二十一号は前触れや接近中にあっては、勢力の強い大型台風の襲来と予報され、さまざまに危ぶまれていた。このため、気象予報士の伝える進路と上陸予報は、日本列島の各地が恐怖に晒されていた。予報に違わず台風二十一号は、日本列島の広域にわたり爪痕を残した。台風による被害は、日本列島の各地から伝えられた。もちろんそれらの被害は、台風そのものの風と雨がもたらしていた。全国的には死者は十人を数え、大小の怪我人は三百人近くに及んだようである。
 台風二十一号は、これら人的被害のほかにさまざまな被害をもたらした。被害の最大地方は、広域の近畿地方だった。とりわけ、メディアで被害状況を伝え続けられていたのは、想定外の関西国際空港(関空)の水浸しだった。思い及ばなかった関空の弱点は、先々に課題を残し緊急の対策が迫られそうである。台風シーズンの初っ端にあって台風二十一号は、日本社会に恐怖のみならず災害をもたらし、同時に新たなさまざまな課題を突きつけて去った。
 わがことに置き換えれば、きょう(九月六日・木曜日)の夜明けには、イの一番に台風一過の道路の掃除に向かう心構えにある。なぜなら、きのうの日本晴れの下にあっても道路は乾ききれず、仕方なく掃除は、今朝へ先延ばしとなっていた。そのため、私には夜が明ければ掃除をする心づもりがあって、二時近くに起き出して早手回しにこの文章を書いている。その挙句にはこの文章は、支離滅裂のうえに尻切れトンボを免れそうにない。
 日本列島の各地が台風災害をこうむっているさ中にあって、極楽とんぼのことを記すことは、もちろん恥の上塗りである。しかし、私には秋の走りにありつけた喜びを、書かずにはおれないところがある。具体的にはきのう、わが家が栗団子にありついたことである。実際には、妻と私が相和しての手作りの栗団子である。先日の買い物どきにあって私は、新物の茨城産の栗を買ってきた。このときの心づもりは、最も容易な「茹で栗」にするつもりだった。ところがきのうの私は、先日掲示板上にご投稿のあった、わがふるさとにご在住の平洋子様の「栗団子」に、食発(誤字ではなく触発をあえてこう書いた)されたのである。すなわち、茹で上がった栗をそのまま食べることに、もったいない、とためらったのである。茶の間で、妻と交わした会話はこうである。
「小麦粉の買い置きある?」
「あるわよ」
「そうか。それなら、おれが栗の皮を剥くから、栗団子にしてよ。おまえが面倒なら、おれが小麦粉をこねて、作るよ。このところのおれは、栗だご(栗団子)が食べたくて、しかたがないよ。いつものように、相良観音様の下にある店に電話をかけて、送ってもらってもいいけど、この茹で栗の皮を剥けばいいのだから、いま剥くよ。そして、おれが栗団子を作るよ」
「皮を剥くのが大変なのね。パパが皮を剥けば、わたし、作るわよ」
「そうか。だったら、おれ、皮を剥くよ」
 私は得たりやおうとばかりに、包丁片手に一心不乱にすべての茹で栗の皮を剥いた。心中には、わが子どもの頃の母の栗の皮剥きの様子を浮かべていた。母は茹でる前の生栗を包丁片手に、手荒く向いていた。
 咄嗟の思いつきのため、母とは順序が逆になった。剥きあがった茹で栗は、妻の団子づくりに移行した。それでもなお、私はこう言った。
「おれが、作ろうかね。栗団子の作り方は、知りすぎているから。小麦粉に水と少しばかりの塩を入れてこね回し、それに指先で栗を包んで茹でればできあがりだね」
「わたしが作るわよ。そんなこと知ってるわよ。これまでも、なんども作ってあげたじゃないのよ。パパ、忘れたの?…」
「忘れてはいないよ。じゃ、おまえが作ってくれるんだね。ありがとう」
 このあとには、おふくろの味そっくりの妻の栗団子が出来上がった。
 念願かなって私は、喜色満面に栗団子を頬張った。ところが、これに加えてきのうには、付け足しの秋の走りの食感に恵まれたのである。強い風で落とされた柿の実を拾って、試しに皮を剥いて食べてみた。ところが、すでにゴマがいっぱい吹いていて、たまらなくおいしかった。さらには、買い置きの葡萄、梨、桃にもありついた。台風さえこなければ、やはり夏より秋がいいなあーと、私は悦(えつ)に入っていた。
 ようやく、ほんのりと夜明けの明かりが見え出した。私は、慌てふためることなく台風の後始末が出来そうである。

「診断と判断」 

 おととい、私は『通院の顛末』と題する文章を書いた。すると早速、大沢さまはそれにちなむご自身の体験をご投稿くださった。まさしく、機を見るに敏なる優しいお心配りである。私にとってこれほど感謝感激するものはなく、ここでお礼を申し上げるしだいである。
 さて、まことに身勝手ながらこの文章では、通院の顛末の文章の主たる部分を再記し、きょう(九月五日・水曜日)の表題である『診断と判断』につなげるものである。再記する文章はこのところである。
「具体的にはこうである。LDLコレステロール(悪玉)の場合は、171から138へ(基準値70~139)。一方、中性脂肪の場合は、190から73へ(基準値35~149)へ。投与薬剤は著効を示して、どちらも基準値内に改善していた。先ずは、めでたし、めでたし、と言えるものだった。ためらっていた薬剤治療を決意したのは、動脈硬化のもたらすさまざまな病気を恐れてのことだった。必ずしも数値が、即病気の引き金にはならないとは言うものの恐れは多分にある。もちろん、医療費をかけて検査をすること自体、予防措置である。
 このため、検査結果の数値にのほほんとするようでは、何のために検査をするのか、本末転倒である。せっかくの検査数値に無頓着であっては、自分としては検査費用の無駄遣いであり、日本の国としては医療費の無駄遣いである。そうとわかっちゃいてもこれまでの私は、検査数値にこだわらずのほほんとうち過ぎていた。
 主治医の左近允先生は、先回の検査結果をみて薬剤服用を打診された。あえて打診と書いたのは、強制を強いられることなく、患者すなわち私の決意を尊重されるところがあるからである。左近允先生はきわめて患者対応が優しく、私はそれに悪乗りしているところがある。そしてそれが、明らかにためらいの因となっている。かてて加えて私は、生来、優柔不断の質(たち)である。
 私は「大船中央病院」(鎌倉市)における胃部カメラ検査のおり、先回の検査結果をたずさえて、主治医の吉田先生に見解を仰いだ。双方の主治医先生は共に、わが信頼するホームドクターである。そのとき吉田先生は、『そちらの先生が言われるように、薬剤投与されたがいいですよ。そちらのほうでしてもらってください』と、言われたのである。私はとんぼ返りさながらに左近允医院へ出かけて、『先日、ためらった薬剤の服用をお願いします』と言って、衷心から詫びて薬剤投与をお願いしたのである。
 そのとき左近允先生は、『投与する薬剤には、筋肉痛という副作用があります』と、言葉を添えてくださったのである。私は『わかりました』と、応じた。ところが、左近允先生が依頼された外部機関作成の検査報告書には、主目的の二つ改善数値のほか、左近充先生が懸念されていた副作用の数値が示されていたのである。検査項目欄には『CK』とある。先回は数値無表示であり、今回新たに450(基準値50~250)の数値が示されていた。驚くべき数値である。」
 長々と再記したけれど、インターネット上で閲覧した次の項目につなげるためである。「Newton Doctor(ニュートンドクター)」:【CKの値と注意信号】 CK:クレアチンキナーゼ。単位:IU/リットル(CKの量を1リットル中の国際単位で示したものです)● 正常値の上限~500。(軽度の上昇) 急性心筋梗塞、心筋炎、心外膜炎、進行性筋ジストロフィー、多発性筋炎、アルコール多飲者、甲状腺機能低下症、周期性四肢麻痺、神経原性ミオパチー、筋強直性ジストロフィー、脳外傷、脳梗塞、β-ブロッカーなどの可能性があります。● 500~2,000。(中等度の上昇) 急性心筋梗塞で多くみられる数値です。心筋炎、進行性筋ジストロフィー、末梢循環不全、多発性筋炎、皮膚筋炎、甲状腺機能低下症、外傷・熱症・動脈閉塞による筋障害の可能性もあります。● 2,000以上。(高度の上昇) 急性心筋梗塞で多くみられる数値です。心筋炎、進行性筋ジストロフィー、悪性高熱症(サクシニルコリン全身麻酔)、末梢循環不全、多発性筋炎、皮膚筋炎、外傷・熱症・動脈閉塞による筋障害、筋型糖原病の可能性もあります。● さらにくわしく知りたい方は・・・ 日本心臓病学会『心臓の病気』国立循環器病センター 循環器病情報サービス 『心筋梗塞、狭心症とその治療』」。
 私は新たに示された「CK」の異常値と主治医先生の診断に戸惑いをおぼえて、薬剤服用継続の判断に悩み、決断を脅かされている。もちろん、薬剤につきものの副作用のせいである。決断を脅かされているのは、たった一か月の服用にすぎないのに、すでに450の値を示しているからである。確かに、薬剤は「両刃(もろは)の剣(つるぎ)」である。「診断と判断」、難しいわが決断である。

この夏の気象総括(気象庁) 

 わが夏風邪は、願っている自然治癒に不安を残し、いまだにすっきりしない。やはり、医療費をしみったれることなく薬剤にすがり、転ばぬ先の杖を実践すべきであろうか。古来、日本社会にあっては「風邪は万病のもと」という、先人の訓(おしえ)がある。夏風邪くらいと言って、ゆめゆめ侮(あなど)ることはできない。
 このところの日本列島にあっては、気象予報士の伝える台風二十一号の進路や上陸予報が渦巻いている。予報によればこれまでの中で、最も強い大型台風と言う。このこともあって仕事柄、気象予報士は事前の警戒情報に大わらわなのであろう。予報によれば台風二十一号は、きょう(九月四日・火曜日)あたりに日本列島に上陸し、日本国民を脅(おびや)かしそうである。望むところは、気象予報士の予報の空振りを願っている。もちろん気象予報士は、予報の外れにあってもメンツ丸つぶれと、嘆くには及ばない。なぜなら台風予報の外れは、諸々の空振りの中で最も非難するにあたらないものと言えるであろう。
 さてきょうは、数ある配信ニュースを読み漁った中で、どうしても記録に留めておきたいものがある。それは、気象庁が伝えたこの夏の気象の総括である。それを読んで私は、やはりそうだったのか! と、ピタリと腑に落ちるものがあった。それはずばり、この夏の高気温とそれがもたらした厳しい暑さのわが体感である。
 【東日本、平年より1.7度高く=雨、台風、記録ずくめ―夏の天候まとめ・気象庁】(9/3・月曜日、19:13配信、時事通信)。「気象庁は3日、夏(6~8月)の天候まとめを発表した。東日本の平均気温は平年を1.7度上回り、1946年の統計開始以来最も高かった。一方、沖縄・奄美の降水量が史上最多になったほか、台風発生数も最多に並ぶなど、記録ずくめの夏となった。発表によると、チベット高気圧と太平洋高気圧が張り出し、東日本の平均気温は平年より1.7度高く、西日本も1.1度高くなり、2013年に次ぐ暑さだった。7月23日に埼玉県熊谷市で41.1度となり、国内観測史上最高を更新。8月23日には台風20号の風が山越え時に乾燥し、温度が上がるフェーン現象が起き、新潟県胎内市で40.8度と、北陸で初めて40度以上となった。降水量は、台風が多く通過した沖縄・奄美が平年比177%で、統計史上最多に。前線の影響が強かった北海道・東北の日本海側は同165%、西日本太平洋側は同133%だった。6月末から7月上旬には西日本を中心に広い範囲で大雨となり、平成に入って最悪の被害をもたらした西日本豪雨が発生した。台風は期間中18個発生し、19944年と並んで最も多かった。偏西風の蛇行などの影響で、7月下旬には台風12号が東海に上陸し九州に抜け、統計史上初めて東から西に逆行した。今年の梅雨の特徴についても発表。奄美の梅雨入りは精査の結果、速報値の5月7日が同27日ごろに修正され、1951年の統計開始以来最も遅くなった。関東の梅雨明けは6月29日ごろで、最も早い梅雨明けが確定した。」
 ところが、気象庁は異常気象とか異変とかの言葉は添えてはいない。すると、これらの数値は平年値に置き換わるのであろうか。日本列島は「くわばら、くわばら」である。早手回しに、この先の秋の気象の総括が危ぶまれるところである。
 長引くわが夏風邪の鬱陶しい鼻炎症状は、暑気に抗(あらが)い臍丸出しの寝冷えが誘因だったようである。とことん、なさけない。

通院の顛末 

 夏の終わりにかけ、秋の入り口にあって、私は夏風邪の鼻炎症状に見舞われて憂鬱気分に陥っている。夏特有のうっかり寝冷えを食らったようである。自業自得の最たるものである。さまざまに医療費がかさんでいるおりに、こんなことで飛び入り通院でもすれば、馬鹿の丸出しでほとほとなさけない。
 きのう(九月二日・日曜日)は採血結果の診断を仰ぐため、最寄りの左近允医院へ出かけた。今回、血液検査を施されたのは、薬剤投与から約ひと月経過後の改善状態を確認するためだった。投与薬剤は、LDLコレステロール(悪玉)と中性脂肪の改善のためのものだった。約ひと月の薬剤服用でこの二つの数値は、効験(こうけん)あらたかに確かな改善傾向を示していた。
 具体的にはこうである。LDLコレステロール(悪玉)の場合は、171から138へ(基準値70~139)。一方、中性脂肪の場合は、190から73へ(基準値35~149)へ。投与薬剤は著効を示して、どちらも基準値内に改善していた。先ずは、めでたし、めでたし、と言えるものだった。ためらっていた薬剤治療を決意したのは、動脈硬化のもたらすさまざまな病気を恐れてのことだった。必ずしも数値が、即病気の引き金にはならないとは言うものの恐れは多分にある。もちろん、医療費をかけて検査をすること自体、予防措置である。このため、検査結果の数値にのほほんとするようでは、何のために検査をするのか、本末転倒である。せっかくの検査数値に無頓着であっては、自分としては検査費用の無駄遣いであり、日本の国としては医療費の無駄遣いである。そうとわかっちゃいてもこれまでの私は、検査数値にこだわらずのほほんとうち過ぎていた。
 主治医の左近允先生は、先回の検査結果をみて薬剤服用を打診された。あえて打診と書いたのは、強制を強いられることなく、患者すなわち私の決意を尊重されるところがあるからである。左近允先生はきわめて患者対応が優しく、私はそれに悪乗りしているところがある。そしてそれが、明らかにためらいの因となっている。かてて加えて私は、生来、優柔不断の質(たち)である。私は「大船中央病院」(鎌倉市)における胃部カメラ検査のおり、先回の検査結果をたずさえて、主治医の吉田先生に見解を仰いだ。双方の主治医先生は共に、わが信頼するホームドクターである。そのとき吉田先生は、「そちらの先生が言われるように、薬剤投与されたがいいですよ。そちらのほうでしてもらってください」と、言われたのである。
 私はとんぼ返りさながらに左近允医院へ出かけて、「先日、ためらった薬剤の服用をお願いします」と言って、衷心から詫びて薬剤投与をお願いしたのである。そのとき左近允先生は、「投与する薬剤には、筋肉痛という副作用があります」と、言葉を添えてくださったのである。私は「わかりました」と、応じた。ところが、左近允先生が依頼された外部機関作成の検査報告書には、主目的の二つ改善数値のほか、左近充先生が懸念されていた副作用の数値が示されていたのである。検査項目欄にはCKとある。先回は数値無表示であり、今回新たに450(基準値50~250)の数値が示されていた。驚くべき数値である。
「先生。CKってなんでしょうか? この数値はどんな疾患を引き起こすのでしょうか?」
「筋肉痛です。薬を服み始めてから、どこかの筋肉が痛み出してはいませんか?」
「いいえ、格別自覚するところはないですけど、このところは歩くのに違和感があるなとは思っています。しかしこれは、薬の服用中に脹脛(ふくらはぎ)周辺を強くマッサージしたせいかもしれません」
「今の薬は、二週間ほど服まないでください」
「そうですか。せっかく恐れていた数値が改善したのに、もったいないですね」
「違和感が薬のせいでないと判断されたとき、再び服み始めればいいのです」
「わかりました。そうします」
「ほかにも、効果の同じ薬はありますから、とりあえず今回はそうしましょう」
「風邪をひきましたから、薬いただけますか」
 と、言うのは我慢した。もちろん、かかりすぎる医療費の自己節約である。
 私は、信頼する主治医先生の診断に素直に従って院外に出た。夏の陽射しは、柔らかい秋の陽射しに変わっていた。好季節の到来にあって、夏風邪くらいは自然治癒力にすがっている。そうでないと、わが家計の医療費がもたないからである。命は惜しいくせに、私はとことんしみったれである。

秋は気配から実感へ 

 二つの真夏の夢の中で、快眠はときおり叶えられたけれど、肝心要の夏痩せ願望はまったく果たせず、とうとう「馬肥ゆる秋」となった。こんなことでは、夏痩せ願望の反動に慄(おのの)くことになる。
 きのう見上げた大空はまさしく天高く、澄明な青空に抱かれて、いたるところに綿雲がふわふわと浮いていた。私はしばしたたずみ絶景を仰ぎながら、すっかり秋だな! と、呟いた。過ぎ行くこの夏は、身体的には終始厳しい暑さとの闘いだった。これに比べて訪れている秋は、物思いに耽(ふけ)る精神的闘いとなる。なぜなら、秋の物思いには常に寂寥感(せきりょうかん)がつきまとうからである。このことを思えば私には、共にどっちつかずの厳しさである。確かに、夏の盛りにあっての身体は、連日の暑さに辟易するばかりで、寂寥感をおぼえる暇(いとま)はない。ところが、秋は身体的には楽だけれど、一方精神は、さまざまに出没する物思いに襲われて堪(こた)える。このため、とりわけマイナス思考の強い私は、過ごし易さの点で必ずしも秋に軍配を上げることはできない。せっかくの好季節の訪れにあって、まったくなさけないわがマイナス思考である。世間一般的には、夏に比べればはるかに秋の季節を好む人が多い。マイナス思考のせいで私は、とんでもないへそ曲がりを強いられている。
 昨夜の私は去り行く夏にたいし未練がましく、部屋は網戸にしたままで夏布団を蹴飛ばして寝(やす)んだ。ところが、早々に秋風に吹き込まれて、ほうほうのていで窓ガラスを閉めて布団を覆った。夜間にかぎればすでに夏は、過去の異物となっていたのである。
 わが秋の訪れの皮切りは、一枚のはがきだった。具体的には卓球クラブ元お仲間の安田様からたまわった、絵画展へのお誘いはがきだった。はがきは不断の私にはまったく無縁の、たまわりものの「芸術の秋」へのお誘いだった。
 実りの秋は、日を替えてわが舌に味を占め始めている。その皮切りは、日に日に品を替える「果物の秋」の走りである。加えてきのうは、新物のサンマが夕御飯の一品御数にのぼった。このところ書き続けている落ち葉は、日を追って重量感を失くし、枯葉色を濃くしている。
 一方、見晴るかす山や周辺の木立は、緑一色から少しずつ黄色や紅色に染まりかけている。夜だけ開いて朝には萎(しぼ)むカラスウリの花は、わが朝の掃除の厄介物である。長く道路に散りばめてきたサルスベリの花びらは、もはや終わりかけにある。サルスベリの花をこよなく好む私は、厄介物であると同時に愛惜(あいせき)つのるところもある。柿の実はすでにゴマがついて、食べ頃なのであろうか。にわかに、山に棲みつくタイワンリスの出没が激しくなっている。自然界の変化を目にしながら夏から秋へと変わりなくわが身に続くものには、病医院を替えて予約が刻まれている通院がある。
 きょう(九月二日・日曜日)の私には、予約ではないけれど先日の血液検査の結果を聞くために、最寄りの左近允医院への通院がある。「秋は、どこから来るかしら?…」などと、のんびりと構えておれないのは、わが身不全ゆえである。これまた、わがマイナス思考かな?…。

季節めぐって、九月一日 

 季節がめぐっている。掲示板上部の写真は八月掲載の写真から、早々と九月を表す写真に入れ替わっている。この行為だけでも私には、掲示板の管理にたずさわれている大沢さまの心の充実ぶりと、お心の優しさが十分に読み取れるものがある。
 確かに月の初日にあって、写真が季節のものに入れ替わっていると、たちまち私は新鮮な気持ちになる。同時に、大沢さまの無事息災をも窺い知ることができる。このことでは、写真の入れ替わりには一石二鳥の恩恵にありついている。実際にも私には、「さあーやるぞ!」、という新たな気分が湧いてくる。言うなれば大沢さまのご配慮は、わが萎えている気分に効果覿面のカンフル剤の役割を果たしている。
 きょうは月替わって九月初日(一日・土曜日)である。今さら言わずもがなのことだけど、季節めぐりの中で九月の明らかな特徴は、夏から秋への変わり目であろう。このことは、四季すなわち春夏秋冬の中でも特筆すべき変化である。それをカレンダー上に如実に表すのは、月の下旬に訪れる「秋分の日」(二十三日・日曜日)である。秋分の日とあれば日本社会には、ずばり「暑さ寒さも彼岸まで」という成句がある。
 人の営みにあっては、「敬老の日」(十七日・月曜日)の習わしがある。俗人的にはこの二つの国民祝日があって、二度の三連休に恵まれる。さらに人は、実りの秋にありつける月でもある。そのほか、さまざまな冠(かんむり)の秋の走りにも恵まれる。さらには、物想う秋の夜長の好季節でもある。ところが、好事魔多し自然界は、本格的な台風シーズンが待ち受けている。
 過去の出来事に遡(さかの)れば日本列島のこの日は、「関東大震災」(大正十二年・一九二三年九月一日)に見舞われている。これにちなんで日本社会は、きょうは「防災の日」である。もちろん天変地異は、九月にかぎらずしょっちゅう起きている。しかしながら、九月の日本列島は過去の関東大震災にとどまらず、気象統計的に台風シーズンと銘打たれている。このため、日本の国に住む者はすべからく、このことは常に心すべきことであろう。だからと言って天変地異の変動には、予(あらかじ)め対処すべき便法とてない。強いて言えば実際には役立たずにも思える、日本国民の防災意識程度であろうか。「備えあれば患(うれ)いなし」と言うけれど、実際のところ天変地異には備えのしようはない。
 九月になって直接的にわが身に難渋をもたらすのは、道路上に日ごと増え続ける落ち葉の掃除である。しかし、嘆くまい! 半面、野山は日々彩りを替えて、目の保養(眼福)をもたらしてくれる。
 結局、月替わり初日(九月一日)にあって私は、日々「是れ好日」を望むところである。備えなしの、欲張りな願望である。

 過ぎ行く八月

 八月最終日(三十一日・金曜日)の夜明け前が訪れている。八月を真夏の月とすれば、きょうで賞味期限が切れて、暑さは九月中頃までの消費期限止まりになる。そのため残る暑さは、もはや残暑という言葉に置き換えられる。しかし、言葉は残暑だけれど、真夏の未練たらたらに昼間の暑さは、体験上真夏を凌ぐ厳しさがある。それでも朝夕だけは、もう真夏へのぶり返しはなく、肌身は敏感に初秋の訪れを感得する。
 きのうの夕御飯時の妻は、私にたいしこう言った。
「パパ。秋の虫たちがうるさく鳴いているわよ」
 これに応じて私は、
「そうか。おれにはまったく聞こえないよ」
 と、言った。
 難聴のわが耳は、妻がうるさいと訴える集(すだ)く虫の声さえ遠ざけている。季節めぐりの証しの一つを失くしなさけなく、私は途方に暮れる思いだった。夏の盛りにあっても、セミやヒグラシの切ない鳴き声もまったく聞こえなかった。この寂しさは、先日書いたばかりである。季節の移り変わりを告げてくれる虫たちの鳴き声を「うるさい」と言い放つのは、人間の傲(おご)りであろう。もちろん私とて、難聴になってようやく知り得た慈愛の心にすぎない。なぜなら健全な耳の頃は、とりわけ短い命の哀しさを人の世に訴えるごとく鳴くセミの声は、ただうるさく聞こえるばかりだった。本当の人情や愛情は、みずからが欠陥人間になってこそ、ようやく気づき育まれるのであろうか。
 顧みれば過ぎ行く八月は、例年に比べて暑い日が続いた。いやことしの暑さは、まるで百日紅(サルスベリ)のごとく、六月、七月、そして八月と、三か月にも及んだ感がある。この間には、近畿地方の震災や西日本地方豪雨災害もあった。これらのことをあらためて思い起こすと、日本列島は異常状態のままにこの夏を過ぎてゆく。あすから九月への月替わりである。日本列島津々浦々、安穏(あんのん)な日常の訪れを願ってやまない。もちろん、わが身および身内、加えて友人、知人の身の安穏こそファースト(第一)である。欲張って虫たち、すなわち「生きとし生きるもの」の生存の安寧(あんねい)をも願っている。
 このところはずーと、夜明けの道路の掃除が続いている。幸い今朝も出来そうである。しかし草むらには、出番にありついた虫たちが潜んでいるから、十分に心しなければならない。アブラゼミの亡骸に出遭えば、優しく葬らなければならない。無粋(ぶすい)な私にも、ちょっぴり人の情けが根づいたようである。もちろん、ありがたくはないけれど、難聴の耳の恵みなのかもしれない。

人生訓の復習 

 八月三十日(木曜日)、きょうの私には歯医者通いの予定がある。このところの私は病医院を替えて、通院が日課になりつつある。しかし、幸いにも致命的な病は免れている。それでも、お粗末きわまりない。
 予約を繰り返す診療科は、歯医者(斎藤歯科医院)、眼医者(大船田園眼科医院)、消化器内科(大船中央病院)、そして距離的に近いところでは住宅地内にある「左近允医院」である。これらの病医院には最寄りの調剤薬局が付随し、おのずから私は処方箋をたずさえて赴くこととなる。
 わが家には私だけでなく、共白髪の配偶者(妻)も存在する。妻はこれらの病医院のほかに、耳医者(神尾耳鼻咽喉科)への予約通院を繰り返している。難聴の私は、本当であれば耳医者が最も急を要して受診しなければならない。私自身、日々そうしたいとも願っている。確かに、かつての私は、当の耳医者にも通った。ところが、難聴という器官の欠陥にはさしたる改善の兆しなく、加えてエンドレス(際限ない)の治療を恐れて、私は登校拒否ならぬ自主通院拒否を敢行したのである。するとそののちは、当医院への受診がうしろめたくなり、そのまま沙汰止みになっている。このときに懲りて私は、ほかの耳医者通いもまったくしないままである。即入院を促されたり、手術するほどの病ではないけれど、そのぶんわが病はエンドレスの生涯病、すなわち終身の薬剤治療が避けられない不治の病である。結局、妻共々に通院を余儀なくしているわが家計は、医療費破綻の瀬戸際にある。
 やんぬるかな! その打ち止めは、絶命の時である。ネタ切れの今朝の私は、「ひぐらしの記」の継続だけを願って、こんなくだらないことを書いて茶を濁したにすぎない。その挙句には、尻切れトンボのままに文を閉じることになる。しかしながらこれでは、あまりにも不甲斐ない。このため、目覚めて浮かんでいた人生訓をおさらいして、付加するものである。もちろん、前文とはまったく関係ないことを記すことには、恥を忍んで気分の滅入るところがある。
 私は電子辞書を開いている。
 【巧言令色鮮し仁】使い方:ことば巧みに飾り、顔つきを和らげて人にへつらうような人は仁の心が少ないものだ。「仁」は、他を思いやる心をもとにして、自己を完成させる最高の徳。「令色」は、人に気に入られようとして、こびへつらう顔つき。「鮮」は、ほとんどないの意。「少なし」とも書くが、原典に沿えば「鮮し」。出典:「論語・学而」「論語・陽貨」にあることば。類表現:「剛毅朴訥仁に近し」。
 現下、与党・自民党の総裁選や、野党・国民民主党の代表選のさ中にある。だから、こんな人生訓がが浮かんだのであろうか? 私には認知症の自覚はない。

季節のめぐり 

 八月二十九日(水曜日)、三時近くに起き出している。前面の窓ガラスには夜明けの明かりはまったく見えず、いまだ真っ暗闇である。今朝は夜明けとともに訪れる作業がある。一つは日課とする朝の道路の掃除である。そして一つは、週一回の決まりとされる伐採材や落ち葉などのゴミ出しである。私は先週末にこれらの大作業をした。そのおり数束束ねた物と、半透明の袋に一杯詰めた落ち葉や枝屑を数個待機させている。きょうは、それらを所定の分別ごみ置き場へ移動させなければならない。これを終えて、一連の作業は完結となる。
 朝の道路には、日ごとに落ち葉が増えている。転がっている柿の実は、食べ頃に太っている。すでにゴマがついているのもあるはずである。しかし、拾って割って見ることまではしない。私は、落ち葉と一緒に半透明のゴミ袋に入れている。しかし、落ち葉を入れるのとは違って、やはりわが気分は切ない。なぜなら柿の実は、食べては大の好物であり、加えてわが郷愁を呼ぶ代物の一つだからである。そのため、本当のところゴミ扱いすることには、切なさもあり躊躇(ためら)いもある。
 昼間の暑さの厳しさは、いまだに真夏を凌ぐほどである。しかしながら朝夕にかぎれば風は、すっかり夏の風から秋の風へと変わっている。わが肌身に感ずる風の違いは、自己流で表現すれば風がたずさえる温気(うんき)の有無である。確かに、夏の風もまたオアシスや桃源郷にいるような心地よい気分をもたらしてくれる。それでもやはり、夏の風は温気をたずさえている。ところが、秋の風には温気はなく、涼気一辺倒である。
 起きて、閉めていた窓ガラスを開けてみた。すると、網戸を通して風が吹き込んだ。肌触りは夏の風ではなく、すっかり秋の風だった。道路上にはときたま、山からまだ小さくて固い緑一色のアケビが転がっている。たちまち私は、ふるさとの秋の野山を追想する。野生の山芋の葉もここを先途に茂り始めている。残り玉のアジサイは醜く廃(すた)れて、哀れを誘うばかりである。
 過ぎ行く夏にあって寂しいことの一つは、難聴のせいでセミの鳴き声を一度も聞かずじまいだったことである。もちろん、セミがいないわけではない。なぜなら、道路を掃いているとアブラゼミの屍(しかばね)やバタつきに出遭うからである。セミやヒグラシの鳴き声は、夏の盛りと終わりを告げる切ない風物詩である。難聴のせいでそれらが聞こえてこないのは、かえすがえす残念至極である。
 秋の入り口にあって、集(すだ)く虫の声も旺盛になり始める頃にある。ところが、こちらも一切聞こえてこない。ときおり、難聴を慰めてくれるかのように高らかに聞こえていた老鶯(ろうおう)の声も、今や途絶えている。ところが、わが頭上には声なき蛾や羽虫が電灯の明かりをめがけて寄ってくる。実際にはブンブンとうるさい鳴き声を立てているのであろう。しかし、私には聞こえていない。
 防虫ネット代わりに私は、幅広の麦わら帽子を頭に載せてキーを叩いている。あれやこれやこうして、わが周辺の自然界は季節をめぐっている。まもなく夜明けの頃である。私は文章閉じて、ゴミ出しと道路の掃除に始動する。こうして、わが日常はめぐっている。一度の推敲さえできず、書き殴りに甘んじるのはほとほとつらい。一つの恵みは、暑気を落とした朝のさわやかさである。

六十(歳)の手習いの足跡 

 現在は八月二十八日(火曜日)の夜明け前にある。このところの昼間の暑さの厳しさは、わが身を茹で焦がしそうである。もちろん、昼間のわが家の窓は、すべて網戸に頼りきっている。ところが、夜の帳が降りると、すべての網戸は窓ガラスで覆われる。そして、一階の窓ガラスだけは、すべてその上に雨戸で閉められる。しかし、二階の窓は台風接近の予報でもないかぎり、ほぼ一年じゅう雨戸を閉めることはない。二階の窓には薄いレースのカーテンと、厚い布のカーテンが重なり、垂れている。ところが、パソコンを置く前面の窓ガラスだけには、カーテンの用意ない。そのため、雨戸を閉めなければ、常に窓ガラスを透して大空丸見えの状態にある。この点だけでもわが家は、草の庵(いおり)さながらである。
 常々私は、妻にたいしこんな愚痴こぼしをしている。「わが家は、住宅地の中で最もみすぼらしいね。わが甲斐性無しは、つらいよ。ごめんね…」すると妻は、いくらか慰め加減に、「仕方ないでしょ。そうでもないわ!」と言う。
 前面の窓ガラスは、私には幸いにも利するところがある。すなわち、実益はキーボードを叩きながら春夏秋冬、夜明けの空模様を望めむことができることである。雨の日は部屋の明かりの下、窓ガラスに張り付く雨粒や、あるいはひっきりなしに流れる雨垂れを楽しむことができる。一方晴れの日は、白々と明けゆく夜明けの空、のどかな朝ぼらけ、昇りはじめの朝日の織り成す彩雲、なんでもござれの大空の朝の光景に恵まれる。言うなれば私は、無償の桃源郷のたたずまいに酔いしれる。草庵に住む惨めな気持ちを打ち消すかのようなかなりの強がりだけれど、それでも常日頃の私は、確かに前面の窓ガラスの恩恵に浸っている。
 昨夜の私は、一度のトイレ起きのおり、試しに閉めていた窓ガラスの一か所を開けて網戸にした。案の定、吹き入る風は暑気を払って、涼気を含んでいた。私は「冷(ひ)ゃあ」と言って、窓ガラスを閉めた。夏の終わりかけにあって夜間の風は、すでに夏風から秋風に変わっていた。
 こんなどうでもいいことを書き殴りながらこんにちまでの私は、とてつもなくたくさんの文章を書いてきた。もちろん、六十(歳)の手習いをかんがみれば、われながら文章の量には自惚(うぬぼ)れるところがある。ところが、文章の質にはまったく誇れるところはない。
 しかし、現在の私は、文章の質はさておいて、六十(歳)の手習いの足跡を浮かべている。まず浮かぶのは、確かに測り知れない量の多さである。足跡は三段階に区分される。前段は、毎朝の出勤前に躍起となっていた文章である。文章を書き終えると私は、喜び勇んですぐにふるさとの長兄宛てに、ファックス送信をかけていた。もちろんこのときは、一度さえの推敲の時間も許されず、書き殴りを送信していた。のちにはいくらか文章をととのえ、コピーして保存した。さらにのちには、そのコピーを原稿にして、飛び入りで印刷所へ持ち込んで、私家本スタイルの製本を依頼した。冊数は一人の姉と四人の兄、加えて自分の分を依頼した。結局、つごう六巻作成した。厚手の表紙には一貫して、『ひと想う』、と付けた。一巻には欲張って分厚く、優に三百ページを超えるページ数が付されていた。そのため、コピー代と手間賃がかり、一回当たり十数万円のお金を費消した。姉と兄たちへの無償提供はわが喜びであり、そのつど姉と兄たちも喜んでくれて、十分にわが志に応えてくれた。
 中段は「日本随筆家協会」(故神尾久義編集長、現在は存在しない)の会員となり、必死に協会賞を狙って日々書き続けていた。こちらの文章には、何度も推敲を重ねていた。その甲斐あって「協会賞」にありついて、宿願の一冊の単行本『追憶』の上梓しを果たした。宿願叶った私は、六十(歳)の手習いの打ち止めを決め込んでいた。
 ところがそんな矢先、はからずも大沢さまから「前田さん。なんでいいから、掲示板に書いてください」という、ご好意のお声がかかった。生来、三日坊主の私は、こわごわと書き殴りに書き始めたのである。それは大沢さまから『ひぐらしの記』と命名され、やがては綺麗な単行本となり、贈呈をたまわったのである。こちらもほぼ毎日書き続けて現在は十一年目にあり、直近では単行本として七十一集を数えている。ただ惜しむらくは、こちらは推敲することなく時間に追われて、書き殴りのままに投稿キーを押している。
 それにしても私は、膨大な量の文章を書き続けてきたものだ。秋は物思いの季節である。第一陣の物思いは、わが六十(歳)の手習いの足跡である。無能力ゆえにもちろん現在の私は、疲れ切っている。疲れを解(ほぐ)してくれるのは、質はともかくたくさん文章を書いてきたきたなあーという、見えみえの自惚れである。

残暑見舞いの候 

 きのう(八月二十六日・日曜日)の鎌倉地方は、残暑とは言えない猛烈な暑さだった。昼間のわが体感温度では、この夏一番の高気温と暑さだった。それでもやはり、朝夕はすでに秋口の涼しさにありつけている。涼しさの恵みを得て私は、きのうもまた朝の内にはよく働いた。夜が明けるやいなや道路へ向かい、道路側面壁のむさくるしいところや、山の法面から垂れている木々の伐採を実行した。それをわれひとり黙々と片付けを終えたのは、八時近くだった。三時間余りの朝の労働だった。
 午後は、卓球クラブの練習へ出かけた。クラブの存在する今泉さわやかセンター(鎌倉市)内の体育室は、空調設備が万全である。このため、体育室は適度に冷えていた。外気と室内の温度差は歴然としていて、私は室内に入ると人間の知恵に感謝した。それでも、十五分間のラリーのあとにはちょっぴり汗ばんだ。
 わが家へ帰ると、真っ先に買い置きのアイスキャンデーを口に頬張った。次には、シャワーで汗を流した。これらの行為は、卓球クラブの練習日におけるわが定番である。針の下振れを期待し、体重計に乗った。案の定、体を動かした卓球の恩恵を得て、一キロ弱下振れした。しかし、もちろんこれは糠喜びにすぎない。なぜなら、時間が経てば元の木阿弥になることを知りすぎている。
 卓球の練習日の最大の恩恵は、疲れて安眠にありつけることである。とりわけ昨夜は、これに朝のうちの労働が重なり、この夏初めて安眠を超えて快眠にありつけたのである。このため、寝起きの現在のわが気分は、すこぶるつきのさわやかさである。やはり人間の体は、ちょっとでも痛めれば疲れて、おのずから安眠はおろか、快眠にさえありつけるようである。ひねもすのほほんとして、快眠願望を掲げるのは欲張りなのであろう。やはり快眠は、金のかかる行楽、旅、レジャーなど用無しの無償の極楽である。
 もちろん私は、快眠の心地良さを知りすぎている。ところが不断の私は、なかなかそれにありつけない。だからこの夏の私は、夏痩せ願望と併せて、真夏の夢の一つに掲げていたのである。すると、幸運にも昨夜、たった一回きりの快眠にありついたのである。そうであれば私は、快眠後の心地良さを存分に堪能すべきであろう。
 のどかに、夜明けが訪れている。道路周りはきのうの労働ですっきりしている。気分よく道路の掃除へ向かえそうである。八月二十七日(月曜日)、残る五日の八月最終週の夜明けである。手紙をしたためれば書き出しは、残暑見舞いの常套句「残暑厳しいおり…」と、なりそうである。

 何かにつけて脅かす、マイナス思考

 現在の時間帯は、八月二十六日(日曜日)の夜中二時あたりである。このところの私は、文章を書けない、もう書きたくない、気分にさいなまれている。すなわち、生来のマイナス思考が満杯である。
 きのう(八月二十五日・土曜日)の私は、文章を書く前に心中でこんな思いをめぐらしていた。(雨風交じりの嵐やそのあと乾くまで道路は、二日ばかり掃除ができずじまいだった。そのため道路は、きわめて汚いだろう? よし今朝は文章を早く書き終えて、道路の掃除をしよう!)。この思い強く私は、異常な行動に出た。いまだに夜明けの明かり見えないなか、私は一基の外灯の明かりを頼りに、道路の掃除へ向かったのである。季節的に夜明けが遅くなり、いまだ朝日の明かりは望めない四時半近くであった。わが持ち場の道路の舗面は粗く、滑らかではない。だから、箒で何度も掃いてもところどころの落ち葉は、べったりと舗面に貼りついている。箒では剥がれなくそのため私は、腰を屈(かが)めて指先で剥がし、浮かして箒を掛けている。このため、嵐のあとの掃除には、面倒くささと時間のかかりを強いられている。
 夜明けが明るみ始めると、一か所山の木が折れて、道路上部にだらりと枝葉を垂らしていた。私は踵(きびす)を返して物置から剪定鋏を持ち出してきて、切り落とし片づけた。ようやく、夜明けが訪れた。夜明けの明かりの恵みを得て、汚かった道路をなお丁寧に、鏡面のごとく綺麗に仕上げた。約二時間を要し、掃除を終えたのは六時半近くだった。もちろん、掃除を始めた頃には、散歩めぐりの人影はなかった。そののち、夜が明けるにつれて、しだいにめぐり始めた。私は、その前にほぼ仕上げたことに、ホッと安堵した。常連の人との出会いでは、最近言葉を掛け合うようになった、若い女性ランナーが最初だった。言葉の掛け合いのきっかけは、私の言葉だった。
「速いですね。何かの大会に出られるのですか。頑張ってください!」
 この言葉に気を良くされたのかそれ以降は、わが背後に近づきながら「おはようございます」と、ランナーの明るい声が届くようになっている。声に気づくと、私もすぐに「おはようございます。頑張ってください!」と、大きな声で呼応している。いつもであればこの女性は、二周走り込んでくる。ところが、きのうは三度回って来られたのである。それに気づいた私は、「あれ? 今朝は三度目ですね。頑張ってください!」と、声を掛けた。女性は、にこやかな笑顔で走り去られた。
 二人目の常連は、十数年来の高齢のご婦人である。いつもは五時半あたりに出会うけれど、きのうは待てどいっこうに姿が見えない。私は、このお方との出会いを掃除の打ち止めにしていた。今朝は会えないのかな? と、諦めがかっていたところに、遠方から急ぎ足で近づいて来られた。私は掃除の手を止めて、佇んで待った。いくらかなお急ぎになられて、二人は対面した。
「おはようございます。あなた様を待っていました。今朝は、いつもより遅いんでしょ?」
「そうかしら、そうかもしれません。道路、もう綺麗ですね。いつも、ご苦労様です」
「道路が濡れていて、二日ばかり掃けませんでしたから、今朝は夜明け前から掃いたんです。あなた様にお会いできたから、もう終わりにします」
 朝食を済ますと、こんどはわが家周りの草取りにとりかかった。午前中と午後に分けて、朝は涼しいうちに、午後は日の翳(かげ)りを待って、時間をかけてこれまた丁寧に取り終えた。言うなればきのうの私は、夜明け前から夕方近くまで、道路の掃除や庭中の草取りに感(かま)けていた。いつもであれば、綺麗にしたあとの爽快感に浸るところだった。ところが意に反し、わが気分は憂鬱だった。それは、先々のことを憂慮していたからである。具体的には心中に、わが老体の限界と死後のことが堂々めぐりしていたのである。(先々、誰がこんなことをするのであろう)。加齢につれて、わがマイナス思考は加速するばかりである。
 現在、四時半近くである。まだ、真っ暗闇である。今朝は、夜明けて道路へ向かえばよさそうである。 

高校生逸材、池江選手 

 現在、インドネシア・ジャカルタで「アジア大会」が行われている。今回のアジア大会は、日本選手団にとっては二年後、すなわち「東京オリンピックおよびパラリンピック」(二〇二〇年)の前哨戦の位置づけにある。このことでは、いつもにも増してきわめて大事な大会である。実際にもこの大会に派遣されている選手の多くが、東京オリンピックの代表権を得るであろう。もちろんアジア大会の勝利者が、そのままオリンピックの勝利者にスライドすることはない。しかしながらアジア大会の勝利者は、オリンピックの勝利者になる可能性を多分に秘めている。このたびの日本選手団の中ではこれまでの成績をかんがみて、その位置にいるひとりは池江選手であろう。
 池江選手は日本水泳界の高校生逸材で、その活躍ぶりは綺羅星のごとく輝いている。このためきょう(八月二十五日・土曜日)は、アジア大会において活躍を続けている池江選手にまつわる、メディアの配信ニュースを引用するものである。
 【アジア大会 18歳池江が偉業・6冠 強敵に心理戦で圧力】(毎日新聞 2018年8月24日 21時47分配信)。ジャカルタ・アジア大会の第7日は24日、競泳女子50メートル自由形決勝で池江璃花子(ルネサンス)が24秒53で優勝した。池江は今大会通算6個目の金メダル。1大会で獲得した金メダル数が日本勢単独最多となった。今大会13レース目。体力も気力も尽きそうだったが最後まで冷静だった。「隣を見て泳いだ」とアジア記録を持つ5コースの劉湘(中国)を警戒した。25メートルを通過して2人が抜け出した。プラン通り池江はここから加速したが、劉湘がわずかに先行。最後の力を振り絞るようにラスト10メートルは腕を必死に回し「勝っている」とタッチに集中してかわした。その差は0秒07だった。最後に立ちはだかった劉湘は今大会、50メートル背泳ぎで世界新をマークしてスピードに自信を持っていた。大会を盛り上げる好調同士のレースを前に、池江を指導する三木二郎コーチは心理戦に持ち込んだ。午前の予選前に「相手に隙を見せるな。5冠を自信にし、プレッシャーを相手に与えよう」と伝えていた。今大会でこれまでに金メダルを獲得した個人の3種目はライバルが不在で、危なげなかった。だからこそ、難敵の存在が刺激となっていた。今大会を終えた池江は「2、3日前から体はきつく、気持ちも折れそうだった。最後は気持ちの問題だと思い、最後までなんとか踏ん張れた」と自信を付けた。今月のパンパシフィック選手権からの連戦で磨いた勝負強さは2年後の東京五輪への大きなステップとなった。

生存 

 朝鮮半島周辺の世界事情は、「韓国 冬季平昌(ピョンチャン)オリンピック」(今年・2018年2月)前後から、北朝鮮によるミサイル発射が止められて、比較的平穏である。そののちの米朝首脳会談、すなわちアメリカ・トランプ大統領と北朝鮮・金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長の歴史的出会い(6月12日・シンガポール・セントーサ島)を経て、こんにちまでミサイル発射はない。北朝鮮のミサイル発射が続いていた頃の恐怖と鬱陶しさを浮かべれば、幸いかなこの頃は、確かに平穏な世界事情にある。当時、ミサイル発射騒動の渦中にあった日本は、最もその恩恵に浴している。確かに、現在は北朝鮮の脅威は沙汰止みになっている。そうであれば再び、ミサイル発射のぶり返しの無いことを願っている。
 世界事情の好転はあっても、もちろん日本社会は万々歳ではない。国内事情を常に脅(おびや)かしているのは、日本列島固有の自然災害の多さである。すなわち、地震をはじめとする天変地異の恐怖、加えて台風や豪雨のもたらすさまざまな災害、これらに日本の国(国民)は、時と所を選ばずひっきりなしに晒されている。まさしく防災の言葉むなしい、避けて通れない天災列島である。
 一方、さまざまな人災は、日常茶飯事のべつ幕なしに起きている。こんな外的事情に加えて、身の回りにとりつくさまざまな困難ごとは、これまた絶えず無限大にある。そのため、世の中に存在し、生存を続けることは人生一大事業である。
 生存には人それぞれの事情が存在する。卑近なところでわが家周辺には、空地や空き家が増え続けている。日常的に行き合う車の多くは、訪問介護やデイサービスの車である。どちらも、やがてわが身に降りかかる光景である。
 この頃、私的に頓(とみ)に手に負えなくなり始めているものには、狭小にもかかわらず庭中の草取りがある。加えて、日課と決め込んでいる道路の清掃がある。きわめて小さなことに思えるけれど然(さ)にあらず、なぜならこんなことがまもなくわが生存を脅かすことになろう。これまで常連にありついていた散歩めぐりの人との出会いが絶えると、もはや再びの出会いはない。
 道路を掃いているとこの頃は、夏バテに抗(あらが)えず屍(しかばね)をさらけ出しているセミに目が留まる。あるいは熱中症をこうむっているのか、いまだ息たえだえにあお向けに羽をばたつかせているセミに目が留まる。こんなおりの私は、指先で丁寧に拾い上げて、心優しく山の草むらに置いている。もはや、子どもの頃のように放り投げはしない。わが身が老いて生じている、大きな心境の変化である。小犬を引く高齢者の足取りは、逆にまるで小犬に支えらでもするかのようにおぼつかない人いる。これまた、いずれわが身である。
 台風二十号が近づいているせいかこのところの鎌倉地方は、蒸し暑さと強風に晒されている。さらには夏が終わりかけて秋近しとあって、道路上には日を追って落ち葉が増え始めている。そのため、見た目にも道路は、汚(きたな)さをさらけ出している。それを避けるためには、早朝の清掃を心掛けなければならない。もちろん、庭中の草取りも、朝の涼しいうちに如(し)くは無い。二者択一であれば、やはり道路の清掃を優先しなければならない。幸いいまだ夜明け前にあって、今朝(八月二十四日・金曜日)は、慌てふためくことなく道路へ向かえそうである。しかしながら、この健気(けなげ)な行為も今や風前の灯火(ともしび)にある。道路の清掃はわが手にあらず、強風や台風の吹きさらしにすがる手はある。しかしながらそれでは、気分晴れずお粗末である。なぜなら、道路の清掃は傍目(はため)にもわが生きている証しでもある。
 散歩めぐりの人たちから、「このあたり、いつも汚いわね…」と、言われるようになれば、そのときすでにわが生存はない。あれ! 雨が降って道路が濡れている。今朝の清掃は、台風一過に持ち越しである。

人生行路は茨道  

 いつものことだけれど、わが文章の校正作業には、ほとほと気分の滅入りを強いられる。いつもであれば真っ先に、誤りの多さと文章の不出来に苛(さいな)まれる。ところが今回は、あらためて文章を読み進むなかで、それらを差し置いて、時のめぐりの速さ(感)を痛感したのである。
 具体的にはつい最近書いたばかりと思えていた文章なのに、実際には三か月前の出来事だったことに唖然としたのである。こんな調子であれば一年なんて、あっという間もなく過ぎてゆく。おのずから、わが余生は時々刻々と失われてゆく。もちろん、どんなに足掻(あが)いてもどうなることでもない。しかしながら、わかっちゃいるけど焦燥感はつのるばかりである。老齢の身は、悲しい現実である。
 確かに、若い時分は時のめぐりに無頓着だった。ところが今の私は、いやおうなく時のめぐりの速さ(感)に晒されている。そしてそれは、まるで特急列車に乗っている感じさえする速さ(感)である。叶わぬ願望だけれど、各駅停車のようにのんびりとのどかにめぐってほしいものである。もちろん、時のめぐりは一定不変であり、その感じ方は人それぞれの心象風景による。しかし、老齢の身になればだれしも、時のめぐりの速さ(感)に慄(おのの)いているであろう。
 加えて、老齢の身になれば、人には何らかの病がつきものである。卑近なところで卓球クラブのお仲間のお二人様が相次いで、体調不良を訴えられて休まれている。お二人様には、押しつけの「ひぐらしの記」の回読にさずかっていた。ところが余儀なく、お二人様の回読は沙汰止みになった。この頃では、ほかにも体調のせいで回読叶わぬ人が増えている。すると私は、いまだ回読にさずかる人にもご迷惑になるかと案じ、回読の中止を決め込んでいる。
 パソコン上のブログで、ひぐらしの記を読んでくださる人も、もはや少ないのではないだろうか。もちろん、人様のせいにはできないわが無能力のせいである。おのずからこの頃の私は、ひぐらしの記の潮時に心を悩ましている。人様のご好意に支えられてきたひぐらしの記は、今や存続可否の岐路にある。もちろん、わが老齢の身と、それによるモチベーション(意欲、気力)の低下のせいである。それらに、時のめぐりの速さ(感)が輪をかけている。校正作業のたびに襲われるしがないわが心情である。
 今回の校正作業は、第71集『人生行路は茨道』である。なんだか、せつない!

私日記 

 きのう(八月二十一日・火曜日)の鎌倉地方は、残暑とは言えない厳しい真夏の暑さへのぶり返しだった。もちろん、鎌倉地方にとどまらず日本列島のどこかしこに、真夏の陽射しが戻っていた。その証しにテレビ画面の上部には、高気温に見舞われていた地方や地域のテロップがひっきりなしに流れていた。この手のテロップに熱中症への警告が加わると、今や日本列島の真夏の風物詩さながらである。
 こんな暑さ厳しいおり、私は予約済みの「斎藤歯科医院」(横浜市栄区)へ出かけた。予約時間は正午(十二時)だった。いつものように「大船(鎌倉市)行き」路線バスを「砂押橋バス停」で途中下車すると、強い陽射しの中を約二十分強かけて、トボトボと歩いた。額や首筋から汗玉があふれた。汗を拭きふき予約時間の十五分前あたりに当院へ着いた。
 まもなく、お顔なじみの女性歯科衛生士の人から、「前田さん」と、言葉がかかった。治療室は三室あり、1、2、3、と、番号表示されている。私は、今や勝手知った3番に導かれた。先回とこの日の間には、突如入れ歯が外せなくなり、余儀なく予約なしの飛び入りで通院していた。このときは飛び入りでもあって、ほかの医師が対処された。そのため、診療椅子に凭(もた)れると真っ先に、そのことをいつもの医師に伝えた。こののちは、継続治療がほどこされた。まもなく、この日の所定の治療が終わった。思いも寄らず、まだ何度か通わなければならないような担当医師の様子だった。私は腹立ちさを面(おもて)には出さず、それでも臆せず「まだ、何度かかかりますか?」と、訊ねた。すると、
「そうですね。まだ被(かぶ)り物を作ったりしますからね。それに、この歯から膿が出ているようでもあり、次回レントゲンを撮ってみます」
「また、新たな治療が始まるのですか? そちらは、痛くなってからしたいですね。その歯を抜けば、そのあたりはすっぽんぽんになりますね。いやですね」
「レントゲンを撮ってみないとわかりませんけれど、今はなんとも言えませんね」
「その決断は、次回にさしてください。わが寿命まで持ちこたえてくれれば、その歯はそのままにしておきたいですね」
「できるだけ、そうしますが…」
 厄介なことがまた増えそうである。
 歯医者は一度かかり出すと予約の繰り返しで、エンドレスを強いられるのが常である。私は唖然とした面持ちで、当院を後(あと)にした。帰途はいつもと違って大船の街へは回らず、来た道を急ぎ足で折り返した。急いだぶん、汗玉は余計あふれた。
 急いだ理由はこうである。午後二時からの高校野球の決勝戦をテレビ観戦をするためだった。決勝戦は、秋田県代表校・県立金足農業高校対北大阪代表校・私立大阪桐蔭高校だった。私はもとより日本国民の多くは、これまで奮闘し続けてきた金足農業高校を判官贔屓の思いをたずさえて応援していた。一方の大阪桐蔭高校は、高校球界の名うての常勝名門校である。とりわけこの日の大阪桐蔭高校には、史上初の二度目の春・夏連覇の偉業がかかっていた。なお、今年(平成三十年・二〇一八年)の大会は、球史を彩る「第100回全国高校野球選手権大会記念大会」と、銘打たれている。その名に背かず観客動員数は史上最多を成して、阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)は連日最高に盛り上がっている。
 本当のところは双方の高校球児がおりなす熱闘だけに、一方に肩入れすることなく応援すべきものなのかもしれない。しかしながら、この場にきてそんなきれいごとなど言ってはおれず、私と妻は身じろぎせず金足農業高校へのテレビ応援を続けていた。その甲斐無く試合結果は、2対13で金足農業高校は涙をのんだ。一方、大阪桐蔭高校は、晴れて二度目の春・夏連覇の偉業を達成した。敗れたとはいえ、金足農業高校の奮戦は球史に残るものだった。このため、第100回記念大会は、大阪桐蔭高校の偉業と共に、さわやかに幕を閉じた。
 きょう(八月二十二日・水曜日)の文章は、後追いできのうの出来事(日記)を書き留めたものである。高校野球はさわやかに終わったけれど、私の歯医者通いはこの先延々と続きそうである。歯の痛みは途絶えているだけに、なんだか腑に落ちず虚(むな)しさがつのるばかりである。

とことん、はがゆい! 真夏の夢

 夢や願望とは、不断成し得ていないことの裏返しである。この夏にあって私は、二つの真夏の夢を掲げている。その一つは快眠である。もう一つは、病の因無き夏痩せ願望である。しかし後者は、すでに未達のままに断念している。その理由は体重計に乗っても針がいっこうに下振れしないことに、そのたびに腹立ちさをおぼえるからである。さらにはこのときのイライラと、絶えず心中に夏痩せ願望をいだくことで、肝心要の食事とせっかくの好物さえまずく思えるからである。これは、ダイエットにつきもののトラウマ(精神的外傷)なのであろう。もし仮に、夏痩せ願望が叶えられたとしても実りの秋には逆らえず、余計に反動をこうむる恐れが多分にある。
 さまざまな願望を掲げる一方で、生来、意志薄弱の私は、常に逃げ口実を用意してきた。すなわち、これまでの願望未達の原因は、そのつど意志を凌ぐ逃げ口実の強さであった。言うなれば抗(あらが)ったり、矯(た)めたりすることのできない、わが「身から出た錆」ゆえである。この夏の夏痩せ願望の未達は、なさけなくもまたこの繰り返しだったのである。
 一方、快眠の夢はいまだに持ち続けている。しかしながらこれまた、今やゆめまぼろしの過程にある。真夏の夢に掲げた理由は、ずばり就寝中の睡眠に心地良さを欲(ほっ)したからである。そして、欲張りの私は、安眠には飽き足らず快眠を掲げたのである。なぜなら、就寝中の快眠こそ、最も身近に感ずる幸福感だからである。就寝中に幸福感に浸ることができれば、まさしく無償の至上の儲けものである。
 ところが、これには常に悪夢が通せんぼする。確かに、就寝中の悪夢の多くは、過去のわが身にまつわる出来事や悔いごと、あるいはさまざまな既成事実にまつわるものである。一旦これらに見舞われると、俗にいう魘(うな)される思いと、冷や汗ベタベタ現象にとりつかれる。そして、この類(たぐい)の悪夢は、こののち寝起きの気分の悪さを誘引する。
 ところが、ときたまの夢見の中には、どうしてこんな根もない葉もないものが現れるのかというものがある。言うなれば、ノンフィクション(事実や根拠あるもの)でなく、フィクション(虚構の創作もの)ものの夢見である。こちらには目覚めて、なぜこんな夢を見たのであろうと、あらためて慄(おのの)くばかりである。もちろん、これまた悪夢である。
 スヤスヤと眠ることをなぜ? 悪夢は妨(さまた)げるのか。結局、二つの真夏の夢は、どちらも果たせずじまいのままで、秋が近づいている。とことん、はがゆい! 真夏の夢である。

 夏の終わりかけに、つれづれ

 八月二十日(月曜日)、(まいったな! 一気に涼しくなったなー…)、寝起きのわが実感である。寒ささえおぼえている。そのため現在の私は、長袖シャツに冬ズボンの身なりである。確かに、暑さが厳しいのは身に堪える。しかし、八月いっぱいくらいは耐えて、夏の感触に浸りたいと、願っている。なぜなら、遅かれ早かれ季節は、秋冷から寒冷へ向かってゆく。もちろん、ほどほどの暑さの夏の名残を願っている。
 結局、庭中のキュウリは、一本さえ収穫にありつけず早々に立ち枯れた。キュウリに比べてトマトは、いくらかの収穫の喜びを恵んだ。それでも、去年に比べればこれまた物足りなかった。もはや末(うら)生りの様子もない。そのため、双方共にきょうあたり、無下に引き抜かれる憂き目を見そうである。
 先日、西瓜は店頭から丸玉を買って来ている。もちろん、わが欲望の為すがままである。しかし、今しばらく暑さが続かないと、食い気を殺がれそうである。
 きょうは、高校野球にあっては準決勝の二試合がある。私は判官贔屓で日大三校と戦う、秋田県代表校・金足農業高校の勝利を願っている。いや実際のところは、高校生球児の熱闘をみるかぎり、片方への声援の肩入れは慎むべきものであろう。プロ野球は九月を前にして、終盤戦のさ中にある。加えて、「東京オリンピック」(二〇二〇年)の前哨戦とも言える、四年に一度の「アジア大会」(インドネシア・ジャカルタ)が始まっている。その他夏季のスポーツは、試合や競技の真っ盛りにある。
 こんなことで今朝の朝日新聞の朝刊紙面は、スポーツ記事が満載である。まるでスポーツ新聞さながらの紙面を眺めていると、日本社会の平和の証しを見るかのようである。もちろん、悪い気分はしないけれど、ほどほどの報道にしないと、日本は平和だ! と、錯覚しそうである。実際の日本社会は、すんなりと夏が過ぎて、穏やかに秋が訪れることはあり得ない。そうであればやはり、しばしの桃源郷を愉しむべきなのかもしれない。なぜなら、まもなく日本社会には本格的な台風シーズンが訪れる。そのうえ、地震はシーズンを区切ることなく、暇(いとま)なく日本列島を揺るがしている。
 夏の終わりかけにあって私は、わが身のみならず日本社会の安寧な日暮らしを望んでいる。

苦々しい思い出 

 八月十九日(日曜日)の夜明けが訪れている。朝夕にかぎればすっかり暑さが遠のいて、肌触りは涼しさへとなり替わっている。もちろん、昼間もこれまでの暑さは遠のいて、肌身は夏の終わりと秋の訪れを感じている。このためわが思いは、夏の終わりと暑さを惜しむかのようである。
 季節のめぐりは確かな足取りで、夏から秋へと向かっている。これにつれて、学び舎の夏休みも終わりかけている時期にある。わが児童(小学生)と生徒(中学生)時代にあって、私は不登校や登校拒否はたまた引きこもりの記憶はない。登校にかかわりよみがえる記憶はそれぞれの卒業式において、六年間と三年間の「無欠席」(皆勤賞)賞状を授与されたことである。中学校の卒業式にあっては、これに校地を同じくする内田小・中学校における、つごう「九年間無欠席」の賞状が付与されていた。
 今朝の朝日新聞の一面記事には、夏休みの終わりが近づいて、新たな学期となる夏休み明けの九月初めにかけて見られる、子どもたち(十八歳以下)の自殺のことが書かれていた。見出しは「学校に行くのが、つらい時は」であった。多くの紙面を割て書かれている記事の一部には、こう書かれている。「8月下旬から9月上旬の夏休み明け近くは、子どもの自殺が多くなる傾向がある。『学校に行くのがつらい』。そう思い悩む子どもたちの力になればと、不登校や引きこもりを経験した若者たちが動き始めた。内閣府の調査によると、1972~2013年の42年間に自殺した18歳以下の子どもは1万8048人で、日付別で最も多かったのは9月1日(131人)。夏休み明けが近づく8月20日以降は連日50人を超えた。自殺総合対策推進センターが7月下旬から9月下旬にかけての06~15年度の数字を分析したところ、8月下旬に自殺者数のピークがみられた。」
 顧みて、児童・生徒時代(高校を含めて)の私は、ときには死にたい!と、思うほどに近視の進行に脅かされ、悩み続けていた。新聞記事からよみがえる、ひとごとではない苦々しい思い出である。

山鹿湯まつり「千人踊り」 

 わが子どもの頃の「ふるさと」の自治体名(行政名)は、熊本県鹿本郡内田村と言った。おのずから、私が通った小・中学校は内田村立であり、それぞれ内田小学校そして内田中学校だった。校舎は、校地を同じくしていた。「ひぐらしの記」に郷愁のたびに真っ先に記す「内田川」は、村中を一筋貫く本流である。もちろん今なお内田川は、綺麗に河川工事がほどこされ川幅を広げて、絶えることなく流れている。言うなれば内田川は、わがふるさと心を育んできた最大かつ最良のところに位置している。
 ふるさとの現在の行政名は、熊本県山鹿市菊鹿町である。この間には、市町村合併や行政名の変遷がある。記憶に頼って、それを短く記すとこうである。内田村は、昭和三十年(一九五五年)に「菊鹿村」と名を変えた。それは、鹿本郡内田村、六郷村、そして近接する菊池郡城北村との三村合併によるものだった。菊鹿村は、十年後の昭和四十年(一九六五年)に「菊鹿町」へとなり、町政をしいた。こののち平成十七年(二〇〇五年)、菊鹿町は再び記すと熊本県山鹿市菊鹿町となって、現在に至っている。平成十七年当時の日本の国には、平成の大合併の嵐が吹いていた。もちろんふるさとは、国の施策の嵐に抗(あらが)うことはできず、よぎなくこのとき市町村合併にまみれた。具体的には、当時の一市四町による合併であった。一市として存在していたのは山鹿市であった。そして、鹿本郡から離れてこれに併合された当時の四町は、菊鹿町、鹿本町、鹿北町、鹿央町だったのである。言うなれば四町は、こんにちへ存続する山鹿市の傘下に入ったのである。
 わが子どもの頃の山鹿市は、はるかに遠い唯一の市街地だった。記憶を遡(さかのぼ)れば、年に一度くらい学校行事として、映画を観るために歩いて引率されていた。当時のおとなたちは八月十五日が近づくと、『山鹿は灯篭の湯まつりばい!』と、言っていた。山鹿市は古くからの温泉町である。それにちなむ町の華は、八月十五日から十六日にかけて行われてきた「湯まつり」である。このまつりに付随する目玉は、「山鹿灯篭千人踊り」である。千人踊りは、紙で出来た灯篭を頭に載せて夜通し踊る。すなわち、この踊りの特徴は、夜を通して大勢で踊る壮大な美である。子どもの頃の私は、昼間は出かけたことはあるけれど、夜通しの千人踊り見物には出かけずじまいである。結局、私はおとなになってこんにちまで、千人踊りは見ることなく、もっぱら耳便りに甘んじている。
 さて、どうでもよいことを長々と記してきたのは、次のことを記すためである。それは、きのう(八月十七日)付けの朝日新聞朝刊一面に、写真付きでこんな記事に遭遇したからである。「約600年前の室町時代から続くとされる『山鹿灯篭まつり』の『千人灯篭踊り』が16日夜、熊本県山鹿市であった。女性約千人が民謡『よへほ節』などの調べに合わせて踊ると、頭に載せた、金色の和紙でできた金灯篭のあかりが揺らいだ。まつりは、霧に行く手を阻まれた景行天皇が、里人のたいまつに迎えられたという古事に由来すると伝わる。」
 千人踊りのおかげで、私はひとききふるさと慕情を偲ばせていたのである。

八月盆明けのつれづれ 

 台風の大きさを表す表現には、大型、中型、小型というものがある。これらの中で小型台風の場合は、ときとして「豆台風」という表現に置き換えられる。この表現をもじり、先日の朝日新聞の読者投稿欄「川柳」にはこんな一句があった。「わが家にも孫台風が上陸す」。もちろん、お盆という里帰りの時節柄、豆台風と孫台風の語呂合わせを用いて、小さな難儀を揶揄(やゆ)したものである。
 わが家にも八月盆の最中にあって、二晩泊まりで娘と孫のあおば(小学五年生・十一歳)が来宅した。確かに、悲喜交々の孫台風だった。すなわち、来てうれしい、帰ってうれしい、子孫(こまご)の来宅であった。いや、実際のところは、子孫に翻弄されて切ない来宅であった。しかしながら、迷惑千万だとは決して言ってはならないことである。なぜなら子孫にすれば、頼みもしないで荒波多い人生行路へ放り出されたのである。
 四日間の八月盆が明けて、きょうは八月十七日(金曜日)である。八月も半ばが過ぎて、いよいよ夏の終わりが近づいている。この夏の私は、真夏の夢に託し「快眠と夏痩せ」願望を掲げている。ところが、夏の終わりの間近にあってこの願望は、もはやどちらも実現は望めそうにない。快眠を妨げているのは、老いの身特有にモグラたたきさながらに出没するさまざまな妄想である。一方、夏痩せ願望を妨げているのは、暑さに負けずいっこうに衰えない食欲のせいである。もちろん夏痩せ願望の場合は、いたずらに空念仏を唱えているわけではない。それを果たすためには、私は心して食欲の自己抑制に励んでいる。
 具体的には駄菓子や甘味類、そしてこれらののべつ幕なしの食べ放題を慎んでいる。さらには、三度の食事以外の間食も厳しく断っている。それでも、長年緩み続けてきた末の太り肉(じし)は、もちろんちょっとやそっとの決意くらいでは、まったく絞れないままである。食欲の自己抑制自体、食べることの楽しさを奪っている。まさしく、本末転倒である。だから、こんな馬鹿げた志は、もはや解禁の瀬戸際にある。もちろん、禁を解けばたちまちワッと反動の波が押し寄せる。その挙句には元の木阿弥にとどまらず、得たりやおうとばかりにいっそう肉付きの豊かさにさいなまれることとなる。
 生来、私はきわめて意志薄弱である。その極めつきは、何事にもおける三日坊主である。結局、真夏の夢の一つである夏痩せ願望は、徒労すなわちくたびれもうけの後味の悪さだけを残して、幕が下りることになる。その口実には、人間本来の欲望を抑制することは「体に悪い」と、言いそうである。
 きのう(八月十六日・木曜日)の私は、妻は娘宅に出向いて留守であり、ひとりいつもの大船(鎌倉市)の街へ買い物に出かけた。そのおり私は、「かき氷」と表示のある店の前に出向いて、しばし佇んで思案投げ首を演じた。その挙句、店に入るのは我慢した。なぜなら、このときまでにはまだ、甘味類の自己抑制の意志が働いていたのである。しかし、やはり私には湧き出る涎(よだれ)を抑制する意志の強さはない。このため、夏痩せの禁を解いた私は、きょうあらためて往復のバス代を費やし、その店に出向く意志を固めている。なぜなら、その店のかき氷には夏季限定と、添え書きされているからである。結局、わが夏痩せ願望の未達は、きょうからその反動にさいなまれることになる。馬鹿じゃねぇの! と、自分自身を呪(のろ)いはじめている。

「太平洋戦争 終戦の日」 

 平成三十年(二〇一八年)の「八月盆」の最中(八月十五日・水曜日)にあって、七十三回目の「太平洋戦争 終戦の日」(昭和二十年・一九四五年、八月十五日)が訪れている。現在の時間帯はいまだ夜明け前である。当時の昭和天皇からNHKラジオで、終戦を告げる玉音放送が流れたのはお昼のニュースの時間という。このときの私の年齢は、五歳と一か月だった。このため、記憶はいくらか茫然としているけれど、ところが日本の国の一大事(悲しい出来事)とあって、その日の様子は物心つき始めの心中に刻まれている。
 その一つは、その日の私は朝っぱらから隣近所の遊び仲間と、わが家近くの小川に魚取に出かけていた。一方、兄たちは内田村本流の「内田川」に水浴びに出かけていた。昼時に共にわが家へ帰ると、みんな縁先に立ち並ばされて、異母次兄からこっぴどく叱られた。異母次兄は海軍勤務のおり病魔に冒されて、余儀なく自宅療養中だったのである。普段は優しい次兄だったけれど、軍務に就きながら病魔に冒された悔しさもあって、愛国精神は天を突くほどだったのであろう。敗戦の悔しさは、夏空の下、無心に遊び盛りの弟たちへの怒りとなっていたのである。
 縁先に並んでいたのは、わが母の子どもたちの中で、二兄、三兄、四兄、そして私であった。三兄、四兄は、すでに無い。長兄は旧制中学を卒(お)えて気象庁に就職し、その関係で中国・上海へ赴いていたと言う。故長姉のその日のことは聞かずじまいだったけれど、おそらく町中の眼科医院で普段の勤務中だったのかもしれない。当時の長姉は、実際には町中・来民町の宮崎眼科医院で働いていたと言う。次姉は盲腸炎から腹膜炎を併発し、二日前(八月十三日)に若い身空で亡くなっていた(享年・十八歳)。異母三兄はのちの公報によれば、フイリピン・レイテ島沖線戦で、戦死の憂き目を見ていたのである(享年・二十三歳)。
 ひるがえって、きょうの配信ニュースが伝える日本列島の状況には、お盆につきもののふるさとからのUターンラッシュの高速道路の渋滞ぶりがある。もちろん、混雑ぶりは陸(車)のみならず、海(船)、空(飛行機)も同様であろう。台風十三号が過ぎ去ったばかりなのに、後続の台風十四号は、きょうには九州地方に上陸しそうだという。二年後の二〇二〇年には、二度目の「東京オリンピック」がひかえている。
 「東京大空襲」(昭和二十年・一九四五年、三月十日)に遭って焼け野原と化した東京の街は、今や世界中の人々の垂涎(すいぜん)の的ともなる繁栄ぶりである。まさしく隔世の感ある、「国破れて山河在り」である。

休むべきだった 

 八月十四日(火曜日)、八月盆の二日目の朝を迎えている。きのうの夜には娘と孫娘のあおば(小学五年生・十一歳)が来宅し、隣室でスヤスヤと眠っている。このため、早い時間から音を立てるのは気が咎(とが)めるから、文章を書くのは控えた。そして、いまだ夜明け前の薄明りのなかにあって、私は道路の清掃を優先した。
 きのうの鎌倉地方は、夕方になって大気の不安定に見舞われ、突如大空が曇り出し遠雷をひびかせた。遠雷はしだいに近づいて、二、三度、度肝を抜く雷鳴をとどろかした。雷鳴は恐ろしかったけれど耐えて、私は夕立を望んだ。ところが、雷鳴の割には、雨は小降りにとどまった。私はがっかりした。しかし、小降りの夕立だったにもかかわらず、そののちは温気(うんき)が払われて、心地良い夜を迎えた。
 今朝、私は玄関口を出ると、手ぶらで道路に出た。そして、山際のわが清掃区域の確認に向かった。確認とは、道路の濡れぐあいの確認である。確かに、すっきりとは乾いてはいないけど、掃けないこともない。一方、落ち葉は小降りの雨だったにもかかわらず、汚らしく散乱していた。(よし、掃除をしよう!)。すぐに引き返し、物置から掃除三点セットを持ち出してきた。いわゆる、箒、塵取り、ごみ入れ用の半透明の袋である。約一時間かけて、掃除を終えた。
 文章を書くには、大きな出遅れである。余儀なく、文章は休もうと思った。その思いを覆して、つづったのはこの文章である。やはり、休むべきだった。わが凡庸な脳髄では、二つは叶えられない。いや、一つさえ叶えられない。

「八月盆」 

 わが肌感触では「秋の風」、そして夕立まがいの「夜来の雨」に見舞われて、季節のめぐりは明らかに初秋の候を迎えている。昼間はともかく夜間は、すっかり暑気が遠のいて、就寝時は夏から秋の装いに変わり始めている。もはや、網戸では風の冷たさを体が堪(こら)えきれず、網戸不要に窓ガラスを閉めている。さらには、夏布団がしだいに用無しになり始めている。人間の感情はきわめて欲張りでこうなると、あんなに暑さに辟易していたにもかかわらず、夏の終わりを寂しく思う。
 日本列島にあってきょうは、「八月盆」の入り日すなわち迎え日(八月十三日・月曜日)である。今さら言わずもがなのことだけど、お盆の風習は地方や地域によって、「七月盆」と八月盆のどちらかで催行される。わがふるさと(熊本県山鹿市菊鹿町)の場合は、古来七月盆の習わしである。一方、終(つい)の住処(すみか)を構えている神奈川県鎌倉市の場合は、おおむね八月盆の習わしである。わが霊魂にすれば、どちらで迎えてくれるの? 悩ましいところである。
 私はふるさとのしきたりにしたがって、七月盆の催行を望んでいる。しかしながらこれは、わが一方的望みであって死んだ先のところはわからない。だから、想像を試みる。すると、実際のところ遺族は、八月盆で営むであろう。いや、営むというのはこれまた自分勝手であり、どちらもおぼつかないところがある。空念仏であれば欲張りついでに、二度すなわち七月盆と八月盆共にわが御霊を迎えてほしいと、願っている。いや、片方だけの催行さえおぼつかなければ、一瞬でも生前の私を浮かべるくらいはしてほしいと、願っている。
 お盆にあってきょうのわが心中には、一つの諺(ことわざ)が浮かんでいる。今さらおさらいをするまでもないありふれた日常語だけれど、私は電子辞書を開いている。
 【去る者は日日に疎(うと)し】「使い方:親しく交わった人でも、遠ざかるとしだいに交情が薄れるものだということ。また、死んだ人は年月が経つにしたがってしだいに忘れられるものだということ。疎しは、人と人の関係が親密でなくなる意。誤用:人ではなく、ある物事から遠ざかる場合をいうのは誤り。出典:文選・古詩十九首に、去る者は日に以って疎(うと)く、来る者は日に以って親(ちか)しとあるのに基づく。」
 人情が薄情になるのを防ぐのが、お盆の意義なのかもしれない。お釈迦様の御粋(おいき)な計らいである。

夜来の雨 

 八月十二日(日曜日)、夜来の雨は夜が明けてもなお降り続いている。部屋の中の温気(うんき)は払われて、心地良い冷ややかさである。このことではひととき度胆を抜かれたけれど、突然の雨は、今となっては恵みの雨と言えそうである。
 確かに私は、この雨に度肝を抜かれていた。いや、実際のところは雨が連れ立っていた雷轟(らいごう)のせいだった。夜間、一時過ぎに私は、便座に腰を下ろしていた。このとき、たった一度だけ身近に不気味な音がして、体に異様に響いたのである。てっきり私は、わが家だけの異変だと、思った。わが心中には、夜の静寂(しじま)に不意を突かれた恐怖が走った。(荒屋(あばらや)のどこかが損壊し、落下したな? まいったなあ……)。私は気を揉んで階下に降りた。音を妻に確かめようと思った。案の定、妻は寝(やす)んでいた。私は見回りのため、玄関ドアを開けて外に出た。玄関灯と外灯は、わが家周りと道路の見回りに十分応(こた)える明るさだった。舗装道路は濡れて、キラキラと光っていた。わが家周りは、遠目、夜目に、目を凝らして損壊状況を確かめた。幸い気が留めていた異状はなかった。私は安堵して二階に引き返し、再び床に就いた。
 しばらくして、二度さっきと同様の音がした。ところが、こんどははっきりと雷轟と、確認できたのである。どちらも、稲光を認識しない雷だったのである。難聴の耳は物心ついて以来、恐怖に慣れ親しんできた雷鳴さえ音別出来ない、お粗末ぶり露わにしている。なさけない、夜の静寂の出来事だった。本当のところは、待ち焦がれていたゆえに夕立と、書きたいところである。しかし、あえて夜来の雨と、置き換えたのである。夕立であれば、さっと降って、さっと止むけれど、雨はなお小降りに降り続いている。
 きのうの『山の日』にあって私は、風の肌触りを「秋の風」記した。すると、この夜来の雨は、秋の訪れをいっそう加速させそうである。難聴のもたらしたなさけない物語は、一巻の終わりである。

 「山の日」

 通常の休日と重なる「山の日」(八月十一日・土曜日)が訪れている。山の日は、「海の日」(七月第三週の月曜日)とは異なり、一定日の祝日である。しかし、二年後の二〇二〇年にあっては、八月十日(月曜日)に変更されるという。その理由は、東京オリンピックの閉会式の翌日に当たるからだと、言われている。もともと海の日があれば山の日がなければおかしいという程度の、とってつけたような祝日だから難癖をつけることもない。もとから祝日の定めには、日本政府や有識者のさまざまな思惑が見え隠れしながらからまっている。半面、肝心の日本国民の認識は夏の盛りにあって、休日が一日増えたと喜ぶ程度のものである。ところが、今年の場合は土曜日と重なりその恩恵を失くし、多くの国民は休日を一日損したような気分であろう。もちろん、勤務や職業からとうに外れている私は、幸か不幸か損した気分からは埒外(らちがい)にある。
 確かに、海の日があれば山の日を求めるのは、素直な国民感情であろう。なぜなら日本列島は、海の幸および山の幸はもとより、山紫水明に恵まれて成り立っている。言うなれば日本列島は、あちらを立てればこちらが立たず、すなわち海と山の共存の恩恵にすがっている。そのため、その恩恵に報いるための双方の祝日設定なのであろう。そうであれば四の五の言わず(つべこべ言わず)、双方の設定意義をかみしめるべきであろう。
 きのうの私は、夏の日を浴びてしばし道路にたたずんだ。ところがこのとき、(おや、夏の風?)と、思った。確かに、すでに「立秋」(八月七日)は過ぎている。日頃鈍感な私は、ところがこのときは瞬間の風ひとつに敏感に反応したのである。夏の風と秋の風の違いは、体感する肌触りである。具体的には、肌身を撫でる風の冷ややかさの感触である。(もう、夏は終わるのか!)。暑さが遠のく半面、わが心中には夏を惜しむ寂しさがつのっていた。
 海の日にちなむ思い出がふるさとの「内田川」の川遊びであれば、山の日にちなむ思い出は、里山の「ハサンムシ」(クワガタ)捕りである。思い出は遠くなるばかりだが、そのぶんありありと甦(よみがえ)ってくる。

儚(はかな)い願掛け「真夏の夢」 

 きのうの「長崎 原爆の日」(八月九日・木曜日)にあって、高校野球では長崎県代表校の「創成館高校」が戦っていた。あらかじめ作為されたものではなく、正当な抽選結果のもたらしためぐりあわせだった。このこともあって私は、創成館高校をテレビ応援していた。しかし、創成館高校は対戦した岡山県代表校の「創志学園高校」に敗退した。つらい歴史のめぐりあわせのこともあって私は、創成館高校に勝ってほしいと、テレビ応援を続けていた。しかし、願い叶わずつらい敗戦だった。
 またきのうは、沖縄県代表校の「興南高校」が茨城県代表校の「土浦日大高校」と戦った。前日には、闘病中の翁長沖縄県知事の訃報が伝えられた。この訃報のみならず沖縄県には、太平洋戦争にまつわる悲しい歴史がつきまとっている。このこともあって私は、沖縄県代表校には毎年格別のテレビ応援を続けている。こちらは、幸先よく初戦を突破した。ところが、わがふるさと県・熊本の代表校「東海大熊本星翔高校」は、すでに初戦敗退した。対戦相手校の高校生にはまったく罪はないけれど、テレビ観戦はおのずからみずからの思いやかかわりにおいて応援する羽目になる。もちろん、高校野球にかぎらずすべてのスポーツ観戦のやむを得ないところである。
 わが関心のある九州圏代表校は、鹿児島県、佐賀県、大分県の代表校もすでに敗退している。初戦を勝ち進んでいるのは、宮崎県、福岡県南代表校、そして沖縄県代表校である。福岡県北代表校の初戦は、この先の日程にある。おのずからこの先のわがテレビ応援は、初戦を勝ち抜いた沖縄県代表校の興南高校になりそうである。ふるさととは偉大なものであり、現住する神奈川県代表校は、熊本県代表校にかぎらず九州圏内の代表校に比べれば、わが注目度はまったくの形無しである。
 高校野球のテレビ観戦以外にこのところの私は、台風十三号騒ぎに感(かま)けていた。そのせいで私は、季節のめぐりに迂闊(うかつ)だった。季節はすでに「立秋」(八月七日・火曜日)を過ぎて、あすには「山の日」(八月十一日・土曜日)が訪れる。ところが、山の日はあいにく土曜日と重なり三連休をなさず、通常の土曜休日に埋没している。勤務の身の人たちには、本来の休みを一日損した感があるだろう。次には月曜日(八月十三日)を迎え日として、日本列島には八月盆がめぐってくる。日本列島の夏は、秋の入り口にあって、いよいよ大団円さながらに沸騰している。
 こんなおり私は、快い「真夏の夢」にありつきたいものである。わが真夏の夢は、快眠そして太身(ふとみ)の細る夏痩せである。しかし、二兎を追ってはどちらも叶わない。だから、二者択一で我慢すれば後者にありつきたいものだ。もちろん夏痩せは、病なく自然体で叶えたいものである。ところが、八月の途中にさしかかり、いまだに約一キロ減にすぎない。私は欲深く、最低五キロあわよくば七キロ減を願っている。しかし、真夏の夢にこんな無理難題を託すようでは、もはや夢見は、空夢(からゆめ)すなわちゆめまぼろしである。
 立秋が過ぎればしだいに季節は、「収穫の秋」や「味覚の秋」、「馬肥ゆる秋」へとめぐってゆく。店頭に出回る「果物の秋」、そしてイの一番は「新米の秋」が訪れる。夏痩せ願望を果たすためには、心して西瓜など夏の好物の食べ過ぎの抑制である。だけど、これらを我慢してちょっぴり夏痩せを叶えても、次にめぐりくるのはとうてい抑えきれない「満腹の秋」である。
 余生短いのに、なんだかばかばかしいわが真夏の夢である。結局、快眠くらいがわが身相当の真夏の夢であろう。しかし、現在の私には、それさえ叶えることは日々至難のわざである。 

台風十三号の悲哀 

 現在は、八月九日(木曜日)の夜明け前、四時近くである。わが現住する鎌倉地方は、恐れていた台風十三号の直撃は免れたようだ。すべての雨戸を閉めて就寝したため、雨戸を開けないかぎり外の様子がわからない。就寝中、雨戸を打つ風の音で目覚めたことはなかった。いつもの習性のトイレ起きのときでも、雨戸を揺らす風の音を聞くことはなかった。そのため、台風の様子を知るためには、雨戸を開いてみたい気持ちは山々である。しかしながら、この時間帯に雨戸を開ける音を響かせることには、隣家に気が引けてそれはできない。だから、パソコンを起ち上げるやいなや私は、台風の様子を知るためには配信ニュースを読み漁った。もちろん、ずばり鎌倉地方および周辺の台風事情を知るためである。
 どうやら台風十三号は神奈川県や東京都を逸れて、すでに千葉県から茨城県の方面へ向かっているようである。すると、逆戻りや吹き返し、すなわち台風表現に置き換えれば迷走しないかぎり、きょうの鎌倉地方は台風一過となりそうである。だからと言ってこれでホッと安堵すれば、身勝手の謗(そし)りを受けてわが身はすたる。そのため現在の私は、千葉県および茨城県の人たちの事なきを願っている。とりわけ茨城県古河市には、大沢さまのご実家が存在するゆえもある。
 夜明けが訪れて雨戸を開けることに気が留めなければ、先ずは雨戸を開けて外の様子を窺(うかが)うことになる。おそらく道路は、山から落ちてきたずぶ濡れの枝葉で狼藉(ろうぜき)をきわめているであろう。次には玄関口を出て、わが家および周辺の見回りをすることになる。荒屋(あらばや)だけに、台風一過のわが最も切ない気になる行為である。なぜなら、このときの私には荒屋のせいで、無傷では済まされない思いがつきまとっているからである。
 きのうの鎌倉地方は一日じゅう、早手回しに小型台風に見舞われていた。わが家は山際の立地である。そのため、茶の間の窓ガラスを通して山の枝葉の揺れを見ながら、私は風の強弱を知ることができる。するときのうは、嵐をはるかに超えて確かな小型台風だった。茶の間から眺める被害は、先日の嵐にはようやく倒れ忍んでいた、ミニトマトとキュウリの吹き倒れだった。今年の場合、どういうわけかキュウリは、たったの一本の収穫にさえありつけなかった。一方、ミニトマトは収穫期の途上にある。ところが、きのうの小型台風でミニトマトの収穫は、未完のままに打ち止めをこうむったのである。ごく小さな出来事だがはからずも私は、あらためて農家の大きな悲哀を知ることになったのである。そして、ミニトマトの倒れは小型台風のもたらした教訓として、わが身を慰めているところである。
 台風十三号のもたらした唯一の余得は、暑気の遠ざかりにありついていることである。現在の私は、長袖シャツに身を包んでいる。雨戸を開ければ夜明けが訪れている時間帯になっている。しかし私は、いまだに雨戸を開けることをためらっている。荒屋の雨戸の音は、ひと際「ギイギイ、ゴオーゴオー」と、響くからである。嵐や小型台風が襲うたびに荒屋に住む私は、わが恐怖はつのるばかりである。そして嵐や小型台風は、わが甲斐性無しを嘲(あざけ)るかのように過ぎ去って行く。大型台風が見舞えば、もちろんわが荒屋は、ミニトマトの二の舞は免れない。強風、嵐、大嵐、小型台風、そして大型台風、常に私は、風の強弱にかかわらず風の吹きようにドギマギを強いられている。台風一過の見回りは、わが甲斐性無しの証しを点検するかのようでもあり、とことんなさけなくやる瀬ない。
 雨戸開けは、まだためらっている。しかし、台風の確認であれば、もう許されるかもしれない。道路の狼藉はともかく、私は荒屋の無事無難を願っている。

我慢できるもの、できないもの 

 台風十三号が北上し、接近中という。関東地方には、今夜(八月八日・水曜日)あたりに上陸の恐れがあるという。台風接近の前触れだったのか? きのう(八月七日・火曜日)の鎌倉地方は、一日じゅう強い風をともなって、降ったり止んだりの小降りの雨に見舞われた。わが夫婦は茶の間に居て、陽射しを待ち望んでいた。しかし、いっときさえ陽射しは現れなかった。陽射しを望んでいた理由はこうである。茶の間はこれまでの暑さが遠のいて、わが夫婦はこんな会話を交わしていたのである。
「パパ。寒いわねー、わたし風邪を引きそうよ」
「ほんとに寒いね。おれは、もう半袖から長袖に切り替えているよ。おまえも、長袖にしたら」
「わたしは、肌着の上に半袖なのよ。パパは、長袖一枚でしょ。わたしのほうが着ているのよ」
「だけど、寒いんだったら、その上にジャンパーを羽織るか、長袖に切り替えればいいよ」
「そうね。そこの毛布をわたしに渡してよ」
「これか?」
「そうよ、それよ。ありがとう。これにくるまると、あたたかいわ!」
「やっぱり、夏は暑いほうがいいね!」
 茶の間の気温は、据え置きの温度計で見ると、十七度あたりを指していた。
 台風十八号の本番は今夜あたりという。その余波があす以降になれば、関東地方はあさってあたりまでは冷え込むのであろうか? 台風被害さえなければ、これまでの暑さ続きの中の突然の冷え込みは、天恵と言うべきであろう。しかし、実際に天恵なのかどうかは、もちろん台風一過までお預けである。鎌倉地方の冷え込みの最中にあって、日本列島の各地には、高気温と暑気が続いていた。その証しにテレビ画面の上部には、いつもどおりに高気温地方や地域を示すテロップがひっきりなしに流れていた。
 私はふるさと電話を手にした。受話器の相手は甥っ子(故長姉長男)である。
「きょうも暑いから、三十七度くらいはあるとじゃなかろかな? 夕立もずっと降らんし、雨がいっちょん降らんもんじゃけ、毎日、暑か、暑か。そっちには、台風が来よっとじゃろ?」
「そうや。夕立がないのか? こっちには台風が来てるから、きょうは風が強く、雨も降ったり止んだりしてるよ。そのせいでこっちは、冷え冷えだよ。今のおれは長袖を着ているよ」
 冷え込んでいたきのうのわが夫婦の行動は、一日じゅう茶の間暮らしだった。
 テレビは、高校野球の点けっぱなしだった。ときおり、短くニュースが挟まれた。主なニュースは、東京医科大の不正入試にまつわるものだった。東京医科大のみならず、どこの大学でもしでかしそうなニュースだった。それでも、飛び抜けてひどいニュースだった。天変地異に先駆けて人為の日本列島は、政界、官界、財界、スポーツ界、加えて教育界、俗塵まみれである。
 道徳教育は、児童生徒に為すべきものではなく、偉(えら)ぶっているおとなたちへの教化(教科)こそ先決であろう。「正直者が馬鹿を見る」。こんな人生訓が蔓延(はびこ)ることは、平成の世の文字どおり末の恥晒しである。自然界のもたらす暑さ寒さは、我慢すれば耐えられないこともない。しかしながら人為の悪徳は、我慢できず耐えられない。こちらも、ひっきりなしにテロップで流れてくる。
 平成の世は残り半年弱だが、人為の悪徳は時代の境なく、蜿蜒長蛇(えんえんちょうだ)と続きそうである。いや、さまざまなところでもっと現れ、現在の悪徳はもっと加速しそうである。突然の冷え込みは、長袖を着込んで防いでいる。しかし、人為の悪徳は、防ぎようなく冷え冷えである。

悲しい日本の夏 

 日本の国の夏(八月)に必ず訪れるのは、広島(六日)と長崎(九日)の原爆の日、そして終戦の日(十五日)の式典である。いずれも、太平洋戦争にまつわる悲しい式典である。
 きのう(八月六日・月曜日)の私は、NHKテレビが報じる「広島 原爆の日」として行われる「平和祈念式典」に観入った。今年(平成三十年・二〇一八年)の式典は、被爆七十三年と言う。式典冒頭における松井一美広島市長の「平和宣言」において、私はこの言葉に新たな悲しみをいだいた。
 「73年前、今日と同じ月曜日の朝。広島には真夏の太陽が照りつけ、いつも通りの一日が始まろうとしていました」。
 まさしく、真夏の日常生活の一瞬の変転である。日常生活の変転の虚しさを、これほど痛ましく呼び起こす言葉はほかにないだろう。原爆投下の時間は、朝の八時十五分という。一日の行動開始時間に合わせた狙いだったのであろう。まさに、日常生活の寸断である。私の悲しみは、かぎりなく増幅した。
 人間とは、非情なものである。NHKテレビは、同時間帯にあって別チャネルでは高校野球を中継していた。すると私は、人間の日常生活とはこういうものか、という思いを新たにした。おのずから私には、太平洋戦争のしでかした出来事が忌まわしく思えていた。
 松井一美市長の平和宣言の次には、小学六年生男女二人が言葉を述べた。続いては安倍総理の挨拶があった。私はこの手の式典には安倍総理にかぎらず、総理の挨拶は不要に思えた。その理由は、厳粛な式典が変質するおそれがあるからである。きょうの文章はここで留めるべきだけれど、記録のため蛇足を重ねるものである。もちろん、気が引けるところである。
 【鎌倉の死骸はシロナガスクジラ…「貴重な資料」】神奈川県鎌倉市坂ノ下の「由比ガ浜海水浴場」で5日に見つかったクジラの死骸は、雄のシロナガスクジラとみられることが6日、わかった。国内の浜辺に打ち上げられたのは極めて珍しいケースで、調査した国立科学博物館は「生態解明につながる貴重な資料」としている。同館の田島木綿子・研究主幹によると、死骸には、とがった形の胸びれや、白いまだら模様などがあり、シロナガスクジラの特徴と一致した。体長は約10・5メートルで子どもとみられる。成長すると、地球上の動物で最大の体長30メートルほどになるという。また、船舶に衝突したような外傷がなかったことから、母親からはぐれ、死んでしまった可能性があるという。同館は死骸を解体後、標本にして研究に役立てる方針。(2018年8月6日 22時37分 、読売新聞配信)。
 あさって(九日)には、「長崎 原爆の日」が訪れる。八月七日(火曜日)、のどかに夜明けが訪れている。「太平洋戦争さえなければ……」、この思いひとしおの日本の国の夏である。

 「広島 原爆の日」

 今朝(八月六日・月曜日)のわが購読紙・朝日新聞の朝刊は、日本の国の近・現代史の大きな出来事を併記している。その双方に共通するのは、「戦争と平和」である。双方の記事の引用を試みる。
 【広島 きょう「原爆の日」】「広島は6日、被爆73年となる『原爆の日』を迎える。広島市の松井一美市長は式典で、日本政府に、核兵器廃絶のため国際社会が対話と協調を進めるよう促す役割を求める。」
 【第100回全国高校野球選手権記念大会】「第100回全国高校野球選手権記念大会が5日、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で開幕した。開会式には皇太子ご夫妻が出席し、第1試合の前には星稜(石川)OBで元大リーガーの松井秀喜さん(44)が始球式をした。大きな節目となる大会を記念して、全国から史上最多の56代表が集った。開会式には第1回大会(1915年)から地方大会に続けて参加している15校の主将も参加。その一人で、第1回の開幕試合で勝利した鳥取西(当時は鳥取中)の浜崎瀧大郎主将が入場行進の先導役を務めた。大会は休養日を含めて17日間。順調なら21日に決勝がある。大会を通して第1試合前(準決勝は第2試合も)に、歴史を彩った元球児による『甲子園レジェンド始球式』が行われる。」
 本来であれば今大会は、104年大会のはずである。ところが、太平洋戦争の戦時中の4年間(1941年から1945年)は、それにより中止されたのである。広島への原爆投下は、1945年(昭和20年8月6日午前8時15分)、まさしく第100回記念大会は、「戦争と平和」の証しと言うべきものである。

第100回記念大会開幕日 

 八月五日(日曜日)、今朝は昨晩の夜更かしのせいで寝坊してしまった。そのため、記念すべききょうのイベントだけを記録に留めるものである。夜更かしの理由は、わがファンとする阪神タイガース対ヤクルトスワローズの試合が、延長十一回までもつれたためだった。幸いタイガースが勝利したため、最後までテレビ観戦したのである。
 例年私は、訪れている八月は気分の重たい月と書き続けた。その理由の一つは、過去の太平洋戦争の記憶が呼び起されるためである。その皮切りは、あす・八月六日の「広島原爆の日」である。私事でも異母兄は、八月に戦死の公報にまみれている。さらに次姉は、主治医先生の「戦争さえなければ…」という、嘆息の言葉を残し薬剤不足の下、盲腸炎から腹膜炎を併発し亡くなっている。その命日は、終戦の日の二日前の八月十三日である(享年十八)。
 さて、記録に残すべききょうのイベント(行事)は、第100回全国高校野球選手権記念大会の開幕日(開幕式)である。第1回開催年は、1915年と記されている。それ以来今回まで、1942年から1945年の四年間は、戦時中のため余儀なく開催は中断されている。わが生誕年1940年(昭和十五年)は、26回大会と記されている。再びの開催年は1946年であり、このときわが年齢は就学前の六歳である。ところが、すでに物心がつき始めていたこともあって、おぼろげながら記憶にある。そして、この大会を発端にして私は、野球少年となったのである。
 加えて、私がタイガースファンになったのは、20回大会(1934年)で活躍した藤村富美男選手(当時広島・呉港中学)のタイガース選手としての活躍による。この大会の歴史は、わが人生の足跡でもある。今年(平成三十年・2018年)は第100回記念大会であり、その開会式はきょう行われる。このため、そのことを記録に留めたのである。まもなく、開会式である。わが足跡の先には、わが未来は芥子粒ほども残されていない。

憤(いきどお)り 

 電子辞書を開いて、対義語の意味調べを試みている。「公憤」とは、正義感から発する、公のことに関するいきどおり。「私憤」とは、私事に関するいきどおり。私人としての憤慨。この意味調べに対応し、現在「公憤」をおぼえているのは、西日本豪雨の被災地と被災者を置き去りにし、総裁選の動向に明け暮れている与党・自民党にたいする憤りである。一方、私憤はさまざまにある。私憤とはちょっぴり意味違いに、自分自身に腹が立っているのはこれまたさまざまにある。そして、これには「後悔先に立たず」という、人生訓がつきまとっている。
 一つだけ直近のことで具体的に記すとそれは、歯医者通いのたびにつきまとう悔いごとである。より具体的には、こんなに痛い目に合うなら子どもの頃から、もっと丁寧に歯磨きをしておけばよかった、という悔いごとである。まさしく現在の私は、自分自身への憤りと同時に、後悔先に立たずという、人生訓を身に沁みてこうむっている。
 歯医者通いのつらさは、一旦通い始めると一度だけでは済まされず延々と続くことである。患者は、まるで「飛んで火にいる夏の虫」さながらになる。一方、歯医者にすれば、「鴨が葱を背負って来た」と、ひそかに微笑みたくなる。患者はお金をさらけ出し、歯医者は飯のタネにありつける。診療椅子に体を横たえて、そのつどこんなことを浮かべていても、私は歯の痛みに耐えきれず、歯医者通いを繰り返している。
 やるせなくも歯の治療の特徴は、「こちらを治せば、あちらも虫歯」という、際限ない「モグラたたき」同然である。「こちらも傷んでいますね。今、処置しておかないと、やがて痛み出します。どうされますか?」こうあからさまに脅迫されると、私にはそれを遮(さえぎ)る勇気は微塵(みじん)もない。まさしく、「俎板(まないた)の鯉」同然である。すると、丁寧に「わかりました。治療お願いします」。あるいは、ぶっきらぼうに「お任せします」と、応ぜざるを得ない。「いや、今回はいいです。しばらく様子をみてみます」。本当のところはこう言いたくても、この言葉はなかなか言えないものである。だから、診療椅子に寝そべりながらわが心中では、医師との葛藤を余儀なくしているところがある。
 ところが、歯痛だけは自然治癒の望みはなく、私は常に脅迫言葉に屈している。その挙句治療中の私は、公憤や私憤そして自分自身にたいする憤りを浮かべて、痛みを堪えたり、紛(まぎ)らわしたりしている。人の世にあっては、憤りの種は尽きない。

 心地良いものの双璧

 悩まされていた歯痛が止った。そのため、ぐっすり眠れた。熟睡に恵まれた目覚めの気分は、心地良い気分の最高位にある。熟睡は、死に接近している。このことでは案外、死は恐れることではないのかもしれない。もちろん死には、再びの目覚めはない。だから死は、熟睡とは異なり目覚めの心地良さは味わえない。そのぶん、無期限の安楽なのかもしれない。これこそ、熟睡と死の根本的違いと言えそうである。
 熟睡後の目覚めの気分が最高位であれば、次に続くものは何であろうかと、自問を試みる。そして、自答を浮かべている。すると、真っ先に浮かぶのは、互いに言葉を掛け合う挨拶である。挨拶には、大仰なシチュエーション(状況)の誂(あつら)えはまったく必要ない。すなわち、出会いがしらの短い言葉で十分事足りる。しかしながら挨拶には、熟睡とは違って人様が介在する。そしてこのことは、きわめて厄介である。
 熟睡はもちろん個睡である。ところが挨拶は、一方通行では成り立たない。わが挨拶言葉が相手に無視され、逆に相手の言葉に私が無反応であれば、どちらの場合も気分は害される。すなわち挨拶は、人同士の共同行為である。そしてその多くは、それまで見ず知らずの人との共同行為でもある。ところが、出会いの初めて(初対面)の挨拶言葉の一つの良し悪し(印象)で、互いの人生に影響を及ぼしがちである。すなわち挨拶には、時を選ばず朝、昼、晩、そして出会いがしらに咄嗟に交わし合う言葉だけで人は、相手を選別したり、選別されたりするところがある。もちろん挨拶は、学歴や身分の高低、職業や所得の差異など属性的なものとは無縁で、人となりだけ十分である。
 ところが案外、この人となりが厄介でもある。なぜなら人となりは、にわか仕立ての訓練や、一念発起の誤魔化しで叶えられる代物ではない。すなわち人となりは、生来あるいは後来の生き方の集大成である。もちろん私の場合は、人となりはたずさえていない。そのためそれを補うためには、始終腐心しなければならない。その心掛けの筆頭は、挨拶言葉である。なぜなら私は、挨拶言葉の心地良さを知りすぎているからである。しかし、難聴にとりつかれて以来私は、先方の挨拶言葉に、返す言葉を失いかけている。それを防ぐためには、もちろん心して耳をそばだてている。しかしながら耳(器官)の衰えは、それを防ぐことはできない。残念至極である。そして、耳が頼りなければすがるのは、もっぱら目と口である。
 朝の道路の清掃にあっては、散歩で往来する人の所作にひそかに目を凝らしている。そして、口の動きを察すれば、すぐさま「おはようございます」と言って、応じている。口の動き無く、軽く頭を下げて通り過ぎる人もいる。これらの人には「おはようございます」と言ったり、私も目で応えている。挨拶の難しいところは、ひとりよがりであってはかえって、相手の心象を損(そこ)ねることである。言うなれば挨拶は、互いの阿吽(あうん)の呼吸で成り立っている。もちろん、無表情に通り過ぎて行く人もいる。私のほうから、挨拶言葉を掛けたい気持ちは山々である。しかしながら私には、自重するところがある。なぜなら、挨拶の押しつけ(押し売り)は禁物である。結局、挨拶は押しつけがましくなく、互いの人となりのほとばしりこそ、至上の心地良さにありつけるものである。
 このところの朝の道路の清掃にあっては、一つ快い異変が起きている。勤務の無い日だけの市民ランナーと思えていた人は、実際には出勤前の日課のようだったのである。ここ二日ばかりの平日に、走りながら「おはようございます」と、先方から声をかけて、通り過ぎて行かれる機会に遭遇したのである。すると私には、その背中に向けて「がんばって!」という、朝の言葉が定着したのである。心地良く、挨拶を交わし合うご常連が増えたのである。
 挨拶言葉の心地良さは、熟睡の心地良さの次点ではなく、相譲らぬ双璧を成すものである。そして、どちらも元手(金の)かからない心地良さでもある。柳の下の泥鰌(どじょう)を狙って、今朝も道路の清掃へ向かいたくなっている。きのう(八月二日・金曜日)の私は、行きつけの「斎藤歯科医院」(横浜市栄区)へ出向いて、歯痛の応急措置をしてきたのである。

ああ、なさけない 

 このところの私は、モチベーション(気力)の低下に陥っている。わがモチベーションの低下は、まるで潮騒や間欠泉のごとく、正確に時を刻んでめぐってくる。いや実際のところは、時を入れずに始終めぐってくる。わがなさけない精神の悪魔である。これに罹患すると、すべてが厭(いや)になる。とりわけ心象でつづる文章は、にっちもさっちもいかなくなる。
 モチベーションの低下に陥る誘因はさまざまにある。ところが、それを克服する能力と気力がないため、この症状に陥るのである。現象と書けばいいのに、症状と記した。症状とは、病の表現である。心身と言うように精神と身体は一体である。身体が健康であれば精神は賦活(ふかつ)する。身体が蝕(むしば)まれれば精神は萎(な)える。精神が損(そこ)なわれれば、もちろん身体もまたは損なわれる。どちらがあとさきと言うものでもない。心身は文字どおり一体である。結局、モチベーションの高低は、心身状態に基因する。だから、それを高く維持することは厄介であり、私にかぎらずだれしもとうてい不可能なことではある。しかしながら、私の場合は常にモチベーションの低下に悩まされている。それは生来のわが小器ゆえであり、修復の余地ない「身から出た錆」である。
 このところの私は、身体の不調に脅(おびや)かされている。ところが、これは気にしても仕方ないことであり、実際にもそんなに気に病(や)んではいない。確かに、今の私は歯痛に悩まされて、直接的にモチベーション低下の誘因になってはいる。しかし、モチベーション低下の元凶は、もろもろの精神状態の不安や困惑からもたらされている。これまた、どうもがいてもどうなるわけでもないから、気にするだけ損だとは思う。ところが、こちらには絶えず悩まされている。
 書くまでもないこんなくだらないことを書いて、夜明けの道路の清掃へ向かうこととする。さわやかな夏の朝が、わがモチベーションの高揚に一役買ってくれるのを願っている。本来、自力で回復すべきところを夏の朝にすがったり、ご常連の人との挨拶に頼るのは、ほとほとなさけなくはある。「歯が痛くて、気分憂鬱です」、と言いそうである。こんな身も蓋もない文章では、きょう(八月二日・木曜日)は、歯痛を口実に休むべきだったのかもしれない。

きのうは書き殴り、きょうは走り書き 

 七月から月が替わり、八月一日(水曜日)の夜明けが訪れている。今朝の私は、四時四十分頃に起き出してきた。いつもの習わしであれば、すぐにキーボードへ向かって、文章を書き始めている。そして、文章を書き終えれば、道路の掃除へ向かうことを日課にしている。しかしながら、この日課もしだいに朝はおぼつかなくなり、昼間あるいは夕方に移り始めている。ところが今朝は、咄嗟の思いで初めて順序が逆転した。キーボードへ向かうと、先に掃除をしてこようと、思い立ったのである。その理由には、静かに明けゆく夏の朝の快さに打たれ、同時に常連のご婦人とさわやかな挨拶を交わし合いたいという、思いがあったからである。
 私は急いでかつ丁寧にいつもより広域に道路を掃いて、今キーボードへ戻ってきたところである。壁時計の針は、五時四十分あたりをめぐっている。すると、ほぼ一時間の掃除だったことになる。そのぶん今朝の文章は、ほぼ一時間の出遅れを強いられて、走り書きに甘んじている。
 二人のご常連のご婦人との出会いを目指していたけれど、おひとりには出会うことができなかった。ところが、とんでもない出会いに遭遇したのである。初対面のその人は、私より若い初老の男性である。掃除をしている私のかたわらに立ち止まれて、先方より声を掛けられた。
「この付近には、きょねんマムシがいましたよ。ことしは、まだ見ていませんね」
「おはようございます。マムシがいたのですか。恐ろしいですね。私は蛇がもっとも嫌いで、もっとも恐ろしいです。ここに、マムシがいたのですか。こんな道路にいたなら、すぐ上の私の庭にはいますね」
「写真を見ましょうか」
「写真を持ってらっしゃるのですか」
 男性はスマホを手に取り、いっとき過去の写真に指先を滑らして、マムシの写真に留められた。はっきりとマムシの写真が映し出された。
「これがいたのですか。きょねんだったら、ことしもいますね。こわいですね」
「それは分かりませんが、気をつけてください」
「ありがとうございました」
 今朝はまた一つ、わが人生における厄介物が増えたことになる。
 きのうの私は、予告どおりにわが最寄りの「左近充医院」(住宅地内)に通院した。妻もともなっていた。この日の通院の目的には二つあり、一つは左近充先生にお詫びを入れること、そして一つは先日渋った薬剤治療の要請をすることだった。診察室に入ると私は、すばやくこう言った。
「こんにちは。先日は、お世話になりました。ありがとうございました」
 そして、診察椅子に腰を下ろすと、矢継ぎ早にこう言った。
「まず、私から話をさせてください。きょうは、先日治療を渋ったお詫びを言いにまいりました。そして、先生の指示どおりに、治療をお願いしにまいりました。まことに申し訳ありません。せっかく健診を受けながら、データに背いては意味がありません。クレアチンの数値は要観察でした。ところが、LDLコレステロール(悪玉コレステロール)は要治療でした。このため、先ずは悪玉コレステロールの薬剤治療をお願いしたのです」
「じゃ、そうしましょう」
 きのうの夕食後から、一錠の薬剤服用が開始された。緑内障治療のための目薬に、新たに加わったわが終焉時までの厄介物である。とかく人生は、生きながらえることが厄介である。難聴、緑内障、加えてここ数日は、歯痛に悩まされている。これらに、今朝からマムシの恐怖が加わったのである。長生きは損々(ソンソン)と思いながら私は、生涯使用の薬剤を増やしたのである。ばかじゃ、なかろか!

書き殴りの番外編 

 きのうの一日じゅうの七転八倒の苦しみからすれば、きょう(七月三十一日・火曜日)はキーボードへは就けないと覚悟していた。ところが、きのうの苦しみの一つである腰痛は消えて、どうにかキーボードへ向かっている。
 きのうの私は、目覚め時から就寝時に至るまで腰痛と便秘に悩まされて、腰の痛み、不快感、吐き気につきまとわれた。その挙句には、死ぬほどの思いで七転八倒をこうむったのである。きのうのわが本来の行動予定には、五月に予約されていた胃部内視鏡検査(胃カメラ)の受診があった。もちろん、一過性の痛みより、こちらの経過観察のほうがはるかに大事である。このため、こちらは腰痛を堪えて、用意周到に午前八時半過ぎには、「大船中央病院」(鎌倉市)の消化器内科の窓口に着いて、検査待機者のところへ案内された。
 わたしの検査予約時間は、九時だった。そのためには、八時五十分までには来るようにと、指示されていたのである。おそらく、当日の受検者の予約時間もみな九時に横並びだったと思われる。一番乗りだった私のあとには、続々と受検者が現れた。私の一番乗りは功を奏した。
 女性看護師から最初に、「前田さん」と呼ばれて、検査室へ誘導されたのである。私は「おはようございます。お世話になります」と言って、腰部を手で押さえて、しかめっ面をして女性看護師の指示に従った。「大丈夫ですか」「はい、大丈夫です」女性は書面に目を置いて、マニュアル通りに「お名前、生年月日を言ってください」と言われた。その問いに私は、スラスラと答えた。検査前の備えには、口内に三分間麻酔薬を含んだ。それが済むと検査室に入り、検査ベッドに体を横たえた。検査に耐えるようにその準備は、手慣れた女性スタッフが優しく対応された。
 準備万端検査態勢になると、こんどは男性スタッフが、「大きく口を開けてください。そして、この器具を噛んでおいてください」と、言われて器具を装着された。この器具からカメラが胃部まで入れるのだろう。ところが、それ以降検査が終わるまでのことは、痛さをはじめ何もわからずじまいだった。検査が終わると、車椅子に乗せられて小部屋に運ばれた。ここでは、検査後の一時間の体の横たえが決まりだった。
 ところが私は、ひどい腰痛に悩まされてこの一時間に悪戦苦闘を強いられた。体を横たえることはできなく、ベッドに腰かけていた。そして、時々往来するスタッフの足音を聞いては、カーテンを小開きにして、「もう、出ていいですか? 腰が痛いので…」と、嘆願した。すると異口同音に、「一時間は、体を横たえてください」と言われて、わが訴えは却下された。もちろん、足早に通り過ぎるスタッフにたいし、恨みつらみはなかった。検査結果の診断を受ける予約時間は、九時半と記されていた。検査開始時間との時間のずれには、腑に落ちないところがあった。
 妻は、九時半を目安に後れて待合室に来ていた。案の定。予約時間とは大きく遅れて、「前田さん。三番へお入りください」と、マイク音が伝えられた。私は妻と連れ立って、三番診察室のドアをコツコツと神妙に叩いて、診察室に入った。勝手知った診察室には、主治医の吉田先生が対坐されていた。私は、「おはようございます。お世話になります。と言って、診察用の丸椅子に腰を下ろした。妻も丁寧にあいさつを交わして、丸椅子に腰を下ろした。吉田先生は、いつものように穏やかに、優しいニコニコ顔で対話された。わが両耳には集音機の紐が嵌められていた。
 早速、先生はモニターに映像を映し出された。「治っていますね」と言われた。続いて、去年の秋の写真と、今年の五月の写真、そして今回の写真を併映されて、見比べられた。そして、プリントアウトされてその紙に、ボールペンで去年の十一月、今年五月、今年七月と記されて、私に渡された。そしてその説明には、
「去年の十一月には腫瘍はなく、五月には腫瘍があり、そして今回はなく、治ってますね。念のため、もう一度受けられますか?」
「治ってますか。よかったです。先生にお任せいたします」
「それでは、予約日を入れて起きましょう」
「わかりました。お世話になります」
 帰りに予約表に目を通して、予約日を確かめた。十月二十二日午前九時半、と記されていた。この日、本番の胃部再検査は無事に終えた。
 ところが、きのうの診察にあっては、胃部への危惧はそっちのけにして、予定外の腰痛と便秘の苦しみを訴えた。それに輪をかけて、飛び込みの血液検査を申し出たのである。どちらも唐突だったけれど、吉田先生はニコニコ顔で対応してくださった。腰痛には痛み止めと、便秘の薬剤の処方箋を戴いた。そして、血液検査には採血室へ出向いて採血した。突然の採血検査でもあって、再び診察室から呼ばれた時は、午前中の最後尾の診察となり、優に十二時を過ぎていた。採血データの結果は、思わしくなかった。特に、懸念すべきところは、クレアチン(腎臓)、LDLコレステロール(悪玉コレステロール)における基準外の数値だった。これには、大きな衝撃を受けたのである。
 この日の吉田先生の診察にあって私は、本番以外に一つの相談事をたずさえていた。それは、先日受けた最寄りの開業医先生の採血データにかかわるものだった。私はそのデータをたずさえていた。そして、そのときの様子を吉田先生にお伝えし、持参のデータをお見せした。そのデータには、クレアチン、LDLコレステロール、さらには中性脂肪において、基準値外の異常値が記されていた。このためそのときの先生は、薬剤治療をほのめかされたのである。ところが私は、その要請を渋った。
「吉田先生。治療をしたほうがいいのでしょうか?」
「治療は、したほうがいいと思います。どちらも、動脈硬化のひきがねになりますから、その先生のところで治療したがいいと思います」
「わかりました。そういたします。ありがとうございました」
 きょうの私は、最寄りの左近允医院(わが住宅地内)に出向いて、先日の詫びを入れて、薬剤治療を要請することになる。私は吉田先生にたいし、「一度、それようの薬を服用すれば、一生服用することになるんでしょう?」「そうですね」私には、つらい宣告だった。しかし、動脈硬化のもたらす心筋梗塞、脳梗塞、そして心不全は、わがもっとも恐れる病である。それを防ぐためにはきょうの私は、薬剤治療決断し、治療開始をお願いすることになる。
 妻は「わたしも一緒に行くわ」と、言っている。私に早死にされては、妻の生活が成り立たないからである。便秘の不快感はいまだに収まらないけれど、腰痛が遠のいて番外編の文章にありつけたことだけは、ひそかなお祝いである。

休みます 

 七月三十日(月曜日)の夜明けが訪れている。きのうの夜明けは、台風十二号の影響を受けた大嵐の後始末でたいへんだった。私は濡れ落ちて汚らしく散在していた枝葉を拾いまくった。箒で掃くことはできないため、まずは見苦しいところを清めて置きたいと、行動したのである。夜明けて朝日が高く昇ると、大嵐が過ぎたあとの大空は台風一過さながらに、青空から烈しい陽射しが照りつけた。それでも道路は乾ききれなかった。業を煮やした私は、乾きを待ちきれずに昼下がりから、ほぼ一時間かけてきわめて粗雑に道路を掃いた。いくらか心が落ち着いた。
 きょうの私には、朝早立ちの通院予定がある。胃カメラによる再検査である。数か月前に予約されているものだけに、必ず出かけることになる。そのため腰が落ち着かず、きょうの文章はこれで打ち止めにする。

「好きな すしのネタ」アンケート 

 七月二十九日(日曜日)、現在は真夜中の一時頃である。妻は娘宅へ行って、泊っている。きのうの鎌倉地方は、わが就寝時までには大嵐が吹き荒れていた。案の定、ミニトマトとキュウリの支柱は、倒れたり倒れかかっていた。私は横殴りの雨にびしょ濡れになり、それらの支柱を立て戻した。しかし、わが家の庭中は岩盤で、支柱を強く押し込んでも手応えは無く、立ててもすぐに倒れかかった。私はびしょ濡れに懲りて、風の吹くままにして引き上げた。
 夕方のテレビ画面には、鎌倉の小学校にたいする避難指示のテロップが流れていた。私は一、二階すべての雨戸を閉め切り、早々に就寝した。現在は、台風十二号接近予報の夜である。しかし、雨戸を閉めているため、台風の様子はまったくわからない。ただ一つその様子を知ることができるのは、難聴の耳に響く雨戸を打つ風の音くらいである。ところがどんなに耳をそばだてても、雨戸を揺らす風の音はまったくない。
 パソコンを起ち上げるやいなや私は、台風十二号にかかわる配信ニュースを読み漁った。しかし鎌倉地方にかぎれば、まったくニュースの種から免れていた。台風十二号は、きのうの嵐で去ったのか。それとも、こののち見舞うのか。現在は、台風の目の凪状態なのか。私は外の様子の見えない台風接近予報の真っただ中にあって、キーボードを叩き始めている。もちろん、心細い真夜中の居住まいである。
 さて、現在の私は、購読紙・朝日新聞(平成三十年・二〇一八年七月二十八日・土曜日付けbe版)に掲載されていた、「好きな すしのネタ」にかかわる読者アンケート結果の引用を試みている。
 かつて、JR大船駅中にあった「千寿司」がリニューアルし「すし兆」になって以来、わが夫婦はそれまでの寿司三昧とは縁切りとなっている。実際のところ新装開店のおりの一度きりで、そののちはたったの一度さえすし兆へは行っていない。その理由は新装開店(店名は千から兆へグレードアップ)に合わせて店の雰囲気が変わり、かつ肝心要の寿司の味はまずくなり、ところが値段のほうはが上がっていたせいである。
 妻は、私よりはるかに一辺倒に寿司を好んでいる。もちろん、そのことを知りすぎている私は、ときには武士(配偶者)の情けを試みることがある。
「千寿司がすし兆になってから、まったく寿司が遠のいたね。たまには、すし兆へ行ってもいいよ。行こうかね。おまえは、ほんとうに行かなくていいの? 我慢することもないよ。あんなに、寿司が大好きなんだから、食べなきゃ損だよ」
「パパってばかねー、わたし行かなくていいわよ。行きたくないわよ。パパは行きたいの?」
「おれは行かなくていいけど、おまえが行きたければ、行ってもいいよ」
「わたし、行かないわ。行きたくないわよ」
「でも、寿司大好きだから、ひとりでも行けばいいのよ」
「行かないわよ!」
 妻は、すし兆にたいしては頑(かたく)なに拒絶反応を続けている。今や寿司は、わが夫婦からはまぼろしのメニューへ成り下がり続けている。
 それを補うにはスーパーの寿司弁当や、仕出しの寿司はある。しかし、千寿司の味を占めているせいでわが夫婦は、どちらにもご無沙汰(無縁)になっている。寿司好きの妻の憤懣やるかたない気持ちをおもんぱかると、武士(配偶者)の情けはつのるばかりである。
 さてさて、こんなわが夫婦の寿司事情をあらかじめ記して、アンケート結果を記してみる。先ずは一位から順々に二十位まで、ランキングを表示する。マグロ(中トロ)、マグロ(赤身)、イカ、ウニ、アナゴ、サーモン、甘エビ、ハマチ、ホタテ、イクラ、アジ、ヒラメ、タイ、エンガワ、マグロ(大トロ)、ネギトロ、タコ、卵焼き、カンパチ、サバ。さらに二十一位以下には、こんな順序で記されている。アワビ、ウナギ、コハダ、イワシ、カニ、アカガイ、サンマ、カツオ、シャコ、トリガイ、ツブガイ、ホッキガイ、蒸しエビ、カレイ、サザエ。結局、一位から三十五位までのランキングである。ちなみに、ランキングはつけずにわが好みの十位までを付記すれば、こんなところである。アワビ、アカガイ、ツブガイ、タイ、イカ、タコ、イクラ、アジ、甘エビ、そして読者アンケートにはないアオヤギである。番外の巻物では、タラコ巻き、カッパ巻、オシンコ巻きである。これらの中でわが好みの筆頭は、断然アワビである。ところが、千寿司での注文のおりには、涎たらたらにアワビは外していた。なさけなくも、値段の高さに我慢を強いられていたのである。
 一方、妻の好みの筆頭は、これまた飛び抜けてウニである。ところが、ウニも値段の張る特別価格表示だった。すると、カウンター越しのスタッフに聞こえないようにわが夫婦は、これまたなさけなくも、ひそかにこんな会話を交わしていた。
「パパ。わたし、ウニが大好きなのよ。食べたいのよ。一つだけ、ウニ食べてもいいかしら?」
「好きなことは知っているよ。食べたければ、食べればいいよ。自分で、注文すれば……」
「食べていいかしら? パパもアワビ、食べなさいよ!」
「おれは、食べなくていいよ。『こちらの皿に、ウニを二つください!』」
「パパ、わたし、一つでいいわよ」
「好きなら、我慢しなくていいよ」
「いいの? パパも、アワビ注文すればいいのに……」
 千寿司がすし兆へ衣替えしたのは、かえすがえす残念である。
 雨戸を鳴らす風の音はまったくない。台風十二号接近の予報は、幸いにも外れたようである。夜明けまでにはまだたっぷりと時間がある。しかし、二度寝はできそうにない。階下へ下りて、朝御飯の支度で暇をつぶそうと、思う。ところが、買い置きの納豆一品の御数で済むから、手間暇はまったくかからない。ガラガラと音を鳴らして雨戸を開けるには、隣近所に気が引ける。まして、みんながぐっすり寝(やす)む日曜日の夜明け前である。

天界の警(いまし)め  

 雨に強風が付き添えば嵐である。七月二十八日(土曜日)、鎌倉地方には嵐の夜明けが訪れている。この嵐は、私に「いい気になってはいけない!」という、人生訓をあらためて諭(さと)している。
 私はさきおととい(七月二十五日・木曜日)の夕暮れどきの通り雨を「超ミニミニ夕立(恵みの雨)」と書いて、いい気になっていた。夕立はこのところのわが願望であった。そのため、わずかばかりの通り雨にもかかわらず、あえて「恵みの雨」と書き添えた。確かに、そのとき以降鎌倉地方の気候は激変し、それまでの高気温と厳しい暑さは遠のいた。自己判断で異常気象とまで書いた高気温と厳しい暑さは、一変し涼しくなり心地良さに恵まれた。その挙句、私はいい気になっていた。ところが、振り返れば超ミニミニ夕立は、近づく台風十二号の先ぶれだったようである。そして、台風十二号の被害をこうむることにでもなれば、私は恵みの雨どころか馬鹿丸出しのいい気になっていたことになる。
 起き立ての私は、いまだ嵐の夜のわが家の見回りは済んでいない。そよ風にさえ揺らぐほどにこころもとなく立っているミニトマトとキュウリは、早や共倒れになっているかもしれない。そうであれば恵みの雨と言って、涼しさを得て心地良さに酔っていたわが気分は、たちまちぺしゃんことなる。
 <台風12号 28日午後に伊豆諸島に接近 東海から西日本に上陸のおそれ>(7/27・金曜日、23:19配信 ウェザーマップ)。 「強い台風12号は日本の南を速度を上げながら北上している。台風は28日昼過ぎから夕方にかけて伊豆諸島に接近した後、強い勢力を維持したまま東海地方から西日本に上陸するおそれがある。暴風、高波、土砂災害、低い土地の浸水、河川の増水や氾濫に厳重に警戒し、高潮にも警戒が必要だ。台風12号は、27日午後10時には父島の東北東約280キロにあって、1時間におよそ35キロの速さで北北東へ進んでいる。台風は今後発達しながら日本の南を北上し、次第に進路を北西に変えて、28日昼過ぎから夕方に伊豆諸島に最も接近する見込みだ。その後、台風は進路を西よりに変えて、強い勢力を保ったまま28日夜から29日未明にかけて東海地方から西日本に上陸するおそれがある。暴風・高波・高潮、28日には東日本や西日本の太平洋側も、台風の接近に伴い急に風が強まり、海上を中心に猛烈な風が吹き、海上は猛烈なしけとなる見込み。伊豆諸島、東日本や西日本の太平洋側では暴風やうねりを伴った高波に厳重に警戒が必要だ。また、年間で潮位が高い時期となるため、高潮にも注意・警戒が必要となる。」
 自惚れやいい気になること、はたまた自己満足は、常にどんでん返しをともなっているという、人生訓を復習した夜明けと言えそうである。
 恵みの雨は嵐に替わり、この先は被害をもたらす台風に変わるのであろうか。心地良く冷えているわが体は、天界の警(いまし)めの証しでもあろう。確かに、「禍福は糾(あざな)える縄の如し」である。

ひと雨の恵み 

 きのう(七月二十六日・木曜日)の私は、超ミニミニの夕立のことを書いた。実際のところは、小皿を置いてもそれに溜まらない程度の一滴(ひとしずく)の通り雨だったようである。しかしながらそれ以来現在まで、鎌倉地方の夏はすっかり様相を替えている。具体的にはそれまでの暑気を遠ざけて、涼しくなっている。起き出してきたばかりの昨夜は、ことごとく網戸は用無しに窓ガラスで閉めて、それを厚手のカーテンで覆った。そのうえ就寝の際には、それまではねのけていた掛布団さえ掛けた。起き出してきた今のわが身は、部屋の中に冷えでちょっぴり震えている。もちろん、こんな涼しさが長続きするとはとうてい思えない。なぜなら季節は七月末にあり、夏の本番はこの先八月にめぐってくる。
 顧みれば、梅雨明け以降これまでが異常気象だった。そのせいで七月は、高気温と厳しい暑さに見舞われ続けていたのである。だから過ぎ行く七月は、私には八月の前倒しに思えていたのである。そして、七月の暑さに終止符を打ってくれたのは、きのうちょっぴりわが体を濡らした通り雨だった。夕暮れどきの突然の雨には、ワンショットの稲光がともなっていた。このところの私には、夕立願望があった。そのため、文章の表題には「超ミニミニ夕立」(恵みの雨)、と記した。確かに、表題は大袈裟だった。しかし、必ずしも嘘っぱちではなかった。なぜなら、夕立特有にそれまでの厳しい暑気をはねのけた、確かな「恵みの雨」をもたらしたのである。
 人間いや私にかぎれば、きわめて身勝手なところがある。なぜなら、わずかに一日余りにすぎないのに現在の私は、暑さの遠のきを惜しむ気にさえなっている。私はやはり、馬鹿丸出しの天邪鬼(あまのじゃく)である。もちろん、これまでの高気温と厳しい暑さは異常気象のせいである。過去の気象データによる盛夏、すなわち高気温と厳しい暑さの本番は、この先八月にこそめぐってくる。このことをかんがみれば今夏は、今に過ぎ行く夏を惜しむどころか、この先辟易するほどの長い夏になりそうである。
 このところの私は、日々道路の清掃へ向かっている。すると、日に日に水分をすっかり失くし尽くした落ち葉が増えている。これまた、七月の異常気象にともなう前倒しの落ち葉の量である。だからと言って、山の枯葉が早々に落ち尽きることはない。これまた、落ち葉との長い格闘を強いられそうである。
 七月二十七日(金曜日)の夜明けの空には、朝日がキラキラと光っている。高気温と厳しい暑さがぶり返しそうである。窓ガラス越しに眺める山の木の葉は、大揺れに揺れている。暑さを和らげる強風が吹いているのであろう。暑気を和らげる強風は願ったり叶ったりだが、落ち葉の量が気になるところである。
 人間は気象には逆らえない。そうであれば無難に共生を願うところである。しかし、西日本豪雨を浮かべれば、それは人間の一方通行の願いごとにすぎない。私は、現在の心地良さの長続きを願うところである。しかし実際のところは、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」、つまりおまじないである。

超ミニミニの夕立(恵みの雨) 

 西日本豪雨の被災地と被災者をおもんぱかれば、恵みの雨と書くには気が留める。それでも雨のおかげで暑さが激変し、涼しくなったことをかかんがみれば、恵みの雨と書かずにおれないところがある。七月二十六日(木曜日)の夜明けが訪れている。
 念のため、カーテンを払い、窓ガラスを開けた。道路には雨の跡形はまったくない。きのうの夕暮れわが家周辺は、超ミニミニの夕立に見舞われた。あえて夕立と言うほどもない、一瞬の雨降りだったのかもしれない。しかし雨は、フラッシュみたいな光を一回ともなっていた。突然の雨は、すぐにびしょ濡れになったほどの大粒だった。これを体験したのは、外に出しっぱなしのゴミ袋を慌てて、物置に仕舞いこむ行動をしたためだった。そののちは部屋の中に戻り、これまた大慌てですべての網戸を窓ガラスに換えた。こちらは、慌てふためく妻との共同作業だった。夕暮れどきであり、もちろん雨戸も閉めた。そのため、そののちの雨の降りようはわからなかった。雨音や雷鳴がまったく聞こえなかったのは、わが難聴のせいもある。しかし、たぶん小降りか瞬間的な雨降りにすぎなかったのかもしれない。
 窓ガラスを開けたのは、それを確かめるための行為だった。そして、窓を開けて道路を眺めると、やはりそうだったのだ! と、それを確信したのである。そうであれば、あえて夕立と言うのは大袈裟であろう。しかし、私と妻は共に、「夕立!」、と言って言葉を合わせていた。それはこのところの二人に、夕立願望がつのっていたせいでもあろう。
 妻は「パパ。昔は夕立がよくあったけど、今は夕立ないね。夕立があれば涼しくなるのにね」「そうだね。ふるさと(熊本)の夏には、毎日夕立があったけど、こちらにはないね。夕立には雷鳴がとどろいて恐ろしかったけど、去ったあとの涼しさや気持ち良さは格別だったね」
 超ミニミニとはいえ稲光があり、やはりきのうの夕暮れの雨は、夕立だったと言えそうである。その確かな証しは、現在の涼やかさに表れている。やはり、恵みの雨と言って、ちょっぴりは褒めてやるべきであろう。しかしながら、西日本豪雨の被災地と被災者をおもんぱかれば、やはり気が引けるところはある。それでも、久しぶりに暑気が遠のいた、清々しい夜明けが訪れている。道路の清掃へ向かうには、ちょっぴり出遅れである。

わが、夏の醍醐味 

 まるで間欠泉のごとくに、ずきずきと襲っていた頭部の痛みは遠のいている。一時は脳梗塞の前触れか? と、恐怖に慄(おのの)いていた。そのため憂鬱きわまりなく、文章を書く気分は殺(そ)がれていた。しかし、幸いにもその恐怖心は去り、きょう(七月二十五日・水曜日)はキーボードへ向かっている。ところが、気鬱症状は引きずったままである。その誘因は夏風邪に見舞われて、始終むずむずとする鼻炎症状をこうむっているせいである。夏風邪は、わが恐れるものの一つである。それを防ぐためには、太鼓腹丸裸による寝冷えは禁物である。このことは、これまでの夏の経験から知りすぎている。そのため、おのずから薄い肌着一枚は身につけて、寝(やす)んでいる。幼児時代であれば、金太郎印の腹巻(腹当て)を着けていた。夏風邪は鼻炎症状を露わにし、それによる気分の滅入りは花粉症に似たところがある。そのため、夏風邪対策は意に留めるものの一つである。しかしながらその対策は、御座なりなのであろう。なぜなら、顧みればひと夏に一度くらいは、夏風邪に見舞われてきたように思えている。
 さて、日本列島は連日高気温と猛暑に見舞われている。だからと言って、猛暑に辟易(へきえき)ばかりしていても能がない。いや、夏がもったいない。だからこんなときにはあえて、夏の季節の良さを浮かべるにしくはない。言うなれば「わが、夏の醍醐味」である。もちろん、私だけに限るものである。胸中に浮かぶままにランキングをつけずに、それらをランダムに記してみる。
 それでもあえて第一とするものは、身なりの軽装である。ときには上半身裸でも許される。丸首シャツ一枚、猿股パンツ一枚は、室内普段着の定番である。寝床における夏蒲団一枚の気軽さ、風呂場の脱衣室における着脱の簡便さ、もちろんシャワーの心地良さも、夏の恩恵である。涼しい夏風を呼び込む網戸のありがたさも、夏特有のものである。常緑樹の立つ木陰、夕立の快さも夏特有である。夏の朝そして夏の夕暮れ、これまた夏の季節が恵む心地良さである。バスや電車の中の冷房のありがたさは格別である。夏を旬(しゅん)とするキュウリ、トマト、ナスの美味しさも、また格別である。私にかぎればこれに西瓜が加わる。さらには、かき氷や氷菓子、はたまたアイスクリームそしてキャンデーが加わる。冷ややっこもこれらに加えていいかもしれない。現在、わが、夏の醍醐味は、これらで十分である。子どもの頃であれば、ふるさとに一筋流れる「内田川」の水浴び、魚取り、水遊びだけで十分だった。しかし、今の私にはこれは叶えられない。
 きのう(七月二十四日・火曜日)は、鎌倉の海の花火だった。ところが、今や用無しである。夏だからと言って、私にはビールの一滴さえ用無しである。人様が華やぐ夏季の物見遊山も用無しである。確かに、これらを浮かべれば私は、多くの夏の醍醐味を失くしている。それでも、わが、夏の醍醐味が薄らぐことはない。猛暑続きのこの夏ではあっても、私は夏の季節を毛嫌いすることはない。
 ところどころちょっぴり道路が濡れた夜明けが訪れている。しかし、朝の掃除に支障はない。夏の朝を満喫するため、鼻炎症状をはねのけて、道路の清掃へ腰を上げる。心地良い朝に恵まれて、気鬱症状が和らげば勿怪(もっけ)の幸いである。

日本国内最高気温・埼玉県熊谷市 

 七月二十四日(水曜日)、二年先の2020年「東京オリンピック」は、この日が開幕日である。選手たちは、競技の勝負はさておいて、暑さ負けが危ぶまれるところである。私自身は、きのうあたりから頭部が間断なく痛くて、自己診断では熱中症予備軍に思えている。このためきょうの文章は、休筆を決め込んでいた。ところが、このことだけは記録に留めておかなければならない。それは、暑さを伝えるメディアの配信ニュースである。
 <埼玉・熊谷で気温41.1度 国内の観測史上最高を更新>(2018年7月23日14時43分 朝日新聞デジタル)。「気象庁によると、23日午後2時16分、埼玉県熊谷市で、国内の観測史上最高となる気温41・1度を観測した。これまでの最高は2013年8月12日に高知県四万十市で記録した41・0度だった。23日は、ほかにも午後1時40分までに、東京都青梅市で40・8度、岐阜県多治見市で40・7度を観測。全国927の観測地点のうち、午後1時までに195地点で最高気温が35度以上の猛暑日となっている。」
 わが家は山際に立地しているため、網戸にしておけば風の恩恵を得て、エアコン要らずである。それでも頭部がずきずきと痛むのは、やはり暑さとは無縁ではなさそうだ。妻は「パパ。救急車を呼びましょう」と、うるさい。私は「バカなことは、休み休み言え!」と、どなっている。加えて、「熊本生まれのおれは、暑さには強いんだ!」と、言っている。しかし、熱中症予備軍となっては、もはや「強がり」も休み休み言うべきであろう。

現下、日本列島の夏 

 全国高校野球選手権大会地方予選は終盤戦になり、都道府県代表校が決まり始めている。今年の大会は第100回という、1世紀を画するものだけに、例年を超えて盛り上がっている。
 きのう(七月二十二日・日曜日)には、わが関心のある九州管内の大会では、長崎県と熊本県の代表校が決定した。わがふるさと県・熊本より先に長崎を記したのは、長崎県代表校争いに格別の関心を寄せていたからである。長崎県の決勝戦では、「ひぐらしの記」にたびたびご紹介をしてきた渡部さん(埼玉県所沢市ご在住)の母校が戦った。私は決勝戦に至るまで、格別の関心を寄せて渡部さんの母校を応援していた。もちろんそれは、私自身の楽しみのためでもあった。まったく応援するところが無いと、地方大会への関心は薄れ、そのたぐいの報道は馬耳東風に過ぎてゆく。もちろん、熊本県予選は最大の関心事で、決勝戦までの戦いを見つめていく。
 ところがわが母校は初戦で敗れ去り、興味は泡沫(うたかた)のごとくぺしゃんこになった。それを救ってくれたのは、渡部さんの母校の順当な勝ち上がりだった。しかし渡部さんの母校は、きのうの決勝戦で敗れた。応援していただけに残念だった。熊本県代表校は、名門熊本工業高(熊工)を破った東海大星翔高校だった。すると、地方予選において残る関心事は、沖縄県と神奈川県の代表校決定である。何らかのつながりが無ければ、地方予選は楽しめない。このことでは、私の関心事を引きずってくれた渡部さんの母校の奮闘に感謝するところである。それでもやはり、決勝戦で涙を呑んだ戦いは、かえすがえす残念だった。
 全国高校野球選手権大会は、わが購読紙朝日新聞の主催であり、そのため日々多くのページを割いて、地方予選から詳細に報じられている。だからこの時期の朝日新聞は、日刊紙の枠をはみ出して、スポーツ新聞さながらの様相にある。加えてこの時期には、毎日新聞が主催する都市対抗野球(東京ドーム)の記事がある。さらにそのうえ、プロ野球は後半戦の戦いを強めて、それにかかわる記事もある。かてて加えてきのうは、大相撲名古屋場所(愛知県体育館)の千秋楽であった。こちらは、十四か目にして関脇御嶽海(出羽の海部屋)が初優勝を飾った。千秋楽明け後ということできょう(七月二十三日・月曜日)は、大相撲記事も満載である。
 こんなことで驚くなかれ! なんときょうの朝日新聞朝刊は、スポーツ面に五ページも割いていた。平和と言えば確かに平和な記事ではあるけれど、日本列島は西日本豪雨の復旧作業の真っ最中にある。同時に、日本列島は猛烈な暑さに見舞われて、熱中症で死亡者も出ている。さらには、熱中症として病院へ搬送される人たちが暇(いとま)なく出ている。こんなことを浮かべれば、平和な記事もほどほどでいいのかもしれない。
 二年先の「東京オリンピック」(2020年)に思いを馳せれば、あす(二十四日)はその開会式の予定日である。時節柄、こんな暑い最中にあっては成功が危ぶまれるところである。全国の高校球児は、本大会(甲子園大会・八月五日開幕)への代表権を勝ち取るため、暑い夏をいっそう熱く戦っている。このため、関心地域や関心校の敗退にもかわらず、応援しなければならない。とりわけ、西日本豪雨地域の代表校には、応援しなければならないであろう。まだまだ、関心を退(ひ)くわけにはいかない。しかしながら、ちょっぴり異質の関心事に成り下がっているのは、ほとほとつらいところである。

夏の朝 

 文章を書き終えたら、道路の清掃へ向かう習わしがある。その時間の目安は、おおよそ朝の五時半近あたりである。この時間帯は、清々しい夏の朝に恵まれる。加えて、散歩ご常連の高齢女性と、挨拶を交わし合う楽しみがある。朝の散歩をする人たちは、すっかり顔ぶれが変ってしまった。現在、快く挨拶を交わし合うのは、高齢女性のお二方だけである。このことは、私にはかぎりなく寂しいことである。
 お二方とは、
「まだ歩いていらっしゃいますね。偉いですね。私の励みになります」
「そちらも、まだ書いておられるんでしょ?」
「はい。まだ書いています。今朝は、早く書き終えたもんだから、お会いしたくて下りてきました」
「そちらこそ、偉いですわ!」
「いいえ、奥様こそ偉いです! お互いに、頑張りましょう」
 出会えばほぼこんな会話の繰り返しで、足早に過ぎ去って行かれる。
 先日は異変が起きた。ヤングママくらいの女性が、ジョギングで近づいてこられたのである。(マラソンか駅伝のトレーニング中だな?)と、思った。そうであれば、走る流れを寸断するのは気が引ける。しかし、呼びかけた。
「何かの大会に出られるんですか? 私はマラソンや駅伝が好きです」
 すると、走りを止めることなく、「いいえ」、と言葉が返った。
「そうですか。速いから、そう思いました。それでも、市民ランナーですね。頑張ってください!」
 と、言った。
 悪びれることなく微笑まれて、走り去られた。確かに、呼びかけるのをためらった。だけど、お邪魔虫ではなかったようである。私はさわやかな気分で見送った。
 きのう(七月二十一日・土曜日)は掃除を終えると、これまた涼しいうちにと思って、庭中の草取りをした。しょっちゅう草取りをしている感じである。それでも、追っかけて茂ってくる。
 きのうは、新たな発見をした。夏草はカラカラ土壌ゆえに余計、元気よく茂るという事実である。私はカラカラ土壌であれば枯れる傾向へ向かうと、勘違いしていたのである。ところがまったく逆で、カラカラ土壌を得手にして、勢いよく伸び放題になっていた。雑草には、生き延びる知恵があるのであろう。ほぼ毎日水遣りしているにもかかわらずキュウリやミニトマトは、息たえだえである。私は手に負えない雑草の茂りから、あらためて生の尊厳を学んだ。半面、私は雑草のしつこさを通して、わが生の営みの弱さを知らされたのである。
 尻切れトンボに文章を閉じて、道路の清掃へ向かうこととする。壁時計の針は、五時半あたりをいくらかめぐっている。ちょっぴり遅くなり、ご常連のお二人には出会えないかもしれない。それでも、夏の朝の清々しさには出合えそうである。
 掃除を終えて、キーボードへ戻ってきた。追記を書くためである。ご常連のお二人には会えなかった。私の出遅れのせいである。ところが、ジョギング中のヤングママと思える人には会えた。いまだ若い独身女性なのかもしれない。勤務の無い休日にかぎり、トレーニング中なのかもしれない。走りながら向こうから、「おはようございます」、とさわやかに声をかけて走り去られた。清々しい夏の朝だった。

 カジノ法案

 夜中の十二時過ぎに起き出して、ひと騒動し再び寝付けず、そのまま起きている。就寝中に首筋をムカデに襲われ大騒動をし、寝る気が失せたからである。幸い刺されることはなかったけれど、逃げたムカデを探し出すことはできなかった。布団の中やあるいはどこかには潜んでいるかと思うと、怖くて寝る気が殺がれたのである。首筋を蜂に刺された部位は、あのまま突起し固くなり、いまだに不快感を残したままである。そのあたりをこんどはムカデに刺されたら、文字どおり泣き面に蜂である。
 電燈の周りには羽虫が飛んで来る。そして、髪の毛や首筋に落ちてくる。これに脅かされると、これまた不快感きわまりない。それを防ぐため、一考を案じた。このところの私は、幅広の麦わら帽子をかぶりキーを叩いている。図体太身(ずうたいふとみ)の私は、なさけないことにはちっちゃな虫けらどもの恐怖に晒されて、日夜怯(おび)えている。再び寝床に就きたくないため、たっぷりと時間がある。このため、メディアの伝える配信ニュースを読み尽くした。それらの中ではきのうに続いて、カジノにまつわる記事を素通りすることはできない。同時にこの記事は、わがきのうの思いとピタリ符合するところもあるから、引用を試みている。符合するところは、まさしく「それどころでは…」ないだろう。
 <カジノ法成立 それどころでは…被災地では嘆きの声>(毎日新聞 7月21日00時38分)。カジノを含む統合型リゾート(IR)実施法が成立した20日、大阪や和歌山など誘致を目指す自治体は歓迎を表明する一方、治安の悪化やギャンブル依存者の増加を懸念する市民からは批判が相次いだ。「正直それどころではない」。 猛暑の中で捜索や片付けが続く西日本豪雨の被災地では「政治は一体、どこを向いているのか」と嘆きの声が聞かれた。「広島の被災は遠い話なのか……」。この日も厳しい日差しが照りつけた西日本豪雨の被災地。土石流で住民が死亡した広島市安芸区矢野東7でクリーニング店を営む湊宏子さん(75)には、法案を必死に通そうとする政治家の姿がそう映った。豪雨で自宅兼店舗は浸水、店は営業を再開したが避難所生活が続く。「パチンコはするがカジノは動く金額が違う」。実施法には反対だが、今は生活を取り戻すのに必死だ。(記事の一部を抜粋)。
 なんで、博打誘致を急ぐのか。いや、カジノは必要なのか。「それどころでは…」ないだろう。 

 はがゆいこと

 日本国民は、昼も夜も熱中症に脅かされているという。台風十号が、今週末あたりに沖縄諸島を襲いそうという。きょうは、「土用の丑の日」(七月二十日・金曜日)である。土用の丑の日は、八月一日にも訪れという。シラスウナギが減少を続けているせいで、ウナギの値段が高騰しているという。西日本豪雨の復旧作業の困難と被災者の困惑は、頂点にあるという。テレビ画面には連日、高気温地方や地域の行政名が止めどもなく流れてくる。その地方にあってきのうは、最上位に京都、次にはふうちゃんの住む枚方市(大阪府)、そしてなんと三番目に菊池市(熊本県)が表示された。
 かつてのわがふるさと名・鹿本郡内田村は、隣村菊池郡城北村との合併により、双方の名をとり菊鹿村と名を替えた(現在菊鹿町)。私は友を気遣い、ふるさとの暑さを気遣った。ふるさとの甥っ子にふるさと電話を入れた。
「今、高気温のところに菊池市が三番目にある。暑いだろう?」
「暑くて、外には出られんもんじゃけ、部屋の中におる」
「そうか。暑いだろうね」
「だけど、うちの者(奥方)は、あしたから孫四人を連れて、京都へ行くことにしている」
「京都、なんでや?」
「孫の一番上の男の子が、京都の大学を見に行きたいと言うから、二人の息子の二人ずつの孫を連れて、行くことにしている」
「京都や、今、暑いところの一番上に、39・8度とあるよ。暑かろうねー。大学のオープンキャンパスを見に行くのだろうね…」
「そうかもしれんばってん、京都は暑かろうなー…」
 現下の日本列島は、高気温と暑さのもたらすニュース、西日本豪雨の惨状を伝えるニュースに覆われている。その上に、台風十号接近のニュースが加わったのである。まさしく現下の日本列島は、国民がうろたえている非常事態にある。
 ところが、日本国民の混乱状態の隙をついて、国の舵取りを託す国会からこんな馬鹿げたニュースが伝えられたのである。
 <カジノ法案、20日に成立へ…与野党の攻防激化>(2018年7月19日23時37分 読売新聞)。「カジノを含む統合型リゾート(IR)実施法案は19日の参院内閣委員会で、自民、公明両党と日本維新の会の賛成多数で可決した。20日の参院本会議で可決、成立する見通し。会期末が22日に迫る国会の攻防は激化しており、野党は20日に内閣不信任決議案を衆院に提出する。19日は内閣委のIR実施法案採決に先立ち、国民民主党など3党2会派が伊達参院議長の不信任案を参院に提出し、審議が一時中断した。与党はその後の参院本会議で不信任案を反対多数で否決し、内閣委を再開して採決に踏み切った。与党はIR実施法案を参院本会議に緊急上程し、19日中に成立させることを一時検討した。しかし、国会運営が強引だとの批判を避けるため、先送りした。」
 博打(ばくち)誘致に、何のメリット(利益性)があるのか。国政はよってたかって、国民そっちのけの火事場泥棒の振る舞いを続けている。私は、はがゆくてしかたない。

 暑い夏

 日本列島の夏に、猛暑が見舞っている。テレビ画面には連日、高気温地域を示すテロップがひっきりなしに流れてくる。私は、それを観ながら未踏の地域名を学んでいる。しかしながら、テロップで流れる高気温地方や地域はほぼ固まりつつある。よく流れる都道府県名で言えば、栃木県、群馬県、埼玉県、愛知県、三重県、岐阜県である。高気温は、これらの中の特定地域が際立っている。これらに加えて、西日本豪雨に見舞われた地方や地域の高気温状況がアナウンサーの声で付加される。同時に、熱中症への警告や、実際にそれによる死者の数、病院への搬送者数が付加される。まさしく日本の夏は、高気温恐怖の坩堝(るつぼ)と化している。
 ところが、日本列島は夏にかぎらず年から年中、雨、風、雪、さらには日照りなどの異常気象に加えて、地震、雷、竜巻、雹、霰、などの天変地異の恐怖に晒されている。普段は風光明媚(ふうこうめいび)と謳われる山際や海辺には、常に土砂崩れや津波の恐怖が同居している。あらためてこれらのことを浮かべると、日本列島には気分オチオチヤスヤスと、住めない思いつのるばかりである。もちろん、今さらこれらの恐怖に慄(おのの)いても仕方がない。なぜなら、すでに七十八年も住んできているから、日本列島の恩恵は計り知れないものがある。
 確かに、異常気象や天変地異のもたらす恐怖は、日本列島につきまとう災害列島の名にふさわしい不運ではある。しかしながら一方、日本列島は四季折々に異なる自然景観はもとより、心地良い気候や風物詩をもたらしてくれる。確かに、昼間の高気温には辟易するけれど、夏の朝や夕暮れの風の心地良さは格別である。夏の盛りすなわち炎天下、全国高校野球選手権大会(夏の大会)の地方予選は、夏の風物詩として文字どおり熱い戦いの最中にある。日本列島にあって夏の高気温と暑さは、あたりまえと思う気分の余裕がほしいところである。
 それを逆なでもするかのように流れるテロップ、そして暑さをことさら聞き出そうとする街頭インタビューは、私には要らぬことのように思えるところもある。
「日本列島に暑い夏が続いています。熱中症にご注意ください。熱中症の予防には水分を多くとったり、エアコンや扇風機をうまく利用してください」。
 へそ曲がりの私は、これくらいの情報でいいのではないかと、思う。
 古来日本人は、暑い夏の過ごし方は知りすぎている。庭先の打ち水、さらには団扇、扇子、お茶の子さいさいである。私には夏を毛嫌いするのはほどほどに、という思いがある。暑い夏をしのぐ暮らし方はいくらでもある。暑い夏ゆえに楽しめる暮らし方もいくらでもある。言うなれば暑い夏は、人間固有の知恵の比べっこでもある。私は暑い夏礼賛である。身体は猿股一つでも構わず、網戸から夏の朝の心地良い風が上半身裸にあたっている。しかし、西日本豪雨の復旧作業に勤しむ人たちにだけには、暑い夏礼賛はとことんかたじけない。

 夏、雑感

 何度書いても書き足りない、西日本豪雨が見舞った悲惨な光景である。炎天下の復旧作業の様子がテレビに映し出されると、一雨欲しい思いである。ところが、この願望は再度の洪水や土砂崩れを招く恐れもあり、そのことでは願ってはいけないのかもしれない。だから、いっそうつらい光景である。
 このところのテレビ画面には、日本列島各地の高気温状況がテレップで流れ続けている。西日本豪雨被害をおもんぱかれば、憚(はばか)れることだけれど、それでも一雨欲しいところである。しかしながら大雨は望まず、望むのは日照り雨か、しばらく降ってさっと去る夕立くらいである。しかし天界は、私が望むがこんな粋な芸当をするあてはない。そうであれば西日本豪雨をかんがみていましばらくは、雨無しの日照りに耐えるべきなのであろう。
 道路の清掃へ向かうと落ち葉は、水気をまったく失くしてカラカラ状態にある。もちろん、庭中の土壌もまたカラカラに乾ききっている。六本立ちのミニトマトは日々のわが水遣りにより、やっとこさ立ち枯れを忍んでいるありさまである。ところが、夏草だけはむしろ土壌の渇きを得てして茫々と茂っている。この光景を見ると私は、苦々しい思いをたずさえている一方で、それらの生命力の強さに驚嘆しきりである。わが弱い精神力は雑草の生命力の強さに、ほんのちょっぴりでもあやかりたいところである。
 庭中の夏草のみならず、視界の中でわが夏の到来を告げているものには、日に日に彩りを鮮やかにしているサルスベリ(百日紅)がある。ほぼ六メートル道路を挟んで、空き家を取っ払った空き地に残された植栽には、紅色の花のサルスベリの木が立っている。この先、九月の中ほどまでは、私の好むサルスベリ風景にありつける。もちろんこの恩恵には、やがては日々落下をきわめ始める無数の花びらの清掃という、恩返しの行為が強いられてはくる。それでも、主(あるじ)を失くしたサルスベリの風景には言いようのない寂寥感(せきりょうかん)があり、私は不平不満をこぼすことなく清掃に明け暮れる。空き家や空き地の風景は、いずれわが身という、思いもあるからであろう。
 季節は、夏至(六月二十一日)からまもなく一か月がめぐってくる。この確かな体感は、このところの日の出の遅さと夕暮れの早さである。夏の夕暮れの中にあってわが夫婦には、ひとしきり意識して愉しむ習わしがある。それはどこかしこを網戸にしたままに、部屋には明かりをつけないで、夕涼みの真似事をすることである。この習わしは、わが夫婦の夏の醍醐味の一つである。もちろん、こんなとき地震でも起きれば、たちまち狂乱状態になる。
 七月十八日(水曜日)、のどかに夏の夜明けが訪れている。小雨の気配や兆しのない、朝日輝く夏空である。きょうの私は、木陰を選びながら卓球クラブの練習に向けて、坂道を下って行く。本音のところは、一雨欲しいところである。もちろんびしょ濡れではなく、ちょっと降ってすぐに止む小降りである。

畏敬つのる、炎天下のボランティア活動 

 七月十七日(火曜日)、三連休明けの夜明けが訪れている。きのうは「海の日」(七月十六日・月曜日、休祭日)だった。日本列島各地は、気温の高い日に見舞われた。その様子を伝える記事から、一部を抜粋すればこう書かれている。
 <岐阜・揖斐川で39.3度 186地点で35度超える>(2018年7月16日21時52分 朝日新聞デジタル)。「全国各地で厳しい暑さが続く中、3連休の最終日となった16日も朝から気温が上がり、岐阜県の3地点で39度超を記録した。西日本豪雨の被災地を含む186地点では、午後5時までに最高気温35度以上となる猛暑日となった。」
 この記事に併せて、私は次の配信ニュースの引用を試みている。実際のところは三連休にもかかわらず駆けつけて炎天下、被災地および被災者応援に勤(いそ)しむボランティア(無償奉仕活動)の人たちにたいし、かぎりなく畏敬がつのるためである。もちろん、災害列島すなわち日本社会にあって、こんな眩(まぶ)しき人たちが存在することを肝に銘じて、その行為を崇(あが)めずにはおれないからでもある。
 <連休中、延べ4万人のボランティアが支援=不明20人、死者210人―西日本豪雨> (7/16・月曜日、13:04配信 時事通信)。「全国社会福祉協議会によると、14日からの3連休中に、被害の大きかった広島、岡山などを中心に被災府県に延べ約4万人が集結。仕事の都合で引き揚げる人は悔しさもにじませたが、被災者からは感謝の声が上がった。これまでに死亡が確認されたのは13府県で210人。安否不明者は20人で、懸命な捜索が続いた。各地で復旧作業も進み、岡山県倉敷市の真備町地区のうち、小田川の南側1300戸で16日正午に断水が解除された。同協議会によると、2014年8月に起きた広島市土砂災害で全国から集まったボランティアは2カ月間で約4万6000人。今回は、3日間でこれに及ぶ人数で、担当者は『復旧には時間がかかり、まだ必要だ。被災地に気持ちを寄せていただき、息の長い支援を』と呼び掛けている。16日に集まったボランティアは約1万人。倉敷市真備町地区や広島県呉市などで作業を続けた。真備町箭田の女性(83)は大きなごみを運んでもらい、『これで親戚に部屋を洗ってもらうだけ。本当にありがたい』と感謝。一方、東京から支援に駆け付けた菅一菜美さん(32)は17日から仕事のため、被災地にとどまれない。『きょうしか来られなかった。また来たいが距離の問題で難しい』と悔しそうに話した。気象庁によると、16日の最高気温は倉敷市で36.1度(今年最高)、広島市安佐北区で35.1度、愛媛県大洲市で35.5度を記録。同庁は引き続き熱中症対策を取るよう呼び掛けている。総務省消防庁によると、16日正午時点で約4870人が避難所での生活を余儀なくされている。」
 ボランティアの人たちの善意は、いくら崇めても崇めすぎることはないだろう。常にボランティア精神を保持する人たちは、被災地のみならず日本社会の浄化に励む人たちと言っていいだろう。そのためその崇高(すうこう)な精神は、日本社会に実在する神様とも言えるであろう。ありがたいことにはボランティア精神が根づくどころか、その志をたずさえる人たちは年々増えているという。天災および人災多い日本列島にあって、確かな光明である。しかし、私はその仲間に入れず手を拱(こまぬ)いている。その罪滅ぼしには、それらの人たちへひたすら畏敬をつのらせるばかりである。 

誕生日の備忘録 

 誕生日(七十八歳)明けの「海の日」(七月十六日・月曜日)。なんだか、気分が重たい。夜明けの空を見るかぎり、これまた西日本豪雨の被災地と被災者の人たちにはまことに恐縮だが、三連休は海や山への行楽日和である。
 きのうの私と妻は、JR横須賀線大船駅(鎌倉市)から、下りのJR横須賀線に乗車した。電車の行き先は、JR逗子行きだった。大船駅の先からは、JR北鎌倉駅、JR鎌倉駅、そして終着逗子駅(逗子市)へと下って行く。北鎌倉駅周辺の物見遊山は、鎌倉五山(円覚寺、建長寺、浄智寺、そして寿福寺、浄妙寺)のうち、前三山(寺)をめぐる歩行である。鎌倉駅と逗子駅に降り立つ人たちは、われ先に鎌倉の海と逗子の海を目指す海水浴客たちである。車内は、冷房の効き目が緩むほどに込んでいた。
 電車が北鎌倉駅に停まると、まばらにおとなたちが降りた。鎌倉駅では若い人たち、子どもを連れ添った家族が一斉に降りた。逗子駅では、車内に残ったすべての人たちが降りた。鎌倉駅と逗子駅に降り立った人たちは、明らかに海水浴客だった。私と妻は逗子駅で下車したものの、停車中のJR久里浜(横須賀市)行きへ乗り換えた。途中のJR横須賀駅前における娘家族(三人)との出会いの約束時間は、正午(十二時)だった。
 きのうの私たちは、娘の連れ合いが運転する車で、横須賀駅前から東京都国分寺市へ向かったのである。目的は、国分寺市に住むわが次兄宅への訪問だった。行きには三時間ほどがかかり、三時近くに着いた。次兄宅には一時間ほど居て、帰途に就いた。途中、ファミレス「夢庵」で夕食を摂った。そのせいでわが家には、ほぼ四時間半のちの午後八時半頃に着いた。娘たちは私たちを送り届けると、横須賀市内の自宅へ向かった。おそらく娘たちの帰宅は、一時間のちの九時半あたりであったろう。
 きょうの文章は、まことに身勝手ながらわが誕生日における行動の備忘録である。かたじけない思いつのるばかりである。一つだけ付加すれば私は、夢庵ではこの夏初めてのかき氷を食べた。次兄家族は、私たちの訪問を待って大歓迎してくれた。心に残る誕生日だった。それなに、目覚めて気分が重たいのは、なんたる罪作りであろうか。ほとほと、もったいない。心地良い、旅の疲れであったはずである。

 誕生日

 このところの私は、生きることに押しつぶされそうになっている。就寝中、一度目覚めると、再びは寝付けない。過去の悔いごとや、この先の不安が心中を脅(おびや)かすからである。なさけない。こんなことを書くようでは、文章を書かなければいい。実際のところこんな精神状態では、文章は書きたくないし、おのずから書けない。きょう(七月十五日・日曜日)は、わが七十八歳の誕生日である。ところが、こんな心境にとりつかれて、そのうえ恥晒しをかえりみず吐露している。
 わが精神は、常に泣きべそ状態にある。生来の「身から出た錆」、私は根っからの弱虫である。二度寝ができず精神状態ままならないため、私は階下へ下りて朝刊を取ってきた。朝刊に、精神安定剤の役割を託したのである。すなわち、みずからの文章は擲(なげう)って、朝刊の記事に救いを求めたのである。すると、一面記事の大見出しには、「暑い被災地 温かな心 ボランティア続々と」と、書かれていた。記事の一部を抜粋すると、こう記されていた。「全国各地で厳しい暑さとなった三連休初日の14日、西日本を中心とする豪雨災害の被災地には多くのボランティアが集まった」。
 被災者の悲しみは極度にある。それを支え、助け合うボランティア(無償奉仕活動)の人たちの心意気は、神々(こうごう)しいばかりである。まさしく、人間社会は共生社会である。するとこの記事は、メソメソとするわが弱虫精神に、一時的とはいえカンフル剤を打ってくれたのである。
 あすは「海の日」(七月十六日・月曜日)の祭日である。「七月盆」の真っただ中でもある。三連休は、よかれあしかれ人の営みを映して過ぎてゆく。現実には被災者でもない私が、さまざまな不安に駆られて、身を窶(やつ)すのは愚の骨頂である。馬鹿げているし、もちろんもったいないところもある。わかっちゃいるけど、生きることは、わが身には荷が重すぎる。誕生日にあっての、なさけないわが繰り言である。健康体だけが取り柄で、精神力はまったくの惰弱(だじゃく)である。もはや消費期限すれすれの誕生日にあって、こんな文章を書くようでは、とことんなさけない。やはり、きょうの文章は擲つべきだったのかもしれない。
 わが誕生日は、母の没年(昭和六十年・一九八五年)の命日でもある(享年八十一歳)。母の面影が沸々とよみがえっている。私は生き続けなければならない。

日本列島、悲しみの中の「七月盆」 

 西日本豪雨の惨状に気をとられているうちに、七月盆が訪れていた。きのう(七月十三日・金曜日)は迎え日で、きょうは(七月十四日・土曜日)はお盆のさ中にある。七月盆の習わしにある被災地や被災者は、まったく予期しない悲しいお盆を迎えている。もちろん被災地や被災者たちは、お盆行事すなわち先祖の供養やお墓参りとて出来るわけがない。それより、仏壇やお墓さえ姿を留めていない人が多いはずである。それよりなにより被災地の多くの人たちは、突然に肉親を亡くしたり、いまだに行方不明にさらされて、茫然自失悲しみのきわみにある。これらの人たちはもとより日本列島には、抗(あらが)うことのできない憎々しい天災のもたらした惨禍に遭って、七月盆が訪れている。それでも人は、日常生活を絶つことはできない。茹だるような炎天下、被災地や被災者の人たちは、悲しみをじっと堪(こら)えて復旧作業に大わらわである。
 テレビニュースの映し出すこの光景に見入ると、私は居たたまれない気分に襲われる。だからと言って私には、同情さえ憚(はばか)れる思いがある。なぜなら私は、何一つ手助けできない生きる屍(しかばね)にすぎない。このため、実際にボランティア(無償奉仕)活動に駆けつけている人たちの姿は、神々(こうごう)しいばかりである。今年(平成三十年・二〇一八年)の日本列島は、私自身が七月盆の入り日に気づかないほどに、西日本豪雨の惨禍に見舞われたのである。
 古来、日本社会にあっては「盆と正月」と、言われてきた。すなわち、日本社会にあってのお盆は、人々の暮らしの中にあっては正月と双璧を成してきた大事な営みである。なかんずく私の場合は、正月をしのいで心に残るわが家の営みだった。実際にもわが思い出づくりには、正月をしのいでいた。
 子どもの頃の私は、迎え日と送り日(七月十六日)には、母に連れられて墓参りに出かけていた。わが家の墓は、歩いて二十分ほどの野末の小さな丘にある。墓参りの持参物は、水を入れた薬缶、蝋燭、線香、庭帚、マッチ箱、そして花坪(花壇)から摘んだ名知らずの草花だった。草花は、幾重にも古新聞にくるまれていた。なぜなら古新聞は、墓場では火の焚き付け役割を兼ねていたからである。盆の間の仏壇には、母手作りの団子類が供えられて、絶えず蝋燭が灯(とも)されていた。仏壇のある座敷(板張り)には、いくつかの盆提灯が天井から吊るされていた。
 七月盆のさ中の十五日(昭和十五年・一九四〇年)は、わが誕生日である。ところが、のちのこの日には、母の命日(昭和六十年・一九八五年)が重なったのである。おのずから私の場合は、七月盆の入り日は決して忘れるはずもない日である。ところが、西日本豪雨の惨状は、それを忘れるところまで、追いやっていたのである。

「復興五輪」と言えるのか  

 蜂刺されの部位は、ようやく不快感が遠のいた。ところが、部位は膨らんだままで、くしこりとなっている。周辺を指先で抓(つま)むと、いまだに痛みがぶりかえす。こんな些細(ささい)なことを何度も繰り返し書くのは、たった一匹だったにもかかわらず、蜂刺されの恐怖が冷めやらぬためである。蜂にかぎらず虫けらと言えど、みずからの命を守るためにはこんなにも必死なのかと、あらためて驚かされている。このことは、わが弱虫の裏返しでもある。
 一方、何度か書き記してきた腓(こむら)返り(カラス曲がり)は、現在は遠のいている。こちらは勿怪(もっけ)の幸い、すなわちありがたいことである。なぜ? だろうと、自問自答を試みている。すると、同郷の同級生、二人のサゼスチョン(示唆)とピタリと符合する。カラス曲がりの防止には、ふうちゃん(大阪府枚方市ご在住)は下半身を毛布でくるんで温めればいいよと、アドバイスをしてくれた。そしてマーちゃん(熊本市水前寺町ご在住)は、寝る前に水をたくさん飲めばいいよと、これまた教えてくれた。すると、夏到来の現在の私は、寝る前にかぎらず昼日中から水はやたらと飲んでいる。一方、下半身は、おのずから薄い掛布団など、無意識にはねのけるほどに温まっている。まさしくお二人のアドバイス(助言)は、ピッタシカンカンである。カラス曲がりの遠のきは、お二人の助言を映した季節(夏)の恩恵と言えそうである。
 夏にあって私は、夏痩せ願望を実践中である。ところが、こちらは自助努力にすがるものだけに、いっこうにその兆しは見えない。いまだ500グラム減さえ果たせずじまいである。いや実際のところは、水菓子やアイスクリーム、はたまたアイスキャンデーをむさぼり、ときには(また、太ったかな?)と感じて、気分の滅入に襲われる。意識して大好きな西瓜は我慢しているけれど、腹部はまん丸の西瓜腹である。すると、(病気で痩せるより、まあいいか!)と、自嘲気味に自己慰安(やせ我慢)をするなさけなさである。もちろん、こんなことで一喜一憂をすること自体、このたびの西日本豪雨の被災者の苦難をかんがみれば、非難囂囂(ひなんごうごう)をこうむるであろう。テレビニュースのたびに映像に現れるのは、茹だるような炎天下、復旧作業に大汗タラタラの人の姿である。もちろん、神々(こうごう)しいというには罰が当たる、悲惨きわまりない光景である。
 一方、きのう(7月12日・木曜日)のテレビニュースは、近づく「東京オリンピックおよびパラリンピック」(2020年)における、聖火リレーのルートのことを華やかに伝えていた。そしてそのスタート地点は、「東日本大震災」(2011年3月)の最大の被災地・福島県と、伝えられていた。しかしながらへそ曲がりの私には、今なお空々しく思えていることがある。それは、今回のオリンピックに「復興五輪」という、冠がついていることである。なぜなら、私にはこのキャッチフレーズ(冠言葉)は、関係者のとってつけた独りよがりに思えているからである。
 東日本大震災以降も日本列島は、数々の天災をこうむっている。そして、被災者の多くはいまだにその傷癒えないさ中にある。熊本地震、鳥取地震、直近では大阪地震などがある。豪雨災害では、広島、そして去年は福岡県を中心に「平成29年豪雨」と記録され、続いて今年は「平成30年豪雨」と、記されたばかりの豪雨被害の真っただ中にある。「復興五輪」と嘯(うそぶ)くのは、ちゃんちゃらおかしい日本列島の現状である。もはや、開催の返上はできないけれど、スポーツ好きの私でさえ、端(はな)から東京オリンピック不要論をたずさえていた。ところがこのところの私には、ますますその思いはつのるばかりである。わずか二週間程度のお祭り気分で、被災者の気分が和むわけでもない。いやむしろ、居たたまれない気分がいや増すであろう。
 現下の日本社会は、舵取りとほざく為政者のせいで狂っている。もちろんそのしこりは、日本社会にこの先長く残るであろう。わが蜂刺されの痛みとは、桁外れに大きな日本社会の痛みになりそうである。日本列島の惨状を顧みず、「復興五輪」と、のほほんと嘯く人たちは、馬鹿じゃなかろか!……、わが下種(げす)の勘繰りである。