ひぐらしの記
 
前田静良 作 


 2014.10.27カウンター設置
以前の作品は右掲載の単行本に収録しました。
 
内田川(熊本県・筆者の故郷) 富田文昭さん 撮影 

 林檎

 桃、葡萄、林檎、栗、蜜柑、柿、プラム、バナナ、サクランボ、などの果物が大好きな私にとって、売り場でそのたびに戸惑うのは林檎である。大好物の西瓜は、果物なのかそれとも野菜なのか? 私は今なお迷っているところがある。
 インターネット情報は現代社会における文明の利器である。私はキーを叩くのをしばし中断し、インターネット上の人様の学習と知恵を閲覧した。世の中には、私にかぎらずこの区別に迷っている人はいっぱいいるようである。なぜなら、わが疑念にたいする答えが真っ先に記されていた。
 【スイカは野菜であり果物でもある。】「では、スイカは野菜と果物のどちらに分類されるのかということですが、実はスイカは分類上では野菜になります。しかし、みなさんもご存知のようにスイカは、果物として利用をされることが多いことから、単なる『野菜』ではなく『果実的野菜』として扱われています。果実的野菜とは、なんとも曖昧な表現ですが、これは農林水産省により定められているのです。つまり、スイカは野菜でもあり果物でもあるのです。農林水産省によると、野菜と果物の分類にはっきりとした定義はありません。生産や流通などそれぞれのラインによって、決め方が異なってしまいます。例えば一部の卸売市場では、スイカは野菜として出回っていますが、八百屋やスーパーでは消費者が消費する形態に合わせて、スイカは『果物』として扱われているのです。ちなみにスイカは英語で『Watermelon』(ウォーターメロン)ですが、メロンもスイカと同じく『果実的野菜』として扱われています。」
 私だけが阿呆ではなく、人みなを阿呆にするような曖昧模糊とした農林水産省の見解である。
 さて、文章をもとの筋へ戻すと、昔とは違ってこの頃の売り場には、果物にかぎらず野菜や山菜にいたるまで産地の表示がある。まさしくこのことは、たいへん有意義な消費者サービスである。なぜなら私は、産地表示を見ながら未踏の地方や地域に親しみをおぼえている。また同時に、生産者の苦労を偲んだり、慮(おもんぱか)ってもいる。もちろんこれは、私自身が三段百姓の出のゆえんである。とりわけ西瓜などには、生産者の顔写真や電話番号までもが、貼り付けられるまでにもなっている。すなわち、信頼を得るにはさまざまな工夫が苦心されている。
 私は、わざわざ「あまり美味しくなかったですよ!」などと言って、下種(げす)な電話をかけることなどはもちろんしない。しかし、一度はふるさと産西瓜の購入にあって、「とても、美味しかったですよ!」と言って、電話をかけたことがある。人様からさずかったわがうれしいことは、先方に伝える義務があろう。見ず知らずの受話器の中のお声は、思いがけない電話に明るく弾んでいた。電話をかけたわが一つの目的は、十分に叶えられたのである。しかし、本当のところそれを上回るわが真意は、苦心惨憺されている生産者への勇気づけだった。すなわち、あなたが作られた西瓜が鎌倉の売り場で、買い物客の人気を得ていることを告げたかったのである。もちろん、このことも言葉にした。
 再び脱線した文章を軌道に戻せば、売り場において林檎選びに戸惑うのは、今や林檎の品種の多さにある。確かに、林檎以外の果物も品種を異(こと)にするものはある。しかしながら、林檎に比べればそう多くはない。かつては、実の硬いものでは「国光」、逆に実の柔らかいものでは「紅玉」くらいの知識で、二者択一の品選びは十分だった。ところが、この頃の林檎選びは、もはやこんな半端(はんぱ)な知識では用をなさなくなっている。
 私はいつもの習性に倣(なら)い、長々と書き殴りの文章を記した。結局、この文章の目的は、林檎の品種選びの中でどなたかに、体験上の林檎の美味しさの品種を教え乞うためであった。もちろん、売り場の林檎の一つひとつを買って、品種の味を確かめることにはわが財布がもたないという、ケチな自己都合のせいである。

秋の夜長のつれづれ 

 インターネット上のブログに書き続けている「ひぐらしの記」の題材(ネタ)には、おのずからさまざまな自己規制を強いられている。このことはすでに何度か書いたけれど、それはバッシングや炎上を恐れているせいである。すると、題材(ネタ)は当たり障りのないものになりがちで、その挙句には同じような文章を何度も繰り返し書いている。もちろん、このことは(すでに書いたな!)と、そのたびに私自身が承知しているところである。確かに、承知しているから悩ましいところである。
 ひぐらしの記は随筆集と銘打っている。ところが、実際のところ多くの文章は、日記スタイルにわが身周辺の日常的な出来事にとどまっている。そのため文章の多くは、終始変り映えのしない似たり寄ったりのものに成り下がっている。これまた、わが悩ましいところである。結局、題材(ネタ)を自己規制し、そのうえほぼ毎日書き続けているひぐらしの記は、おのずから新味がなく書き手の私自身、うんざりしているところがある。もちろん、好意に読み続けてくださっている人たちには、かぎりなくかたじけない思いがつのるばかりである。
 さらに多くの文章は、わがマイナス思考の性癖が祟(たた)り、読んで気分の滅入る愚痴こぼしに成り下がっている。今さら言わずもがなのことだけれど、これまた十分承知しているところである。閑話休題、私は明るい題材(ネタ)探しを試みている。すると、この時季行き着くところはやはり、実りの秋の堪能(たんのう)である。現在、店頭では実りの秋のおりなすさまざまな産物が出回っている。わが日々の買い物行きつけの店は、おおむね「大船市場」、「鈴木水産」、そして「西友ストア大船店」(いずれも鎌倉市大船)である。大船市場は野菜と果物の安売り量販店、鈴木水産は海産物の量販店、そして西友ストアは首都圏エリアにある総合スーパー・チエーン店である。かつてはこれら三店舗に駄菓子屋が加わり四店舗を成し、バスを降りて歩く順に、大船市場、駄菓子屋、鈴木水産、西友ストアへと、回っていた。ところが現在、わがダイエット志向の憂き目に遭い、駄菓子屋は余儀なく外されている。しかし、生来意志薄弱の私の場合、この先ずっと外すことはおぼつかなく、現在の私は、駄菓子屋の復活に日々恐々するところにある。
 大船市場で実りの秋を先駆けて、旺盛をきわめているのは栽培物の果物類である。こののちは、野生の山菜も次々に並んでくる。松茸も並ぶけれど、私には手出し無用である。果物類に目が無い私は、おのずから有卦(うけ)に入っている。しかしながらこれにも、おのずから財布の事情という制限がある。だから、余儀なく目を凝らして、品定めとお金の釣り合いを強いられている。そのため、国内物と海外物の並ぶ選り取り見取りの中にあっても、実際に買うものは限られている。
 その選別のみずからの基準は、おおむね子どもの頃からの食べ慣れと郷愁、そして値段の安さである。この基準に照らすと、真っ先に外れるのは海外物である。次に、涎を垂らして食指をひかえるのは高価な物である。結局、わが買いの手が伸びるのは、食べ慣れて比較的安価な物で、そのうえできれば郷愁がワクワク湧き出る物にかぎられる。
 これらの選別基準で、これまでのところ実りの秋の筆頭に位置するものは栗である。わが家の場合、栗のレシピ(調理法)は、茹で栗、栗御飯、栗団子である。茹で栗はわが単独作業、栗御飯は妻の単独作業、そして栗団子は二人の共同作業である。これらの中でこの秋にかぎり特筆すべきは、すでに五度の栗団子作りを為している栗三昧である。五度ともなれば二人の栗団子作りの手さばきは、慣れて素早くなっている。栗御飯もすでに二度味わい、茹で栗はこれらをいくらか食べ飽きた頃へと、先延ばしになっている。なぜなら茹で栗は、手間暇要らずで容易だからである。確かに、栗こそ選別基準に合致するものの最たる一つである。中でも、栗山を生業(なりわい)の一つにしていた長兄を偲べば、郷愁は無限につのるものがある。年老いた長兄は、栗山仕事はやむなく無償で人様まかせにある。このこともあって私は、栗には余計に郷愁つのるものがある。いや、実際のところ栗は子どもの頃から食べ慣れて、かぎりなく賞味をそそられている。
 郷愁と賞味に駆られて、栗のあとに買い続けるのは蜜柑と柿である。言うなれば秋の果物において、わが買い物の順序は栗、蜜柑、そして柿である。いずれもふるさとのわが家の庭先に生っていて、いや増して郷愁にありつけるものだからである。梨も庭先になっていたけれど、なぜか後順位である。もちろんたまには買うけれど、梨は日持ちがしないため後順位に成り下がっている。これらよりさらに後順位になるのは、桃、葡萄、林檎である。賞味の点では、栗、蜜柑、柿、梨を凌ぐものがある。ところが、桃、葡萄、林檎がこれらに競り負けするのは、食べ慣れと郷愁の差であろう。
 このところの私は、三度続けて青森産の林檎を店所定の籠に入れている。林檎の表示には「さん津軽(サンつがる)」とある。テレビは、先回の台風のおりに青森産林檎の落下を報じていた。今、店頭に並んでいる「さん津軽」は、台風の直撃を受けた物であろう。なぜなら、いまだ真っ赤とはならず、値段も箆棒(べらぼう)に安く付けられている。私は生産者の嘆きをおもんぱかってというより、値段の安さに釣られて三度も買ったのである。ところが「さん津軽」は、生産者の嘆きが偲ばれるほどに美味しかった。
 実りの秋はわが食感を潤(うるお)すと同時に、ひぐらしの記の題材(ネタ)切れをすでに何度か防いでくれている。もちろん、他愛(たわい)無い題材(ネタ)は、バッシングや炎上にはまったく無縁である。一方で書き殴りには木っ端恥ずかしいところと、ちょっぴりこそばゆいところがある。

 「嗚呼、無情」

 夜明けが遅くなり、時間はたっぷりあるのにまったく書けない。私の場合、文章が書ける、書けないは時間的制約ではなく、精神状態の良し悪しに左右される。すると、このところの私は、精神状態に翻弄されて、やっとこさ書いているにすぎない。こんな身も蓋もないことを書くようでは、きょう(九月十八日・火曜日)は、やはり休むべきだった。
 実際のところ寝床の中の私は、固くそう決め込んでいたのである。冒頭にこれまで、なんどこんな恥さらしのことを書き連ねてきたことだろう。わが器の小ささと、てっきりお里の知れるところである。そして、そのたびに私は、「ひぐらしの記」の潮時に苛(さいな)まれてきた。ところが、そのたびに踏ん切りがつかず、継続だけにはありついてきた。しかしながら、現在の精神状態をかんがみれば、こんどこそ踏ん切りをつけるべきところにある。過去同様の心理状態である。
 踏ん切りをつけてプレッシャーを逃れて安楽をむさぼるか。だけど、踏ん切り後の空虚な心理状態に耐え得るか。これまた、過去同様の堂々めぐりに苛まれている。こんなことを書いていると、ふとこんな成句が浮かんだ。実際のところはなんらつながりの無いことだけれど、電子辞書を開いてその成句を記してみる。
 【創業は易く守成は難し】使い方:「新しく事業を興すよりも、それを衰えさせないように守っていくほうが難しい。」
 ひぐらしの記の執筆とちょっとだけ似通っているとすれば、それは始めたものの継続の難しさである。そして、絶えずそれにつきまとうのは、わがひ弱な精神力(状態)である。確かに、こんなことだけを書いておさらばするのは、とことん情けない。そのため、秋らしい話題を一つ添えて、文を閉じることとする。
 きのうの「敬老の日」(九月十七日・月曜日)にあってわが夫婦は、わが家の柿の実千切りを敢行した。小さな柿の木には、三十個足らずの実を着けていた。わが夫婦は、山に棲みつくタイワンリスと争って一つさえ残さず千切った。私は長柄の剪定鋏を手にした。妻は柿の木の下の道路上に雨傘を仰向けに広げて立った。わが家の柿の実千切りにおける、夫婦共々の定番風景である。同時に、このときのわが脳裏には、子どもの頃の柿の実千切りの風景がよみがえっていた。父は柿の実をめがけて長い竹竿を操(あやつ)り、母は柿の木の下で千切った柿の実を入れる目籠(めご)をたずさえていた。父と母の面影をともなって、和やかな風景が彷彿(ほうふつ)とした。仰いだ大空は、敬老の日を寿(ことほ)ぐかのような胸の透く日本晴れだった。
 わが胸中には、生涯学習の現場主義にしたがって、ひとつの成句が浮かんだ。【柿が赤くなると医者が青くなる】:「柿が赤くなる秋は天候が良いので病気になる人が少なく、医者は商売にならずに青ざめる。秋の快適な気候をいう」。
 日本列島には、きのうあたりから秋本来のさわやかな気候が訪れたようである。こんなおり、わが文章の表題は「嗚呼、無情」である。とことん、情けない。文章に行き詰まるたびに私は、ひぐらしの記の潮時に悩まされている。すなわち、「嗚呼、無情」である。

「敬老の日」 

 わが父は「敬老会」の案内がくると、「おれは行かないよ!」と言って、駄々っ子のように拗(す)ねていた。自分は、まだ若いという思いが強くあったのであろう。当時の村の集落の敬老会への案内は、六十五歳からだったか、それとも七十歳からだったか、の記憶は定かでない。遠い昔のわがふるさと時代の記憶だからである。わが誕生は、父の五十六歳時である。このためどちらにしても、わが児童あるいは生徒時代の不確かな記憶である。私は高校を卒業する(十八歳)と、ふるさとを巣立ち上京した。敬老の日が訪れるたびに、わが心中によみがえる甘酸っぱい思い出である。
 きょう(九月十七日・月曜日)は、平成時代最後の敬老の日である。現在、七十八歳の私は、みずからを敬老呼ばわりすることにはおこがましけれど、まぎれもなくお年寄りである。敬老の日は、日本の国民の祝日の一つである。現在、日付は九月の第三月曜日となっている。しかし、平成十四年(二〇〇二年)までは毎年九月十五日となっていた。ところが、平成十五年(二〇〇三年)から現行の規定となっている。祝日の日曜日との重なりを防いで、休日を増やすハッピー・マンデーの施策によるものである。ただ私の場合は、今なおこの日付変更にはなじめず、かつての一定日・九月十五日にこそ、しっくりくるところがある。このことではきょうの敬老の日も、日付的にはしっくりこないところがある。
 ところが、日本社会にあって敬老の日は、年年歳歳その意義や様相を替えている。それはわが下種(げす)の勘繰りからすれば、今や日本国民の多くが高齢の身にあるからであろう。すなわち、かつてのお年寄りは今や、一緒くたににはお年寄りとは言えなくなっているのである。その挙句、言葉や年齢の刻みのうえでもあやふやとなり、いまだに定まらずしょっちゅう揺れ動いているありさまである。国民の多くが敬老の身にあずかるようになり、かつて盛んに行われていた自治体や集落の敬老会も意味をなさなくなり始めているのである。幸か不幸か現下の日本社会は、敬老すなわち長生きしてお年寄りになるのは、あたりまえになりつつある。このため、ことさらに敬老を寿(ことほ)ぐこと、すなわち敬老会やそれに類(たぐい)する催しをすること自体、意義が薄らいでいるのであろう。日本社会にあって敬老の日はもとより、敬老の意義自体の様変わりぶりである。
 結局、高齢化を深める日本社会は、敬老の線引きに戸惑いを続けている。為政者や傍(はた)から、「敬老、必ずしもめでたくはありませんよ!」と、嘯(うそぶ)かれるようになっては、当人にとっても長生きは損々(ソンソン)である。長生きがうしろめたくなるようでは、確かに平成の世も末である。

ひとみな、終生の母恋慕情  

 購読紙・朝日新聞夕刊の金曜日には、わが愛読しているコラム記事が掲載されている。連載はこのたびで、二〇六回を数えている。書き手は女優の大竹しのぶさんで、コラムの名は『まあ いいか』である。大竹さんは先日、ご高齢のお母様を亡くされたばかりである。この点では読者のひとりとして、衷心よりお母様のご冥福をお祈りせずにはおれないものがある。娘・大竹さんの悲しみやつらさはいかばかりであろうと、察するところである。それでも大竹さんは、悲しみを堪(こら)えて連載を絶たずに書いておられていた。その文章の中に、いたく共鳴したしたところがあった。そのため私は、無断で原文のままに引用を試みている。共鳴とは、終生の母恋慕情である。
 引用文の掲載紙は、朝日新聞夕刊のおととい(二〇一八年(平成三〇年)九月十四日)の金曜版である。引用個所は、コラム末尾記載の次の文章である。「100歳で亡くなった新藤兼人監督の言葉を思い出す。『僕は今、95でしょ、それでもお母さんが恋しいです。お母さんに逢いたいです。お母さんとは、そういうものなのです』。私は死ぬまで、母のことを恋しく思うのだろう。それでいい。それがいい」。
 母思いは、妻思いとはまったく別物である。この時期の母は、わが子のために汗水たらして、栗団子作りに勤(いそ)しんでいた。今の私は、母のその姿を恋しがっている。

爽秋の候 

 「敬老の日」(九月十七日・月曜日)へ連なる三連休の夜明け(九月十五日・土曜日)を迎えている。窓の外は、きのうの朝同様に小降りの雨に見舞われている。このため、日課とする夜明けの道路の掃除は先送りとなる。初秋は、大した残暑もなく中秋へ向かっている。もちろん、残暑のない秋は、それなりにありがたいところはある。しかし、夏の早送りは、ちょっぴり未練が残る気分でもある。わが上半身は、すでに半袖から長袖に覆われている。確かな記憶ではないけれど、例年に比べれば早い装いの変化に思えている。こんなことはどうでもよいことだけれど、私は起き立てがしらに仕方なく書いたのである。
 寝床の中にあっては、きょうは書けない、と決め込んでいた。それは、長引いている鼻風邪と、薬剤の副作用がもたらしている筋肉痛と、加えてカラス曲がりに襲われて、気分が滅入っていたせいである。ところが、起き出すとこんどは、書かないことによる気分の滅入りが増幅して襲ってきた。しかし、こんな気分では、自作文は書けそうにない。そのため、適当なメディアの配信ニュース探しを試みた。ところが、それを探し当てることはできなかった。私は仕方なく書き出した。しかし、こんな実の無い文章を書くようでは、やはり休むべきだった。
 秋には文字どおり爽秋(そうしゅう)という、格別の季節用語がある。しかしながら、これまでのところ爽(さわ)やかな秋の実感はない。それは、わが身に照らせばうっかりしていて風邪をひいたせいである。一方、日本社会にあっては北海道を見舞った大地震をはじめ、日々ところを替えて地響きが起きているせいである。加えて、台風シーズンという悪名に違(た)わず、日本列島(国民)は台風発生のニュースには恐々とするばかりである。一週間のちには秋彼岸が訪れる。気候的には一年の中でも最もしのぎ易い季節の到来である。だとすればそろそろ、爽秋にありつきたいものである。
 店頭は早や実りの秋の真っ盛りにある。秋ならでは好季節を憂鬱気分で過ごすのは馬鹿げているし、もちろんもったいない。生煮えの文章には、ほとほと恥じ入るところがある。爽秋の候にあって、はなはだなさけない文章である。

物思いの季節到来 

 日常的に自分の姿は、鏡に映さないかぎり見えない。しかし、人様の姿は、わが目でじかに見ることができる。すると、わが年代(年齢)に近いと思える人は、出会うたびに容貌を老いの姿に変えている。もちろん、人様の目から見るわが姿もまったく同然である。まさしく、人様の姿を見てわが老いを実感する、せつなく、やるせない瞬間である。身近なところで、これほどわが身の老いを感ずるところはない。いや、もっと身近なところでは、茶の間の妻の姿を通してわが身の老いを感じている。
 点けっぱなしのテレビでは、かつての美男美女も老いの姿をさらけ出している。あまりの老いの姿を観るに忍びなく、リモコンを手にしてチャンネルを変える。確かに老いは、誰もが避けて通れない。だから、そう気にすることでも、そう気になることでもない、のかもしれない。しかし、やはり寂しい老いの現実である。こんな気分の滅入ることは、書くまでもない。人生は、どうもがいてもなるようにしかならない運命のいたずらである。そうであれば「ケ・セラ・セラ」と嘯(うそぶ)く、豪放磊落(ごうほうらいらく)さがほしいところである。ところが、実際にはわが身にそれがないゆえに、起き立ての胸中にこんなことが浮かんだのであろう。他意はないと言いたいところだけど、やはり本意なのであろう。身体内面(精神)はともかく、身体外面(外見)の老いは、隠しようなくさらけ出されてくる。これこそ、老いの現象であり、現実の姿である。
 初秋も中秋へ向かい、夜長は日々深まり行く。秋の夜長は、物想う好季節である。しかし、こんなことが先走るようでは、この先が思いやれるところである。ときには、爽快で愉快な物思いに耽りたいものである。結局、わが人生はない物ねだりの人生である。よくもわるくも、物思いの季節到来である。

玉石混交文 

 現在の私が日々遭遇することで、悩ましいことの一つは、薬剤のもたらす薬効と副作用の関係がある。服用中の抗悪玉コレステロールの薬剤は、わずかに一か月の服用にすぎないのに著効あらたかで数値を改善した。ところが一方、これまで数値に表れていなかった副作用数値が顕在した。あちらを立てればこちらが立たずで、私にはきわめて悩ましい問題である。このことでは私のみならず、匙を投げずに主治医先生も一緒に苦慮されている。その挙句に主治医先生は、副作用数値のほうを余計懸念されて、現在は薬剤服用の中断を指示されている。ところが、私はせっかく悪玉コレステロールの退治に著効を示したことがもったいなく、ひそかに服みたい気分に晒されている。加えて、薬剤費にしみったれの私は、実際にも一週間の中断の末に、主治医先生の指示を無断にはねのけて、恐るおそる服み始めている。
 薬剤の効果と副作用にかぎらず、物事には相反する現象がかぎりなく存在する。もちろん、それを示す言葉はかぎりなく存在する。すなわち、言葉のうえでは対義語(反対語)の構成を成している。ほぼ無限大にあるものから、わが心中に浮かぶままにいくつか記すと、長短、善悪、是非、好悪、などがある。
 九月十三日(木曜日)、きょうの文章はわが心中に浮かんでいる事柄を脈絡なく記すものである。実際のところこれらは、大げさな表現を用いれば幸不運混じる(玉石混交・混淆)成り行き文である。そして、幸運すなわち玉(ぎょく)と思えるものの一つには、僥倖(ぎょうこう)が重なっている。凡庸の私であっても僥倖の意味くらいは、勝手知っているところである。しかし、あえて電子辞書を開いてみる。僥倖:「思いがけない幸せ。偶然の幸運」。
 きのう(九月十二日・水曜日)の私は、いつものように夜明けまもない頃に日課の道路の掃除をしていた。その途中、運よく散歩めぐりのご常連のご婦人に出会ったのである。出会っただけでも幸運なのに、まさしく僥倖が付き添っていたのである。
 いつものように対面で、和やかに朝の挨拶を交わした。ところがご婦人は、いつもとは違って足早に先を急がれず、たたずみこう言われたのである。
「わたしに、毎日書かれているご本を読ませてください。ご本あるのでしょ?」
 私は喜色満面に即座に応答した。
「はい、いっぱいあります。読んでくださるのですか。うれしいですね。あとでお持ちします。お宅はどのあたりですか?」
「どのあたりと言われても、いまお借りすればいいです」
「そうですね。じゃ、走って帰り、すぐに持ってきます」
 私は踵(きびす)を返して走り、門口、玄関口を抜け、慌てふためいて二段跨(にだんまたぎ)で二階へ駆け上った。
 整理整頓なく堆(うずたか)い単行本・「ひぐらしの記」の中から、68集と69集の二冊を取り出した。それらに加えて、書棚から『さようなら物語』(立松和平・池田理代子:選。双葉社)を持ち出して、転げ落ちるかのように階段を下りた。このあとは一目散に駆けて、道路で待たれているご婦人のところに着いた。
「選ぶ暇もないので、とりあえず『ひぐらしの記』の二冊と、『さようなら物語』を持ってきました。さようなら物語は、弟を失くしたわが痛恨事ですけど、読んでみてください」
「そうですか。お借りします」
「すみません。お願いします。ほんとに、うれしいですよ」
 飛びっきりの僥倖であり、まさに玉の筆頭に位置するのであった。
 これに続く玉は、きのうには妻と共に三度目の栗団子をこしらえた。栗団子には、二度目の栗御飯も加わっている。栗団子には美味しさのみならずオマケで、想定外の二人でこしらえる和気藹々(わきあいあい)の利得にもありついている。
 一方、石(せき)と言えるものは、日を替えて訪れる通院である。具体的にはきょうには、歯医者通いがある。一週間のちの二十三日には、眼医者の予約がなされている。きのうには、飛び入りの風邪薬もらいの通院もあった。そろそろ、冒頭に記した薬剤服用の是非の診断を仰ぐための通院も待ち受けている。月が替わり十月になれば、またまた胃カメラ検査の予約日が記されている。
 いつもは石(いし)だらけ、すなわちマイナス思考の文であふれているけれど、幸いきょうは玉(たま)の文章を添えることができたのである。確かに、「めでたし、めでたし」である。
 まもなく、夜が明ける。僥倖は、欲張っても叶えられるものではない。一度だけでも遭遇できたのは、まさしく僥倖だったのである。

好きなものだけを食べる 

 九月十二日(水曜日)、例年であればいまだに残暑厳しい時期にある。ところが、昼間であってもこのところは、もはやそれを感じることはない。八月から九月へと月が替わって、体感的に気候は激変している。「秋めいて」という、季節用語を死語に追いやったかのように、すっかり秋が訪れている。厳しい夏の暑さに辟易していた頃をかんがみれば、もちろん歓迎すべきしのぎ易い秋の訪れにある。しかしながら私は、夏の暑さに未練がましいところがある。うっかりしていたら、本格的に風邪をひいてしまった。現在の私は、半袖のTシャツの上に慌てて長袖シャツを覆っている。風邪のせいで、憂鬱気分に陥っている。きょうには、風邪薬をもらいに余儀なく通院しそうである。こんなこともあってか、わが心中には(もう、寒くなるのか!)という、思いが渦巻いている。こんな思いを浮かべているのは、私自身が根っから寒さに弱く、とことんそれを嫌うためである。寒さは冬が引き連れてくる。つまり現在の私は、いまだ初秋にもかかわらず、中秋や晩秋を飛び越えて、冬の季節に怯(おび)えている。せっかくの秋の好季節にあって、先々の冬の季節に怯えるのは愚の骨頂、すなわち馬鹿丸出しである。
 実りの秋の訪れにあって、案の定、体重増加の兆しが見えている。夏痩せ願望の途絶もあって私は、その反動を恐れていた。ところが、その恐れは早くも現実になりつつある。私には実りの秋を棒に振ってまで、食の欲望を抑制する意志や能力はまったくない。連載中の新聞小説を読んでいると、その中に強い味方の一行があった。おおむね、こんなことだった。「八十歳になったら、からだに良いものを食べることなどしないで、好きなものだけを食べるつもりだ。あと何度、御飯を食べることになるかと、数えたことある?」。確かに、八十歳と言わずその近辺になると、生きるための体重コントロール、ダイエット、さらにはからだに良いものを選んで食べるなど、なんらの役立たずであろう。好きなものを食べたり、食べられたりできるときだけが、幸せなのであろう。今さら食の欲望を抑えて健康や長生きを願っても、なんらの効き目もないであろう。からだに良いからと言って嫌いなものを無理して食べるより、好きなものだけを食べることこそ、まさしくこの先のわが幸せの秘訣である。
 わが買い物の行きつけの店の一つで、野菜と果物の安売り量販店「大船市場」(鎌倉市)の店内は、もはや実りの秋満開で秋の果物満載にある。ハウスミカンを皮きりに産地ところを替えて、黄色に色づいた蜜柑が日々出回り始めている。桃、梨、葡萄、栗はすでに食べて、するとこんどは蜜柑にパクつき、次には大好物の柿が加わってくる。すなわち、好きなものを絞るには骨の折れる季節が訪れている。もちろん、あえて絞ることなく口が好むままに、食べれば済むことではある。
 「良薬は口に苦し」。薬にかぎらず苦いものをしかめっ面して、飲んだり、食べたりする年代は、とうに過ぎている。だれが、いや妻が何と言おうと、好きなものだけを食べる、わが人生で最良の幸せの時期が訪れているのかもしれない。ただ惜しむらくは、そんな機会は数えるほどになり、何度とはきそうもないことである。それに備えていくらか矛盾するけれど、通院して風邪薬はもらっておくべきであろう。なぜなら、好きなものだけを食べるにも、先ずは健康第一だからである。

ふるさと電話の感激! 

 この文章は、あまりにも私事ゆえに恥を忍んで書いている。それでも書かずにおれない、私的感激だった。
 先日、わが家の固定電話に、ふるさと電話のベルが鳴った。受信表示画面にはフルネームで、ふるさとの長兄の名が記されていた。こんなときにはほぼ決まって、妻が「パパ。お兄さんからの電話よ!」と言って、焦り気味に受話器を私に手渡すのが習わしとなっている。兄の名が刻まれたふるさと電話は、兄の異変ではない。それでも、ふるさと電話のベルは毎回、わが心をドギマギさせる。実際のところふるさと電話は、「便りがないのは良い便り」の範疇(はんちゅう)にある。長兄の名の電話、またそれ以外の名のふるさと電話にたいするわが第一声は、常に決まって「何かあったの?」である。なかでも、受話器を通しての長兄との会話は、両者共に極度の難聴のため隣近所に筒抜けるだけでなく、地響きするほどの大声になる。唯一の利点は受話器を下ろしたあとに、かたわらの妻に話の内容の説明を要しないことである。それでも、両者の耳に話の内容が伝わるのは、どれくらいであろうか。とりわけ長兄の場合は、私よりはるかにひどい難聴である。その証しに受話器の中の長兄の声の多くは、「しずよしだろだいね。そっちの声は、いっちょん、聞こえんもんね」の繰り返しである。そのたびに私は、いっそう大声を張り上げて、「しずよしたい!」と、言いまくる。それでも長兄は、「そっちの電話ん声は、いっちょん、聞こえんがねー」と、独りごちを言っている。ところが、わが耳にはそれが聞こえている。そのため私は、途方に暮れて泣きたくなっている。それでも私は、「しずよしたい! しずよしたい! 何かあったの?」と、大声で叫び続けている。このところのふるさと電話は、ほとほと切ない電話へと、なり下がっている」。もちろん、かつてのふるさと電話は、楽しいばかりだった。
 私は「ひぐらしの記」の単行本ができあがるたびに、すなわち初刊から直近の第71集『わが人生行路は茨道』に至るまで、長兄に送り続けている。言うなれば、ひぐらしの記は長兄の長生きを願って、ひたすら書き続けているようなものである。長兄の優しさは、十分に応えている。長兄は単行本が届くと、決まって「本が届いたよ。ありがとう。もう読み始めているよ。文子さんは、元気じゃろだいね。あおばちゃんたちも、みんな元気だろだいね。国分寺(次兄宅)のほうも、拝島(故三兄宅)、恋ヶ窪(故四兄宅)も、みんな元気だろだいね。国分寺とは電話をしたかばってん、あっちも耳が聞こえんから、電話でけんたいね。国分寺のことは、おまえにまかせるより、しよんなかたいね。もう一遍、行きたかばってん、もう行けんもんね。よろしく言ってくれ」「みんな元気です。わかった。国分寺も、どこも元気です。国分寺のことは、心配しなくてもいいよ。おれがときどき、行っているから」。
 このまえ、単行本を送ったばかりのとき、いつものように長兄は、
「きょう、本が着いたよ。ありがとう。これから、読むけんね。とてん、楽しみたいね!」
 と、電話をかけてきた。そのときの私は、「読まんでもいいよ。目が見えないのに、無理して読まんでもいいよ!」と、言った。長兄は難聴に輪をかけて目が極度に不自由になり、あれほど好きだった新聞や月刊誌「文藝春秋」も遠ざけ始めていた。強いて読むときには、拡大鏡を片手に前のめりになって文字筋を丁寧に追っていた。私には、つらい兄の姿だった。
「あのねー。もう、ひぐらしの記は読んでしもうたもんね。とてん、おもしろかったたいね。よう、書けてるね。まだ、書きよっとたいね。ようがんばるね。誕生日のこつ、書いていたろ。そのとき、おとっつあんと、おっかさんのことを書いていたね。いろいろと思い出されて、うれしくて涙が出たよ。ひぐらしの記を読むと、いろんなことが出てきて、楽しみたいね。ばってん、おまえが遠くまで買い物に行くのだけは、たいへんじゃろだいと思って、心配してるよ。自分は十一月で九十二歳になるもんね。長生きたいねー」
 私の相槌が聞こえないままに、長兄はしゃべり続けていた。
 私はこんな相槌を挟んでいた。
「もう読んでしまったの? 速いなあー。誕生日のこと? ああ、ひぐらしの記の誕生日のことかな? そのときの、おとっつあんのウナギのことかな? おっかさんの赤飯のことかな? こんどの本には、フクミねーさんの蚕のことも書いてあったでしょ!」
 このことだけには、長兄の反応言葉が返った。
「よう、いろんなことをおぼえているたいね。フクミは、蚕飼いがとても上手だったもんね」。
 ひぐらしの記を送るたびに生前のフクミねーさんは、長兄から受話器を手渡されていた。その第一声は決まって、「しいちゃんね。しいちゃんの頭ん良さには、たまがる、たまがる。文子さんも元気だろだいね」。
 そう言われると私は、受話器を文子に手渡した。ひぐらしの記にかかわるフクミねーさんとの思い出の一番は、こんなやり取りである。
「この本は本屋にはないもん」
 と言うと、
「なんでな? 本屋に置けばよかろだい! もったいなかよ」
「本屋においても売れんもん!」
「置いてみれば、よかろだい!」
 NHK大河ドラマ『西郷どん』の毎回の締めのナレーションにあやかれば、「チェスト(気張れ)、今朝はここらでよかろうかい」で、閉めることとする。ふるさと言葉の乱発だけは、かたじけない。 

きわめつきの朗報 

 ここ二日(ふつか)、夜明けの道路の掃除を怠った。このため、今朝(九月十日・月曜日)は夜が明ければ一念発起し、道路の掃除を決め込んでいた。夜明けの早い時期であれば、とっくに朝日が昇る時間であっても、夜明けの遅いこの時期はまだ真っ暗闇である。それでもわが気分は、お焦りをおぼえるほどに駆り立てられていた。その最大の証しは、今朝の文章は止めるか、掃除のあとにしようかと、決め込んでいた。私は二階から下りて、朝まだき玄関ドアを開いた。わが家の玄関灯と、道端の外灯がほのかに周辺を照らしていた。二、三歩、歩を進めた。いくつかの雨粒が体にあたった。(あれ、雨が降っているのか?)(これくらいなら、掃除はできそうだな!)。道路の濡れぐあいを確かめるため門口へ出た。道路はびしょ濡れではないけれど、舗面は濡れていた。(これでは、掃除はできないなあー…)。私は掃除を諦めて二階へ引き返し、キーボードに向かってこの文章を書き始めている。
 現在の時間帯は、五時半近くである。遅い夜明けであっても一旦明け出すと、またたく間に明けてくる。大空は彩雲で染められ、のどかに晴れた夜明けが訪れている。(しまったかな)と、思った。私はキーボードの前から離れて、窓辺に立った。そして、窓ガラスを通して再び道路の濡れぐあいを確かめた。先ほどのわが判断は正しかった。道路は隅々が濡れて光り、満遍なく落ち葉がべたついていたのである。ようやく焦る気分は収まり、私は再びキーボードを前にして、椅子に腰を下ろしている。ところが、行きあたりばったりに書き始めた文章は、この先が書けそうにない。そのため私は、書かねばならないことの一つだけを書いて、結文に甘んじることとした。
 さて、それはこうである。私は、大沢さまメールでうれしいご一報をいただいたのである。もちろん、こんな朗報は私だけにとどめおくものではなく、「ひぐらしの記」の読者各位様に共通する朗報である。大沢さまのメールには短く、こうしたためられていた。「どうやら夫の病状は安定してきました。本日(九月八日・土曜日)から数日、古河に滞在します」。
 大沢さまのご実家は、茨城県古河市にある。ただ、ご実家とはいえご両親亡きあとは長姉の大沢さまご自身が後継者であり、ご主人様と共にご実家の守り本尊の御身である。現在のお住まいは、埼玉県和光市である。大沢さまはご主人様の車の運転で、長年毎週末には寸分の狂いなく、ご実家通いを続けられていた。そのたびに私は大沢さまの偉さに加えて、大沢さまに報いられるご主人様のひたむきな愛情に、度肝を抜かれ続けていた。ところが、ご主人様が体調を崩されるこんどは、ご主人様の報い返しに大沢さまは倍返しの愛情を注ぎ込まれたのである。このことにはまた、私は度肝を抜かれ続けていた。もちろん私は、ご夫妻がおりなされるまさしく「至上の愛」の堪能に浴していた。大沢さまのご実家返りの復活は、首長く待ち焦がれていた「古河だより」にもありつけそうである。まずは、ご主人様の体調の復活の兆しを、心より寿(ことほ)ぐものである。ご自宅周りに夏草茂る風景をおもんぱかるところはあるけれど、きわめつきの朗報だった。ご夫妻共に、焦らずご自愛を願うところである。 

わが唯一の「芸術の秋」 

 きょう(九月九日・日曜日)の文章は、わが芸術の秋をご紹介するものである。そしてこれは、わが「ひぐらしの記」を約十年も凌ぐ継続の力でもある。受付の記帳のおり戴いた案内には、「第21回『スケッチの会』水彩画展 出品目録」、と記されていた。十二名の会員の出品案内では、安田様は三作品を出されていた。題名は、「三ツ池公園(名残の桜)」、「海の公園(横浜・金沢区)」.「生物」である。
 安田様は、ご近所にお住いのいくらか私よりご高齢の先輩である。かつては、卓球クラブの心優しいお仲間だった。しかし、現在は退会されて、ご造詣(ぞうけい)の深い書道と絵画に勤(いそ)しまれている。とりわけ書道は、現役時代の勤務地である東京都文京区において、名のある書道クラブのいまだ現役指導者である。安田様は文京区において、教育界にたずさわれていたのである。
 安田様と私の出会いは、ご近所とはいえ見知り得ず、どちらも定年後の卓球クラブのとりもつ縁である。そして私は、この出会いあって以来こんにちにいたるまで、ご夫妻様共々に「ひぐらしの記」の押しつけのご回読にあずかっている。そのたびに驚かされるのは、ご夫妻様のお心根の優しさである。具体的な証しは、毎回同じような文章にもかかわらず、丁寧にお読みくださっていることである。すなわち、私はご夫妻様のお人柄に幸運をさずかっているのである。ときには読後感の付箋さえ付されて、わざわざわが家へ返却に足を運ばれる。このとき、妻共々に私は敬意をたずさえて、ひたすら恐縮するばかりである。
 スケッチの会の会場は、わが知るかぎり毎年「鎌倉芸術館」(鎌倉市大船)の中の第3ギャラリーである。きのうの私は、妻を連れだって昼近くに芸術館へ赴(おもむ)いた。天高い秋空の下、キラキラと残暑の陽射しがそそいでいた。久しぶりに芸術館の外観を仰ぎ見るなかで、まずわが目をとらえたのは「鎌倉芸術館 二十五周年」の垂れ幕だった。
 陽射しの翳(かげ)る側壁に沿ってわが夫婦は、年なりの鈍(のろ)い足取りで館内に入った。自動ドアを境にして、館内は程よく冷えていた。広い面ロビーの正面長椅子には、思いがけなくお顔見知りの鈴木様ご夫妻が座られていた。鈴木様ご夫妻もまたご近所にお住まいで、ご主人様は安田様同様に、定年後のかつての卓球クラブの先輩お仲間である。ご夫妻共々に心優しいお人柄であり、私たちはお会いすれば親しく言葉を交わし合っている。私たちに気づかれるとご夫妻は、お人柄を露わにしてすぐに立ち上がり、近づく私たちをほほ笑んで迎えてくださった。挨拶の言葉を交わし合うとご夫妻は、安田様の絵の鑑賞にお見えの先客だったのである。
 数分間の会話ののち私たちは、ご夫妻に促されて第3ギャラリーへ出向いた。ロビーにはたたずんで、わが未知の人と対面し、会話されている安田様が目に留まった。安田様も私たちに気づかれたようである。すぐに、ギャラリーへ向かう私たちを足早に追っかけてこられた。私は先だってギャラリーへ入り、その後ろで安田様は、妻に付き添ってくださっていた。私は二人の高齢の男性が並ぶ受付で、いつものように記帳簿にわが名と妻の名を記した。会員十二名の中で二人が二作品、十名は三作品、これに講師の一作品が展示され、つごう三十五の作品の展示である。妻は安田様の三作品の前で、付き添いで絵を眺めながら説明を受けている。私も割って入ったけれど、難聴の耳にはひそひそ声はまったく聞き取れない。そのため私は、踵(きびす)を返して順番に観て回った。追っかけて、安田様から離れた妻もついてきた。二人して、素人の鑑賞の目を研ぎ澄まし、声ひそかに批評を加えながら、ゆっくりと観て回った。
 毎回訪れていることから、見知らぬ人たちとは言っても、お名前にも絵にもすでに馴染みがある。素人のわが目には、そのたびにいずれも甲乙つけがたい出来栄えである。ところが、私に比べて自称「絵に詳しい」と自尊する妻は、観終えて出口を出るとすぐに、恥じらうほどにわが耳に口を近づけて、
「安田さんが一番上手ね!」
 と、言った。私は呼応し、
「そうだね。安田さんが一番で、おれには浅井さんが二番で、菊池さんが三番かな?」
 と、言った。
 確かに、安田様の絵は講師先生の一枚の絵の脇に、負けず劣らず三枚並んでいた。毎年、秋真っ先に安田様たまわるわが芸術の秋の走りである。走りと表現したけれど、ところがこれに続くのは毎年皆無である。
 末尾になるけれど、ひぐらしの記を毎回丁寧に読んでくださっている証しを付加せずにはおれない。安田様はわが難聴の耳をおもんぱかって、ギャラリー内にもかかわらず大声で、貴重な体験をご教授くださったのである。それはこうである。
「腓(こむら)曲がりのときには、すぐに立てば痛みはなくなりますよ」
 安田様は、とことん優しいお人柄である。「絵は、人となりである」。確かに、安田様の絵にはお人柄がにじみ出ていて、まさしく人は、その絵に魅(ひ)かれているのである。たまわりもののわが芸術の秋の一幕のご披露である。

 ほのぼの文を書きたい

 「味を占める」という言葉がある。電子辞書を開くまでもない、きわめて簡単明瞭な日常語である。しかし、私は開いた。「味を占める」:「一度経験した利益に味を覚えて、またそれを望むこと」。
 先日の栗団子の美味しさに味を占めた私は、再び栗を買って来た。買い物のつどの品選びは、わが家において買い物を任されているわが専売特許である。だから、妻が手渡すメモにはなくても唯一、わが意のままにできる最良の楽しみでもある。半面、自分嗜好の品選びにもなりがちで、汗をたらたらと流し帰るやいなや、妻の小言や不平にさらされることはしょっちゅうある。
 再度栗を買って来たのちの妻は、あえて嘆願するまでもなく快く応じて、早々と手作りの栗団子をこしらえた。皮剥きには、再び私が専念した。すなわち、一度目同様に老いぼれ夫婦の仲睦まじい栗団子づくりの再現だったのである。茹でたてほやほやの栗団子は、二度目であっても食べ慣れすることなく、やはり美味しかった。その証しには言葉に先立って、皺を刻んだ二人の顔にほのかに笑みがこぼれた。小さな幸せとは、このようなことを言うのであろうか。たまにはこんなほのぼの感ただよう文章で、閉じたいものである。なぜならわが文章は、常にわがマイナス思考がわざわいする鬱陶しさで満杯である。だから、本当のところきょうくらいは、ここで結文にすべきであろう。
 ところが、そうは問屋が卸さないのは、昨今(さっこん)日本列島を襲い続ける天災のもたらす悲しみがあるからである。被災者はもちろんのこと、悲嘆に暮れる日本国民を浮かべると、おのずから自分自身のほほんとしてはおれない。その挙句、わが心中にはこんな思いが渦巻いている。それは、近づく「東京オリンピック」(2020年)にたいする虚しさである。もちろん、今さら返上はできない。しかしながら、現下の日本社会をかんがみれば、東京オリンピックの誘致は、為政者の早とちりの宴(うたげ)だったと、言えそうである。
 文章の執筆時間は、まだたっぷりとある。しかし、意図してここで終わりにしないと、せっかくのほのぼの感ただよう文章は、いつもの鬱陶しさになりかねない。きょう(九月八日・土曜日)の夜明けは、彩り旺盛な朝焼けののどかな秋空である。北の地方(北海道)をおもんぱかりながらそれでも私は、階下に下りて我欲丸出しに栗団子を頬張るつもりでいる。なさけない! と書けば、いつもの繰り返しである。

 北海道地震

 思い浮かべれば「ひぐらしの記」の文章構成は、おおむね三部構成になっている。まず一つは、日本列島に起きる天災の記録である。そして一つは、わが五官の衰えにともなう通院状況である。さらに一つは、わがマイナス思考の性向に付随するさまざまな愚痴こぼしである。三つのうち二つもが、わがなさけない性癖で埋められている。この点では忸怩(じくじ)たる思いがつのると同時に、読者各位様にたいし心底より詫びるところである。言うなればひぐらしの記は、読み物としてはまったく面白味に欠けるどころか、わが憂鬱気分の拡散の元凶でもある。
 それにしても日本列島にはなぜ? 地震、台風、豪雨など天災が多いのであろうかと、自問を試みている。するとこれは、幼稚園児からおとなの私へ問われたら、冷や汗をかいての当てずっぽうの答えでもある。「そうだね。日本列島は海の中にあるからだろうね…」。こんななさけない答えは、わが能力の無さの証しである。
 台風二十一号のもたらした惨事を書き終えた途端、思いも寄らず北海道には大きな地震が起きていた。このため、きょう(九月七日・金曜日)は自作文に替えて、メディアの伝える配信ニュースを引用し、記録にとどめるものである。まさしくひぐらしの記には、地震、台風、豪雨などのもたらす災害状況が暇(いとま)なく続いている。もちろん、憂鬱気分がつのるばかりである。
 【震度7観測、死者9人…28人不明305人負傷】(2018年9月7日 01時00分 読売新聞)。「6日午前3時7分頃、北海道南西部の胆振地方を震源とする地震があり、厚真町で震度7を観測した。厚真町では大規模な土砂崩れが起きるなどし、政府によると、道内で計9人が死亡。道庁によると、計305人が負傷し、行方不明者や連絡が取れない人は28人に上る。地震の影響で、道内のほぼ全世帯の約295万戸が一時停電。札幌市や旭川市の一部は夕方までに復旧したが、完全復旧には1週間ほどかかる見通し。一方、閉鎖していた新千歳空港は早ければ7日にも一部再開するという。気象庁によると、震源の深さは37キロ、地震の規模を示すマグニチュード(M)は6・7と推定される。国内での震度7は2016年4月の熊本地震以来で6回目、北海道では観測史上初めて。余震とみられる地震も相次ぎ、7日午前0時現在、震度4以下の揺れを83回観測。今後1週間程度は最大で震度7程度の地震が起きる可能性があるという。人的被害が最も大きいのは厚真町で、土砂崩れによって倒壊した住宅などから、死者が発見された。道庁などによると、厚真町では少なくとも19棟の建物が倒壊。28人が行方不明や連絡が取れない状態になっている。吉野地区では幅約500メートル、最大で高さ70メートルの土砂崩れが起き、道警や自衛隊は、夜通しで捜索を進めている。むかわ町、新ひだか町などでは、自宅で倒れたたんすの下敷きになるなどして、死者が出た。北海道電力などによると、地震の影響で道内全ての火力発電所が停止し、約295万戸が停電した。札幌市や旭川市など一部は夕方までに復旧したが、北海道全域の復旧には少なくとも1週間ほどかかるという。道庁によると、避難所には計5777人が避難している。厚生労働省によると、6日午後3時現在、災害拠点病院34施設を含む349病院が停電。救急患者の受け入れを制限している病院もある。泊村の泊原子力発電所1~3号機(停止中)は、停電によって外部電源が喪失したが、午後1時までに復旧した。天井や壁のパネルが崩落するなどした新千歳空港では国内線、国際線とも全便欠航。国土交通省によると、6日午後6時頃から電気供給が開始され、7日にも国内便は運航再開できる見通しという。JR北海道は、北海道新幹線28本を含む1282本を運休。北海道新幹線は7日午前も運休を決めた。一方、今回の地震では、震源近くの震度計からデータが届かず、気象庁は当初、最大震度を安平町の震度6強としていた。その後復旧し、厚真町で震度7を観測していたことが判明した。今回の地震は、地盤が押されて上下にずれる『逆断層型』の直下型地震で、04年の新潟県中越地震と同じタイプ。同庁は『平成30年(18年)北海道胆振東部地震』と命名した。」
 古来、日本列島にあって言い伝えられてきた成句、すなわち「天災は忘れた頃にやってくる」は、もはや死語同然である。このため、あえて置き換えれば「天災は忘れる暇なくやってくる」が至当である。ところが、そのたびに気象庁から付される命名は、多くてわが能無しの脳髄は刻むことができない。そのため、私はやむなくメディアの配信ニュースを引用し、記録にとどめているのである。もちろんけたくそわるいけれど、一方では案外、ひぐらしの記の効用なのかもしれない。先ずは、北海道の安寧を望むところである。
 きのうの私は、予約済みの「斎藤歯科医院」(横浜市栄区)へ通院し、新たに出来ていた入れ歯費用のため、渋々多額のお金を支払った。やんぬるかな! ひぐらしの記は、三部構成の繰り返しである。

 秋の走り、雑感

 台風一過の日本晴れほど、恨めしく理不尽なものはない。きのう(九月五日・水曜日)の鎌倉地方の天候は、まさしく台風一過の恨めしい日本晴れだった。実際のところ鎌倉地方を襲った台風二十一号は、ミニ台風とも言えない風雨の跡を残したにすぎない。しかしながら台風二十一号は、日本列島各地に大きな被害をもたらして去った。確かに、台風二十一号は前触れや接近中にあっては、勢力の強い大型台風の襲来と予報され、さまざまに危ぶまれていた。このため、気象予報士の伝える進路と上陸予報は、日本列島の各地が恐怖に晒されていた。予報に違わず台風二十一号は、日本列島の広域にわたり爪痕を残した。台風による被害は、日本列島の各地から伝えられた。もちろんそれらの被害は、台風そのものの風と雨がもたらしていた。全国的には死者は十人を数え、大小の怪我人は三百人近くに及んだようである。
 台風二十一号は、これら人的被害のほかにさまざまな被害をもたらした。被害の最大地方は、広域の近畿地方だった。とりわけ、メディアで被害状況を伝え続けられていたのは、想定外の関西国際空港(関空)の水浸しだった。思い及ばなかった関空の弱点は、先々に課題を残し緊急の対策が迫られそうである。台風シーズンの初っ端にあって台風二十一号は、日本社会に恐怖のみならず災害をもたらし、同時に新たなさまざまな課題を突きつけて去った。
 わがことに置き換えれば、きょう(九月六日・木曜日)の夜明けには、イの一番に台風一過の道路の掃除に向かう心構えにある。なぜなら、きのうの日本晴れの下にあっても道路は乾ききれず、仕方なく掃除は、今朝へ先延ばしとなっていた。そのため、私には夜が明ければ掃除をする心づもりがあって、二時近くに起き出して早手回しにこの文章を書いている。その挙句にはこの文章は、支離滅裂のうえに尻切れトンボを免れそうにない。
 日本列島の各地が台風災害をこうむっているさ中にあって、極楽とんぼのことを記すことは、もちろん恥の上塗りである。しかし、私には秋の走りにありつけた喜びを、書かずにはおれないところがある。具体的にはきのう、わが家が栗団子にありついたことである。実際には、妻と私が相和しての手作りの栗団子である。先日の買い物どきにあって私は、新物の茨城産の栗を買ってきた。このときの心づもりは、最も容易な「茹で栗」にするつもりだった。ところがきのうの私は、先日掲示板上にご投稿のあった、わがふるさとにご在住の平洋子様の「栗団子」に、食発(誤字ではなく触発をあえてこう書いた)されたのである。すなわち、茹で上がった栗をそのまま食べることに、もったいない、とためらったのである。茶の間で、妻と交わした会話はこうである。
「小麦粉の買い置きある?」
「あるわよ」
「そうか。それなら、おれが栗の皮を剥くから、栗団子にしてよ。おまえが面倒なら、おれが小麦粉をこねて、作るよ。このところのおれは、栗だご(栗団子)が食べたくて、しかたがないよ。いつものように、相良観音様の下にある店に電話をかけて、送ってもらってもいいけど、この茹で栗の皮を剥けばいいのだから、いま剥くよ。そして、おれが栗団子を作るよ」
「皮を剥くのが大変なのね。パパが皮を剥けば、わたし、作るわよ」
「そうか。だったら、おれ、皮を剥くよ」
 私は得たりやおうとばかりに、包丁片手に一心不乱にすべての茹で栗の皮を剥いた。心中には、わが子どもの頃の母の栗の皮剥きの様子を浮かべていた。母は茹でる前の生栗を包丁片手に、手荒く向いていた。
 咄嗟の思いつきのため、母とは順序が逆になった。剥きあがった茹で栗は、妻の団子づくりに移行した。それでもなお、私はこう言った。
「おれが、作ろうかね。栗団子の作り方は、知りすぎているから。小麦粉に水と少しばかりの塩を入れてこね回し、それに指先で栗を包んで茹でればできあがりだね」
「わたしが作るわよ。そんなこと知ってるわよ。これまでも、なんども作ってあげたじゃないのよ。パパ、忘れたの?…」
「忘れてはいないよ。じゃ、おまえが作ってくれるんだね。ありがとう」
 このあとには、おふくろの味そっくりの妻の栗団子が出来上がった。
 念願かなって私は、喜色満面に栗団子を頬張った。ところが、これに加えてきのうには、付け足しの秋の走りの食感に恵まれたのである。強い風で落とされた柿の実を拾って、試しに皮を剥いて食べてみた。ところが、すでにゴマがいっぱい吹いていて、たまらなくおいしかった。さらには、買い置きの葡萄、梨、桃にもありついた。台風さえこなければ、やはり夏より秋がいいなあーと、私は悦(えつ)に入っていた。
 ようやく、ほんのりと夜明けの明かりが見え出した。私は、慌てふためることなく台風の後始末が出来そうである。

「診断と判断」 

 おととい、私は『通院の顛末』と題する文章を書いた。すると早速、大沢さまはそれにちなむご自身の体験をご投稿くださった。まさしく、機を見るに敏なる優しいお心配りである。私にとってこれほど感謝感激するものはなく、ここでお礼を申し上げるしだいである。
 さて、まことに身勝手ながらこの文章では、通院の顛末の文章の主たる部分を再記し、きょう(九月五日・水曜日)の表題である『診断と判断』につなげるものである。再記する文章はこのところである。
「具体的にはこうである。LDLコレステロール(悪玉)の場合は、171から138へ(基準値70~139)。一方、中性脂肪の場合は、190から73へ(基準値35~149)へ。投与薬剤は著効を示して、どちらも基準値内に改善していた。先ずは、めでたし、めでたし、と言えるものだった。ためらっていた薬剤治療を決意したのは、動脈硬化のもたらすさまざまな病気を恐れてのことだった。必ずしも数値が、即病気の引き金にはならないとは言うものの恐れは多分にある。もちろん、医療費をかけて検査をすること自体、予防措置である。
 このため、検査結果の数値にのほほんとするようでは、何のために検査をするのか、本末転倒である。せっかくの検査数値に無頓着であっては、自分としては検査費用の無駄遣いであり、日本の国としては医療費の無駄遣いである。そうとわかっちゃいてもこれまでの私は、検査数値にこだわらずのほほんとうち過ぎていた。
 主治医の左近允先生は、先回の検査結果をみて薬剤服用を打診された。あえて打診と書いたのは、強制を強いられることなく、患者すなわち私の決意を尊重されるところがあるからである。左近允先生はきわめて患者対応が優しく、私はそれに悪乗りしているところがある。そしてそれが、明らかにためらいの因となっている。かてて加えて私は、生来、優柔不断の質(たち)である。
 私は「大船中央病院」(鎌倉市)における胃部カメラ検査のおり、先回の検査結果をたずさえて、主治医の吉田先生に見解を仰いだ。双方の主治医先生は共に、わが信頼するホームドクターである。そのとき吉田先生は、『そちらの先生が言われるように、薬剤投与されたがいいですよ。そちらのほうでしてもらってください』と、言われたのである。私はとんぼ返りさながらに左近允医院へ出かけて、『先日、ためらった薬剤の服用をお願いします』と言って、衷心から詫びて薬剤投与をお願いしたのである。
 そのとき左近允先生は、『投与する薬剤には、筋肉痛という副作用があります』と、言葉を添えてくださったのである。私は『わかりました』と、応じた。ところが、左近允先生が依頼された外部機関作成の検査報告書には、主目的の二つ改善数値のほか、左近充先生が懸念されていた副作用の数値が示されていたのである。検査項目欄には『CK』とある。先回は数値無表示であり、今回新たに450(基準値50~250)の数値が示されていた。驚くべき数値である。」
 長々と再記したけれど、インターネット上で閲覧した次の項目につなげるためである。「Newton Doctor(ニュートンドクター)」:【CKの値と注意信号】 CK:クレアチンキナーゼ。単位:IU/リットル(CKの量を1リットル中の国際単位で示したものです)● 正常値の上限~500。(軽度の上昇) 急性心筋梗塞、心筋炎、心外膜炎、進行性筋ジストロフィー、多発性筋炎、アルコール多飲者、甲状腺機能低下症、周期性四肢麻痺、神経原性ミオパチー、筋強直性ジストロフィー、脳外傷、脳梗塞、β-ブロッカーなどの可能性があります。● 500~2,000。(中等度の上昇) 急性心筋梗塞で多くみられる数値です。心筋炎、進行性筋ジストロフィー、末梢循環不全、多発性筋炎、皮膚筋炎、甲状腺機能低下症、外傷・熱症・動脈閉塞による筋障害の可能性もあります。● 2,000以上。(高度の上昇) 急性心筋梗塞で多くみられる数値です。心筋炎、進行性筋ジストロフィー、悪性高熱症(サクシニルコリン全身麻酔)、末梢循環不全、多発性筋炎、皮膚筋炎、外傷・熱症・動脈閉塞による筋障害、筋型糖原病の可能性もあります。● さらにくわしく知りたい方は・・・ 日本心臓病学会『心臓の病気』国立循環器病センター 循環器病情報サービス 『心筋梗塞、狭心症とその治療』」。
 私は新たに示された「CK」の異常値と主治医先生の診断に戸惑いをおぼえて、薬剤服用継続の判断に悩み、決断を脅かされている。もちろん、薬剤につきものの副作用のせいである。決断を脅かされているのは、たった一か月の服用にすぎないのに、すでに450の値を示しているからである。確かに、薬剤は「両刃(もろは)の剣(つるぎ)」である。「診断と判断」、難しいわが決断である。

この夏の気象総括(気象庁) 

 わが夏風邪は、願っている自然治癒に不安を残し、いまだにすっきりしない。やはり、医療費をしみったれることなく薬剤にすがり、転ばぬ先の杖を実践すべきであろうか。古来、日本社会にあっては「風邪は万病のもと」という、先人の訓(おしえ)がある。夏風邪くらいと言って、ゆめゆめ侮(あなど)ることはできない。
 このところの日本列島にあっては、気象予報士の伝える台風二十一号の進路や上陸予報が渦巻いている。予報によればこれまでの中で、最も強い大型台風と言う。このこともあって仕事柄、気象予報士は事前の警戒情報に大わらわなのであろう。予報によれば台風二十一号は、きょう(九月四日・火曜日)あたりに日本列島に上陸し、日本国民を脅(おびや)かしそうである。望むところは、気象予報士の予報の空振りを願っている。もちろん気象予報士は、予報の外れにあってもメンツ丸つぶれと、嘆くには及ばない。なぜなら台風予報の外れは、諸々の空振りの中で最も非難するにあたらないものと言えるであろう。
 さてきょうは、数ある配信ニュースを読み漁った中で、どうしても記録に留めておきたいものがある。それは、気象庁が伝えたこの夏の気象の総括である。それを読んで私は、やはりそうだったのか! と、ピタリと腑に落ちるものがあった。それはずばり、この夏の高気温とそれがもたらした厳しい暑さのわが体感である。
 【東日本、平年より1.7度高く=雨、台風、記録ずくめ―夏の天候まとめ・気象庁】(9/3・月曜日、19:13配信、時事通信)。「気象庁は3日、夏(6~8月)の天候まとめを発表した。東日本の平均気温は平年を1.7度上回り、1946年の統計開始以来最も高かった。一方、沖縄・奄美の降水量が史上最多になったほか、台風発生数も最多に並ぶなど、記録ずくめの夏となった。発表によると、チベット高気圧と太平洋高気圧が張り出し、東日本の平均気温は平年より1.7度高く、西日本も1.1度高くなり、2013年に次ぐ暑さだった。7月23日に埼玉県熊谷市で41.1度となり、国内観測史上最高を更新。8月23日には台風20号の風が山越え時に乾燥し、温度が上がるフェーン現象が起き、新潟県胎内市で40.8度と、北陸で初めて40度以上となった。降水量は、台風が多く通過した沖縄・奄美が平年比177%で、統計史上最多に。前線の影響が強かった北海道・東北の日本海側は同165%、西日本太平洋側は同133%だった。6月末から7月上旬には西日本を中心に広い範囲で大雨となり、平成に入って最悪の被害をもたらした西日本豪雨が発生した。台風は期間中18個発生し、19944年と並んで最も多かった。偏西風の蛇行などの影響で、7月下旬には台風12号が東海に上陸し九州に抜け、統計史上初めて東から西に逆行した。今年の梅雨の特徴についても発表。奄美の梅雨入りは精査の結果、速報値の5月7日が同27日ごろに修正され、1951年の統計開始以来最も遅くなった。関東の梅雨明けは6月29日ごろで、最も早い梅雨明けが確定した。」
 ところが、気象庁は異常気象とか異変とかの言葉は添えてはいない。すると、これらの数値は平年値に置き換わるのであろうか。日本列島は「くわばら、くわばら」である。早手回しに、この先の秋の気象の総括が危ぶまれるところである。
 長引くわが夏風邪の鬱陶しい鼻炎症状は、暑気に抗(あらが)い臍丸出しの寝冷えが誘因だったようである。とことん、なさけない。

通院の顛末 

 夏の終わりにかけ、秋の入り口にあって、私は夏風邪の鼻炎症状に見舞われて憂鬱気分に陥っている。夏特有のうっかり寝冷えを食らったようである。自業自得の最たるものである。さまざまに医療費がかさんでいるおりに、こんなことで飛び入り通院でもすれば、馬鹿の丸出しでほとほとなさけない。
 きのう(九月二日・日曜日)は採血結果の診断を仰ぐため、最寄りの左近允医院へ出かけた。今回、血液検査を施されたのは、薬剤投与から約ひと月経過後の改善状態を確認するためだった。投与薬剤は、LDLコレステロール(悪玉)と中性脂肪の改善のためのものだった。約ひと月の薬剤服用でこの二つの数値は、効験(こうけん)あらたかに確かな改善傾向を示していた。
 具体的にはこうである。LDLコレステロール(悪玉)の場合は、171から138へ(基準値70~139)。一方、中性脂肪の場合は、190から73へ(基準値35~149)へ。投与薬剤は著効を示して、どちらも基準値内に改善していた。先ずは、めでたし、めでたし、と言えるものだった。ためらっていた薬剤治療を決意したのは、動脈硬化のもたらすさまざまな病気を恐れてのことだった。必ずしも数値が、即病気の引き金にはならないとは言うものの恐れは多分にある。もちろん、医療費をかけて検査をすること自体、予防措置である。このため、検査結果の数値にのほほんとするようでは、何のために検査をするのか、本末転倒である。せっかくの検査数値に無頓着であっては、自分としては検査費用の無駄遣いであり、日本の国としては医療費の無駄遣いである。そうとわかっちゃいてもこれまでの私は、検査数値にこだわらずのほほんとうち過ぎていた。
 主治医の左近允先生は、先回の検査結果をみて薬剤服用を打診された。あえて打診と書いたのは、強制を強いられることなく、患者すなわち私の決意を尊重されるところがあるからである。左近允先生はきわめて患者対応が優しく、私はそれに悪乗りしているところがある。そしてそれが、明らかにためらいの因となっている。かてて加えて私は、生来、優柔不断の質(たち)である。私は「大船中央病院」(鎌倉市)における胃部カメラ検査のおり、先回の検査結果をたずさえて、主治医の吉田先生に見解を仰いだ。双方の主治医先生は共に、わが信頼するホームドクターである。そのとき吉田先生は、「そちらの先生が言われるように、薬剤投与されたがいいですよ。そちらのほうでしてもらってください」と、言われたのである。
 私はとんぼ返りさながらに左近允医院へ出かけて、「先日、ためらった薬剤の服用をお願いします」と言って、衷心から詫びて薬剤投与をお願いしたのである。そのとき左近允先生は、「投与する薬剤には、筋肉痛という副作用があります」と、言葉を添えてくださったのである。私は「わかりました」と、応じた。ところが、左近允先生が依頼された外部機関作成の検査報告書には、主目的の二つ改善数値のほか、左近充先生が懸念されていた副作用の数値が示されていたのである。検査項目欄にはCKとある。先回は数値無表示であり、今回新たに450(基準値50~250)の数値が示されていた。驚くべき数値である。
「先生。CKってなんでしょうか? この数値はどんな疾患を引き起こすのでしょうか?」
「筋肉痛です。薬を服み始めてから、どこかの筋肉が痛み出してはいませんか?」
「いいえ、格別自覚するところはないですけど、このところは歩くのに違和感があるなとは思っています。しかしこれは、薬の服用中に脹脛(ふくらはぎ)周辺を強くマッサージしたせいかもしれません」
「今の薬は、二週間ほど服まないでください」
「そうですか。せっかく恐れていた数値が改善したのに、もったいないですね」
「違和感が薬のせいでないと判断されたとき、再び服み始めればいいのです」
「わかりました。そうします」
「ほかにも、効果の同じ薬はありますから、とりあえず今回はそうしましょう」
「風邪をひきましたから、薬いただけますか」
 と、言うのは我慢した。もちろん、かかりすぎる医療費の自己節約である。
 私は、信頼する主治医先生の診断に素直に従って院外に出た。夏の陽射しは、柔らかい秋の陽射しに変わっていた。好季節の到来にあって、夏風邪くらいは自然治癒力にすがっている。そうでないと、わが家計の医療費がもたないからである。命は惜しいくせに、私はとことんしみったれである。

秋は気配から実感へ 

 二つの真夏の夢の中で、快眠はときおり叶えられたけれど、肝心要の夏痩せ願望はまったく果たせず、とうとう「馬肥ゆる秋」となった。こんなことでは、夏痩せ願望の反動に慄(おのの)くことになる。
 きのう見上げた大空はまさしく天高く、澄明な青空に抱かれて、いたるところに綿雲がふわふわと浮いていた。私はしばしたたずみ絶景を仰ぎながら、すっかり秋だな! と、呟いた。過ぎ行くこの夏は、身体的には終始厳しい暑さとの闘いだった。これに比べて訪れている秋は、物思いに耽(ふけ)る精神的闘いとなる。なぜなら、秋の物思いには常に寂寥感(せきりょうかん)がつきまとうからである。このことを思えば私には、共にどっちつかずの厳しさである。確かに、夏の盛りにあっての身体は、連日の暑さに辟易するばかりで、寂寥感をおぼえる暇(いとま)はない。ところが、秋は身体的には楽だけれど、一方精神は、さまざまに出没する物思いに襲われて堪(こた)える。このため、とりわけマイナス思考の強い私は、過ごし易さの点で必ずしも秋に軍配を上げることはできない。せっかくの好季節の訪れにあって、まったくなさけないわがマイナス思考である。世間一般的には、夏に比べればはるかに秋の季節を好む人が多い。マイナス思考のせいで私は、とんでもないへそ曲がりを強いられている。
 昨夜の私は去り行く夏にたいし未練がましく、部屋は網戸にしたままで夏布団を蹴飛ばして寝(やす)んだ。ところが、早々に秋風に吹き込まれて、ほうほうのていで窓ガラスを閉めて布団を覆った。夜間にかぎればすでに夏は、過去の異物となっていたのである。
 わが秋の訪れの皮切りは、一枚のはがきだった。具体的には卓球クラブ元お仲間の安田様からたまわった、絵画展へのお誘いはがきだった。はがきは不断の私にはまったく無縁の、たまわりものの「芸術の秋」へのお誘いだった。
 実りの秋は、日を替えてわが舌に味を占め始めている。その皮切りは、日に日に品を替える「果物の秋」の走りである。加えてきのうは、新物のサンマが夕御飯の一品御数にのぼった。このところ書き続けている落ち葉は、日を追って重量感を失くし、枯葉色を濃くしている。
 一方、見晴るかす山や周辺の木立は、緑一色から少しずつ黄色や紅色に染まりかけている。夜だけ開いて朝には萎(しぼ)むカラスウリの花は、わが朝の掃除の厄介物である。長く道路に散りばめてきたサルスベリの花びらは、もはや終わりかけにある。サルスベリの花をこよなく好む私は、厄介物であると同時に愛惜(あいせき)つのるところもある。柿の実はすでにゴマがついて、食べ頃なのであろうか。にわかに、山に棲みつくタイワンリスの出没が激しくなっている。自然界の変化を目にしながら夏から秋へと変わりなくわが身に続くものには、病医院を替えて予約が刻まれている通院がある。
 きょう(九月二日・日曜日)の私には、予約ではないけれど先日の血液検査の結果を聞くために、最寄りの左近允医院への通院がある。「秋は、どこから来るかしら?…」などと、のんびりと構えておれないのは、わが身不全ゆえである。これまた、わがマイナス思考かな?…。

季節めぐって、九月一日 

 季節がめぐっている。掲示板上部の写真は八月掲載の写真から、早々と九月を表す写真に入れ替わっている。この行為だけでも私には、掲示板の管理にたずさわれている大沢さまの心の充実ぶりと、お心の優しさが十分に読み取れるものがある。
 確かに月の初日にあって、写真が季節のものに入れ替わっていると、たちまち私は新鮮な気持ちになる。同時に、大沢さまの無事息災をも窺い知ることができる。このことでは、写真の入れ替わりには一石二鳥の恩恵にありついている。実際にも私には、「さあーやるぞ!」、という新たな気分が湧いてくる。言うなれば大沢さまのご配慮は、わが萎えている気分に効果覿面のカンフル剤の役割を果たしている。
 きょうは月替わって九月初日(一日・土曜日)である。今さら言わずもがなのことだけど、季節めぐりの中で九月の明らかな特徴は、夏から秋への変わり目であろう。このことは、四季すなわち春夏秋冬の中でも特筆すべき変化である。それをカレンダー上に如実に表すのは、月の下旬に訪れる「秋分の日」(二十三日・日曜日)である。秋分の日とあれば日本社会には、ずばり「暑さ寒さも彼岸まで」という成句がある。
 人の営みにあっては、「敬老の日」(十七日・月曜日)の習わしがある。俗人的にはこの二つの国民祝日があって、二度の三連休に恵まれる。さらに人は、実りの秋にありつける月でもある。そのほか、さまざまな冠(かんむり)の秋の走りにも恵まれる。さらには、物想う秋の夜長の好季節でもある。ところが、好事魔多し自然界は、本格的な台風シーズンが待ち受けている。
 過去の出来事に遡(さかの)れば日本列島のこの日は、「関東大震災」(大正十二年・一九二三年九月一日)に見舞われている。これにちなんで日本社会は、きょうは「防災の日」である。もちろん天変地異は、九月にかぎらずしょっちゅう起きている。しかしながら、九月の日本列島は過去の関東大震災にとどまらず、気象統計的に台風シーズンと銘打たれている。このため、日本の国に住む者はすべからく、このことは常に心すべきことであろう。だからと言って天変地異の変動には、予(あらかじ)め対処すべき便法とてない。強いて言えば実際には役立たずにも思える、日本国民の防災意識程度であろうか。「備えあれば患(うれ)いなし」と言うけれど、実際のところ天変地異には備えのしようはない。
 九月になって直接的にわが身に難渋をもたらすのは、道路上に日ごと増え続ける落ち葉の掃除である。しかし、嘆くまい! 半面、野山は日々彩りを替えて、目の保養(眼福)をもたらしてくれる。
 結局、月替わり初日(九月一日)にあって私は、日々「是れ好日」を望むところである。備えなしの、欲張りな願望である。

 過ぎ行く八月

 八月最終日(三十一日・金曜日)の夜明け前が訪れている。八月を真夏の月とすれば、きょうで賞味期限が切れて、暑さは九月中頃までの消費期限止まりになる。そのため残る暑さは、もはや残暑という言葉に置き換えられる。しかし、言葉は残暑だけれど、真夏の未練たらたらに昼間の暑さは、体験上真夏を凌ぐ厳しさがある。それでも朝夕だけは、もう真夏へのぶり返しはなく、肌身は敏感に初秋の訪れを感得する。
 きのうの夕御飯時の妻は、私にたいしこう言った。
「パパ。秋の虫たちがうるさく鳴いているわよ」
 これに応じて私は、
「そうか。おれにはまったく聞こえないよ」
 と、言った。
 難聴のわが耳は、妻がうるさいと訴える集(すだ)く虫の声さえ遠ざけている。季節めぐりの証しの一つを失くしなさけなく、私は途方に暮れる思いだった。夏の盛りにあっても、セミやヒグラシの切ない鳴き声もまったく聞こえなかった。この寂しさは、先日書いたばかりである。季節の移り変わりを告げてくれる虫たちの鳴き声を「うるさい」と言い放つのは、人間の傲(おご)りであろう。もちろん私とて、難聴になってようやく知り得た慈愛の心にすぎない。なぜなら健全な耳の頃は、とりわけ短い命の哀しさを人の世に訴えるごとく鳴くセミの声は、ただうるさく聞こえるばかりだった。本当の人情や愛情は、みずからが欠陥人間になってこそ、ようやく気づき育まれるのであろうか。
 顧みれば過ぎ行く八月は、例年に比べて暑い日が続いた。いやことしの暑さは、まるで百日紅(サルスベリ)のごとく、六月、七月、そして八月と、三か月にも及んだ感がある。この間には、近畿地方の震災や西日本地方豪雨災害もあった。これらのことをあらためて思い起こすと、日本列島は異常状態のままにこの夏を過ぎてゆく。あすから九月への月替わりである。日本列島津々浦々、安穏(あんのん)な日常の訪れを願ってやまない。もちろん、わが身および身内、加えて友人、知人の身の安穏こそファースト(第一)である。欲張って虫たち、すなわち「生きとし生きるもの」の生存の安寧(あんねい)をも願っている。
 このところはずーと、夜明けの道路の掃除が続いている。幸い今朝も出来そうである。しかし草むらには、出番にありついた虫たちが潜んでいるから、十分に心しなければならない。アブラゼミの亡骸に出遭えば、優しく葬らなければならない。無粋(ぶすい)な私にも、ちょっぴり人の情けが根づいたようである。もちろん、ありがたくはないけれど、難聴の耳の恵みなのかもしれない。

人生訓の復習 

 八月三十日(木曜日)、きょうの私には歯医者通いの予定がある。このところの私は病医院を替えて、通院が日課になりつつある。しかし、幸いにも致命的な病は免れている。それでも、お粗末きわまりない。
 予約を繰り返す診療科は、歯医者(斎藤歯科医院)、眼医者(大船田園眼科医院)、消化器内科(大船中央病院)、そして距離的に近いところでは住宅地内にある「左近允医院」である。これらの病医院には最寄りの調剤薬局が付随し、おのずから私は処方箋をたずさえて赴くこととなる。
 わが家には私だけでなく、共白髪の配偶者(妻)も存在する。妻はこれらの病医院のほかに、耳医者(神尾耳鼻咽喉科)への予約通院を繰り返している。難聴の私は、本当であれば耳医者が最も急を要して受診しなければならない。私自身、日々そうしたいとも願っている。確かに、かつての私は、当の耳医者にも通った。ところが、難聴という器官の欠陥にはさしたる改善の兆しなく、加えてエンドレス(際限ない)の治療を恐れて、私は登校拒否ならぬ自主通院拒否を敢行したのである。するとそののちは、当医院への受診がうしろめたくなり、そのまま沙汰止みになっている。このときに懲りて私は、ほかの耳医者通いもまったくしないままである。即入院を促されたり、手術するほどの病ではないけれど、そのぶんわが病はエンドレスの生涯病、すなわち終身の薬剤治療が避けられない不治の病である。結局、妻共々に通院を余儀なくしているわが家計は、医療費破綻の瀬戸際にある。
 やんぬるかな! その打ち止めは、絶命の時である。ネタ切れの今朝の私は、「ひぐらしの記」の継続だけを願って、こんなくだらないことを書いて茶を濁したにすぎない。その挙句には、尻切れトンボのままに文を閉じることになる。しかしながらこれでは、あまりにも不甲斐ない。このため、目覚めて浮かんでいた人生訓をおさらいして、付加するものである。もちろん、前文とはまったく関係ないことを記すことには、恥を忍んで気分の滅入るところがある。
 私は電子辞書を開いている。
 【巧言令色鮮し仁】使い方:ことば巧みに飾り、顔つきを和らげて人にへつらうような人は仁の心が少ないものだ。「仁」は、他を思いやる心をもとにして、自己を完成させる最高の徳。「令色」は、人に気に入られようとして、こびへつらう顔つき。「鮮」は、ほとんどないの意。「少なし」とも書くが、原典に沿えば「鮮し」。出典:「論語・学而」「論語・陽貨」にあることば。類表現:「剛毅朴訥仁に近し」。
 現下、与党・自民党の総裁選や、野党・国民民主党の代表選のさ中にある。だから、こんな人生訓がが浮かんだのであろうか? 私には認知症の自覚はない。

季節のめぐり 

 八月二十九日(水曜日)、三時近くに起き出している。前面の窓ガラスには夜明けの明かりはまったく見えず、いまだ真っ暗闇である。今朝は夜明けとともに訪れる作業がある。一つは日課とする朝の道路の掃除である。そして一つは、週一回の決まりとされる伐採材や落ち葉などのゴミ出しである。私は先週末にこれらの大作業をした。そのおり数束束ねた物と、半透明の袋に一杯詰めた落ち葉や枝屑を数個待機させている。きょうは、それらを所定の分別ごみ置き場へ移動させなければならない。これを終えて、一連の作業は完結となる。
 朝の道路には、日ごとに落ち葉が増えている。転がっている柿の実は、食べ頃に太っている。すでにゴマがついているのもあるはずである。しかし、拾って割って見ることまではしない。私は、落ち葉と一緒に半透明のゴミ袋に入れている。しかし、落ち葉を入れるのとは違って、やはりわが気分は切ない。なぜなら柿の実は、食べては大の好物であり、加えてわが郷愁を呼ぶ代物の一つだからである。そのため、本当のところゴミ扱いすることには、切なさもあり躊躇(ためら)いもある。
 昼間の暑さの厳しさは、いまだに真夏を凌ぐほどである。しかしながら朝夕にかぎれば風は、すっかり夏の風から秋の風へと変わっている。わが肌身に感ずる風の違いは、自己流で表現すれば風がたずさえる温気(うんき)の有無である。確かに、夏の風もまたオアシスや桃源郷にいるような心地よい気分をもたらしてくれる。それでもやはり、夏の風は温気をたずさえている。ところが、秋の風には温気はなく、涼気一辺倒である。
 起きて、閉めていた窓ガラスを開けてみた。すると、網戸を通して風が吹き込んだ。肌触りは夏の風ではなく、すっかり秋の風だった。道路上にはときたま、山からまだ小さくて固い緑一色のアケビが転がっている。たちまち私は、ふるさとの秋の野山を追想する。野生の山芋の葉もここを先途に茂り始めている。残り玉のアジサイは醜く廃(すた)れて、哀れを誘うばかりである。
 過ぎ行く夏にあって寂しいことの一つは、難聴のせいでセミの鳴き声を一度も聞かずじまいだったことである。もちろん、セミがいないわけではない。なぜなら、道路を掃いているとアブラゼミの屍(しかばね)やバタつきに出遭うからである。セミやヒグラシの鳴き声は、夏の盛りと終わりを告げる切ない風物詩である。難聴のせいでそれらが聞こえてこないのは、かえすがえす残念至極である。
 秋の入り口にあって、集(すだ)く虫の声も旺盛になり始める頃にある。ところが、こちらも一切聞こえてこない。ときおり、難聴を慰めてくれるかのように高らかに聞こえていた老鶯(ろうおう)の声も、今や途絶えている。ところが、わが頭上には声なき蛾や羽虫が電灯の明かりをめがけて寄ってくる。実際にはブンブンとうるさい鳴き声を立てているのであろう。しかし、私には聞こえていない。
 防虫ネット代わりに私は、幅広の麦わら帽子を頭に載せてキーを叩いている。あれやこれやこうして、わが周辺の自然界は季節をめぐっている。まもなく夜明けの頃である。私は文章閉じて、ゴミ出しと道路の掃除に始動する。こうして、わが日常はめぐっている。一度の推敲さえできず、書き殴りに甘んじるのはほとほとつらい。一つの恵みは、暑気を落とした朝のさわやかさである。

六十(歳)の手習いの足跡 

 現在は八月二十八日(火曜日)の夜明け前にある。このところの昼間の暑さの厳しさは、わが身を茹で焦がしそうである。もちろん、昼間のわが家の窓は、すべて網戸に頼りきっている。ところが、夜の帳が降りると、すべての網戸は窓ガラスで覆われる。そして、一階の窓ガラスだけは、すべてその上に雨戸で閉められる。しかし、二階の窓は台風接近の予報でもないかぎり、ほぼ一年じゅう雨戸を閉めることはない。二階の窓には薄いレースのカーテンと、厚い布のカーテンが重なり、垂れている。ところが、パソコンを置く前面の窓ガラスだけには、カーテンの用意ない。そのため、雨戸を閉めなければ、常に窓ガラスを透して大空丸見えの状態にある。この点だけでもわが家は、草の庵(いおり)さながらである。
 常々私は、妻にたいしこんな愚痴こぼしをしている。「わが家は、住宅地の中で最もみすぼらしいね。わが甲斐性無しは、つらいよ。ごめんね…」すると妻は、いくらか慰め加減に、「仕方ないでしょ。そうでもないわ!」と言う。
 前面の窓ガラスは、私には幸いにも利するところがある。すなわち、実益はキーボードを叩きながら春夏秋冬、夜明けの空模様を望めむことができることである。雨の日は部屋の明かりの下、窓ガラスに張り付く雨粒や、あるいはひっきりなしに流れる雨垂れを楽しむことができる。一方晴れの日は、白々と明けゆく夜明けの空、のどかな朝ぼらけ、昇りはじめの朝日の織り成す彩雲、なんでもござれの大空の朝の光景に恵まれる。言うなれば私は、無償の桃源郷のたたずまいに酔いしれる。草庵に住む惨めな気持ちを打ち消すかのようなかなりの強がりだけれど、それでも常日頃の私は、確かに前面の窓ガラスの恩恵に浸っている。
 昨夜の私は、一度のトイレ起きのおり、試しに閉めていた窓ガラスの一か所を開けて網戸にした。案の定、吹き入る風は暑気を払って、涼気を含んでいた。私は「冷(ひ)ゃあ」と言って、窓ガラスを閉めた。夏の終わりかけにあって夜間の風は、すでに夏風から秋風に変わっていた。
 こんなどうでもいいことを書き殴りながらこんにちまでの私は、とてつもなくたくさんの文章を書いてきた。もちろん、六十(歳)の手習いをかんがみれば、われながら文章の量には自惚(うぬぼ)れるところがある。ところが、文章の質にはまったく誇れるところはない。
 しかし、現在の私は、文章の質はさておいて、六十(歳)の手習いの足跡を浮かべている。まず浮かぶのは、確かに測り知れない量の多さである。足跡は三段階に区分される。前段は、毎朝の出勤前に躍起となっていた文章である。文章を書き終えると私は、喜び勇んですぐにふるさとの長兄宛てに、ファックス送信をかけていた。もちろんこのときは、一度さえの推敲の時間も許されず、書き殴りを送信していた。のちにはいくらか文章をととのえ、コピーして保存した。さらにのちには、そのコピーを原稿にして、飛び入りで印刷所へ持ち込んで、私家本スタイルの製本を依頼した。冊数は一人の姉と四人の兄、加えて自分の分を依頼した。結局、つごう六巻作成した。厚手の表紙には一貫して、『ひと想う』、と付けた。一巻には欲張って分厚く、優に三百ページを超えるページ数が付されていた。そのため、コピー代と手間賃がかり、一回当たり十数万円のお金を費消した。姉と兄たちへの無償提供はわが喜びであり、そのつど姉と兄たちも喜んでくれて、十分にわが志に応えてくれた。
 中段は「日本随筆家協会」(故神尾久義編集長、現在は存在しない)の会員となり、必死に協会賞を狙って日々書き続けていた。こちらの文章には、何度も推敲を重ねていた。その甲斐あって「協会賞」にありついて、宿願の一冊の単行本『追憶』の上梓しを果たした。宿願叶った私は、六十(歳)の手習いの打ち止めを決め込んでいた。
 ところがそんな矢先、はからずも大沢さまから「前田さん。なんでいいから、掲示板に書いてください」という、ご好意のお声がかかった。生来、三日坊主の私は、こわごわと書き殴りに書き始めたのである。それは大沢さまから『ひぐらしの記』と命名され、やがては綺麗な単行本となり、贈呈をたまわったのである。こちらもほぼ毎日書き続けて現在は十一年目にあり、直近では単行本として七十一集を数えている。ただ惜しむらくは、こちらは推敲することなく時間に追われて、書き殴りのままに投稿キーを押している。
 それにしても私は、膨大な量の文章を書き続けてきたものだ。秋は物思いの季節である。第一陣の物思いは、わが六十(歳)の手習いの足跡である。無能力ゆえにもちろん現在の私は、疲れ切っている。疲れを解(ほぐ)してくれるのは、質はともかくたくさん文章を書いてきたきたなあーという、見えみえの自惚れである。

残暑見舞いの候 

 きのう(八月二十六日・日曜日)の鎌倉地方は、残暑とは言えない猛烈な暑さだった。昼間のわが体感温度では、この夏一番の高気温と暑さだった。それでもやはり、朝夕はすでに秋口の涼しさにありつけている。涼しさの恵みを得て私は、きのうもまた朝の内にはよく働いた。夜が明けるやいなや道路へ向かい、道路側面壁のむさくるしいところや、山の法面から垂れている木々の伐採を実行した。それをわれひとり黙々と片付けを終えたのは、八時近くだった。三時間余りの朝の労働だった。
 午後は、卓球クラブの練習へ出かけた。クラブの存在する今泉さわやかセンター(鎌倉市)内の体育室は、空調設備が万全である。このため、体育室は適度に冷えていた。外気と室内の温度差は歴然としていて、私は室内に入ると人間の知恵に感謝した。それでも、十五分間のラリーのあとにはちょっぴり汗ばんだ。
 わが家へ帰ると、真っ先に買い置きのアイスキャンデーを口に頬張った。次には、シャワーで汗を流した。これらの行為は、卓球クラブの練習日におけるわが定番である。針の下振れを期待し、体重計に乗った。案の定、体を動かした卓球の恩恵を得て、一キロ弱下振れした。しかし、もちろんこれは糠喜びにすぎない。なぜなら、時間が経てば元の木阿弥になることを知りすぎている。
 卓球の練習日の最大の恩恵は、疲れて安眠にありつけることである。とりわけ昨夜は、これに朝のうちの労働が重なり、この夏初めて安眠を超えて快眠にありつけたのである。このため、寝起きの現在のわが気分は、すこぶるつきのさわやかさである。やはり人間の体は、ちょっとでも痛めれば疲れて、おのずから安眠はおろか、快眠にさえありつけるようである。ひねもすのほほんとして、快眠願望を掲げるのは欲張りなのであろう。やはり快眠は、金のかかる行楽、旅、レジャーなど用無しの無償の極楽である。
 もちろん私は、快眠の心地良さを知りすぎている。ところが不断の私は、なかなかそれにありつけない。だからこの夏の私は、夏痩せ願望と併せて、真夏の夢の一つに掲げていたのである。すると、幸運にも昨夜、たった一回きりの快眠にありついたのである。そうであれば私は、快眠後の心地良さを存分に堪能すべきであろう。
 のどかに、夜明けが訪れている。道路周りはきのうの労働ですっきりしている。気分よく道路の掃除へ向かえそうである。八月二十七日(月曜日)、残る五日の八月最終週の夜明けである。手紙をしたためれば書き出しは、残暑見舞いの常套句「残暑厳しいおり…」と、なりそうである。

 何かにつけて脅かす、マイナス思考

 現在の時間帯は、八月二十六日(日曜日)の夜中二時あたりである。このところの私は、文章を書けない、もう書きたくない、気分にさいなまれている。すなわち、生来のマイナス思考が満杯である。
 きのう(八月二十五日・土曜日)の私は、文章を書く前に心中でこんな思いをめぐらしていた。(雨風交じりの嵐やそのあと乾くまで道路は、二日ばかり掃除ができずじまいだった。そのため道路は、きわめて汚いだろう? よし今朝は文章を早く書き終えて、道路の掃除をしよう!)。この思い強く私は、異常な行動に出た。いまだに夜明けの明かり見えないなか、私は一基の外灯の明かりを頼りに、道路の掃除へ向かったのである。季節的に夜明けが遅くなり、いまだ朝日の明かりは望めない四時半近くであった。わが持ち場の道路の舗面は粗く、滑らかではない。だから、箒で何度も掃いてもところどころの落ち葉は、べったりと舗面に貼りついている。箒では剥がれなくそのため私は、腰を屈(かが)めて指先で剥がし、浮かして箒を掛けている。このため、嵐のあとの掃除には、面倒くささと時間のかかりを強いられている。
 夜明けが明るみ始めると、一か所山の木が折れて、道路上部にだらりと枝葉を垂らしていた。私は踵(きびす)を返して物置から剪定鋏を持ち出してきて、切り落とし片づけた。ようやく、夜明けが訪れた。夜明けの明かりの恵みを得て、汚かった道路をなお丁寧に、鏡面のごとく綺麗に仕上げた。約二時間を要し、掃除を終えたのは六時半近くだった。もちろん、掃除を始めた頃には、散歩めぐりの人影はなかった。そののち、夜が明けるにつれて、しだいにめぐり始めた。私は、その前にほぼ仕上げたことに、ホッと安堵した。常連の人との出会いでは、最近言葉を掛け合うようになった、若い女性ランナーが最初だった。言葉の掛け合いのきっかけは、私の言葉だった。
「速いですね。何かの大会に出られるのですか。頑張ってください!」
 この言葉に気を良くされたのかそれ以降は、わが背後に近づきながら「おはようございます」と、ランナーの明るい声が届くようになっている。声に気づくと、私もすぐに「おはようございます。頑張ってください!」と、大きな声で呼応している。いつもであればこの女性は、二周走り込んでくる。ところが、きのうは三度回って来られたのである。それに気づいた私は、「あれ? 今朝は三度目ですね。頑張ってください!」と、声を掛けた。女性は、にこやかな笑顔で走り去られた。
 二人目の常連は、十数年来の高齢のご婦人である。いつもは五時半あたりに出会うけれど、きのうは待てどいっこうに姿が見えない。私は、このお方との出会いを掃除の打ち止めにしていた。今朝は会えないのかな? と、諦めがかっていたところに、遠方から急ぎ足で近づいて来られた。私は掃除の手を止めて、佇んで待った。いくらかなお急ぎになられて、二人は対面した。
「おはようございます。あなた様を待っていました。今朝は、いつもより遅いんでしょ?」
「そうかしら、そうかもしれません。道路、もう綺麗ですね。いつも、ご苦労様です」
「道路が濡れていて、二日ばかり掃けませんでしたから、今朝は夜明け前から掃いたんです。あなた様にお会いできたから、もう終わりにします」
 朝食を済ますと、こんどはわが家周りの草取りにとりかかった。午前中と午後に分けて、朝は涼しいうちに、午後は日の翳(かげ)りを待って、時間をかけてこれまた丁寧に取り終えた。言うなればきのうの私は、夜明け前から夕方近くまで、道路の掃除や庭中の草取りに感(かま)けていた。いつもであれば、綺麗にしたあとの爽快感に浸るところだった。ところが意に反し、わが気分は憂鬱だった。それは、先々のことを憂慮していたからである。具体的には心中に、わが老体の限界と死後のことが堂々めぐりしていたのである。(先々、誰がこんなことをするのであろう)。加齢につれて、わがマイナス思考は加速するばかりである。
 現在、四時半近くである。まだ、真っ暗闇である。今朝は、夜明けて道路へ向かえばよさそうである。 

高校生逸材、池江選手 

 現在、インドネシア・ジャカルタで「アジア大会」が行われている。今回のアジア大会は、日本選手団にとっては二年後、すなわち「東京オリンピックおよびパラリンピック」(二〇二〇年)の前哨戦の位置づけにある。このことでは、いつもにも増してきわめて大事な大会である。実際にもこの大会に派遣されている選手の多くが、東京オリンピックの代表権を得るであろう。もちろんアジア大会の勝利者が、そのままオリンピックの勝利者にスライドすることはない。しかしながらアジア大会の勝利者は、オリンピックの勝利者になる可能性を多分に秘めている。このたびの日本選手団の中ではこれまでの成績をかんがみて、その位置にいるひとりは池江選手であろう。
 池江選手は日本水泳界の高校生逸材で、その活躍ぶりは綺羅星のごとく輝いている。このためきょう(八月二十五日・土曜日)は、アジア大会において活躍を続けている池江選手にまつわる、メディアの配信ニュースを引用するものである。
 【アジア大会 18歳池江が偉業・6冠 強敵に心理戦で圧力】(毎日新聞 2018年8月24日 21時47分配信)。ジャカルタ・アジア大会の第7日は24日、競泳女子50メートル自由形決勝で池江璃花子(ルネサンス)が24秒53で優勝した。池江は今大会通算6個目の金メダル。1大会で獲得した金メダル数が日本勢単独最多となった。今大会13レース目。体力も気力も尽きそうだったが最後まで冷静だった。「隣を見て泳いだ」とアジア記録を持つ5コースの劉湘(中国)を警戒した。25メートルを通過して2人が抜け出した。プラン通り池江はここから加速したが、劉湘がわずかに先行。最後の力を振り絞るようにラスト10メートルは腕を必死に回し「勝っている」とタッチに集中してかわした。その差は0秒07だった。最後に立ちはだかった劉湘は今大会、50メートル背泳ぎで世界新をマークしてスピードに自信を持っていた。大会を盛り上げる好調同士のレースを前に、池江を指導する三木二郎コーチは心理戦に持ち込んだ。午前の予選前に「相手に隙を見せるな。5冠を自信にし、プレッシャーを相手に与えよう」と伝えていた。今大会でこれまでに金メダルを獲得した個人の3種目はライバルが不在で、危なげなかった。だからこそ、難敵の存在が刺激となっていた。今大会を終えた池江は「2、3日前から体はきつく、気持ちも折れそうだった。最後は気持ちの問題だと思い、最後までなんとか踏ん張れた」と自信を付けた。今月のパンパシフィック選手権からの連戦で磨いた勝負強さは2年後の東京五輪への大きなステップとなった。

生存 

 朝鮮半島周辺の世界事情は、「韓国 冬季平昌(ピョンチャン)オリンピック」(今年・2018年2月)前後から、北朝鮮によるミサイル発射が止められて、比較的平穏である。そののちの米朝首脳会談、すなわちアメリカ・トランプ大統領と北朝鮮・金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長の歴史的出会い(6月12日・シンガポール・セントーサ島)を経て、こんにちまでミサイル発射はない。北朝鮮のミサイル発射が続いていた頃の恐怖と鬱陶しさを浮かべれば、幸いかなこの頃は、確かに平穏な世界事情にある。当時、ミサイル発射騒動の渦中にあった日本は、最もその恩恵に浴している。確かに、現在は北朝鮮の脅威は沙汰止みになっている。そうであれば再び、ミサイル発射のぶり返しの無いことを願っている。
 世界事情の好転はあっても、もちろん日本社会は万々歳ではない。国内事情を常に脅(おびや)かしているのは、日本列島固有の自然災害の多さである。すなわち、地震をはじめとする天変地異の恐怖、加えて台風や豪雨のもたらすさまざまな災害、これらに日本の国(国民)は、時と所を選ばずひっきりなしに晒されている。まさしく防災の言葉むなしい、避けて通れない天災列島である。
 一方、さまざまな人災は、日常茶飯事のべつ幕なしに起きている。こんな外的事情に加えて、身の回りにとりつくさまざまな困難ごとは、これまた絶えず無限大にある。そのため、世の中に存在し、生存を続けることは人生一大事業である。
 生存には人それぞれの事情が存在する。卑近なところでわが家周辺には、空地や空き家が増え続けている。日常的に行き合う車の多くは、訪問介護やデイサービスの車である。どちらも、やがてわが身に降りかかる光景である。
 この頃、私的に頓(とみ)に手に負えなくなり始めているものには、狭小にもかかわらず庭中の草取りがある。加えて、日課と決め込んでいる道路の清掃がある。きわめて小さなことに思えるけれど然(さ)にあらず、なぜならこんなことがまもなくわが生存を脅かすことになろう。これまで常連にありついていた散歩めぐりの人との出会いが絶えると、もはや再びの出会いはない。
 道路を掃いているとこの頃は、夏バテに抗(あらが)えず屍(しかばね)をさらけ出しているセミに目が留まる。あるいは熱中症をこうむっているのか、いまだ息たえだえにあお向けに羽をばたつかせているセミに目が留まる。こんなおりの私は、指先で丁寧に拾い上げて、心優しく山の草むらに置いている。もはや、子どもの頃のように放り投げはしない。わが身が老いて生じている、大きな心境の変化である。小犬を引く高齢者の足取りは、逆にまるで小犬に支えらでもするかのようにおぼつかない人いる。これまた、いずれわが身である。
 台風二十号が近づいているせいかこのところの鎌倉地方は、蒸し暑さと強風に晒されている。さらには夏が終わりかけて秋近しとあって、道路上には日を追って落ち葉が増え始めている。そのため、見た目にも道路は、汚(きたな)さをさらけ出している。それを避けるためには、早朝の清掃を心掛けなければならない。もちろん、庭中の草取りも、朝の涼しいうちに如(し)くは無い。二者択一であれば、やはり道路の清掃を優先しなければならない。幸いいまだ夜明け前にあって、今朝(八月二十四日・金曜日)は、慌てふためくことなく道路へ向かえそうである。しかしながら、この健気(けなげ)な行為も今や風前の灯火(ともしび)にある。道路の清掃はわが手にあらず、強風や台風の吹きさらしにすがる手はある。しかしながらそれでは、気分晴れずお粗末である。なぜなら、道路の清掃は傍目(はため)にもわが生きている証しでもある。
 散歩めぐりの人たちから、「このあたり、いつも汚いわね…」と、言われるようになれば、そのときすでにわが生存はない。あれ! 雨が降って道路が濡れている。今朝の清掃は、台風一過に持ち越しである。

人生行路は茨道  

 いつものことだけれど、わが文章の校正作業には、ほとほと気分の滅入りを強いられる。いつもであれば真っ先に、誤りの多さと文章の不出来に苛(さいな)まれる。ところが今回は、あらためて文章を読み進むなかで、それらを差し置いて、時のめぐりの速さ(感)を痛感したのである。
 具体的にはつい最近書いたばかりと思えていた文章なのに、実際には三か月前の出来事だったことに唖然としたのである。こんな調子であれば一年なんて、あっという間もなく過ぎてゆく。おのずから、わが余生は時々刻々と失われてゆく。もちろん、どんなに足掻(あが)いてもどうなることでもない。しかしながら、わかっちゃいるけど焦燥感はつのるばかりである。老齢の身は、悲しい現実である。
 確かに、若い時分は時のめぐりに無頓着だった。ところが今の私は、いやおうなく時のめぐりの速さ(感)に晒されている。そしてそれは、まるで特急列車に乗っている感じさえする速さ(感)である。叶わぬ願望だけれど、各駅停車のようにのんびりとのどかにめぐってほしいものである。もちろん、時のめぐりは一定不変であり、その感じ方は人それぞれの心象風景による。しかし、老齢の身になればだれしも、時のめぐりの速さ(感)に慄(おのの)いているであろう。
 加えて、老齢の身になれば、人には何らかの病がつきものである。卑近なところで卓球クラブのお仲間のお二人様が相次いで、体調不良を訴えられて休まれている。お二人様には、押しつけの「ひぐらしの記」の回読にさずかっていた。ところが余儀なく、お二人様の回読は沙汰止みになった。この頃では、ほかにも体調のせいで回読叶わぬ人が増えている。すると私は、いまだ回読にさずかる人にもご迷惑になるかと案じ、回読の中止を決め込んでいる。
 パソコン上のブログで、ひぐらしの記を読んでくださる人も、もはや少ないのではないだろうか。もちろん、人様のせいにはできないわが無能力のせいである。おのずからこの頃の私は、ひぐらしの記の潮時に心を悩ましている。人様のご好意に支えられてきたひぐらしの記は、今や存続可否の岐路にある。もちろん、わが老齢の身と、それによるモチベーション(意欲、気力)の低下のせいである。それらに、時のめぐりの速さ(感)が輪をかけている。校正作業のたびに襲われるしがないわが心情である。
 今回の校正作業は、第71集『人生行路は茨道』である。なんだか、せつない!

私日記 

 きのう(八月二十一日・火曜日)の鎌倉地方は、残暑とは言えない厳しい真夏の暑さへのぶり返しだった。もちろん、鎌倉地方にとどまらず日本列島のどこかしこに、真夏の陽射しが戻っていた。その証しにテレビ画面の上部には、高気温に見舞われていた地方や地域のテロップがひっきりなしに流れていた。この手のテロップに熱中症への警告が加わると、今や日本列島の真夏の風物詩さながらである。
 こんな暑さ厳しいおり、私は予約済みの「斎藤歯科医院」(横浜市栄区)へ出かけた。予約時間は正午(十二時)だった。いつものように「大船(鎌倉市)行き」路線バスを「砂押橋バス停」で途中下車すると、強い陽射しの中を約二十分強かけて、トボトボと歩いた。額や首筋から汗玉があふれた。汗を拭きふき予約時間の十五分前あたりに当院へ着いた。
 まもなく、お顔なじみの女性歯科衛生士の人から、「前田さん」と、言葉がかかった。治療室は三室あり、1、2、3、と、番号表示されている。私は、今や勝手知った3番に導かれた。先回とこの日の間には、突如入れ歯が外せなくなり、余儀なく予約なしの飛び入りで通院していた。このときは飛び入りでもあって、ほかの医師が対処された。そのため、診療椅子に凭(もた)れると真っ先に、そのことをいつもの医師に伝えた。こののちは、継続治療がほどこされた。まもなく、この日の所定の治療が終わった。思いも寄らず、まだ何度か通わなければならないような担当医師の様子だった。私は腹立ちさを面(おもて)には出さず、それでも臆せず「まだ、何度かかかりますか?」と、訊ねた。すると、
「そうですね。まだ被(かぶ)り物を作ったりしますからね。それに、この歯から膿が出ているようでもあり、次回レントゲンを撮ってみます」
「また、新たな治療が始まるのですか? そちらは、痛くなってからしたいですね。その歯を抜けば、そのあたりはすっぽんぽんになりますね。いやですね」
「レントゲンを撮ってみないとわかりませんけれど、今はなんとも言えませんね」
「その決断は、次回にさしてください。わが寿命まで持ちこたえてくれれば、その歯はそのままにしておきたいですね」
「できるだけ、そうしますが…」
 厄介なことがまた増えそうである。
 歯医者は一度かかり出すと予約の繰り返しで、エンドレスを強いられるのが常である。私は唖然とした面持ちで、当院を後(あと)にした。帰途はいつもと違って大船の街へは回らず、来た道を急ぎ足で折り返した。急いだぶん、汗玉は余計あふれた。
 急いだ理由はこうである。午後二時からの高校野球の決勝戦をテレビ観戦をするためだった。決勝戦は、秋田県代表校・県立金足農業高校対北大阪代表校・私立大阪桐蔭高校だった。私はもとより日本国民の多くは、これまで奮闘し続けてきた金足農業高校を判官贔屓の思いをたずさえて応援していた。一方の大阪桐蔭高校は、高校球界の名うての常勝名門校である。とりわけこの日の大阪桐蔭高校には、史上初の二度目の春・夏連覇の偉業がかかっていた。なお、今年(平成三十年・二〇一八年)の大会は、球史を彩る「第100回全国高校野球選手権大会記念大会」と、銘打たれている。その名に背かず観客動員数は史上最多を成して、阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)は連日最高に盛り上がっている。
 本当のところは双方の高校球児がおりなす熱闘だけに、一方に肩入れすることなく応援すべきものなのかもしれない。しかしながら、この場にきてそんなきれいごとなど言ってはおれず、私と妻は身じろぎせず金足農業高校へのテレビ応援を続けていた。その甲斐無く試合結果は、2対13で金足農業高校は涙をのんだ。一方、大阪桐蔭高校は、晴れて二度目の春・夏連覇の偉業を達成した。敗れたとはいえ、金足農業高校の奮戦は球史に残るものだった。このため、第100回記念大会は、大阪桐蔭高校の偉業と共に、さわやかに幕を閉じた。
 きょう(八月二十二日・水曜日)の文章は、後追いできのうの出来事(日記)を書き留めたものである。高校野球はさわやかに終わったけれど、私の歯医者通いはこの先延々と続きそうである。歯の痛みは途絶えているだけに、なんだか腑に落ちず虚(むな)しさがつのるばかりである。

とことん、はがゆい! 真夏の夢

 夢や願望とは、不断成し得ていないことの裏返しである。この夏にあって私は、二つの真夏の夢を掲げている。その一つは快眠である。もう一つは、病の因無き夏痩せ願望である。しかし後者は、すでに未達のままに断念している。その理由は体重計に乗っても針がいっこうに下振れしないことに、そのたびに腹立ちさをおぼえるからである。さらにはこのときのイライラと、絶えず心中に夏痩せ願望をいだくことで、肝心要の食事とせっかくの好物さえまずく思えるからである。これは、ダイエットにつきもののトラウマ(精神的外傷)なのであろう。もし仮に、夏痩せ願望が叶えられたとしても実りの秋には逆らえず、余計に反動をこうむる恐れが多分にある。
 さまざまな願望を掲げる一方で、生来、意志薄弱の私は、常に逃げ口実を用意してきた。すなわち、これまでの願望未達の原因は、そのつど意志を凌ぐ逃げ口実の強さであった。言うなれば抗(あらが)ったり、矯(た)めたりすることのできない、わが「身から出た錆」ゆえである。この夏の夏痩せ願望の未達は、なさけなくもまたこの繰り返しだったのである。
 一方、快眠の夢はいまだに持ち続けている。しかしながらこれまた、今やゆめまぼろしの過程にある。真夏の夢に掲げた理由は、ずばり就寝中の睡眠に心地良さを欲(ほっ)したからである。そして、欲張りの私は、安眠には飽き足らず快眠を掲げたのである。なぜなら、就寝中の快眠こそ、最も身近に感ずる幸福感だからである。就寝中に幸福感に浸ることができれば、まさしく無償の至上の儲けものである。
 ところが、これには常に悪夢が通せんぼする。確かに、就寝中の悪夢の多くは、過去のわが身にまつわる出来事や悔いごと、あるいはさまざまな既成事実にまつわるものである。一旦これらに見舞われると、俗にいう魘(うな)される思いと、冷や汗ベタベタ現象にとりつかれる。そして、この類(たぐい)の悪夢は、こののち寝起きの気分の悪さを誘引する。
 ところが、ときたまの夢見の中には、どうしてこんな根もない葉もないものが現れるのかというものがある。言うなれば、ノンフィクション(事実や根拠あるもの)でなく、フィクション(虚構の創作もの)ものの夢見である。こちらには目覚めて、なぜこんな夢を見たのであろうと、あらためて慄(おのの)くばかりである。もちろん、これまた悪夢である。
 スヤスヤと眠ることをなぜ? 悪夢は妨(さまた)げるのか。結局、二つの真夏の夢は、どちらも果たせずじまいのままで、秋が近づいている。とことん、はがゆい! 真夏の夢である。

 夏の終わりかけに、つれづれ

 八月二十日(月曜日)、(まいったな! 一気に涼しくなったなー…)、寝起きのわが実感である。寒ささえおぼえている。そのため現在の私は、長袖シャツに冬ズボンの身なりである。確かに、暑さが厳しいのは身に堪える。しかし、八月いっぱいくらいは耐えて、夏の感触に浸りたいと、願っている。なぜなら、遅かれ早かれ季節は、秋冷から寒冷へ向かってゆく。もちろん、ほどほどの暑さの夏の名残を願っている。
 結局、庭中のキュウリは、一本さえ収穫にありつけず早々に立ち枯れた。キュウリに比べてトマトは、いくらかの収穫の喜びを恵んだ。それでも、去年に比べればこれまた物足りなかった。もはや末(うら)生りの様子もない。そのため、双方共にきょうあたり、無下に引き抜かれる憂き目を見そうである。
 先日、西瓜は店頭から丸玉を買って来ている。もちろん、わが欲望の為すがままである。しかし、今しばらく暑さが続かないと、食い気を殺がれそうである。
 きょうは、高校野球にあっては準決勝の二試合がある。私は判官贔屓で日大三校と戦う、秋田県代表校・金足農業高校の勝利を願っている。いや実際のところは、高校生球児の熱闘をみるかぎり、片方への声援の肩入れは慎むべきものであろう。プロ野球は九月を前にして、終盤戦のさ中にある。加えて、「東京オリンピック」(二〇二〇年)の前哨戦とも言える、四年に一度の「アジア大会」(インドネシア・ジャカルタ)が始まっている。その他夏季のスポーツは、試合や競技の真っ盛りにある。
 こんなことで今朝の朝日新聞の朝刊紙面は、スポーツ記事が満載である。まるでスポーツ新聞さながらの紙面を眺めていると、日本社会の平和の証しを見るかのようである。もちろん、悪い気分はしないけれど、ほどほどの報道にしないと、日本は平和だ! と、錯覚しそうである。実際の日本社会は、すんなりと夏が過ぎて、穏やかに秋が訪れることはあり得ない。そうであればやはり、しばしの桃源郷を愉しむべきなのかもしれない。なぜなら、まもなく日本社会には本格的な台風シーズンが訪れる。そのうえ、地震はシーズンを区切ることなく、暇(いとま)なく日本列島を揺るがしている。
 夏の終わりかけにあって私は、わが身のみならず日本社会の安寧な日暮らしを望んでいる。

苦々しい思い出 

 八月十九日(日曜日)の夜明けが訪れている。朝夕にかぎればすっかり暑さが遠のいて、肌触りは涼しさへとなり替わっている。もちろん、昼間もこれまでの暑さは遠のいて、肌身は夏の終わりと秋の訪れを感じている。このためわが思いは、夏の終わりと暑さを惜しむかのようである。
 季節のめぐりは確かな足取りで、夏から秋へと向かっている。これにつれて、学び舎の夏休みも終わりかけている時期にある。わが児童(小学生)と生徒(中学生)時代にあって、私は不登校や登校拒否はたまた引きこもりの記憶はない。登校にかかわりよみがえる記憶はそれぞれの卒業式において、六年間と三年間の「無欠席」(皆勤賞)賞状を授与されたことである。中学校の卒業式にあっては、これに校地を同じくする内田小・中学校における、つごう「九年間無欠席」の賞状が付与されていた。
 今朝の朝日新聞の一面記事には、夏休みの終わりが近づいて、新たな学期となる夏休み明けの九月初めにかけて見られる、子どもたち(十八歳以下)の自殺のことが書かれていた。見出しは「学校に行くのが、つらい時は」であった。多くの紙面を割て書かれている記事の一部には、こう書かれている。「8月下旬から9月上旬の夏休み明け近くは、子どもの自殺が多くなる傾向がある。『学校に行くのがつらい』。そう思い悩む子どもたちの力になればと、不登校や引きこもりを経験した若者たちが動き始めた。内閣府の調査によると、1972~2013年の42年間に自殺した18歳以下の子どもは1万8048人で、日付別で最も多かったのは9月1日(131人)。夏休み明けが近づく8月20日以降は連日50人を超えた。自殺総合対策推進センターが7月下旬から9月下旬にかけての06~15年度の数字を分析したところ、8月下旬に自殺者数のピークがみられた。」
 顧みて、児童・生徒時代(高校を含めて)の私は、ときには死にたい!と、思うほどに近視の進行に脅かされ、悩み続けていた。新聞記事からよみがえる、ひとごとではない苦々しい思い出である。

山鹿湯まつり「千人踊り」 

 わが子どもの頃の「ふるさと」の自治体名(行政名)は、熊本県鹿本郡内田村と言った。おのずから、私が通った小・中学校は内田村立であり、それぞれ内田小学校そして内田中学校だった。校舎は、校地を同じくしていた。「ひぐらしの記」に郷愁のたびに真っ先に記す「内田川」は、村中を一筋貫く本流である。もちろん今なお内田川は、綺麗に河川工事がほどこされ川幅を広げて、絶えることなく流れている。言うなれば内田川は、わがふるさと心を育んできた最大かつ最良のところに位置している。
 ふるさとの現在の行政名は、熊本県山鹿市菊鹿町である。この間には、市町村合併や行政名の変遷がある。記憶に頼って、それを短く記すとこうである。内田村は、昭和三十年(一九五五年)に「菊鹿村」と名を変えた。それは、鹿本郡内田村、六郷村、そして近接する菊池郡城北村との三村合併によるものだった。菊鹿村は、十年後の昭和四十年(一九六五年)に「菊鹿町」へとなり、町政をしいた。こののち平成十七年(二〇〇五年)、菊鹿町は再び記すと熊本県山鹿市菊鹿町となって、現在に至っている。平成十七年当時の日本の国には、平成の大合併の嵐が吹いていた。もちろんふるさとは、国の施策の嵐に抗(あらが)うことはできず、よぎなくこのとき市町村合併にまみれた。具体的には、当時の一市四町による合併であった。一市として存在していたのは山鹿市であった。そして、鹿本郡から離れてこれに併合された当時の四町は、菊鹿町、鹿本町、鹿北町、鹿央町だったのである。言うなれば四町は、こんにちへ存続する山鹿市の傘下に入ったのである。
 わが子どもの頃の山鹿市は、はるかに遠い唯一の市街地だった。記憶を遡(さかのぼ)れば、年に一度くらい学校行事として、映画を観るために歩いて引率されていた。当時のおとなたちは八月十五日が近づくと、『山鹿は灯篭の湯まつりばい!』と、言っていた。山鹿市は古くからの温泉町である。それにちなむ町の華は、八月十五日から十六日にかけて行われてきた「湯まつり」である。このまつりに付随する目玉は、「山鹿灯篭千人踊り」である。千人踊りは、紙で出来た灯篭を頭に載せて夜通し踊る。すなわち、この踊りの特徴は、夜を通して大勢で踊る壮大な美である。子どもの頃の私は、昼間は出かけたことはあるけれど、夜通しの千人踊り見物には出かけずじまいである。結局、私はおとなになってこんにちまで、千人踊りは見ることなく、もっぱら耳便りに甘んじている。
 さて、どうでもよいことを長々と記してきたのは、次のことを記すためである。それは、きのう(八月十七日)付けの朝日新聞朝刊一面に、写真付きでこんな記事に遭遇したからである。「約600年前の室町時代から続くとされる『山鹿灯篭まつり』の『千人灯篭踊り』が16日夜、熊本県山鹿市であった。女性約千人が民謡『よへほ節』などの調べに合わせて踊ると、頭に載せた、金色の和紙でできた金灯篭のあかりが揺らいだ。まつりは、霧に行く手を阻まれた景行天皇が、里人のたいまつに迎えられたという古事に由来すると伝わる。」
 千人踊りのおかげで、私はひとききふるさと慕情を偲ばせていたのである。

八月盆明けのつれづれ 

 台風の大きさを表す表現には、大型、中型、小型というものがある。これらの中で小型台風の場合は、ときとして「豆台風」という表現に置き換えられる。この表現をもじり、先日の朝日新聞の読者投稿欄「川柳」にはこんな一句があった。「わが家にも孫台風が上陸す」。もちろん、お盆という里帰りの時節柄、豆台風と孫台風の語呂合わせを用いて、小さな難儀を揶揄(やゆ)したものである。
 わが家にも八月盆の最中にあって、二晩泊まりで娘と孫のあおば(小学五年生・十一歳)が来宅した。確かに、悲喜交々の孫台風だった。すなわち、来てうれしい、帰ってうれしい、子孫(こまご)の来宅であった。いや、実際のところは、子孫に翻弄されて切ない来宅であった。しかしながら、迷惑千万だとは決して言ってはならないことである。なぜなら子孫にすれば、頼みもしないで荒波多い人生行路へ放り出されたのである。
 四日間の八月盆が明けて、きょうは八月十七日(金曜日)である。八月も半ばが過ぎて、いよいよ夏の終わりが近づいている。この夏の私は、真夏の夢に託し「快眠と夏痩せ」願望を掲げている。ところが、夏の終わりの間近にあってこの願望は、もはやどちらも実現は望めそうにない。快眠を妨げているのは、老いの身特有にモグラたたきさながらに出没するさまざまな妄想である。一方、夏痩せ願望を妨げているのは、暑さに負けずいっこうに衰えない食欲のせいである。もちろん夏痩せ願望の場合は、いたずらに空念仏を唱えているわけではない。それを果たすためには、私は心して食欲の自己抑制に励んでいる。
 具体的には駄菓子や甘味類、そしてこれらののべつ幕なしの食べ放題を慎んでいる。さらには、三度の食事以外の間食も厳しく断っている。それでも、長年緩み続けてきた末の太り肉(じし)は、もちろんちょっとやそっとの決意くらいでは、まったく絞れないままである。食欲の自己抑制自体、食べることの楽しさを奪っている。まさしく、本末転倒である。だから、こんな馬鹿げた志は、もはや解禁の瀬戸際にある。もちろん、禁を解けばたちまちワッと反動の波が押し寄せる。その挙句には元の木阿弥にとどまらず、得たりやおうとばかりにいっそう肉付きの豊かさにさいなまれることとなる。
 生来、私はきわめて意志薄弱である。その極めつきは、何事にもおける三日坊主である。結局、真夏の夢の一つである夏痩せ願望は、徒労すなわちくたびれもうけの後味の悪さだけを残して、幕が下りることになる。その口実には、人間本来の欲望を抑制することは「体に悪い」と、言いそうである。
 きのう(八月十六日・木曜日)の私は、妻は娘宅に出向いて留守であり、ひとりいつもの大船(鎌倉市)の街へ買い物に出かけた。そのおり私は、「かき氷」と表示のある店の前に出向いて、しばし佇んで思案投げ首を演じた。その挙句、店に入るのは我慢した。なぜなら、このときまでにはまだ、甘味類の自己抑制の意志が働いていたのである。しかし、やはり私には湧き出る涎(よだれ)を抑制する意志の強さはない。このため、夏痩せの禁を解いた私は、きょうあらためて往復のバス代を費やし、その店に出向く意志を固めている。なぜなら、その店のかき氷には夏季限定と、添え書きされているからである。結局、わが夏痩せ願望の未達は、きょうからその反動にさいなまれることになる。馬鹿じゃねぇの! と、自分自身を呪(のろ)いはじめている。

「太平洋戦争 終戦の日」 

 平成三十年(二〇一八年)の「八月盆」の最中(八月十五日・水曜日)にあって、七十三回目の「太平洋戦争 終戦の日」(昭和二十年・一九四五年、八月十五日)が訪れている。現在の時間帯はいまだ夜明け前である。当時の昭和天皇からNHKラジオで、終戦を告げる玉音放送が流れたのはお昼のニュースの時間という。このときの私の年齢は、五歳と一か月だった。このため、記憶はいくらか茫然としているけれど、ところが日本の国の一大事(悲しい出来事)とあって、その日の様子は物心つき始めの心中に刻まれている。
 その一つは、その日の私は朝っぱらから隣近所の遊び仲間と、わが家近くの小川に魚取に出かけていた。一方、兄たちは内田村本流の「内田川」に水浴びに出かけていた。昼時に共にわが家へ帰ると、みんな縁先に立ち並ばされて、異母次兄からこっぴどく叱られた。異母次兄は海軍勤務のおり病魔に冒されて、余儀なく自宅療養中だったのである。普段は優しい次兄だったけれど、軍務に就きながら病魔に冒された悔しさもあって、愛国精神は天を突くほどだったのであろう。敗戦の悔しさは、夏空の下、無心に遊び盛りの弟たちへの怒りとなっていたのである。
 縁先に並んでいたのは、わが母の子どもたちの中で、二兄、三兄、四兄、そして私であった。三兄、四兄は、すでに無い。長兄は旧制中学を卒(お)えて気象庁に就職し、その関係で中国・上海へ赴いていたと言う。故長姉のその日のことは聞かずじまいだったけれど、おそらく町中の眼科医院で普段の勤務中だったのかもしれない。当時の長姉は、実際には町中・来民町の宮崎眼科医院で働いていたと言う。次姉は盲腸炎から腹膜炎を併発し、二日前(八月十三日)に若い身空で亡くなっていた(享年・十八歳)。異母三兄はのちの公報によれば、フイリピン・レイテ島沖線戦で、戦死の憂き目を見ていたのである(享年・二十三歳)。
 ひるがえって、きょうの配信ニュースが伝える日本列島の状況には、お盆につきもののふるさとからのUターンラッシュの高速道路の渋滞ぶりがある。もちろん、混雑ぶりは陸(車)のみならず、海(船)、空(飛行機)も同様であろう。台風十三号が過ぎ去ったばかりなのに、後続の台風十四号は、きょうには九州地方に上陸しそうだという。二年後の二〇二〇年には、二度目の「東京オリンピック」がひかえている。
 「東京大空襲」(昭和二十年・一九四五年、三月十日)に遭って焼け野原と化した東京の街は、今や世界中の人々の垂涎(すいぜん)の的ともなる繁栄ぶりである。まさしく隔世の感ある、「国破れて山河在り」である。

休むべきだった 

 八月十四日(火曜日)、八月盆の二日目の朝を迎えている。きのうの夜には娘と孫娘のあおば(小学五年生・十一歳)が来宅し、隣室でスヤスヤと眠っている。このため、早い時間から音を立てるのは気が咎(とが)めるから、文章を書くのは控えた。そして、いまだ夜明け前の薄明りのなかにあって、私は道路の清掃を優先した。
 きのうの鎌倉地方は、夕方になって大気の不安定に見舞われ、突如大空が曇り出し遠雷をひびかせた。遠雷はしだいに近づいて、二、三度、度肝を抜く雷鳴をとどろかした。雷鳴は恐ろしかったけれど耐えて、私は夕立を望んだ。ところが、雷鳴の割には、雨は小降りにとどまった。私はがっかりした。しかし、小降りの夕立だったにもかかわらず、そののちは温気(うんき)が払われて、心地良い夜を迎えた。
 今朝、私は玄関口を出ると、手ぶらで道路に出た。そして、山際のわが清掃区域の確認に向かった。確認とは、道路の濡れぐあいの確認である。確かに、すっきりとは乾いてはいないけど、掃けないこともない。一方、落ち葉は小降りの雨だったにもかかわらず、汚らしく散乱していた。(よし、掃除をしよう!)。すぐに引き返し、物置から掃除三点セットを持ち出してきた。いわゆる、箒、塵取り、ごみ入れ用の半透明の袋である。約一時間かけて、掃除を終えた。
 文章を書くには、大きな出遅れである。余儀なく、文章は休もうと思った。その思いを覆して、つづったのはこの文章である。やはり、休むべきだった。わが凡庸な脳髄では、二つは叶えられない。いや、一つさえ叶えられない。

「八月盆」 

 わが肌感触では「秋の風」、そして夕立まがいの「夜来の雨」に見舞われて、季節のめぐりは明らかに初秋の候を迎えている。昼間はともかく夜間は、すっかり暑気が遠のいて、就寝時は夏から秋の装いに変わり始めている。もはや、網戸では風の冷たさを体が堪(こら)えきれず、網戸不要に窓ガラスを閉めている。さらには、夏布団がしだいに用無しになり始めている。人間の感情はきわめて欲張りでこうなると、あんなに暑さに辟易していたにもかかわらず、夏の終わりを寂しく思う。
 日本列島にあってきょうは、「八月盆」の入り日すなわち迎え日(八月十三日・月曜日)である。今さら言わずもがなのことだけど、お盆の風習は地方や地域によって、「七月盆」と八月盆のどちらかで催行される。わがふるさと(熊本県山鹿市菊鹿町)の場合は、古来七月盆の習わしである。一方、終(つい)の住処(すみか)を構えている神奈川県鎌倉市の場合は、おおむね八月盆の習わしである。わが霊魂にすれば、どちらで迎えてくれるの? 悩ましいところである。
 私はふるさとのしきたりにしたがって、七月盆の催行を望んでいる。しかしながらこれは、わが一方的望みであって死んだ先のところはわからない。だから、想像を試みる。すると、実際のところ遺族は、八月盆で営むであろう。いや、営むというのはこれまた自分勝手であり、どちらもおぼつかないところがある。空念仏であれば欲張りついでに、二度すなわち七月盆と八月盆共にわが御霊を迎えてほしいと、願っている。いや、片方だけの催行さえおぼつかなければ、一瞬でも生前の私を浮かべるくらいはしてほしいと、願っている。
 お盆にあってきょうのわが心中には、一つの諺(ことわざ)が浮かんでいる。今さらおさらいをするまでもないありふれた日常語だけれど、私は電子辞書を開いている。
 【去る者は日日に疎(うと)し】「使い方:親しく交わった人でも、遠ざかるとしだいに交情が薄れるものだということ。また、死んだ人は年月が経つにしたがってしだいに忘れられるものだということ。疎しは、人と人の関係が親密でなくなる意。誤用:人ではなく、ある物事から遠ざかる場合をいうのは誤り。出典:文選・古詩十九首に、去る者は日に以って疎(うと)く、来る者は日に以って親(ちか)しとあるのに基づく。」
 人情が薄情になるのを防ぐのが、お盆の意義なのかもしれない。お釈迦様の御粋(おいき)な計らいである。

夜来の雨 

 八月十二日(日曜日)、夜来の雨は夜が明けてもなお降り続いている。部屋の中の温気(うんき)は払われて、心地良い冷ややかさである。このことではひととき度胆を抜かれたけれど、突然の雨は、今となっては恵みの雨と言えそうである。
 確かに私は、この雨に度肝を抜かれていた。いや、実際のところは雨が連れ立っていた雷轟(らいごう)のせいだった。夜間、一時過ぎに私は、便座に腰を下ろしていた。このとき、たった一度だけ身近に不気味な音がして、体に異様に響いたのである。てっきり私は、わが家だけの異変だと、思った。わが心中には、夜の静寂(しじま)に不意を突かれた恐怖が走った。(荒屋(あばらや)のどこかが損壊し、落下したな? まいったなあ……)。私は気を揉んで階下に降りた。音を妻に確かめようと思った。案の定、妻は寝(やす)んでいた。私は見回りのため、玄関ドアを開けて外に出た。玄関灯と外灯は、わが家周りと道路の見回りに十分応(こた)える明るさだった。舗装道路は濡れて、キラキラと光っていた。わが家周りは、遠目、夜目に、目を凝らして損壊状況を確かめた。幸い気が留めていた異状はなかった。私は安堵して二階に引き返し、再び床に就いた。
 しばらくして、二度さっきと同様の音がした。ところが、こんどははっきりと雷轟と、確認できたのである。どちらも、稲光を認識しない雷だったのである。難聴の耳は物心ついて以来、恐怖に慣れ親しんできた雷鳴さえ音別出来ない、お粗末ぶり露わにしている。なさけない、夜の静寂の出来事だった。本当のところは、待ち焦がれていたゆえに夕立と、書きたいところである。しかし、あえて夜来の雨と、置き換えたのである。夕立であれば、さっと降って、さっと止むけれど、雨はなお小降りに降り続いている。
 きのうの『山の日』にあって私は、風の肌触りを「秋の風」記した。すると、この夜来の雨は、秋の訪れをいっそう加速させそうである。難聴のもたらしたなさけない物語は、一巻の終わりである。

 「山の日」

 通常の休日と重なる「山の日」(八月十一日・土曜日)が訪れている。山の日は、「海の日」(七月第三週の月曜日)とは異なり、一定日の祝日である。しかし、二年後の二〇二〇年にあっては、八月十日(月曜日)に変更されるという。その理由は、東京オリンピックの閉会式の翌日に当たるからだと、言われている。もともと海の日があれば山の日がなければおかしいという程度の、とってつけたような祝日だから難癖をつけることもない。もとから祝日の定めには、日本政府や有識者のさまざまな思惑が見え隠れしながらからまっている。半面、肝心の日本国民の認識は夏の盛りにあって、休日が一日増えたと喜ぶ程度のものである。ところが、今年の場合は土曜日と重なりその恩恵を失くし、多くの国民は休日を一日損したような気分であろう。もちろん、勤務や職業からとうに外れている私は、幸か不幸か損した気分からは埒外(らちがい)にある。
 確かに、海の日があれば山の日を求めるのは、素直な国民感情であろう。なぜなら日本列島は、海の幸および山の幸はもとより、山紫水明に恵まれて成り立っている。言うなれば日本列島は、あちらを立てればこちらが立たず、すなわち海と山の共存の恩恵にすがっている。そのため、その恩恵に報いるための双方の祝日設定なのであろう。そうであれば四の五の言わず(つべこべ言わず)、双方の設定意義をかみしめるべきであろう。
 きのうの私は、夏の日を浴びてしばし道路にたたずんだ。ところがこのとき、(おや、夏の風?)と、思った。確かに、すでに「立秋」(八月七日)は過ぎている。日頃鈍感な私は、ところがこのときは瞬間の風ひとつに敏感に反応したのである。夏の風と秋の風の違いは、体感する肌触りである。具体的には、肌身を撫でる風の冷ややかさの感触である。(もう、夏は終わるのか!)。暑さが遠のく半面、わが心中には夏を惜しむ寂しさがつのっていた。
 海の日にちなむ思い出がふるさとの「内田川」の川遊びであれば、山の日にちなむ思い出は、里山の「ハサンムシ」(クワガタ)捕りである。思い出は遠くなるばかりだが、そのぶんありありと甦(よみがえ)ってくる。

儚(はかな)い願掛け「真夏の夢」 

 きのうの「長崎 原爆の日」(八月九日・木曜日)にあって、高校野球では長崎県代表校の「創成館高校」が戦っていた。あらかじめ作為されたものではなく、正当な抽選結果のもたらしためぐりあわせだった。このこともあって私は、創成館高校をテレビ応援していた。しかし、創成館高校は対戦した岡山県代表校の「創志学園高校」に敗退した。つらい歴史のめぐりあわせのこともあって私は、創成館高校に勝ってほしいと、テレビ応援を続けていた。しかし、願い叶わずつらい敗戦だった。
 またきのうは、沖縄県代表校の「興南高校」が茨城県代表校の「土浦日大高校」と戦った。前日には、闘病中の翁長沖縄県知事の訃報が伝えられた。この訃報のみならず沖縄県には、太平洋戦争にまつわる悲しい歴史がつきまとっている。このこともあって私は、沖縄県代表校には毎年格別のテレビ応援を続けている。こちらは、幸先よく初戦を突破した。ところが、わがふるさと県・熊本の代表校「東海大熊本星翔高校」は、すでに初戦敗退した。対戦相手校の高校生にはまったく罪はないけれど、テレビ観戦はおのずからみずからの思いやかかわりにおいて応援する羽目になる。もちろん、高校野球にかぎらずすべてのスポーツ観戦のやむを得ないところである。
 わが関心のある九州圏代表校は、鹿児島県、佐賀県、大分県の代表校もすでに敗退している。初戦を勝ち進んでいるのは、宮崎県、福岡県南代表校、そして沖縄県代表校である。福岡県北代表校の初戦は、この先の日程にある。おのずからこの先のわがテレビ応援は、初戦を勝ち抜いた沖縄県代表校の興南高校になりそうである。ふるさととは偉大なものであり、現住する神奈川県代表校は、熊本県代表校にかぎらず九州圏内の代表校に比べれば、わが注目度はまったくの形無しである。
 高校野球のテレビ観戦以外にこのところの私は、台風十三号騒ぎに感(かま)けていた。そのせいで私は、季節のめぐりに迂闊(うかつ)だった。季節はすでに「立秋」(八月七日・火曜日)を過ぎて、あすには「山の日」(八月十一日・土曜日)が訪れる。ところが、山の日はあいにく土曜日と重なり三連休をなさず、通常の土曜休日に埋没している。勤務の身の人たちには、本来の休みを一日損した感があるだろう。次には月曜日(八月十三日)を迎え日として、日本列島には八月盆がめぐってくる。日本列島の夏は、秋の入り口にあって、いよいよ大団円さながらに沸騰している。
 こんなおり私は、快い「真夏の夢」にありつきたいものである。わが真夏の夢は、快眠そして太身(ふとみ)の細る夏痩せである。しかし、二兎を追ってはどちらも叶わない。だから、二者択一で我慢すれば後者にありつきたいものだ。もちろん夏痩せは、病なく自然体で叶えたいものである。ところが、八月の途中にさしかかり、いまだに約一キロ減にすぎない。私は欲深く、最低五キロあわよくば七キロ減を願っている。しかし、真夏の夢にこんな無理難題を託すようでは、もはや夢見は、空夢(からゆめ)すなわちゆめまぼろしである。
 立秋が過ぎればしだいに季節は、「収穫の秋」や「味覚の秋」、「馬肥ゆる秋」へとめぐってゆく。店頭に出回る「果物の秋」、そしてイの一番は「新米の秋」が訪れる。夏痩せ願望を果たすためには、心して西瓜など夏の好物の食べ過ぎの抑制である。だけど、これらを我慢してちょっぴり夏痩せを叶えても、次にめぐりくるのはとうてい抑えきれない「満腹の秋」である。
 余生短いのに、なんだかばかばかしいわが真夏の夢である。結局、快眠くらいがわが身相当の真夏の夢であろう。しかし、現在の私には、それさえ叶えることは日々至難のわざである。 

台風十三号の悲哀 

 現在は、八月九日(木曜日)の夜明け前、四時近くである。わが現住する鎌倉地方は、恐れていた台風十三号の直撃は免れたようだ。すべての雨戸を閉めて就寝したため、雨戸を開けないかぎり外の様子がわからない。就寝中、雨戸を打つ風の音で目覚めたことはなかった。いつもの習性のトイレ起きのときでも、雨戸を揺らす風の音を聞くことはなかった。そのため、台風の様子を知るためには、雨戸を開いてみたい気持ちは山々である。しかしながら、この時間帯に雨戸を開ける音を響かせることには、隣家に気が引けてそれはできない。だから、パソコンを起ち上げるやいなや私は、台風の様子を知るためには配信ニュースを読み漁った。もちろん、ずばり鎌倉地方および周辺の台風事情を知るためである。
 どうやら台風十三号は神奈川県や東京都を逸れて、すでに千葉県から茨城県の方面へ向かっているようである。すると、逆戻りや吹き返し、すなわち台風表現に置き換えれば迷走しないかぎり、きょうの鎌倉地方は台風一過となりそうである。だからと言ってこれでホッと安堵すれば、身勝手の謗(そし)りを受けてわが身はすたる。そのため現在の私は、千葉県および茨城県の人たちの事なきを願っている。とりわけ茨城県古河市には、大沢さまのご実家が存在するゆえもある。
 夜明けが訪れて雨戸を開けることに気が留めなければ、先ずは雨戸を開けて外の様子を窺(うかが)うことになる。おそらく道路は、山から落ちてきたずぶ濡れの枝葉で狼藉(ろうぜき)をきわめているであろう。次には玄関口を出て、わが家および周辺の見回りをすることになる。荒屋(あらばや)だけに、台風一過のわが最も切ない気になる行為である。なぜなら、このときの私には荒屋のせいで、無傷では済まされない思いがつきまとっているからである。
 きのうの鎌倉地方は一日じゅう、早手回しに小型台風に見舞われていた。わが家は山際の立地である。そのため、茶の間の窓ガラスを通して山の枝葉の揺れを見ながら、私は風の強弱を知ることができる。するときのうは、嵐をはるかに超えて確かな小型台風だった。茶の間から眺める被害は、先日の嵐にはようやく倒れ忍んでいた、ミニトマトとキュウリの吹き倒れだった。今年の場合、どういうわけかキュウリは、たったの一本の収穫にさえありつけなかった。一方、ミニトマトは収穫期の途上にある。ところが、きのうの小型台風でミニトマトの収穫は、未完のままに打ち止めをこうむったのである。ごく小さな出来事だがはからずも私は、あらためて農家の大きな悲哀を知ることになったのである。そして、ミニトマトの倒れは小型台風のもたらした教訓として、わが身を慰めているところである。
 台風十三号のもたらした唯一の余得は、暑気の遠ざかりにありついていることである。現在の私は、長袖シャツに身を包んでいる。雨戸を開ければ夜明けが訪れている時間帯になっている。しかし私は、いまだに雨戸を開けることをためらっている。荒屋の雨戸の音は、ひと際「ギイギイ、ゴオーゴオー」と、響くからである。嵐や小型台風が襲うたびに荒屋に住む私は、わが恐怖はつのるばかりである。そして嵐や小型台風は、わが甲斐性無しを嘲(あざけ)るかのように過ぎ去って行く。大型台風が見舞えば、もちろんわが荒屋は、ミニトマトの二の舞は免れない。強風、嵐、大嵐、小型台風、そして大型台風、常に私は、風の強弱にかかわらず風の吹きようにドギマギを強いられている。台風一過の見回りは、わが甲斐性無しの証しを点検するかのようでもあり、とことんなさけなくやる瀬ない。
 雨戸開けは、まだためらっている。しかし、台風の確認であれば、もう許されるかもしれない。道路の狼藉はともかく、私は荒屋の無事無難を願っている。

我慢できるもの、できないもの 

 台風十三号が北上し、接近中という。関東地方には、今夜(八月八日・水曜日)あたりに上陸の恐れがあるという。台風接近の前触れだったのか? きのう(八月七日・火曜日)の鎌倉地方は、一日じゅう強い風をともなって、降ったり止んだりの小降りの雨に見舞われた。わが夫婦は茶の間に居て、陽射しを待ち望んでいた。しかし、いっときさえ陽射しは現れなかった。陽射しを望んでいた理由はこうである。茶の間はこれまでの暑さが遠のいて、わが夫婦はこんな会話を交わしていたのである。
「パパ。寒いわねー、わたし風邪を引きそうよ」
「ほんとに寒いね。おれは、もう半袖から長袖に切り替えているよ。おまえも、長袖にしたら」
「わたしは、肌着の上に半袖なのよ。パパは、長袖一枚でしょ。わたしのほうが着ているのよ」
「だけど、寒いんだったら、その上にジャンパーを羽織るか、長袖に切り替えればいいよ」
「そうね。そこの毛布をわたしに渡してよ」
「これか?」
「そうよ、それよ。ありがとう。これにくるまると、あたたかいわ!」
「やっぱり、夏は暑いほうがいいね!」
 茶の間の気温は、据え置きの温度計で見ると、十七度あたりを指していた。
 台風十八号の本番は今夜あたりという。その余波があす以降になれば、関東地方はあさってあたりまでは冷え込むのであろうか? 台風被害さえなければ、これまでの暑さ続きの中の突然の冷え込みは、天恵と言うべきであろう。しかし、実際に天恵なのかどうかは、もちろん台風一過までお預けである。鎌倉地方の冷え込みの最中にあって、日本列島の各地には、高気温と暑気が続いていた。その証しにテレビ画面の上部には、いつもどおりに高気温地方や地域を示すテロップがひっきりなしに流れていた。
 私はふるさと電話を手にした。受話器の相手は甥っ子(故長姉長男)である。
「きょうも暑いから、三十七度くらいはあるとじゃなかろかな? 夕立もずっと降らんし、雨がいっちょん降らんもんじゃけ、毎日、暑か、暑か。そっちには、台風が来よっとじゃろ?」
「そうや。夕立がないのか? こっちには台風が来てるから、きょうは風が強く、雨も降ったり止んだりしてるよ。そのせいでこっちは、冷え冷えだよ。今のおれは長袖を着ているよ」
 冷え込んでいたきのうのわが夫婦の行動は、一日じゅう茶の間暮らしだった。
 テレビは、高校野球の点けっぱなしだった。ときおり、短くニュースが挟まれた。主なニュースは、東京医科大の不正入試にまつわるものだった。東京医科大のみならず、どこの大学でもしでかしそうなニュースだった。それでも、飛び抜けてひどいニュースだった。天変地異に先駆けて人為の日本列島は、政界、官界、財界、スポーツ界、加えて教育界、俗塵まみれである。
 道徳教育は、児童生徒に為すべきものではなく、偉(えら)ぶっているおとなたちへの教化(教科)こそ先決であろう。「正直者が馬鹿を見る」。こんな人生訓が蔓延(はびこ)ることは、平成の世の文字どおり末の恥晒しである。自然界のもたらす暑さ寒さは、我慢すれば耐えられないこともない。しかしながら人為の悪徳は、我慢できず耐えられない。こちらも、ひっきりなしにテロップで流れてくる。
 平成の世は残り半年弱だが、人為の悪徳は時代の境なく、蜿蜒長蛇(えんえんちょうだ)と続きそうである。いや、さまざまなところでもっと現れ、現在の悪徳はもっと加速しそうである。突然の冷え込みは、長袖を着込んで防いでいる。しかし、人為の悪徳は、防ぎようなく冷え冷えである。

悲しい日本の夏 

 日本の国の夏(八月)に必ず訪れるのは、広島(六日)と長崎(九日)の原爆の日、そして終戦の日(十五日)の式典である。いずれも、太平洋戦争にまつわる悲しい式典である。
 きのう(八月六日・月曜日)の私は、NHKテレビが報じる「広島 原爆の日」として行われる「平和祈念式典」に観入った。今年(平成三十年・二〇一八年)の式典は、被爆七十三年と言う。式典冒頭における松井一美広島市長の「平和宣言」において、私はこの言葉に新たな悲しみをいだいた。
 「73年前、今日と同じ月曜日の朝。広島には真夏の太陽が照りつけ、いつも通りの一日が始まろうとしていました」。
 まさしく、真夏の日常生活の一瞬の変転である。日常生活の変転の虚しさを、これほど痛ましく呼び起こす言葉はほかにないだろう。原爆投下の時間は、朝の八時十五分という。一日の行動開始時間に合わせた狙いだったのであろう。まさに、日常生活の寸断である。私の悲しみは、かぎりなく増幅した。
 人間とは、非情なものである。NHKテレビは、同時間帯にあって別チャネルでは高校野球を中継していた。すると私は、人間の日常生活とはこういうものか、という思いを新たにした。おのずから私には、太平洋戦争のしでかした出来事が忌まわしく思えていた。
 松井一美市長の平和宣言の次には、小学六年生男女二人が言葉を述べた。続いては安倍総理の挨拶があった。私はこの手の式典には安倍総理にかぎらず、総理の挨拶は不要に思えた。その理由は、厳粛な式典が変質するおそれがあるからである。きょうの文章はここで留めるべきだけれど、記録のため蛇足を重ねるものである。もちろん、気が引けるところである。
 【鎌倉の死骸はシロナガスクジラ…「貴重な資料」】神奈川県鎌倉市坂ノ下の「由比ガ浜海水浴場」で5日に見つかったクジラの死骸は、雄のシロナガスクジラとみられることが6日、わかった。国内の浜辺に打ち上げられたのは極めて珍しいケースで、調査した国立科学博物館は「生態解明につながる貴重な資料」としている。同館の田島木綿子・研究主幹によると、死骸には、とがった形の胸びれや、白いまだら模様などがあり、シロナガスクジラの特徴と一致した。体長は約10・5メートルで子どもとみられる。成長すると、地球上の動物で最大の体長30メートルほどになるという。また、船舶に衝突したような外傷がなかったことから、母親からはぐれ、死んでしまった可能性があるという。同館は死骸を解体後、標本にして研究に役立てる方針。(2018年8月6日 22時37分 、読売新聞配信)。
 あさって(九日)には、「長崎 原爆の日」が訪れる。八月七日(火曜日)、のどかに夜明けが訪れている。「太平洋戦争さえなければ……」、この思いひとしおの日本の国の夏である。

 「広島 原爆の日」

 今朝(八月六日・月曜日)のわが購読紙・朝日新聞の朝刊は、日本の国の近・現代史の大きな出来事を併記している。その双方に共通するのは、「戦争と平和」である。双方の記事の引用を試みる。
 【広島 きょう「原爆の日」】「広島は6日、被爆73年となる『原爆の日』を迎える。広島市の松井一美市長は式典で、日本政府に、核兵器廃絶のため国際社会が対話と協調を進めるよう促す役割を求める。」
 【第100回全国高校野球選手権記念大会】「第100回全国高校野球選手権記念大会が5日、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で開幕した。開会式には皇太子ご夫妻が出席し、第1試合の前には星稜(石川)OBで元大リーガーの松井秀喜さん(44)が始球式をした。大きな節目となる大会を記念して、全国から史上最多の56代表が集った。開会式には第1回大会(1915年)から地方大会に続けて参加している15校の主将も参加。その一人で、第1回の開幕試合で勝利した鳥取西(当時は鳥取中)の浜崎瀧大郎主将が入場行進の先導役を務めた。大会は休養日を含めて17日間。順調なら21日に決勝がある。大会を通して第1試合前(準決勝は第2試合も)に、歴史を彩った元球児による『甲子園レジェンド始球式』が行われる。」
 本来であれば今大会は、104年大会のはずである。ところが、太平洋戦争の戦時中の4年間(1941年から1945年)は、それにより中止されたのである。広島への原爆投下は、1945年(昭和20年8月6日午前8時15分)、まさしく第100回記念大会は、「戦争と平和」の証しと言うべきものである。

第100回記念大会開幕日 

 八月五日(日曜日)、今朝は昨晩の夜更かしのせいで寝坊してしまった。そのため、記念すべききょうのイベントだけを記録に留めるものである。夜更かしの理由は、わがファンとする阪神タイガース対ヤクルトスワローズの試合が、延長十一回までもつれたためだった。幸いタイガースが勝利したため、最後までテレビ観戦したのである。
 例年私は、訪れている八月は気分の重たい月と書き続けた。その理由の一つは、過去の太平洋戦争の記憶が呼び起されるためである。その皮切りは、あす・八月六日の「広島原爆の日」である。私事でも異母兄は、八月に戦死の公報にまみれている。さらに次姉は、主治医先生の「戦争さえなければ…」という、嘆息の言葉を残し薬剤不足の下、盲腸炎から腹膜炎を併発し亡くなっている。その命日は、終戦の日の二日前の八月十三日である(享年十八)。
 さて、記録に残すべききょうのイベント(行事)は、第100回全国高校野球選手権記念大会の開幕日(開幕式)である。第1回開催年は、1915年と記されている。それ以来今回まで、1942年から1945年の四年間は、戦時中のため余儀なく開催は中断されている。わが生誕年1940年(昭和十五年)は、26回大会と記されている。再びの開催年は1946年であり、このときわが年齢は就学前の六歳である。ところが、すでに物心がつき始めていたこともあって、おぼろげながら記憶にある。そして、この大会を発端にして私は、野球少年となったのである。
 加えて、私がタイガースファンになったのは、20回大会(1934年)で活躍した藤村富美男選手(当時広島・呉港中学)のタイガース選手としての活躍による。この大会の歴史は、わが人生の足跡でもある。今年(平成三十年・2018年)は第100回記念大会であり、その開会式はきょう行われる。このため、そのことを記録に留めたのである。まもなく、開会式である。わが足跡の先には、わが未来は芥子粒ほども残されていない。

憤(いきどお)り 

 電子辞書を開いて、対義語の意味調べを試みている。「公憤」とは、正義感から発する、公のことに関するいきどおり。「私憤」とは、私事に関するいきどおり。私人としての憤慨。この意味調べに対応し、現在「公憤」をおぼえているのは、西日本豪雨の被災地と被災者を置き去りにし、総裁選の動向に明け暮れている与党・自民党にたいする憤りである。一方、私憤はさまざまにある。私憤とはちょっぴり意味違いに、自分自身に腹が立っているのはこれまたさまざまにある。そして、これには「後悔先に立たず」という、人生訓がつきまとっている。
 一つだけ直近のことで具体的に記すとそれは、歯医者通いのたびにつきまとう悔いごとである。より具体的には、こんなに痛い目に合うなら子どもの頃から、もっと丁寧に歯磨きをしておけばよかった、という悔いごとである。まさしく現在の私は、自分自身への憤りと同時に、後悔先に立たずという、人生訓を身に沁みてこうむっている。
 歯医者通いのつらさは、一旦通い始めると一度だけでは済まされず延々と続くことである。患者は、まるで「飛んで火にいる夏の虫」さながらになる。一方、歯医者にすれば、「鴨が葱を背負って来た」と、ひそかに微笑みたくなる。患者はお金をさらけ出し、歯医者は飯のタネにありつける。診療椅子に体を横たえて、そのつどこんなことを浮かべていても、私は歯の痛みに耐えきれず、歯医者通いを繰り返している。
 やるせなくも歯の治療の特徴は、「こちらを治せば、あちらも虫歯」という、際限ない「モグラたたき」同然である。「こちらも傷んでいますね。今、処置しておかないと、やがて痛み出します。どうされますか?」こうあからさまに脅迫されると、私にはそれを遮(さえぎ)る勇気は微塵(みじん)もない。まさしく、「俎板(まないた)の鯉」同然である。すると、丁寧に「わかりました。治療お願いします」。あるいは、ぶっきらぼうに「お任せします」と、応ぜざるを得ない。「いや、今回はいいです。しばらく様子をみてみます」。本当のところはこう言いたくても、この言葉はなかなか言えないものである。だから、診療椅子に寝そべりながらわが心中では、医師との葛藤を余儀なくしているところがある。
 ところが、歯痛だけは自然治癒の望みはなく、私は常に脅迫言葉に屈している。その挙句治療中の私は、公憤や私憤そして自分自身にたいする憤りを浮かべて、痛みを堪えたり、紛(まぎ)らわしたりしている。人の世にあっては、憤りの種は尽きない。

 心地良いものの双璧

 悩まされていた歯痛が止った。そのため、ぐっすり眠れた。熟睡に恵まれた目覚めの気分は、心地良い気分の最高位にある。熟睡は、死に接近している。このことでは案外、死は恐れることではないのかもしれない。もちろん死には、再びの目覚めはない。だから死は、熟睡とは異なり目覚めの心地良さは味わえない。そのぶん、無期限の安楽なのかもしれない。これこそ、熟睡と死の根本的違いと言えそうである。
 熟睡後の目覚めの気分が最高位であれば、次に続くものは何であろうかと、自問を試みる。そして、自答を浮かべている。すると、真っ先に浮かぶのは、互いに言葉を掛け合う挨拶である。挨拶には、大仰なシチュエーション(状況)の誂(あつら)えはまったく必要ない。すなわち、出会いがしらの短い言葉で十分事足りる。しかしながら挨拶には、熟睡とは違って人様が介在する。そしてこのことは、きわめて厄介である。
 熟睡はもちろん個睡である。ところが挨拶は、一方通行では成り立たない。わが挨拶言葉が相手に無視され、逆に相手の言葉に私が無反応であれば、どちらの場合も気分は害される。すなわち挨拶は、人同士の共同行為である。そしてその多くは、それまで見ず知らずの人との共同行為でもある。ところが、出会いの初めて(初対面)の挨拶言葉の一つの良し悪し(印象)で、互いの人生に影響を及ぼしがちである。すなわち挨拶には、時を選ばず朝、昼、晩、そして出会いがしらに咄嗟に交わし合う言葉だけで人は、相手を選別したり、選別されたりするところがある。もちろん挨拶は、学歴や身分の高低、職業や所得の差異など属性的なものとは無縁で、人となりだけ十分である。
 ところが案外、この人となりが厄介でもある。なぜなら人となりは、にわか仕立ての訓練や、一念発起の誤魔化しで叶えられる代物ではない。すなわち人となりは、生来あるいは後来の生き方の集大成である。もちろん私の場合は、人となりはたずさえていない。そのためそれを補うためには、始終腐心しなければならない。その心掛けの筆頭は、挨拶言葉である。なぜなら私は、挨拶言葉の心地良さを知りすぎているからである。しかし、難聴にとりつかれて以来私は、先方の挨拶言葉に、返す言葉を失いかけている。それを防ぐためには、もちろん心して耳をそばだてている。しかしながら耳(器官)の衰えは、それを防ぐことはできない。残念至極である。そして、耳が頼りなければすがるのは、もっぱら目と口である。
 朝の道路の清掃にあっては、散歩で往来する人の所作にひそかに目を凝らしている。そして、口の動きを察すれば、すぐさま「おはようございます」と言って、応じている。口の動き無く、軽く頭を下げて通り過ぎる人もいる。これらの人には「おはようございます」と言ったり、私も目で応えている。挨拶の難しいところは、ひとりよがりであってはかえって、相手の心象を損(そこ)ねることである。言うなれば挨拶は、互いの阿吽(あうん)の呼吸で成り立っている。もちろん、無表情に通り過ぎて行く人もいる。私のほうから、挨拶言葉を掛けたい気持ちは山々である。しかしながら私には、自重するところがある。なぜなら、挨拶の押しつけ(押し売り)は禁物である。結局、挨拶は押しつけがましくなく、互いの人となりのほとばしりこそ、至上の心地良さにありつけるものである。
 このところの朝の道路の清掃にあっては、一つ快い異変が起きている。勤務の無い日だけの市民ランナーと思えていた人は、実際には出勤前の日課のようだったのである。ここ二日ばかりの平日に、走りながら「おはようございます」と、先方から声をかけて、通り過ぎて行かれる機会に遭遇したのである。すると私には、その背中に向けて「がんばって!」という、朝の言葉が定着したのである。心地良く、挨拶を交わし合うご常連が増えたのである。
 挨拶言葉の心地良さは、熟睡の心地良さの次点ではなく、相譲らぬ双璧を成すものである。そして、どちらも元手(金の)かからない心地良さでもある。柳の下の泥鰌(どじょう)を狙って、今朝も道路の清掃へ向かいたくなっている。きのう(八月二日・金曜日)の私は、行きつけの「斎藤歯科医院」(横浜市栄区)へ出向いて、歯痛の応急措置をしてきたのである。

ああ、なさけない 

 このところの私は、モチベーション(気力)の低下に陥っている。わがモチベーションの低下は、まるで潮騒や間欠泉のごとく、正確に時を刻んでめぐってくる。いや実際のところは、時を入れずに始終めぐってくる。わがなさけない精神の悪魔である。これに罹患すると、すべてが厭(いや)になる。とりわけ心象でつづる文章は、にっちもさっちもいかなくなる。
 モチベーションの低下に陥る誘因はさまざまにある。ところが、それを克服する能力と気力がないため、この症状に陥るのである。現象と書けばいいのに、症状と記した。症状とは、病の表現である。心身と言うように精神と身体は一体である。身体が健康であれば精神は賦活(ふかつ)する。身体が蝕(むしば)まれれば精神は萎(な)える。精神が損(そこ)なわれれば、もちろん身体もまたは損なわれる。どちらがあとさきと言うものでもない。心身は文字どおり一体である。結局、モチベーションの高低は、心身状態に基因する。だから、それを高く維持することは厄介であり、私にかぎらずだれしもとうてい不可能なことではある。しかしながら、私の場合は常にモチベーションの低下に悩まされている。それは生来のわが小器ゆえであり、修復の余地ない「身から出た錆」である。
 このところの私は、身体の不調に脅(おびや)かされている。ところが、これは気にしても仕方ないことであり、実際にもそんなに気に病(や)んではいない。確かに、今の私は歯痛に悩まされて、直接的にモチベーション低下の誘因になってはいる。しかし、モチベーション低下の元凶は、もろもろの精神状態の不安や困惑からもたらされている。これまた、どうもがいてもどうなるわけでもないから、気にするだけ損だとは思う。ところが、こちらには絶えず悩まされている。
 書くまでもないこんなくだらないことを書いて、夜明けの道路の清掃へ向かうこととする。さわやかな夏の朝が、わがモチベーションの高揚に一役買ってくれるのを願っている。本来、自力で回復すべきところを夏の朝にすがったり、ご常連の人との挨拶に頼るのは、ほとほとなさけなくはある。「歯が痛くて、気分憂鬱です」、と言いそうである。こんな身も蓋もない文章では、きょう(八月二日・木曜日)は、歯痛を口実に休むべきだったのかもしれない。

きのうは書き殴り、きょうは走り書き 

 七月から月が替わり、八月一日(水曜日)の夜明けが訪れている。今朝の私は、四時四十分頃に起き出してきた。いつもの習わしであれば、すぐにキーボードへ向かって、文章を書き始めている。そして、文章を書き終えれば、道路の掃除へ向かうことを日課にしている。しかしながら、この日課もしだいに朝はおぼつかなくなり、昼間あるいは夕方に移り始めている。ところが今朝は、咄嗟の思いで初めて順序が逆転した。キーボードへ向かうと、先に掃除をしてこようと、思い立ったのである。その理由には、静かに明けゆく夏の朝の快さに打たれ、同時に常連のご婦人とさわやかな挨拶を交わし合いたいという、思いがあったからである。
 私は急いでかつ丁寧にいつもより広域に道路を掃いて、今キーボードへ戻ってきたところである。壁時計の針は、五時四十分あたりをめぐっている。すると、ほぼ一時間の掃除だったことになる。そのぶん今朝の文章は、ほぼ一時間の出遅れを強いられて、走り書きに甘んじている。
 二人のご常連のご婦人との出会いを目指していたけれど、おひとりには出会うことができなかった。ところが、とんでもない出会いに遭遇したのである。初対面のその人は、私より若い初老の男性である。掃除をしている私のかたわらに立ち止まれて、先方より声を掛けられた。
「この付近には、きょねんマムシがいましたよ。ことしは、まだ見ていませんね」
「おはようございます。マムシがいたのですか。恐ろしいですね。私は蛇がもっとも嫌いで、もっとも恐ろしいです。ここに、マムシがいたのですか。こんな道路にいたなら、すぐ上の私の庭にはいますね」
「写真を見ましょうか」
「写真を持ってらっしゃるのですか」
 男性はスマホを手に取り、いっとき過去の写真に指先を滑らして、マムシの写真に留められた。はっきりとマムシの写真が映し出された。
「これがいたのですか。きょねんだったら、ことしもいますね。こわいですね」
「それは分かりませんが、気をつけてください」
「ありがとうございました」
 今朝はまた一つ、わが人生における厄介物が増えたことになる。
 きのうの私は、予告どおりにわが最寄りの「左近充医院」(住宅地内)に通院した。妻もともなっていた。この日の通院の目的には二つあり、一つは左近充先生にお詫びを入れること、そして一つは先日渋った薬剤治療の要請をすることだった。診察室に入ると私は、すばやくこう言った。
「こんにちは。先日は、お世話になりました。ありがとうございました」
 そして、診察椅子に腰を下ろすと、矢継ぎ早にこう言った。
「まず、私から話をさせてください。きょうは、先日治療を渋ったお詫びを言いにまいりました。そして、先生の指示どおりに、治療をお願いしにまいりました。まことに申し訳ありません。せっかく健診を受けながら、データに背いては意味がありません。クレアチンの数値は要観察でした。ところが、LDLコレステロール(悪玉コレステロール)は要治療でした。このため、先ずは悪玉コレステロールの薬剤治療をお願いしたのです」
「じゃ、そうしましょう」
 きのうの夕食後から、一錠の薬剤服用が開始された。緑内障治療のための目薬に、新たに加わったわが終焉時までの厄介物である。とかく人生は、生きながらえることが厄介である。難聴、緑内障、加えてここ数日は、歯痛に悩まされている。これらに、今朝からマムシの恐怖が加わったのである。長生きは損々(ソンソン)と思いながら私は、生涯使用の薬剤を増やしたのである。ばかじゃ、なかろか!

書き殴りの番外編 

 きのうの一日じゅうの七転八倒の苦しみからすれば、きょう(七月三十一日・火曜日)はキーボードへは就けないと覚悟していた。ところが、きのうの苦しみの一つである腰痛は消えて、どうにかキーボードへ向かっている。
 きのうの私は、目覚め時から就寝時に至るまで腰痛と便秘に悩まされて、腰の痛み、不快感、吐き気につきまとわれた。その挙句には、死ぬほどの思いで七転八倒をこうむったのである。きのうのわが本来の行動予定には、五月に予約されていた胃部内視鏡検査(胃カメラ)の受診があった。もちろん、一過性の痛みより、こちらの経過観察のほうがはるかに大事である。このため、こちらは腰痛を堪えて、用意周到に午前八時半過ぎには、「大船中央病院」(鎌倉市)の消化器内科の窓口に着いて、検査待機者のところへ案内された。
 わたしの検査予約時間は、九時だった。そのためには、八時五十分までには来るようにと、指示されていたのである。おそらく、当日の受検者の予約時間もみな九時に横並びだったと思われる。一番乗りだった私のあとには、続々と受検者が現れた。私の一番乗りは功を奏した。
 女性看護師から最初に、「前田さん」と呼ばれて、検査室へ誘導されたのである。私は「おはようございます。お世話になります」と言って、腰部を手で押さえて、しかめっ面をして女性看護師の指示に従った。「大丈夫ですか」「はい、大丈夫です」女性は書面に目を置いて、マニュアル通りに「お名前、生年月日を言ってください」と言われた。その問いに私は、スラスラと答えた。検査前の備えには、口内に三分間麻酔薬を含んだ。それが済むと検査室に入り、検査ベッドに体を横たえた。検査に耐えるようにその準備は、手慣れた女性スタッフが優しく対応された。
 準備万端検査態勢になると、こんどは男性スタッフが、「大きく口を開けてください。そして、この器具を噛んでおいてください」と、言われて器具を装着された。この器具からカメラが胃部まで入れるのだろう。ところが、それ以降検査が終わるまでのことは、痛さをはじめ何もわからずじまいだった。検査が終わると、車椅子に乗せられて小部屋に運ばれた。ここでは、検査後の一時間の体の横たえが決まりだった。
 ところが私は、ひどい腰痛に悩まされてこの一時間に悪戦苦闘を強いられた。体を横たえることはできなく、ベッドに腰かけていた。そして、時々往来するスタッフの足音を聞いては、カーテンを小開きにして、「もう、出ていいですか? 腰が痛いので…」と、嘆願した。すると異口同音に、「一時間は、体を横たえてください」と言われて、わが訴えは却下された。もちろん、足早に通り過ぎるスタッフにたいし、恨みつらみはなかった。検査結果の診断を受ける予約時間は、九時半と記されていた。検査開始時間との時間のずれには、腑に落ちないところがあった。
 妻は、九時半を目安に後れて待合室に来ていた。案の定。予約時間とは大きく遅れて、「前田さん。三番へお入りください」と、マイク音が伝えられた。私は妻と連れ立って、三番診察室のドアをコツコツと神妙に叩いて、診察室に入った。勝手知った診察室には、主治医の吉田先生が対坐されていた。私は、「おはようございます。お世話になります。と言って、診察用の丸椅子に腰を下ろした。妻も丁寧にあいさつを交わして、丸椅子に腰を下ろした。吉田先生は、いつものように穏やかに、優しいニコニコ顔で対話された。わが両耳には集音機の紐が嵌められていた。
 早速、先生はモニターに映像を映し出された。「治っていますね」と言われた。続いて、去年の秋の写真と、今年の五月の写真、そして今回の写真を併映されて、見比べられた。そして、プリントアウトされてその紙に、ボールペンで去年の十一月、今年五月、今年七月と記されて、私に渡された。そしてその説明には、
「去年の十一月には腫瘍はなく、五月には腫瘍があり、そして今回はなく、治ってますね。念のため、もう一度受けられますか?」
「治ってますか。よかったです。先生にお任せいたします」
「それでは、予約日を入れて起きましょう」
「わかりました。お世話になります」
 帰りに予約表に目を通して、予約日を確かめた。十月二十二日午前九時半、と記されていた。この日、本番の胃部再検査は無事に終えた。
 ところが、きのうの診察にあっては、胃部への危惧はそっちのけにして、予定外の腰痛と便秘の苦しみを訴えた。それに輪をかけて、飛び込みの血液検査を申し出たのである。どちらも唐突だったけれど、吉田先生はニコニコ顔で対応してくださった。腰痛には痛み止めと、便秘の薬剤の処方箋を戴いた。そして、血液検査には採血室へ出向いて採血した。突然の採血検査でもあって、再び診察室から呼ばれた時は、午前中の最後尾の診察となり、優に十二時を過ぎていた。採血データの結果は、思わしくなかった。特に、懸念すべきところは、クレアチン(腎臓)、LDLコレステロール(悪玉コレステロール)における基準外の数値だった。これには、大きな衝撃を受けたのである。
 この日の吉田先生の診察にあって私は、本番以外に一つの相談事をたずさえていた。それは、先日受けた最寄りの開業医先生の採血データにかかわるものだった。私はそのデータをたずさえていた。そして、そのときの様子を吉田先生にお伝えし、持参のデータをお見せした。そのデータには、クレアチン、LDLコレステロール、さらには中性脂肪において、基準値外の異常値が記されていた。このためそのときの先生は、薬剤治療をほのめかされたのである。ところが私は、その要請を渋った。
「吉田先生。治療をしたほうがいいのでしょうか?」
「治療は、したほうがいいと思います。どちらも、動脈硬化のひきがねになりますから、その先生のところで治療したがいいと思います」
「わかりました。そういたします。ありがとうございました」
 きょうの私は、最寄りの左近允医院(わが住宅地内)に出向いて、先日の詫びを入れて、薬剤治療を要請することになる。私は吉田先生にたいし、「一度、それようの薬を服用すれば、一生服用することになるんでしょう?」「そうですね」私には、つらい宣告だった。しかし、動脈硬化のもたらす心筋梗塞、脳梗塞、そして心不全は、わがもっとも恐れる病である。それを防ぐためにはきょうの私は、薬剤治療決断し、治療開始をお願いすることになる。
 妻は「わたしも一緒に行くわ」と、言っている。私に早死にされては、妻の生活が成り立たないからである。便秘の不快感はいまだに収まらないけれど、腰痛が遠のいて番外編の文章にありつけたことだけは、ひそかなお祝いである。

休みます 

 七月三十日(月曜日)の夜明けが訪れている。きのうの夜明けは、台風十二号の影響を受けた大嵐の後始末でたいへんだった。私は濡れ落ちて汚らしく散在していた枝葉を拾いまくった。箒で掃くことはできないため、まずは見苦しいところを清めて置きたいと、行動したのである。夜明けて朝日が高く昇ると、大嵐が過ぎたあとの大空は台風一過さながらに、青空から烈しい陽射しが照りつけた。それでも道路は乾ききれなかった。業を煮やした私は、乾きを待ちきれずに昼下がりから、ほぼ一時間かけてきわめて粗雑に道路を掃いた。いくらか心が落ち着いた。
 きょうの私には、朝早立ちの通院予定がある。胃カメラによる再検査である。数か月前に予約されているものだけに、必ず出かけることになる。そのため腰が落ち着かず、きょうの文章はこれで打ち止めにする。

「好きな すしのネタ」アンケート 

 七月二十九日(日曜日)、現在は真夜中の一時頃である。妻は娘宅へ行って、泊っている。きのうの鎌倉地方は、わが就寝時までには大嵐が吹き荒れていた。案の定、ミニトマトとキュウリの支柱は、倒れたり倒れかかっていた。私は横殴りの雨にびしょ濡れになり、それらの支柱を立て戻した。しかし、わが家の庭中は岩盤で、支柱を強く押し込んでも手応えは無く、立ててもすぐに倒れかかった。私はびしょ濡れに懲りて、風の吹くままにして引き上げた。
 夕方のテレビ画面には、鎌倉の小学校にたいする避難指示のテロップが流れていた。私は一、二階すべての雨戸を閉め切り、早々に就寝した。現在は、台風十二号接近予報の夜である。しかし、雨戸を閉めているため、台風の様子はまったくわからない。ただ一つその様子を知ることができるのは、難聴の耳に響く雨戸を打つ風の音くらいである。ところがどんなに耳をそばだてても、雨戸を揺らす風の音はまったくない。
 パソコンを起ち上げるやいなや私は、台風十二号にかかわる配信ニュースを読み漁った。しかし鎌倉地方にかぎれば、まったくニュースの種から免れていた。台風十二号は、きのうの嵐で去ったのか。それとも、こののち見舞うのか。現在は、台風の目の凪状態なのか。私は外の様子の見えない台風接近予報の真っただ中にあって、キーボードを叩き始めている。もちろん、心細い真夜中の居住まいである。
 さて、現在の私は、購読紙・朝日新聞(平成三十年・二〇一八年七月二十八日・土曜日付けbe版)に掲載されていた、「好きな すしのネタ」にかかわる読者アンケート結果の引用を試みている。
 かつて、JR大船駅中にあった「千寿司」がリニューアルし「すし兆」になって以来、わが夫婦はそれまでの寿司三昧とは縁切りとなっている。実際のところ新装開店のおりの一度きりで、そののちはたったの一度さえすし兆へは行っていない。その理由は新装開店(店名は千から兆へグレードアップ)に合わせて店の雰囲気が変わり、かつ肝心要の寿司の味はまずくなり、ところが値段のほうはが上がっていたせいである。
 妻は、私よりはるかに一辺倒に寿司を好んでいる。もちろん、そのことを知りすぎている私は、ときには武士(配偶者)の情けを試みることがある。
「千寿司がすし兆になってから、まったく寿司が遠のいたね。たまには、すし兆へ行ってもいいよ。行こうかね。おまえは、ほんとうに行かなくていいの? 我慢することもないよ。あんなに、寿司が大好きなんだから、食べなきゃ損だよ」
「パパってばかねー、わたし行かなくていいわよ。行きたくないわよ。パパは行きたいの?」
「おれは行かなくていいけど、おまえが行きたければ、行ってもいいよ」
「わたし、行かないわ。行きたくないわよ」
「でも、寿司大好きだから、ひとりでも行けばいいのよ」
「行かないわよ!」
 妻は、すし兆にたいしては頑(かたく)なに拒絶反応を続けている。今や寿司は、わが夫婦からはまぼろしのメニューへ成り下がり続けている。
 それを補うにはスーパーの寿司弁当や、仕出しの寿司はある。しかし、千寿司の味を占めているせいでわが夫婦は、どちらにもご無沙汰(無縁)になっている。寿司好きの妻の憤懣やるかたない気持ちをおもんぱかると、武士(配偶者)の情けはつのるばかりである。
 さてさて、こんなわが夫婦の寿司事情をあらかじめ記して、アンケート結果を記してみる。先ずは一位から順々に二十位まで、ランキングを表示する。マグロ(中トロ)、マグロ(赤身)、イカ、ウニ、アナゴ、サーモン、甘エビ、ハマチ、ホタテ、イクラ、アジ、ヒラメ、タイ、エンガワ、マグロ(大トロ)、ネギトロ、タコ、卵焼き、カンパチ、サバ。さらに二十一位以下には、こんな順序で記されている。アワビ、ウナギ、コハダ、イワシ、カニ、アカガイ、サンマ、カツオ、シャコ、トリガイ、ツブガイ、ホッキガイ、蒸しエビ、カレイ、サザエ。結局、一位から三十五位までのランキングである。ちなみに、ランキングはつけずにわが好みの十位までを付記すれば、こんなところである。アワビ、アカガイ、ツブガイ、タイ、イカ、タコ、イクラ、アジ、甘エビ、そして読者アンケートにはないアオヤギである。番外の巻物では、タラコ巻き、カッパ巻、オシンコ巻きである。これらの中でわが好みの筆頭は、断然アワビである。ところが、千寿司での注文のおりには、涎たらたらにアワビは外していた。なさけなくも、値段の高さに我慢を強いられていたのである。
 一方、妻の好みの筆頭は、これまた飛び抜けてウニである。ところが、ウニも値段の張る特別価格表示だった。すると、カウンター越しのスタッフに聞こえないようにわが夫婦は、これまたなさけなくも、ひそかにこんな会話を交わしていた。
「パパ。わたし、ウニが大好きなのよ。食べたいのよ。一つだけ、ウニ食べてもいいかしら?」
「好きなことは知っているよ。食べたければ、食べればいいよ。自分で、注文すれば……」
「食べていいかしら? パパもアワビ、食べなさいよ!」
「おれは、食べなくていいよ。『こちらの皿に、ウニを二つください!』」
「パパ、わたし、一つでいいわよ」
「好きなら、我慢しなくていいよ」
「いいの? パパも、アワビ注文すればいいのに……」
 千寿司がすし兆へ衣替えしたのは、かえすがえす残念である。
 雨戸を鳴らす風の音はまったくない。台風十二号接近の予報は、幸いにも外れたようである。夜明けまでにはまだたっぷりと時間がある。しかし、二度寝はできそうにない。階下へ下りて、朝御飯の支度で暇をつぶそうと、思う。ところが、買い置きの納豆一品の御数で済むから、手間暇はまったくかからない。ガラガラと音を鳴らして雨戸を開けるには、隣近所に気が引ける。まして、みんながぐっすり寝(やす)む日曜日の夜明け前である。

天界の警(いまし)め  

 雨に強風が付き添えば嵐である。七月二十八日(土曜日)、鎌倉地方には嵐の夜明けが訪れている。この嵐は、私に「いい気になってはいけない!」という、人生訓をあらためて諭(さと)している。
 私はさきおととい(七月二十五日・木曜日)の夕暮れどきの通り雨を「超ミニミニ夕立(恵みの雨)」と書いて、いい気になっていた。夕立はこのところのわが願望であった。そのため、わずかばかりの通り雨にもかかわらず、あえて「恵みの雨」と書き添えた。確かに、そのとき以降鎌倉地方の気候は激変し、それまでの高気温と厳しい暑さは遠のいた。自己判断で異常気象とまで書いた高気温と厳しい暑さは、一変し涼しくなり心地良さに恵まれた。その挙句、私はいい気になっていた。ところが、振り返れば超ミニミニ夕立は、近づく台風十二号の先ぶれだったようである。そして、台風十二号の被害をこうむることにでもなれば、私は恵みの雨どころか馬鹿丸出しのいい気になっていたことになる。
 起き立ての私は、いまだ嵐の夜のわが家の見回りは済んでいない。そよ風にさえ揺らぐほどにこころもとなく立っているミニトマトとキュウリは、早や共倒れになっているかもしれない。そうであれば恵みの雨と言って、涼しさを得て心地良さに酔っていたわが気分は、たちまちぺしゃんことなる。
 <台風12号 28日午後に伊豆諸島に接近 東海から西日本に上陸のおそれ>(7/27・金曜日、23:19配信 ウェザーマップ)。 「強い台風12号は日本の南を速度を上げながら北上している。台風は28日昼過ぎから夕方にかけて伊豆諸島に接近した後、強い勢力を維持したまま東海地方から西日本に上陸するおそれがある。暴風、高波、土砂災害、低い土地の浸水、河川の増水や氾濫に厳重に警戒し、高潮にも警戒が必要だ。台風12号は、27日午後10時には父島の東北東約280キロにあって、1時間におよそ35キロの速さで北北東へ進んでいる。台風は今後発達しながら日本の南を北上し、次第に進路を北西に変えて、28日昼過ぎから夕方に伊豆諸島に最も接近する見込みだ。その後、台風は進路を西よりに変えて、強い勢力を保ったまま28日夜から29日未明にかけて東海地方から西日本に上陸するおそれがある。暴風・高波・高潮、28日には東日本や西日本の太平洋側も、台風の接近に伴い急に風が強まり、海上を中心に猛烈な風が吹き、海上は猛烈なしけとなる見込み。伊豆諸島、東日本や西日本の太平洋側では暴風やうねりを伴った高波に厳重に警戒が必要だ。また、年間で潮位が高い時期となるため、高潮にも注意・警戒が必要となる。」
 自惚れやいい気になること、はたまた自己満足は、常にどんでん返しをともなっているという、人生訓を復習した夜明けと言えそうである。
 恵みの雨は嵐に替わり、この先は被害をもたらす台風に変わるのであろうか。心地良く冷えているわが体は、天界の警(いまし)めの証しでもあろう。確かに、「禍福は糾(あざな)える縄の如し」である。

ひと雨の恵み 

 きのう(七月二十六日・木曜日)の私は、超ミニミニの夕立のことを書いた。実際のところは、小皿を置いてもそれに溜まらない程度の一滴(ひとしずく)の通り雨だったようである。しかしながらそれ以来現在まで、鎌倉地方の夏はすっかり様相を替えている。具体的にはそれまでの暑気を遠ざけて、涼しくなっている。起き出してきたばかりの昨夜は、ことごとく網戸は用無しに窓ガラスで閉めて、それを厚手のカーテンで覆った。そのうえ就寝の際には、それまではねのけていた掛布団さえ掛けた。起き出してきた今のわが身は、部屋の中に冷えでちょっぴり震えている。もちろん、こんな涼しさが長続きするとはとうてい思えない。なぜなら季節は七月末にあり、夏の本番はこの先八月にめぐってくる。
 顧みれば、梅雨明け以降これまでが異常気象だった。そのせいで七月は、高気温と厳しい暑さに見舞われ続けていたのである。だから過ぎ行く七月は、私には八月の前倒しに思えていたのである。そして、七月の暑さに終止符を打ってくれたのは、きのうちょっぴりわが体を濡らした通り雨だった。夕暮れどきの突然の雨には、ワンショットの稲光がともなっていた。このところの私には、夕立願望があった。そのため、文章の表題には「超ミニミニ夕立」(恵みの雨)、と記した。確かに、表題は大袈裟だった。しかし、必ずしも嘘っぱちではなかった。なぜなら、夕立特有にそれまでの厳しい暑気をはねのけた、確かな「恵みの雨」をもたらしたのである。
 人間いや私にかぎれば、きわめて身勝手なところがある。なぜなら、わずかに一日余りにすぎないのに現在の私は、暑さの遠のきを惜しむ気にさえなっている。私はやはり、馬鹿丸出しの天邪鬼(あまのじゃく)である。もちろん、これまでの高気温と厳しい暑さは異常気象のせいである。過去の気象データによる盛夏、すなわち高気温と厳しい暑さの本番は、この先八月にこそめぐってくる。このことをかんがみれば今夏は、今に過ぎ行く夏を惜しむどころか、この先辟易するほどの長い夏になりそうである。
 このところの私は、日々道路の清掃へ向かっている。すると、日に日に水分をすっかり失くし尽くした落ち葉が増えている。これまた、七月の異常気象にともなう前倒しの落ち葉の量である。だからと言って、山の枯葉が早々に落ち尽きることはない。これまた、落ち葉との長い格闘を強いられそうである。
 七月二十七日(金曜日)の夜明けの空には、朝日がキラキラと光っている。高気温と厳しい暑さがぶり返しそうである。窓ガラス越しに眺める山の木の葉は、大揺れに揺れている。暑さを和らげる強風が吹いているのであろう。暑気を和らげる強風は願ったり叶ったりだが、落ち葉の量が気になるところである。
 人間は気象には逆らえない。そうであれば無難に共生を願うところである。しかし、西日本豪雨を浮かべれば、それは人間の一方通行の願いごとにすぎない。私は、現在の心地良さの長続きを願うところである。しかし実際のところは、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」、つまりおまじないである。

超ミニミニの夕立(恵みの雨) 

 西日本豪雨の被災地と被災者をおもんぱかれば、恵みの雨と書くには気が留める。それでも雨のおかげで暑さが激変し、涼しくなったことをかかんがみれば、恵みの雨と書かずにおれないところがある。七月二十六日(木曜日)の夜明けが訪れている。
 念のため、カーテンを払い、窓ガラスを開けた。道路には雨の跡形はまったくない。きのうの夕暮れわが家周辺は、超ミニミニの夕立に見舞われた。あえて夕立と言うほどもない、一瞬の雨降りだったのかもしれない。しかし雨は、フラッシュみたいな光を一回ともなっていた。突然の雨は、すぐにびしょ濡れになったほどの大粒だった。これを体験したのは、外に出しっぱなしのゴミ袋を慌てて、物置に仕舞いこむ行動をしたためだった。そののちは部屋の中に戻り、これまた大慌てですべての網戸を窓ガラスに換えた。こちらは、慌てふためく妻との共同作業だった。夕暮れどきであり、もちろん雨戸も閉めた。そのため、そののちの雨の降りようはわからなかった。雨音や雷鳴がまったく聞こえなかったのは、わが難聴のせいもある。しかし、たぶん小降りか瞬間的な雨降りにすぎなかったのかもしれない。
 窓ガラスを開けたのは、それを確かめるための行為だった。そして、窓を開けて道路を眺めると、やはりそうだったのだ! と、それを確信したのである。そうであれば、あえて夕立と言うのは大袈裟であろう。しかし、私と妻は共に、「夕立!」、と言って言葉を合わせていた。それはこのところの二人に、夕立願望がつのっていたせいでもあろう。
 妻は「パパ。昔は夕立がよくあったけど、今は夕立ないね。夕立があれば涼しくなるのにね」「そうだね。ふるさと(熊本)の夏には、毎日夕立があったけど、こちらにはないね。夕立には雷鳴がとどろいて恐ろしかったけど、去ったあとの涼しさや気持ち良さは格別だったね」
 超ミニミニとはいえ稲光があり、やはりきのうの夕暮れの雨は、夕立だったと言えそうである。その確かな証しは、現在の涼やかさに表れている。やはり、恵みの雨と言って、ちょっぴりは褒めてやるべきであろう。しかしながら、西日本豪雨の被災地と被災者をおもんぱかれば、やはり気が引けるところはある。それでも、久しぶりに暑気が遠のいた、清々しい夜明けが訪れている。道路の清掃へ向かうには、ちょっぴり出遅れである。

わが、夏の醍醐味 

 まるで間欠泉のごとくに、ずきずきと襲っていた頭部の痛みは遠のいている。一時は脳梗塞の前触れか? と、恐怖に慄(おのの)いていた。そのため憂鬱きわまりなく、文章を書く気分は殺(そ)がれていた。しかし、幸いにもその恐怖心は去り、きょう(七月二十五日・水曜日)はキーボードへ向かっている。ところが、気鬱症状は引きずったままである。その誘因は夏風邪に見舞われて、始終むずむずとする鼻炎症状をこうむっているせいである。夏風邪は、わが恐れるものの一つである。それを防ぐためには、太鼓腹丸裸による寝冷えは禁物である。このことは、これまでの夏の経験から知りすぎている。そのため、おのずから薄い肌着一枚は身につけて、寝(やす)んでいる。幼児時代であれば、金太郎印の腹巻(腹当て)を着けていた。夏風邪は鼻炎症状を露わにし、それによる気分の滅入りは花粉症に似たところがある。そのため、夏風邪対策は意に留めるものの一つである。しかしながらその対策は、御座なりなのであろう。なぜなら、顧みればひと夏に一度くらいは、夏風邪に見舞われてきたように思えている。
 さて、日本列島は連日高気温と猛暑に見舞われている。だからと言って、猛暑に辟易(へきえき)ばかりしていても能がない。いや、夏がもったいない。だからこんなときにはあえて、夏の季節の良さを浮かべるにしくはない。言うなれば「わが、夏の醍醐味」である。もちろん、私だけに限るものである。胸中に浮かぶままにランキングをつけずに、それらをランダムに記してみる。
 それでもあえて第一とするものは、身なりの軽装である。ときには上半身裸でも許される。丸首シャツ一枚、猿股パンツ一枚は、室内普段着の定番である。寝床における夏蒲団一枚の気軽さ、風呂場の脱衣室における着脱の簡便さ、もちろんシャワーの心地良さも、夏の恩恵である。涼しい夏風を呼び込む網戸のありがたさも、夏特有のものである。常緑樹の立つ木陰、夕立の快さも夏特有である。夏の朝そして夏の夕暮れ、これまた夏の季節が恵む心地良さである。バスや電車の中の冷房のありがたさは格別である。夏を旬(しゅん)とするキュウリ、トマト、ナスの美味しさも、また格別である。私にかぎればこれに西瓜が加わる。さらには、かき氷や氷菓子、はたまたアイスクリームそしてキャンデーが加わる。冷ややっこもこれらに加えていいかもしれない。現在、わが、夏の醍醐味は、これらで十分である。子どもの頃であれば、ふるさとに一筋流れる「内田川」の水浴び、魚取り、水遊びだけで十分だった。しかし、今の私にはこれは叶えられない。
 きのう(七月二十四日・火曜日)は、鎌倉の海の花火だった。ところが、今や用無しである。夏だからと言って、私にはビールの一滴さえ用無しである。人様が華やぐ夏季の物見遊山も用無しである。確かに、これらを浮かべれば私は、多くの夏の醍醐味を失くしている。それでも、わが、夏の醍醐味が薄らぐことはない。猛暑続きのこの夏ではあっても、私は夏の季節を毛嫌いすることはない。
 ところどころちょっぴり道路が濡れた夜明けが訪れている。しかし、朝の掃除に支障はない。夏の朝を満喫するため、鼻炎症状をはねのけて、道路の清掃へ腰を上げる。心地良い朝に恵まれて、気鬱症状が和らげば勿怪(もっけ)の幸いである。

日本国内最高気温・埼玉県熊谷市 

 七月二十四日(水曜日)、二年先の2020年「東京オリンピック」は、この日が開幕日である。選手たちは、競技の勝負はさておいて、暑さ負けが危ぶまれるところである。私自身は、きのうあたりから頭部が間断なく痛くて、自己診断では熱中症予備軍に思えている。このためきょうの文章は、休筆を決め込んでいた。ところが、このことだけは記録に留めておかなければならない。それは、暑さを伝えるメディアの配信ニュースである。
 <埼玉・熊谷で気温41.1度 国内の観測史上最高を更新>(2018年7月23日14時43分 朝日新聞デジタル)。「気象庁によると、23日午後2時16分、埼玉県熊谷市で、国内の観測史上最高となる気温41・1度を観測した。これまでの最高は2013年8月12日に高知県四万十市で記録した41・0度だった。23日は、ほかにも午後1時40分までに、東京都青梅市で40・8度、岐阜県多治見市で40・7度を観測。全国927の観測地点のうち、午後1時までに195地点で最高気温が35度以上の猛暑日となっている。」
 わが家は山際に立地しているため、網戸にしておけば風の恩恵を得て、エアコン要らずである。それでも頭部がずきずきと痛むのは、やはり暑さとは無縁ではなさそうだ。妻は「パパ。救急車を呼びましょう」と、うるさい。私は「バカなことは、休み休み言え!」と、どなっている。加えて、「熊本生まれのおれは、暑さには強いんだ!」と、言っている。しかし、熱中症予備軍となっては、もはや「強がり」も休み休み言うべきであろう。

現下、日本列島の夏 

 全国高校野球選手権大会地方予選は終盤戦になり、都道府県代表校が決まり始めている。今年の大会は第100回という、1世紀を画するものだけに、例年を超えて盛り上がっている。
 きのう(七月二十二日・日曜日)には、わが関心のある九州管内の大会では、長崎県と熊本県の代表校が決定した。わがふるさと県・熊本より先に長崎を記したのは、長崎県代表校争いに格別の関心を寄せていたからである。長崎県の決勝戦では、「ひぐらしの記」にたびたびご紹介をしてきた渡部さん(埼玉県所沢市ご在住)の母校が戦った。私は決勝戦に至るまで、格別の関心を寄せて渡部さんの母校を応援していた。もちろんそれは、私自身の楽しみのためでもあった。まったく応援するところが無いと、地方大会への関心は薄れ、そのたぐいの報道は馬耳東風に過ぎてゆく。もちろん、熊本県予選は最大の関心事で、決勝戦までの戦いを見つめていく。
 ところがわが母校は初戦で敗れ去り、興味は泡沫(うたかた)のごとくぺしゃんこになった。それを救ってくれたのは、渡部さんの母校の順当な勝ち上がりだった。しかし渡部さんの母校は、きのうの決勝戦で敗れた。応援していただけに残念だった。熊本県代表校は、名門熊本工業高(熊工)を破った東海大星翔高校だった。すると、地方予選において残る関心事は、沖縄県と神奈川県の代表校決定である。何らかのつながりが無ければ、地方予選は楽しめない。このことでは、私の関心事を引きずってくれた渡部さんの母校の奮闘に感謝するところである。それでもやはり、決勝戦で涙を呑んだ戦いは、かえすがえす残念だった。
 全国高校野球選手権大会は、わが購読紙朝日新聞の主催であり、そのため日々多くのページを割いて、地方予選から詳細に報じられている。だからこの時期の朝日新聞は、日刊紙の枠をはみ出して、スポーツ新聞さながらの様相にある。加えてこの時期には、毎日新聞が主催する都市対抗野球(東京ドーム)の記事がある。さらにそのうえ、プロ野球は後半戦の戦いを強めて、それにかかわる記事もある。かてて加えてきのうは、大相撲名古屋場所(愛知県体育館)の千秋楽であった。こちらは、十四か目にして関脇御嶽海(出羽の海部屋)が初優勝を飾った。千秋楽明け後ということできょう(七月二十三日・月曜日)は、大相撲記事も満載である。
 こんなことで驚くなかれ! なんときょうの朝日新聞朝刊は、スポーツ面に五ページも割いていた。平和と言えば確かに平和な記事ではあるけれど、日本列島は西日本豪雨の復旧作業の真っ最中にある。同時に、日本列島は猛烈な暑さに見舞われて、熱中症で死亡者も出ている。さらには、熱中症として病院へ搬送される人たちが暇(いとま)なく出ている。こんなことを浮かべれば、平和な記事もほどほどでいいのかもしれない。
 二年先の「東京オリンピック」(2020年)に思いを馳せれば、あす(二十四日)はその開会式の予定日である。時節柄、こんな暑い最中にあっては成功が危ぶまれるところである。全国の高校球児は、本大会(甲子園大会・八月五日開幕)への代表権を勝ち取るため、暑い夏をいっそう熱く戦っている。このため、関心地域や関心校の敗退にもかわらず、応援しなければならない。とりわけ、西日本豪雨地域の代表校には、応援しなければならないであろう。まだまだ、関心を退(ひ)くわけにはいかない。しかしながら、ちょっぴり異質の関心事に成り下がっているのは、ほとほとつらいところである。

夏の朝 

 文章を書き終えたら、道路の清掃へ向かう習わしがある。その時間の目安は、おおよそ朝の五時半近あたりである。この時間帯は、清々しい夏の朝に恵まれる。加えて、散歩ご常連の高齢女性と、挨拶を交わし合う楽しみがある。朝の散歩をする人たちは、すっかり顔ぶれが変ってしまった。現在、快く挨拶を交わし合うのは、高齢女性のお二方だけである。このことは、私にはかぎりなく寂しいことである。
 お二方とは、
「まだ歩いていらっしゃいますね。偉いですね。私の励みになります」
「そちらも、まだ書いておられるんでしょ?」
「はい。まだ書いています。今朝は、早く書き終えたもんだから、お会いしたくて下りてきました」
「そちらこそ、偉いですわ!」
「いいえ、奥様こそ偉いです! お互いに、頑張りましょう」
 出会えばほぼこんな会話の繰り返しで、足早に過ぎ去って行かれる。
 先日は異変が起きた。ヤングママくらいの女性が、ジョギングで近づいてこられたのである。(マラソンか駅伝のトレーニング中だな?)と、思った。そうであれば、走る流れを寸断するのは気が引ける。しかし、呼びかけた。
「何かの大会に出られるんですか? 私はマラソンや駅伝が好きです」
 すると、走りを止めることなく、「いいえ」、と言葉が返った。
「そうですか。速いから、そう思いました。それでも、市民ランナーですね。頑張ってください!」
 と、言った。
 悪びれることなく微笑まれて、走り去られた。確かに、呼びかけるのをためらった。だけど、お邪魔虫ではなかったようである。私はさわやかな気分で見送った。
 きのう(七月二十一日・土曜日)は掃除を終えると、これまた涼しいうちにと思って、庭中の草取りをした。しょっちゅう草取りをしている感じである。それでも、追っかけて茂ってくる。
 きのうは、新たな発見をした。夏草はカラカラ土壌ゆえに余計、元気よく茂るという事実である。私はカラカラ土壌であれば枯れる傾向へ向かうと、勘違いしていたのである。ところがまったく逆で、カラカラ土壌を得手にして、勢いよく伸び放題になっていた。雑草には、生き延びる知恵があるのであろう。ほぼ毎日水遣りしているにもかかわらずキュウリやミニトマトは、息たえだえである。私は手に負えない雑草の茂りから、あらためて生の尊厳を学んだ。半面、私は雑草のしつこさを通して、わが生の営みの弱さを知らされたのである。
 尻切れトンボに文章を閉じて、道路の清掃へ向かうこととする。壁時計の針は、五時半あたりをいくらかめぐっている。ちょっぴり遅くなり、ご常連のお二人には出会えないかもしれない。それでも、夏の朝の清々しさには出合えそうである。
 掃除を終えて、キーボードへ戻ってきた。追記を書くためである。ご常連のお二人には会えなかった。私の出遅れのせいである。ところが、ジョギング中のヤングママと思える人には会えた。いまだ若い独身女性なのかもしれない。勤務の無い休日にかぎり、トレーニング中なのかもしれない。走りながら向こうから、「おはようございます」、とさわやかに声をかけて走り去られた。清々しい夏の朝だった。

 カジノ法案

 夜中の十二時過ぎに起き出して、ひと騒動し再び寝付けず、そのまま起きている。就寝中に首筋をムカデに襲われ大騒動をし、寝る気が失せたからである。幸い刺されることはなかったけれど、逃げたムカデを探し出すことはできなかった。布団の中やあるいはどこかには潜んでいるかと思うと、怖くて寝る気が殺がれたのである。首筋を蜂に刺された部位は、あのまま突起し固くなり、いまだに不快感を残したままである。そのあたりをこんどはムカデに刺されたら、文字どおり泣き面に蜂である。
 電燈の周りには羽虫が飛んで来る。そして、髪の毛や首筋に落ちてくる。これに脅かされると、これまた不快感きわまりない。それを防ぐため、一考を案じた。このところの私は、幅広の麦わら帽子をかぶりキーを叩いている。図体太身(ずうたいふとみ)の私は、なさけないことにはちっちゃな虫けらどもの恐怖に晒されて、日夜怯(おび)えている。再び寝床に就きたくないため、たっぷりと時間がある。このため、メディアの伝える配信ニュースを読み尽くした。それらの中ではきのうに続いて、カジノにまつわる記事を素通りすることはできない。同時にこの記事は、わがきのうの思いとピタリ符合するところもあるから、引用を試みている。符合するところは、まさしく「それどころでは…」ないだろう。
 <カジノ法成立 それどころでは…被災地では嘆きの声>(毎日新聞 7月21日00時38分)。カジノを含む統合型リゾート(IR)実施法が成立した20日、大阪や和歌山など誘致を目指す自治体は歓迎を表明する一方、治安の悪化やギャンブル依存者の増加を懸念する市民からは批判が相次いだ。「正直それどころではない」。 猛暑の中で捜索や片付けが続く西日本豪雨の被災地では「政治は一体、どこを向いているのか」と嘆きの声が聞かれた。「広島の被災は遠い話なのか……」。この日も厳しい日差しが照りつけた西日本豪雨の被災地。土石流で住民が死亡した広島市安芸区矢野東7でクリーニング店を営む湊宏子さん(75)には、法案を必死に通そうとする政治家の姿がそう映った。豪雨で自宅兼店舗は浸水、店は営業を再開したが避難所生活が続く。「パチンコはするがカジノは動く金額が違う」。実施法には反対だが、今は生活を取り戻すのに必死だ。(記事の一部を抜粋)。
 なんで、博打誘致を急ぐのか。いや、カジノは必要なのか。「それどころでは…」ないだろう。 

 はがゆいこと

 日本国民は、昼も夜も熱中症に脅かされているという。台風十号が、今週末あたりに沖縄諸島を襲いそうという。きょうは、「土用の丑の日」(七月二十日・金曜日)である。土用の丑の日は、八月一日にも訪れという。シラスウナギが減少を続けているせいで、ウナギの値段が高騰しているという。西日本豪雨の復旧作業の困難と被災者の困惑は、頂点にあるという。テレビ画面には連日、高気温地方や地域の行政名が止めどもなく流れてくる。その地方にあってきのうは、最上位に京都、次にはふうちゃんの住む枚方市(大阪府)、そしてなんと三番目に菊池市(熊本県)が表示された。
 かつてのわがふるさと名・鹿本郡内田村は、隣村菊池郡城北村との合併により、双方の名をとり菊鹿村と名を替えた(現在菊鹿町)。私は友を気遣い、ふるさとの暑さを気遣った。ふるさとの甥っ子にふるさと電話を入れた。
「今、高気温のところに菊池市が三番目にある。暑いだろう?」
「暑くて、外には出られんもんじゃけ、部屋の中におる」
「そうか。暑いだろうね」
「だけど、うちの者(奥方)は、あしたから孫四人を連れて、京都へ行くことにしている」
「京都、なんでや?」
「孫の一番上の男の子が、京都の大学を見に行きたいと言うから、二人の息子の二人ずつの孫を連れて、行くことにしている」
「京都や、今、暑いところの一番上に、39・8度とあるよ。暑かろうねー。大学のオープンキャンパスを見に行くのだろうね…」
「そうかもしれんばってん、京都は暑かろうなー…」
 現下の日本列島は、高気温と暑さのもたらすニュース、西日本豪雨の惨状を伝えるニュースに覆われている。その上に、台風十号接近のニュースが加わったのである。まさしく現下の日本列島は、国民がうろたえている非常事態にある。
 ところが、日本国民の混乱状態の隙をついて、国の舵取りを託す国会からこんな馬鹿げたニュースが伝えられたのである。
 <カジノ法案、20日に成立へ…与野党の攻防激化>(2018年7月19日23時37分 読売新聞)。「カジノを含む統合型リゾート(IR)実施法案は19日の参院内閣委員会で、自民、公明両党と日本維新の会の賛成多数で可決した。20日の参院本会議で可決、成立する見通し。会期末が22日に迫る国会の攻防は激化しており、野党は20日に内閣不信任決議案を衆院に提出する。19日は内閣委のIR実施法案採決に先立ち、国民民主党など3党2会派が伊達参院議長の不信任案を参院に提出し、審議が一時中断した。与党はその後の参院本会議で不信任案を反対多数で否決し、内閣委を再開して採決に踏み切った。与党はIR実施法案を参院本会議に緊急上程し、19日中に成立させることを一時検討した。しかし、国会運営が強引だとの批判を避けるため、先送りした。」
 博打(ばくち)誘致に、何のメリット(利益性)があるのか。国政はよってたかって、国民そっちのけの火事場泥棒の振る舞いを続けている。私は、はがゆくてしかたない。

 暑い夏

 日本列島の夏に、猛暑が見舞っている。テレビ画面には連日、高気温地域を示すテロップがひっきりなしに流れてくる。私は、それを観ながら未踏の地域名を学んでいる。しかしながら、テロップで流れる高気温地方や地域はほぼ固まりつつある。よく流れる都道府県名で言えば、栃木県、群馬県、埼玉県、愛知県、三重県、岐阜県である。高気温は、これらの中の特定地域が際立っている。これらに加えて、西日本豪雨に見舞われた地方や地域の高気温状況がアナウンサーの声で付加される。同時に、熱中症への警告や、実際にそれによる死者の数、病院への搬送者数が付加される。まさしく日本の夏は、高気温恐怖の坩堝(るつぼ)と化している。
 ところが、日本列島は夏にかぎらず年から年中、雨、風、雪、さらには日照りなどの異常気象に加えて、地震、雷、竜巻、雹、霰、などの天変地異の恐怖に晒されている。普段は風光明媚(ふうこうめいび)と謳われる山際や海辺には、常に土砂崩れや津波の恐怖が同居している。あらためてこれらのことを浮かべると、日本列島には気分オチオチヤスヤスと、住めない思いつのるばかりである。もちろん、今さらこれらの恐怖に慄(おのの)いても仕方がない。なぜなら、すでに七十八年も住んできているから、日本列島の恩恵は計り知れないものがある。
 確かに、異常気象や天変地異のもたらす恐怖は、日本列島につきまとう災害列島の名にふさわしい不運ではある。しかしながら一方、日本列島は四季折々に異なる自然景観はもとより、心地良い気候や風物詩をもたらしてくれる。確かに、昼間の高気温には辟易するけれど、夏の朝や夕暮れの風の心地良さは格別である。夏の盛りすなわち炎天下、全国高校野球選手権大会(夏の大会)の地方予選は、夏の風物詩として文字どおり熱い戦いの最中にある。日本列島にあって夏の高気温と暑さは、あたりまえと思う気分の余裕がほしいところである。
 それを逆なでもするかのように流れるテロップ、そして暑さをことさら聞き出そうとする街頭インタビューは、私には要らぬことのように思えるところもある。
「日本列島に暑い夏が続いています。熱中症にご注意ください。熱中症の予防には水分を多くとったり、エアコンや扇風機をうまく利用してください」。
 へそ曲がりの私は、これくらいの情報でいいのではないかと、思う。
 古来日本人は、暑い夏の過ごし方は知りすぎている。庭先の打ち水、さらには団扇、扇子、お茶の子さいさいである。私には夏を毛嫌いするのはほどほどに、という思いがある。暑い夏をしのぐ暮らし方はいくらでもある。暑い夏ゆえに楽しめる暮らし方もいくらでもある。言うなれば暑い夏は、人間固有の知恵の比べっこでもある。私は暑い夏礼賛である。身体は猿股一つでも構わず、網戸から夏の朝の心地良い風が上半身裸にあたっている。しかし、西日本豪雨の復旧作業に勤しむ人たちにだけには、暑い夏礼賛はとことんかたじけない。

 夏、雑感

 何度書いても書き足りない、西日本豪雨が見舞った悲惨な光景である。炎天下の復旧作業の様子がテレビに映し出されると、一雨欲しい思いである。ところが、この願望は再度の洪水や土砂崩れを招く恐れもあり、そのことでは願ってはいけないのかもしれない。だから、いっそうつらい光景である。
 このところのテレビ画面には、日本列島各地の高気温状況がテレップで流れ続けている。西日本豪雨被害をおもんぱかれば、憚(はばか)れることだけれど、それでも一雨欲しいところである。しかしながら大雨は望まず、望むのは日照り雨か、しばらく降ってさっと去る夕立くらいである。しかし天界は、私が望むがこんな粋な芸当をするあてはない。そうであれば西日本豪雨をかんがみていましばらくは、雨無しの日照りに耐えるべきなのであろう。
 道路の清掃へ向かうと落ち葉は、水気をまったく失くしてカラカラ状態にある。もちろん、庭中の土壌もまたカラカラに乾ききっている。六本立ちのミニトマトは日々のわが水遣りにより、やっとこさ立ち枯れを忍んでいるありさまである。ところが、夏草だけはむしろ土壌の渇きを得てして茫々と茂っている。この光景を見ると私は、苦々しい思いをたずさえている一方で、それらの生命力の強さに驚嘆しきりである。わが弱い精神力は雑草の生命力の強さに、ほんのちょっぴりでもあやかりたいところである。
 庭中の夏草のみならず、視界の中でわが夏の到来を告げているものには、日に日に彩りを鮮やかにしているサルスベリ(百日紅)がある。ほぼ六メートル道路を挟んで、空き家を取っ払った空き地に残された植栽には、紅色の花のサルスベリの木が立っている。この先、九月の中ほどまでは、私の好むサルスベリ風景にありつける。もちろんこの恩恵には、やがては日々落下をきわめ始める無数の花びらの清掃という、恩返しの行為が強いられてはくる。それでも、主(あるじ)を失くしたサルスベリの風景には言いようのない寂寥感(せきりょうかん)があり、私は不平不満をこぼすことなく清掃に明け暮れる。空き家や空き地の風景は、いずれわが身という、思いもあるからであろう。
 季節は、夏至(六月二十一日)からまもなく一か月がめぐってくる。この確かな体感は、このところの日の出の遅さと夕暮れの早さである。夏の夕暮れの中にあってわが夫婦には、ひとしきり意識して愉しむ習わしがある。それはどこかしこを網戸にしたままに、部屋には明かりをつけないで、夕涼みの真似事をすることである。この習わしは、わが夫婦の夏の醍醐味の一つである。もちろん、こんなとき地震でも起きれば、たちまち狂乱状態になる。
 七月十八日(水曜日)、のどかに夏の夜明けが訪れている。小雨の気配や兆しのない、朝日輝く夏空である。きょうの私は、木陰を選びながら卓球クラブの練習に向けて、坂道を下って行く。本音のところは、一雨欲しいところである。もちろんびしょ濡れではなく、ちょっと降ってすぐに止む小降りである。

畏敬つのる、炎天下のボランティア活動 

 七月十七日(火曜日)、三連休明けの夜明けが訪れている。きのうは「海の日」(七月十六日・月曜日、休祭日)だった。日本列島各地は、気温の高い日に見舞われた。その様子を伝える記事から、一部を抜粋すればこう書かれている。
 <岐阜・揖斐川で39.3度 186地点で35度超える>(2018年7月16日21時52分 朝日新聞デジタル)。「全国各地で厳しい暑さが続く中、3連休の最終日となった16日も朝から気温が上がり、岐阜県の3地点で39度超を記録した。西日本豪雨の被災地を含む186地点では、午後5時までに最高気温35度以上となる猛暑日となった。」
 この記事に併せて、私は次の配信ニュースの引用を試みている。実際のところは三連休にもかかわらず駆けつけて炎天下、被災地および被災者応援に勤(いそ)しむボランティア(無償奉仕活動)の人たちにたいし、かぎりなく畏敬がつのるためである。もちろん、災害列島すなわち日本社会にあって、こんな眩(まぶ)しき人たちが存在することを肝に銘じて、その行為を崇(あが)めずにはおれないからでもある。
 <連休中、延べ4万人のボランティアが支援=不明20人、死者210人―西日本豪雨> (7/16・月曜日、13:04配信 時事通信)。「全国社会福祉協議会によると、14日からの3連休中に、被害の大きかった広島、岡山などを中心に被災府県に延べ約4万人が集結。仕事の都合で引き揚げる人は悔しさもにじませたが、被災者からは感謝の声が上がった。これまでに死亡が確認されたのは13府県で210人。安否不明者は20人で、懸命な捜索が続いた。各地で復旧作業も進み、岡山県倉敷市の真備町地区のうち、小田川の南側1300戸で16日正午に断水が解除された。同協議会によると、2014年8月に起きた広島市土砂災害で全国から集まったボランティアは2カ月間で約4万6000人。今回は、3日間でこれに及ぶ人数で、担当者は『復旧には時間がかかり、まだ必要だ。被災地に気持ちを寄せていただき、息の長い支援を』と呼び掛けている。16日に集まったボランティアは約1万人。倉敷市真備町地区や広島県呉市などで作業を続けた。真備町箭田の女性(83)は大きなごみを運んでもらい、『これで親戚に部屋を洗ってもらうだけ。本当にありがたい』と感謝。一方、東京から支援に駆け付けた菅一菜美さん(32)は17日から仕事のため、被災地にとどまれない。『きょうしか来られなかった。また来たいが距離の問題で難しい』と悔しそうに話した。気象庁によると、16日の最高気温は倉敷市で36.1度(今年最高)、広島市安佐北区で35.1度、愛媛県大洲市で35.5度を記録。同庁は引き続き熱中症対策を取るよう呼び掛けている。総務省消防庁によると、16日正午時点で約4870人が避難所での生活を余儀なくされている。」
 ボランティアの人たちの善意は、いくら崇めても崇めすぎることはないだろう。常にボランティア精神を保持する人たちは、被災地のみならず日本社会の浄化に励む人たちと言っていいだろう。そのためその崇高(すうこう)な精神は、日本社会に実在する神様とも言えるであろう。ありがたいことにはボランティア精神が根づくどころか、その志をたずさえる人たちは年々増えているという。天災および人災多い日本列島にあって、確かな光明である。しかし、私はその仲間に入れず手を拱(こまぬ)いている。その罪滅ぼしには、それらの人たちへひたすら畏敬をつのらせるばかりである。 

誕生日の備忘録 

 誕生日(七十八歳)明けの「海の日」(七月十六日・月曜日)。なんだか、気分が重たい。夜明けの空を見るかぎり、これまた西日本豪雨の被災地と被災者の人たちにはまことに恐縮だが、三連休は海や山への行楽日和である。
 きのうの私と妻は、JR横須賀線大船駅(鎌倉市)から、下りのJR横須賀線に乗車した。電車の行き先は、JR逗子行きだった。大船駅の先からは、JR北鎌倉駅、JR鎌倉駅、そして終着逗子駅(逗子市)へと下って行く。北鎌倉駅周辺の物見遊山は、鎌倉五山(円覚寺、建長寺、浄智寺、そして寿福寺、浄妙寺)のうち、前三山(寺)をめぐる歩行である。鎌倉駅と逗子駅に降り立つ人たちは、われ先に鎌倉の海と逗子の海を目指す海水浴客たちである。車内は、冷房の効き目が緩むほどに込んでいた。
 電車が北鎌倉駅に停まると、まばらにおとなたちが降りた。鎌倉駅では若い人たち、子どもを連れ添った家族が一斉に降りた。逗子駅では、車内に残ったすべての人たちが降りた。鎌倉駅と逗子駅に降り立った人たちは、明らかに海水浴客だった。私と妻は逗子駅で下車したものの、停車中のJR久里浜(横須賀市)行きへ乗り換えた。途中のJR横須賀駅前における娘家族(三人)との出会いの約束時間は、正午(十二時)だった。
 きのうの私たちは、娘の連れ合いが運転する車で、横須賀駅前から東京都国分寺市へ向かったのである。目的は、国分寺市に住むわが次兄宅への訪問だった。行きには三時間ほどがかかり、三時近くに着いた。次兄宅には一時間ほど居て、帰途に就いた。途中、ファミレス「夢庵」で夕食を摂った。そのせいでわが家には、ほぼ四時間半のちの午後八時半頃に着いた。娘たちは私たちを送り届けると、横須賀市内の自宅へ向かった。おそらく娘たちの帰宅は、一時間のちの九時半あたりであったろう。
 きょうの文章は、まことに身勝手ながらわが誕生日における行動の備忘録である。かたじけない思いつのるばかりである。一つだけ付加すれば私は、夢庵ではこの夏初めてのかき氷を食べた。次兄家族は、私たちの訪問を待って大歓迎してくれた。心に残る誕生日だった。それなに、目覚めて気分が重たいのは、なんたる罪作りであろうか。ほとほと、もったいない。心地良い、旅の疲れであったはずである。

 誕生日

 このところの私は、生きることに押しつぶされそうになっている。就寝中、一度目覚めると、再びは寝付けない。過去の悔いごとや、この先の不安が心中を脅(おびや)かすからである。なさけない。こんなことを書くようでは、文章を書かなければいい。実際のところこんな精神状態では、文章は書きたくないし、おのずから書けない。きょう(七月十五日・日曜日)は、わが七十八歳の誕生日である。ところが、こんな心境にとりつかれて、そのうえ恥晒しをかえりみず吐露している。
 わが精神は、常に泣きべそ状態にある。生来の「身から出た錆」、私は根っからの弱虫である。二度寝ができず精神状態ままならないため、私は階下へ下りて朝刊を取ってきた。朝刊に、精神安定剤の役割を託したのである。すなわち、みずからの文章は擲(なげう)って、朝刊の記事に救いを求めたのである。すると、一面記事の大見出しには、「暑い被災地 温かな心 ボランティア続々と」と、書かれていた。記事の一部を抜粋すると、こう記されていた。「全国各地で厳しい暑さとなった三連休初日の14日、西日本を中心とする豪雨災害の被災地には多くのボランティアが集まった」。
 被災者の悲しみは極度にある。それを支え、助け合うボランティア(無償奉仕活動)の人たちの心意気は、神々(こうごう)しいばかりである。まさしく、人間社会は共生社会である。するとこの記事は、メソメソとするわが弱虫精神に、一時的とはいえカンフル剤を打ってくれたのである。
 あすは「海の日」(七月十六日・月曜日)の祭日である。「七月盆」の真っただ中でもある。三連休は、よかれあしかれ人の営みを映して過ぎてゆく。現実には被災者でもない私が、さまざまな不安に駆られて、身を窶(やつ)すのは愚の骨頂である。馬鹿げているし、もちろんもったいないところもある。わかっちゃいるけど、生きることは、わが身には荷が重すぎる。誕生日にあっての、なさけないわが繰り言である。健康体だけが取り柄で、精神力はまったくの惰弱(だじゃく)である。もはや消費期限すれすれの誕生日にあって、こんな文章を書くようでは、とことんなさけない。やはり、きょうの文章は擲つべきだったのかもしれない。
 わが誕生日は、母の没年(昭和六十年・一九八五年)の命日でもある(享年八十一歳)。母の面影が沸々とよみがえっている。私は生き続けなければならない。

日本列島、悲しみの中の「七月盆」 

 西日本豪雨の惨状に気をとられているうちに、七月盆が訪れていた。きのう(七月十三日・金曜日)は迎え日で、きょうは(七月十四日・土曜日)はお盆のさ中にある。七月盆の習わしにある被災地や被災者は、まったく予期しない悲しいお盆を迎えている。もちろん被災地や被災者たちは、お盆行事すなわち先祖の供養やお墓参りとて出来るわけがない。それより、仏壇やお墓さえ姿を留めていない人が多いはずである。それよりなにより被災地の多くの人たちは、突然に肉親を亡くしたり、いまだに行方不明にさらされて、茫然自失悲しみのきわみにある。これらの人たちはもとより日本列島には、抗(あらが)うことのできない憎々しい天災のもたらした惨禍に遭って、七月盆が訪れている。それでも人は、日常生活を絶つことはできない。茹だるような炎天下、被災地や被災者の人たちは、悲しみをじっと堪(こら)えて復旧作業に大わらわである。
 テレビニュースの映し出すこの光景に見入ると、私は居たたまれない気分に襲われる。だからと言って私には、同情さえ憚(はばか)れる思いがある。なぜなら私は、何一つ手助けできない生きる屍(しかばね)にすぎない。このため、実際にボランティア(無償奉仕)活動に駆けつけている人たちの姿は、神々(こうごう)しいばかりである。今年(平成三十年・二〇一八年)の日本列島は、私自身が七月盆の入り日に気づかないほどに、西日本豪雨の惨禍に見舞われたのである。
 古来、日本社会にあっては「盆と正月」と、言われてきた。すなわち、日本社会にあってのお盆は、人々の暮らしの中にあっては正月と双璧を成してきた大事な営みである。なかんずく私の場合は、正月をしのいで心に残るわが家の営みだった。実際にもわが思い出づくりには、正月をしのいでいた。
 子どもの頃の私は、迎え日と送り日(七月十六日)には、母に連れられて墓参りに出かけていた。わが家の墓は、歩いて二十分ほどの野末の小さな丘にある。墓参りの持参物は、水を入れた薬缶、蝋燭、線香、庭帚、マッチ箱、そして花坪(花壇)から摘んだ名知らずの草花だった。草花は、幾重にも古新聞にくるまれていた。なぜなら古新聞は、墓場では火の焚き付け役割を兼ねていたからである。盆の間の仏壇には、母手作りの団子類が供えられて、絶えず蝋燭が灯(とも)されていた。仏壇のある座敷(板張り)には、いくつかの盆提灯が天井から吊るされていた。
 七月盆のさ中の十五日(昭和十五年・一九四〇年)は、わが誕生日である。ところが、のちのこの日には、母の命日(昭和六十年・一九八五年)が重なったのである。おのずから私の場合は、七月盆の入り日は決して忘れるはずもない日である。ところが、西日本豪雨の惨状は、それを忘れるところまで、追いやっていたのである。

「復興五輪」と言えるのか  

 蜂刺されの部位は、ようやく不快感が遠のいた。ところが、部位は膨らんだままで、くしこりとなっている。周辺を指先で抓(つま)むと、いまだに痛みがぶりかえす。こんな些細(ささい)なことを何度も繰り返し書くのは、たった一匹だったにもかかわらず、蜂刺されの恐怖が冷めやらぬためである。蜂にかぎらず虫けらと言えど、みずからの命を守るためにはこんなにも必死なのかと、あらためて驚かされている。このことは、わが弱虫の裏返しでもある。
 一方、何度か書き記してきた腓(こむら)返り(カラス曲がり)は、現在は遠のいている。こちらは勿怪(もっけ)の幸い、すなわちありがたいことである。なぜ? だろうと、自問自答を試みている。すると、同郷の同級生、二人のサゼスチョン(示唆)とピタリと符合する。カラス曲がりの防止には、ふうちゃん(大阪府枚方市ご在住)は下半身を毛布でくるんで温めればいいよと、アドバイスをしてくれた。そしてマーちゃん(熊本市水前寺町ご在住)は、寝る前に水をたくさん飲めばいいよと、これまた教えてくれた。すると、夏到来の現在の私は、寝る前にかぎらず昼日中から水はやたらと飲んでいる。一方、下半身は、おのずから薄い掛布団など、無意識にはねのけるほどに温まっている。まさしくお二人のアドバイス(助言)は、ピッタシカンカンである。カラス曲がりの遠のきは、お二人の助言を映した季節(夏)の恩恵と言えそうである。
 夏にあって私は、夏痩せ願望を実践中である。ところが、こちらは自助努力にすがるものだけに、いっこうにその兆しは見えない。いまだ500グラム減さえ果たせずじまいである。いや実際のところは、水菓子やアイスクリーム、はたまたアイスキャンデーをむさぼり、ときには(また、太ったかな?)と感じて、気分の滅入に襲われる。意識して大好きな西瓜は我慢しているけれど、腹部はまん丸の西瓜腹である。すると、(病気で痩せるより、まあいいか!)と、自嘲気味に自己慰安(やせ我慢)をするなさけなさである。もちろん、こんなことで一喜一憂をすること自体、このたびの西日本豪雨の被災者の苦難をかんがみれば、非難囂囂(ひなんごうごう)をこうむるであろう。テレビニュースのたびに映像に現れるのは、茹だるような炎天下、復旧作業に大汗タラタラの人の姿である。もちろん、神々(こうごう)しいというには罰が当たる、悲惨きわまりない光景である。
 一方、きのう(7月12日・木曜日)のテレビニュースは、近づく「東京オリンピックおよびパラリンピック」(2020年)における、聖火リレーのルートのことを華やかに伝えていた。そしてそのスタート地点は、「東日本大震災」(2011年3月)の最大の被災地・福島県と、伝えられていた。しかしながらへそ曲がりの私には、今なお空々しく思えていることがある。それは、今回のオリンピックに「復興五輪」という、冠がついていることである。なぜなら、私にはこのキャッチフレーズ(冠言葉)は、関係者のとってつけた独りよがりに思えているからである。
 東日本大震災以降も日本列島は、数々の天災をこうむっている。そして、被災者の多くはいまだにその傷癒えないさ中にある。熊本地震、鳥取地震、直近では大阪地震などがある。豪雨災害では、広島、そして去年は福岡県を中心に「平成29年豪雨」と記録され、続いて今年は「平成30年豪雨」と、記されたばかりの豪雨被害の真っただ中にある。「復興五輪」と嘯(うそぶ)くのは、ちゃんちゃらおかしい日本列島の現状である。もはや、開催の返上はできないけれど、スポーツ好きの私でさえ、端(はな)から東京オリンピック不要論をたずさえていた。ところがこのところの私には、ますますその思いはつのるばかりである。わずか二週間程度のお祭り気分で、被災者の気分が和むわけでもない。いやむしろ、居たたまれない気分がいや増すであろう。
 現下の日本社会は、舵取りとほざく為政者のせいで狂っている。もちろんそのしこりは、日本社会にこの先長く残るであろう。わが蜂刺されの痛みとは、桁外れに大きな日本社会の痛みになりそうである。日本列島の惨状を顧みず、「復興五輪」と、のほほんと嘯く人たちは、馬鹿じゃなかろか!……、わが下種(げす)の勘繰りである。