ひぐらしの記
 
前田静良 作 


 2014.10.27カウンター設置
 
内田川(熊本県・筆者の故郷) 富田文昭さん 撮影 

抗(あらが)えようない難局(戦い) 

 新型コロナウイルスとの戦いは、真犯人と言える加害者がいなくて、みな一様に被害者である。だからこの戦いは、困難を極めている。感染しないようにみずからに打ち克つしか、この戦いの勝利はない。言わば、世界中のだれしもが直面している個人戦と言えそうである。
 一月九日(土曜日)、三連休初日にあって寒いなあー(4:09)。日本国内にあっては、新型コロナウイルスへの感染恐怖のみならず、多雪地方の雪の降りよう、かつ積もりようが、限りなく気に懸かる。

戦う意志を固めている 

 人間の知恵、意志、そして連帯(力)が試される時がきた。戦争とは違って仲間と殺し合う必要はなく、このことではまったく後ろめたさはない。武器なく知恵で、人間こぞってウイルスを防ぐ戦いである。もちろん、老若男女のすべてが人間の誇りを保つ戦いである。だから、勝たねばならない。一都三県は、きょう(一月八日・金曜日)から来月(二月)七日までの一か月間、再度の「緊急事態宣言」期間に突入である。

『七草』 

 日々、自粛と怯えまみれの世の中になりました。「七草」(一月七日・木曜日)、3:00です。

人みな、人生苦 

 年変われど、虫けら、鳥、魚、あまねくその他の生きもの同様に、習性にしたがってほぼ同じ時間帯に目覚めて起き出しています(3:06)。このところ寒い日、冷える夜が続いています。ほとほとつらく、バカげた習性です。おのずから、行動的には自粛、巣ごもり、蟄居、精神的には気鬱症状の日常生活をこうむっています。言うなれば心身ともに、開放感の無い抑制生活に甘んじています。書くまでもないことを書いたのは、手持ち無沙汰の時間をちょっとだけでも埋めるためです。もちろん、気狂いはしていません。人生苦に、脅かされているにすぎません。われのみならず、人の世はみな、人生苦まみれです。新年に相応しくない文章を書き初めにして、詫びる気持ちいっぱいです。

「箱根駅伝」 

 三が日にあってきょう二日は往路、そしてあす三日は復路、「箱根駅伝」のテレビ観戦日です。号砲、待ち遠しくて眠れません。ステイホームにあって、巣ごもりの愉しみです。

新年、元旦 

 令和三年(2021年)が明けました。ただ、個人生活、社会生活、共に厳しい一年が予測されています。

除夜の鐘 

 寒波の予報の下、大晦日(木曜日)を迎えています。今年・令和二年(二〇二〇年)一年、お世話さまになりました。各位様にはつつがない越年を希望いた
します。

休みます 

 わが能力をはるかに超えて、長く書いてきました。くたくたに、疲れました。

 「御用納めの日」

 十二月二十八日(月曜日)、ちっぽけな卓上カレンダーには、「官庁御用納め」と記されています。この表記を見ると、官尊民卑の世の中の名残を想起いたします。できれば官庁を省いて、「御用納めの日」くらいでいいと思います。それでも、いくらか不愉快のところがあります。なぜなら、年末年始を休めず、働き尽くめの人たちはたくさんいます。特に、新型コロナウイルス禍にあっては、たくさんの人たちが世のため、人のため身を粉にして働き続けてくれます。人の世は、今さらながらこういう人たちで成り立っていることを感じ取った一年でした。
 さて、私は今年もたくさんの下手な文章を書き続けてきました。すると、ご常連の人たちが日々、義理チョコを超える真のご厚情で、「ひぐらしの記」へ訪れてくださいました。声なき声の励ましが無ければ、もちろん「ひぐらしの記」の継続はありません。心より御礼を申し上げます。そして、大沢さま、平洋子様、角田様、高橋弘樹様、古閑君、ふうちゃん、これらの人たちのご投稿文、さらにはブログ読者で名前を浮かべている山内様、名を列ねる友人たちすなわち渡部さん、大森さん、谷口さん、マーちゃん、これらの人たちには、日々励まし続けられてきました。同様に、心から御礼を申し上げます。
 きょうは新型コロナの感染を防ぐために要請されている、「静かな年末年始」の始めの日です。みなそろって、つつがない越年と静かな正月を迎えたいものです。もちろん、辞世のメッセージではありません。寝坊助が祟り、慌てふためいて書き添えたものです。「ひぐらしの記」は継続します。できればこの先、なお人様との交流を望んでいます。身の程知らずの欲張りは、わが「身から出た錆」です。感謝と詫びが同居する、年の瀬になりました。

 新型コロナウイルスがもたらす、わが世界観

 テレビ映像でマスク姿を観るかぎり、確かに世界は一つである。必ずしも有意義な学びとは言えないけれど、新型コロナウイルスの蔓延状況から、学んでいるわが世界観のひとつである。これくらいは学ばなければ令和二年(二〇二〇年)は、まったく為すすべなく閉じることとなる。
 「井の中の蛙(かわず)大海を知らず」。世の中に疎(うと)い私の場合、とんだことで学んだ世界観とはいえ、いくらかありがたく思えるところはある。だけど、世界中が悲惨な状況にあっては、あえてこんなことを吐露することは、やはり罰当たりであろう。それでも私は、わが身に染みてかつ臨場感をもって、さまざまな現場映像から「世界は一つ」という、思いをつのらせている。
 世界の国々にあっても、だれひとりマスク無しに歩いている人はいない。はたまた、医療現場における医師、看護師、そして患者模様は、普段日本国内で垣間見る動きとまったく同様である。今さらながら私は、「百聞は一見に如かず」の意味を、テレビ映像を通して学んでいる。どれもこれもが海外、すなわち異国の光景とは思えないものばかりである。グローバル時代にあっても私は、まさしく「井の中の蛙」状態に甘んじている。それによるわが世界観の乏しさは、ほとほと恥じ入るばかりである。挙句私は、デジタル社会はもとより、グローバル社会にも住めない生きる屍(しかばね)状態にある。年の瀬にあってこんなことを吐露し、さらに書くようでは「身も蓋もない」。
 新型コロナウイルスで明け暮れている日本社会にあって、多くの人はすでにきのう(十二月二十六日・土曜日)あたりから年末年始休暇に入っている。このことを私は、きのうの買い物のおりの人出の多さで実感したのである。つまりきのうの私は、正月用の買い物客の多さに出遭って、だれもが余儀なく「ホームステイ(在宅)」を決め込んでいることを実感したのである。そしてその光景は、おのずからソーシャルディスタンス(二メートルほどの距離)など、ままならない混雑ぶりだった。過ぎたイブやクリスマスの日に、テレビに映された世界中の光景もほぼ同様だった。
 新型コロナウイルスはいやおうなく私に、新たな世界観の学びをもたらしている。だからと言って、「棚から牡丹餅」と嘯(うそぶ)くことはできず、オロオロとするばかりである。わが家の正月用の買い物は、密を避けてきのう一度きりで早じまいである。「ホームステイ」の要請は、神妙にうけたまわっている。

表情と言葉 

 新型コロナウイルスの感染者数は、日々いっそう勢いを増している。危機に瀕してそれを止める訴えの表情と言葉は、もとより大きな力となる。テレビ画面を通して見聞きする医療関係者の表情と言葉には、だれしもにも切々たる必死さが表れている。その訴えに応じて私は、自分自身は感染をこうむるような迷惑行動や行為は避けようと決意する。言うなればこのところの医療関係者の国民にたいする感染防止の訴えは、身の縮む思いである。
 昨夕(十二月二十五日)六時より、テレビ画面には菅総理の記者会見模様が放映された。分科会の尾身茂会長をともなっての記者会見であった。おのずから私は、感染防止を国民にたいして訴える、お二人の表情と言葉の勢いを比べる幸運に恵まれた。特に私は、菅総理の表情を凝視し、言葉に聞き耳を立てた。その理由は先日のテレビニュースにおいて、中川医師会会長をはじめとする医療関係者と菅総理の表情と言葉において、菅総理に憤懣やるかたない思いをいだいていたからである。
 前者のそれには、猛犬に襲われる怖(こわ)さが漲(みなぎ)っていた。一方、菅総理の表情は普段と変わらず凪(なぎ)状態で淡々として、国民へ訴える言葉は犬の遠吠えを聞くほどに緊張感のないものだった。
 ニュースの映像は年末年始を控えて、国民いたして感染防止にいっそうの協力を求めることと、当事者としての並々ならぬ決意表明であった。双方を比べれば表情にはもちろんのことと、言葉にも明らかな違いがあった。すぐさま私は、菅総理の言葉にがっかりし、たちまち腹が立った。それは「なんとか、感染を押さえていただきたい……」という、言葉だった。先ずは。「なんとか」という言葉の曖昧さであり、頼りなさである。私は「なんとか」など使わず、「なんとしても」あるいは「どうしても」という言葉を使ってほしかったのである。もちろん、強い決意を表す言葉はほかにもあまたある。このときに用いる言葉として「なんとか」は、最もまずい言葉である。なぜなら、当事者としての必死さはまったく伝わらない。輪をかけて「いただだきたい……」という言葉は人任せであり、菅総理自身の決意はまったく聞き取れない。
 ところが、このときわが胸に生じたがっかり感は、きのうの会見においてはいくらか和らいだ。具体的には表情と声に緊張がいくらかあふれていたからである。そのうえ、「なんとか」は、わが意とする「なんとしても」に、置き換わっていたのである。しかし、尾身会長の必死さに比べれば菅総理のそれは、もちろん表情も言葉もまだまだである。極め付きは「雲泥の差」という言葉である。加えて、訴える表情、すなわち身体のパフォーマンスも足りない。
 私は尾身会長の必死な訴えに呼応して、静かな年末年始を肝に銘じている。危機に瀕し訴える表情と言葉は、考え抜けば無償の武器となる。

予告、撤回 

 十二月二十五日(金曜日)、幸運にもギリギリのところで予告撤回にありついている。私はおととい(十二月二十三日・水曜日)の文章、すなわち『年の瀬にあって、とんだ災難』の文尾に、次の項を書き添えていた。「予告:あさっての二十五日から、このパソコンはメールとワードの機能を失くします。デジタルとかパソコン生活は、もうコリゴリです。年の瀬の憂鬱は、いや増しています」。諦めとはそれですっきりするものではなく、私はやるせなく悶々とする渦の中に放り込まれていた。
 ところが、「捨てる神あれば拾う神あり」。私は実在する二人の神様に拾われたのである。まず拾って、紹介を得て助けてくださった女神は大沢さまである。次に、修復作業で助けてくださった男神は、それまでは存在さえ知らずにいた人である。すなわち、大沢さまはわが難儀をおもんぱかり、デジタル社会を難なく闊歩されている技能者をご紹介してくださったのである。
 マイクロソフト社にあって入れ代わり立ち代わり、男性一人と女性四人つごう五人との相談の明け暮れにも埒明かず、私は疲れ切っていた。なぜならマイクロソフト社との修復のやりとりは、朝っぱらから夕闇迫る頃まで続いていた。それでも修復ならず疲れ切り、私は修復を諦めていたのである。大沢さまのご紹介を得て、遠隔操作で修復作業にたずさわってくださった人は、懸命に作業をなされた。この間の私は、修復作業をパソコン画面で見入り続けて、同時にマウスさばきに見惚れていた。二日がかりの作業の末にパソコンは、元の機能を回復したのである。私は実在する女神様の優しさと、男神様の技量の為す幸運にさずかったのである。男神様には一万円弱の賽銭(奉仕料)が必要だったけれど、わが憂悶が解けたことではお安い料金であった。大沢さまには勝手に無料と決めこみ、この文章で心底より御礼を申し上げるところである。年の瀬の災難は、修復なってもいまだに腑に落ちないとんだ災難だった。
 確かに、デジタル社会は、わが身には無慈悲と言えるほどに冷たいものがある。しかし、それを凌いで人様の情けには、とことん温かいものがある。もとより人の世は、文明の利器に救われるものではなく、人の優しさに救われる証しである。「災い転じて福となす」。現在のわが心境である。

デジタル教科書 

 かねてから私は、デジタル社会には住めない、いや生きていけない人間だ! と、思っている。この思いはきのう(十二月二十三日・水曜日)書いた、『年の瀬にあって、とんだ災難』の内容で、止めを刺されたところがある。そんなおり目にしたのは、この配信ニュースである。このことに関して私は、不断から記事内容とまったく同様の懸念をいだいていた。そのため、あえて引用するものである。
 遠いかなたの学童時代を顧みれば、新しい教科書が配られる授業時間の私は、配られた真新しい教科書の紙の香りに酔いしれて、いっとき勉強のやる気をつのらせていた。今なお、懐かしい思い出である。このことだけでも私には、デジタル教科書は味気ないように思えるところがある。
 【【独自】デジタル教科書に「不安」9割…「視力低下」「通信環境」など懸念】(12/23・水曜日、5:02配信 讀賣新聞オンライン)。公立小中学校を所管する46道府県庁所在市、政令市、東京23区の計74市区のうち、9割超の69市区がデジタル教科書の使用に不安や懸念を抱いていることが、読売新聞のアンケート調査で明らかになった。望ましい教科書の形は、62市区(83・8%)が「紙とデジタルの併用」と回答した。 デジタル教科書に不安や懸念が「ある」と答えたのは千葉、名古屋、堺、鹿児島市など24市区で、「少しある」は札幌、横浜、大阪、福岡市など45市区だった。合計すると69市区、93・2%に上る。不安な点を複数回答で尋ねたところ、〈1〉視力の低下など健康面の影響(55市区)〈2〉家庭の通信環境の確保(47市区)〈3〉校内外の安定的な通信環境の確保〈3〉教員のICT(情報通信技術)指導力(いずれも40市区)――の順に多かった。このほか秋田、津、京都、佐賀市など26市区は「『書く』時間の減少」を挙げた。盛岡市は「健康への不安はないと確信を持てず、検証が必要だ」としている。端末は家庭で使うことも想定される。大阪市は「紙ならどこでも学べるが、デジタルは通信環境が必要だ。家庭で通信費の負担が生じてしまう。通信障害が起きると、勉強できなくなる恐れがある」と指摘した。■使用時間制限 撤廃案を了承  文部科学省は22日、デジタル教科書の使用時間を「各教科の授業コマ数の2分の1未満」と定めた基準を撤廃する方針を有識者会議で示し、了承された。今年度中に省の告示を改正し、来年4月から適用する。文科省は方針に▽30分に1回、20秒程度、目を休ませる▽目と端末の距離を30センチ程度以上離す――など、子供の健康面に留意する必要性を明記した。有識者会議では「健康への影響や、学力面の効果を検証するべきだ」などの指摘が出た。

年の瀬にあって、とんだ災難 

 十二月二十三日(水曜日)、わが心境はきのうから変調をきたしています。実際のところ身体は健康ながら、精神は死に体です。すなわち、広くデジタルの世の中にあって、私はパソコン病に見舞われて精神の病に罹っています。腹立たしさこのうえない状態です。
 腹立たしさの対象は、マイクロソフト社とわが無能力です。きのうはほぼ半日以上にわたり、マイクロソフト社のサービスセンターの女性担当者、すなわち入れ代わり立ち代わりの四名の人たちと対応に追われました。しかし対応は実らず、私は疲れ果てました。挙句、わがパソコンと私はoutlookの機能、具体的にはメールとワードの機能を失くしました。これらが使えないと私は、もはやお手上げ状態です。人様の交流はメールで、そして「ひぐらしの記」はワードで書いて、掲示板へ貼り付けているからです。
 マイクロソフト社への憤りと、わが無能力をさらけ出して、突如現れた警告メッセージを書き添えます。一つは、「製品に関するお知らせ:outlookはライセンス認証されていません。outlookを継続して使えるように、2020年12月25日までにライセンス認証を行ってください」。一つは、「サインインしてofficeを設定する」。
 わが無能力は、このメッセージに対応できません。マイクロソフト社のアドバイスも埒明かず、私は対応を諦めました。現在使用中のパソコンは、三年前に買い替えたばかりのものです。予告:あさっての二十五日から、このパソコンはメールとワードの機能を失くします。デジタルとかパソコン生活は、もうコリゴリです。年の瀬の憂鬱は、いや増しています。

ユズの実 

 きのう、「冬至」(十二月二十一日・月曜日)が過ぎた。きょう(十二月二十二日(火曜日)は、半年先すなわち令和三年(二〇二一年)の「夏至」(六月二十一日)へ向かってのスタートとなる。遠い先のことのようだけれど、半年など短い時のめぐりである。特この先、新型コロナウイルスの終息が見えないなかではなおさらである。確かに、そのことに気を取られていると、アッというほどもない短い時のめぐりを再び体験することとなる。なぜならこのことは、今年すなわち令和二年(二〇二〇年)で、身に染みて体験している。
 日に日に伝えられてくる感染者数の数値に怯えているうちに、半年はおろか早や一年が過ぎようとしている。これに応じてわが余生は、速足で持ち時間を縮めるばかりである。きのうの私は、暮れ急ぐ昼間のうちに「ユズ風呂」に浸かった。浸かりながら、浅ましく無病息災を願った。もちろん、浮かぶユズに願掛けをする人間の強欲さも味わっていた。
 浮かぶユズの実を揺らし近づけて、手に取り鼻先へ近づけた。たちまち、ユズの香りに心(気分)が和んだ。すると私は、古人(いにしえびと)の知恵に感嘆した。現在の世は、人工的に香りをつけて商品化されている。ところがそれらの香りは、さりげないユズの香りに比(くら)べ負けのところがある。ユズ風呂は願掛けなど欲張らずこの香りに、慌ただしい年の瀬の気分を和めることこそ、それで十分の価値があると言えそうである。そのうえ、暮れ急ぐ昼間のうちにユズ風呂に浸かれば余計、冬至にまつわる思いは切々たるものがある。
 私はユズの木を仰いで、十個余りをとった。リスに残す実は一つもなく、全部とり終えた。傍らの妻は、隣と向かいの二軒に、二つずつ持って行った。生る年に比べれば、三分の一程度の配りにすぎない。それでもどうにかわが家の年中行事を済まして、わが夫婦の皺だらけの顔は、ちょっぴり笑顔になった。ユズの実の役割は、ユズ風呂だけではない。

「冬至」 

 「冬至」(十二月二十一日・月曜日)。私にはきわめて感慨のつのる日である。一つは、「夏至」と対比されて一年のなかで、半年ごとの折り返し点である。一つは最も夜間が長く、そのぶん最も昼間が短い日である。さらに加えれば冬至にまつわる古来の風習、すなわちユズ風呂がある。ユズ風呂に息災を願うのは、もちろん心もとないところがある。けれど、年の瀬にあって心の和むところはある。
 わが家の庭中のユズの実は、冬至に合わせて黄色く熟れている。しかしながらユズの実の出来は不作で、両手の指の数ほどしか着けていない。これではきょうは、わが家だけのユズ風呂にしかならない。鈴なりのときのユズの実は、向こう三軒両隣へ持ち込んでいた。すると、義理立ての微笑み返しに出合って、寸時心が和んだ。
 ところが、生りの不作をこうむりきょうは、ユズの実にすがるささやかな近所づきあいは諦めざるを得ない。ちょっぴり、寂しい冬至の夜明け前を迎えている。そのうえ現在は、わが身に堪える寒波の訪れに遭っている。冬至はこの先、本格的な寒波の訪れのシグナルでもある。
 一方では寒波に耐えてそれを乗り越えれば、暖かい春の日が訪れる。そのため冬至にあっては、まさしく一陽来復の思いつのるところがある。これらのことは冬至にまつわるわが感慨であり、同時に時のめぐりの速さ(感)に慄(おのの)くばかりである。もちろん私は、迷信とも言えるユズ湯など当てにすることなく、不断から無病息災を願っている。しかしながらままならず、わが日常の営みは病に怯(おび)えるばかりである。
 現在は、胃部不快感に怯えているところもある。そしてきょうは、妻と相成して患者に成り下がり、そろって歯医者の予約日である。人間にとりつく四苦、すなわち「生・老・病・死」を強く思わずにはおれない冬至の朝の訪れにある。うっすらと、長い夜が明けつつある。

 年の瀬はカウントダウン

 十二月二十日(日曜日)、現在、パソコン上のデジタル時刻は3:23と、刻まれている。年の瀬も大晦日に向かって、いよいよカウントダウンの始まりである。ところが、いっこうに年の瀬の感じがない。もちろん、来る日も来る日も新型コロナウイルスの終息に気を留めているからである。実際のところはいまだに収束の兆しさえ見えず、日々恐怖感がつのるばかりである。確かに、日本国内の感染者数はなお勢いを増しつつある。おのずから、収束や終息は新しい年すなわち来年(令和三年)へ持ち越しとなる。
 こんななかにあって私は、新型コロナウイルスのせいであらためて人間の素晴らしさに気づき、感嘆しているところがある。具体的には、人間の知能や知恵への感嘆である。なお具体的には、新型コロナウイルス対応のワクチン開発の速さである。新型コロナウイルスは、突如として人間界に現れた異界の魔物である。それなのに人間の知恵は、それに抗(あらが)う薬剤を研究開発し、設備をととのえて製造して人体に接種できるまでになったのである。そして、そのスピードは一年足らずの速さである。すると、私にはこの速さが人間の驚異に思えている。新型コロナウイルスの脅威に明け暮れるなかにあって私は、このことを知り得たことは唯一の望外の幸運だった。このことを強く感じたため、きょうは記して置きたい思いに駆られていたのである。
 私には、「人間、万歳!」と、言えるところがある。いや、「人間、賛歌!」と、言いたいところである。

人生の哀歓、いや哀感 

 十二月十九日(土曜日)、気分悪く起き出している。就寝中、胃部不快感をおぼえていたせいである。おのずから、起き出しても気分が滅入っている。就寝中の胃部不快感は、このところ常態化しつつある。こんなことで現在、文章を書く気分が殺がれている。こう書いてこの先書けず、休養を決め込む手はある。しかし、せっかくキーボードへ向かっていることでもあるから、ふと浮んでいる成句を書いて、夜明けまでの時間を埋めることとする。
 電子辞書を開いて復習するまでもなく、だれもが日常的に用いる成句を三つほど書き添えることとする。こんな成句が浮かぶのは胃部不快感にともない、わが身に焼きが回っているのであろうか。そうであれば、「くわばら、くわばら……」である。
 【禍福は糾(あざな)える縄の如し】:幸福と不幸はより合わせた縄のように表裏一体であるということ。
 【塞翁が馬】:人生の幸不幸は予測しがたいことのたとえ。出典:淮南子・人間訓の故事に基づく句。昔、中国の北辺の塞(とりで)近くに住んでいた占いの巧みな老人(塞翁)の馬が胡の国に逃げた。気の毒がる隣人に老人は「これは幸福の基になるだろう」と言ったところ、やがてその馬が胡の駿馬(しゅんめ)を連れて戻ってきた。隣人がそれを祝うと、老人は「これは不幸の基になるはずだ」と言った。老人の家は良馬に恵まれたが、駿馬を好む老人の子が落馬して足の骨を折ってしまった。隣人がそれを見舞うと、老人は今度は「これが幸福の基になるだろう」と言った。一年後胡軍が大挙して侵入し、若者のほとんどが戦死した。しかし、足を折ったその子は戦わず済んだので、親子ともども無事であったという。
 【沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり】:人生のうちには悪いときもあればよいこともあるということ。悪いことばかりが続くものではないというたとえ。
 ……そうかなあー……。夜明けまではまだたっぷりと悶(もだ)えそうである。

 私は弱虫

 「人間は考える葦である」(パスカル)。この意味するところは珍紛漢紛(ちんぷんかんぷん)である。しかし、私も人間のはしくれだから、雑駁(ざっぱく)な感情は持っている。そして、日々それに悩まされ続けている。もちろん、多雪地方の人たち、はたまた新型コロナウイルスの感染に罹られている人たちの苦しみをおもんぱかる気持ちは持っている。今の私は、寒気に音を上げそうになっている(3:28)。人間ゆえに、大小の苦しみはだれにでもある。万物の霊長と崇(あが)められるけれど、実際のところは苦しみ多い人類と言えそうである。
 年の瀬、十二月十八日(金曜日)、私はこんな思いをたずさえて起き出している。語るや書くに落ちる、まったく「バカじゃなかろか!」である。この誘因は起き立ての寒さに遭って、泣きべそを書いているせいである。私は暴風雨や嵐に耐え忍ぶ「葦」の強さが、妬(ねた)ましい弱虫へ成り下がっている。おのずから「ひぐらしの記」は、風前の灯火(ともしび)にある。
 ところがきのうは、ひぐらしの記の書き手冥利に尽きる、飛んでもない恩恵にあずかったのである。具体的には、きのう書いた『感涙! 感謝!』の文章に書き尽くしている。すなわちそれは、平洋子様のご投稿文のおかげで、闘病中の恩師の近況と近影を知る幸運にさずかったのである。まさしくそれは、「継続は力なり」からもたらされた、うれしいオマケだった。
 能無い私にとってひぐらしの記を書き続けることは、もとより苦難の業(ごう)である。ところが一方、私はひぐらしの記を介在して、多くの幸運にありついている。それらの中でもきのうたまわった恩恵は、ピカイチ! と、言えるものであった。だったら、寒さにへこたれてはおれない。しかしやはり、そんな強がりは止めて、いや寒さに負けて、この先は書き止めである。ほうほうのていで、三十六計逃げるが勝ちの心境である。

感涙! 感謝! 

 十二月十七日(木曜日)、普段とは異なる心境をたずさえて置き出しています(3:46)。ひと言で言えば、人間の情愛の深さに心打たれています。それをもたらしているのは、思いがけなく掲示板上にたまわったご投稿文と三枚の写真のおかげです。お写真は新型コロナウイルス禍にあって、闘病に打ち勝たれている恩師、すなわちわが小学校一年生そして二年生時代の一組の担任であられた「渕上先生」(うら若き独身時代のお名前)のお姿です。
 前置きが長くなりました。洋子様、まことに勝手ながら、ご投稿文を「ひぐらしの記」へ移さしてください。お写真の転載は、電話なりで洋子様のお許しを得てからにいたします。文章の転載は、お許しを得ないままであり、切にお許しください。ブログの性質上、あらためて洋子様をご紹介いたします。洋子様は恩師、平先生のご長男の奥様です。愛情深い文章、恩師のお姿、さらには時節柄のふるさと風景の写真など、読んだり、眺めたりしてわが心は満ち足りています。その表れをずばり、表題といたします。
 「年の瀬 投稿者:平 洋子様 投稿日:2020年12月16日(水)18時36分1秒。「慌ただしかった一年がもうじき終わろうとしています。思い返せば1月半ばの義母の入院から始まった令和2年でした。元気でデイサービスに行った次の日の急な発熱と入院、2月半ばには新型コロナウイルスの発生による面会制限、2度にわたる転院、そして今は介護付きの老人ホームで穏やかな毎日を過ごしています。その間、私の骨折・手術・2ヶ月にわたる入院で、夫には大変な思いをさせました。その夫も人間ドックで発見された大腸ポリープをとるという未だかってない経験をすることになりました。今まで何事もなかったのがむしろ奇跡なのかもしれません。コロナウイルスのせいで義母との面会や外出がままならないのがもどかしく、着替えの受け渡しで状況を想像することしかできません。カメラを預けているので、時々撮影していただいています。なるべく家にいる時のような環境にしたいとのことでしたので、家族の写真や頂き物など届けると部屋に飾ってあります。丸山宏子様からのお手紙も
、食い入るように読んでいる姿を写真で見ることができました。窓越しの面会はできるようになったので、時々は会いに行けるかなと思います。先日、若い女性と話をする機会がありました。人と接する仕事なので賑やかなところに行くのを避けているし、短時間で買い物を済ませているとのこと。なんとなく世の中暗いですねと、言われていました。若い人でさえそうなんだと、ますます落ち込みそうになりました。ことしは早めに餅つきをして県外の次男に送るつもりです。うちのお餅がいいとのこと、お屠蘇には熊本名産の赤酒を送ろうかなと思います。超自粛のお正月が今回だけで終わるよう願う次第です。」

「時の言葉」 

 十二月十六日(水曜日)、もうどうにもならない、もうどうしようもない、という共に似たような意味の二つの言葉を浮かべて置き出して来た。浮かべた言葉はもちろん、新型コロナウイルスの感染拡大にたいしてである。イギリスやアメリカからは、ワクチン接種開始のニュースが伝えられ始めてはいる。それでも世界中は、いまだに新型コロナウイルスの感染恐怖に晒されている。そのため、これにかかわるニュースは、日々いっこうに絶えることはない。日本の国の舵取りにあっては、菅総理がまさしく陣頭指揮を揮われて、新型コロナウイルスの感染封じ込め策に大わらわである。もちろん、世界中の自国の舵取りを担う為政者(大統領や首相)も甲乙つけがたく、同様に躍起である。それでも、新型コロナウイルスの感染(力)を封じ込めることはいまだなく、これにまつわるニュースが途絶えることはない。
 こんなさ中にあって、甲乙つけたいようなニュースが流れて来た。いや、日本の国にからは乙にとどまらず、丙、丁とも言えそうななさけない話題である。それは、一度文章の中に明らかな揶揄(やゆ)として引用した菅総理の「ガースー」という、自称言葉である。親しみと受けを狙ったこの言葉は意に反して、たちまち物議を醸(かも)して非難囂囂(ひなんごうごう)をこうむるさ中にある。確かに、新型コロナウイルス禍にあっては、物議を醸す「時の言葉」と言えそうである。
 一方、世界中の国々や人々から、称賛を浴びている「時の言葉」はこれである。
 【拳振り上げ感情爆発「メルケル首相」厳戒ロックダウンの成否】(新潮社 フォーサイト2437)。「ドイツのアンゲラ・メルケル首相が12月9日に連邦議会で行った演説は、歴史に残るだろう。普段は冷静沈着なメルケル首相が、珍しく感情を露わにして国民に対しコロナ対策への協力を求めたからだ。普段のポーカーフェースを脱ぎ捨てた、彼女らしからぬ演説は、今日のドイツの事態の異常さを際立たせた。」
 日本の国の総理大臣も、できたら「こうありたい」ものである。
 長い夜は「冬至」(十二月二十一日)へ向かって、カウントダウンさ中の寒い夜にある。しかし、身に染みる寒さは、気象だけがもたらしていることでもない。国を違(たが)えての「時の言葉」の優劣もまた、わが身にブルブルと、寒さをもたらしている。

 「おためごかし」

 十二月十五日(火曜日)、年の瀬は半ばにある。気象庁の予報どおり日本列島には、真冬並みの寒波が訪れている。北の地方の予報には普段の天気や気温に加えて、競い合うかのように積雪の高さが報じられている。それを聞くたびに私は、身震いをおぼえるところがある。もちろんこれだけでは相済まなくて私は、北の地方の人々の日暮らしに思いを馳せている。確かに、寝床の中でも私は、寒気を感じていた。すると、寝床に恋をして未練が残り、置き出しを渋っていた。それでも、置き出さなければならない。なぜなら、これこそ一日の始動をもたらす人の世のつらい習いである。
 私は渋々起き出して来て、いつもどおりにパソコンを起ち上げた。そして、これまた習性どおりに、配信ニュース項目を瞥見(べっけん)した。それらの中で、このニュースに目を留めた。
 【GoToトラベル 28日から1月11日まで全国で停止へ 首相表明】(産経新聞)。「政府が新型コロナウイルスの感染拡大を受け、観光支援事業『Go To トラベル』について、年末から全国で一斉に一時停止する措置を決めた。これまでは事業の経済効果を重視して小出しで運用見直しを繰り返してきたが、年末年始の人の移動を抑えるため、より強いメッセージを出す必要があると判断した。後手後手に回った対応で内閣支持率も急落しており、菅義偉首相もようやく『引き締め』にかじを切った。」
 なんとこれは国の舵取りにあって迷走、すなわち「ごちゃ、ごちゃ」と、思えるニュースだった。もちろん私には、本格的な対策とは言えない、為政者のメンツと保身まみれの、「ねこだまし」みたいなものだった。
 『猫騙し』(相撲の立ち合いで、相手の目の前で両手を打ち合わせて相手を驚かす奇襲技)。
 いや、実際のところは「ねこだまし」とは言えそうにない。なぜなら、相手(国民)はまったく驚かずに、国の舵取りのバカさ加減に驚くばかりで、奇襲の効果はまったくない。そうであればこのことば、すなわち「おためごかし」が適当に思えている。
 『御為倒し』(表面は相手のためになると見せかけて、実は自分の利益をはかること)。
 わが下種の勘繰りでこう思うのは、もともとの年末年始休みと重ねるという、いい加減さである。
 寒い中の置き出しにあって、この先を書く価値はない。国の下手な舵取りには、気象のもたらす寒さを超えて、いっそう身が縮む思いにある。

妻同行の歯医者、そして買い物行 

 十二月十四日(月曜日)、予報によれば今週には寒気が訪れるという。冬季という時節柄、慌てることはないけれど、これまで暖かい日が続いていただけに、寒気に身構えるところはある。いやいや、予報どおりに寒気が訪れれば、きわめてつらい週となる。
 確かに、冬季にあっては、いつまでも暖かい日が続くはずはない。しかしながら欲深い私は、のほほんとしてなおそれを欲張っていた。とりもなおさずわが身体は、暖かさに慣れきっていた。そのため、思いがけない寒気の訪れには慌てふためいている。加えて、きょうの私には予約済みの歯医者通いがある。ところがこれには、先週から妻を連れ立っている。妻は、単なるわが付き添い役や介添え役ではない。妻自身もまた、私の次にひかえる患者である。早い話わが夫婦は、ほぼ同時間帯に予約を入れられた、M歯科医院(鎌倉市大船)の患者なのである。
 私同様に妻もまた、従来のS歯科医院(横浜市栄区)から鞍替えしたのである。もちろんこの鞍替えは、S歯科医院の技術を見限ったからではなく、この先の加齢をおもんぱかり、余儀なくしたものである。実際のところ鞍替えの理由はただ一つ、通院行程の不便によるものだった。S歯科医院の場合は、路線バスを降りて速足で、二十分強の徒歩を強いられていたのである。ところが、鞍替えしたM歯科医院の場合は、バスを降りて待合室の長椅子に腰を下ろすまでも二分足らずである。そのうえ、M歯科医院の技術は、卓球クラブの先輩の折り紙付きでもあった。
 M歯科医院へ先行していたわが感想では、通い易さとそして技術共に、十分納得できるものだった。そのためこんどは、私が妻をM歯科医院へ誘導する羽目となったのである。ところが幸いなるかな! 先週の初回のおりの妻もまた、私同様にM歯科医院への鞍替えに十分納得していたのである。妻同行の歯医者通いは、きょうで二週目である。もちろん歯医者通いとなれば、ありがたい同行ではなく、やむにやまれぬ同行である。私の場合はきょうで七週目であり、おのずから治療の打ち上げは、私のほうが早いはずである。しかし、家計からしたらこの先、延々と続くお金(治療費)の持ち出しとなる。妻の治療を待って、二人分の支払いを済ますのは私である。そしてその先には、ついでの二人しての買い物行となりそうである。
 すると気になるのはやはり、新型コロナウイルス禍にあっての感染恐怖である。妻にかぎらず主婦の買い物は財布をあずかるせいか、買い物時間はかたわらで待ち飽きるほどに、品定めが馬鹿丁寧である。普段にあっても妻同行の買い物にあっては、私は「早くして! 速く買って!」の連発である。ところが、新型コロナウイルス禍にあって、買い物客まみれの中での長居には、感染に慄(おのの)くばかりである。
 きょうの妻同行の歯医者通いとそれに続く買い物行には、わがひとりのときとは違って、二倍の感染脅威に晒されることとなる。二人そろっての予約時間は午前十時である。もとより、二人分の医療費はわがなけなしの財布(お金)からのお出ましである。きょうの私は寒気の訪れとともに、オチオチしておれない年の瀬の半ばにある。

長い夜はつらい夜 

 十二月十三日(日曜日)、現在デジタル時刻は2:43と刻まれている。一基の蛍光灯の灯る部屋の中は、静寂にいまだ真夜中の佇まいである。わが目は輝いているわけではなく、眠気まなこ状態にある。習性にしたがって目覚めたため、起き出して来たにすぎない。おそらく、キーを叩き終えれば寝床へとんぼ返りを試みるであろう。なぜなら、そうでもしなければ長い夜はもたない。しかし、再び寝床へ就いたところで瞼は閉じずに、悶々として夜明けを待つばかりであろう。
 今、心中に浮かんでいることをランダムに書けばこんなことがある。新型コロナウイルスのせいで人の世は、末世の感を呈している。日本社会にかぎればきのう(十二月十二日・土曜日)だけで、とうとう全国の感染者数が三、〇〇〇人を超えた。恐るべき加速ぶりである。年の瀬も新たな年の正月も、日々の感染者数値に怯えることとなりそうである。分科会の尾身茂会長は、年の瀬と正月の日本社会にあっては、「静かな日常」を懇願されている。私流にとらえれば感染の蔓延を恐れて、「人は出歩くな!」、ということであろう。すなわち、分科会会長の立場からすれば、感染を防ぐにはもはやこの提言しかないのであろう。つらく、また身を超えた警告であろう。そうであればやはり国民は、この警告に応ずるべきであろう。
 もう一つ浮かんでいるのは、呆れてものが言えないことばである。最初、このことば「ガースー」とは、何だろうと思っていた。ところが、菅総理がみずからの名、すなわちスガを「ガースー」と言われて、笑みを浮かべて話し始められたという。すると、新型コロナウイルス禍にあっては、あまりにも緊張感のない不見識なことばとして、そののちバッシングをこうむられているという。確かに、バッシングを受けられることには私でも、「さもありなん!」、と思うばかりである。あえて、古来のことばを重ねれば、「恥を知れ!」、ということば浮かんでいる。すなわち、駄じゃれにさえならない、人柄(人品)崩しのことばと言えそうである。
 手元の電子辞書を開いた。『開いた口が塞がらない』:「あきれてものが言えない」。学童の頃におぼえた成句を、総理のことばから浮かべるようでは、ひとりの国民としても大恥晒しである。この先書けず、尻切れトンボに寝床へとんぼ返りである。

寝坊助の心境 

 十二月十二日(土曜日)、顔に浸す蛇口の水が冷たくて体が震えた。寝起きが遅れて、五時半近くにパソコンへ向かっている。だから、慌てふためいている。起きれば、文章を書かなければならない。このことは、わが身には途轍もなくプレッシャーである。そしてできれば朝刊が届くように、夜明け前には書き終えたい思いをいだいている。
 ところがこれまた、私には大きなプレッシャーである。それでも書き殴りを始めて書き終えればこんどは、文意はもとより文脈の乱れが気に懸かる。能力の無い私自身に課した文字どおりの日課とは、呪縛(じゅばく)いや自縛(じばく)そのものである。このため私は、パソコンに向かうおりにはいつも、もう書くのを止めたい! と、思っている。もちろん、こんな後ろ向きの姿勢では、心もとない文章へ成り下がるばかりである。
 こんななさけない心地にまみれて、私は途方もない年月を書き続けてきたのである。それはなぜだろうか? と、自問を試みた。すると、欲張って三つの答えが浮かんでいる。一つは、大沢さまのご好意に感謝し、だからそれに背いてはならないという、人間固有の道議である。一つは義理立ての読者、すなわち友人・知人そして未知の人たちとの出会いを絶ちたくない思いからである。最後の一つは、書き殴りであっても書き続けることによって、ほかになんらの取り柄もない私に、いくらかの誇らしさを感ずるところがあるからである。実際にはそれは、どうにか生来の三日坊主を克服し、生きる屍(しかばね)を免れただけのみすぼらしい自惚(うぬぼ)れにすぎない。
 この時間にあって文章を急かせるのは、ほぼ同時間帯に位置する、もう一つの日課すなわち道路の掃除がある。ところが、この時期の長い夜にあっては、いくらか道路の掃除にたいする焦りは消えている。現在、時間的には六時をちょっぴり超えたけれど、道路に向かうにはいまだに夜明け前にある。それでもこんな文章に甘んじ、私は夜明けを待って道路の掃除に向かうつもりでいる。
 慌てふためいて、どうにか書き殴りの文章を終えた。それでもやはり、文章を書くのはもう止めたいと、思っている。一縷(いちる)の幸いは、毎度の思いだから、案外あすへ繋がるかもしれない。実の無い文章を書いて、なさけない、かたじけない、思いで結び文とするものである。
 まだ、夜が明けない。いや、現在の私は、長い夜に救われている。「冬至」(十二月二十一日)までは、いよいよカウントダウンの始まりである。

 勢いを増し続ける「新型コロナウイルス」

 十二月十一日(金曜日)、勢いを増し続ける「新型コロナウイルス」。いまだに節目とも言えない途中経過に過ぎないけれど、現下そしてこの先にわたり、東京都のみならず日本社会が怯える状態だけに引用を試みたものである。
 【東京 ついに600人台に 医療ひっ迫「受け入れ断念」も】(12/10・木曜日、18:39配信 フジテレビ系(FNN))。東京の感染者が、初めて600人台となった。都内の病院では、重症患者の受け入れができないなど、医療体制がますます逼迫している。東京・渋谷の電光掲示板に流れた東京の新たな感染者数。この衝撃的な数字が伝えられた瞬間も、スクランブル交差点を多くの人が行き交っていた。20代「危ない、怖いです」20代「すごく増えているなと感じています」東京都の1日の感染者としては、初めて600人を超え、602人。このうち、重症化リスクの高い65歳以上の高齢者は、77人にのぼる。重症者の数は、9日と変わらず、59人。都は午後に、モニタリング会議を開催。注目された医療提供体制の警戒度については、上から2番目の「体制強化が必要であると思われる」が維持された。東京都・小池知事「キーワードは『ひきしめよう』。引き続きテレワーク出勤、基本を徹底、食事を複数でとる際は、マスクを頻繁につけてもらって」年末に向けて、都民に気を引き締めるよう、呼びかけた小池知事。一方で、感染拡大の一因ともいわれるGO TOをめぐっては10日午前、「(GO TO停止を検討している?)現在の状況で続けていきたいと考えている、国に決めていただく形に」と話している。20代「地域の経済を盛んにするために必要なものなのかなと思う」20代「GO TOのせいで増えているなら、やめた方がいいんじゃないかなと思う」東京だけではない。10日は、これまでに、千葉・高知・大分・岐阜・山形の各県でも、過去最多の感染者が確認されている。全国の感染者が過去最多の2,809人となった9日、国内の累計感染者も、17万人を超えた。12月5日に16万人を超えてから、17万人に達するまで、わずか4日間。急拡大のペースが続いている。都内の医療現場では、重症患者の受け入れが断られる事態も起きていた。この重症患者も、複数の医療機関から受け入れを断られた末、東京・品川区の昭和大学病院に搬送されてきた。昭和大学病院・相良博典院長「この患者も(特定機能病院など)複数の医療機関から受け入れを断られ、われわれのところに来たが、人的問題もあって、残念ながら、断らなくてはいけなくなった。(第3波では)初めてのケース。今後増えてくる可能性があると思う」医療体制の逼迫が、さらに深刻な北海道。10日午後、追加の感染対策を発表した。北海道・鈴木知事「道民の大切な命と健康、暮らし、平穏を守るため、集中対策期間をさらに延長せざるを得ない」北海道は、不要不急の外出自粛などを呼びかけていた集中対策期間を、クリスマス当日の25日まで2週間延長。札幌市に続く対象として、新たに旭川市が加わった。また、道民に対しては、5人以上が参加したり、2時間を超える飲食、また、年末年始のあいさつ回りなどの自粛を要請した。「追記」:きのう(十二月十日・木曜日)一日だけの感染者の増加数は2、973人とあり、きょうにも3、000人超えとなりそうである。

長い夜の終盤に身を置いて 

 十二月十日(木曜日)、長い夜も「冬至」(十二月二十一日)へ向かって、終盤にかかっている。現在(3:43)は寒くもなく、身体的には凌ぎ易いいまだ夜中にある。すでに一時間近く、メディアの報じる配信ニュースを読み漁っていた。ニュースの多くは、新型コロナウイルにかかわるものばかりである。今さら言わずもがなことだけれど新型コロナウイルスは、日本社会にのみならず世界中の人々の営みを変えている。終息までにはなおどんな変化がもたらされるのかと、いっそう恐々(きょうきょう)するばかりである。
 英国では待たれていたワクチンの接種が始まったと、伝えられている。しかしながら拙速のきらいもあり、副作用を恐れてのおっかなびっくりの模様が伝えられてくる。懸念されていた副作用が顕われて、必ずしも万々歳とはいっていないようである。それでも、新型コロナウイルスの感染恐怖下にあっては、副作用に慄(おのの)いても接種せざるを得ないところがある。すなわち、人みな、悩ましい決断を強いられている。
 もし仮に、日本社会にもワクチン接種が可能となったとしても、効果あるいは副作用の見きわめつかないあいだは、私は接種を渋るであろう。こんなあやふやな状態にあっても、あわてふためいてワクチン接種がされ始めているのは、世界中が新型コロナウイルスに手を焼いている、確かな証しと言えそうである。
 新型コロナウイルスにかかわる項目の一つには、家庭内感染を恐れて、家庭(家の中)でもマスク着用が必要(強要)との記事があった。わが家であれば、夫婦の会話にあってもマス越しを強いられそうである。もはや人間社会は、疑心暗鬼の渦の中にある。「パパ。コロナうつるから、マスクしなさいよ!」と言われたら、家庭とは言えそうにない。いやいや、他人同士(他人同居)の家庭生活と、言えそうである。
 長い夜にあっても別段、書くことも、書きたいこともなく、これにて結び文とするところである。この先、夜明けまでのあり余る時間は、わが人生の来し方にぽつねんと耽(ふけ)るつもりである。あえて、行きし方(行く末)をめぐらすと、命切れのことばかりで、ちっとも面白くない。長い夜に長居をしたせいか、寒さを感じていなかった身体は、いくら冷えている。

人、鳥(鶏)、二様のウイルス惨禍 

 「現在ページ」は日に日に「過去ページ」へ移り、「未来ページ」はまったく無縁である。十二月九日(水曜日)、起き立てのわが思いである。
 さて、人間界は新型コロナウイルスに翻弄され、鳥類は鳥インフルエンザウイルスの脅威に晒されている。千万羽を超える鶏(ニワトリ)の殺処分ニュースは、鶏の命と生産者の悲惨な胸の内をおもんぱかり、泣くに泣けない悲しいニュースである。もとより、生きものの鶏に託さざるを得ない生業(なりわい)にはつらいところがある。いやいや、殺処分ニュースを見聞するたびに私には、双方すなわち鶏と生産者のつらさが身に染みる。なぜなら、私にとってのニワトリは、人間同様だからである。
 子どもの頃からこんにちにいたるまでわが命は、ニワトリに養われてきた。子どもの頃の私は、「わが家では、ニワトリを養っている」と、言っていた。すなわち、持ちつ持たれつそれほどにニワトリは、わが家とわが身一体の大事なものだったのである。
 わが家のニワトリは、育てて卵を産ませて、それを売りさばいてお金を得る、役割ではなかった。いや、わが家のニワトリには、もっと直接的にわが家の家族の命を育む役割があった。その役割を担っていたのは、座敷先につらなる縁の下で、養っていた数羽のニワトリだった。産み立てほやほやの卵を急ぎ足で取りに行くのは、ほぼ私の役割であった。そしてこの行動は、青大将(蛇)との競争でもあった。
 現在、世の中の食生活において、「美味しい、旨い」の連発で、にわかに「卵御飯」が持て囃されている。こう光景をテレビで垣間見ると私は、ちゃんちゃら可笑(おか)しいと思うところがある。なぜならそれは、産み立ての生温かい卵による、卵御飯の美味しさに味を占めているからである。
 運動会時の弁当箱の中心に見栄え良く置かれた、白地に赤の半身の茹で卵の思い出は、私にまつわりつく母恋慕情と郷愁の最上位に君臨している。しかし、こんなままごとみたいな思い出は、鶏の殺処分のニュースに出合えば、たちまち雲散霧消(うんさんむしょう)となる。なぜなら、ニワトリの命と生産者の嘆きをかんがみて、木っ端みじんになるからである。
 人間界における新型コロナウイルス禍、そして鳥類における鳥インフルエンザウイルス禍、共に比類なき悲しい出来事である。なかんずく、生産者の哀しみには、殺処分ニュースのたびに胸突かれる思いである。もちろん、殺処分大わらのニワトリにも、鳥で済まされないつらさがある。きょうの表題は、「人、鳥(鶏)、二様のウイルス惨禍」でよさそうである。起き立ての私は、つらい心情に苛(さいな)まれている。

ストレス病 

 十二月八日(火曜日)、気分重たく起き出している。実際には、胃部あたりに不快感をおぼえている。あれこれと脳髄をめぐらしても、原因不明である。強いて原因を探せば、わが人生に付き纏うストレス病なのかもしれない。対人関係の少ない現在のわが日常生活にあって、ストレス病に罹るのは、まったくの自損である。だとしたら、これぞ人生の悲哀! と言えるのかもしれない。そろそろ、胃カメラを呑む頃かもしれない。しかしながらカメラは、真空管みたいなストレス病を、病巣や映像としてとらえることができるであろうか。案外、「加齢のせいですね!」「そうですか」、のやりとりで終わりそうである。うれしい診断ではあるけれど、半面、内視鏡検査料がもったいなくて、新たなストレスを招くであろう。
 このところ頓(とみ)に薄くなるのは、わが頭髪と財布が一頭地抜いている。きょうはにわかにストレス病に罹り、この先、自作文が書けない。そのため、この文の下段にメディアの報じる配信ニュースを引用文して、お茶を濁すものである。新型コロナウイルスに対応しては、「GO TO トラベル」をはじめ、さまざまに政府肝入りの支援策が目白押しである。それら自体は背に腹は代えられず、もちろん非難すべきところはない。しかし、制度自体が急ごしらえで不備なのか、それとも国民良識の欠如のせいなのか、それぞれの施策において「正直者が馬鹿を見る」という、悪徳現象が起きているようである。
 なかでも、「持続化給付金」施策においては、申請手続きの不備などで、いやいや明らかな不正でお金の横取りが莫大な額になっているという。わが不埒(ふらち)な下種の勘繰りでは、なんだか「詐欺助成金」にも思えるほどの悪徳現象である。すなわち、このところの政府および自治体の施策は、総じて小手先と思えるものばかりである。その挙句には、世渡り上手、いや小賢(こざか)しい人だけが世に蔓延(はびこ)る現象を見る思いである。
 さらに言えば、弱者は置いてきぼりをくらい、強者救済の施策ばかりである。おのずから私は、さまざまな施策に腑に落ちないところがある。これもその一つである。案外、わがストレス病は、世情からもたらされているのかもしれない。そうであれば治療のほどこしようなく、「泣き寝入り」である。
 【地方移住&住宅購入で「100万円」 対象者は東京23区居住者ら】(12/7・月曜日、16:54配信 フジテレビ系(FNN)。地方に住宅を購入すると最大100万円分の家電などがゲットできる、ポイント制度が導入されることが明らかになった。対象は、地方移住をする東京23区内に住む人や、働く人で調整中。杉並区在住・20代女性「テレワークが進んでいる中で、都心に必ずしも住まなくていい方とか、1つのきっかけにはなるのかな」品川区在住・20代女性「家建てたり、リフォームだったりは、数百万円じゃ足りない場合も多いと思う。100万円もらえるから踏み切ろうとはならない」品川区在住・50代女性「今、真剣に検討している人は、背中を押してもらえるかなと思うけど、たかだか100万で人生が変わるって選択ができるのかなって」狙いは、16カ月連続で前年に比べ、減少し続けている住宅市場の活性化と、移住を勧めることで地方創生につながることとみられている。コロナをきっかけに、注目の地方移住。地方自治体も、さまざまな支援策を打ち出し、移住者の呼び込みを行っている。富士山のふもと、静岡・富士市では、テレワークをきっかけに東京近辺から引っ越した場合、引っ越し費用など最大50万円を補助。また石川県では、東京23区から移住し就業した人へ、最大100万円を支給している。新制度の対象は、都内で生活を続けながら省エネ住宅を購入する場合や、コロナ禍で根づいてきたテレワークなどのためのリフォームについても、ポイントの対象とする方向で調整されている。この新制度、8日にも閣議決定する追加経済対策案に盛り込む予定としている。

寒い朝の愚痴こぼし 

 十二月七日(月曜日)、遅く起き出して来た(5:32)。そのため、あわてふためいて、走り書きを強いられている。きょうは、早出の歯医者の予約通院日である。こんな予定がある日の私は、平常心を失くしてオチオチとしておれない。明らかなとばっちりは、執筆時間に大慌てをこうむることである。
 文章は心象風景の紡(つむ)ぎである。このため、心象が時間に急かされ揺れていると、端(はな)から文章は書けない。もちろん、能タリンのわが固有の理由である。こんな弁解は飽きあきしているけれど、いつも逃げ口上の常套句(じょうとうく)に用いている。
 遅く起き出して来た理由は、寒さに負けて布団の中で起き出しを渋っていたからである。きのう書いたようにこの時季、ようやく本来の寒さが訪れている。すると、寒気に弱いわが心身は、たちまちカタツムリやミノムシのような状態になる。それでも、予約済みとなれば、身を動かざるを得ない。
 きょうの歯医者の処置には、出来立てほやほやの二つの金属の被せ作業が予定されている。早や、歯医者通いも六週目になる。先回のおりには、「次回には、二万円ほどご用意ください」と、言われている。年の瀬にあっては、身や財布に堪える痛い出費である。一方では、見栄えだけの「おせち料理」に比べれば、はるかに身のためになる出費かな! と、思うところはある。もちろん、これにて歯痛が収まれば万々歳である。
 ところが、二つの被せ金属の処置は、いまだ序の口にすぎないところがある。なぜなら、掛かりはじめにこうも言われている。「このところが済んだら、次にはここのところに入れ歯を作ります。それは、一か月半が過ぎた頃になります」。つまり、大きな処置と大きな出費は、いまだこの先にひかえているのである。余生をかんがみればなんだかやりすぎかな! そして銭失いかな! と、思えるところもある。いやいや、歯の痛みは堪えようもないから、こんなケチなことは言わないようにしようと、戒めてはいる。しかし、承知の助ではあっても言いたくなるのは、一度掛かれば果てしない、歯医者通いへの恨みつらみと言えそうである。
 落ち着かないことを理由に、きょうの文章は早や手じまいである。文章とは言えないから、慰めのつくところはある。寒さも身に堪えている。

不意打ちの「寒気団」 

 十二月六日(日曜日)、悪夢にも魘(うな)されたけれど、それよりなにより寒さが身に堪えて、起き出してきた(3:54)。いよいよ冬将軍のお出ましかな! と、思える寒気著しい長い夜に身を置いている。だからと言って私は、自然界の仕打ちにたいし、手の平返しに恨みつらみは言えない。なぜならこれまでの暖かさには、私は望外の恵みをたまわり続けてきたからである。
 現在の寒気は、異常気象を正した季節相応にすぎない。わが身が震えているのは、期間限定の異常気象がもたらした暖かさを、のほほんと貪(むさぼ)っていたことにたいする、罰当たりなのであろう。言葉を重ねれば身に染みている寒気は、わが頓馬(とんま)のせいと言えそうである。
 いよいよ年の瀬は、本来の寒気団を引き連れて深まることとなる。すると私は、防寒にたいして緩んでいた意識を、あわてふためいて正さなければならない。現在の私は、飛んだ戒(いまし)めをこうむっているところである。今年は生まれて初めて、早々にインフルエンザの予防注射を打っている。効果のほどは知らないけれど、気休めにはなっている。インフルエンザ以外に風邪をひいたり、新型コロナウイルスへ罹患した場合は、明らかにわが落ち度である。だからこの際、気の緩みの隙(すき)を衝かれないよう、強く気を引きしめるところである。なお欲張って、つつがない年の瀬を希(こいねが)うところである。
 ネタのない書き殴りにあっては、この先が書けない。不意打ちの寒気に遭って、わが身はブルブル震えている。年の瀬にあって、実の無い『ひぐらしの記』は、十四年目をヨロヨロとめぐっている。

「無題」にしようかな 

 十二月五日(土曜日)、いまだに真っ暗闇だけれど、長い夜の夜明け間近にある。悪夢に魘されず久しぶりによく眠れた。私にすれば願ってもない快眠! と言えるであろう。もちろん起き立ての気分は、さわやかである。人生にあって身近なことでは、快眠ほど素敵なものはない。起き立ての確かな実感である。しかしながら私の場合は、すべてがいいわけでもない。なぜなら、眠りすぎたせいで目覚めが遅くなり、執筆時間に焦りをおぼえている。その祟(たた)りには、指先まかせの走り書きと書き殴りの文章を書く羽目に陥っている。このことではやはり、現在のわが気分は、不愉快なところもある。しかし、快眠など滅多にないことだから、すこぶる付きの良い目覚めである。
 きょうもまた、飽き飽きしている新型コロナウイルスのことは、避けて通りたいという思いがある。ところが、そう粋(いき)がっているとやはり、書くネタはない。現在のわが日常生活は、確かに新型コロナウイルスの感染恐怖に翻弄(ほんろう)されている。おのずからテレビや新聞などでは、新型コロナウイルスにかかわるニュースを見聞するばかりである。
 これに加わるものでは、『鬼滅の刃』という、言葉と文字がある。私は、これにはまったく無縁、いやまったく無頓着(むとんちゃく)にうち過ぎている。このため、この物語の内容など、ちんぷんかんぷんである。それでも、新型コロナウイルス禍にあっては、ありがたくかつ微笑(ほほえ)ましいニュースであり、社会現象でもある。そして、まったく無縁の私でさえ、気分がほっこりと、和むところがある。それほどに現在の私は、明るいニュースに飢えていると言っていいのかもしれない。
 いつものことながら、脳髄にネタをめぐらすことなく、指先まかせに書いている。すると、これまたいつものことだけれど、たちまち立ち往生に見舞われて、この先が書けない。幸い身が冷える夜明け前ではない。このことでは泣きべそをかくことなく、夜明けを迎えそうである。確かに、このうえない自然界の恵みに身を置いている。そうだとすれば四の五を言わず、しばし快眠後の夜明けの気分を貪(むさぼ)り続けたい思いである。
 無理矢理この先を書けば、文章の不出来で快眠気分が殺がれそうで、書かない。いや、書けない。走り書きと書き殴りは、とんとなさけない。いやいや、かたじけなく、詫びるところである。まだまだ、とうぶんのあいだ、夜は明けそうにない(5:37)。焦る気分に急かされて、へんてこりんの文章を書いてしまい、ミスったかな……。気分は、ちょっぴり憂鬱である。実のない文章ゆえに題のつけようなく、「無題」にしようかな。

復習「身につまされる」 

 意識して新型コロナウイルスにかかわる文章を避けようと思えばネタなく、無理やり書けばこんなことしか書けない。きのうは慣用句、「狐につままれたよう」の復習を試みた。するときょう(十二月四日・金曜日)は、目覚めて寝床の中で、このことばを浮かべていた。それは、「身につまされた」ということばである。わが生涯学習は、常に枕元に置いている電子辞書すがりである。
 なぜ? このことばを浮かべていたかと言えば、言葉の響きが似ていること、さらにはことばの意味も難しいところがあるからである。そのためのお復習(さら)いであった。このことばの意味を難しくしているのは、ずばり「つまされる」ということばである。このため先ずは、「つまされる」を見出し語に置いて、電子辞書を開いた。
 【つまされる】:①情愛にひかされる。恩愛にほだされる。②(「身にー・れる」の形で)ひとごとでなく感じられて、哀れに思われる。
 次には、ずばり「身につまされる」を見出し語に置いた。
 【身につまされる】:わが身にひき比べる。特に、他人の不幸などがひとごとでなく思われる。
 私は長年、多くの文章を書いてきた。かつてはあらかじめネタを浮かべて、四百字詰め原稿用紙五枚分、すなわち二〇〇〇字を基準にして書いていた。もちろん、いくらか筋書きを浮かべて書いていた。ところが現在は、こんなに長い文章を書くことは滅多にない。それと同時に現在は、起き立ての書き殴りや、走り書きに甘んじている。このことでは、端(はな)から文章を書く姿勢が大違いである。もとより、文章の出来自体、大違いである。唯一、似ているところは、過去、現在ともに、書いた量の多さである。それなのに私は、今なおありふれた慣用句、そしてフレーズ(成句)にさえ、電子辞書すがりである。わが掲げる生涯学習のせいとは言え、ほとほとなさけなく、また体(てい)たらくきわまりない。きのう同様にこんな面白味のない文章は早々に閉じて、同時に読者各位様にはかたじけなく思うところである。
 さて、文章を用いて、再び復習を試みる。新型コロナウイルスの感染に遭われた人の悔しさは、「身につまされる」思いである。きのうに続いて、新型コロナウイルスのことは書かずに済んだ。しかしながら私は、長い夜の過ごし方を案じている。

慣用句「狐につままれたよう」 

 きのう(十二月二日・水曜日)の文章で私は、気温高く暖かい日をもたらしている、自然界の恵みのことを書いた。この時期にすれば思いがけない暖かい日の恵みを、私は素直に喜んでいたのである。ところがきのうは、急転直下気温低く、途轍もない寒い日に見舞われた。昼間には、そぼ降る冷たい雨がともなっていた。私は茶の間に居座りながら心中で、一つの慣用句を浮かべていた。言葉の理解にいくらかこころもとないところがあり、電子辞書を開いて復習を試みた。あまりの天気の変わりように私は、「狐(きつね)につままれたよう」な思いをたずさえていたのである。
 おのずから見出し語に置いたのは、「狐につままれたよう」である。電子辞書の説明書きはこうである。慣用句:狐につまされる。解釈:狐にばかされたときのように、わけが分からなくなり、ぼんやりすること。今やありふれた日常語にもかかわらず、あらためて電子辞書にすがった理由はこうである。子どもの頃から人をばかすのは狸(たぬき)と教えられてきたので、私は狐のことばに戸惑っていたのである。そのため、狐に変えて狸とすれば、いくらかすんなりとするところがある。
 もうひとつ、馴染みの薄いことばがわが理解(力)を妨(さまた)げていたのである。それは「つままれる」という、ことばである。このため、こちらも電子辞書にすがった。先ずは狐と狸について、わが無知にかかわる正解を書けば、こう書かれていた。それは狐と狸共に、人を化かしたり、騙したりするものの象徴として用いられてきたという。わが無知は、狸だけにかぎっていたのである。私はそのしっぺ返しをこうむり、短い慣用句の一方の理解(力)を薄められていたのである。さらに、理解(力)を妨げるもう一方のことばが、「つままれる」であった。このことば調べに私は、動詞「つまむ」を見出し語に置いた。
 【撮む・摘む・抓む】「①指先で挟みもつ。②転じて、指先や箸で取って食べる。③要点を取り出す。④人をあざける。ののしる。⑤(受け身の形で用いる)狐・狸などが人を化かす。」
 わが恥を晒して長々と書いたけれど、「つままれる」ということばは、「化かされる」の同義語として、厳然と存在していたのである。
 きょう(十二月三日・木曜日)はのっけから、書き飽きしている新型コロナウイルスのことを書くのは避けようと思っていた。ところが、その代替のこの文章は、書いても読んでも、ちっとも面白くない、わが無知の晒し文である。私自身にはさておいて、読者各位様にはかたじけない思い、つのるばかりである。もとより、「狸にばかされたよう」という、慣用句であれば、恥を晒すこともなかったのかもしれない。ちょっぴり、残念無念である。それでも、急転直下の寒気がもたらしたわが生涯学習、曖昧な慣用句の意味を深めたことには、いくらかのご褒美と受け止めている。「痩せ我慢」と、言えなくもない。「痩せ我慢」:無理に我慢して平気なように見せかけること。きょうは、新型コロナウイルスのことは書かない。

めぐりきた年の瀬 

 きのう(十二月一日・火曜日)から、今年(令和二年・二〇二〇年)の最終月に入っている。残りひと月とはいえ世の中が新型コロナウイルス禍にあっては、オチオチしておれない年の瀬となりそうである。まさしく、恐々(きょうきょう)とする年の瀬である。
 降って湧いた新型コロナウイルスの恐怖なくとも人生は、だれしも艱難辛苦(かんなんしんく)の茨道である。そうであっても人は、みずから生存を放擲(ほうてき)することはできない。それゆえに人は、日々歯を食いしばり、茨道を踏んでいる。
 こんな日常にあって、ありがたいことの一つには自然界からたまわる恩恵がある。今年にかぎればずばり、この時期の昼夜の気温の高さである。すなわち、このところは寒気の遠のいた暖かい日に恵まれている。もちろん、いつなんどき天変地異の鳴動に見舞われるかもしれないと、このことでは気分の休まるところがない。しかしながらこのところの暖かさは、わが日常生活に確かな恵みをもたらしている。
 高い気温が続いているせいか木々の枝葉は、例年より早く枯れ落ちている。そのため、今では道路に散り敷く落ち葉の量を減らしている。さらに加えて、道路を掃除するにも、北風、木枯らしに身を縮める日は滅多にない。これらのことは、このところの自然界からわが身にさずかる恩恵である。いやこの恩恵は、私にかぎらず人様共通のようにも思えている。その証しは道路を掃きながら、散歩めぐりの人たちとの出会いの多さである。確かな実感をともなって出会いは、いつもより増えている。この現象には、是非それぞれに一つずつの誘因がありそうである。是は、高気温がもたらす恵みである。多くの人たちは、高気温にさずかり散歩めぐりを発意されているのであろう。一方で非は、新型コロナウイルスのせいで、やむにやまれず散歩めぐりをされているのであろう。すると私は、箒の手を休めてしばし道路にたたずみ、初対面の人たちと会釈を交わす場面が多くなっている。
 出会う人たちの多くは高齢者である。年齢を尋ねることは野暮だけれど、高齢者の筆頭は、たぶん私自身なのかもしれない。なぜなら、初対面でありながら私は、温かいまなざしを受けている。ときには立ち止まられて、私はひと声の激励を受けている。もちろん私は、不断のへそ曲がりを封じてひねくれることなく素直に、「ありがとうございます」のことばを返している。そして、束の間の生きる喜びに浸っている。
 人間が出会いを失くしたら、もはや生きる屍(しかばね)である。ところが、新型コロナウイルスは、出会いの機会を妨(さまた)げている。これだけでも、ほとほと恨めしいかぎりである。道路上の出会いの多さは、人様が街中への出向きを阻(はば)まれた証しと、言えそうである。同時に、人みな、生きることに必死の確かな証しとも、言えそうである。人様の年の瀬の無事安寧を祈るところである。いやいや、綺麗ごと、他人事(ひとごと)ではなく、わが身の安寧こそ、いっそう欲深く願うところである。

なさけなく、そして無念 

 令和二年(2020年)十二月一日(火曜日)、悪夢に魘(うな)されて起き出してきて、文章が書けません。現在、2:10。新型コロナウイルスには罹病してなくても、意馬心猿(いばしんえん)、百八煩悩(ひゃくはちぼんのう)に脅(おびや)かされる年の瀬を迎えています。ひたすら、煩(わずら)わしい人間を演じています。長い夜はまだ先、「冬至」(十二月二十一日)まで続きます。休みます。

 ああーあ、パソコン

 私にとってパソコンは、文明の利器と言えるのか? おそらく、最重要な利器と言えるであろう。一方でパソコンは、そうとも言えないところもある。私はパソコンがなければ、文章が書けない。一方、パソコンが無ければ、文章を書くことから免れる。私にとってパソコンは、確かな文明の利器である。一方、精神を虐め尽くす悪魔でもある。
 実際のところ私は、日々心中で「もう書けない、書きたくない」と、呟きながらパソコンを起ち上げている。登山家は「山があるから登るんだ!」と、言う。これに準(なぞら)えれば私は、パソコンがあるから起き立てに開いている。確かに私は、パソコンが無ければ文章が書けない。一方、パソコントラブルに見舞われたときの私は、たちまち精神破綻を招いて半狂人さながらになる。これらのことをかんがみればパソコンは、私にとってはどっちつかずの文明の利器と言えるかもしれない。
 パソコンにかぎらず世の中には、文明の利器ともてはやされるものにあっても、必ずしも便益ばかりをもたらすことはない。ふと浮べても、芋づる式に連なって浮かんでくる。自動車が無ければ、自動車事故は免れる。嗜好するアルコール類が無ければ、アルコール中毒は免れる。日常生活にあってこんな得失現象は数多あり、もちろん一々挙げれば切りがない。すなわち、文明の利器と思えるものであっても得ばかりとは言えず、多くは得失相まみれにある。その挙句、人は得失をコントロールしながら日常生活を営んでいる。その決め手は、コントロールの巧拙と言えそうである。上手くコントロールできる人にとっては文明の利器となり、一方コントロールできない人にとっては、人間喪失さえ免れない悪魔ともなる。
 パソコンの利便性に救われて私は、ブログ上に文章を書き続けている。そのことで私は、多くの人様との出会いにさずかっている。私にとってのパソコンは、やはり文明の利器と言えそうである。パソコンには、長い夜の時間潰しの恩恵にもさずかっている。文章を書く苦難を強いられているのは、パソコンのせいではなく、わが無能力すなわち「身から出た錆」のせいである。

蔓延(はびこ)る「新型コロナウイルス」 

 感染症の恐ろしさを新型コロナウイルスのせいで、私は日々実感している。もとより、日本社会は為すすべなくお手上げ状態にある。このところ、新型コロナウイルスは蔓延状態になりつつある。
 『第3波「見えにくい」クラスター、感染拡大か』(産経新聞)。「新型コロナウイルスの『第3波』の感染拡大要因に、『見えにくい』クラスター(感染者集団)の存在が指摘されている。無症状や軽症の感染者が検査前に水面下で感染を広げ、職場や大学、外国人コミュニティーなどの多様なクラスターを生み出している可能性がある。専門家は市中感染の蔓延期に差し掛かっているとみており、接触機会の削減を求めている。」
 目に見えない水面下であれば、もはや防御のしようはない。唯一、カタツムリやミノムシのごとくに、身動きを止めて静止状態を貫くことこそ、最大かつ最良の防御策であろうか。しかしながら、動きを止めた人は、それこそ生きる屍(しかばね)であり、寸時さえそれはできない。だとしたらどうすればいいのか? その答えは、まるで幼(いと)けない子のままごと遊びさながらに、老若男女(ろうにゃくなんにょ)一様に、マスクを着けて行動するよりほかはない。
 確かに、思いついた浅知恵のごとくにだれもかれもが、マスクを着けて動いている。ところが、新型コロナウイルスはその行為をあざ笑うかのように、へこたれず感染力を強めている。だから、「打つ手なし」、と言って防御策を諦めてはおれない。おのずから現下の日本社会は、新型コロナウイルスの防御策に大わらわである。しかしながら、いまだ確たる効果の見える決め手はない。つまるところ、だれしもがみずからを守ることこそ、ひいては日本社会の蔓延を防ぐ、社会貢献と言えそうである。
 きょう(十一月二十九日・日曜日)、現在のわが身は新型コロナウイルスの感染恐怖に怯(おび)え、さらには突然の寒波に見舞われて、わが身はブルブル震えている。確かに、生きることは、日々苦難の闘いである。

来る日も来る日も、「コロナ、コロナ」 

 わが下種の勘繰り、すなわち未熟な私見にすぎない。そして、きのう(十一月二十七日・金曜日)書いた文章の二番煎じを免れない。政府もっと具体的には関係者は、(来年・二〇二一年)の「東京オリンピックおよびパラリンピック」の開催にこだわり、新型コロナウイルス対策を意図的に小さく抑え込んでいたきらいがある。このことにからんで、再び記憶をそのときへ戻すと、IOC(国際オリンピック委員会)・バッハ会長の来日のおりの主たる関係者のはしゃぎようがよみがえる。ところが、皮肉にも新型コロナウイルスの感染力は、そのときから堰が切れたかのように勢いを増して、日本列島を蹂躙し始めたのである。そして、現在の日本社会(国民)は、感染の広がりに恐怖(感)をいだいて、日々あたふたとしているありさまである。ひと言で言えば新型コロナウイルスの感染の広がりにあって、今や政府は打つ手なしの状態にある。だからと言って、政府の対応を非難することはできない。なぜなら、まさしく魔界のウイルスがもたらしている、人類への脅威だからである。
 結局、新型コロナウイルスへの対応策は、人類こぞってのそれに打ち勝つ英知しかない。言わずもがなのことだけど、英知の確かな現われはワクチンである。アメリカを先駆けに、ワクチン投与が近づいているという。そうであれば人類共通の願いとして、開発されているワクチンの著効に期待するところである。さらには、「ワクチンに国境無し」を切に願うところである。
 さて、政府の分科会の尾身茂会長は、衆議院厚生労働委員会で、「多くの人に分科会のメッセージに対して協力してもらい、個人の努力を十分にやってもらったが、ここまで来ると、個人の努力だけで、今の感染が拡大している状況を沈静化することはなかなか難しい。問題の核心は一般の医療との両立が難しくなっている状況であり、個人の努力だけに頼るステージはもう過ぎたと認識している」と述べられた。関係者のメンツや保身にかかわる、オリンピック開催願望などかなぐり捨てて、新型コロナウイルスにたいし待ったなしの、いよいよ政府の本格出番を望むところである。
 オリンピック開催で日本の国の力を誇示しようとするのは、もはや関係者の傲(おご)りと言えそうである。もちろん、国民はそんなことは望んでなくて、目前の新型コロナウイルスのやっつけだけを望んでいる。そして、それが叶えば世界の人々は、おのずから日本の力を称賛するであろう。こうありたいものである。

目覚めのいたずら 

 十一月二十七日(金曜日)、二度寝叶わず仕方なく、起き出して来た。現在、パソコン上のデジタル時刻は1:55である。この頃は、こんなどうでもいいことを書いている。寝床に寝そべりながらしばし、心中にこんなことを浮かべていた。今さらながらに日本社会は、新型コロナウイルスのせいで、ごちゃごちゃめちゃくちゃである。どうせまともな大会など望めようがないなら、「東京オリンピックおよびパラリンピック」(来年・2021年)は、潔(いさぎよ)く返上したらいいと、思う。なぜなら、これが足枷(あしかせ)となって日本社会は、新型コロナウイルスの本格的な防御策が打てないのであろう。オリンピック開催願望は、もはや関係者のメンツと、本音隠しの独りよがりにさえ思うところがある。臆測をしたがえたこういうわが思いは、おそらくバッシングを受けるであろう。しかしながら一方、日本社会の非常事態であれば、バッシングを恐れず本音を吐露しなければならない。オリンピックを目指している「アスリート(競技者)の思いをおもんぱかれば……」という建前は、もはや必ずしも適当ではなさそうである。アスリートとて、個々の練習環境の違いに直面しているはずである。さらに言えばこんな状況下にあっては、オリンピックにおける日本選手の活躍(金メダル)が、日本社会の鬱憤晴らしになるとは思えない。憚(はばか)らず言えばオリンピック開催願望は、もはや関係者の幻想の隠れ蓑と言えそうである。
 私はこよなくスポーツ好きである。まして、このたびのオリンピックは、わが生存中における有終の美を飾る一大イベントである。それでもやはり、新型コロナウイルス禍にあっては、私はオリンピックの返上を願うところである。大会返上の理由は、素直に「新型コロナウイルスに負けた!」と、言えばいいはずである。案外、世界中の人々から、さらにはアスリートから、拍手喝采を浴びるかもしれない。とうに日本社会は、新型コロナウイルに負けているのである。この負けを長々と引きずるのは、日本社会の面汚しとも言えそうである。
 きょうもまた私は、悶々とする長い夜に身を置いている。時刻は、いまだ真夜中(2:52)である。

長い夜 

 十一月二十六日(木曜日)、現在の時刻は3:02と表示されている。ほぼいつもの起き出しである。体感温度はそう低くはない。きのうはくだらないという理由で、久しく視聴を止めていた国会中継(参議院予算委員会)に、チャンネルを回した。ところが、やはりくだらなかった。国会審議は審議とは言えず、めちゃくちゃである。なぜなら、討論の体(てい)を成していないからである。わが一つだけ望むのは、質疑の内容はともかく、真摯な討論会である。これが見えないと、端(はな)からくだらないこととなる。
 これまでの私は、国会中継で胸の透く質疑応答に出合ったことは滅多にない。きのうの国会中継を見たかぎり、おのずからこの先、またまた視聴が遠のくであろう。憤懣やるかたない思いでいっぱいである。新型コロナウイルス禍にあって、現在の日本社会は混乱状態にある。それゆえに真摯な質疑応答は、待ったなしのはずである。しかし、まったくそれが見えなかった。日本の国の舵取りは為政者の善し悪し、すなわち一つ言葉で言えば為政者の「良心」にかかっている。つまり、良心の見えない舵取りや質疑応答は、私にはくだらないと思うところがある。万事、良心あってこそ、人の世である。至極、残念無念である。
 長い夜にあって、書くこともない。この先、夜明けまで悶々とするばかりである。

夜長を脅かす悪魔、ままならない睡眠 

 十一月二十五日(水曜日)、零時頃、二時頃、そして三時頃、とろとろと三度寝にありついて、起き出して来た現在は、4:13の時刻表示である。二度寝ならず三度寝にありついて、私は子どもみたいな心境で、うれしい気分である。普段は一度目覚めれば二度寝がままならず、布団の中で時を浮かべて悶々とすることが多いからである。
 かつての私はこの季節の夜長を、寝ても起きても心ゆくまで堪能できていた。ところがこのところの私は、日々夜長の時間を持て余し、恨めしくさえ思うところがある。寝ては熟睡できず悪夢に翻弄され、無理やり起きればおのずから文章を書く気分を殺がれている。
 身近なところで人間は、睡眠なかんずく熟睡ほど、幸福につながるものはない。正直者と言えばそうだけれど、せっかくの夜長にあってこんなことを書くようでは、私はほとほと愚か者である。ときには初恋物語などを浮かべて、スヤスヤと長く一度寝をまっとうしたいところである。いかんせん、私には初恋はない。結婚とて、友人すがりの出会いがしらにすぎない。この頃の私は、夜長を堪能することに全神経を遣っている。つくづく、バカな私である。
 きょうは決まって水曜日にめぐって来る、歯医者通いである。夜長にあって、「嗚呼、無情」の一文である。私には睡眠薬服用の体験はない。もとより、容易で愉しい睡眠に際し、薬剤にすがるバカではない。自然体の睡眠こそ、わが幸福である。

 初冬の寒気

 きのうの「勤労感謝の日」(十一月二十三日・月曜日)を含む三連休が明けて、「コロナ、コロナ」と、騒々しい週が始まる。特に今週は、「GO TO トラベル」や「GO TO イート」キャンペーンなど、政府施策の見直しで喧(かまびす)しくなりそうである。言うなれば政府と、専門家や分科会との喧々諤々の鬩(せめ)ぎ合いとなりそうである。いずれも、日本の国を案じてのことであれば、無関心ではおれなく、帰趨(きすう)を心して見守るべきであろう。それにしてもこのところの新型コロナウイルスの増勢ぶりには、確かにこの先が思いやられるところである。
 こんな中にあって起き立てのわが身は、思いがけない寒波に見舞われて震えている。初冬の気温であれば、このくらいの冷えは当たり前ではある。ところが、このところの暖かさに感(かま)けて私は、冬防寒重装備の着衣を脱ぎ去り、寒気に気を許していた。そのため、現在こうむっている寒さは、虚を衝かれたしっぺ返しと言えるだろう。
 きょう(十一月二十四日・火曜日)の私は、「寒気、いよいよ来たか!」の思いつのるばかりである。なんら実のない、起き立ての約十分間の殴り書きに甘んじて、文章を結ぶものである。現在時刻は、夜長にあっては真っ暗闇の夜明け前である(5:34)。早々と文章を結ぶのは、脳髄が寒気に怯えて、指先に何も伝えないからである。現在のわが脳髄は、俗に言う「空っぽ」である。夜が明ければ厭々する心身に鞭打ち道路へ向かい、落ち葉模様の見回りに出向くつもりである。実際には見回るまでもなくこの時期は日々、道路の掃除は免れない。いくらかの余得は、初冬の自然界のおりなす夜明けの風景を眺めて、起き立ての気分直しにありつけることである。
 まだ夜が明けない(5:44)。初冬の夜は長い。わが身は寒気に震えている。

九州場所、大関貴景勝賜杯 

 メディアの報じる配信ニュースから、意図的に新型コロナウイルスにかかわる記事を避けようと思えば、わが意に沿うものは指折るほどもない。きのう(十一月二十二日・日曜日)、大相撲九州場所は千秋楽を閉じた。異例まみれの九州場所だった。九州場所でありながら、例年の福岡開催ではなく、「両国国技館」(東京都墨田区)で行われた。観客は五〇〇〇人に制限された。これらは新型コロナウイルスがもたらした一つの異例である。言うなれば外部異例である。
 もう一つは、今場所限定の内部異例である。二人の横綱と一人の大関は初日から全休し、さらにもう一人の大関(新大関正代)は、早々に途中休場を余儀なくした。結局、五人の横綱と大関の中で、九州場所をまっとうしたのは、大関貴景勝だけにすぎなかった。ところが、幸いなるかな! 貴景勝は奮戦し、大関の面目を保って優勝した。
 前段を長々と書いたけれどわが魂胆は、貴景勝の優勝を伝える配信ニュースを引用するためのものだった。
 【貴景勝、来場所は綱取り「レベルの低い優勝も困る」】(2020年11月22日19時33分 日刊スポーツ)。「大関貴景勝(24=千賀ノ浦)が18年九州場所以来2年ぶり2度目、大関としては初めての優勝を果たした。本割一発で決めることはできなかったものの、最後は勝ち切った。伊勢ケ浜審判部長(元横綱旭富士)は来年初場所が貴景勝にとって綱とり場所になると明言した。横綱昇進には『2場所連続優勝もしくは、それに準ずる成績』という横綱審議委員会の内規がある。同審判部長は『当然、優勝となればそういう話になる』と説明。今場所は初日から白鵬、鶴竜の2横綱休場に加え、大関朝乃山、目玉だった新大関正代も途中休場した。この状況もあってか、来場所について『当然、優勝となればそういう話になる』と優勝を絶対条件にした。」
 長い夜にあっては真夜中同然(2:32)、私は夜明けまでのあり余る持ち時間を思案するところである。

強風が見舞った「落ち葉しぐれ」 

 きょう(十一月二十二日・日曜日)は、明日の「勤労感謝の日」(十一月二十三日・月曜日、祝祭日)」を前にして、三連休の中日(なかび)にある。晩秋から初冬にかけての好季節にあって、行楽シーズンは大団円の賑わいを見せるはずだった。しかし、三連休前には新型コロナウイルスの感染を恐れて、「我慢の三連休」という、行楽を控える警告(警鐘)が飛び交った。
 ところが、きのうのメディアのテレビニュースには、我慢をしきれない行楽客の人出の様子が、あちこちの観光地から伝えられていた。それほどに人は、政府肝入りの施策である「GO TO トラベル(旅行)」や「GO TO イート(飲食)」キャンぺーンを当てにした、物見遊山を決め込んでいたのである。もちろん、新型コロナウイルス禍にあっても、それにありつく人たちを非難すべきことではない。おのずから、日本経済浮揚のためという、大義名分も成り立つところがある。
 しかし一方、施策を敢行した政府は、人出の多さに得たりやおうとほくそ笑むどころか、大慌ての状態を強いられている。専門家や分科会のメンバーからは、新型コロナウイルスの感染者数のぶり返しは、明らかにそれらのキャンペーンのせいだ! と、あからさまにお咎(とが)めをこうむるありさまである。
 そのため、政府はにわかにそれらのキャンぺーンの中止や、見直しをくわだてざるを得ない状態にある。肝いりのキャンペーンはにわかに袋小路入りに状態にある。もちろん、キャンペーンにありつけないわが面白(おもしろ)がりばかりではなく、ちょっぴり政府に同情するところはある。
 さて、きのうの鎌倉地方は、ほぼ一日じゅう強風に吹き晒された。私は朝の道路の掃除を昼間へ後回した。山の枯葉は、夜明けからやたらと道路に舞い落ちていた。私はこの光景に業(ごう)を煮やし、昼前への後回しを決め込んだのである。天高い日本晴れの下、落ち葉しぐれは胸の透く眺めでもあった。桜の頃の桜しぐれと異なるのは、壁に吹き寄せられた落ち葉の重なりだった。一方ではこれには、強風の吹き晒しの恩恵があった。おかげと言うにはいくらか語弊があるけれど、しかし確かな恩恵であった。自然界の自浄作業のごとくに道路の落ち葉は、わが箒を這わせることもなく、吹き清められたのである。私は内心で(よしよし、シメシメ)と呟いて、壁に吹き寄せられていた落ち葉を何度も、70ℓ入りの半透明袋に塵取りから詰め込んだ。何度かは両手で、白菜を大樽に漬け込むかのように、力いっぱい押さえ込んだ。それでも袋は、はち切れんばかりに膨らんだ。しかし、やはり強風のおかげで、あっけないほどの短い時間で、掃除は済んだ。
 私は頭上の山の木々の梢(こずえ)を見上げた。だいぶ空いていたけれど、強風に踏ん張りまだたくさんの枝葉が残っていた。私はこの先、なんどかの強風の吹き晒しを願っていた。もちろんそれは、寒風の吹き晒しではなく、暖かい陽射しをともなう強風の吹き晒しという、独りよがりの身勝手な願いである。このところは鎌倉地方のみならず日本列島全体に、季節狂いの暖かい日が続いている。そのため、寒気を極端に嫌う私は、うれしい悲鳴にありついている。
 夜明け前にあってきょうもまた、まったく寒さを感じない。天恵、素直にありがたいことであり、文字どおり感謝感激である。夜明けには風が止んでいる。私は文章を閉じて、生前の起き立ての父の水田の見回りを真似て、道路の汚れぐあいの見回りに急ぐこととなる。区画の壁際の落ち葉の袋入れで、済めば万々歳である。

 「灯台下暗し」

 だれが悪いわけでもない。だから、だれかを責めるわけにもいかない。新型コロナウイルスへの対応は、だれもがもっぱら防御に努めるしか便法はない。こんななかにあってだれもが共通に実感できることは、新型コロナウイルスのこのところの新たな増勢ぶりである。いよいよ専門家や分科会(メンバー)も浮足立って、さまざまに強い警告を発し始めている。素人の私にすれば、遅すぎた「さもありなん!」である。
 先日私は、一文においてこんな表題を付した。それは、『映像「玉虫色の会談」』である。メディアが伝えていた会談の当事者は、これらの人たちである。すなわち、国際オリンピック委員会(IOC)・バッハ会長、応じた日本社会の主なる関係者には、菅総理、小池東京都知事、森東京五輪・パラリンピック組織委員会会長、と記されていた。会談内容は新型コロナウイルスのせいで余儀なく、来年へ延期されている「東京オリンピックおよびパラリンピック」の実現に向けての強い決意である。ところがこれにたいし私は、かなりの皮肉を込めて、「玉虫色の会談」と名付けたのである。名付けの理由は、危機感のさっぱり見えない、はたまたまったく伝わらない、手褒めの会談に思えたからである。それからいくらか日が経ち、すでに過去の感慨にすぎないけれど、きょう(十一月二十一日・土曜日)の私は、再びこのときの感慨を蒸し返したくなっている。そのためあえて、二番煎じの文章を書いている。ほとほと、書くにはつらい文章である。(なんだかなあー……)、あの会談を境にして、感染者の激増に拍車がかかった感じである。もちろん、わが下種の勘繰りである。現在、政府や自治体は、気の緩みの引き締めに大わらわである。いやいや、気の緩みは、会談当事者の「灯台下暗し」である。

好都合の夜にあって、文章が書けない 

 十一月二十日(金曜日)、長い夜。現在、パソコン上のデジタル時刻は、3:26と刻まれている。文章を書く気になれば時間は、まだたっぷりと残っている。ところが、書く気になれない。書けばおのずから、新型コロナウイルスの感染者数の数値になりそうである。いつまで続くかわからないことを日々書き続ければ、うんざり気分である。そのため現在の私は、意識してこのことを書くのは避けたいと思っている。すると一方で、そのとばっちりにあって書くネタがない。
 このところ私は、昼夜を通して冬防寒重装備の着衣を脱ぎ捨てている。なんで連日、春先や初夏みたいな暖かい日が続くだろう。気象庁は異常気象と言い、科学者は地球温暖化傾向と言うのであろうか。暖かい夜にあっては、おのずから文章を書くには好都合である。しかし、書けない。このところの私は、昼間にあっては茶の間の窓ガラスを通して、わが家周辺の秋模様を愉しんで眺めている。実際には野山の黄葉や紅葉と、さらには微風(そよかぜ)にさえ逆らえず、散り急ぐ落ち葉しぐれの光景である。半面、そのしっぺ返しをこうむっている。
 きのうの道路の掃除にあっては、45ℓ入りの半透明の袋が落ち葉を入れて、はち切れるほどに膨らんだ。もちろんこの時期にあっては、想定済みの落ち葉の量の多さである。わが物置には、100円ショップで買い求めた45ℓと70ℓ入りの半透明袋が積まれている。落ち葉の増え方を見越しての事前準備である。自然界の目の保養にすがり、一方では落ち葉の量におののく、この時期のわが日暮らしである。
 新型コロナウイルスへの感染者の苦難をおもんぱかれば、落ち葉の量を嘆くのは、罰当たりになりそうである。やはり、新型コロナウイルスのことをちょっぴり書く羽目になった。それを避ければ、この先、もう書けない。

新型コロナウイルス、感染者数二千人超 

 十一月十九日(木曜日)、現在のデジタル時刻は4:37である。目覚めて起き出して来たのは、二時半近くである。この間、大沢さまから送られてきた原稿の校正作業を試みた。校正作業とは文字どおり、わがミスの訂正作業である。おのずから、気分の滅入る作業である。明らかに、現在のわが気分は沈んでいる。そのため、文章を書く気分が殺がれている。このため、日本社会を襲っているトピックス(この場合は悪夢)の記事の引用に留めるものである。感染者数の数値は、週の前半(水曜日まで)より、週の後半(土曜日まで)に、多く伝えられる傾向にある。すると、この数値は、きょうにも更新されそうである。鬱陶しい気分いや増し、つのるところである。
 【全国のコロナ新規感染、初の2千人超え 1都4県も最多】 (2020年11月19日、0時時06分 朝日新聞デジタル)。国内の新型コロナウイルスの感染者は、18日(水曜日)午後9時半時点で、過去最多となる2202人が新たに確認された。1日あたりの感染者数が2千人を超えるのは初めて。東京のほか、神奈川、埼玉、長野、静岡の計1都4県で最多を更新した。大阪や北海道でも、過去最多に迫る200人超の感染が明らかになり、感染の拡大が続いている。死者は北海道などで計14人確認された。これまでの国内の最多感染者数は今月14日の1735人(修正値)だった。東京都ではこの日、493人の感染が確認された。年代別にみると、65歳以上の高齢者は77人と5月1日の69人を上回り、過去最多だった。高齢者への感染拡大の背景には、家庭内感染の増加がある。18日までの1週間では感染経路別のうち、家庭内が最多の4割を占め、都の担当者は「子どもから感染する高齢者が多い」と指摘する。大阪府でも1日あたりの感染者数としては今月14日の285人に次いで、2番目に多い273人だった。札幌市で不要不急の外出自粛要請が出されている北海道では、233人の感染が確認された。このうち札幌市は136人だった。道内では20日連続でクラスター(感染者集団)が発生し、この日も札幌市内のグループホームなどで起きたという。神奈川県ではこれまで最多だった今月12、14日の147人を大きく上回る226人の感染が確認された。県内の入院患者は17日時点で410人で、県などは受け入れ可能な病床の確保を急いでいる。埼玉県も126人が確認され、最多を更新。県の担当者は「目立ったクラスターがない中で、感染者数が増えている」と話した。静岡県では今月14日の36人が最多だったが、18日は87人の感染が判明し、わずか4日で倍以上に増えた。長野県は30人だった。

夜長、つれづれの迷い文 

 これまで、身近なところで眺めてきたものの一つには、道路工事は始まったらなかなか終わらない。ようやく終わったなと思えば、こんどはガス管工事が始まり、これもようやく終わったなと思えば、こんどは水道管工事が始まる。挙句、同じ個所が施工業者を替えて、なんども掘り返される。そのたびに私は、(なんだかなー……)と、唖然とするほかない。
 私は根っからのへそ曲がりである。歯医者の治療台に寝そべるたびに、もちろん声なき声で私は、歯医者通いを道路工事にたとえている。明確に違うところは、道路の掘削工事みたいに、施工業者が入れ替わらないところである。確かに、痛むところがモグラ叩きさながらに、次々に替わるのであろう。それでもへそ曲がりの私は、歯医者の治療を心中では、道路の掘削工事みたいなものだなと、思っている。こんな馬鹿げた思いで、治療台に寝そべっていては、いずれ大きな罰が当たりそうである。なぜなら先生は、わが歯の痛みを抑えることに、優しくかつ真剣必死である。
 きょう(十一月十八日・水曜日)は、週一にめぐってくる歯医者への通院日である。予約日はほぼ水曜日に固定さている。予約時間は、先週に続いて午前九時半である。予約とは確かな約束である。そのため、これに背いたら人間の屑の範疇になる。こんな思いをたずさえて私は、かなりの余裕時間をもって待合室に入る。もちろん歯医者にとどまらず、病医院通いにおけるわが不文律のみずからへの決めごとである。
 幸いなるかな! 現在は、歯の痛みは感じない。自覚するところは、胃腑の不快感である。しかし、きょうはこの手当の通院はしない。ちょっぴり、(なんだかなあー……)と、腑に落ちない思いがしないでもない。この場合、適当ではないけれど、ふと自家撞着(じかどうちゃく)という言葉が浮かんだ。語彙(言葉と文字)の復習のために私は、すぐさま電子辞書を開いた。〈自家撞着〉:同じ人の言行が前と後とくいちがって、つじつまの合わないこと。
 わが掲げる語彙の生涯学習は現場主義である。ところがその主を成すのは、新たな語彙の習得というより多くは、忘れかけている語彙の復習にすぎない。加齢とともにおのずから、電子辞書を開く頻度は増すばかりである。
 私の就寝時の枕元には、常にわが三種の神器と思えるものを置いている。それらは、懐中電灯、携帯電話(ガラケー)、そして電子辞書である。それぞれには私から、役割が課されている。懐中電灯の場合は、地震、停電、さらには身体に痛みを覚えたおりに、ムカデ探しに用いるためである。もちろん、頭上の蛍光灯から垂れる紐も引く。携帯電話は、わが最も恐れている凶器である。受信音が鳴らなければと、願うところである。なぜなら枕元の携帯電話は、今や訃報を伝える役割に成り下がっている。唯一の取り柄は、目覚めて(今、何時かなあー)と、手にするだけの時計代わりである。前向きに、いや多くは後ろ向きに手にするのは電子辞書である。きわめて容易な日常語であっても、忘れかけている語彙は復習を兼ねて、すぐに電子辞書を開いている。このことでは、就寝から目覚めて手にするものの筆頭は、電子辞書である。
 かつては買い物用のリュックの中に、電子辞書を忍ばせていた。それは、往復のバスの中で紐解くためだった。しかし現在は、涙をのんでこんな馬鹿げたことはやめて、あやふやに浮かんだ語彙を心中で、牛の二度噛みみたいに反芻(はんすう)しているにすぎない。ガラケーからスマホへ変えれば、重たい電子辞書の携帯は免れそうな、誘惑にかられるときもある。しかし、生来のわが優柔不断の性癖が、いまなおその決断を拒んでいる。
 長い夜にあってきょうもまた、ネタ無しの迷い文である。歯医者通いの準備をするにはまだ早すぎる、いまだ真夜中のたたずまいである(三時過ぎ)。

映像「玉虫色の会談」 

 自然界は野山に秋色(しゅうしょく)を深めて、一日だけの小春日和でなくこのところは連日、初冬とは思えない暖かい陽射しをそそいでいる。人間界は新型コロナウイルス禍の恐怖の最中にあって、何ものにも勝る自然界の粋な計らいである。寒がり屋の私にはこれだけで十分の恩恵だけれど、図々しくもなお欲張って、この先の暖かい陽射しを願っている。しかしながら、自然界の法則によってそれは叶えられず、もちろん空望(からのぞ)みとなる。それだけに余計、私にはこのところのポカポカ陽気を寝溜めのごとく、わが身体に溜め込んで置きたい思いがある。ところがこれまた、「言うは易し行うは難(かた)し」の空望みである。
 さて、きのう(十一月十六日・月曜日)における、日本社会にまつわる出来事の一つを顧みる。それは新型コロナウイルスのせいで、来年(令和三年・二〇二〇年)へ延期されている、「東京オリンピックおよびパラリンピック」にかかわる関係者の動向である。事の始めは、国際オリンピック委員会(IOC)・バッハ会長の来日である。バッハ会長に応じる日本社会の主なる関係者は、菅総理、小池東京都知事、森東京五輪・パラリンピック組織委員会会長と伝えられた。相次ぐ会談は、来年のオリンピックとパラリンピックの実現に向けて、強い決意のともなう「玉虫色の会談」で彩られたようである。もちろん、中止宣言を聞くより、歓迎すべき会談であった。
 ところが、相次ぐ会談で一件落着とはまだ言えないところがある。わが下種(げす)の勘繰りではそれには、このところ第三波とも言われている新型コロナウイルスの増勢ぶりがある。もちろんそれは、日本の国だけにとどまらず世界中の傾向でもある。すると案外、世界中の世論が開催反対の声を上げかねないところがある。それらの声を跳ねのけての開催は、おのずから危ぶまれるところもある。わが老婆心をちょっぴり添えれば、関係者の保身まみれの開催宣言にならないことをひそかに願うところである。私は根っからのへそ曲がりである。いやいや、あまりにもニコニコ笑顔の「玉虫色の会談」の様子のテレビ映像に、わが眉を顰(ひそ)めたからである。

 能無しの私が浸る幸福(感)

 私にはだれかれではなく、出会えた人のすべてに、恩に着るところがある。もちろん、声なき人たちのご厚情をも、まるで対面の出会いのごとく身に染みて、ありがたく感じている。双方を丸めてひと言で言えば、「ひぐらしの記」がもたらしている御縁である。
 私は自分自身の能力をはるかに超えて、長いあいだたくたくさんの文章を書いてきた。そのためこの頃は、明らかに精神疲労を自覚している。わが能力を超えた頑張りすぎの付けが、堰が切れたごとくにどっと回ってきているようである。だからと言って私には、この付けに悔いごとを挟む余地はまったくない。なぜならこの頑張りには、さまざまにかつ無限大と言っていいほどの幸福(感)がもたらされている。幸福(感)の筆頭は、今さら言わずもがなのことだけどそれは、人様との出会いと、それから賜るこれまた無限大のご厚情と支えである。
 わが年齢は八十歳を超えている。おのずから人様との出会いも、人様の息づかいも遠のいて、わが日常生活は疎外感まみれになるところである。ところが私は、「ひぐらしの記」を通しての人様との出会いのおかげで、疎外感をまったく免れている。その証しにこの頃の私は、頓(とみ)に人様との出会いがもたらす幸福(感)に浸りきっている。確かに、この幸福(感)が無ければ、生来「三日坊主」の私が、こんなにも長く書き続けてこられたわけはない。まさしく、今は亡き母が垂れ続けていた二つの教訓、すなわち「するが辛抱」そして「苦は楽の種、楽は苦の種」の結実である。
 しかしながらこの果報は、もちろん自力本願ではなく、人様すがりの他力本願がもたらしたものである。精神疲労は私にとりつく無能力の付けであり、それを超えて余りある幸福(感)は、人様からもたらされている便益である。夜長にあってあらためて、人様との出会いがもたらしている幸福(感)の吐露と披露である。文尾ながら人様にたいして、感謝感激この上はない。

「七五三」日和にあって、様変わる風景 

 この季節、わが家周辺には黄葉が目立ち、中にはカエデの紅葉がひと際、わが目を愉しませてくれている。台風さえこなければ土砂崩れの恐れは遠のいて、季節感満喫である。道路の掃除にあっては日を替えて、夥(おびただ)しい数の落ち葉が一面に敷きしめられている。私は、ときにはその光景に音を上げるけれど、これも期間限定と高をくぐり、いやむしろ季節の恵みと達観しているところもある。天変地異の鳴動さえなければ、晩秋から初冬にかけてのこの季節にあっては、自然界の恵みにおんぶにだっこの日常生活の楽しさを味わっている。ひと言で言えばこの季節のわが日常は、自然界のおりなす中にある。ところがこれは、文章に彩りを添えるフィクションのところがある。実際のところこの恵みをまたたくまに打ち消すのは、この季節に重なる寒気団の到来である。
 きょう(十一月十五日・日曜日)、現在のわが身には、まったく寒気を感じない。そのため、こんな呑気なことを書いておれるのであろう。寒気にブルブル震えていれば、もちろんこんな自然界賛歌など書けず、ただただ自然界の仕業が恨めしいかぎりである。現在の暖かさから推し測ればおそらく、きょう一日じゅう、なかんずく昼間は季節狂いのポカポカ陽気に恵まれそうである。そうなれば飛びっきりの「七五三」日和に恵まれることとなる。あたかもきょうは、家族総出の叶う日曜日でもある。ただ惜しむらくは、新型コロナウイルスの感染蔓延の最中にあっては、マスクの着用、三密の避け、大声や会話をひかえた祝膳風景など、様変わりを強いられることである。
 かつての私は、七五三の日にあっては一つの恒例行動を成していた。それは、鎌倉市街に位置する「鶴岡八幡宮」へ出向いて、和やかな「七五三」風景を愉しむことだった。ところがここ二、三年は、これまた加齢のせいで、沙汰止みになっている。もちろんきょうもまた、こんなもの好きの勝手な行動は完封である。新型コロナウイルス禍にあっては、日本社会の要請に従って、できるだけ外出行動を控えなければならない。もちろん、きょうの七五三参り自体、いつもとは異なり「自粛、自粛」の掛け声の下、粛々と行われるであろう。
 鶴岡八幡宮の大イチョウの樹は、台風で倒されて見る影もないけれど、ほかのイチョウの樹々の彩りは、満開の美的風景をきわめている。しかし、それを眺める人出は、新型コロナウイルスのせいで、例年に比べて少ないであろう。「ああー、もったいない、もったいない」。新型コロナウイルスは、ほとほと悪の根源である。

無題 

 十一月十四日(土曜日)、長い夜はいっこうに更けない。いまだに真夜中の佇まいにある(3:04)。新型コロナウイルスのことしか、書くことがない。いや、それしか書けない。もちろん、眠気まなこを見開いて、いたずら書きさえする気力もない。いつもの習性で、ほぼいつもの時間に目覚めたから仕方なく、パソコンを起ち上げたにすぎない。どうしたことか、胃腑の不快感に見舞われている。こんなことを書いては私自身、愉快なはずはない。もちろん、掲示板上の投稿ボタンを押すにも、気が咎めている。「休みます」と書いて休むのか、それとも無断欠席を続けるのかと、どっちつかずに陥り現在のわが気分は、とことん揉めている。しかし、いちいち「休みます」と書けば鬱陶しく、私自身はこの先は、仕方なく無断欠席を余儀なくしそうである。
 胃カメラ検査の予約済は、来年の三月十九日である。新型コロナウイルスにおけるPCR検査は、今のところ予定はない。胃腑不快感は、新型コロナウイルスとは無縁のはずである。インフルエンザの予防注射は、すでに済ましている。きょう、病医院へ行くつもりはない。自己診断では原因不明である。強いて言えば医者の言葉を真似て、「加齢のせいですね」で、一件落着である。結局、長い夜をどう過ごそうかと、気分の滅入りに見舞われている。この先、無断欠席ならぬ無断休筆は免れず、おのずから「ひぐらしの記」の終筆の引き金になりそうである。やはり、「休みます」と、書けばよかったのかもしれない。文章の体を成さなくては題の付けようはなく、焼けのやんぱち「無題」とするほかない。ひと言添えれば、ほとほとなさけない。

わが身、冷える夜長 

 十一月十三日(金曜日)、日付を変えただけで、きのうとまったく同様の文章である。こんな文章は書くことはもとより、人様に読んでもらう価値もなく、書けば恥晒しにすぎない。もちろん、だれのせいでもなく私自身のせいである。その証しには、このところ掲示板上のカウント数は減り気味である。そのため現在の私は、ありきたりの自業自得という、言葉を浮かべている。
 季節は週初より寒気団を呼び込んで、現在のわが身はブルブル震えている。寒気団とわがぐうたらのしっぺ返しにあって、わが気分は萎えている。おのずから、「ひぐらしの記」には打ち止めランプが点滅している。
 きょうはきのうに続いて、メディアの報ずる引用文でお茶濁しである。それでも、記事には確かな違いがある。それは、新型コロナウイルにおける第三波到来の明らかな宣言である。
 【1日当たりの感染者、過去最多更新 東京は3カ月ぶり350人超「第3波」鮮明】(毎日新聞)。「新型コロナウイルスの感染者は12日、全国で新たに1662人を確認し、これまで最多だった8月7日の1607人を超えた。東京で393人、大阪231人、神奈川で147人の感染が確認されるなど大都市圏での拡大が目立つ。また、北海道も236人に達し、地方の感染も依然として深刻だ。『第3波』の到来が鮮明となり、政府や自治体などは換気の徹底などの対策を改めて呼び掛けている」。
 引用文の繰り返しでは、ブルブル震えてまでも、書く価値はない。挙句、わがぐうたらが、読者各位様にはほとほとかたじけない。深々と冷える夜長は、わが身に堪えている。

寒波、コロナ第三波 

 十一月十二日(木曜日)、気温が下がり寒くなってきた。もう書くこともない。書きたいこともない。きょうは明らかな意志を持って、手抜きの文章である。だから、本当のところは休むべきである。なさけなくもそれに代えて、メディアの報じる引用文でお茶を濁すこととする。
 感染者数は週の前半には低めに出て、週の後半は多めに出る。これまで、感染者数のほぼ決まりごとであった。ところが、その傾向に変化が表れ始めている。日本社会は、このさき飛んでもないことになりそうだ。心肝を寒からしめ、怯える数値である。
 【コロナ国内感染者1500人超 3カ月ぶり、最多迫る 東京317人、大阪256人、全国の死者は、北海道、東京都で各3人など計11人増えた。】(11/11・水曜日、15:07配信、時事通信)。国内では11日、新たに1547人の新型コロナウイルス感染が確認された。1500人を上回ったのは8月8日以来で、過去最多の1605人に迫る水準。東京都は8月20日以来の300人超えとなる317人、大阪府では最多だった8月7日を上回る256人が陽性となった。埼玉県(116人)、兵庫県(70人)、茨城県(20人)、新潟県(16人)、岩手県(8人)でも最多を更新。北海道は過去2番目の197人だった。都によると、年代別では30代が68人と最多で、20代61人、40代58人、50代43人と続いた。65歳以上は40人だった。重症者は38人で前日より5人増えた。小池百合子知事は記者団に「全世代で感染が増え、皆さん不安に思っていることは事実だ」と述べた。一方で、国内の感染第3波到来が指摘されていることについては「いろいろ分析されているんだろうと思う」と話すにとどめた。 大阪府は、豊中市にある大阪大とカラオケ喫茶店で発生したクラスター(感染者集団)を新たに認定。重症者数は63人に増加した。吉村洋文知事は「確実に陽性者は右肩上がりで増え、第3波に入っている。いま一度、一人一人の感染症予防策を徹底していただきたい」と危機感を示した。新潟県警南魚沼署では警察官ら15人の感染が判明。同署の感染者は計16人となり、県はクラスターの可能性があるとみている。県警は同署員約90人のうち約80人を自宅待機とし、本部から応援を送った。

予約済み通院日 

 子どもの頃の「謎謎(なぞなぞ)合わせ」さながらに、増え続けるもの、減り続けるもの、それはなあーに? と問えば、答えは財布である。その心は、診察券は増え続けるばかりであり、一方でお金は減り続けるばかりである。片肺通行だけで言えば、予約済の通院日は増えるばかりである。これに合わせて増え続けているものには、診療費と薬剤のレシート(領収書)がある。これらを見るたびに私は、一個人にあってよくもこんなに、医療費が嵩(かさ)むものだと思う。その挙句には、日本の国の財政の厳しさが思いやられている。
 きょう(十一月十一日・水曜日)は、ほぼ週一にめぐって来る歯医者への通院日である。歯医者にかぎらず財布の中には、お札と同居してほかにも二枚の予約表が収められている。わが日程表を埋めるのは、今や予約済みの病医院への通院日だけである。もちろん、国施策の「GO TO トラベルキャンペーン」や「GO TO イートキャンペーン」、ほかさまざまなキャンペーンでの日取りは、まったくの用無しである。それらのキャンペーンは、健康な人、お金持ちの人限定であって、もとより私には無縁を強いられている。おのずから、なんだかなあ…? と、思えるキャンペーンである。
 きょうの予約時間は午前九時半である。そのため、これで文章を閉じて、それに備えることとする。気象予報士の予報に違わず、きのうから初冬本来の寒気が訪れている。加齢の身は、医療費そして寒気、ほかさまざまなものに脅(おびや)かされてつらいところがある。しかしながらこの難儀は、この先減ることはなく、いやいやいっそう増えるばかりである。おのずから、わが嘆息は増えるばかりである。加齢の身は、ほとほとなさけない。

悲報と朗報 

 十一月十日(火曜日)、現在のデジタル時刻は2:54である。夜長の季節にあってはいまだに、真夜中と言っていいだろう。このところの関東地方には「小春日和」をはるかに凌いで、ポカポカ陽気が続いていた。ところが、きのうの気象予報士の予報によれば、きょうあたりから気温が下がるという。確かにその予報は当たり、現在の私はいくらか寒さをおぼえている。北海道や北の地方は、雪便り満載にある。特に北海道は、このところ新型コロナウイルスの感染者数が急拡大傾向にある。その原因としては北海道特有の気温の低下と寒さと言われている。そうであればこの先は、もっと恐れてつらいこととなる。日々伝えられる新型コロナウイルスの感染者数の数値は、日本全国的にも明らかに増加傾向にある。まったく気の抜けない、困った状況にある。
 パソコンを起ち上げると、メディアの伝えるニュース項目の中では格別、以下に引用する二つの記事に目を留めた。前段の記事は、新型コロナウイルの増加傾向にかかわる専門家の緊急提言である。一方、後段の記事は、新型コロナウイルにかかわる世界中の関心事にたいする朗報である。きょうは自作文に替えて、二つの引用記事を並立するものである。もちろん手抜きではなく、関心事ゆえである。
 【「急速な感染拡大に至る可能性」政府分科会が緊急提言】(112/9、21・月曜日、21:04配信 朝日新聞デジタル)。北海道などで新型コロナウイルスの感染者が急増していることを受け、政府の分科会が9日、週後半の予定を前倒しして持ち回り形式で開かれ、政府に対策の強化を求める緊急提言をまとめた。会見した尾身茂会長は全国的に感染が拡大しているとした上で「北海道や大阪、奈良、愛知、岐阜などで増加傾向が明らかになった。このままいくと急激な感染拡大に至る可能性が十分ある」とした。提言では、(1)今より踏み込んだクラスター(感染者集団)対応(2)感染リスクについて、若年層や飲み会参加者にも伝わる情報発信(3)店舗や職場などでの感染防止策の確実な実践(4)国際的な人の往来の再開に伴う取り組みの強化(5)クラスターの由来を明確にするだけでなく、感染対策を検証するためにも有効なウイルスの遺伝子解析の推進が必要だとした。 こうした「5つのアクション」に加えて、年末年始の休暇の分散▽小規模分散型旅行の推進▽保健所機能や医療提供体制の強化も、これまで以上に進めていくことが必須だという。
 【【速報】米ファイザーなど開発のワクチン候補、最終段階の治験で90%効果確認と発表】(11/9・月曜日、22:10配信 TBS系・JNN)。アメリカの製薬大手「ファイザー」とドイツのバイオ医薬ベンチャー「ビオンテック」は、開発中の新型コロナウイルスのワクチン候補について、最終段階の第3段階の治験で90%以上の参加者に効果が確認されたと発表しました。今月15日以降にアメリカで緊急使用の承認手続きを申請するとしています。年内に世界で5000万回分の提供が可能だということですが、日本もこのワクチンの供給を受けることで基本合意しています。

偉業にまつわるエピソード 

 きのう(令和二年・二〇二〇年)、感銘を受けた国内外の出来事を一つずつ記録に留め置くものである。一つはテレビで視聴したアメリカ大統領選挙における、バイデン新大統領の勝利者宣言の演説の素晴らしさである。すなわち、バイデン新大統領の演説は、混迷を深めていた選挙を一挙に打ち晴らすものだった。広大なアメリカ合衆国は、一人の有能な個人で救われたとも言える、気高く劇的な演説だった。
 日本国内の出来事では、プロ野球・読売ジャイアンツ球団に所属する坂本勇人選手の快挙・偉業だった。坂本選手はきのうの東京ヤクルトスワローズ戦(東京ドーム)において、2000本安打を達成した。2000本安打達成自体は史上53人目である。これに加えて特筆すべきは、31歳10か月という、史上2番目の若さでの達成である。このことからかんがみると安打の記録は、この先まだまだ途轍もなく伸びるであろう。残念ながらわが余生では、それを見届けることはできない。私はジャイアンツを宿敵とするトラキチ、すなわち狂人まがいの阪神タイガースファンである。それでも、坂本選手の偉業は称えずにはおれない。そのためきょう(十一月九日・月曜日)は、坂本選手とマー君(ニューヨークヤンキース球団所属・田中将大選手)にまつわる小学生時代の微笑ましいエピソードの記事をそっくりそのまま引用するものである。二人の少年の志は、国内外で大きく実ったのである。バイデン大統領の品格に加えてこれまた、人間の素晴らしさの証しである。
 【怒られ半べそ……マー君父に諭された坂本少年が今や】(2020年11月8日20時22分 日刊スポーツ)。坂本がエースで、マー君が捕手。右打者史上最年少で2000安打を達成した巨人坂本勇人内野手と、ヤンキース田中将大投手は小学生時代に同じチームでプレーしていた。球界内外で広く知られるエピソードだが、2人が円熟期に入った近年、その数奇な運命はさらに際立つ。2人が所属した昆陽里タイガースの当時の監督、山崎三孝さん(75=現理事長)は、坂本について「勝った、負けたで泣いたことはないけど、野球を雑にやっていて『やめてまえ。帰れ。2度と来るな』と怒ったことが2回、あります」と思い返した。「1回目は5年生の時。ショートをやっていて、5月か6月かの練習で、できるのに手を抜いていた。2、3歩、動いたら捕れるのに、手だけ伸ばしていた。それで怒りました。半分、泣いてました。その後、マー君の父親、田中コーチが10分ほど口説いて、私のところに謝りに来ました。『ちゃんとします。許して下さい』と。先輩の投手のところにも謝りにいってました」「2回目は6年生の時。夏休みの伊丹での大会、初戦の先発メンバーを外しました。べそかいたけど、みんなの前では格好つけたいタイプ。陰で涙を浮かべていた。こっちに来ても帽子を深くかぶって、なかなか取らなかった。格好をつけるのは、今でもそうでしょう。ただ、今は周りの目標が坂本選手になった。もう手を抜けない。自分が手を抜いたら、周りに注意できなくなる。キャプテンをさせて、今の立場になったのは一番いい。一選手のままだったら、あそこまで伸びてないのでは。立場が伸ばした」と感じている。6年生でエースになった坂本は、中学、高校を経て日本を代表する遊撃手になり、捕手だった田中は大リーグで活躍する投手に成長。第2の坂本、マー君の育成へ、75歳になった山崎さんは「枯れ木のにぎわいです」と笑いながら、今でも週3回はグラウンドに通っている。教え子たちの活躍は何よりも楽しみ。「ハードルが高ければ高いほど、向かっていく。毎日、テレビで応援してますよ。妻から『お風呂に入って』と言われても『この打席が終わってから』って言ってます」

 哀れなるかな五官、年寄りの証し

 令和二年十一月八日(日曜日)、パソコンを起ち上げると、ヤフーニュースの項目にはずらり、アメリカの大統領選挙における帰趨が並んでいた。私はバカ騒ぎに同調するほどバカではないため、どれひとつ記事を読むことはなかった。バイデン氏が勝利確実 米報道・バイデン氏が過半数 開票速報・バイデン氏「信頼得て光栄」・バイデン氏支持者 喜び爆発・トランプ氏 敗北認めない姿勢・トランプ氏、ゴルフに向かう。
 こんなことより、私自身のことが一大事である。この世で最も柔らかい食べ物と思われるヨーグルトを食べている最中に、前歯の一本がポロリと、ふぁふぁのヨーグルトの中に落ちた。音がするはずもなく目で確かめ唖然として、親指と人差し指を濡らし挟んで拾い上げた。悔しさがつのり、慄然とした。恐る恐る欠けたところへ人差し指を当ててみた。死火山の噴火口みたいにポッカリと大きな穴が開いていて、武骨な指先がすんなりと入った。現在治療中の部位ならまだしも、治療部位から免れていた歯の欠け落ちである。表現を変えれば、悄然とした。
 両耳の難聴は、ますます度を強めている。金婚式を超えて慣れ親しんできた妻との会話によるコミュニケーションは、聞こえたふりしての実のない空返事ばかりである。
 目は人生最期の時まで、緑内障進行防止の点眼薬の囚われの身になりそうである。国庫の財政事情からすれば、医療費の無駄遣いと言えそうである。皮膚は恥を忍んで正直に書けば、約半世紀にわたり「痒痒病(かゆかゆびょう)」にとりつかれている。ところが、病院通いを嫌って、市販の痒み止めでお茶を濁しているありさまである。
 口内は数年前のピロリ菌退治が功を奏して現在は治まっているけれど、物心がついた頃より口内炎の痛さに悩まされ続けてきた。五官にあって鼻だけは唯一、今でも本来の機能を保っている。ところが鼻の造作(ぞうさ)は、鏡を翳(かざ)すと見るも哀れな団子鼻である。しかし、今さらながら造作の不出来など、気にしてどうなることでもない。病に罹らず本来の機能を果たしてくれさえすれば、恩に着るところである。いや、今では愛(いと)おしい団子鼻である。
 五官ではないけれど、せっかくだから二つほど書き足せば、顔面は皺くちゃで、頭部はピカピカの禿げと残り毛の真白髪の光景を曝け出している。すなわちわが身体は、五官や目で見えるところの一部だけでも、今や年寄りの証し横溢である。目に見えない身体内部(内臓)の衰えなど、知らぬが仏である。
 唯一、救われているのは、バカをバカと認識するほど、わが脳髄が馬鹿ではないことである。晩秋から初冬にかけての夜は、いと長し。

晩秋の夜は長い 

 海の向こうのはるかに遠い異国・アメリカのこととはいえ、毎日テレビニュースで醜態ぶりを見せられると、ほとほとうんざりする。世界の盟主を自任するアメリカがこんな国であったのかと、日々驚くばかりである。こんな国に操られ、従順を余儀なくしてきた国々は哀れである。無念かな! わが日本の国は、それらのイの一番に連ねている。
 今さらながら私は、ひとりの人間のしでかす恐ろしさを身に染みて学んでいる。教科書で学んだかつての世界の独裁政治は、国民という民衆の考えなど、有無を言わせぬものがあったようである。このことからすればこのたびのアメリカの騒ぎぶりには似て非なるものがあり、むしろ歓迎すべきものであるかもしれない。しかしながらやはり、尋常ではない混乱ぶりである。
 民主主義の根幹をなす選挙にあって、私には腑に落ちないことだらけである。簡易に「分断」という言葉が用いられているけれど、アメリカの国に根づく何かがあるのかと、疑うばかりである。負けが濃厚と言われている候補者は、選挙の打ち止め、やり直し、票を数えるな! などと、言いたい放題の悪態ぶりである。さらには、法廷闘争という言葉が飛び出している。ほとほと、呆れるばかりである。
 この騒ぎの中にあってあらためて学んだのは、人間につきまとうエゴ(利己主義、自分本位)である。やんぬるかな! このたびは、世界中の人々の目に晒されたエゴの丸出しである。醜い争いの状況を繰り返し垂れ流すテレビニュースは、もう打ち止めを願うところである。確かに、それなら観なけりゃいいものだけれど、テレビニュースはこのことばかりで、いやおうなく目に入る。
 こんなおり、日本社会にあっては、おととい、きのうと連日、新型コロナウイルスの感染者数が千人を超えている。恐れていた第二波が現実になりつつあると、言えそうである。きょう(十一月七日・土曜日)の数値が気になるところである。
 ところが、新型コロナウイルスは、世界中で勢いを増していると、伝えられている。好季節にあっても、世界の人々の気分の休まるところはない。特にアメリカでは選挙騒ぎの間隙をついて、感染者数が増え続けているという。飛んだとばっちり、選挙の騒ぎが止んで、「開けてびっくり玉手箱」と、ならないことを願うばかりである。
 ひとりのバカのしでかしだから、嘆くのはソンソン(損々)である。晩秋の夜は長い。書き続ける時間は、まだたくさん残っている。しかし、この先を書く気分は殺がれている。

万物の霊長、すなわち人間の面汚し 

 疲れているせいであろう。久しぶりに二度寝が叶い、目覚めて起き出してきたのは、夜明けて七時頃である。長く眠れたことではありがたいことだがそれはそれで、文章を書くうえでは焦燥感まみれになっている。同時に、秋の夜長を台無しにしたことでは、いくらかもったいない気分にある。しかしながら、それは言うまい。なぜなら、このところの私は、夜長の時間の手持無沙汰に陥り、快い瞑想に耽るどころか、迷想ばかりにとりつかれていた。このことを思えば、夜長を台無しにしたきょう(十一月六日・金曜日)の目覚めは、棚ぼたの恵みと言うべきであろう。
 焦燥感にとらわれた走り書きは、もちろん文章の体を成していない。そのため、現下の日本社会において、一つだけ気になっている憂える出来事を書きとどめるものである。それはこのところメディアのニュースで伝えられてくる、農産物や家畜の盗難事件の多さである。確かに、昔でも西瓜や果物などの泥棒には、生産者は憤懣やるかたなく手を焼いていた。しかし、当時の盗難事件は、コソ泥に輪を掛けたくらいで済んでいた。もちろん、生産者にすれば盗難の悔しさに大小はなく、生業(なりわい)に大きな痛手を被っていた。確かに、命を込めた生産物を泥棒に攫(さら)われた生産者の憤りは、小さいとは言えなかった。花泥棒に遭われた人の憤慨も同然である。
 このところのメディアニュースでは、当時とはうってかわって、職業人(仕事)さながらの大掛かりな盗難事件が相次いで伝えられてくる。盗まれる農産物は、野菜や果物はもちろんのこと、それらにかぎらずあらゆるものへ広がりつつある。家畜の盗難事件では、私が度肝を抜かしたニュースの一つには、豚を盗んで自分たちの腹ごしらえにしたというものがあった。テレビ映像には、モッコではこぶかのように二人して、豚を運ぶ光景が映し出されていた。よくもこんなことまでできるものかと唖然、嘆息交じりに眺めた映像だった。
 人間は、ほとほと悪徳である。農産物にかぎらず家畜の盗難事件には、もはや生産者の嘆きばかりではなく、日本社会の劣化を憂える世情にある。この先際限なく、先ずは海産物の養殖への波及を恐れるところである。日本社会は、人心が乱れてなお行き末が案じられる。目下は、農産物や畜産物の盗難事件のもたらす多難な世情にある。生産者の痛手や嘆きには同情や共有の余地なく、無為に傍観するばかりである。さまざまなところから伝えられてくる盗難事件の多さは、日本社会の憂える世情の確かな一つである。
 人間は生きとし生けるものにあって、言葉のうえでは万物の霊長と崇められてきた。ところが、実際には愚か者の筆頭に位置する証しが続いている。

矍鑠(かくしゃく) 

 わが未知の異国・アメリカ合衆国は、聞きしに勝る広い国である。いまだにこのたびの大統領選挙における決着、すなわち勝利者宣言は梨の礫(つぶて)の状態にある。異国のイベントゆえに、結果を待ち望む気持ちはさらさらないけれど、しかし早手回しの決着を望むところはある。なぜなら、昨夜の七時台のNHKテレビニュースにあっては、日本国内のニュースはそのニュースに押しのけされた状態だった。私は辟易して、チャンネルをプロ野球・阪神タイガース対東京ヤクルトスワローズへ回した。それでも私は、アメリカ大統領選挙の戦況を伝える映像から、一つくらいご利益(りやく)を得ようと、こんな言葉を浮かべていた。言うなれば、わが現場主義の語彙(言葉と文字)の学習(おさらい)であった。
 浮かべていた語彙は、「矍鑠(かくしゃく)」である。言葉自体はきわめて日常語である。しかし、漢字は小難しい書き慣れない文字である。この言葉が浮かんでいた誘因は、映像で観る両候補の元気盛んな姿である。両候補の年齢を記すと、共和党のドナルド・トランプ候補は七十四歳であり、一方相対する民主党のジョー・バイデン候補は七十七歳である。電子辞書を開いて意味調べをするまでもないけれど、私は開いた。『矍鑠』:「年老いても、丈夫で元気なさま」。説明書きは、たったこれだけである。
 知りすぎていたことだから、これだけで満足しては、わが生涯学習にはなり得ない。私は、矍と鑠の漢字の成り立ちと、意味調べを試みた。するとともに、元気のよいさま、盛んなさま、という説明書きがあった。結局、二つの意味を重ねて熟語としては、先の「年老いても、丈夫で元気なさま」の意味を成していたのである。
 私は学童時代に立ち返り、何度か、漢字の書き取りをした。ただ、それまでのことである。秋の夜長にあって、なんらのネタ無しである。きょう(十一月五日・木曜日)は、その祟(たた)りの文章である。なさけない!

たび重なる「秋の夜長の瞑想(迷想)」 

 人生において、「生き恥を曝(さら)す」人はたくさんいる。それぞれの人生における、逃れられない宿命とも、言えそうである。同義語としては、「晩節を汚(けが)す」という、言葉が浮かんでいる。必ずしも、同義語ではないのかもしれないが、そうであればわが知識の貧弱さである。
 国内外を問わず首班選挙に立候補する人は、必ずしもすべての選挙民に崇(あが)められることはない。いや、おうおうにして恥を晒(さら)したり、非難を蒙(こうむ)らなければならない。しかし、相手の候補者を打ち負かし勝利すれば、宿願の栄光と憧憬の座にありつける。すなわちそれは、だれもが体験できない快感と名声にあふれている。そうであれば就寝中の夢見にあって、だれしも一度くらい見てみたい栄光の座である。
 まるでアメリカが日本の国に憑依(ひょうい)でもしたかのような、騒々しアメリカ大統領の中間選挙戦は、ようやく決着の時を迎えている。騒々しさに辟易していた私にすれば、この日の到来は願ったり叶ったりである。すなわち、長い選挙戦の結末日が訪れている。
 【トランプ政治の継続か終焉か 米大統領選、投票始まる】(朝日新聞デジタル)。「共和党のドナルド・トランプ米大統領(74)と民主党のジョー・バイデン前副大統領(77)が争う米大統領選は3日、投票が始まった。即日開票されるが、郵便投票の急増から一部の州では開票作業が遅れる見通しで、両者が競り合う展開となれば、勝者判明まで時間がかかる可能性もある。」
 この選挙戦で私は、二つのことを学んだ。一つは日本の国に居ながらにして、アメリカの地理や国民感情をちょっぴり学んだことである。そしてこれは、教科書による空虚な学びをはるかに超えて、臨場感あふれる生々しい学びだったのである。
 そして一つは、人間の勝利にたいする執念と言おうか、いや、単刀直入言えば相手を蹴落とすための手練手管と罵詈雑言の浅ましさであった。それは、強欲(ごうよく)むき出しの人間の浅ましさでもあった。言うなれば、人間の言葉のしでかす惨劇を観た思いだった。劇仕立ては、嘘八百はおろか、共に人格喪失の詰(なじ)り合いがあらすじだったのである。「勝てば官軍負ければ賊軍」。栄光の座につきまとう、人格喪失の哀しさである。私は「生き恥は曝す」けれど、幸いにもこうまで醜(みにく)い恥を晒すことはない。言うなれば「庶民ゆえの幸福」である。
 秋の夜長は、負け惜しみの瞑想(迷想)に耽(ふけ)るばかりである。おのずから、悪戯(いたずら)書きをともなっている。

 文化の日(祝日)

 十一月三日(火曜日)、夜明け前は雨。昼頃から晴れの予報。
休みます。

大阪市の「都構想」、否決 

 十一月二日(月曜日)、目覚めの気分は重たく、そのまま起き出してきた。そのため、文章を書く気分がまったく殺がれている。明らかに、起き出して来たままに書く、習わしの祟(たた)りである。
 私はこの習性をこれまで、何度あらためようと思ったことであろうか。そして、実際にもなんども、昼間への移行を試みた。しかしながらそのたびに実らず、元の木阿弥を繰り返してきた。昼間に文章を書く難点は、雑念に惑わされることだった。
 現在の私は、気分の開かない眠り病の状態にある。もちろん、こんなことでは心象風景で書く文章は書けない。そのためきょうは、引用文にさずかるお茶濁しである。しかしそれは、きのう書いた二つの関心事のうちの一つの結果報告であり、あながちまったくのお茶濁しとは言えないところもある。東京都と東西を分かつ、西の大都市のことゆえに住民投票の結果には、私にも少なからず関心があったのである。
 【大阪都構想、反対多数 大阪市存続へ】(朝日新聞デジタル)。「大阪市を廃止して四つの特別区に再編する大阪都構想の是非を問う住民投票が1日行われ、約1万7千票の僅差で反対多数となった。前回2015年に続く否決だ。大阪維新の会代表の松井一郎市長は23年4月の任期満了で政界を引退すると表明した。当日有権者数は220万5730人、投票率は前回を4・48ポイント下回る62・35%だった。」
 別段、わがコメントはない。強いて言えば大阪市民の揺れ動く心境を見る思いである。すなわちそれは、住民投票という、大阪市民の意志の反映の悩ましさである。
 いよいよあす(三日)は、もう一つの関心事として記したアメリカ大統領の選挙日である。関心事とはいえこちらは、異国のイベントにすぎない。
 秋の夜長にあってこの文章は、単なる継続文みえみえであり、もちろんなんらの価値もない。引用文にすがる文章はほとほと切ない。それでも、わが無能ゆえに、しかたない。

晩秋から初冬へ、 

 十月より月が替わって、十一月の初日(一日・日曜日)の夜明け前に身を置いている。寒さはそんなに感じなく、気分的には可もなく不可もない、いまだ真夜中のたたずまいにある(3:30)。
 現在、胸中に浮かべているものの一つには、歳月のめぐりの速さ感がある。今年すなわち令和二年(二〇二〇年)は、日々新型コロナウイルス感染恐怖に慄いているうちに、早や二か月を残すのみになった。なんたる時の流れの速さ感であろうか。まさしく、きりきり舞い状態にあり、もちろん、オチオチできない気分に晒されている。
 もとより今年は、「東京オリンピックおよびパラリンピック」の開催年だった。しかしながらそれらのイベントは、世界中が新型コロナウイルスの渦中にあっては、余儀なく来年への延期となっている。ところが、新型コロナウイルスに終息の兆しさえ見えないなかにあっては、来年開催の確証は未(いま)だしのままである。
 人の営みは新しい生活様式というふれ込みや要請の下に、さまざまなところで新型コロナウイルスへの対応が求められてきた。おのずから人の生活は、わが身の感染を恐れて忠実に対処してきた。それでも、日本社会における新型コロナウイルスがもたらしている災禍は、こう伝えられている。すなわち、感染者数十万一五七五人、死者数一七六九人、入院・療養中六一〇八人、うち重傷者一六一人、退院者数合計九万三一三四人である。(朝日新聞、十月三十一日午後八時現在)。 今や定番となっている日々のカウントの更新模様は、この先いつまで続くのであろうか。すると、いま現在恐れていることは、わが余生は新型コロナウイルスまみれになったままで、人生の終焉(しゅうえん)を迎えることである。しかしながらその恐れは、まんざら馬鹿げた杞憂には思えないところがある。いやいや、現実になる確率のほうが、はるかに高いように思えている。
 歳月のめぐりでは過ぎた九月になるやいなや、お節料理の予約を急かすはがきやダイレクトメールが郵便受けに投げ込まれていた。それに続くものではきょうは、年賀はがきの売り出し日である。はたまた、街中にはすでに喪中はがきの印刷案内も目立っている。祝賀気分、不祝儀(ぶしゅうぎ)気分、入り乱れて、歳末商魂はけたたましいばかりである。
 さて、十一月の初っ端にあっては国内外において、他人事(ひとごと)とも思えない二つの政治ショーがある。その一つ、日本国内においては、きょうには「大阪の都構想」にかかわる住民投票が行われる。そして一つには、三日に予定されているアメリカの大統領選挙がある。どちらの選挙も、私には関心事である。そして、季節めぐりは一週間のちにはカレンダー上に、「立冬」(十一月七日・土曜日)の表示がある。寒気に極端に弱い私には、最も恐れる季節の到来である。
 やや気分が緩むものでは、「小春日和」という、季節用語がある。ところが、それに対(つい)をなして気分が滅入るものもある。それは、「木枯らし一号」である。新型コロナウイルスの勢いが衰えないかぎり、これまでに引き続いて、それに戦々恐々とする十一月の始まりである。「アーメン」とは言えず、「くわばら、くわばら……」である。

「悪徳の栄え」、人間不信 

 言葉は必要に応じて生まれる。もちろん、事象が無くなれば死語となる。そして古来、事象が無くならないため、今なお存在する言葉は数多(あまた)ある。その一つには、「正直者は馬鹿を見る」、という成句がある。必ずしもすべてが意図した不正ではなく、制度(ルール)の不備、つまり申請等のわかりづらさもあるであろう。しかしながらこんな記事に出合うと私は、一緒くたに人間不信に陥るところがある。
 実際には、人間につきまとう悪徳にうんざりする。もちろん私は、世の中にはこのことだけではなく、さまざまなところでこれに似た事象があることを知りすぎている。そう思うと、今さらだけど人の世が、つくづく厭(いや)になる。
 【持続化給付金、返還申し出6千件 不正受給逮捕後に急増】(朝日新聞デジタル)。「新型コロナウイルスの経済対策の持続化給付金を不適切に受け取る事例が相次いでいる問題で、経済産業省は30日、返還の申し出が6千件以上あったと発表した。不正受給による逮捕報道を受けて申し出が急増しているという。」
 この記事では返還の申し出をしないままの人がどれくらいいるのかは、まったく分からない。すなわち、どれだけ多くの人が不正をたくらみ、今なおほおかぶりしているのかは分からずじまいである。まさしく、悪徳がのさばる「正直者が馬鹿を見る」現象である。こんなことでは、せっかくの善政に水を差されたこととなる。
 この件にかぎらずまるで泥縄式の政府の施策にあっては、さまざまなところで悪徳をのさばらしているようなメディアの報道が絶えない。すなわち、「GO TO トラベル(旅)」キャンペーンのほか、さまざまな施策において、付け焼刃施策による綻(ほころ)びが出てきているようである。この挙句にはこれまた、「正直者が馬鹿を見る」ことともなる。なんだか、「悪徳の栄え」を見ているようで、私はすっきりしない気分である。
 きょうは十月の最終日(三十一日・土曜日)、秋の夜長はこの先、いよいよ深まるばかりである。長い夜にあって、切なく人間不信がつのるばかりである。こんなことを書くようでは、歯を抜いた傷跡がズキズキと痛むばかりである。

 遅すぎた決断

  十月三十日(金曜日)、ぐずついていた決断を実行する日がやって来た。予約時間は午前十時である。結構早い時間のため、起き出すとその準備のため気分のソワソワを強いられている。もちろん、虚しい気分である。決断が遅れていた歯医者への通院である。このため、きょうは端(はな)から文章を書く気分を殺がれていた。つまり、休みます。私は三日坊主の性癖に輪をかけて、意気地なしである。起き出してきたのは五時三十五分、現在のデジタル時刻は5:46である。
 薄暗く夜明けが訪れている。憂鬱気分直しに道路の掃除へ向かうつもりである。

久しぶりの「卓球クラブ」 

 きのう(十月二十八日・水曜日)は、まったく久しぶりに卓球クラブの練習へ出向いた。体育室へ入る前にはおでこの近くで体温計が翳(かざ)されて、女性スタッフ(職員)による検温があった。体温計は、三十六度と示していた。私はにっこり、「平熱です」、と言った。
 マスクをしたままで体育室へ入った。三台のピンポン台には二対二の向き合い、すなわちつごう四人で十二人が打ち合っていた。控えのベンチには、ひとりの仲間(女性)が腰を下ろしていた。いつもと比べれば少ない人数だった。しかし、体育室の賑わいはいつもと変わらなかった。
 早出の仲間たちは、みな元気に打ち合っていた。私だけが元気から取り残されている気分だった。卓球はマスクを着けたままの決まりになっていた。やはり、気乗りがしないところがあった。私は一人の仲間とやっただけで、ロビーへ出てテレビの前に座っていた。しばらく休んで、自宅へ引き返した。汗かきはもちろん、足慣らしにもならない、卓球クラブの再始動だった。
 それにしても仲間たちのうち高齢の女性たちは、みな元気溌剌だった。私は、男女の平均寿命の違いを目の当たりにした思いだった。とりわけ私は、周回遅れの気分に打ちのめされていた。挙句、みずからを鼓舞し、自己発奮を促さざるを得ない証しに晒された思いだった。きのうの卓球クラブにおける唯一の収穫は、この思いを強く自覚したことであろう。まさしく、「人の振り見てわが振り直せ」の直感だった。
 さて、この思いは、この先どうつながるであろうか。みずからの気分に、疑心暗鬼をいだく秋の夜長である。

やんぬるかな! 吐息 

 今さら言うのも烏滸(おこ)がましいけれど、新型コロナウイルスの終息の兆しはいまだに見えない。それどころか、メディアの報ずる感染者数を見るかぎり、再び勢いを強めて増える傾向にある。世界的にもこの傾向は、日々伝えられてくる。きわめて、厄介なことである。この先なお続けば、人の営みすなわち日常生活は、おのずから大きく様変わることとなる。なかんずく強いられる行動の抑制や自粛は、人間社会の本質を変えそうである。仕方なく、行動自体をびくびくする人間社会の現出となる。すなわち、人の行動が抑制されたり、自粛を余儀なくする社会になれば、おのずから人の集合体の社会は様変わる。実際にもこのことは、すでにこれまで様々なところで変化を強いられてきた。
 人の個人生活はもとより社会は、人の行動を当てにして組み立てられている。このところ、数値をともなってその現象が伝えられているものには、空の便すなわちANA(全日空)やJAL(日本航空)などの航空業界の業績不振(多額の赤字)がある。この先もなお、欠航や減便を余儀なくすれば、業績不振はさらに深まることが予測できる。ほかさまざまな業界においてもこのことは、容易に予測できるところである。確かに、経済社会が病めば必然的に人の生活不安は、破綻の恐怖をともなって増幅する。現下の日本社会はその渦中にある。そしてなおこの先、新型コロナウイルスの終息が長引けば、人はこの渦に怯(おび)えることとなる。もちろん、私が喚(わめ)いてもどうなることでもない。しかし、どうにかならない! かと、喚きたい秋の夜長である。
 十月二十八日(水曜日)、白々と夜明けの空が訪れている。

日本社会の動きの一端 

 きのう(十月二十六日・月曜日)には、第二〇三回臨時国会における菅政権の本格スタートを飾る、菅総理の初めての所信方針が行われて、テレビ中継があった。いよいよ、菅政権の本格船出となった。国民としても新たな期待を持って、菅政権に舵取りを託す日となった。
 国の舵取りに比べればごく小さいイベントだが、同様にテレビ中継に見入ったものがあった。きのうはプロ野球の世界にあって、ドラフト(新人選択会議)が行われた。テレビ中継という公開の場において、あらかじめプロ野球への入団を希望する者の中から、選択(合否を決める)する就活模様の中継であった。喜び勇む菅政権の船出とは異なり、こちらには人様の悲喜交々の人生行路の一幕を垣間見る興奮を共有していた。
 いささか興ざめは、スポンサー(大正製薬など)とテレビ局(TBS)の煽り番組だったことである。例年のことだ!と、心構えての視聴だったけれど、やはりすっきりした気分にはなれなかった。それは人生行路にはつきものの選ばれる者と、選ばれない者とを、公開の場で分けるせいである。ドラフト自体は仕方ないとしても、イベント仕立てではなく、結果の報道くらいでいいのではないかと、私は思った。そうは言っても私は、関心深く中継に見入った。結局、私のような者がいるかぎり、公開の場のドラフトは、この先ずっと続くであろう。そうであればひねくれずに、選ばれた者の前途を祝し、涙をのんだ者の捲土重来(けんどちょうらい)を願うところである。
 新型コロナウイルスは、なんだか第二波が来そうである。きょう(十月二十七日・火曜日)の目覚めはいつもと違って、四時半過ぎだった。約三十分の殴り書きで、日本社会の動きの一端を記したのである。

 休み明けの切ない一文

 十月二十六日(月曜日)、きょうもまたほぼ同時刻に目覚めて、そのまま起き出してきている。良いのか悪いのか? 秋の夜長にあってはいまだに夜中(二時半頃)であり、やはりありがたくない習性になりつつある。ただありがたいことは、まったく寒さを感じない夜の佇まいに身を置いていることである。
 きのう(十月二十五日・日曜日)は、心ウキウキした前日の秋の陽射しをはるかに凌いで、天高い好天気に恵まれた。私は朝食を済ますと、予定していた行動を開始した。ほぼ片道二時間半ほどをかけて、東京都国分寺市内に着いた。次兄夫婦とその長男夫婦が住む、宅へのお決まりの訪問である。
 次兄夫婦は、共に九十歳を超えた。もう何年も、月に何度かの表敬訪問を続けている。しかし、新型コロナウイルスのせいでこの頃は、黴菌を持ち込むのを恐れて、意識して控え気味になっている。次兄宅は第二のふるさとであり、次兄夫婦は実在する父親と母親代わりである。共に優しく、現在私あるのは、二人のおかげである。このことはひとときも忘れず、ずっと慕い続けてきた。かつては異なり、年老いた次兄夫婦に会うのは、今や愉しみばかりとは言えない。いや、実際のところは、健康状態を確かめるためのつらい訪問である。しかしながらそれは、強く肝に銘じているわが身の為せるただ一つの恩返しである。
 久しぶりに電車に乗ったけれど、新型コロナウイルス禍の騒ぎにあっても車内風景は、そう変わらなかった。車内風景とは、ずばり乗客数である。私の定例の訪問は土曜日か日曜日である。もとより、乗客数は平日より少なめである。しかし、いつもの日曜日と比べても乗客数は、新型コロナウイルス禍にあっても、少ないとは思えなかった。たぶん、秋晴れの好天気に誘われて、滞り気味だった人の行動が促されたのかもしれない。やはり、人の足と心の動きは、天気の善し悪しに左右されるところが大きいと、言えそうである。
 この秋晴れ、今週まで続くのか? と、気が揉めるところである。気が揉めることのイの一番は、やはり第二波が来そうなこのところの新型コロナウイルスの感染者数の地方や地域への広がりかたである。「GO TO トラベル(旅)」、「GO TO イート(飲食)」など、「秋の戯(たわむ)れ」とも思えるのは、それにありつけないわが金の乏しさと心の貧しさであろうか。
 きょうもまた懲りずに、私は秋の夜長の冥想(迷想)に耽っている。

休みます 

 きのう(十月二十四日・土曜日)は、待ち焦がれていた秋天の暖かい陽射しに恵まれました。私は心勇んで、いつもの大船(鎌倉市)の街へ買い物に出かけました。どこかしこのお店、買い物客で賑わっていました。
 きょう(十月二十五日・日曜日)、現在のデジタル時刻は、3:51です。二度寝ができないままに起き出して来て、パソコンを起ち上げました。人生の終盤になると、心中の平常心はごたついて、まったく保たれません。挙句、私は文章を書く心地、気分を失くしています。書くまでもないことを書いて、休みます。この先の日々は、こんな心境にさいなまれそうです。
 余生とは文字どおり余りの生命であって、もはやどうでもいい人生のひとしずく、あるいはひとかけらかもしれません。そうであれば安寧な気分を望むのは、高望みすなわち欲張りなのでしょうか。寝床へとんぼ返りを試みますが、寝付けず悶々とする長い夜になりそうです。
 わが気分のせいで、ご常連様の楽しい日曜日の気分を塞いで、申し訳ありません。

浮かれ気分に水差す数値 

 新型コロナウイルスにかかわる文章はニュースにもならず、もちろん妙味に欠けるため、意識して書くのを避けてきた。そのため、私は無理やりネタ探しに努めてきた。きょう(十月二十四日・土曜日)もまた、そんな気迷い気分をたずさえて、パソコンを起ち上げた。ところが、この配信ニュースに驚いて禁を破り、仕方なく新型コロナウイルスにかかわる記事の引用を決意した。東京都にかぎれば、このところの感染者数はいくらか減り気味であり、虚を衝(つ)かれた驚きである。
 【全国で748人が感染 北海道は1日あたり最多の51人】(2020年10月23日22時31分、朝日新聞DIGITAL)。「新型コロナウイルスの国内感染者は23日、午後9時現在で新たに748人が確認された。死者は12人。北海道では新たに51人の感染を確認した。緊急事態宣言下の4月23日の45人を上回り、道内では1日あたりで最多の感染者数となった。東京都は186人で、4日連続で100人を上回った。大阪府では、新たに100人を確認。府内で1日あたりの感染者が100人以上となるのは120人だった9月11日以来、42日ぶりとなった。また沖縄県は、県議会の会派『沖縄・自民党』所属の県議10人が新型コロナウイルスに感染したと発表した。同会派の県議18人は18~21日に離島の与那国町や石垣市、宮古島市を訪れ、自衛隊基地などを視察。日程表では18~20日に『夕食(懇談会)』と書かれており、県議会事務局によると居酒屋を貸し切りにした懇親会が開かれたという。国内の感染者+748人(96112人)死者+12人(1710人)退院者+579人(88904人)10/23 21:00時点 退院者数はクルーズ船の乗客らを含めた数。厚労省などによる」。
 「GO TO トラベル」、「GO TO イート」、「GO TO 商店街」などのキャンペーンは、いよいよ盛りになっている。この先、いくらか気になる人の世の他人様(ひとさま)の浮かれ気分である。もちろん、浮かれ気分に乗れない、わがやっかみではない。秋の夜長は、人の世を知らず深々と更けてゆく。

秋の夜長の恩恵 

 このところの私は、せっかくの秋の夜長を恨めしく思うばかりだった。ところが、きょう(十月二十三日・金曜日)現在(デジタル時刻、3:00)の私は、秋の夜長にたっぷりと浸っている。すなわち、秋の夜長でなければ執筆時間に急かされて、時間の掛かることはできない。
 私は目覚めるとそのまま寝床に寝そべり、心中に使い慣れている言葉をめぐらしていた。その言葉は、「生来」である。知りも知っているこの言葉は、「生まれつき」として、しょうちゅう文章の中に用いている。文章に用いるときは、必然的にその後には愚痴こぼしの事柄が続いている。すなわち、記憶を新たにすればそれらには、生来、私は三日坊主とか意志薄弱とか、はたまた決断力に乏しいとか、わが精神力の欠如や欠陥を示すものが露わに記されている。これらのこと以外にも浮かべれば、芋づる式に次々に浮かんできて、まったく尽きるところはない。
 さらに、三つほどに限り記すとこうである。生来、わが脳髄は蒙昧(もうまい)である。生来、わが顔は醜面(しゅうめん)である。生来、わが手は不器用(ぶきよう)である。あらあら、四つを書く羽目になった。生来、私は内気というより、劣等感の塊(かたまり)である。書き出すと確かに、きりなく尽きない。だから意図して、打ち止めにせざるを得ない。
 生来という言葉を浮かべて私は、「後天」を見出し語にして、枕元に置く電子辞書を開いた。すると、こう記されていた。[易経(乾卦、文言)「天に先だちて天違(たが)わず、天に後(おく)れて天の時を奉ず」]生まれてから後(のち)に知ること、生まれてから後に身に備わること⇔先天。次には「先天」を見出し語にして、再び電子辞書を開いた。[易経(乾卦、文言)「天に先だちて天違(たが)わず、天に後れて天の時を奉ず」(天に先だつ意)生まれつき身に備わっていること⇔後天。
 私にとりつく「生来」という言葉は「先天」と同義語であり、そしてその反義語は「後天」である。結局、知りすぎている言葉の復習にすぎない。それでも、秋の夜長の恩恵である。確かに、生来と先天は同義語である。しかし、先天的とは言っても、生来的とは言わない。後天的に見合うのは、先天的がふさわしいことを復習したことにはなる。
 学童の頃の「綴り方教室」、さらにはかつての「日本随筆家協会」(故神尾久義編集長)の会員当時から私は、文章はやさしい言葉でわかりやすく書くことを指導されてきた。このことからすればわが綴る文章は、ゴツゴツとしてきわめてわかりにくいものである。おのずから私自身、「下の下の文章」と、認知しているところである。
 そのための言い訳を一つだけ記すとこうである。私は、語彙(言葉と文字)の生涯学習を掲げている。このため、忘却を恐れて咄嗟に浮かんだ言葉をやたら滅多らと文章の中に用いている。わが文章は、掲げる「語彙の生涯学習」の実践の場と任じているところがある。必然的に文章は、滑らかさを失くし熟(こな)れない硬いものとなる。ひいては、文章の基本を逸脱しがちになっている。つまりは、わが生来の凡愚(ぼんぐ)ゆえである。結局は、先天的なものであり、後天的に補えるものではない。
 秋の夜長は、五月雨式(さみだれしき)にキーを叩いても、夜明けまではまだまだ余りある時間を残している。それでもきょうはこれまでとは違って、表題には「秋の夜長の恩恵」と、記そうと決めている。ただ惜しむらくは、きわめて硬いわかりにくい文章の見本に成り下がっている。わが生来の「身から出た錆」である。

萩の花びら 

 十月二十二日(木曜日)、パソコン上のデジタル時刻は3:28と刻まれている。秋の夜長にあっては、夜明け前と言うにはうしろめたいところがある。そのため、かなりの嘘っぱちだが、こんな表現を試みた。「秋の夜は、静寂(しじま)に深々と更けてゆく」。ときには、文学的表現をしてみたかったにすぎない。
 もう一つ、忘却を防ぐため英単語を書き添える。それは、PETAL(花びら)である。八十(歳)の手習いの実践のためである。道路からサルスベリ(百日紅)の花びらが消え、次には金木犀の花びらが消えた。すると、自然界にあっては瀟洒(しょうしゃ)な秋の花が咲く時期にあっても、わが家周りには草花を含めて、花びらを目にする日が途絶えていた。
 庭中の椿は蕾(つぼみ)を膨らす時期にあり、開花はいまだ先送りの状態にある。こんなおり道路を掃いていると、空き家を解いて残された空地の植栽の金柵の間から、萩の花の茎が湾曲してニュッと道路側へ垂れていた。今にも折れそうなか細い茎は、小さな花びらを重たそうに無数に着けていた。思いがけない出遭いにあって私は、箒の手を止めて佇んだ。萩の花びらに虚を衝(つ)かれて、驚くより狂喜した。心中無下に、(ここは、人が通るところだから邪魔だよ!)と呟いて、折れないように気を配り、鉄柵の間から空地の植栽へ返した。きょうは、たったこれだけのことを書いてみたくなったのである。
 わが文章には、いつも明るさがない。おのずから、自分自身にもそうだけれど、読む人には輪をかけて気分の滅入る文章ばかりである。すなわちこれは、生来のわが性質に起因する「身から出た錆」の証しである。もちろん私は、常々明るい文章を書きたいと願っている。しかしながら、生来のマイナス志向が祟(たた)り、いっこうに書けない。ほとほと、なさけなく、また、かたじけなく、思うところである。明るいネタ探しを試みたけれど探しきれない。そのためきょうは、「萩の花びら」におんぶにだっこされた蛇足文で、閉めとせざるを得ない。
 夜明けまでは、まだまだ長い夜である。夜明けの薄明りが訪れれば真っ先に道路へ向かい、お礼返しに萩の花びらの周辺を見回るつもりにある。いくらか、亡き父親の真似事である。父親は夜が明けると蓑笠(みのかさ)を着けたり、甚兵衛(じんべえ)を羽織ったりして、水田の見回りに出かけていた。萩の花びらは思いがけなく、父の面影をも偲ばせてくれたのである。萩の花びら、様様(さまさま)の一文である。

秋空の中の柿の実一つ 

 狭小なわが家の庭中には、園芸業者やプロの庭師など、すなわちお金を掛けてととのえた植栽はない。似非(えせ)の庭模様を成すのは、多額のローン(後払い)にすがり、ようやく宅地を買い求めた嬉しさに、勢い余っててんでバラバラにあちこちに植えた安価な雑木(ざつぼく)ばかりである。ひと言で表現すれば、殺風景な風景を逃れるためのお茶濁しの緑にすぎない。わが目の保養にはもっぱら、人様すなわち家並の植栽と、取り囲む山と周辺の木立に頼っている。言うなればわが目の保養は、人様の植栽と自然界の風景が織り成すコラボ―レーション(協作)すがりである。
 とうてい樹木とは言えない庭中の細木であっても、このところ年々、わが身辺整理の対象物になっている。おのずから立ち姿はこじんまりとなり、みすぼらしくなるばかりである。すなわち、いずれは空き家になることから、隣近所に迷惑を掛けないためのわが意図する自己都合の庭木傷(いた)めである。
 もちろん私とて、無慈悲に手当たりしだいに枝葉縮めを敢行しているわけではない。心中では傍目(はため)構わず、泣きべそどころか、号々と泣いている。わが心中のことだから、人様には見えないだけのことである。
 もとより、樹木というほどではない低木の柿の木だが、年々、枝葉切り落としの被害者となっている。挙句、身形(みなり)ならぬ木形(きなり)は、今やみすぼらしい姿を晒している。そのせいでいよいよ今年(令和二年)は、わずかに六つの実を着けただけだった。それでも唯一、わが家における実りの秋の実現である。それゆえに半面、私は様変わった風景を眺めて、心寂しさをつのらせている。柿の生る風景をこよなく愛し、それにも増して実利の味覚を好む私には、みずからの手でみずからを打ちのめしたつらいわが仕打ちだった。
 実際のところこの風景を眺めていると、矛盾するけれど憐憫の情と罪業(ざいごう)に、甚(いた)くわが心を砕(くだ)いていた。その証しには二つだけを手に取って、味の試し食いをし、四つは眺める秋の風景として残した。ところが、残したものの三つは熟柿(じゅくし)となり、わが無情にも道路へ落とし、汚(きたな)らしく裂けた。山に棲むわが愛鳥のシジュウカラやメジロに恵むこともなく、相済まなくてわが胸は切り裂かれる思いである。
 そして現在は、サバイバル(生き残り)競争に勝ち得た、一つ実だけが枝に着いている。この風景を眺めているとわが胸は、またもやキリキリと痛むのである。身辺整理は、長い人生の果てに訪れる、短く限りあるものの、途轍もなく「命の痛み」をおぼえる、虚しい作業である。

滞っている決断 

 きのう(十月十九日・月曜日)の「大船中央病院」(鎌倉市)への予約通院においては、採血による診断が行われたのみだった。数値の異常値は、常態化している二つの検査項目に表れていた。一つは「クレアチニン値」(腎機能)であり、1・30と記されていた。基準数値にたいし、「高」表示である。一つは「LDLコレステロール値」(悪玉)で、171と印されていた。これまた、基準値にたいし「高」である。ずっと高止まりにある二つ項目の数値ゆえに、私は淡々と数値に目を落とし、先生の言葉をあたりまえのように聞いていた。双方共に、薬剤の処方箋はなく済んだ。かつて、薬剤の副作用に悩まされて、そのおりから私は、薬剤投与を拒んだ。そのことが尾を引いているせいである。
 しかし、きのうで通院縁切りとはいかず、次の予約日が来年(令和三年)の三月二十九日に決められた。心中、通院縁切りを願っていたけれど、それは叶わず私は、少なからず落胆した。一方では、ちょうど半年先までの存命の保証にあずかった気分でもあった。こんな馬鹿げたことでも思はなければ、通院は虚しいことばかりである。まったく様にならない、きのうの通院報告である。いや、様になっては困る、採血と診断報告である。
 次に控えるのは、のた打ち回るほどに大いに様になる歯医者通いの決断である。決断と記したのは、少しばかりの痛みの和らぎに騙(だま)されて、今なお断を下しかねているからである。一旦、歯医者通いを決め込めば、予約の繰り返しを強いられて、たぶん半年近くの通院を覚悟しなければならない。もちろん、そのつど多額の医療費を払う羽目にもなる。それでも過去の経験では、歯の痛みに勝てず、後れて泣く泣く行くこととなる。
 確かに、歯痛だけは自然治癒の蚊帳の外にあるものと知りすぎていて、もちろん私には抵抗する術(すべ)はない。このことは十分に分かっている。しかし一方、できたら先延ばしにしたくなる物事の最高位にある。とりわけ今回、歯医者通いを決断すればこれまでの長いあいだの我慢が祟り、いたるところの治療に及びそうである。もしかしたら、根こそぎ歯を削り取られそうでもある。それを恐れてこれまで、みずからに我慢を強いてきた。そのため、通院を決断すれば、このしっぺ返しをこうむるのは明らかである。すると、我慢へ逃げ込みたくなり、また決断が鈍るのである。
 しかしもはや、決断は一両日にきている。確かに、高齢(八十歳)にして存命に恵まれていることは果報者である。一方では、生きることの苦難をひしひしと感じている。なかなか、秋の夜長を愉しめない、なさけないわが身である。
 ネタ不足のせいで、書くまでもないことを書いてしまった。夜明けはまだ先である。わが気分の和らぎは、なお遠く闇の中にある。

予約済み通院日 

 まったくなさけない。書くに耐えない、読むに耐えない、私日記に成り下がっている。きょう(十月十九日・月曜日)は、痛みの続く歯医者を先送りにして、予約済みの「大船中央病院」(鎌倉市)への通院がある。掛かりは消化器内科である。どんな診察と診断になるかは、もちろん予測できない。これまでは何度か、胃カメラや大腸カメラなどの内視鏡検査を繰り返してきた。だから、その延長線上の診察が予測される。
 もう一つは、採血による異常数値の経過診断である。きょうは採血診断だけで済めば万々歳である。いずれも、自覚症状に脅かされての通院ではない。それでも病院行きには、いつも恐々とするところがある。心中には、新たな病巣を(探さなくてもいいのに)という、バカな思いをたずさえている。
 病院いや医者は、病巣探しとその治療が本来の任務(役割)である。そのためにはきわめて高い頭脳と技術の習得が必要である。もちろん、崇高な志がイの一番である。そのため医者は、もともとの頭脳の良さに加えて、高額のお金と多年の研修をかけて、志を叶えた人たちである。まさしく、世のため、人のため、明らかに尊敬や崇敬するに値する人たちである。もとより、診断結果を聞く、医者の一言一句は、胸に突き刺ささるものがある。なぜなら、その言葉の善し悪しで、この先の人生が様変わることとなる。おのずから、神妙きわまる瞬間である。
 現在の私は、歯痛や口内の荒れようには悩まされているけれど、内臓にかかわる自覚症状はない。そのため、そう恐れる通院ではないけれど、通院を避けたい気分は旺盛である。独りよがりに、いつもの採血と異常数値の経過診断ぐらいで済めばいいなあという、望みをたずさえての通院となる。
 ところがわが意に反し、新たな病巣探しとなれば飛んだ災難である。もとより、通院には幸不幸がつきものであり、その挙句、滅多なことでは無事放免にはならない。このことを心してのきょうの通院となる。私はいつものように神妙に診察室へ入ることとなる。患部の治療に行く歯医者の場合は、のた打ち回って治療椅子に体を横たえる。通院にかかわる心持の大きな違いである。実際には急に予約をとって先に歯医者へ行きたいところである。しかし、数か月前に予約済みを反故(ほご)にはできない。そうであればきょうの通院でも、無事放免を願うところである。
 身体の内臓、すなわちさまざまな部位における病の発症など、私は知るよしない。おのずから通院には、常に「俎板(まないた)の鯉」の心境にある。歯が痛く、口内が荒れて、憂鬱気分旺盛である。それなのに嗚呼(ああ)、歯医者は後回しである。そであれば、内臓に新たな病巣の無いことを願うばかりである。

気分直しの一文 

 歯の一部が欠けて、そのせいかいたるところが腫れて、口内のガタガタに見舞われている。もちろん、口内の痛みに襲われて、きのう(十月十七日・土曜日)は、その対応に終始した。対応とは痛みを堪えた我慢であり、何らかの処置をしたわけではない。口内が荒れると先ずは痛みに耐えなければならない。次には、食べることの楽しさを捨てなければならない。そして、総体的には憂鬱気分まみれとなる。きのうから、きょう(十月十八日・日曜日)現在におけるわが精神状態である。休むつもりであったけれど、起き出してきてこんなことを書いている。
 きのうの掲示板には、大沢さまご投稿の「月下美人」(写真)の美しさにより、それを称賛する投稿が列なった。そのうえ、人無き声を表すカウント数は、このところの最多を示していた。私は感謝感激に浸っていた。
 きょうはこのことを書くために、パソコンを起ち上げた。この先は書けず、結文とするものである。気分直しの一文となれば幸いである。

加速度を強める加齢化現象 

 十月十七日(土曜日)、現在のデジタル時刻は2:49の表示にある。十一時過ぎに床に就いて、三時間ほどの睡眠を貪(むさ)り、二時過ぎに目覚めて、そのまま起き出してきた。短い睡眠をこうむり、私は憂鬱気分に陥っている。身に着いている習性とは、飛んだ災難である。いや、憂鬱気分の元凶はそれではなく、加齢にともなう現象である。
 学童の頃、教室で何度も聞かされたことわざの一つには、「失敗は成功の母」というものがある。確かに、若い頃であれば失敗は、リベンジ(仕返し)精神旺盛となり、そののちの成功にありつけることは多々ある。ところが、人生終盤における加齢化現象は、もはやお手上げ状態にあり、そののち糧(かて)になるものはない。気を張って行為・行動をすればやることなすこと、「年寄りの冷や水」と、揶揄(やゆ)されることが落ちである。言うなれば年寄りの加齢化現象には、捲土重来(けんどちょうらい)を叶える明日(あす)はない。それなのに加齢化現象は、まるで「雨後の筍(たけのこ)」のごとくに現れ出る。挙句、人生終盤の体験は、悉(ことごと)く様にならないものばかりである。私は目覚めて寝床の中で、こんな思いにとりつかれていた。そして、この思いを文章に著(あらわ)したのである。「おまえ、バカじゃないの?」の丸出しである。
 このところのわが身体は、加齢化現象を蒙(こうむ)りあちこちが蝕(むしば)まれてゆく。きのうには傷(いた)んでいた歯の一部が耐えきれずとうとう欠け落ちて、隙間ならぬぽっかりと空間を晒している。もとより、歯の損傷特有の痛みをともなっている。おのずから、現在の憂鬱気分の元凶を成している。リベンジ(仕返し)気分を挫(くじ)かれた歯の痛みである。加齢化現象に遭って、私には体験で知ることばかりが増え続けている。もとよりそれには、「失敗は成功の母」とは言えない。すなわち、私は体験で知る仕返しのできない人生終盤の苦渋に喘(あえ)いでいる。
 きょうは、この先が書けない。現在、デジタル時刻は3:29である。まだまだ、悶々とする夜長になりそうである。確かに、加齢化現象は、身体のあちこちで加速度を強めている。それに抗(あらが)えない、人生終盤の悔しさ、虚しさ、ひしひしである。

垣間見える世相 

 十月十六日(金曜日)、日本社会における現下の気に懸かる世相を浮かべている。一つは、新型コロナウイルスの感染者数の推移である。このことにかかわるメディアの報道は、このところは抑制気味のところがある。しかし、新型コロナウイルスの感染者数の実態は、メディア報道のように落ち着いた状態でもない。メディアの報道では週初、すなわち水曜日あたりまでは少なく、一方で週の後半すなわち木曜日から土曜日あたりには、多く報じられてくる。日々の数値が反映されるのは実態より三日ほど遅れて、かつ物理的にもPCR検査などの多寡(たか)が影響しているからだという。このことでは日々一喜一憂することでもない、数値には実態とのいくらかの齟齬や乖離があるようである。それでも感染者数の増減傾向は、明らかに分かるところはある。
 感染者数の報道が日々常態化している今朝の朝日新聞の朝刊によれば、全国の感染者数は七〇八人(前日すなわちきのうの午後八時半現在)と、報じられている。そのうち、東京都に限定すれば二八四人という。東京都の場合、この数値は過日(八月二十日)の三三九人以来というから、ぶり返し傾向にある。世界的にもこのところはぶり返しの傾向にあり、第二波と伝えられ始めている。そうであれば、日本社会におけるこの先の感染者数の動向が気になるところである。
 新型コロナウイルス報道に加えて、私には気になるものがある。すなわち。私はこの記事に目を留めたのである。
 【郵便土曜廃止 来秋にも】「郵便が届くのがいまより遅くなる見通しになった。差し出し日から3日以内に届けるルールが4日以内に緩められる。日本郵便は土曜日や翌日の配達も原則としてやめる方向だ。民営化された日本郵政グループの収益改善が狙いだが、サービス悪化への懸念が強まりそうだ。」
 この記事における咄嗟(とっさ)のわが思いは、唖然とするものであった。もちろんそれは、郵便にかかわらず、広く日本社会の変容ぶりからもたらされている。狭義には郵便配達のみならず、今や新聞配達も青息吐息の状態にある。その挙句、新聞配達にも何らかの変化が生じそうである。
 こどもの頃からこんにちにいたるまで郵便配達と新聞配達は、私にはごく身近なところでありがたい慣行の双璧を成してきた。顧みればかつては、それぞれの玄関口で人は、郵便配達人と新聞配達人の訪れを待ち焦がれて佇んでいた。それは日本社会にあって、心温まる原風景を成していた。特にこれらは、社会から隔絶されたかのような、鄙びたわが生誕の地(ふるさと)にあっては、張りのある日常生活の一端を担っていた。同時にそれは、確かな日本社会の文化とも言えるものでもあった。
 ところが様変わる日本社会、具体的にはIT(情報技術)、SNS(ソーシャル ネットワーキング サービス)、はたまた何でもかんでもデジタル化の波の影響で、これらは事業自体の変容を迫られている。まさしく、背に腹は代えられない施策であろうけれど、私にはみずからの首をみずからの手で締めることにならないかと、危惧するところがある。もちろん、わがアナログ人間の老婆心である。しかし、杞憂になりそうにない。
 確かに、秋の夜長にあっては、善悪交々に冥想(迷想)に耽(ふけ)るところがる。その多くには、変わりゆく時代に付き添う寂しさがともなっている。言葉を重ねれば目下(もっか)の日本社会は、時代の変遷にともなうつらい世相にある。

秋の夜長の恩恵 

 「ひぐらしの記」は、大沢さまから「前田さん。何でもいいから、書いてください!」と、言われて誕生した。すなわち、「ひぐらしの記」は、大沢さまのご好意にさずかり生まれた。実際にもその言葉に救われて私は、何でもかんでも書いてきた。その挙句に私は、生来の三日坊主には思い及ばない継続にありついた。文章の出来はさておいて、継続の叶えである。
 あり得ない想念すなわち絵空事(えそらごと)をめぐらせば、「三日、三月、三年、するが辛抱!」と、人生訓を垂れていた母は、野末の草葉の陰でひそかに褒めているだろう。もちろん、そんなことはあり得ない。しかしながら私は、文章を綴りながら同時に、母の面影を浮かべては継続への支えにしてきた。文化・教養とはまったく無縁の母は、唯一、大家族を支える術(すべ)にだけは長(た)けていた。水車を回し精米業を兼ねて農家を生業(なりわい)とする母は、物心つき始めの私にたいして、二つの人生訓を諭(さと)し始めた。一つは先に記したものであり、一つは「楽は苦の種、苦は楽の種」である。つまり、どちらも「しずよし、辛抱せよ!」との人生訓である。思えば母は、早々とわが三日坊主の性癖(悪癖)を見抜いていたのであろう。
 母の愛とは、桁外れに深いものと思うところである。それでも私は、わが人生八十年においては、さまざまなところで三日坊主を繰り返し、悉(ことごと)く母が垂れた人生訓に背いてきた。このことを思えば、大沢さまをはじめとしてご常連各位様の支えと励ましを得て続いてきた「ひぐらしの記」は、オマケに母の人生訓に報いたものでもある。言うなれば「ひぐらしの記」は、人様のご好意で継続が叶い、同時に母の愛に報いたわが望外の傑作である。もとより傑作とは、文章の出来を言うのではなく、三日坊主に耐えたことをちょっぴり自惚(うぬぼ)れて、手褒めの寿(ことほ)ぎにすぎない。
 このところの私は、執筆には有り余る秋の夜長に手を焼いてきた。ところが、きょう(十月十五日・木曜日)の私は秋の夜長にあって、あけすけにこんな迷い文を書く幸運に恵まれた。ずばり、ネタ不足を免れた、一文と言えそうである。現在、パソコン上のデジタル時刻は4:41である。夜明けいまだの薄暗い中にあって、道路の掃除を敢行している。今朝も、夜明けを待たずに掃除にありつけそうである。母の人生訓とはいくらかずれているけれど、箒を這わすわが姿をチラッと目にすれば、坊主から禿げに変わったわが頭を撫でなでして欲しいものである。
 きょうにかぎれば、何でもかんでも瞑想(迷想)に耽(ふけ)れる秋の夜長のおもてなしと言えそうである。しがない現実に返ってきょうは、隔月に訪れる国民年金支給日である。母恋物語より牡丹餅(お金)とは、なんだか切ない。それでもきょうの私は、またとない秋の夜長の恩恵にとっぷりと浸っている。

睡魔の元凶、あれこれ 

  (なんだかなあー…)、押印(ハンコ)不要施策が、菅政権のスタート時の目玉のようである。十月十四日(水曜日)、現在のデジタル時刻は2:46と刻まれている。秋の夜長にあってこのところは、まるでハンコを押したかのようにこの時間帯の前後に起き出して、パソコンに向かっている。この先、こんなことが定着すればと、このところの私は、少なからず気を揉んでいる。なぜなら、早起きのせいかこのところの私は、夕方あるいは夕食を摂った後に、早々と睡魔に襲われている。もちろん、(まだ早いよ!)と気張って、睡魔を抑え込んでいる。しかし、だんだん敵(かな)わなくなりつつある。
 早い睡魔の暴れ出しの誘因を浮かべてみた。真っ先には、常態化しつつある早起きを真犯人に見立てている。次に浮かぶのは、八十歳を超えて先へ向かっている年齢の仕業かと、思うところがある。そうであれば早い睡魔の現象は、もはやこの先避けられず、いっそう加速するばかりである。しんがりに、いやこれが真犯人だ! と、思うのは、身辺整理にともなう心労のせいであろう。実際のところ身辺整理は、いまだごく身辺の手始めにすぎない。それなのに、こうまで心労をこうむり眠気を催すようでは、それこそこの先が思いやられるところである。その挙句わが死因には、「身辺整理の疲れ」と、書かれそうである。現在の私は、なまぬるい身辺整理というより、死に支度を急いでいるようでもある。そうであれば支度などほったらかしにしていても、やがては必ず訪れることだから、日々心労にとりつかれてまで、急ぐこともないだろうとは思っている。つまり、身辺整理を止めないかぎりは、この先にはなおいっそう睡魔の暴れをこうむりそうである。それほどに身辺整理とは、身体と精神共に、かぎりなく堪えるものである。そうであれば望むことは、身辺整理などには意を留めず、「ピンピンコロリ」を願うところである。
 わずかに三十分足らずの、秋の夜長の殴り書きである。かたじけなく思いつつも文章を閉じて、この先は夜長に耽り、悶々と夜明けを待つこととする。こんな駄文が継続文をなすのは、ほとほと木っ端恥ずかしい思いでいっぱいである。睡魔にかこつけた実のない継続文は、睡魔以上にわが身に堪えている。

命、考える夜長 

 十月十三日(火曜日)、台風十四号が去った後には日中の秋晴れと、秋の夜長における飛んでもない暖かさが訪れている。台風十四号はおおむね大過なく去った。それでも、被災地や被災者は存在する。それらの人たちにはきわめて噴飯物だけれど、秋晴れと暖かさは台風十四号のおもてなし、すなわち小粋な罪の償いと思うところがある。気象庁によればそののち、すでに台風十六号が発生しているという。台風シーズンにあっては、まだまだのほほんとはしておれないところである。
 現在、パソコン上のデジタル時刻は2:20である。いつものようにパソコンを起ち上げると、私はメディアが報じるニュース項目に目を凝らした。それらの中にあっては、新型コロナウイルスの蔓延という時節柄にあってか、私はひときわこの記事に目を留めた。日本社会にとっては、もちろんありがたくない現下の世情の一つである。
 【9月の自殺、昨年比8%増…女性は28%増】(10/12・月曜日、20:04配信 読売新聞オンライン)。「9月の全国の自殺者は速報値で1805人に上り、昨年の同じ月と比べて8・6%(143人)増えたことが、12日、厚生労働省と警察庁の集計で分かった。女性は27・5%増えており、さらに8月をみると、20歳未満の女性(40人)が前年同月(11人)と比べて4倍近くに増えていることも判明した。厚労省は『新型コロナウイルス感染拡大の影響で女性や若者を中心に生活リズムが変化した。不安を独りで抱えこまず、メールやSNS、電話などで相談してほしい』と呼びかけている。自殺者の総数は近年、減少傾向だったが、今年7月は対前年比で増加に転じた。女性は7~9月の3か月連続で600人を超え、7月は15・6%増、8月も40・3%増となっている。」
 この記事は、数値で示された日本社会の生き難い証しであろう。一方で日本政府は、「GO TO トラベルキャンぺーン」の盛り上がりで、当初の政府予算が不足して、追加予算を講じるという。(なんだかなあー)、私には「強気(金持ち)を助けて、弱気(貧乏人)を見捨てる」という、虚しさを感じるところもある。
 これまでのわが夫婦は、インフルエンザの予防注射とはまったく無縁に過ぎてきた。それでも共に、インフルエンザの罹患を免れてきた。ところが共に、今年は早々とインフルエンザの予防注射の初体験を済ましている。しかしながらこれで、罹患を免れる気持ちにはなれていない。いやいや案外、初めてインフルエンザに罹るかもしれない。得てして物事には、こんな矛盾が付き纏っている。
 昨年の二つの大きな台風、すなわち「令和元年房総半島台風」(九月九日)、そして「令和元年東日本台風」(十月十二日)の復旧は、今なお置き去りにされたままである。人は、生き続けることに汲々としている。そのため、日本政府が「GO TO 何々キャンペーン」に自画自賛を決め込むのは、私には心して慎むべきと思うところである。
 秋の夜長にあって、短い走り書きで文を結ぶことでは、夜明けまではなお長い夜となる。すると、二年前から空き時間の埋めにしている、英単語の復習で有り余る時間を埋めるつもりでいる。わが身に照らせば三度の飯を食うのは易しいけれど、生き続けることはほとほと難しいところがある。人みなに、共通するところであろう。そうであれば生きることにこそ、自己責任とは言わず、何らかの「GO TO LIVE(生きる手だて)キャンペーン」が欲しいところである。秋の夜長にあって、わが気迷いは果てしない。

切ない「柿談義」 

 十月十二日(月曜日)、飛びっきり暖かい秋の夜長に身を置いている。いつもの倣(なら)いにしたがって、パソコン上に表示のデジタル時刻を見れば、3:21と印されている。私は二時半近くに起き出して来た。これまたいつものようにすでに、メディアの配信ニュースの主なところを読み終えている。幸いにも心中を脅かす大きなニュースはない。台風十四号にかかわるニュースも、後追いなく途絶えている。明るい話題で目を留めたものには、京都が世界一魅力のある都市という記事があった。京都は昨年の二位から一位へ躍り出て、一方東京は、一位から六位へ沈んだという。
 台風十四号は恐れていたけれど、わが家を含めて総じて神奈川県は、大過なく去った。その後にはいっとき、台風一過の秋晴れに恵まれた。待ち望んでいた、久しぶりの胸の透く秋晴れだった。待ってましたとばかりにきのう(十月十一日・日曜日)の私は、胸躍る思いに引かれて、いつもの大船(鎌倉市)の街へ買い物に出かけた。街へ足を踏み入れて真っ先に驚かされたことは、繰り出していた人出の多さだった。わが定番コースの店のどこかしこに、買い物客がごった返していた。まるで、新型コロナウイルスの感染恐怖など過ぎ去ったかのような光景に、私は度肝を抜かれた。確かに私自身、その光景の一員を成していた。
 この光景にわが思いを映して、こう考えた。すなわち、この人出の多さは台風予報に足止めを食らい、そのうえに日曜日が重なったせいであろう。この証しは、どこの店でも見られた。それは普段はあまり見られない若い夫婦や、家族連れの買い物客の多さだった。
 私はいつもの買物用の大型リュック、さらにはレジ袋に代えて持参の買い物袋に、はち切れるばかりに品々を詰めて帰宅した。買い物の品には果物の場合、この日から蜜柑に新たに柿が加わっていた。そして、夫婦共に大好物の柿の、試し食いをした。現在、わが夫婦は共に歯を損傷しており、恐るおそる柿が食えるかどうかのテストを試みたのである。いつもであれば皮を剥いて齧(かぶ)りつく私も、包丁で薄く裂いて神経を尖らして口中に差し込んだ。それでも私は、「もういい、参った」、とは言わなかった。ところが妻は、早々に音を上げて、
「パパ。わたし、食べられないわ。パパ、柿はもう買ってこなくていいわよ!」
 と、言った。私にすれば好きなものを諦めろ! という、最後通牒を受けた思いだった。それゆえに、抵抗を試みた。
「そうか。それでもおれは食べたいから、たまには買うよ。おまえには、熟れた柿(熟柿)でも買ってくるよ」
 仕方なく相和して、「切ない柿談義」の矛(ほこ)を納めた。それでも、夫婦して実りの秋のイの一番の愉しみを失くした思いだった。
 台風一過のわが家の柿の木には、葉っぱのすべてを飛ばし枝に、五個の柿が台風に逆らい生っていた。私はそれらを千切り、その一つを果物包丁で薄っぺらに切り、これまた恐るおそる口中へ運んだ。いつもの美味しい味覚に加えて、切ない愛(いと)おしさがつのっていた。